第四十回目 北川透の「死亡遊戯」


       1月31日:奈良県北葛城郡上牧町で女高生ら三人がシンナー遊びで
       死ぬ



死亡遊戯

      北川透


寒風吹きすさぶ真夜中
貸しガレージの乗用車のなかで 肩寄せあい
シンナー遊びをしていた少女たちは
どんなまぼろしをながめていたのだろう

あたたかい家庭をねたむ ぎんいろの蛇か
日かげにあこがれる どくだみの花か
それとも なにも見えない暗闇をみつめていたか
はなやかで冷たい春のむくろはこたえない

その貧しく閉ざされた若いこころのかたちに
腹をたてながら ぼくだって
死亡遊戯こそしないけれど

時代の空白を棒のように飲んで
よろめくことがある グラス一杯の
ウィスキーを片手に

    北川透詩集『死亡遊戯』〔弓立社)より


○詩集『死亡遊戯』には、「一九八二年八月より、中日新聞毎週月曜日の夕刊に、「時の詩銭」のタイトルで、いわゆる広い意味での風刺詩・時事詩」(「あとがき」)として連載された作品四十九編、その他五編の詩が収録されているが、この作品「死亡遊戯」は、その連載詩のうちのひとつ。タイトルの前におかれた日付入りの小さな活字の文章は、他の連載詩にも共通するこのシリーズの体裁で、この作品が実際の新聞報道による事件の記事を題材にして作られたことを示している。この詩は、シンナー遊びをしていて死んだ少女たちの記事を読んだ「ぼく」が、記事には書かれていない彼女たちの内面に思いをめぐらせて、やり場のない憤りを覚えながら、そういえば自分も彼女たちのような(寂寞たる)思いを抱えながら酒を飲むことがある(のではないか)、と述懐しているところで終わっている。明快といえば明快だが、二連目の前半二行が、ふつうちょっと書けないというか、この著者らしい独特のイメージで彼女たちの内面の思いに向き合う想像力の形が定着されているように思う。お酒ということでいえば、「グラス一杯の/ウィスキーを片手に」という言葉が、最後にきらっと光っている。この田村隆一のある種の詩に似た(^^;明るい詩行のもつイメージが、少女たちの暗い「死亡遊戯」に対比されることで生じる微かな異化効果。突然の酔いの記憶のように世界は一瞬ぐらりと傾く。それはこの連作が「、、直接的で一方的な情報の洪水のなかに、笑いや遊びをともなった批評意識による、ささやかな異化空間をつくること」(あとがき)を念頭に書かれているということと無関係ではないだろう。また、この連作詩が「これまで現代詩など読んだこともないような、沢山の読者」(同)を意識して書かれているということも、最後に書き添えておきたい。




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