文楽
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文楽



 舞台のうえには姫様と女中ら、いわくありげな煙草売りに、身を落とすまえの栄華の日々を語らせようとせっつきとっつき、くねくねと。顔白塗りの色男、実の名をサカタノトキユキ。煙草を売ろう逃れようで女たちとは離れる着くでなし。渋い声で小唄ひとふし。それを物陰で聞いた恋文書きの元傾城、あれはおれが別れた男だと、つつと姫様一同のまえに出て、求められるままにわが身の上をあかす。もとわが名はオギノヤのヤエギリと申す全盛の傾城で、サカタのなにがしとは水も漏らさぬ仲、逢い初めて丸三年、春夏秋冬楼に登りづめの夜ごと日ごと朝ごとの床に、また同じ廓にオダマキという太夫、わが男に毎日百通二百通、書きも書いたり恋文は、おおかた馬に七駄半、船に積んだら千石船、車に載せたらえいさらや、祈っても呪っても自分と男は堅い契りで逢うほどに、あるときオダマキ大きに腹を立て、今も忘れぬ八月の十八日の雨上がり、オダマキは白無垢一つに引っしごいて脛もあらわにわたしが膝に居かかって、「男を寄越せ」とわが胸ぐらをひっつかむ、こっちもさては一期のこととばかり「コリャ、オダマキか管巻きか知らないが、このニッポンにほかの男は居ないのか、それほど恋しい男ならなぜ先に惚れなんだ、こな男盗っ人いき傾城」と言いざま取って投げつければ、三味線を踏み砕いて縁の下まで転げかかり、木斛南天めっきりと割り、切石のうえにオダマキの顔が沈めば、流す鼻血は一石六斗三升五合五勺、さあさあ喧嘩が始まった、どちらも大事の太夫殿であるほどに、引けを取ってはいけないぞ、とばかり、遣手、仲居、飯炊き、幇間、按摩の座頭、巫女山伏に辻占屋、履き物びっこで駆け付けて、台所から座敷まで、いざ太夫さんの仕返しと、あそこで叩きこちらで打ち合い、踏み割る音にめりめりびしゃり、そりゃ地震だ雷だ、盥に踏ん込み庭も襖も水浸し、禿は泣いて「南無三宝津波が襲ってくるわ、ノウ悲しや」と、秘蔵の子猫を馬ほどな鼠が銜えて逃げるやら、屋根では鼬が踊るやら、神武以来の悋気争い花盛り、このこと世上に隠れなく、男はいつの間にやら逃げ出して、わたしは紙子の恋文書きに身を窶し、町を流していたところ、昔の閨のささめごと、かのトキユキが誦んず小唄を聞きとめて、打ち見ればわが男、一言恨みを言おうかと、思えばやがて権勢エモンノカミの一党を討ち果たさんと、命を死ぬる覚悟と見えて、(姫様・女中たちは去る)こなたは腹をかっ捌き、金の火焔をわが胎に、そそいでサカタノキントキを、山姥が生む足柄の、昔語りは始まれり、昔語りは始まれり。(太三味線の音とともに世界は赫奕と暗くなる)

*素材テキストは国立劇場小劇場で開催の「第一五〇回文楽公演 平成十七年二月」の近松門左衛門作『嫗山姥廓噺(こもちやまんばくるわばなし)の段』床本(台本)による。


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