風について
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風について



大風が近づいている午後、きみと長谷寺へ行った
タブの巨大な瘤だらけの幹の横を、息をのんでのぼっていった丘のうえ
女人が泊て籠もる、あのハツセのほとけと同じ木の末(うれ)で彫られ
南の潮に乗って流れ着いたという、こんじきの十一面相を仰いだ

きみが眠ったあと、深夜ひとりで牡の猫の子といると
この世界でいちばん微かな涅槃図みたいに思えてくる
ある安らけさとともに思い出す、かの加古のヒジリは、粗末な掛け小屋で
男の子が泣いているので、あたりの者が見に行くと
犬鳥に喰われたその骸(から)だけが、筵戸ごしに覗いていた、と
そのとき、たったひとりの私のために、ただ一匹の猫の子は嘆いて
ひと声だけの、長い小さな咆吼をあげるのだろうか
やはり私たちのうえには、風のようなものが
たえまなく渡りつづけているのだろうか

岩肌に沿う階段をあがり、宝物館に入った
銅の円鏡からこの世に突然飛び出してくる神仏の光(かげ)や
遠く淡い想い出みたいな朱を遺す、三十三体の、男女を超えた応現身を過ぎ
緑泥片岩上に躍るのを見た、火のようなサンスクリット文字はどんな祈りを
この、輝き濃い三界の秋にもたらしているのか

なぜだか貴賤を問わないむかしの人の
世を辞すときのことばにこころをゆさぶられる
おおかたの人が言う、まことに夢のようなものではなかったかと
下天の一昼夜はたちまち失せる、人の、まぼろしの五十年であり
ひとたび生を享ければ、ことわりとはいえ
滅せぬもののあるはずがない、ということが大きなおどろきだと
けれどむこうがわの空はすこしも寂しくない
行ってしまったあの顔この顔のみんながいるからではない
かなしいけれど私がそこですでに涼しく、私ではなくなるからだ

伽藍を出て、海の見えるあずまやできみとアイス最中を食べた
あずまやには永遠に不機嫌な売店のおねえさんと
さっき宝物館で派手にストロボを光らせた声高なフランス人老夫婦がいた
沖のほうにすこし白波が立っているけれど、この寺(やま)を下りたら
線路を越えて浜に行ってみようか、べつに当てがあるわけでもないけれど

「古代中世の都市や野山を飛び交った、無数の梵字や印契はおそらく
形而下の何かを得るためのものではなかった、という点で
ただちに俗信、迷妄のたぐいと切り捨てるわけにはゆかない」
そんなふうに主張する学者が出てきても、たぶん、私は驚かない
人々の苦患とよろこびの同じうなばらに神々は涌出したのではなかったか
あちらからの風が強いので、天使はほとんどその場所に留まることができない*
自殺した詩人は絶望と同じくらい深い希望をこめてそう書いたが
人生が夢に似たものであり、夢がなにごとかの喩であるとしたら
人生そのものは外(ほか)に生きられる、もうひとつの世界を現してはいないか?

おお、風が強い
「駄菓子屋前」という名のバス停を一瞥して、長谷駅の踏切を過ぎた
雲がどんどん動いて、ヘチマ水の色をたたえた空がひろがってくる
町の店地図を眺めてから五十メートル、信号の角を曲がると
尖っておびただしい砂の粒と、水の粒が私たちの頬を撃ち
ななめに肩を寄せ合う白い路地を切り裂いて
むなしく、青く、激しい海が迫りあがる

*ワルター・ベンヤミンのクレー作「新しい天使」(ベンヤミン私有)に関する一文による。

「ゆぎょう」4号掲載

03.9.21


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