無蓋貨車いっぱいの廃棄銃

無蓋貨車いっぱいの廃棄銃

星野勝成

 私が鉄砲というものに触ったのは、あのときが初めで、しまいだった。たぶん1945年から48年頃のこと。
 村の駅で遊んでいると、さびた鉄くずを山ほど積んだ無蓋貨車が、長いこと停まっていた。村の駅というのは、新潟県南魚沼郡大沢の信号所。当時、上越線は単線だったので、要所要所を複線化して、急ぐ列車が通過するのを待っていたのだ。
 ホームとは言っても、ただ盛り上がった土があるだけの場所から貨車の鉄くずを見ると、それらは押しつぶされた鉄砲の密集だった。子どもながらに、それらが鉄砲だと判かったのは、兵隊さんの出てくる絵本などを見て育ったからだと思う。戦争に負けたために、廃棄を命じられた鉄砲たち。
 あるどき、仲の良い友だちと二人で、その鉄砲の山のなかから比較的損傷の軽いものを選び、銃身を撫でていたら、背後からその銃をさっとかすめ取った大人がいた。彼はすぐに消えたが、村の人間でないことはわかった。山を一つ越えたところに、小さな田んぼと畑を持ったそこの人だったのだろう。年嵩の事情を知っているらしい子どもが、「あれは、鉄砲撃ちだよ」と言った。信号所の職員も一人くらいはいただろうが、そんなことに注意を払うふうもなかった。
 それら廃品の行き先は、八キロ下ったところにある六日町という、その一帯の中心の町だった。六日町には、戦争末期、関東の方から疎開してきた製鉄所があったことを、大きくなってから知った。
 ところで、夜中の半鐘で目を覚まし、二階の窓から遠くいくつもの集落のさらに向こうの方に、ぼぉっと赤らんでいる光、炎の反映を見たことがある。 
 冬の夜の火事だ。
 雪国の冬の夜の火事ほど、人の心に染み入る光景はないのではないか。子ども心にもそう思った。
 しかし、半鐘も鳴らないのに、雪で覆われた盆地の遠くに、宵の口からも、夜中にも消えない、赤い火の柱が見えた。火事ではない。子どもたちが見ていた鉄の廃品たちが燃えているのだった。戦争の終わりを感じさせてもくれた銃たちは、あの消えない赤い炎の中で、もういちどふつうの鉄の板になる、と聞いた。
 ふと夜中に起きて外を見たとき、気象条件にも左右されるが、注意して見ると、雪原の果てに、炎のような赤くふくらんだものがある。
 十八歳で故郷を後にするまで、その赤いものが私に何か訴えてくるように思えて仕方なかった。私だけに向かってくるあの信号のようなもの。
 錆びた鉄の銃に触ったのは、あのときだけだ。その手の感触が、いまでもぼんやり、いや、はっきり、私の手には残っている。