Jan 04, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート2  ―風流、あるいは詩的であることについて


 森鴎外の『渋江抽斎』のなかに、風流韻事のことにひどく五月蠅いらしい喜多村某が、抽斎の友人である芝居の見巧者、二世劇神仙・真志屋五六作とその一党を漫罵して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」等と云ったとある箇所をみる。ここで鴎外は「風流をどんな事と心得てゐたか」と、いささか色をなして糺す。彼は言う。「わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。」
 三世劇神仙の称を五六作から譲られた抽斎のことだから、もとより風流韻事のことについて昧(くら)いところがあろうはずもないけれど、このエピソードは彼がいたずらに高踏的なものに価値を置かなかった事実を物語るのみならず、角兵衛獅子の訪れのごときにある種のエピファニー(顕現)を見ていたといった感じがしてならない。これは私の想像だが、おそらく角兵衛獅子にしてそうであるのなら、季節や節気の巡りの度にイエの門先にやって来たであろう、六部の鉦やぼろんじの尺八の音、また祭文語りの詠唱に、抽斎はまぎれもなく「詩」を体感していたのではないか。
 私の子どもの頃くらいまでは、二十四節気に準じた小さな祭礼がそれぞれの家でおこなわれていた記憶がある。生まれてから小学校の三年まで、川崎の今で言う高津区にいた。たしかタナバタの篠竹はツダヤマまで数キロの道のりを歩いていって採って来、ツキミの薄はタマガワの河原まで行って調達したのが毎年のことで、その仕事は姉と私という、子どもたちがおこなうべき小さな賦役とされていた。正月には私たちの親のような大陸引揚者住宅の住人の戸口にも、土地の獅子舞の獅子はやって来て、大きな予祝の噛みつきの口のなかで、私たち子どもはひとりひとり恐れて泣いた。
 当時のちんどん屋は現代に生き返った漂泊芸と言うべく、新開店の宣伝というよりはその店のコトホギの性格が強かったという意味合いで、唱導芸人や説経語りの部類に入れられると思う。構文論になずらえて話すとするなら、そこでの本地の神は、いわば主文から脱落したと見えるだけで、実は形容詞や述語、また一文の現象面ともいうべき活用性能にあたるところの、きらびやかな衣装や常人とは極端に掛け違ったコトヨウの化粧、音曲や律動をともなう身のこなしといった具体性の細部に、まさに示現していたのである。
 地元には、顔にそれなりの皺は刻まれているのだが、ついに肉体的にも精神的にも「大人」になることのなかった「ミゾノクチのヨッチャン」というclowneryがいて、ちんどん屋が来ると一種の恍惚状態になり、彼らのお株を奪うような身のこなしでどこまでもどこまでも跡をついてゆくのであった。たぶんその光景に見入っていた私などは、振り返って顧みるに抽斎の「詩的」なるものとそう遠いところにいたのではなかったと思う。即ち抽斎と同じく、この何ものかがしきりに生起している現場に立ち会っている私は、一個の「高踏的」なる傍観者ではありえなかったはずである。
 いわゆるアンガージュマンとはちょっと違うと思うが、この、共に何かしらのただなかにいる感じ、引き込まれる感じを詩的と称して差し支えない気がする。これを現代の文芸としての詩にひきよせて考えれば、たとえば批評的なものであれ芸術的なものであれ、どちらが正しいどちらに価値があるとかまびすしく論じる前に、この何かしらのただなかに引き込む、引き込まれる、という側面が存在しなければ、メッセージ的であろうが耽美的であろうが実験的であろうが、そもそもの論の立てようがないのだ。
 この詩的ということは、われわれがこの世界に具体的にいる感じと密接に繋がっているように思う。だいたい、具体性というのはどういうことかというと、なんで氷のうえをスケートの刃が滑ることができるのか、あるいは蛍光灯の発光のメカニズムについて、いずれも科学的・論理的に説明することが不可能である等の意外に奇妙な現実と関連している。精密機械の特殊な部品が、いまだに職人の手業に頼らざるを得ないという例など、興味深いものがある。
 ある数値は、その数値が前提する観点からのみ可能な、現実の切り取りに過ぎない。いわば同義反復であり、ある意味で人間はこういった環境を、みずからの周りに自然破壊的に営々と築いてきたとも言える。だが、計測は現実の翻訳に過ぎず、概念や数値を積分していっても微分していっても、そこに捕らえきれない光のように必ず漏れ出てゆくものがある。あるいは積んでも割っても、概念操作と数値という表象によっては、絶対に現実と同形になることはできない。机上のことでなく、現実の用に充てるたぐいのことは「下駄を履いてみるまで判らない」のである。じつに具体性の現実というのは秘密に満ち充ちていて、しかもその秘密は、すぐ手が届いて触れることが出来るほどにもさりげない傍らに露頭しているものなのだ。おそらく詩的ということはこういったことに関する、気づきと驚きの方角からやってくると思う。誤解のないように書き添えておくが、宗教的なものが即ち詩であると言っているのではない。詩的なものと宗教的なものの根源に相通うものがあると言っているのだ。それらはあらゆる諸芸術と諸学の却って根源をもなしている。
 抽斎は大名行列を観ることを好んだそうである。そして各大名家の鹵簿(ろぼ)(行列の内容)を暗記して忘れなかった。武鑑(大名旗本の名鑑)に着色などもしていた。この嗜好は喜多静廬(せいろ)が祭礼を看ることを喜んだことと頗る似ている、と鴎外は言う。抽斎とそう時代を隔てない富岡鉄斎なども太秦の牛祭り再興に尽力するごとき、抽斎に似たところがあるが、総じてこの頃の人々にとって風流という名の詩は、今のわれわれよりもはるかに身近に在ったようだ

    07/06/05
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Aug 28, 2007

宗教・神話・詩論

大木重雄詩集『山谷堀寸描』寸感 ――わたしが消えれば その記憶も消えるのだ


 大木重雄さんとはいつのころよりか、消息を交わす間柄となった。私よりお年嵩というも愚かな、この謎にみちた「La Vie」上の先達で、おたよりの筆跡から推して、鶴のような方、と、勝手に思いなしている。電話で話したことや、お会いしたことはない。歌舞伎が尋常の好きの域を越えていて、推理小説フリークとおぼしく、銭湯や居酒屋に目がなく、見知らぬ街をわけもなくさまよう趣味があり、少しミザントロープ(人間嫌い)の気があって、女色に潔癖、厭世や皮肉の色も交じり、しかも肉が苦手、英語がご専門なのになぜだかフランス語に熱中して斯界に堪能、また音楽(クラシック)なくしては夜が明けない趣味人の、なによりも江戸っ子であると、こう書いてゆくと、酒のご趣味を除いてはまるで岡本綺堂見たような人ではある。ここに詩や文芸の嗜好を加えないのは、詩人にとって詩が趣味ではありえない事情と軌を一にしている。この「索」誌上に十五回の連載を先号で完結された『回想の牧章造』を、はじめから拝読してきた(息をつめるようにして)身としては、敗戦後すぐの学生時代から現在に至るまでの六十年余、詩や小説を書き、発表してきた大木さんに、翻訳書のほか、一冊の作品集もないというのはまことに意外なことで、しかしひるがえって、実に容易く詩集などが出版される昨今を勘案するに、このことは含羞深い大木さんの持つ謙譲という名の気高さと、かつての出版界のむしろ健全さとを思うべきなのかも知れない。
 その大木さんが詩集を出された。ご自身は「パンフレット」と謙遜されるが、さきほどのお人柄の形容に従えば、鶴の羽のような印象の清潔簡素な詩集である。Ⅰ部とⅡ部に分かれ、Ⅰ部は五つの詩篇とあいだにはさまったインテルメッツォとも言わんかの四つの散文、Ⅱ部は百十三行の長詩、という組み合わせから成っている。わずかずつの内容の違いによって構成されてあるようだが、かえりみればすべてが山谷堀を中心とするひとつの幻影と、そこが絶対的に失われることの契機となった昭和二十年三月十日の東京大空襲を深い角度で指し示す、いわば「おなじつらなる」品々と見てさしつかえない。それにしてもここにひろがる寂しい明るさはなんということだろう。その寂しさには一切の湿り気というものが存在しない。そしてここにある、私が読んでも感じられる不思議な懐かしさは、山谷堀で大木さんが過ごした少年時代の具体的な物事や出来事のあれこれについての共感覚というよりは、詩人がそれらのことどもを捉えるアプリオリな視線や手つきの中にその秘密が隠されているような気がする。いわばその懐かしさは永遠のほうからやって来る。
 とはいえ、表紙の装丁の戦前の地図や本文中に出現する、吉野町、今戸町、待乳山聖天、象潟署、吉原病院、馬道等々の名辞に、息を呑むような濃密な思い出に似たものを思わずも覚えてしまうのは、若年のかつて、意外に深入りした江戸趣味や、戦前の小説、ことに鴎外綺堂荷風、夷斎石川淳などの卒読の記憶が暮れ残っているせいかもしれない。
 詩集を披くのっけから、ダガバジジンギヂ老の「留守じゃ 留守じゃ」の、座禅で言えば十棒ほどを振舞われることになる(「待乳山聖天」)。声はするが(無い声を聞いたのかもしれない)老はどこにもいない。「小高い境内には誰もいな」くて「堀そのものがすでに消え」ている。この作の中で「いくさ」という言葉はたった一か所。「立ちすくむわたしも/生き永らえた誰かの夢かもしれない」という、詩集全体の結論のような言葉がすでにして劈頭に提示されているのを見て、「あとがき」にいう「幻想レクイエム」の意味するところが、なんとなく感得された気が私にはした。「いくさ」の紅蓮をレテの河のように隔てて、ここには生起し、展開し、終末に流れるといった性格の「時間」が存在しないのだ。永遠とも、無時間と言っても同じことだが、「わたしが消えれば その記憶も消える」(「山谷堀尋常小学校」)他人が見る夢のごときもの、誰でもがそうであるひとりぼっちという青い虚空がひろがっているばかりなのだ。「地上とは思い出ならずや」(稲垣足穂)とは大木さんがつねづね好む言葉である。老や聖天社や「いくさが裂いた男」に会うためには、切ないことに「五億年」ほど経ってから出直すしかない(高橋新吉「るす」による)。
 そういえば、私がみずからの病について触れた詩集をお送りして、その感想をいただいた折、他の作品については大いに書いていただいたのが、病に関するところについては、お互い明日はどうなる身とも知れないのだし、このことについてはまあ余り話すのも野暮なことという意味の文言をいただいた。そのときはご高齢であることと足がお悪いことなどから来た言葉なのかと生半可に納得したが、じぶん自身に病から生還したことの意味とその恐ろしさの実感が徐々にやって来て、この詩集の真のテーマである三月十日の大木さんの体験と、みずからのそれを重ね合わせたとき、大木さんがどんな風にこの世を眺めているか、その眼にこの世界がどう映っているか、判ったような瞬間があって、肌が粟立った。大木さんは本誌三十九号に載った『回想の牧章造』(十二)で、原民喜の『夏の花』の部分を引き、その「死者の眼」による原爆投下直後の惨状描写を「作品が閉じている」として批判されている。大木さんは自ら進んで思想詩や原爆詩を書くという発想は、いままでもこれからも決して持たれないだろう。それらは多分大木さんにとっての「詩」になじむテーマではない。さっき三月十日が真のテーマと言ったが、集中それの具体的な描写は一切無いと言ってよい(Ⅰ部の「赤門寺跡」と、さいごの「むせる新聞」にその気配はあり、ことに「むせる新聞」には最も激しいアクチュアリティの表出がある)。具体的な描写はないけれど、しかしコンパスの針のように集中のすべての表現の指向性は三月十日という極北にむかって常に震えているのであって、やはり戦後の大木さんには「死者の眼」がどこかにつきまとう印象がある。けれどそれは他者に向けられた虚無という形をとらず、自らを限りなく相対化するまなざしという形をとる。思えばその含羞も謙虚さも、少しの皮肉と清潔な寂しさも、三月十日体験という格子(グリッド)を通すことによって、ああそういうことなのかと私には大きに腑に落ちるところがあるのだ。そんな大木さんが、譬えは悪いが斎藤別当のように老骨に鞭打って、けれど恋文のようなひめやかさも伴って、書置きみたいにこの『山谷堀寸描』という「戦争詩集」を出されたのだと私は理解している。
 「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」(「山谷堀寸描」)慕わしい他界に似た界隈と生活。四歳で逝った音楽の精霊のような弟、「島牛乳会社」の煙突、「オビシャ」(お毘沙)の甘茶(「正法寺」)、「埃まみれに眠る薬種屋」の小さな河童の格好をしたウオーター・ボーイ(「泪橋」)、戦前の下町にあった月見の習俗(「中秋」)……。「時」に堰をもうけることなどできず、十万虚空は悉皆消殞して、戦前の生活と風景だけが細やかで非現実的な蒔絵の図柄のようにひとりぼっちの幻想として残される。その光景が寂しければ寂しいほど、大木さんにばかりではなく私たちの眼にも、鋭い慰藉と甘さを湛えて映るのは、大きな何かが壊滅した後のような、そんな「現在」に対するわれわれの深い絶望感と、多分無縁ではない。
 詩集のさいごに大木さんとおぼしき白襟の小学生の写真の一葉を見るが、お会いしたことのない大木さんの想像の風采とあまりに一致していたのには、ふたたび肌が粟立った。


「索」43号(終刊号、2007・5・31)所収  
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宗教・神話・詩論

寺田操・高堂敏治著『酒食つれづれ』詩話  ――解酲子飲食番外

 酒食のことを書いてはおられるが、この本の著者であるお二方は本来詩人であるので、酒食エッセイとはいえ、詩のことを経糸(たていと)にして感想を述べてゆきたい。事実詩は、本文中にしきりと顔を覗かせているのである。
 この本の本篇をなす「酒食つれづれ」は歳時記仕立てになっているので、冒頭をかざるのは当然、おせちや雑煮といった正月料理である。いっぱしの酒徒を気取るようになってからは別だが、子どもの時代、私の目に正月の食卓はそれはそれはすばらしいものに映った。今に比べ、もとより大層なものが並んでいたわけでは決してないはずである。にもかかわらず「正月にはお年玉をもらい、雑煮を食べたり双六やカルタで遊ぶのが、なによりの楽しみであった」(高堂)、「餅つきは、餅つき屋の指導で我家の庭で行われた。(略)大人も子どもも総出で餅をまるめるので、大小さまざまな形になる。自分でまるめた餅でお正月の雑煮を食べるのは、子どもごころにも楽しかった思い出だ」(寺田)といった特別な心持ちは、料理の味までも本質的に変えさせた。と、こう言葉で書けばこれっきりだが、そこには「「happiness」は「happen」という言葉に語源的なつながりがあります。突然、思いも掛けなかったような形で、神のおぼしめしが与えられた、という意味がこめられています」(中沢新一)という状態に似た、常ならぬ光明にみちたものがあったのだ。ただし、私の場合、酒は極端なからくちに傾きがちなので、おせちのあの甘い味付けや雑煮の主食っぽさを厭った時期が長かった。今はまた別だ。
 鰤のことを言えば北陸出身の高堂さんの前で、可成りに忸怩たるものがあるのだが、関東で、私の子どもの頃などには大ごちそうであった、照り焼きやハマチの刺身で知っていた鰤の、その常識を打ち砕いたのが、金沢で出会った鰤である。重厚で、はなやかで、それでいてどこか幽かに泥臭く力強い味わいは、金沢の他の料理や菓子、文化・芸事、宝飾にも通うものがある。ところで寺田さんが京都の冬の風物詩として紹介されている「塩ぶりの焼いたん」は、金沢の鰤に比べて一見雑駁で荒っぽいように思えるが、じつはおそろしく洗練されたものがありはしないか。ちなみにここで「ぶりは、東京では、わかし→つばす→さわらなどと呼び名を変えて」とあるが、「さわら」は「わらさ」の誤植であろう。
 「湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな 久保田万太郎」という句を挙げて、湯豆腐のはなしをするのは寺田さんである。久保田万太郎の、豆腐というよりは湯豆腐・熱燗好きはきわだっていて、湯豆腐の句は五句、熱燗に至っては生涯にじつに十四句をかぞえる。万太郎はどうも甘辛両刀遣いだったみたいで、焼芋なんかも六句ばかり詠んでいる。それはともあれ、問題は湯豆腐である。万太郎句に「湯豆腐に一も二もなく承知かな」とあるように、酒飲みならば、冬に湯豆腐とくれば、どんなにうるさいやつでも大抵は黙らせることができる。それで、昭和三十八年の死の最晩年の吟に「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とあるごとく、傘雨万太郎七十四翁、辞世のさいごまで湯豆腐なのである。じっさい自分が湯豆腐で飲んでいて、そんなような心持ちになることが、ときたま、ふっとは、まあ、ある。ところで「まだ煮えてこぬ」の句は、芭蕉の、これも晩年の「もののふの大根からき(にがき)はなしかな」をかすめたような気がするのだが、どうであろうか。
 高堂さんは摘み草について、こんな思い出を書く。「農作業の忙しいこの時期、蕨採りは子どもの仕事。山遊びが好きな私は、独り奥山に入り、陽が落ちるまで、蕨採りにあけくれた。両親はいちども捜索願を出したことはない。牧歌的なよき時代であった」と。たとえば子どものものであるわらべ唄や遊びの形のなかに、非常な文化の古層がしまわれている例はしばしば指摘される。春の摘み草などもこの例に漏れず、かつては子どものほかに女性たちが、さらにその昔には男たちも、野に出(いで)て摘み草をした。野遊び、というやつである。手近なところでは、百人一首にある「君がため春の野に出て若菜摘む」の和歌とか、万葉集劈頭の「こもよ みこ持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児」とかの歌謡に顕著だ。それはたんに、邪気をはらうヨモギなどの聖草を摘みにゆく、という以上に、「遊び」が神事の義をも具しているごとく、里から離れた山野に隠れてちょっとした潔斎状態に入ることを意味している。高堂少年も奥山に分け入るとき、少し酔ったような状態に没入していたのではなかろうか。「牧歌的な」とは言うけれど、往昔しばしば子どもが神隠しに遭ったその事由も、なんとなく偲ばれる。
 寺田さんはあんまりお好きではないみたいだけれど、高堂さんはイカナゴの味に季節を感じられるようである。尤も、イカナゴの便りに春を感じるのは、阪神地区にお住まいらしい寺田さんも同様であるようだ。こういう感覚は関東人にはあまりなじみがない。イカナゴはカマスゴともいうが、お二人が住されるあたりの季節感なら『猿蓑』歌仙の次の運びに、その本情は十全に発揮されていると想像する。

乗出して肱(かひな)に余る春の駒       去来
摩耶が高根に雲のかゝれる       野水
ゆふめしにかますご喰へば風薫(かをる)    凡兆
蛭の口処(くちど)をかきて気味よき      芭蕉

 詩の言葉の力というのは顕著なもので、これらの句の運びによって、東京の居酒屋などで、いくら春のものだからといって釘煮などを出されても、京阪人が感じるようなこっくりとしたイカナゴのあじわいから開闢してゆく雄大な眺望というのは、ここには全く存在していないものなのだな、ということが納得される。
 さて、初鰹である。高堂さんは「なんといっても」たたきだと言い、寺田さんは刺身のほうに軍配を上げる。私はといえば、脂の強い十月頃の戻り鰹はたたきにし、まだ脂のない清新な、とも形容できる初鰹は、「なんといっても」刺身にとどめをさす。女房を質に入れても、と言われる江戸の初鰹は、現在の物価に換算して、低く見積もっても一本十万円くらい、高いところでは二、三十万ほどしたらしい。川柳に「寒いときおまえ鰹が着られるか」というのがあるが、今の季節には必要がないからといって、女房とは言わないが、袷や綿入れなどのありったけを質屋に入れ、初鰹の料にする、ために発生するせまい家でのこんなやりとりがリアルに偲ばれる。鰹は江戸のそのかみは芥子酢で、そして刺身で食したらしいが、同じころ、上方で初鰹にこんなに血道を上げたことを聞かない。鰹のもっとも繊細な味の区別は刺身でわかるのだが、この四、五年、鰹の味がいちじるしく落ちてきている気がする。どんな新鮮なものでも、血と脂のにおいが鼻につくのだ。海で何か起きているのではないだろうか。
 ところで、酒や蕎麦やまたその両方が苦手な向きには永遠のアポリアである酒と蕎麦の相性については、つまるところ蕎麦好きの酒飲みのなかに、うるさく講釈を垂れるやつがいるからいけないのだ。本来蕎麦に酒を合わせるのは江戸の嗜好で、合わせる蕎麦は蕎麦切り、つまり麺の状態になった蕎麦である。なぜか酒が冷やなのはファストフードとしての蕎麦っ喰いの名残だろう。すなわち気ぜわしない江戸っ子が燗がつくのを待ちきれずに冷や酒を啖い、胃袋がきゅーっとなったところで蕎麦切りをたぐって、飯台に銭を叩きつけて屋台や店から出ていったのだ。これが原型で、焼き海苔だの蒲鉾だのやきとりだのは、後生になってからの付けたりにすぎない。寺田さんが岐阜で出遭ったという災難は、蕎麦掻きに酒という取り合わせに尽きると私は考える。蕎麦掻きに酒なんて、すいとんでからくちをやるみたいなもので、寺田さんでなくとも胸焼けするようだ。もともと蕎麦と酒は連句における付合・寄合のようなものといえる。付合・寄合とは、弁慶といえば薙刀、赤穂といえば仇討ちのたぐいのことである。そこには必ずしも有機的・内在的な連関が無くてもよい。昔読んだ立原正秋の小説の中に、鎌倉の僧坊にいる僧が、友人の作家に蕎麦を打ったのでおいでくださいと招く場面があって、それなら酒を酌みましょうと、作家がスコッチを一本提げてゆく、というくだりがある。蕎麦には酒、気は心で、酒でさえあるならば清酒でなくともスコッチで一向かまわない。私はそこに、形のないイデーにまで高められた蕎麦による簡素な宴、純粋飲食(おんじき)、とでもいえるような、立原の美学を感じるのだ。当然、蕎麦はたぐって啜る蕎麦切りであろう。
 さて、酒と言えば、寺田さんは1516年のヴィルヘルム4世によるビール純粋令に触れられているが、このような法令を下さなくてはならないほど、ドイツの酒は混ぜものが多い、という例をもうひとつ。こんな小話を聞いたことがある。ある有名なモーゼルワインの大醸造家は、製法に工夫を凝らしてこんにちの地位を築いたが、寄る年波には勝てず、病の床に伏した。いよいよ臨終となって、彼はすべての人を遠ざけ、跡取りの息子だけを呼び寄せてこう言った。「お前にだけは言い残しておきたいことがある。いいか、せがれ、うちのワインには秘密がある。それは、うちのワインの中にはブドウも入っとるということだ!」
 「金色のウィスキー」の高堂さんの文章を読んで、なんと無茶をするものかと思った。「冷蔵庫でキンキンに冷やし、ストレートで飲む」なんていうことは、いくら胃が丈夫でも、少し続ければその結果はおおむね想像できる。もっとも、さらに胃が丈夫であったら、倒れるくらいではすまない事態に立ち至ったはずである。同じ見開きに寺田さんが書いている田村隆一先達がそうだったので、長寿に属するとはいえ先達を襲ったのは、生(き)の強い蒸留酒を愛好する人をしばしば蝕む、食道や咽頭に出来る悪性腫瘍だった。「きみが眼ざめるとき/どんな夢を見る?/青いライオンに追いかけられて/地の果てまで?/それとも死んだ男と抱きあって/金色のウイスキーを飲みながら漂流する?」(「飛ぶ」)。寺田さんが引いた田村先達のこの詩句、若い頃は気づかなかったが、どうもヘミングウェイの『老人と海』における最後の一行のイメージと重なるようだ。「老人はライオンの夢を見ていた」(The old man was dreaming about the lions)。この精神的なマッチョ、ダンディズムは時として夢見るようなまなざしでうつくしい幻影を追うことがある。1976年刊の『詩人のノート』には、上記の詩を引いたあと、大阪のイヴェントで飲みに飲み、大阪のアメリカ文化センターはじまって以来の「最高のエンタテインメントを演じた」翌朝、東京(鎌倉?)へ帰る新幹線の車中でのことを次のように書く。これは「ライオンの夢」の続きといえるだろう。「食堂で、金色のウイスキーをのみつづけ、小田原をすぎたので、席にもどったが、いつのまにか眠ってしまって、二十七、八歳の女性の、しみとおるような優しい声、「着きましたよ、着きましたよ」。やっと目をあけたときは、その女性のうしろ姿、ドレスの色しか見えなかった……青いライオン。」
 高堂さんは「濁り酒」の項で藤村の詩を引く。「濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」(「千曲川旅情の歌」)。久々に近代詩を目にした気がするが、案外佳いものだと思うがいかが。衰退しきった現在の詩に比して、藤村のような悶々とした文弱でさえ、張りもつやもあるのがことさら印象深く感じられる。当時は文弱でさえ、濁り酒を飲む姿がさまになっていた。飲酒は本来雅(が)に属する事柄なのだ。詩ではないが、俳句の、それも投稿俳壇で目にとまった句がある。作者の名前ももう覚えてはいないが。

 濁り酒出世頭も鬼籍入る

 濁り酒の詩語としての本情を尽くして余すところがない。専門俳人の「味噌可なり菜漬妙なり濁り酒 四方太」などもこれに遠く及ばない。私が購読しているのは朝日だが、投稿欄には時折こんなことがあって、次の句にもひそかに唸らされた。

 満月を見て春窮のさなかなり

 こちらに覚悟を迫ってくるような句ぶりといえようか。春窮とは、たくわえていた冬の食糧が底をつき、しかもまだ春の収穫が期待できないときのことをいう季語。しかしこの満月に作者は、なんと曇りなく鮮明に対峙していることだろう。月のかがやきを食べて人間を回顧しているかのようだ。
 ここにも純粋飲食はあり、濁り酒でもビールでも安ウイスキーでも焼酎でも、高堂さんのふるさとの、立山、銀盤でも、なんでもいい、月明の下で悉皆平等である。そこにはなんだか、鬼籍に入っているやつも、生きているやつも、入り交じり、ざわついて立ったり座ったり、赤いギンガムチェックのシャツの、長身の、老いた、詩を書くよっぱらいが、顔をしかめながら猥談を隣の娘にささやいて、かんなぎ髪の女将に叱りとばされ、神隠しに遭って人生の中に消え去った少年や少女、雪女もいて、夏の木陰、蕨やよもぎ、冷たいグラスやゼリーの彩りの瓶がきらきらと光る宴会の大テーブルの端っこで、だれかが「しっ静かに」と言ったあと、風のような音楽が始まる……金のライオン。

         
(『酒食つれづれ』白地社刊、2007年7月、1300円+税)
「索通信」1(2007・8・15)所収     
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Aug 06, 2007

宗教・神話・詩論

華厳の森
     ―田川紀久雄詩集『見果てぬ夢』について

 お見舞いに行ったり電話で話したり、これまでの付き合い方と違ってきた最近になって判ってきたのだが、田川紀久雄さんと私とは、時代は十年ほどかけ違いこそすれ、意外にも同じような地域で少年時代を過ごし、そして彼が川崎の鋼管通り(浜川崎)に移ってきた現在も、鶴見に住まいのある私と似たような土地や町の風土感覚を共有しているといっていいのである。いうなれば「同じ京浜地区の空の下」といった感覚ででもあろうか。
 そしてもうひとつ、「よく判る」こととは軽々に言うべきではないのだが、私も彼と同じ病を病んだことがあるという事実がある。もちろん胃と肺、末期とⅢ期といった具合に、病気の部位もステージも病像も異なりはするし、同じ病でなければ詩集を評することはできないなどと言おうとしているわけでもない。この詩集、『見果てぬ夢』について、当然違う見方も接し方も出来ると思うけれど、その共感覚・共苦についての(生還者たる)私の心のふるえを伝えることは必ずしも無意味なことではないと考えるのだ。いわば、そのように書かれて手渡され、読まれた詩の在り方として。
 詩集には収められていない作品だが、この「操車場」創刊号の彼の詩にこんなくだりがある。

生きている者だけが
影や光を感じ取っているわけではない
この地球のすべての生命体が自覚し合いながら
生きている生命や死者達の魂と呼吸し合っている
一瞬という永遠の無の中ですべてが息づいている
                             (「永遠の都」より)

 素朴な汎自然論なのではない。「一瞬という永遠の無」云々に見られるように、これらは華厳経の世界にかさなる視点と言うべきであり、生死(しようじ)を無礙とする仏説にかようものだと言える。しばしば批判されがちな田川詩の無造作さや現代詩作品としての防備の無頓着さは、彼の作品をつぶさにその既刊詩集から追ってゆくと、このような匕首のように鋭く華麗な詩行を隣に露頭させている、その同じ鉱脈から成っているものであることが知られる。
 そうかと思えば、読者から見ればいきなり最低のポテンシャルに突き落とされる思いがする、こんな詩行もある。

この前のストライプハウスギャラリーでの
あなたの詩語りは素晴らしかった
それなのにお客は誰一人も集まらなかった
そして私の詩語りの時はたった一人のお客であった
                   (「空がある」より/『見果てぬ夢』所収)

 いいところもあれば悪いところもある、といった問題ではない。何か根本から彼の詩を考え直さなくてはならないような気がする。
 ここで田川紀久雄というひとの風貌や生き方、来し方、芸術の愛し方(一般的に言っても彼の描く絵は詩と違い(!)実際に買い手がつくほどのものだ)、その哲学などを思い浮かべるとき、呼応するように立ち上がってくるある人物の記憶がある。
 彼は私よりやはり十ほど年かさで、いわゆる「自由な」生き方をする若者たちの先達のような存在だった。渋谷の町をねじろとし、昼は名曲喫茶、夜になるといちばん安いやきとり屋で芸術論をたたかわせ、年下の友人の住まいの近くにある養鶏場から生きた老鶏を安く買ってきて、アパートの前の路上で首を刎ねてシチューにしたり、その頃はまだ多かった新横浜の田んぼで大泥鰌を捕らえ、泥臭い鍋にして食ったりした。北條民雄やホイットマン、ギンズバーグ、荻原井泉水などが彼の神で、奥多摩で窯をひらき、陶芸家になったが、ずっと苦労を共にしてきた奥さんは二人の子どもを置いて家を出ていった。私の目には彼の姿は当時のヒッピーとも遅れてきたビートニクとも映り、さらに戦前にまでさかのぼる、たとえば種田山頭火のような風狂の系譜に連なるものでもあった。いずれにせよ、その後の彼の声価や風評がどうであれ、同時代人としての六〇年代の対抗文化(カウンターカルチャー)を体現した、私たちの先行者、ないしは併走者だったのだ。
 振り返って田川紀久雄という存在を考えるとき、これは私だけの感じ方かもしれないけれど、彼のうちにこのNという先輩とじつによく似た面影を見てしまう。かの「ストライプハウスギャラリー」云々の無造作なくだりと、同じ作品でいえば、たとえば「花は枯れることを嘆きはしない/風が吹き/種は風に乗って/自由に飛んでゆくだけだ」という、旧約の「雅歌」や『ルバイヤート』の智慧を彷彿させる詩行とは、それほど違った意識で書かれたものでなく、見た目ほどにはそんなに違ったものとはいえない。これを言い換えれば、病者の書『見果てぬ夢』では特にだが、これらはきわめて「自由に」書かれているコトバたちなのではないか。
 当然喩法にやかましい「現代詩」的にいえば、随分つまらなくも古臭くも散文的にも感じられよう詩句は、しかし視点を変えて、死病に罹った自由人が同時に詩人であった場合にものされた書の中のコトバと読み替えるとき、じつに深々としたホリゾントをともなって立ち現れてくる。「現代詩」の多くがそうであるようなひとつの根本的な衰弱とは掛け違った、悩みも苦しみもあるけれど、その死自体さえ嬉遊の様相を帯びた世界が見えてくる。やはり彼は、私の知っているかつてのNというひとがそうであったように、言葉をいじくるエンジニアみたいな詩人ではなく、どんなに世に容れられず、酷評を浴び続けようと、ひとりの自由な芸術家であったのだ。
 そしてひとりの芸術家のコトバとしてこの詩集を見るとき、どちらかというとまず意味をたどろうと真剣になっている自分に気づく。どちらかというと詩的効果という点から「作品」を捉えようとする戦後詩的なものとは範疇を異にした。

限られた生命(いのち)
日々首を締め付けられている気持ちだ
そのことに対して悲しいとも思わない
いや 限られた生命(いのち)だからこそ
一日一日が楽しく生きられる
どんな些細なことでも
すべてを愛おしく思う

薬罐から湯気が出ているのを見ても
眼に映るすべてのものが新鮮に感じられてならない
もし赤ん坊に大人の感覚があったら
いまの私のように生きている一瞬一瞬に驚きを覚えるだろう

限られた生命(いのち)だからこそ
今が永遠に思えてならない
『貝の火』の中で最後に出てくる言葉
《それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ》*
そういままでの人生の中で
今が一番豊饒な時なのかも知れない
                    *『貝の火』宮澤賢治の童話
                                   (「限られた生命」全行)

 詩法的にはどうあれ、私にもこの感覚は痛いほど判る。一瞬と永遠との区別が無く、刻々と新しく、かついつでも劫初が現前するという、この感覚。生死のきわに立ったとき、そこから恐怖という感情が脱落する瞬間がある。このときに虚心坦懐にものごとが見え、すべてが異様に明澄に感じられることがある。その発見を、詩は教典の詩句を日本語に直訳したような文体で綴っている。散文体ではなく、明らかに田川紀久雄の血肉より発する韻律が感じられるのは、この詩に限ったことでなく詩集の全体に及んでいることはいうまでもない。
 私たちは『見果てぬ夢』の一行一行をまず意味的に追い、それから思わぬ嬉遊とも自由ともいうべき詩的効果を受け取る、いくつかの詩の終結部を見ることになる。

多摩川にも多くの鮎が登ってくるようになった
あなたが夕方見舞いに来たら
新橋の近くの佃煮屋から
鮎の甘露煮を買ってきてもらうよう頼もう
まだいくらかは喰い意地があるうちは生きていられる
                             (「鮎の詩」終結部)

来年まだ生きていたら
多摩川添いの桜をあなたと見にゆきたいものだ
そうそうあなたとみた六義園のしだれ桜は見事だった
来年のことを言うと鬼が笑うというから
桜の話はこれでおしまいにしておく
                            (「鬼が笑う」終結部)

東の空が明るいのに
南の空は黒い
いまにも雨が降り雷が鳴りそうだ
見舞いに来てくれたKさんは
きっと途中でずぶ濡れになるだろう
                     (「ずぶ濡れ」全行/詩集終結部作品)

 私ならこれらの「遊び」のある詩の雰囲気になつかしいものを覚える。戦前から戦後のある時期、非モダニズム的なある種の詩人たちの作風に似通う印象がある。井伏鱒二や高見順、宮澤賢治は当然のこと、尾崎方哉や尾形亀之助ほか、著名な詩人やその詩的業績などいまでは忘れられかけている詩人までさまざまだが、戦争詩を書いて吹っ飛んだ詩人もそこまで生きられなかった詩人も、沈黙していた者も、ある意味で共有していた日本的ボヘミアンの系譜をひしひしと感じる。言い換えれば、この『見果てぬ夢』という詩集にはそうした色んな顔たちが、はるかな記憶のようにひしめいている。
 だが自由であり嬉遊とはいえ、その中では堪えがたい歎きが歎きつくされる。死後までの気がかりは「あなた」や「妹」だ。

死は怖くはない
それより私を支えに生きている人のことを思うと
無性に切なく思うだけだ
                        (「充実した日々を送る」より)

 どういうわけだか、いざとなるとこの気持ちが将来されてくるのは誰しものことのようなのだ。そうだ、死は、私ひとりの死は、決して怖いものではない。仏説にも愛別離苦を八苦の一とするように、残された者のことがすさまじいまでの悲しみとなって頻りに思われてならないのだ。これは、生命が減衰するにせよ横溢して恢復するにせよ、病が終結に向かうに従い、いずれ逓減し、消滅の時を迎える。だが、その根本的な現実が現前しない中空のうちは、深い痛みとなって病者を苦しめる。

老子の教えの「道(タオ)」も
法華経の教えの「さとり」も
死を前にしている今の私にとって
生きる糧とはならない
私は救われたいと祈ってはいない
                           (「何もいらない」より)

 少なくとも田川紀久雄という詩人は、病者は、やって来る心の苦患も躰の(まことにフィジカルな)苦痛も、そのすべてから身を逸らそうとはしない。事実、私はやめたほうがいいと言ったのだが、一日、薬を飲まずどこまで自分が耐えられるか、肉体的な痛みに向き合ったということがあるそうだ。肉体の苦痛は心を蝕むゆえに、私は何の役にも立たないと考えるのだが、おそらく少年のような新鮮な興味をもって彼はそのことに臨んだのだと思う。そういうことと考え合わせるとき、いま引用したこの詩句は、苦悩は苦悩として、しかしまったく絶望の表現ではないことがわかるし、その世界は重くない。彼は愚痴と不平の多い天使みたいに、軽く、自由で、その業(ごう)が「並大抵のものではない」(「償い」)ぶんだけ、却ってその霊位は高いだろう。次の詩を見てみるがいい。その愛別離苦の苦しみも、浸潤の恐怖も、ししむらの痛みからはじまる絶望的な世界観からも、ほとんど独力で脱し得ているではないか。書かれたコトバののちに、同じ苦しみは、慣れ親しんだ心拍のように、夕闇のように、繰り返しまたおとずれるとしても。

胃のあたりが痛むのですが
これはもう死ぬまで直らない症状でしょう
死に際には誰でも激痛で死ぬと聞いています
胃の痛みとは反対に頭はとても爽やかです
病院の窓から街路樹の銀杏の葉の揺らぐ音が聞こえてくると
ああ世の中は幸せなのだなとつくづく思うのです
とはいえ妹やあなたのことを思うと
やはり生きて行く人達は
つねに重荷を背負って生きてゆくしかないのだと思ってしまいます
私の心はこんなに落ち着いているのに
あなたの心は嵐を迎える前夜のような気持ちなのですね
                              (「痛む胃」全行)

 この詩から宮澤賢治の詩「眼にて云ふ」の影響を云々するのはたやすいけれど、私なら賢治もやっぱり同じような心持ちであったのだな、という解釈に傾く。妹や「あなた」への憂苦は、先にも述べた肉体や生命の減衰にともなって漸増する、ひとつの悲というか、大いなるやさしさのうちに解けてゆくようだ。こうして、「己がままならざるもの」は出現して、無数の田川紀久雄とその家族を、このたったいまも、包摂している気がする。
 「好きなように生きてきた」と、彼・田川紀久雄は言う。詩を書く者としての業の深さは彼と選ぶところのない私は、どこか彼に風狂者、かつてのカウンターカルチャー・ムーブメントの具現者たちの匂いを感じてたじろぐことがある。私と彼とは異なるが、彼はいつまでも私のなつかしい先行者、何かに対して必死でたたかい続けてきた同志なのだ。永遠の華厳の森にいる痩せた聖者のような。


「操車場」3号(2007・8月)掲載
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Jul 27, 2007

宗教・神話・詩論

食物語彙考


 言葉には熟す・熟さないということがあって、折口信夫の昔風に言えばその「表現性能」に随分と関わっているようである。表現性能とは、言い換えれば、その言葉が実現させる感覚的側面とでもいおうか。これを考えるうえで都合の良いのが食物に関する諸語彙だと、私は思っている。
 例えば甘いものをとってみてもよい。単に、もち、というのでなく、駿州安倍川名物のあべかわもちとか、吉祥の意を冠しただいふくもち、というように、大元のものよりも個別化、限定化された言い方のほうが、感覚的な側面がより具体的なものになる。むしろ、ここから「もち」が取れて、あべかわ、とか、だいふく、とかいう言い方をおこなっているのがわれわれの具体性の現状ではないのか。この場合、あべかわやだいふくは「もち」が付いたものより、より熟しているコトバといえる。「もち」が付いたものよりこっちのほうが、練れて、具体的で、旨そうな感覚をわれわれに与える。しかし、言語のレベルから言えば、これらのもののほうが、より原義・原形的なコトバから遠いものとなっていることは、注意しておいていい。
 同じような、地名や寺号、固有名詞に係る、(料理法もふくめた)食物の名辞のことを、他に思いつく限りで考えてみると、おぐら(餡)、やながわ(鍋)、なんばん(漬)、おでん(でんがく豆腐)、すいぜんじ(海苔)、どうみょうじ(糒=ほしい)、きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)、たぬき(蕎麦)、しっぽく(饂飩)、すあま(州浜)、きんつば、しおがま、なると(巻)、やげんぼり、などが思い浮かぶ。
 さいしょの、おぐらの具体性とやながわのそれとではどっちがどうであろうか。その人が住する環境や地域にもよるだろうが、私は「餡」が取れたおぐらのほうに、調理法としての「鍋」の概念が常について回るやながわより、感覚性の強さと熟度を感じる。一種の逆転現象だが、小倉百人一首と聞いて、暗い色と甘い味とを思い浮かべ、なんだか旨そうだと子ども心に感じたことがある。また、関東の人間にとっては、頭では「=田楽(豆腐)」ということがじゅうぶんに理解されていながら、おでん、と言うと極めて強い感覚性を覚えると思う。おでんと発話した場合、ただちに付随して、だいこん、ちくわ、とうふ、すじ、こんにゃく、といったコトバと概念の鎖がある具体的な接近を起こし始めるのである。鼻腔に熱燗の匂いさえ立ち上ってくるようだ。しかし、これは繰り返すようだが、本来の甘味噌を塗り炭火であぶった田楽豆腐の原義・原形から、遠く離れたものであることは言うまでもない。
 寺号ということから言えば、日本の食物の多くは、舶来ものの輸入業と製造業を兼ねたような中世以来の寺院にその多くを負っている。酒、味噌、野菜、料理、菓子、またそこの僧や神人が関わる門前の土産品など、枚挙にいとまがないところだろう。すいぜんじ(水前寺)は、これは寺号と言うよりは肥後の地名だが、すいぜんじ海苔といって感覚性を喚起される人間は、いまは、もうほとんど居ないのではあるまいか。私も「吸物は先出来されしすい(ゐ)ぜんじ 芭蕉」という、この猿蓑「鳶の羽も」巻の芭蕉連句によって初めて知ったくらいのコトバだ。他方、どうみょうじというコトバに生々しい感覚性を喚起される向きは、けっこう多いのではなかろうか。もとは道明寺糒というこの食物を、広辞苑でひろえば、「(河内の)道明寺で天満宮に供えた飯の下がりを乾燥貯蔵したのに起る」という。それが餅菓子の名となったのだが、どうみょうじと聞いただけで、ただちに感覚のところまで降りてくるものがある。そしてこれも感覚的になった分だけ熟し、かつ原義から遠ざかっている。寺号では他に、きんざんじみそ、というのが思い当たる。金山寺味噌とも径山寺味噌ともあてるが、これはまだ「味噌」が取れるところまで熟してはいないようである。食物ではないが、似たようなことは、例えばけんにんじがき(建仁寺垣)をけんにんじとはまだ言わず、八丈島産の八丈絹や奄美大島産の大島紬で製した反物を、たんに八丈や大島と言うだけで一向あやしまない事情にもあらわれている。
 また、人名(しばしば伝説的な)によるものもある。きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)などがそれだ。きんときは坂田公[金]時の金太郎時代の体色であった代赭色にちなむ豆の色から来ているし、きんぴらは金平浄瑠璃の主人公(金時の子とされる)の強精無比なところが、牛蒡の強精作用に通じるものと考えられたところから来ている。両者とも、いわば原義・原形に加えられた隠喩の作用が強いので、そこから「豆」や「牛蒡」が取れても、原義からあまり遠くには行かない。われわれは、小さな金太郎を食べ、金平の精を食べて、その僅かな時間、小さな神話に参画しているのである。いっぽう、たくあ[わ]んは、ことさらに坊主のことを思わなくても、また思ったとしても、「漬」をふり払ったこのコトバ自体で十全に熟していると言える。現実の沢庵和尚との繋がりは意外に希薄なのではないだろうか。一説に「貯え漬」の転であると、辞書には載っている。たくあ[わ]んと言ったとき、あのにおいを思い浮かべない本土人は幾人いるだろうか。この特有のにおいに、史実における沢庵和尚は感覚的に関係が薄いのだ。尤も一番若い世代など、あるグループにはこの限りでない、というのがグローバルな現実であるようだけれど。
 料理名では、関西にしっぽく、というのがある。辞書には卓袱と書いて、きのこやかまぼこ、野菜などを具に載せた「そば・うどんの種」とあるけれど、現在リアルにおこなわれているところでは、これは、うどん以外には考えられない。これに対応するように、同地ではたぬきうどんというのは、その概念自体が欠けているらしい。関東ではたぬきときつねとは対称性のうちにあるが、関西では非対称で、関東みたいに「たぬきそば・うどん/きつねそば・うどん」というきれいな概念の交叉は見られない。関西でのこの模式は、「きつね(しっぽく)うどん/たぬきそば」で、きつね(しっぽく)そばは考えにくく、たぬきうどんというものは存在すらせずに、仮にその位置にあるものを無理に言わせるとすれば、「てんかすを散らしただけの(す)うどん」という位置づけらしい。ところで、しっぽく、というと、関東人の私でさえある感覚性を受け取る。最近では、さぬき、というコトバに官能を刺激される関東人も増えてきているのではあるまいか。
 このほかに固有名詞そのもの、という一群が考えられる。主に商標だが、すあま(州浜)、きんつば(金鍔)、やげんぼり(やげん堀=薬研堀)、など。この3例は、いずれも数世紀を閲してほとんど普通名詞に近くなるまでに熟したコトバだと言える。このコトバを聞くだけで、薄甘く冷たい餅のような食感、口の中でほろほろ崩れる砂糖の歯触り、カプサイシンが匂い立つまでの複雑で強烈な辛さなどが、感覚的な体腔に似た心の内で励起してくる。この感覚性は、例えば酒の銘柄など、昔は大いにその実在感を発揮したのではあるまいか。
 私の若いころはキリンや剣菱を飲む、ということは特別なことで、ケンビシ、という音韻からおのずと唾が出てきたものである。そのかみは、柳(の酒)やもろはく(諸白)、という名を聞くだけで舌なめずりした酒飲みたちがきっといたはずである。往昔の人間は、伊丹(酒)や灘の下りものにのどを鳴らし、石見銀山と聞くだけで怖気をふるったものである。そういう意味で、白髪が生じたことをカシラに置いた霜、と言うがごとき暗喩法的なものより、駅で手荷物を運ぶ役割のポーターのことをその被り物から赤帽、と言うごとき換喩法的なもののほうが、自然から、より文化に近く、リアルな日常の具体性のただなかにいる人間にとり、確たる感覚性を与えるものとは言えないか。ただし、文化の推移に従って、その感覚性の実感も無常に推移するものではあるけれど。
 極端な話のようだが、ここでオノマトペなどを考えても、「ざぶざぶ」や「ぬるぬる」は、そう言うから文化的にかく感覚され、かく認知されるのである。そういう意味でそれらもやはり、原義・原形から遠く離れたところで、却って生理的な皮膚感覚とまがうばかりの具体性を持つ、そんな感じだ。藤井貞和氏の最近の著作に「ともあれ感情の起源は神話や制度に由来する」(『タブーと結婚』23頁、笠間書院、2007年)という一節を見るが、実際コトバの感覚にもそんなところがあるようだ。


《「tab」4号(2007・5・15)より》
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宗教・神話・詩論

随筆岸谷散歩草木虫譜


 丘の上に立つ集合住宅のわが家から散歩に出るには、まず谷あいにまっすぐに降りてゆく階段の道を踏むことからはじめなくてはならない。寺の後背の高台にあたるそこは、樹木草本の密生する、夏の間はすさまじいばかりの蝉の声が降り注ぐ、ちょっとした散歩への「天国の門」みたいな感じがある。その場所でいまの時期しきりに目に留まるのが葛の花である。釈迢空の『海やまのあひだ』の最初のほうに有名な歌があったのを思い出した。

 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 たしか隠岐での詠であるとなにかで読んだことがあるが、はっきりと確かめたわけではない。「踏みしだかれて、色あたらし」というところに、ある種ソバージュな憤ろしさを感じるが、しどけないものを見つめる視線もどこかにひそんでいるような気がする。「色あたらし」は、当然いまさっき踏みしだいていった何者かの痕跡である以上「新し」であろういっぽう、「鮮(あたら)し」の筆勢も一首はひめているのではないか。いずれにせよ、葛の花なるものにじっさいに遭遇した経験があれば、なるほどと納得される歌だろう。
 その階段の上の葛の花は、花房に開花が徐々に充ちてゆく段階を終え、こないだのある一日には間断なく、静心なく、さくらの花のように散りつづけているさまを見た。その花房の盛りであったとき鼻を近づけて匂いを嗅いだことがあるけれど、おそろしく濃縮されて非・発散的なものになってしまった香水の原材料みたいな、たとえばフルボディのブルゴーニュの赤や林檎香を伴った芋焼酎の熟成を思わせた。見た目はほんとうにおとなしやかで小さな濃紫の花弁の集合に過ぎないのだけれども。
 それからこのあいだから執心の、古代の残存、タブノキの植生であるが、この岸谷のいずれも丘の部分に六本まで存在することを確認した。そのひとつは寺の境内、またもう一本は丘の斜面の小さな稲荷社にあるのだが、どちらにしてもそういったエリアには「自然」が残りやすい、ということでその植生の理由を片づけてしまわれぬ気がしてならない。神社があるからタブノキがたまたまそこに残ったのではなくて、タブノキが生い繁るようなエリアであるからこそ神社や寺院がそこに存在すると考えたほうが順当な思考経路なのではないか。まあ、またあらぬことを口走っていると思われかねないので、この問題はこのくらいにしておく。
 階段の下は個人宅だが寺の隣でもあるせいか、やはり樹木が盛んに繁っている。その繁みや生垣で観察されるのは三種まで確認できる蜘蛛および蜘蛛の巣である。ひとつは一枚の平面の網として巣を編んでいる米粒ほどの灰色の蜘蛛、だがよく見ると黒い条(すじ)が躰に入っていて、日差しの具合で灰色の部分が銀白色に光っているような印象だ。獲物は胡麻粒以下の大きさの羽虫のたぐいである。方形をなす索条の枠内に網の目の斉(そろ)った几帳面な円形の巣を張る。
 もうひとつは、これは私にも名前が言える女郎蜘蛛。一枚の平面のように見える巣を複数の方向から見てみると、ちょうど二枚貝のホタテ貝のような角度で開いた、二つの網面からなる三次元の立体であることが判明する。そしてその構造体を支持するため、無数の繊細なワイヤ・ロープが巣の内外に張られている。蜘蛛の躰はこの時期にはわりあい小さいけれど、ひと月前より現在のほうがひとまわりもふたまわりも大きい。胴体部分で二十ミリほど、脚を含めれば三、四十ミリもあろうか。脱皮した殻が巣にそのまま屈曲した骸骨みたいに引っかかっていたりする。夏のはじめにカイガラムシみたいな白い絮(わた)のようなものから生まれたクサバトなど、比較的に大物を捕食しているのをよく見かける。包帯で巻かれたエジプトのミイラみたいにぐるぐる巻きにされて、金華ハムかサラミさながらに巣に吊ってあるのは保存食というわけであろうか。九月に入ってから一つの巣に大小二匹の個体がいるのに気がついたが、これはたぶん繁殖行動なのだろうと勝手に思っている。
 さいごは、これはいわば籠形に巣を張る種類で、巣の中には枯葉の小さいやつが、たまたまどこかから落ちてきてこの巣に引っかかったにすぎませんという格好で、しかしどの巣にも必ず「その一枚」が存在する。そっと覗いてみると、やはり体長四、五ミリほどの金色の丸っこい蜘蛛が一匹隠れている。黄金色の可愛らしい大仏あるいは入道という感じか。ただ仏門とはいっても、源氏物語の明石入道みたいな生臭な感じはあるのだけれど。「籠」はサーカス小屋を逆さにしたようなもので、サーカスのテントの天井に、収納されたさまざまな道具、仕組まれた仕掛け、縄、構造物などが露わであるように、この蜘蛛の巣においても同様に、いろんな太さ・形状・角度の索条が、いかにも辛苦の手をかけましたと言わんばかりに丁寧に無数にきらきらと張り巡らされているのを見て、この蜘蛛の手を借りてもたらされた神の労作ともいうべき小品に、私は息を呑むのだ。

  驟雨ののち
 蜘蛛の巣のしづくの夏をただに見る     解酲子

 庚申塚へと向かう裏道をたどって二丁目の三叉路に出る。ここいらへんはいろんな三叉路の組み合わせで町の条里が出来上がっている。そのひとつに入り、さらに分岐してゆく三叉路の手前に面して古い木造の一軒家があるが、目に立つのはその家の丈に倍するような、門扉を圧倒して繁るふたもとの大夾竹桃である。ひとつは白い花を咲かせ、他方は紅色の花を咲かせるけれど、私がこのとき初めて知ったのが、白花は一重で紅いほうは八重であるということだ。これは岸谷のほかの場所で咲いている夾竹桃によって確認したことでもある。まあ、夾竹桃のもともとは紅色の一重の花をつけるもので、白と八重咲きとは園芸品種であることがあとで判明したのだけれど。たしかアルカロイド系の毒性を持つこの木が、なにゆえに庭木としてもちいられているのか、もうひとつ釈然としない。と、いうより、そもそも庭木とは何か。一体、庭とは何か。橘や桜や竹をヤシキに植えて、住まうということに関し、昔人は何を思い、何を祓ったのか。
 朽ちかけたようなこの家の玄関には古びた軒灯があって、ふとこんな句が思い浮かんだ。夜でもないのに。

 軒灯や夾竹桃の花の奥     解酲子

 そこを曲がるとアスファルト上に石榴の実が潰れている。青空を背にして、右手の家の庭に植わった木から落ちてきたものであろう。冒頭の「踏みしだかれて、色あたらし」ではないが、なにものかの意志を感じさせるような潰れ方といったら、おわかりになるだろうか。意志と言っても、たぶん、ヒトのそれ、ではない。怖ろしい力(フォース)。

 高きよりなげうたれてや石榴の壊(ゑ)     解酲子

 散歩帰りには魚屋と生協に寄って晩飯の材料を仕入れる。今日は生の穴子の割いたやつがあったので、茄子と桜エビ、鷹の爪といっしょに胡麻油で醤油炒め煮をつくることにした。料理の成否を決するのは煮酒用の酒を惜しまぬこと。またうちではこの種の煮物に砂糖類はもちいない。魚と茄子と胡麻油その他のもろもろを「adaptation au milieu」(環境にやさしい?)という文字を染め抜いた、生協で貰った布袋に入れて肩に引っ担ぎ、公園を抜ける。生協の主旨に反対というのではけっしてないが、なんだか「私は老人を大切にします」という文字を大書したTシャツを着て歩くみたいな気分ではある。
 公園に入ってすぐ右の空き地にそびえる七本の椎の木は、樹齢はさあどれくらいだろうか。その木々が年々目に見えて、森厳、という形容が相応しいようなかんさびた趣と、その中からは絶対に脱けることができないであろうような深い森を想起させる、ある古蒼な高さ、巨大さを具えてきたような気がするのは私だけか、齢のせいか。秋になり、そういえば空が異様な青さ、高さで感じられるようになったのもそのせいか。
 シベリアン・ハスキー犬のベル兄弟のいる路地をめざす。路地の手前、四つ角の小さな木造の家には道に面してイチジクの木があり、そういえば私が子どものころはイチジクを店で買うなんて発想はどこにもなかったことなど思い出したが、ようやく熟れかけて黄色くなったたわわの実が、鴉の仕業かと思うが、いくつもいくつも抉り割られていて、熟れたイチジクの甘い匂いが芳醇なアルコールみたいに路地に漂い、それに惹かれてハチドリほどもあるクマンバチ(?)がぶんぶんと飛行して来ていた。
 やがてマンションに戻る最後の階段の横に生えた、薄荷の繁みに至る。花が咲く夏の間、そこはちょっとした虫たちの楽園だった。薄荷の花といってもミントの匂いがするわけではない。その花穂がかすかに発するのは、蜂蜜の蜜にひそむような、蓮華の、菜の花の、サルビアの、あるいはライラックの花に共通する、淡い体臭めいたところもあるあの親密な香りである。花にはアシナガバチや蜆蝶、名前のわからない地味な柄の蜂のたぐいと、ローマ軍の工兵隊みたいな蟻たちが日の暮れるまでしんかんと嬉遊していた。ちぎると揮発性の匂いのたつ円い葉には、薄褐色のゾウムシ、カメムシ、また真っ黒に見えるが光が当たると曜変みたいな鋭い虹色を発する豆粒大の静謐な甲虫たちが、気がつくとそこここに姿を現している。
 なかに明らかに藪蚊の文様の虫が花の蜜を吸っていたので緊張したが、考えてみれば吸血するのは雌だけなので、この、花の蜜を吸う蚊は明らかに血を吸わない雄と知られた。そして一歩踏み込んで考えるに、こうして何もせず「観察」しているだけで、彼らに何か仕掛けようなどと思わないでいると、むかし子どもの私をあんなに刺したアシナガバチでさえ、ただ存在するだけのものとしていまのこの私を受け入れているような気がするのである。蜂は刺さず、カメムシは臭気を発しない。さまざまな甲虫たちが、多くわれわれの手にかかったすえのその断末魔に救命信号みたいに放出する、耐えがたく、対立的で、危険な液汁に遭遇することもないのだ。われわれが不快を感じる虫たちとその生態、行動は、人間にとって不快であるだけであって、彼らにとって人間は何物でもないのだと思う。
 蛭や蚊は私の血を吸うだろうが、「人間だから」吸うわけではない。狸や馬や山猫と区別されたものとして(彼らにとっての)人間がいるわけでもないだろう。文化的に「区別する」のは人間だけだが、ただの存在としてわれわれが彼らの間にうち交じることができるというのは、実は驚くべきことではないか。大きな巡りの中にヒトや虫はいて、そんな「われわれ」は、まったく同等のものとしてWe are all mortal(われらみな、死すべきもの)、という真理の裡に消尽する幸福な存在であるべきなのだと思う。


                                   06/9/3~4

初出「倉田良成詩文片「メタ」十八号  2006・9月」
 
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Jul 20, 2007

宗教・神話・詩論

「歩行に関する仮説的なノート」(1972年刊)より


第三のノート(自註)



   a
    
〈テーゼ〉はそれがどのようなものであろうと出された瞬間に相対化される。このことはあらゆる人間活動のある本来的な規定である。いかなる内容であれ、それ自体としてのテーゼの方向は、ひとつの〈効力〉の枠に集中するが、それを有効化せしめるためにはおおかれすくなかれ、〈信憑〉ということが不可欠な要素となる。ちょうど〈世界〉を信憑するごとくに、である。

 もし虚偽を避けたいのなら、眼は出されたテーゼの内容にむかわず、テーゼが提出されるそのしかたを遡行してゆけばよい。しかし、この眼のなりゆきに忠実であるならば、かかる遡行、逆行はおそらく無限になされなければならないだろう。あたかも、〈世界〉を追跡するように、である。

 このようにするとき、僕はことごとく〈場処〉というものを失うだろう。〈場処〉とは判断によってあたえられるものだ。ところで〈世界〉を無限に遡行する、ということもひとつの判断によってあたえられたある〈場処〉だとすれば、判断-場処を拒んで〈世界〉を追跡するものにとって、それはあきらかに自己撞着である。

 ここに、〈ひとが思考する〉という行為より発するある究極的な不合理性ともいうべきもの、ひるがえって言えば、ひとつの有機性、もっとも厳密な意味における〈倫理〉のようなものがあらわれているのだとおもわれる。

       b
 
  〈方法〉がつくられるためには、具象的な現実はあたうかぎりしりぞけられ、持ちうる能力それ自体が最大限に動員されなくてはならない。

 僕が非常な努力をかたむけてつくろうとしていたのは、単なる方法論ではなく、それによって、僕の思考、意識、感情、生理等が統御され、ある一点へと束ねられてゆくべきより有機的な方法そのものであった……。

 僕にとって……方法とはかんがえられるものではなく、行なわれるものだ。そこで、僕は恢復する。

 みずからを再構成したいという欲望。なぜひとつの思考は、実証され、展開されなくてはならないのか。世界は他のなにものにも依ることなく、ただみずからの脳髄の重さだけで倒れなくてはならない。

 方法はみずからを語らないはずである。なぜならそれはひとつの悪無限であるから。そこに〈行なう〉ということの持つ、沈黙の不思議な肉感性が存する。

 そしてどうしても還元することのできぬものが残ったとき、それなりの遣り方で自分か時代かにかえしてやれば良い。

 意識性は、厳密であろうと欲すれば欲するほど対象のうちに微細に分岐してゆき、凍てついてゆく過程をたどる。それにたいして方法性は、意識にある盲目性を強いることで、あの〈親密さ〉という運動の感覚を喚ぶ。

 方法とは一種の意識の、あるいは思考する、ということの、もっとも原基的な能力の場である。意識はそれだけではいかなる〈面〉も持たず、したがって自動する構造も持たない。

 方法を逆向きにたどることによって、僕のひとつのあるきわめて〈質的な〉由来といったものがあらわにされるはずである。

 方法それ自体はいかなるものも絶対に対象に加えたりはしない。すなわち方法それ自体は、いっさいの〈結果〉をおもわない。したがってどのような〈結果〉もおそれない。

〈結果〉をおもうのは〈ひと〉であって方法ではない。ここにおこる一種の切断を注視せよ。このまぶしさは〈ひと〉あるいは方法の、述語の息の根を止めてしまうような背理性にほかならぬ。

 方法は時間のなかを遍歴しながら、突如、みずからがひとつの空間のうちに顕わになっているのをかんじるだろう。

      c

 しばしば、ある絶対性をおびたニュアンスをもってかたられる〈体験〉は、それがどのようなものであろうとも、ひとしく、単彩の〈現実〉へおしかえされるべきである。
  
〈根拠〉はそれがある目的をもって言われたちょうどその瞬間にすでに〈根拠〉ではなくなる。僕が言いうることは、ただ触れてはならぬその一点もまた〈根拠〉いがいのものの命ずるままに、ひらきつくすことに依ってかくしぬけ、ということだけだ。

   どのような意味でも体験はたんに体験でしかない。それがそれ以上のものとなる、そのさきはもはやそれは体験とはかかわりがない。あらゆる言葉はかかる場においてためされるべきだ。どんなことをしてこようと、それゆえ、僕はいつでも〈ここ〉からはじめることができなくてはならぬ。

 ひとつのものを、そのもっとも純粋なかたちで把えるためには、そこから〈時間〉を追放しさえすれば良い。すると、把握とは、その〈現在〉で所有するということにほかならない。

 それがどのように否定のいろにそめられていようとも、あるものを〈美〉とかんずるかぎりは、ある〈了承〉をその感受の根底に敷いているといわなくてはならない。

〈了承〉という鍵がはずされると、〈美〉はある種の展性をあたえられる。あたえられるや否や、それはたんに〈美〉とは呼びえなくなるような地点にいたるまで、おのれを展開させて止まないだろう。かくして僕は〈美〉よりその全権をゆずりうけ、その対象が美であるにせよ、ないにせよ、なにごとか行為せねばならない。

 美とは、ひとつの状態のほかのものではないのであって、おそらく固有名詞の〈美〉といったものは存在せず、あるのはただ、〈昂揚〉ということばであらわされる、精神のある種の形姿のみである。

 理性も感性も信じないこと。だが理性や感性が存在するとして。僕の不信はそのように区別することにではなく、区別したものに名称をあたえることにむけられている。

 感性を拒否することも、反理性をさけぶことも、ひとしく、かならずしも迷妄とばかりは言いきれぬ、ひとつの迷妄のふたつの貌にすぎない……。

 読書法……。
 はじめて見る、ということにはある〈奇怪さ〉がつきまとう。一冊の書物が、もし〈真正〉な著者の手に成るものであるのならば、ことごとくこれを奇怪な書とみてさしつかえない。それが〈偽物〉でないとすれば、その奇怪さは終始一貫したものであるだろう。巨大な思想はつねにある端初的なものをその核として保存しており、われわれにとって〈端初〉とはつねにある奇怪さをもってあらわれるものであるからだ。一種の〈置換〉ともいうべき操作をおこなうこと。論理学は詩のようにも読める。作家は本来的に孤りであるという究極的な視座をたえず設けておくこと。~主義、~運動といった名のもとに、あるいは多少なりともそのことに関連させて、一個の作家を判断せぬこと。

 内容の豊饒さよりも、〈場〉の堅固さにむかうこと。おそらく内容は無限にかさねてゆくことができるが、その堆積にある構造をあたえるのは、ただひとつの〈場〉である。

   d

     実証されることのない明証ともいうべきものがある。それは、いかなる意味をも包合したところで名指されるべき〈意識〉というものの総合における一種の発光であって、通常〈直観〉と呼ばれているところの現象である。この総合による発光と、個々の場面での反射とをきびしく弁別せねばならない。

 A≠A,-A……。だがこの定式への解答は案外、易しいことなのかもしれぬ。僕が為すべきことのいっさいの区分け-すなわち行なうか、行なわぬか。もっとも知ってはならぬものは自己自身である。

 ひとつの解釈にたいする他の解釈は、方法的な眼においてはひとつの〈発見〉となる。なぜならそこには、可能もしくは不可能という極度に〈個〉的な与件が、直接、介入しているから。

 ひとつの発見をひとつの解釈に堕さしめぬこと。可逆の関係に捉えられていたものが、不可逆のかがやきを発するまでに、あの、〈精神〉とよばれるものの運行を持続させなければならない。

 同質的なたんなる〈状態〉は、これに意識のひかりをあてることをせず、つねに〈忘れている〉べきだ。そうしなければ、意識と肉体とは刻々、異様な共喰いをはじめて僕のすべての〈動き〉すなわち精神の運動をしめあげていってしまうだろう。

 虚無は否定の極限としては存在しえない。それはむしろ肯定の極限として解されるべきものである。

 世界がなにものかでありつづけるかぎり、ついに〈純粋〉はひとつの否定の質としてしかあらわれることはないだろう。

 現実への密着は、通常それ自体としてそのようには意識化されない。したがって、かかる〈現実密着〉をそのものとして感覚するとすれば、それはかならず強烈な現実乖離の象となってくる。

   e

 ひとつのものを注視すると、それは、ほんらいのそれとは全く別のものになってしまう。

 ひとつの思考を、ひとつの比喩をもって表現するのは、厳密に云えば虚偽である。

 ひとの思想に依って思考せぬ、ということは、みずからの思考に依って発見ないしは獲得したものに、毛の筋ほどにも〈普遍〉の感覚をゆるさないことである。

 いかなる言葉も無益に通用してしまう。ほんとうに通じにくい言葉は、しかしどこかにあるはずだ。

 ものを区別する、とはもっとも基本的な把握-理解の遣り方であるが、それは〈ひと〉がする、〈世界〉への最小限度の妥協をも意味している。

 区別されえぬものはしかしかならず消滅する。すなわち、区別される。

(言われたものにはあたかも臓腑のような構造を負わせ、それを言う僕そのものをはるかに外延化してしまえ。)
 現実はもっとも遠いところから〈私〉を直撃する。そんなとき〈私〉もしくは現実は、ひとつの巨きな夢となる。

 そして僕のうちで、なんとあの〈他者〉がおもわれていることだろう。
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Jul 17, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学



 本日は「詩の教室」の集まりにお招きいただきまして、ありがとうございます。このような題で、分かりづらいところもあるかも知れませんし、うまく話せるか心許ないところもありますが、どうぞ最後までお付き合いください。
 まず詩とは何か、言葉とは何かを考えることから始めます。今日はウィトゲンシュタインの言語論=哲学の助けを借りながらやってみたいと思います。まず言葉とは何かを考える上で、像と現実(言い換えると文化と自然)という考え方をお示ししたいと思います。この場合の像とは視覚的なイメージというよりは、その記号によって直接に表されていることがらを指します。「東大寺」とか「美人」でもいいけれど、「ソナタ」や「関数」や「大会」といったことを思い浮かべてみるといいでしょう。「B」「γ」のようなものでもよい(他方、すべての概念内容=ソナタやγのようなものでも、ことごとくこれを視覚的なイメージに置き換え得る、というところに言語の持つ一つの秘密があるようです)。現実とはこういった像の「もと」になるもので、それ自体(「もと」自体が何か)を説明するすべはありません。説明はすべて像によってなされるものであるからです。
   像(文化)の源泉は現実(自然)です。現実からの糧道を断たれると、像は痩せるか、死んでしまいます。死んだ言葉ということがよく言われますね。逆に像がなくても現実自体は痩せも、死にもしません。じつに当たり前のことですが、人間は死ぬけれど、自然はそもそも人間的な生き死にの範疇を超えているという意味で、生死がありません。この絶対的な一方性が、文化と人間存在の基礎・源泉と考えられます。
 極端な話をします。文化は新たな自然を創り得ず、また自然を「変形」させることもできません。例えば、山を崩したり、海を埋め立てたり、化学的な化合物に分子を一つ新しく加えたりすることは、人間による自然の創造や変形ではなく、それ自体文化に属する可能な自然解釈の一形態にすぎないと私は考えます。地形を変えることはできるが、自然を変形させること、いいかえれば摂理を変えることはできないでしょう。月という惑星を消滅させることは可能ですが、そのことによる人間等への影響、つまり摂理から人間は逃れることが絶対にできません。
 簡単に言ってみます。たとえ分子が新たに一つ加えられた高分子化合物でも、その分子はすでに自然の中に有ったものでして、その化合物自体、既往の環境や時空の形式に適合したものであるからこそ、自然の中で「存在」できるのです。分子を一つ加えるという行為のみがせいぜい「文化的な」意味を持つのであって、加えられたのちのその存在の帰属先はやっぱり自然なのです。
 自然の基本要素、アトム、光、時間と言っても同じことですが、自然という「全体」には、人間は手を触れ得ないでしょう。文化は自然に何かを付け加えたり、そこから何かを差し引いたりすることはできないと考えられます。不増不減不生不滅、という仏説が抱懐しているのはこれのことです。このこと(文化的行為)が人間にとって豊かなものであるかどうか。自然と対話せず、そこから材や財を得る分析等のための素材の特定・区別程度のものしか汲み取ることをしない文化的行為は、往々にして(人間自身にさえ牙を剥く)野蛮さを伴うことは、二十世紀が終わったばかりの現在、ますます問題化しているところであることは、みなさんご承知のとおりです。
 詩の大きな役割として、この像と現実、言葉と本来それのもとになったものとの間に血を通わせるということがあるのではないでしょうか。言い得ざるものを言う。言われたものに迫力や現実味、具体感を与える。これはリアリズムとは限りません。「世間」的には滅裂な言説でも、迫力のあるものとそれの感じられないものとがあります。否定的な言葉でもいい気持ちになれるものがあるし、肯定的な言葉の世界に、じつに厭な気持ちになることもあります。例を挙げれば、最近物故された詩人の川崎洋氏による全国の罵詈雑言蒐集というものがあります。私はまだ未見ですが、こういうところに「詩」を見出されていた氏の慧眼を感じます。また、ほとんど罵詈雑言に聞こえる河内弁でおこなわれた淀川筋の河内衆の売り子の売り言葉というのがあるそうです。「餅食らわんか、酒飲みさらせ」という決めゼリフのようです。たしかこれは司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の一シーンだったのでは、と記憶します。この悪罵的な言説の定型化した言い回しの背後には、むしろ深い規範や道徳の存在を思わせるものがあります。
 このように「現実」という言葉はいつでも必ずしも現実的であるというわけではないようです。言い得ざるものを言う詩の端的・明快な例を引きたいと思います。

「海ではない」   尾内達也

バスを降りても
まだ見えない
地下道をくぐって
いきなり海
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

サザン・ビーチは
烏帽子岩の無言と
ビーチ・パラソルの饒舌
ゴミくずと貝殻が入り混じり
水溜りで死んだ魚が
白い腹を見せている

水平線は泡立ち
ところどころ 水蒸気で霞む海
金髪の少女のグループが
吸殻の後始末をしている

人はなぜ海を前にすると
言葉が少なくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

懐かしい昭和の海の家
セーラー服の女の子たちが
素足で
一斉に波打ち際に駆け出す
歓声と波の音

人はなぜ
突然、海を見たくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの
言葉より先の
名づけられぬ瞬間
――まだ、だれもいない

人はなぜ海を見た瞬間
息を呑むのだろう?
世界の果て
世界の始まり
海に向かって
                         (「COAL SACK」54号より)

 「海――そう言ってしまうと/もう違ってしまうもの」とは、「海」という概念記号の否定の上に、「海」という概念記号の「もとになったもの」(つまりそれが「海」ですが)を呼び出そうとしている、まさに「シニフィアン」そのもの、転轍機のようなはたらきをする二行で、作品全体の鍵となるものです。言い得ざるものは、このようなコトバのはたらきによってわれわれの内部にまざまざと示されているのです。  ここでいわゆる「自己言及」の危険について、ちょっと触れておきたいと思います。
 古典論理学的には、「私は嘘つきだ」の言明が真であるとすれば、私は本当のことを言ったのであり、すなわち今これを言った私は嘘つきではなくなり、この言明は成り立たなくなります。けれど、成立しない言明、いいかえれば偽たる言明をおこなう主体=私は、いわば嘘つきだ、とも言えます。
 「私は嘘つきだ」は単純な一人称ではなく、「彼は嘘つきだ」という三人称のような立場から発言されているのだと仮に考えてみるとちょっと納得がゆきます。また、自分をある意味突き放し「私は詩については嘘つきだ」と言うのなら問題は少なくなるのではないでしょうか。語られるのは自分から分出された自己ともいえるもので、これは自分でありながら自分を対象化しているのです。あるいはこんな例はどうでしょうか。「わたしって寒いのがダメなヒトだから」。「ヒトだから」という客体化のワンクッションをおくことにより、「わたし」は前面に出てはいるが、それを言う主体はその場から一歩(責任回避的に)退いているといえます。
 さっきの「私は嘘つきだ」の堂々巡りは言葉(像)の次元内では解決されないでしょう。言葉はどんな非合理なことでも言明することが可能だからです。ことの真相は次の三点にあると思われます。
 ①言葉(像)、②その言明の裏側に絶対的に隠れている主体、③言明が可能な「場」を与えている、つまり言葉のもとになっている現実。この三つのディメンションが存在するのであって、「嘘をつく私」はその言明を為す主体ではなく、あくまでその言明の内容を成す一構成要素でしかない、ということ。
 落語に「あたま山」という噺があります。頭に桜の木が生えた男が、花見時には大勢客がやってきてどんちゃん騒ぎをするので煩くて堪らないので木を抜いたら、跡に池が出来て、やっぱり魚釣りの子どもなどが騒いで夜まで煩くて堪らず、これではかなわんと世をはかなんでその池に入水して果てた、というのがそれです。
 現実との関わり合いが問われないところでは、つまりは抽象的(無責任的)には何をどう言ったってかまわないのですが、でもある意味内容が具体的に求められる場においての言説としては、そういった発言はしばしば無意味・無価値・無発言のゼロと同様という事態になりがちなのは、最近いたるところでじつによく見られる現象です(→状況に応じて適切に処理する。心の問題)。
 先の落語のナンセンスは話芸としてじゅうぶんに成熟していて有意味的といえますが(理法がちゃんと背後にあるから)、ちかごろの詩の、意味を歪めたり、ずらしたりする(悲しいかな、言葉である以上意味の痕跡をなくすことはできません)傾向は、その作品行為自体の基となる理法、つまり何を・どこに向けて・何のために表現しているのかということの背景が薄弱で、わるいですけれどつまりその、この世に存在する積極的な理由がどうしても感じられません。つまり、意味の変形は何か理由があって行われるはずですが、その意味の変形が自己目的化しているのです。さいしょにお話しした現実との糧道が断たれた状態と言っていいわけで、譬えてみれば食を断たれた蛸がみずからの脚を食べている図に似ています。
 それが何のためでもない「自己表現」なのだと主張するなら、その極北の例、たとえば山本陽子の世界などを考えてみるといいでしょう。ただしその内実を容易に窺い知ることができるとは思えませんし、まして凡百の薄弱な詩人(ポエマー)などが真似するなど絶対に不可能なことであると私は考えています。あれは彼女の中でまだまだ言葉が苦痛なくらい豊富で、そこから逃れ出たくなるほどの重い感触があったからこそなしえた業なのであって、そういった鋭利で強靱な日本刀みたいな「言葉」と彼女は刺し違えたのだと言えます。逃げ出したいほどの言葉(ロゴス)の存在感を官能できる人が今のこの時代、何人いるでしょうか。死を賭して詩に立ち向かうなんて詩人が、存在するんでしょうか。
 これは、詩語において先鋭に現れていますが、われわれにとっての具体性の喪失、ということと関係しています。
 周りにあるのはみな、どこかしらで聞いた言葉であり音楽であり、テレビに映る映像やCMのコピーにも、みな新作であるにもかかわらず、すべてに著しい既視感を覚えます。みな、直でなく、何かコピー的なものを介して見聞きしたものばかりです。迫力というものが過激さや露骨さや残酷さとすりかえられ、真に迫力のあるわずかな例(しばしば控えめな姿をとる)は黙殺の憂き目にあい、怜悧さが傷つきやすさをひめた冷笑と隣り合う、という光景を、職場で、学校で、街角で、モニタ上で、常にわれわれは目撃しています。
 これはいいかえると、じつは陳述の範疇にない現実において本来処理したり判断したり行為するべき実質が、ことごとく「言葉」だけの次元に簒奪されていて、喫緊の現実の問題を、そういった簒奪された陳述によって(言い換えればディメンションの異なるもの同士で)、おざなりに処理しようとするところに、さまざまな非道や撞着が現れてくるのだと思う。
 例を挙げれば、科されるべき罪とは別に、謝罪の言葉を被害者の家族に述べるのを要求されること、おびただしく発表され出版される「手記」の数、遺書を残し実際に死んでしまうのだがどこか作り物めく若者や子どもの自裁等、「陳述」の次元での現象ばかりが溢れているように私には見えます。われわれを取り巻く圧倒的な存在としてのマスコミュニケーション。マニュアルの範囲を超えたことがらに対応できない非熟練従業員。現実をけっして認めたがらないストーカー。これらは本来表層的なことがらであるものが、深層化してしまっているとでもいうべき、非常にゆゆしい事態だと言えます。
 以上のような「どこかで聞いた文句」から脱するためには、より具体的なものをそれこそフィジカルに感触・知覚・判断・思考することが必要なのではないでしょうか。
 「人間の現に有ることはその根拠において《詩人的》である」(ハイデガー「ヘルダーリンの詩の解明」)という言葉があります。これにちょっと触れてみます。
 白水(しろうず)智という少壮の歴史学者の「知られざる日本 山村の語る歴史世界」という本によれば、街にいる老人たちが、昔住んでいた不自由な山村にまた舞い戻って暮らす例がちかごろ増えているといいます。彼らはそこで、煮炊きには薪ストーブやプロパンガスを使い、水は川から引くといった生活をしているそうです。
 ハイデガーの先の著によれば、詩人的であることは同時に「神々のプレゼンス」を感じつつ存在することだそうです。これを説明すれば、「詩人的」である、とは、安らかでいられる場所に暮らし、働き、慶弔や祭礼や宴会、また日本でいえば四季の感受のただなかにいること等だと私は考えます。今もその痕跡の残る二十四節気などを考えてみてもいいでしょう。「神々のプレゼンス」とは、霊気のような何かがそこにいる感じ、と解釈すべきかと思います。
 確かに便利この上ない街の暮らしの中に、「神々」はおらず、現代都市において人は決して詩人的であることはできません。ここ五年十年、ますますその傾向は非道くなっているようです。次の言葉はよくある、自分探しや生きがいを求めて、なんていうことでは決してないでしょう。「息子は危ないから、いくな、という。でも都会の家でじっとしていると、自分がだめになってしまう」と老人の女性の一人は山へ戻るその理由を語っています(白水、前掲書)。具体的なるものを知っている彼らは、彼らが「ふつう」でいられる生活というものが街には存在しないと、酸素や水が急激に引いてゆくような感覚で感じ取っているのではないでしょうか。真に具体的なものは都会にはない、と私は断言できると思います。
 同じハイデガーの言葉に、「詩は勲しではなく賜物である」、また「《詩人的に住む》とは物事の本質の近さによって襲われること」というのがあります。一見性格を異にするようですが、次の2例は批評の散文性の向こうに「賜物」たる詩が透けて見える見本といえます。お手本と言ってもいいです。

「爽春に」   河野俊一

爽やかな春は
誰のためにある

花粉症で
苦しむ人のために
花粉のない杉が開発されたという
爽春
という名の杉は
まるで
花の咲かない薔薇
卵を産めない鶏
精子を忘れた夫

もとより戦後
資源育成というスローガンのもと
猫も杓子もつべこべいわず
右むけ右
と植えられた杉なのに
林野庁なるおかみから
現行品種より爽春へと
またもや

昨日
おかみから開いた花びらを毟られる薔薇
を思い
今日
おかみから産み出すたびにかち割られる卵
の夢を見る
そして
明日は
おかみから頭なでられる伝説
を書き記す俺が
世界からはみ出る
爽やかな春風に
そよがれて
                      (「COAL SACK」53号より)
「調査報告」   渋谷卓男

聞き書きの最後に加えてほしいと
電話のむこう
かすれた声が言う

その人は
標高八〇〇米の傾斜地で
石垣を組み上げ、田を作った
その人は
馬鞍の両脇に繭かごを重ね
ふもとの町まで出荷した
その人は
伐採した杉を木製の車輪に載せ
山から曳き下ろして母屋を建てた
その人は
明治三八年生まれ
一〇〇歳で入院し
一〇一歳になって退院してきたその人が
ひとり電話をかけてくる

戦後C級戦犯に問われ
公職追放になりました
そのことを
書き加えてください
                         (「COAL SACK」55号より)

 両者とも終わりのあたりで「本質の近さによって襲われる」光景が現前し、顕現します。これらは「勲し」を武具みたいに手に携えた批評的作品といえますが、ものごとの本質を暴き立てて世に知らしめる、というよりは、そのえぐり出された光景が静かに心の底に降りてきて、魂に触れてくるといったところにいちじるしい特徴があるようです。いずれも、最後の収束に至って明瞭になってくるのは、批評を透過してあらわれる「賜物」としての詩にほかなりません。批評が単なる告発で終わらず、なお詩(賜物)であり得ているのは、これらの作者の手にしっかりと握られているみずみずしい具体性それゆえです。これがないと空疎なスローガンや空疎な詠嘆、あるいはまったく「当たり」の感覚のないモダニスティックな記述になってしまうのは、詩において往々にして見られるところです。
 具体性については、以下の発言も参考になります。

(前略)社会的に評価して詩はいいことだということじゃなくて、個人にとってもう引返せない、傍の者を泣かせてでも好きな道はやめらんねえや、というそれになるかならないかが大事なファクターだと思うんです。(中略)社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて、同じサイクルで詩を動かそうとするでしょう。僕はやり方がこれでは本当は逆だと思うんです。何か変てこな小さなものに惹きつけられて深入りして、その深入りするうちに自分のヴィジョンも突き入れられ、またそこで次第に世界観も出来上がるという、そういうのが本当だと思うな。
(思潮社現代詩文庫「堀川正美詩集」のうち詩論「CONTRA ET CONTRA」より)

 「社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。」というのは予言的で、巷にこんなに「詩人」が溢れているにもかかわらず、まさにこれは「現在」にあてはまる事態なのではないでしょうか。皮肉を言っているのではありません。あらゆる言葉が、重みや陰影や、それどころかその機能にさえ現実感が失われている現在にこそ、「本当」の詩が試されているのだと思います。
 一方「天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて」もダメだというけれど(これはまったくの正論)、ただ詩のスパンをもっと大きくとれば、例えば中国の古典詩や日本の述志の歌などに、じゅうぶんな深さと重さ、シリアスさを以て「天下国家」の詩が成立している例などを見ることができます。何も詩は、抒情詩ばかりとは限りません。
 詩は「何か変てこなものに惹きつけられ」ることをきっかけに、世界観にまで拡大する可能性のある、最初はひめやかな具体性であるに違いないにしても、純粋にワタクシの弄びもの、個人的な趣味の領域に留まるものではないと思います。現在、モダニズム系の作風はけっこう盛んなようですが、それが個人の嗜好・性癖・恣意の限りで書かれているとしたら、活字にして世に出すのにあんまり意味・意義は認められないのではないかな、というのが正直なところです。
 堀川正美氏はこのインタビューの別のところで、「(前略)物理的に食うことが楽になってきているから、その次に自己表現みたいなことをしたがるわけだ。みんながまあまあ食うことが出来る体制になっているとすれば、むしろそこから孤独になって自分が何をしたいかを発見して、すばやく社会と切れる方法とか、折れ曲がって内面の仕事を見つけるとかすれば正しいんだけど、衣食が足りるとすぐ社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へ出ようとするでしょう。」と発言していますが、この言葉の持つ清潔な棘ともいうべきものは、詩を書く者の心得として肝に銘ずべきでしょう。
 話が逸れましたが、もともとモダニズム的なものは、二十世紀初頭にあらわれた当初から個を超えて文明批評的な、すぐれてクリティカルな性格を持つものであったといえます。反・何々、非・何々という形で(個を超えた志向は社会性から却って背を向けるという形をとることもあり得ます)。音楽も絵画も文学も舞踏もみんな、「かつて存在しなかったものを創り出す夢」といいかえてもよいものをめざしたのだと思います。それらは当然趣味や性癖と絡んでいるけれど、行きつくところは全然趣味・性癖とは無関係な広い場所です。
 例えば多分に文芸思潮的なものであった戦前の日本のではなく、アンドレ・ブルトンらによる、ヨーロッパにおけるシュールレアリスムは芸術運動と言うより、後年のカウンターカルチャーに通じる文化運動であったのではないかと私はひそかに考えています。60年代初頭からのヒッピームーブメントや学生叛乱、古い大きい(硬い)体制・常識からの解放運動などにその流れはそそいでいるのではないかと、私は考えています。現在に繋がる、民族・民俗的なものや宗教への関心、非・西欧的なものへの関心、近代への疑問や環境・生態系、農業への問題意識などは、みんなこの時期に胚胎されたといえます。ここでも自然と文化ということが重要なテーマになってきますが、そのことにブルトンがまず気づき、そのバトンが渡された先はどこかと言えば、私はクロード・レヴィ=ストロースあたりではないかと考えているのです。
 現在、いわば「反」や「非」の対象とされていた「何々」の側に、なにか大きな潮目の変化のようなものが出来してきているような気が私にはします。いまそれは、言葉の「もと」となる、それ自体は言説の外にある最も重要な「現実」や「自然」への感性の痩せ、窮乏として現れている感じです。言語(文化)と現実(自然)の間に血を通わせるものとして詩があると言いましたが、その淵源は実は有史以前、国家成立以前からの神話にあるのだと考えるようになりました。詩について深く考えれば考えるほど、このことからあらゆる詩論は逃れられないのではないか、と思うようになったのです。乖離したり、傷ついたり、対立してしまった自然と人間の関係を修復し、恢復させるものとしての役割が神話にはありますが、まさに自然と人間との関係が決定的な「毀れ」の様相を呈してきている今現在というこの時、多く否定的な文脈で語られてきた神話というコトバに、生命を吹き込む必要があるのではないでしょうか。それはおそらく新しい神話を創始することではありません。太古の神話のなかに原石のようにちりばめられている、怖ろしいほど深い智慧の煌めきにもう一度立ち返ってみる、虚心坦懐に正視してみる、ということから始まる何事かです。そういう意味からするとこれから先、ただ今おこなわれているようなモダニズム系の詩に過剰な期待、多くの希望を持てなくなってくるような予感が私にはいたします。
 ここで蛇足のような与太話をします。話を単純にするために俳句を例に取ってみます。


花冷(はなびえ)の庖丁獣脂(じうし)もて曇る    木下夕爾
葉桜の中の無数の空さわぐ   篠原 梵
金亀虫(こがねむし)擲つ闇の深さかな    山口誓子


夕汐や柳がくれに魚わかつ   加舎白雄
我事(わがこと)と鯲(どぢやう)の逃げし根芹哉   内藤丈草
渡り懸(かけ)て藻の花のぞく流(ながれ)哉   野沢凡兆

 1は近代写生句のお手本のような作です。どこにも隙がなく、重厚で、巧緻を極めています。2は江戸期の古俳諧の立句で、朔太郎や四季派や戦前のモダニズム、戦後の列島や荒地を経てきた目には取り立てて言うところもない、それどころか何とも物足らない句でもありましょう。正岡子規あたりなら爪弾きするような旧態依然たる句振りです。しかし最近、年のせいか何のせいだかわからないけれど、前者のたぐいの句が少々煩わしく感じられるようになってきたのです。そして後者のような句に思いがけなくもみずみずしい具体性が感じられてしかたありません。幻のような何かが躰の内側で恢復し、立ち上がってくるようだと言ったらおわかりでしょうか。
 思えば丈草や凡兆の大いなる師であった芭蕉翁は、「言いおおせて何かある」、とか、「造化(自然)にしたがい、造化に帰れ」という言葉を残したのでした。もともと芭蕉は中国の老荘思想に深く親しんでいましたが、老子荘子個々人はもちろん、孔子でさえその流れを汲むと考えられる、巫祝の伝統のなかにそれらの言説はあり(白川静氏による)、またさらにさかのぼったその源流にあるはずの、神話的トポスからやって来るはるかな光線を私は思わずにはいられません。私たちのまだ見ない詩にとっての希望は、案外こんなところに潜んでいるのかも知れないと、個人的な願望も含めて、最近はそんなふうに考えております。ご清聴ありがとうございました。

*ハイデガーの引用は、京都の詩人、高野五韻氏の試論より孫引きしたもの。
*俳句の引用は大岡信氏の「第三 折々のうた」による。
  
(2006年10月22日・山本十四尾「詩の教室」講演=「コールサック」56号所収)
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Jul 16, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート1 実物とコピー、および共通語について



 わたくしごとで恐縮だが、去年出した拙著の序に当たるところで、例えば職人などが修業するうえで欠かせない行程として「本物を見る(食べる、触る、聞く、嗅ぐ等)」ということがあり、それは写真やビデオ、再生機などの復元機械を介しては得られないものがある、芸術鑑賞にも似たようなところがあって、画集を眺めて絵を論じたり、レコードやCDを聴いて音楽を理解したりは(本当には)できないのではないか、と書いた。
 これには多くの方々から反論をいただいた。ちょっと言葉が足らなかったのかも知れない。私が言いたかったのは、画集の絵と元になった絵そのものは違うという単純なことなのだが、そしてそれに対する感受も当然のことながら異なってくるということだったのだが、論じたり理解したりはできないというところに批判の大半は集中したようだ。また、レコードにはレコードそのものの蓄積された文化と時間、すなわち特有の世界があるのだとか、経済的に余裕のない者に(例えばバイロイトに行く、とか)その論は酷だとか、何々はどこそこのどんな条件で聴く(見る)に限るという話をはじめたらきりがない、といった意見まで飛び出して、私が最初に考えていたことは何だったか、思い出すのに少々の努力が必要だった。
 話を簡単にするために音楽を例に取れば、実際にピアノならピアノを弾くことが常態になっている人間