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高田昭子日記


2005年4月

2005/4/30(sat)
春の一日


 二十九日は浜松町まで出かけました。ある展示会の見学、わたしはまたしても「金魚のふん」でした。そこで二時間ほど過ごしてから、「旧芝離宮恩賜庭園」へ。入ってすぐに見えたのは咲き始めた藤棚でした。藤天井の下に佇むと花のかおりに全身がつつまれるようです。湖面のひかる漣も美しい。花水木、満天星、躑躅、石楠花、あやめ、春のおびただしい開花にはいつでも心が追いつけないという想いがある。


  


 切り株にすわると、木漏れ日とおだやかな風が交差する、恩寵のような時間。足元の草々には見えない小人や精霊たちが佇んでいるような錯覚に陥る。お供のふくろうたちも木の枝に遊ばせてみました。白いふくろうは「ふくろう日記」のライター「ホワイト」、もう一匹のふくろうは「おたすけ君」です(^^)。


  

2005/4/21(thu)
課外授業


  
   (季節の花 300 より)


 二十日午後十一時十五分より放映されたNHKの「課外授業」は、著名人が母校(小学校)を訪問して、みずからの専門分野の授業をするという企画である。この日は詩人の佐々木幹郎が大阪にある母校を訪問した。以前、詩人ねじめ正一の授業も観たことがあるが、これほど読者に恵まれていない「詩」を、それまでほとんど知らなかったであろう子供にどのように入り口を開くのか?という興味から観たことがあったが、佐々木幹郎とねじめ正一の授業の進め方はとてもよく似ていたと思う。(出発点においてのみ詩人側が苦しむという点においても。笑。)
 まず、一つのテーマを与えて子供に書かせてみる。そこから詩人は子供の視点やまだ引き出されていない感性を見出して、それに気付かせる。次には「言葉遊び」に入る。「連詩」である。「個」と「グループ」とがわいわいと言葉を遊ぶ。書く時は「個」だが、出来上がったものが「グループ」という作品になる喜びを知る子供たち。佐々木氏の引き出し方は見事だった。子供たちとの浪速弁の会話もテンポが心地よい。
 無事に授業を終えて帰る佐々木幹郎は涙ぐんでいた。これは佐々木幹郎の詩の出発と、一貫した詩作の姿勢が「いかに言葉を伝えるか。」というところにあったからだろう。これを契機に詩を書く子供もいるのかもしれない。(しかし佐々木さん、泣かんでもええやろ〜。)


 これにわたしが何故興味をもったのかといえば、わたしに「言葉による表現」の楽しさを教えて下さったのは、小学校四年の時の担任教師だったから。ただし教師が特に何かを教えて下さったというものではない。入学以来わたしを最も苦しめた宿題や授業は作文だったのだが、四年になった時の担任教師は、この作文教育に非常に熱心だったため、作文を書く機会はさらに増えたのだ。この「作文地獄」から抜け出す方法を、十歳のわたしは真剣に考えなければならなくなった。
 たとえば「遠足」というテーマを出されると、それまでのわたしは、出発から帰宅までを克明に追い書きしていたのだ。そこからもっと身軽になるためには「ある時間だけを切り取る」という作業に切り替える必要があると思ったのだ。それが一回目から効を奏して(笑)担任教師はおおいに褒めて下さった。そこからわたしは突然「作文地獄」から脱出して、「書く」ことが大好きな少女になったのだ。そのままここまで来てしまった。。。うう〜む。

2005/4/20(wed)
デリー


  
   (季節の花 300 より)


 先日、有働薫さんに「相聞歌に該当するフランス語はありますか?」とお聞きしました。「フランス語にはないけれど・・・。」とおっしゃっていましたが、その数日後には「モーリス・セーヴ」の詩集「デリー」の数編と、「ペルネット・デュ・ギエ」の詩集「韻」の数編のコピーをいただきました。ペルネットについては、有働さんがかつて「詩学」に書いていらっしゃいます。モーリス・セーヴ(1501〜1560)
とペルネット・デュ・ギエ(1520〜1545)とは師弟関係にあり、プラトニックな愛を育み、ベルネットは一冊の詩集を残して夭逝、セーヴはそれに心を痛めて詩壇から遠ざかり、晩年の消息ははっきりしないそうです。セーヴの詩集「デリー」はペルネットに捧げられた愛の詩集でした。有働さんが、一九八三年十二月号の「詩学」に取り上げられたペルネットの詩の四行はとても魅力的でしたので、ここにご紹介
いたします。これはおそらくモーリスに向けて書かれたものでしょう。


   もし欲望が報いに値いするなら
   そして報いは欲望を終わらせてしまうから
   わたしの歓びの終わりがこないように
   思うよりもいつも仕えたいと願うだろう


この詩行から、すぐに連鎖反応のように思い浮かべたのは、下記の詩行でした。


   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ


この三行は新井豊美詩集『切断と接続・2001年・思潮社刊』に収められている「石の歌」の最終連です。


 「相聞」と名付けていいものかどうかはわからないが、岡井隆の短歌と佐々木幹郎の詩、および書簡から構成された「組詩・天使の羅衣(ネグリジェ)・一九八八年・思潮社刊」、新川和江と加島祥造との詩の往復書簡による「潮の庭から・一九九三年・花神社刊」などが思い浮かぶ。こうした「言葉による往来」というものは、万葉集、伊勢物語、源氏物語などなどの日本の古典文学の世界には、すでにいきいきとして在った。それをわたしはこれからの「詩作」のなかに息づかせることができるだろうか?

2005/4/16(sat)
贈り物としての言葉


   
「季節の花 300」より。


 「相聞・あいぎこえ」のページを作ってしまってから、その確認作業のように「すらすら読める伊勢物語(高橋睦郎著 二〇〇四年・講談社刊)」と「贈答のうた(竹西寛子著 二〇〇四年・講談社刊)」を並列するように読んだ。
 竹西著「贈答のうた」には、「勅撰和歌集」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「源氏物語」「伊勢物語」などから抜粋され、紹介されている。竹西寛子の解釈は穏やかですっきりとしていて、深く納得できるものだった。高橋著「すらすら読める伊勢物語」は、高橋睦郎の独自の解釈により、「段」を抜き出し、さらにその「段」の順番を、物語がわかりやすいように組み変えられている。「伊勢物語」から一対の歌を引いてみる。


  老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな


  世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため


 これは、京にのぼった一人息子に宛てて、老いた母宮が寂しさ故に送った歌に対して、その息子が切なく応えて送った歌です。母子関係においても、ましてや男女関係においても、女性はひたすら「待つ」だけの時代でした。愛の関係に避けがたく伴う残酷さを、歌の「雅び」が和らげる働きをしていたように思います。
 また、その時代にあったであろう礼の衣を纏いながらも、自制がひそかに育てる激情というものがあったように思う。他者を得て開かれてゆく心の世界、あるいは相互の働きかけによって広げられる表現領域、贈る歌のもたらすものはとても大きい。わたくしたちにはこのような豊かな文学世界が、もうとっくに用意されていたのだと改めて深く思いました。竹西寛子の序文から、もう一度この言葉を引いておきたい。


  うたはあのようにも詠まれてきた。


  人はあのようにも心を用いて生きてきた。

2005/4/9(sat)
映画「血と骨」


   


 監督は崔洋一、原作は梁石日、主演はビートたけし、鈴木京香。


 この映画を観ることになるとは思ってもいませんでしたが、たまたま観ることになってしまった。この映画のDVD&VIDEOの発売の記念試写会があるということで、不運(?)にもそのチケット二枚が転がりこんできたのです。ビートたけし演じる主人公「金俊平」の破壊的な暴力シーンの続出。後半部はついに観ることが出来なくて、音が静かになるまで目を覆っていました。疲れた……。崔洋一は何故このような映画を作りたかったのだろう?過剰なリアル性を求める表現方法というものは、映画に限らず詩においても当然ある。しかしそれが表現方法として最上のものとは、わたしは決して思わない。


 『血は母より骨は父より受け継ぐ。』これは一九二〇年代の大阪へ「ここより他のところ」を求めて、済州島から渡ってきた出稼ぎ労働者の若者の半生であり、朝鮮人集落という舞台で繰りひろげられた過酷な「家族物語」なのでしょう。「愛」とか「やさしさ」などという、なまやさしいものはひとかけらもない。並外れた腕力と体力を持った冷酷な男の半生であった。子供にとっても「恐怖」の存在だった男。娘を自殺に追い込んだ男。


 「金俊平」に関わる女性は三人登場する。鈴木京香演じる一番目の女性は、強引に俊平との生活に引きずりこまれ、二人の子を産む。俊平の失踪と帰宅、その後に続く俊平の女性問題に翻弄されながらも、自らの生き方を通した。二番目の女性は俊平の強引さに「うち、死んでしまいそうやわ。」と応えてゆく。道路を隔てた別宅で暮らし、やがて子をなさないままに病に倒れ(最期は俊平の手によって「楽にしてやった。」)、その女性の看護役として三番目の女性が現れる。彼女は看護のかたわらに、五人の子供を産む。そして俊平が体の自由がままならない状況を迎えた途端、家中のお金を持って子供とともに別宅を出てゆく。それぞれが全く異なる個性の女性だが、俊平が女性たちに望んだものは「骨を受け継ぐ者」だったのではないか?


 しかし、この主人公「金俊平」とは、男性のエゴイズムの深い暗部だけを取り出してきて、そこを拡大し、具象化して見せた一人の「巨人像」だったのではないかとも思える。そこに視点を当てると、この映画(あるいは原作)のテーマは民族や歴史や家族というものを超えたところにもあるようだ。


 以上の感想は極私的なものです。この映画「血と骨」についてはここをご覧下さい。

2005/4/8(fri)






 昨日の日記の続きです。欅があっという間の若葉をつけました。今日も初夏のような日です。季節に追いつけない。。。

2005/4/7(thu)
桜が咲きました。


   


 今日は初夏のような一日でした。近所の小学校の桜が一気に咲き、欅が一斉に若葉を吹きだしました。

2005/4/4(mon)
「心を用いて……」


 エイプリル・フールの日には、それにふさわしく「自称・祝杯」をあげるために新宿へ出る。まず伊勢丹で春のスカートを買って、それに早速はきかえて紀伊国屋書店へ。目的の本「贈答のうた・竹西寛子」を買う。その後同行者とおちあってコーヒータイム。それから夕方の花園神社の桜の様子を観に行きました。(夕刻、曇天、携帯電話のカメラには最悪の条件でしたが。)


   


「ソメイヨシノ」はまさに桜前線「わたしはここよ。」と言っているようでした。


   


 こちらは園芸種のコヒガンザクラです。神社のわきにひっそりと満開。ちいさな樹でした。このくらいの花のような「祝杯」をあげに新宿の街へ。



 贈答のうた  竹西寛子


 物や事に感じて平静を乱された時に、その心の揺れをととのえようとする手立ては人次第であろう。何によって惹き起こされた心の揺れか、その原因と、人それぞれの性情や素養との関係によって、手立てのあらわし方もおのずから定まってゆく。もし仮りに言葉を頼むとすれば、言葉は原因との折り合いをつけようとする働きの中に、誰かに向って、あるいは何かに向って訴えようとする働きも兼ねることになろう。
 人は又その心の揺れを、沈黙に封じ込め得る存在である。けれども私がこれから付き合ってゆこうとしているのは、沈黙を守り通せなかった人々であって、頼られている言葉は詩歌、すなわち「うた」が中心である。


  うたはあのようにも詠まれてきた。


  人はあのようにも心を用いて生きてきた。


 帰宅後すぐにこの本を開きました。以上の文章はこの著書の「はじめに」のなかから抜粋しました。大変に魅力的な導入の言葉です。ふいに涙がこぼれそうになりました。読み通すには時間が必要でしょう。しかし大切な本になるであろうというたしかな予感があります。


(講談社刊・二〇〇二年第一刷、二〇〇四年第二刷)



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