鈴木志郎康作品上映会「極私点360°」感想・批評


辻和人「POETRY PORT」「極私点360。」感想・批評

10月29日(土)
 イメージフォーラムで「鈴木志郎康作品上映会「極私点360。」を見る。旅をテーマにした作品群「あじさいならい」「眺め斜め」「景色を過ぎて」と、レイトショーの「15日間」の4つの作品。ほとんど半日映画を見いたことになる。
 若き日の中沢新一の語りを映した「眺め斜め」以外は一度見たことのある作品ばかりだったが、改めて面白く感じた。前に見た時は、自由奔放に撮っているなあという印象だったが、2回目となると感想がかなり変わってくる。映っているものは「私」のきままな行動の通りで、その意味では即興的と言ってよいほどなのだが、それらを映画のフレームに収める時、これらのきままな行動、きままな見聞をいろいろな角度から、厳しく吟味していることが強く印象づけられる。映っていることと映っているものを認識することの間のズレ、二重性がユニークなのだ。「15日間」では、見たくない自分の姿を延々と撮ることで、自分というものの不気味さを引き出している。見たくないものを見るように強制する残酷な装置として映画が機能しており、見られたくない自分と見ることを強制する自分のデッドヒートが、非現実性を醸し出し、異様な興奮を掻き立てるのである。イントロの原爆の被害者の映像とベーコンの絵の意味が今回よくわかった気がする。
 新刊の評論集『結局極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)が受付で販売されていたので早速購入。読むのが楽しみだ。

11月4日(金)
 退社後、「鈴木志郎康作品上映会 極私点360。」のCプログラム「好き人」を見に、イメージフォーラムへ。この連続上映会は構成がよく考えられていて、志郎康さんの作品が傾向別に分類されている。ここでは、好きな人、親しい人を中心に据えた作品が集められている。上映されたのは「日没の印象」(奥様の麻里さん)、「オブリク振り」(詩人の川口晴美さんと岸利春さん)、「玉を持つ」(3分の短編。名前を忘れてしまったが若い女性)、「荒れ切れ」(詩人のねじめ正一さん)、「戸内のコア」(詩人の福間健二さん)。これらの作品で面白いのは、愛情のある相手を撮っていても、決して相手に入れ込みすぎず、つまり相手を「自己化」せず、相手は相手、自分は自分と、淡々としているところであろう。相手にぎりぎりまで近寄って、相手の人間の本質に迫りながらも、同調することはしない。相手と自分を大きな核とした、ピーナッツのような形の作品なのだ。そして、相手と自分の間には「小さな核」もたくさんあり、作品の味わいを複雑なものにしている。
 終演後の福間健二さんとの対談も面白かった。帰り際に詩人の呉生さとこさんを見つけ、駅まで一緒に歩く。

11月6日(日)
 「鈴木志郎康作品上映会 極私点360。」のEプログラム「増殖)n乗 」を見に、イメージフォーラムへ。「時には眼を止めて」「枯れ山搦めて」「気息の微分」「風を追って」の4作品が、「反復や増幅、連鎖のイメージ」という観点からセレクトされた。こういうグルーピングは個性的で面白いと思う。が、企画者は視覚的な面からこれらの作品をまとめたようだが、ぼくは「時間」の扱いをテーマにした作品が集められているように感じた。
 「時には眼を止めて」での、花の生育と人の欲望の関係、「枯れ山搦めて」での、若い女性たちの成長ぶりと植物の枯死?芽のサイクル、「気息の微分」での、カーボンが水分を吸うことによってパイプが裂ける過程、「風を追って」での、様々な意味合いでの風の変転、全て、「時」を強く意識することが根底にある。
 志郎康さんの映画ほとんど全てに言えることだが、一本の映画として流れる時間と、撮影された個々の映像の中に流れる時間が異なるものなのだという単純な事実が、観客の前にぐいと突き出されている。観客は、映画を見ている間、自分にとってこれらの映像を「見る時間」が自分の人生の中から割かれていることに気付かされる。一本の作品の時間、作品の中の個々の場面に流れる時間、観客が映画を「見る」時間が、緊張を保ちながら平行して進行することになるわけである。劇映画では、異なるこれらの時間の区分は意識されない。観客はストーリーやキャラクターの魅力に没入し、我を忘れ、文字通り「時がたつのを忘れて」しまう。しかし、志郎康さんの映画では常に覚醒が促される。観客は、自分が生きている時間と見ている映画が進行する時間、映画の中に登場する人や事物に流れる時間を、それぞれ噛みしめることになる。志郎康さんは映画の中に、様々な視点を用意するので、格納された時間も様々だ。映画は、「時間のデパート」のような様相を呈す。時間芸術としての映画の姿が、露わにされるわけである。
 終わって、詩人の渡辺洋さん、毛利珠江さんと挨拶。帰宅し、雑用をしてからサルサバンドの練習のため経堂のスタジオに行った。今日は参加人数が少なかった。

近刊『結局、極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)

この本には「個人映画の表現論」を始め、メカス、小川紳介、木村伊兵衛など映像や写真について評論、またつげ義春の作品についての文章、そして詩を読むことの不可能性など詩についての考え方を書いた文章が収録されています。
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