福間明子『東京の気分』雑感
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福間明子『東京の気分』雑感



 九月の最後の日、福間明子(めいこ)さんから『東京の気分』(夢人館刊)という詩集を頂いた。この本のことについて、すこし書きたい。
 まず思ったのは、ここには非日常というものが存在しない、ということだ。言い換えればここには、生きている、あるいは死んでゆくということへの覚醒(おどろき)に深く介在した幻はあるが、ふつうの人生というものに退屈さをしか見出すことのできないたぐいの、いわゆる非日常は存在していない。いみじくも、詩集のタイトルは「東京の気分」であり、同タイトルの当詩集パート2をまえに、私どもこっち出の人間などはある種の緊張をかすかに覚えたりもするけれど、冗談はさておき、これらの詩を読むと、東京も含めまだこれほどには荒廃する以前のヒトの生活、文化といったものの匂いを嗅ぐ思いがする。
 それは何も日本人の、という限定を付す必要はいささかもない、すべてのネイティヴな在り方というものを指している。伝統的というとすぐさま因襲的という言葉がやまびこのように返ってきそうだが、では芭蕉を、西行を、源氏を、溯っては万葉のなかにある夢幻と影を、否定するのでなければどう理解するのかというと、それらはぜんぶ「因襲的」生活への理解を抜きに語ることはできないのである。次のような言葉がある。「この世の中には、単調で因襲にしばられた生活の中でしか見えてこない節度というものがある。それがはらわたの底に沁み通って発する声がある。」(安東次男『花づとめ』より)
 福間さんの詩のなかにはまさに、はらわたに沁み通って発する声があり、それが幻を呼ぶことは、あたかもまず詩があって喩があとから来る(その逆ではない)事情と通底している。部分的な引用ではなかなか、味わいを伝えるのがむつかしいが、例えばきものの染め直しの黒をどんな黒にするかということで、「舞台の袖でちょっとばかり目障りな/黒子の黒」とか「冥土の黒」、あるいは「墨衣の墨染め」の黒かと喩的に迷う作者のまえで、うーんと唸る「むかし気質の職人さん」に見るごとき(たわごと)、また例えば初夏の「オカタヅケ」で力仕事をしたすえに「さて/家に残っているのは/わたしだけ/シンとして/本日も空は碧い」の「わたし」が、家事を好まぬ出来損ないの主婦ではないしたたかさを備えた、広大な空(くう)のしたでぽつねんと自足している詩人に思えてくるごとき(空は碧い)、その志操の高さが香ってくる自由律詩というのは、明治近代以降、ありそうでいてなかなかあるものではない。
 先に幻と書いたが、ご実父の死までを描いたパート3の「山笑う」は、それ以前の特に痛いほど哀切な「八月九日に想うこと」などとともに、一曲の能のようだ。もともと、この作品集における福間さんにはそういうところがあるけれど、彼女にはこの世と、言うなれば向こう側とを相渉るようなところがあって、それは「空家」での、雨の降る日に豊富な物音や光を感じたり、「野分」で絆を紲と表記する意識や、「月を肴に」の「ゆめのまたゆめ」の月あかりの道をほろ酔いで帰る(だが、どこへ?)姿勢にもあらわれている。また、「東京の空が/すみれいろに染まる/美しい時間を待っているわたし」(窓に映るのは空でなく)は、けっしてサムいポエムにうっとりしているなんかではない、例えば武田百合子が富士の裾野で幻視した東京の夕空のまがまがしいまでの色(『富士日記』)を思わせるのであって、繰り返すようだが、福間さんにとって「あちら側」はあんがい近いところにある岸辺なのだ。むろん、あちら側が幻なのではなく、幻なのは「こちら側」だという意味で。
 謡曲のようだと書いた「山笑う」は、その意味で、またあらゆる意味で、作者一代の正念場という気がする。この感じを何に準えればいいのか、彼女はここでまさしく、イッセイとともに登場する、(ほとんどの場合死者と対話する)ワキ僧みたいだ、とでも言えばよいのだろうか。
 冒頭の、彼岸に墓に詣でる「またおいで」は、この世界の導入部であるが、それは同時に祖霊となった父に会いに行く、ほんとうは真の始まりかもしれない最終章のようでもある。物語の進行は次の「つつがなく」から展開してゆくけれど、つづく「草々」における父と娘の手紙のやり取りが、次第に、違う世界との往還めいてくるのと重なるように、前略ではじまる手紙の末尾の決まり文句が、その世界からの風に戦ぐ草々の葉に見えてくるのは私のひが目か。タイトル詩の「山笑う」の冷厳な現実に対比された、雲雀が鳴く菜の花畑は、じつは作者にその現実と同時に訪れている明晰なディヴェルティメントのような気がする。誤解のないように言っておくが、嬉遊曲とはあくまでもモーツァルト的な、「あちら側」の接近としての、という意味である。作者が覚えた不安と恐怖は、また別の話だ。
 西行といえば月と花の、その代表的な花の歌を引いた「ねがはくば」、その、自体こころに沁みるすべての詩行をこえて、とりわけてこころに沁みる「一番は山桜だと言う父の/残念を奥深くしまいこみ/家族は帰って行く」における「残念」はもちろん、残念賞などのそれではなく、武道でいうところの「残心」に近いものだろう。これは詩集さいごの、序破急の急みたいに未練を遺さない「彼岸桜」で、父の墓に家族でお参りして帰るとき、故郷の土地にこれから先誰も住まないから、さっぱり売り払おうという話のあと、「さりとて/サッパリとはなれず/そこいらの早蕨を摘んで/心を残す」と同じ用例と思う。こんなとき、山桜とか早蕨とかがからんでくるのは、思いがけないような気もするし、やはりという気もする。こころがゆさぶられる感じは、ここに千年という時間が顔を覗かせているためかとも考える。
 このことは、さいごに近づき、詩の口振りがだんだんと律動をともなうようになってゆくこととも関係があるのではないか。それ自体が定型詩に近づくという意味ではけっしてないけれど、西行もそうだが額田王のニキタツの歌を引用する折に見られる風韻や、「気丈でいよ」と三度繰り返されるリフレインの最終の「気丈でいよ 母」における肺腑を衝く着地感を持った措辞(詮無きこと)、また「潮もかないぬ今は漕ぎ出でな/と ばかりに死出の旅へ/いいではないか/歌舞いたとて/なんの咎があろう」(潮時)の「歌舞」く、という舞いの手のような、恋人のような振舞いが、じつは父の延命装置を外す意と知るとき、私たちは詩のその因ってきたるありどころを、痛烈に告げられるのである。どうして詩の初期、というか、詩の歴史の大部分が定型であったのか、という問題を含めて、である。
 このように詩集『東京の気分』を読まれることを、あるいは作者は望んでいないかもしれないが、私はこのように福間さんの作品を読み、そしてこころを動かされた。読後感はまったく湿っぽいものではない。「残念」はあるが乾いて明快なこの印象は、さっきも言った謡曲の、別しては狂言のそれに似て、しかし笑いや泣きの明快さ、乾燥度が高ければ高いほど、悲しみは深く、現世は幻に近い。
                                    
03/10/02


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