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TISATO日記

2011年3月

震災  13日目。 2011/3/23(水) 18:08:23
被災地には 食料が 行きわたり始めている。
ガソリンの問題も 貨車が 被災地へ 運搬が 始まっているようだ。
あちこちで 義援金の運動も 大きく はじまっている。


今 問題なのは 福島原発から 発せられる 放射能量のようだ。
都内では 乳幼児には 生水を飲ませないように との 警告もでた。
気の毒なのは 関東界隈で 農業をしているひとたち。
放射能のため 作物が 全滅のようすである。



ひとりひとりが 自分ができることを 考えている。



選抜高校野球へ 宮城仙台 東北高校が 出場できたのは 出場する選手 地元の人 見ている人たちの 大きな希望だっただろう。



そんな中でも 日常は 過ぎてゆく。



3月20日 日曜日。
地元の本屋さん 啓文社ポートプラザ店に 今 旬のミステリー作家 湊かなえ(敬称 略)が 来たので 参加した。
新刊「花の鎖」(文芸春秋 刊)の 宣伝活動のためである。
本を買って サインをもらうひとの 長蛇の列。
どこまでも 切れない。
私は 自分の番が すんだあと その場を離れたが 今日 本は
どれくらい 売れただろう。
最低 300冊は 売れたんじゃないかと 思います。
さすが。すごいなぁ・・・と 思います。
湊かなえさんと 会うのは 2回目 です。
せっかく買った本 読まなくちゃね。
文芸春秋のひとが 3人 ついてきてました。
そのうちの ひとりのかたが なかなかのダンディな おとこまえ でした。(へへへ  ^^)
普段は 尾道にいる 啓文社のKさんと会えたことは うれしいことでした。
義援金寄付箱が そばに 置かれていました。




3月22日 火曜日 には 岡山県の 金光まで 行ってきました。
金光学園の 校長先生が この3月で 退職されるそうで 最後の読書会と なりました。
読書会は 何十年も続いていたんですが また 始まるにしても
ちょっと 小休止 しようということになりました。
ずっと お世話くださったかた 長い間 ありがとうございました。 。
感謝 感謝 です。











大変な中での 詩のイベント。 2011/3/14(月) 19:59:03
地震3日目。
時間が経つにつれ ことの重大さが しだいに あらわになる。
マグニチュード9 不明者死者の数が ふくれあがる。
助かっていても 孤立しているところが 何か所も あるみたい。



そんななか 3月13日 日曜日 予定通り 倉敷で なんばみちこさんの 「山陽新聞賞」お祝い会が 開かれた。
2カ月ほど前から 出欠のハガキが届いていて 私は 出席 と出していた。
参加者は110人くらい。
大きなイベントなので こういうときであるが 決行である。
最初に 黙祷をした。



なんばさんの 関係しているグループなどから お祝いに 来られている。
私は 私が属している詩の同人誌グループ「黄薔薇」のテーブルだった。
なんばさんは 白い 色無地の和服を着られ とてもよく似合っておられた。
華やかな席だ。
アトラクションは 京都から ライアを演奏するひと 最後に
ソプラノの独唱が あった。


こんなときだけど 終えられて ほっとされているだろう。
火片のみなさまも お疲れさまでした。
とても良い会でしたよ。
お疲れ様です。



えらいこっちゃ! 2011/3/13(日) 00:25:00
いろいろ事情があって 今年は 遠出ができそうもない私が 案内状をもらったこともあり 一大決心のもとに その日 東京に向かっていた。



イベントは 3月11日 金曜日。午後六時から。
何事もなければ 午後4時には 泊まるべきホテルに到着するはずだった。
ところが。
あと30分あまりで 東京に着く予定の 新幹線のぞみが 午後2時46分 前後左右に大きく揺れて 駅でもないのに 突然 停まった。



どうやら ここは 小田原らしい。
列車内のアナウンス。「東京 静岡間で 停電しております。
復旧までには 2時間ほどかかる予定です」
イベントに 間に合うのか そのことが気になった。


それから どんどん いろんなことがわかってくる。
たびたびの 列車内アナウンス。
宮城で 地震がおきているらしい。
東京で 震度6
静岡沖で 津波。
車内は ムシムシ。私たちは ムカムカ いらいら。
車内は 真っ暗だったが 15時40分 送電開始で 車内に
電気がつき 喚気が まわりだした。
すこし 安心。
3人並びの 女ばかり 知らない同士。しかし こういうとき
自然と会話するようになる。



もはや 携帯は いくらかけても つながらなかった。
しかし メールは 入る。
それぞれの携帯に 入ったメールで 情報交換。
私のとこにも 友達から 「えらいことが 起こっとるよ」とメールがはいる。



都内 400万世帯以上 停電。
都内の電車は 全面ストップ。
時間だけが むなしく 過ぎた。
午後5時半になっても まだ 動く気配はなかった。
車内放送があって 車内の食べ物 飲み物は すべて すぐに
売り切れた。



午後6時50分になって やっと ゆっくりと動き出した。
しかし 徐行運転。ゆっくり ゆっくり 動いている。
また 車内アナウンス。
「品川へは 5時間遅れで 到着します」
東京に着いた時には 午後8時。
2時間もたてば イベントは すっかり 終わっているだろう。



それでも 行けるものなら 行ってみよう と思った。
泊まる宿でなく 直接 会場へ。
ところが 東京駅に着くと ものすごいひとが ごったがえし
駅員さんに 地図を見せると 「目下 鉄道が すべて 停まってますので 歩いて行くしか ありません。そこへ行こうと思ったら 2時間は かかります。
バスも タクシーも 長蛇の列です」
私は とても 2時間も 歩けない。
会場へ行くのが 不可能なら 折り返して戻ろう と思った。
さいわい 下りの新幹線は 動いていた。



運よく その新幹線は 広島行きだった。
が 再び 車内アナウンスで 「今日は 今後 すべての新幹線が 新大阪停まりです」と。
新大阪で どうしようか。友達がふたりほどいるけど 突然 泊めて というのもなぁ・・・。
いろんなことが 頭をめぐった。



新大阪についてみると 地下の構内には ひとがいっぱい。
新大阪より 下りに行きたいひとが すべて そこにいた。
みんな新聞をひいたり トランクをまくらにしたり。
にわか ホームレス状態。
こんなに ひとがいるなら 始発まで ここにいても大丈夫そうだな と 少し 安心した。
ひとりなら こわいけど 大勢なら こわくない。
状況は みな 同じだ。


そのうち 駅員さんが 「新幹線を 宿変わりに あけますので そちらで寝てください」 と アナウンス。
私は べつに いいや と思い 駅の待合室で ねるつもりでいた。ぱらぱら ひとも いたし。
が しばらくすると もうひとつ 新幹線をあけます といわれそちらに 移動した。
結局 新幹線の中で 夜を明かすことになる。
午前五時まで いられる。
しかも 女性専用車両をつくってくださった。
これには 大変 胸の中で感謝した。



午前6時過ぎの始発 こだま に乗って 福山にたどり着く。



そのころ 友達が メールをくれたように 東日本では
たいへんなことが 起こっていた。
そんなことは つゆ知らず ただ 家へと たどりつきたかった。



ものすごい疲れた。
帰って 家の電話で 二か所に 連絡をとった。



それから 日本は どんどん 大変なことに なっていった。 








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