Sep 03, 2008

詩を読む

近藤弘文「膝を抱えた」について


 詩論というのでは大げさになるが、「SPACE」no.81に載った近藤弘文の詩の、感想のようなものを書きたい。さいきんの近藤の作品の常ながら、作品のボリュームは小さい。「SPACE」に載った「膝を抱えた」は見開きにも満たない、16行という分量なのだが、以下に示してみる。


膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
としての雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
に無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
はあかごの籠に
を刻印するでしょう
のそこに座る
、ということが
やまないんだね
光の膝


 まず気づくことは、句意、文意といったものが、走査線のように入った意図的な断裂によって飛散しているという印象だ。ふつう、一文の文意は、最初に名詞か、あるいは名詞化された分節(文節)から語り出され、読点のつくような箇所で指向性を帯びた空白を抱きつつ句切れをし、句点のつくような場所に(空白の)問題解決的に着地する。本来、分節の末尾に接続すべきこの指向性を帯びた空白が、文の頭につくようになっているのがこの作品をひどく特徴づけているところである。文の頭に名詞や副詞や形容詞・動詞がつくといったふつうの構文ではいわば「頭でっかち」の文となるところが、この作品では逆に頭が削がれていて、文の実在感が非常に希薄になっているのだ。
 他方、「としての」「に」「は」「を」「の」「、」といった行の頭に来る不安定的な指向性の品詞群を除いて読んでも、ほぼ、詩としての体裁を失わず、出来の如何を問わなければ、まったく安定的に読み進めることが可能だ。批評家の阿部嘉昭みたいだが、私も真似してちょっとした操作をここに加えてみよう。


`膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
あかごの籠に
刻印するでしょう
そこに座る
ということが
やまないんだね
光の膝


 気の抜けたラムネのような味わいになってしまったのは如何ともしがたいけれど、ここで明らかになることは、読点・助詞・格助詞・連語などが行頭に来ることによって生じる半ば無理やりな不安定感こそが、作品「膝を抱えた」の要諦にして琴線であるということだ。
 こういう挙になぜ出たか、私にはよく分かるような気がする。近藤は、担保することを求める言葉、回収することを求める言葉、食べることのできない言葉強迫する言葉生きていない言葉から逃れようとして、非・意味の無数の走査線を担保的な言葉や現実の表面にはしらせ粉々にし、却って言葉でないところから言葉の真の意味を追う、といった、いわば絶対矛盾的自己同一のような冒険に出ている、と私は見る。自由な世界へは、叩き壊さなければその先に行けない、といった遍歴が必要となる。このとき、叩き壊すこと自体に自由の匂いがたちこめることがある。これは私の言葉だが、ここで「前衛」に堕すか、それとも「前衛」を超えたところに行くか、危険な岐れ路だといえよう。
 じっさい私にも覚えがある。措辞を敢えて破壊するというつもりはないけれど、構文を末端から揺るがし罅割れさせていって根幹に迫りながら、新しい意味が出現してくるのを俟つ、という詩の作り方をしたことが私にもあるのだ。近藤はサミュエル・ベケットに深い関心があるようだが、私も若いころ、翻訳でその小説『モロイ』や、当然『ゴドーを待ちながら』を読み、そのきわめて冷血で空白的で散乱した言語のうちに、散文的文法ではなく明らかに「詩法」の自由の空が拡がるのを感じた。ただ、近藤と私が異なる点と思われるのは、私の場合積極的にその空へ突き進むべき肯定命題が感じられたのに対し、近藤の場合は担保でも回収されるのを促すのでもない、時空の逃亡師としての言語をベケットに見ているのではないか、ということだ。素質の違い、と言っても、時代の違い、と言っても、どちらも違うような気がする。
 ところで、詩「膝を抱えた」の構文を逆に見ると、「頭削ぎ」の行頭それぞれ1語くらいにすぎない品詞を取り除けば、詩の言葉自体は実になだらかな日本語ではないかという印象を私は持つ。詩風はむしろセンシティブでやわらかい抒情詩だ。同じく「前衛」的な、次の詩の断片とくらべてみるとそのことはいっそうはっきりする。


三角形の多い土地で、美術館は瞋っている。絵画は音符を並べている。来館者は休止符である。建築のもっとも美しい角度ともっとも醜い現実が、休止符の中に堆積してゆく。音符は他の音符を切り刻み、音符の破片は菌糸として美術館を伝導する。せりあがった彫刻たちは音符の表面に囲まれ、音符の先端は彫刻を貫通し彫刻の影に紛れ込む。僕は音符と休止符を演奏する。なぜならば僕は三角形だからだ。
              (広田修「探索」現代詩手帖2008年8月投稿欄より)


 近藤は「なにぬねの?」というSNSで、彼の愛するたくさんの戦後詩を紹介する欄を持っている。彼の年齢にしては実におびただしい作品を「所蔵」しているのだが、あるとき彼も交えて何人かで酒を飲んだおり、近藤が、これら多数の作品や詩人のことを通時的に考えたことは全くなかったと言ったのにちょっとした驚きを覚えた。詩史論というものを自分は持たないのだと。では、もし詩史論が「物語」に過ぎないとすれば、われわれの寄る辺はどこにあるのか、という戸惑いを、この発言に感じる一方で、これは詩史論という呪縛から逃れて、自由への入口に立つものかも知れないと考えた。このとき、比較のために引いた、修辞としては非常に美しい広田修の作品にくらべて、近藤の抒情性が別の何かしら新しいもののように際立って見えるのである。詩の構文の散乱的なビューは、「ひび割れた光が散っていて」や「光の膝」という行がキーワードであるごとくに、この16行を、般若心経や陀羅尼といった「経文」のような見かけのもとに光被しているのだ。
「子宮」「破水」「あかごの籠」と、嬰児や幼児のイメージが顕著だが、これは、たとえば、外界に対しては暴力的なまでの修辞によって守られるべきもの、という寓意があるような気がする。守られるべきものとは詩であり、あるいはそれを書く詩人自身でさえあるのではないか。少なくとも、「膝を抱え」るのは余人ではないと思う。そこにあるのは詩についての詩、己を風景と見るまでの、自分に対する分裂的なまでのまばゆい愛だ。近藤弘文の現在の「詩」はここにある。さしあたって似た資質、個性の現代詩人を考えると、高貝弘也あたりが思い及ぶに近いところか。
 そうなると、「あ、蜻蛉」は、「あ、トンボ」ではなく、「あ、アキツ」と読みたい心が動いてならないのだが。

                                   2008/09/02
Posted at 13:45 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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