荘厳(しょうごん)ということ
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荘厳(しょうごん)ということ



    ――声よき念仏藪をへだつる(芭蕉七部集「冬の日」より)
 三月二日、上巳のまえの寒い晩、真言声明(しょうみょう)を聴きに、というか、見に、というべきか、ともあれそういったことの体験に属する時間を過ごしに、青山のスパイラルホールまで足を延ばした。
 信仰生活とはほとんど縁がなくなった現代人のわれわれにとって、たとえば仏教なら仏教の、その側面を知るためにやれることといえば、子供時代の寺院での法事の記憶などの想起のほか、仏典や典籍を読み、また寺社の建築を眺め、仏像を仰ぎ、曼荼羅等の宗教画を見、せいぜい、誦経を聴くことくらいしかないが(それだって十分すぎるほどの情報量かとは思うけれど)、信仰の芯というか、われわれの祖先がかつて嗅いでいたはずのその親昵な匂いのようなものはなかなか窺い知れぬところがある。そういう意味で、この夜行われた「常楽会遺跡講」(じょうらくえゆいせきこう)という、儀式というより祭祀は、われわれの精神と物質の交替するあたりにつよくかかわって、断片の寄せ集めでない、木乃伊のようによみがえるかつての信仰の時間を、ひとつの総合として経験させてくれるようだった。
 いま精神と物質の交替するあたりと言ったが、それは経典にいう五根や六識の総合に相当するもので、眼耳鼻舌身とか色声香味触法とかいわれているが、私たちが会場に入ってまず眼にするものが、舞台の背後に高々と掲げられた彩り鮮やかな涅槃図であり、舞台中央の祭壇に供養された華と燻かれた香の匂いであり、威儀正装した僧らによるところの声明という名の音楽および詩=哲理であって(おそらく、僧らが向き合うのは本来は如来ほか諸尊のはずだが、コンサートのときは聴衆がその位置に見られているのだ)、それらの設えは感官への訴求そのものというよりは、そのとき感官自体もなにものか、より高いところへ譬えられている象徴のような働きを持たされたみたいな気がする。荘厳(impressive)という概念について、仕掛けというものをまるまる否定するつもりはないけれど、それはたんなる猫だましや目くらまし、極端にいえば薬物を用いる等の類ではないと思う
 鎌倉時代からこっちの新仏教になってからだいぶ事情は変わってきているとはいうものの、もともとシッダールタの教えというか考え方というのは、身体的なものを抜きにしては出来上がってはいない。ヒトがものを食べるとき、酒に酔うとき、鳥の叫びを聴き花の匂いを嗅いで季節を知り、錐や刃物で千分の何ミリかの誤差を知り、風の味わいで荒天の接近を知るとき、つまり、ヒトがごくふつうの生活を営むことに関する、それは少し鋭くされた自覚であったのではないか。シッダールタと根を同じくする古代インド哲学のなかに「祭祀によって祭祀を焼(く)べる(それを脱却する、というほどの意か)」(『バガヴァッドギーター』第四章二十五節)という言葉があるが、真言声明における「荘厳すること」(荘厳されたものを含む)とはまさに、感官によって感官を焼べ、消却することにほかならない。あんなにも無を容れた仏教の考え方が、身体性というものへの(つまり、フィジカルなものへの)、深い、抜き差しならぬ自覚に基づいているというのも、考えてみれば不思議なことのようだが。
 はなしは前後する。開演のブザーのあと、真言僧二十人ほどが、点綴するような、闇に鳴らされる鈴(りん)の音を導きに舞台上(壇上といった方が相応しいか)に登場する。背後に涅槃図が掛けられているのはさっき言ったとおりだが、面白いのは、観客から見て左の方へ鼻の先を向けて並んだ僧らは観客に正対するおり、涅槃図を真ん中に左半分の十人ほどは左から九十度回ってのち客席に向くのではなく(つまり涅槃図についにそっぽを向いたままでなく)、一度観客に背を向け、右回りに二百七十度ぐるっと回って、涅槃図に一度顔を向けてから客席に正対するのである。右半分の十人はしかし当然、左回りに客席に向いても「エホバの顔を避ける」ことにはならない。こういうディテールにも、この会の催しが半ば興行化しているとはいえ、その「如来唄(にょらいばい)」とか「釈迦散華(しゃかさんげ)」とか「梵音(ぼんのん)」とかの部立ての名称のものものしさから、ある種の興味を持つ人々が、たとえば舞踏(Butoh)を連想するようなパフォーマンスとは掛け違った、ひとつの根拠から発してくるフォルムの揺るぎなさがあるかと考える。
 これが始まりであり、ここからさっき言った五根六識にうったえてくるひとつの総合が繰り広げられるのだが、それは次のような時間芸術に似ている。

 文学であることよりも、まづ声楽であつたのである。更に多くは、単なる声楽たるに止らず、舞踊をも伴うて居たのである。又更に、ほんの芽生えではあるが、演劇的の要素をも持つて居り、後代になると、偶人劇としてある程度まで発達した形をすら顕して来る様にもなつた。類似の芸能の上に見ても、必奇術・曲芸の類の演技をも含んで居たことが思はれる。

 これは声明についての論述ではない。折口信夫の「唱導文芸序説」の一節であり、折口はここで仏教的な唱導文学というよりは、仏教伝来以前の日本の芸能の方に論の力点を置いているのだが、しかしこの叙述を声明そのもののうえに重ねてみてもさしたる違和は感じない。私は芸術の発生について、断固として信仰起源説に与するものだが、唱導文学やその一種たる声明が、たとえば音楽も舞踊もなんでもあるとはいっても、それは総合芸術の発達しきったかたちであるオペラなどとは当然違うのであって、なにものかへ向かってなされる讃歎(さんだん)に、身体を通したあらゆる表現の萌芽が含まれうるということに驚きがあるのだ。オペラだって、発達の極のいちばん美味な瞬間なんか、ある種洗練や純化とは反対にはたらく、なにか荒々しいベクトルみたいなものを感じるようだ。
 とはいうものの、やはり筆者のサガとして、興味の大半、集中力の大部分をついやしたのは音楽と言葉ではあった。
 声明の音は、面白い、と言っては語弊があろうが、いろんなことを考えさせられた。リズムの違いや高低差のあるのとないのと、さまざまであるが、音階は基本的に同じだと思う。素人の私に種々の曲の区別をつけさせたのは、その種類によって雰囲気ががらっと変わったり、逆に同定できたりしたという意味で試薬みたいな役割を負ったところの、やはり言葉であった。たとえば経文(漢文)を詞にした「勧請」「称名礼」「祭文」「遺跡惣礼」「如来唄」「釈迦散華」「梵音」「三条錫杖」ほかと、メインである和漢混交体の「如来遺跡講式」および、「遺跡和讃」とでは明快に異なる曲であることが判る。最初のグループは肉声を器楽のようにもちいる、西洋音楽で言えばコロラトゥーラ的なものであり、メインの「講式」は物語に節とリズムをつけたものであり、「和讃」は賛美歌のように詞の内容に重点を置いた歌謡であるともいえるが、いずれも、よく耳を澄まして聴いていると、濃やかな懐かしさみたいな感情が立ち上がってくるのを感じる。解説にもあるように、それは盲僧がかたる平曲や謡曲、浄瑠璃語りや尺八の韻、常磐津、浪花節に至るじつに多様な音の震えを含んでいて、そのときその場に居たことが、偽の記憶みたいな深いよみがえりのうちにまざまざと望見されるようだ。その懐かしさには、無声音や破裂音、あるいは音としては出現しない(おそらく密教の教理と関係のあるらしい)「有意無声」の動きや、旋律のなかに挿入されるごく普通の喋りみたいな非旋律の声、また日本語にはない音韻であるはずのL音を聴くことなども、要素として加わっている気がする。
 要するにつよい既視感に襲われたのであり、見て、聴いて、嗅いで、なるほどと思った。われわれが居たのは、極限まで研ぎ澄まされた現代音楽が前提する座標軸のごとき空間時間ではなく、それ自体十分に歪みも匂いも湿気もある「世界」の内側であったのだ。到底望めないことかも知れないが、でもやっぱりこれは、高山寺や金剛峯寺の、昼夜を通した酷寒の「現場」で体験してみたかった。
 壇上に並んだ二十人ほどの僧は、年長けたのや若い僧やさまざまであったが、いずれも迫力という形容をあてるのに相応しい色気を感じさせた。密教は性を排斥しない教えだとはいうが、あの荘厳された宇宙は枯淡の境地とはまったく逆の、そこを突き抜けなければ決して「あちら」に行くことが許されない赫々とした一精力世界を思わせる。あの夜のいわばコンサートマスターは新井弘順師というお坊さんで、青々と剃った禿頭、世慣れた話しぶり、音声(おんじょう)も朗々としたテノールだったが、私が女性だったらうっとりするかもしれない節回しの高潮部は、しかしちょっとうますぎたかな。

3月2日開催スパイラル「聲明」コンサートシリーズ第12回「語りもの音楽の源流」千年の聲、より。


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