アブサン土偶

アブサン土偶

海埜今日子

 縄文に関する展覧会へ行った。楽しみにしていたのだが、何故かあまり感動しない。こうしてふりかえれば何かしら感動に気づくかしら。そう思ったのだが……。その場で観た時、土偶に関しては、それでも何かしら穏やかなものを頂いた筈なのに。写真撮影可能だったから、思い出すためのよすがにと、映像を持ち帰った。いつもなら扉をひらくように、それらは記憶を引き出してくれるのだが、この土偶たちは、そうではなかった。すこし怖いような気がした。かけらとなった壊された土偶が並ぶ。頭だけ、上半身だけ、胴体だけ。いつもは、祈りの声のようなもの、願いのつまった、たとえば慈悲的なものを、その姿に感じていた。だがそれは、比較的完全な姿に復元されたか出土したものたちに対してだったのかもしれない。今回のそれは、傷痕のようだった。額が欠けた、眠りのような顔、乳首であろう突起のある長方形、ふくらんだ腹かもしれない、概ねの丸さ。それら自体は、なるほど、それでも土のぬくもりが感じられたからか、ほのかに優しかった。土偶は故意に壊された状態での出土が多い。呪術的に、厄災を祓うためにという説があるそうだ。写真からは、負の気配が漂っていた。祝と呪、豊饒と喪失。流し雛を想起する。籠の船に乗って永遠へ流れてゆく、雛の顔の満ち足りた水葬、あるいはオフィーリア。彼らはこんなにも、わたしたちを見つめるために眠っている。

 展覧会の帰り道、久しぶりにアニス系の強い、甘いリキュール、アブサンが欲しくなった。こうして机に向かうときの、そのお供に。十九世紀の芸術家たちに愛好されたお酒。ヴェルレーヌ、ロートレック、ゴッホ。この来歴に惹かれ、以前はよく飲んでいた。あの頃に帰りたいというより、あの頃のような気持ちで、書くことをしたくなったのだと思う。買う時、嬉しさが漂ったのは、久しぶりだったからだけではない。お酒を買うという行為が、ほぼ日常から非日常になっていたからだ。こんな風に日常のなかで、非日常を経験すること、通底奏音のように継続させること。それこそが書くという行為ではなかったか。おおざっぱにいえば、わたしが縄文にひかれるのは、これらのこととも関係している。日常が今よりももっと非日常と連結していた時代。火焔型土器の使いにくい、あの不安定な形、美に突出したそれは、まさにそうではないか。展覧会の記憶がまたよみがえる。黒曜石の石器たちが、眼裏に燦然と並ぶ。研磨された、黒い輝きは、道具だったが、それを超えた、所作であり、美だった。
 これを書いている今、買ったお酒を飲んでいる。記憶のとおり強いお酒だが、覚えているよりもずっと香りがよい。漬け込んだ草たちが口のなかでほとばしる。甘さが優しい手招きとなって。かつて、こんなに怖いと思って飲んでいたのだろうか。草の音(根)が、土をたたえて眠っている。

初出「エウメニデス」53号