Jul 10, 2007

宗教・神話・詩論

「一人で考える」こと――石川和広詩集『野原のデッサン』について

 最近ふとしたきっかけから、メールや郵便物のやり取りなどをするようになった人がいる。大阪は古刹・四天王寺の近くに住まいする石川和広という、若い人だ。若いといっても1974年生まれということだから、1953年生まれの私と比べて大分お若いという表現のほうが相応しいか。その公開したプロフィルにもあるので言ってもいいかと思うし、また彼の詩の根幹に関わることでもあるので言うのだが、彼は精神疾患に悩む人でもある。同時にその病のなかでごくフィジカルに自らを立て直すさい、行われる切実な「思考」が、はからずも今の世界を覆う色んな問題、というよりは私が思うところ今の世界を緊縛している「災厄」と言うしかないことどもと、まともに切り結ぶさまを私たちは目の当たりにすることになる。彼が去年出した処女詩集『野原のデッサン』を通してこのあたりのことを見てゆきたい。ちなみに、いわゆる辞書的な、「修辞論」的な意味では、私の筆がやや甘くなっていることをお断りしておきたい。
 彼が病気であるということを、いわば症状的に明らかに前面に立てたと思しき(まあ、全編がそうだと言えないこともないけれど)、特徴的な詩行がある。

「帰りたくない」と叫ぶと
ヘビみたいな黒くて長いカゲが何百となくぶらさがってきて
目の前がまっくらになりました

気がつくとぼくは寝ていました
お母さんの買ってくれたパジャマを着ていました
だけど変に頭が冷たいのが夢の中と同じでした
暖かい布団にくるまってぼくはひとりだと思いました
               (不法投棄)

死んだ者には顔があるよ
ものの形をしているけれど
ひとの形はしてないよ
グチャグチャなのも
キレイのも
みんなみんな
光るところは光り
影は無に至るまで

                                 (旅[3])

 少し注意しなければならないが、これらは病的な表現、あるいは表現の病なのではない。これらは明確に統御された、「病者の光学」を掌中にした主体による、ある種したたかさをも予感させるような「病の表現」なのだ。病のこちら側も、あちら側も知っているという意味では、皮膜危うい地点につま先立ちしているようだが、病の「こちら側」にいたとしたら、その瞬間には、とてものことにこんなふうに書けるものではない。じぶんの病を静謐なまなざしで照らし出している、もうひとつの冷厳な目があるのだと思う。そこで、完成や洗練をどこかしらで拒んでいる、どこか、いうなれば「収容」されることを拒んで、表現のそこここをわざと舌足らずにしたり、壊したりしている、ひとつの「こだわり」の形をとった倫理性とも言うべきものが明らかに存在している。彼は詩集のあとがきで、この中でのじぶんの詩がいうなれば「呼吸の形をたどっている」のを発見したと書いているが、この壊れたり歪んだり、また突然アリアみたいに清澄に立ち上がる声の数々は、そうした「呼吸」の内実を物語っているのであろう。
 この壊れや歪みが、そのものの有意味性として鮮やかな着地を見せることもあれば、三回転半ジャンプに失敗してアイスリンクにお尻をついてしまうのに似た光景もある。いずれにしても果敢なことをやっているなという印象は、同世代やもっと彼より若い世代の、詩を書く人たちにおうおうにして見られる、破綻それ自体、狂気それ自体が目的となり果てて、世界にも他者にも、それどころか本質的には自分自身にさえ関心を向けない、一部の詩の傾向とは一線を画しているということだけは指摘しておきたい。石川自身にそうした「破綻」や「狂気」があるとしても、それは彼らとはかけちがって、何かしら具体的なものの感じ、手応えがあると言ったらいいか。詩、それ自体が目的の詩などに詩はない。宗教それ自体に向けられた祈りがないように。石川もそのウェブログで言っていたが、私たちは自らが立ち帰り、自らをそこで立て直す場所として、詩を理解していたはずである。彼はあるアンケートの《この世に『詩』がなかったら》という問いに対し、「もしかしたら無くても生きていけるかもしれない。生きている事自体を詩のようにしてしまいたい」と答えている。彼にとってその、つまり詩の現れは、世界(=他者)を含んだじぶんというものの救抜のイメージを伴うように、私には思える。この苦患に満ち、ついに自己崩壊を開始したノモス的世界からの救抜という。

宇宙が
川の底から
たくさんの
見えない電流
僕に
かすかに
あながち
世界は続いたからね

手紙をおくる

誰に

鏡のように
虹に見えたのは
ネオンから
放たれる無数の
悲喜
                                (いいんだ)

しまったな、と
まぶたがつぶやいたら乳白色から
とうめいへと移行するビルを
つきやぶって
完全な朝が歩いてきてわたしのからだに
おおいかぶさった
さああ
                               (夢/全行)

 言葉こそ、歪み、つっかえているが、また一瞥いかにも不格好に見えるが、私はこれらに意外に鮮烈で華麗な、一人の若い「詩人」の誕生を見る思いがある。「いいんだ」で言えば、「鏡のように/虹に見えた」ものが、波浪のような人々の「悲喜」であるところ。唐突な例だが、私はここに、今は筆を折った堀川正美などをはるかに想い起こす。「夢」について言えば、「完全な朝が歩いてきてわたしのからだに/おおいかぶさった」など、方向はいわば逆だが、次のごときアルチュール・ランボーの匂いさえ、ふと感じた。「ぼくは、夏の曙を抱いた。(………)道を登りつめたところの、月桂樹の森の近くまで来て、ぼくはなお幾重ものヴェールごと彼女を包み、彼女の巨大な肉体を微かに感じた。曙と子供は森のすそに倒れ込んだ。」(『イリュミナシオン』中の「曙」〈Aube〉=渋沢孝輔訳)
 こうして見ると、堀川正美やランボーやの、夢見られた言語としての詩(そういうものがあるとして)とは、まったく奇矯ではない、滅裂さの追求が目的などではない、自体としてはごく普通の語彙と文法で書かれた奇跡という印象がある。彼らは世界を破砕したのではない。彼らは壊したのではなく、彼らの言葉(ロゴス)でもって世界を分割したのだ。これは、実に当たり前の話であるべきなのだが。
 石川和広の言葉の壊れや歪みは、彼の世界をそのまま反映したというものでなく、恐らく世界を分割するための予感的な微細動のようなものであろう。そして詩集のページを繰って行くと、思いがけない光景に出くわすことになる。「ぼくのカラダをさがして」を、ここで少し詳しくたどってみたい。
 ある日「ぼく」は、じぶんの胸に穴が空いた実感をまざまざと覚えて慌てるが、胸をどんと叩くと穴は空いていない。次の日は右腕がなくなったので、驚いて119番に電話をかけようとするが、電話を持つ手を見ると右腕である。また次の日はコンビニエンスストアで膝から下の感覚がなくなって、視野が下にさがり、はっきりと膝から下が消えている。パニックに陥って混乱するが、よく見ると膝から下がぼんやりとある。病院に行き、老師みたいな医師と禅の公案のようなやり取りの後、さっぱり分からずに家に帰って半月、ふいに「ぼくの体はここにあるのにぼくのカラダはどこに行っているのだ」という、まるで落語「そこつ長屋」の「抱かれてるのはたしかにおれだけれど、抱いてるおれは、いったいどこのだれなんだろう」という下げに酷似した、「問い」の形をとって落着する(ちなみに、この「問い」やそこつ長屋の下げに見る言説は、現代思想の重要な部分をなす立論に同じといえる)。彼は感覚の錯乱に落ち込んだというよりは、具体性というものを喪ってしまったのだ。そんな日々のなかのある夕暮れ、彼は次のような体験をする。

ある日 夕暮れ川べりを散歩していたら
カン高い女の子の遊ぶ声がひびきました「こっち!」「こっち!」
どこだろう? 少し涙が出ました
                  (ぼくのカラダをさがして)

 はなしを大げさにするつもりはないが、私はこの「声」に、アウグスティヌスがキリスト教へと回心するきっかけとなった「声」と同質のものを感じるのである。それまでマニ教徒であった三十二歳のアウグスティヌスはある日、キリスト教徒の友との改宗をめぐる対論の後、混乱した心を抱えて家の近くのイチジクの木の下まで行ったとき、隣家の子供の「取って、読め」「取って、読め」(Tolle, lege.)という、うたうような声を聞く。彼はそのあと部屋に戻ってパウロの書を「取って、読む」のだが、重要なのはこのときアウグスティヌスが言いようのない平安と光明を覚えたことだと思う。キリスト教であるかどうか、ということでさえ、あまり重要なことではないと、暴論のようだが言ってしまえると私は考えている。ブッダのニルヴァーナや、修行中、箒に当たった石が飛んで火を発したことで頓悟した禅僧の話や、またゴゼや盲僧語りの数々における口舌に、死者や英雄や神の声を親密な倍音のように聞き取ること、ほか、数え上げれば切りがあるまい。誰にでもではないが、ときおり人にやって来ることのある、このアンティームな訪れ。一方では宗教体験であるけれど、他方では世界を分割する契機、哲学とも詩的体験とも括れないような神話的で不思議な時間であろうものに、彼は、石川和広は、確かにこの夕暮れ、出会っていたのである。

悟りきったように
雨だった
鉄錆のトタン屋根血のように
濁った生を洗い流した素直に生きることを
問う
あなたには力なく頭を下げた
ぼくは限りなく人を差別する
よく見ると晴れていたあまたの神が口の端に笑みを残し
空にたくさん浮いていた
                      (天候/全行)

 「あなたには力なく頭を下げた/ぼくは限りなく人を差別する」という二行に胸を衝かれる。宗教的なものに通じるようにも感じるが、実は宗教や倫理の成立そのものの根幹に関わる海深を窺わせる。ここにあるのは恐らくキリスト教的な愛や原罪感ではない。ノーマライゼーションが一種の尖端思想の様相を帯びてきた現在、愛ではなく、すべての絶対性を撥無しながら、かついかなる否定性でもない「無」という考えがにわかに重みを増していると思う。いま世界を覆っている災厄のみなもとは、父性的なものの喪失ではなく、母性的なものの危機にあるのだと私は考えている。石川はホームヘルパー二級の資格を持っていて、発病以前は福祉関係の職に就いていたという。そこにこころざしも手応えも感じていたという。病気によってそれは断念せざるを得なかったけれど。そんなこころざしを持つ、しかも自ら「障害者」となる命運を負わされたひとつの鋭い稟質が、否も応もなく透視してしまう眩むばかりの深淵を、私は思ってみる。まことに「一人で考えるのは/やさしいことじゃない」(空と犬と)のだ。「あなたには力なく頭を下げた/ぼくは限りなく人を差別する」。この二行はそんな深みから発せられた、痛烈で美しい歌といえるのではないか。


「メタ」十六号 2006・5月
Posted at 11:16 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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