原稿

原稿 ブロンテ牧師館にて

南川優子

「Wuthering Heights(嵐が丘)の手書き原稿は 現存していません
だからこれは 来場者に一行ずつ書いてもらって 原稿を完成させるという
プロジェクト
来年の エミリの生誕二百周年に向けて
完成させるために」

シャーロットの夫の 書斎だったという部屋で
ガイドの女性は そう言って
わたしとあなたを出迎えた
大きな木のテーブルの上には 開かれたWuthering Heightsの 分厚い本と
手書きの文字がつづられた 大きなノート

促すようなあなたの目を 横目で見てから
ガイドが指差す 一行を見る 「あなたの行はここです」
印刷の改行に従って 切り取られた 中途半端な意味の行

   -ing her eye and snatching away his hand. “I shall be as
   彼女の目を追いながら、彼は手を振りほどいた。「ぼくは

彼女 キャサリンの目を追いながら 彼 ヒースクリフは
キャサリンに触れられた手を 振りほどく
上流の家に滞在し 洗練されて帰ってきた キャサリンが
荒野の仲間のヒースクリフに
「あなたとっても汚いんだもの!」と言い放ち
身だしなみを整えてと たしなめた後のこと

わたしは エミリのたどった道を 踏み締めるように
鉛筆でノートにつづる

   -ing her eye and snatching away his hand. “I shall be as

そばに立つ あなたにつながる文を わたしは読む

   dirty as I will, and I like to be dirty, and I will be dirty.”
   好きなだけ汚くなってやる 汚くなりたいんだ 汚くなってやる。」

けれどあなたは 立ったまま 鉛筆を取ろうとしない
「書かないの?」 と訊ねると
「文学的なのは きみだから」

   ヒースクリフは 手をつながない
   あなたは文を つながない

     ふと わたしは 思い出す
     あなたが ワイングラスを片手に 「詩からは何も
     学べない気がする」 と言った
     遠い日の 土曜の晩の
     食卓を

   “I shall be as dirty as I will, and I like to be dirty, and I will be dirty.”
   好きなだけ汚くなってやる 汚くなりたいんだ 汚くなってやる。」

エミリの物語のなかに 佇んだままのわたしの横で
あなたは ガイドに話しかける
「この土地の方ですか?」

「今は 別の町に 住んでいますが
子供のころ ここに住んでいて 父は 目抜き通りで
肉屋を営んでいました けれど 観光が盛んに
なりすぎて
別の町に 越しました」