Oct 07, 2008

試論

生けるラザロ(小泉義之著『病いの哲学』をきっかけに)

  
  未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん。――『論語』先進篇

 『病いの哲学』(ちくま新書)の著者、小泉義之氏の筆法をもってすれば、小文のこんなタイトルのつけ方こそ「死に淫する」考え方の最たるものをあらわしているかと思う。けれど、いちどでもじぶん自身の死という事態に直面したことがある者なら、生か死かの問題は、なかなか「晴朗で単純な選択肢」(228頁)というふうに考えることはできにくい。ただ、経験から類推するに、たとえそれが避けがたいものであれ、または理不尽なものであれ、事故であれ病気であれ、他人が手を下すものか自裁かも問わない、訪れる死という事態は、死ぬ人間にとってそれら各々のあいだに何らの差等を措くべくもない、まったくもって同一の訪れと考えることができる。たとえばエルネスト・チェ・ゲバラが官憲に捕らえられて民家の裏庭に連れて行かれ、頭を撃ち抜かれるまえに見た畑の雑草と、病院から生還していま私が見ている鉢植えと、そう違いがあるとは思われない。ゲバラにはたぶん草を見た以外の思弁はなかっただろうし、私はいま鉢植えを見ているということが永遠のことではないと思うだけだ。こういった事実に気づき、あらためて驚いた人間としても抱いた、やはりこれが生死の問題に対する私の感想であり、割り切れなさである。
 私は、2002年の1月に肺ガンの診断を下され(3期)、化学療法と放射線治療、及び手術の成功ののち、4月初め退院し、6月、左頭部に転移した腫瘍の治療ののち7月に退院、12月、左脚付け根に転移した腫瘍の治療ののち翌年1月に退院、同年8月、私のようなガンの場合、指標となる腫瘍マーカーの200を越えていたある値が、数か月のうちに160、30、5以下という経過をたどったのを受けて、1月以降それまで定期的につづけていた通院化学療法を休止する(同時にモルヒネ系鎮痛薬のオフもともなう)、そして、ガン自体に対する積極的治療の全体を休止して2008年の現在に至る、という病歴を有する者である。担当の医師はガンに関して、もう緩解と言っていいのではないか、との所見である。三度にわたる病発とその治療による後遺症として、現在、比較的軽度の腎不全(徐々にではあるがクレアチニン値の漸増、つまり1・2くらいから1・9に至る数年間をかけた上昇)、右腕に起きるてんかん性の痙攣発作(放射線治療の痕跡の、運動野に属する患部周辺の浮腫が数年単位で漸増傾向にある)、左脚付け根の少しの変形とこわばり(洋式便器しか使えない)等がある。現在たんぱく質と食塩の食事制限中で、血圧降下の意図もふくんだ腎臓薬および降圧剤を服用中(ディオバン、アムロジン等)。このほか、ヒダントール、ガバペン、サロベール、ペルサンチン、グリチロン等を服用する。また若いころ精神神経系の疾患を負った名残から、就寝前にコントミン錠12・5㎎を服用している。

  1 死の瞬間
 
 いささか「陰気な話」(9頁)になるが、まず死とは何か、を考えることにしたい。入口はソクラテスである。

 ソクラテスは死んでいることは生きていることから生ずるとするが、その場合に考えていることは、肉体が生きている状態から死んでいる状態へ変化すること以外にはありえない。では、肉体における生体から死体への変化は、互いに反対の二つの状態の一方から他方への変換であるのだろうか。そんなことはありえない。ソクラテスに限らず、ほとんどの人は、死の瞬間があると想定している。(40~41頁)
 ソクラテスは死の瞬間、生と死を区切る線を、生体から魂が欠落する変化と思い込んでいる。そして、暗黙のうちに、魂が入り込む以前の肉体のことを、魂の欠落した死んだも同然の肉体と見なしている。とすると、ソクラテスは、魂が抜かれたかのように見える肉体が存在するとするなら、それは本来の生から脱落し、死の状態に限りなく近接する、死んだも同然の肉体と見なしていることになる。(43頁)

 ここで逆接的に押さえられているソクラテスの言説は、まず生の状態と死の状態があり、前者から後者に移行する境界や瞬間が存在するということ、それは肉体から魂が離れる境界や瞬間でもあるということであろう。私は、問題は魂の所在だと考えるのだが、ソクラテスの生きた時世(ときよ)とは異なり、現在では魂を、意識とか心、せいぜい精神や、また神経生理や脳の問題に読み替えて考える傾向にあるようだ。
 生から死への移行にあたり、心はどこに所在するのだろうか。死の床を理想的に考えて、長い臨終状態と想定するとき、多く意識の混濁や昏睡がそのひとのフィジカルな状態だろうと考えられる。リアルにはどうであるのか、とても断言はできないが、二度手術台に上せられ、二度全身麻酔を施された経験を言えば、数時間にわたるオペのあいだの時空は意識からまったく欠落している。主観的にも客観的にも。「首がちょん切られた感じ」とでもいえばいいか。最初のほうの手術のあとで瞬間的に立ち上げられた覚醒時、ばら色の花のような形象と「楽毅論」という観念が浮かんだのを覚えているが、そのまえの記憶は、脊椎に麻酔の針が刺し込まれた痛覚とやはり瞬時の意識の暗転(欠落)のほかには存在しない。けれどその間、心がどこにもなかったにも拘わらず、私は死んでいないのである。
 ふたたび考えるに、だがそのとき私が死んでいなかったというのは、術前の私といま生きている私との連続がたまたま途切れなかっただけで、なんらかの事態が出現してそのとき私に死が訪れたとしたら、心がどこにもないまま、私は死に移行したことになる。結果論ではあるけれど、もしそのとき私の連続が断たれていたとしたら、私の心がこの世に別れを告げたのはオペの冒頭、麻酔による意識の欠落の「その時」ということになる。つまりこれこそが、逆説めくが「死の瞬間」ということになるのだ。私の生や死はたまたまの結果に過ぎない。そんなことがあるのだろうか。
 最終章、小泉氏はフーコーの『臨床医学の誕生』から敷衍して、次のように述べる。

 死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散、これが末期の死の実情、そして、生そのものの実情である。(218頁)

 ソクラテスをこの立場からまたひっくり返して考えると、つまり、魂を意識や自覚的な心、明晰なイデアと捉えるからおかしなことになるのだ。ただ、生から死への移行は瞬間でもなく境界でもないだろうが、生と死のそれぞれが、自覚的な心や意識を有する人間にとって同じものではあり得ないこともまた確かなことだろう。細やかな移行の遅速はあるけれど、生と死ははっきりと別々の状態なのだ。そしてここに自覚的な心とも意識とも、またイデアとも異なる魂の在不在を想定することは、あながちに妄説とも思えない。あたかも小泉氏が奇跡の存在可能性を信じるように、魂の存在可能性というものについて、これといった現世的な明晰判明な反証を見いだすことは困難だと思う。
 これを別面から言えば、確かに自覚的な心や意識に死の瞬間は存在しない。「そのとき」自覚的な心や意識の欠落という事態がしばしば到来しているからだ(あるいは後出するように「死は人生のできごとではない」=ウィトゲンシュタイン=からだ)。けれど不随意的な心(これについても後述)、言い換えれば魂の存在と、それがかき消える「時」や「場所」というものを否定しきれるか、どうか、ということだ。
 否定しきれるとしたら、「私」にとって自覚的な心や意識が物理的に消失した・させられた時をもって死の定義としなければならない。
 「死んだ」こと(それは「私」にとっては意識の消失を意味する)が確認されたあと、息を吹き返したとしたのなら、私は死んでいなかったのである。こういう例は古来よりいくらでも挙げられる。そして、息を吹き返すことがないとすれば、私は死んだのであり、やがて腐敗に接続してゆく屍体と見なされる。これが、当人ではない他者、つまり医療従事者や家族から見た瀕死者の生死の(少なくとも「そのとき」の)区別であるほかはない現状であろう。
 源氏物語などでは、息を吹き返さない葵の上について、親たちは嘆きのあまり「まさなきこと」(おそらく死後硬直とそれにつづく腐敗現象)が出現するまで然るべきことどもを行わないが、これを昔人の蒙昧として嗤うことは私たちにはできまい。どんなに科学が進んでも、生活反応の復活をふくむ同様の例外とそれに対する期待は必ず存在するからだ。
 当然、脳死者の問題もこれにふくまれる議論のひとつになる。脈拍、呼吸、血圧、脳波、心電図があらわすものは身体の物理的な諸兆候であって、けっして魂の消息ではない(意識のレベルでさえない)のだ。その人の心がどうなっているのか、どこにあるのか、当人以外はまったく知る由もないのである。「意識が消失」していてさえ、なお。
 谷川雁にこんな詩行があったのを思い出した。

青山常に運歩す では人間の苦悩も
するどく生かされた山水木石ではないか
      (「恵可」谷川雁詩集より)
「するどく」が余計なような気もするが、人間も山水草木の一部にほかならないとすれば、意識があることに過剰な意味・価値を置いてもしかたがない、とむしろ私は考えてみる。意識(心)もまた山水木石の一風景だといえよう。もう少し考えれば、生物・無生物の違いに絶対的なものを見ることさえどうであろうかとも思う。生物はいくぶんかずつ無生物の要素があるし、無生物もなにがしか生物の要素を持っている。人間の心や意識や生の感覚も、この無生物から来る深淵を取り込んで初めて存在しているのではないだろうか。意識や自覚的な心やイデアという概念ではくくりきれない、魂という古くからある、そしてたんなる迷信の形とばかりは言い切れない考え方も、ここいらあたりに関係してくるような気が私にはする。
 さっきもちょっとほのめかしたけれど、不随意性という概念はこの書が提出している諸問題にとって、かなり重要なタームだと思われる。小泉氏はガブリエル・マルセルの次の言葉を引く。

不随意性という概念を深くきわめてゆかなければならない。これは、被造物の被造性をもっとも根底において構成しているものに対応する概念だと思われる。この観点から精神的な生を全体として定義して、それは、われわれが自分のなかの不随意性の領分を少なくしてゆこうとする活動の総体である、と言えるのではないかと考えている。(172頁)
私が諸事物を自由に処理することができるようにさせているその当のものを、私は現実に自由に処理することができないというところに、おそらく、不随意性ということの形而上学的神秘の本質が宿っている。(174頁)

 自覚的な心や意識をもってしては及ばない領分があるということ、そして、その不随意な領分こそが、自覚的な心や意識的な判断により、私がじぶん自身やじぶん以外の対象に自由に働きかけ、分節し、結合させ、総合するという可動性を、根底で規定し保証するものであることが語られている。自覚的、意識的であることが自体何で可能であるかといえば、それは、おのがままならざるものによって、言い換えれば意識の閾を超えたところからやって来るものによって、意識そのものの基礎づけが為されているからだ(ここでなんとなく、かのアルキメデスが「我に梃子を与えよ。されば地球をも動かしてみせよう」と言ったという伝承を思い出す。だが地球を動かす梃子をまた動かすことを可能にさせているのは、沈黙の宇宙の動かざるなにものかだ、と言える)。
 だがそれは唯物論的な意味での、純粋に物質的なところに由来するのでは必ずしもないように思う。心も物質であるとする太古の唯物論の立場から言えば、純粋に非物質的な領域に由来する論議とも言えないのであるけれど。腕や足を動かすのは当の腕や足によっては動かされないもの(およびそのことにまつわる神秘)であると考えるなら、自覚的な心や意識を超えてそれを基礎づける、容易には意識の水面には顔を出さない不随意性の魂という概念やそれにちなむアレゴリーも成立すると私は思う。私たちの心の世界は、それほどに深く、時として激しく、時として悦ばしく、また恐ろしいものをひめている。フロイトの無意識は果たして作業仮説にすぎなかったのだろうか。心肺停止していない植物状態の人間や脳死者について、われわれにいったい何ほどのことが解っているのか。
 「尊厳死」や「安楽死」について一言だけ触れるなら、生と死は、意識的であることが意味を成さない領域に関わるものであると考える以上、つまり、魂というものを意識や自覚的な心の上位に置くという立場からは、容認できるものではない。自ら撰ぶものであるにせよ、家族が撰ぶものであるにせよ。自殺や殺人は現実態としてある程度の実数は不可避なものであるにしても、「尊厳死」や「安楽死」は言い換えられた自殺や殺人であることを忘れるべきではない。それはあくまでも否定性のコンテクストのうちに語られるべきだし、その法制化は、おのがままならないものに対する、別の言い方をすれば自然に対する、人間の貪りを背景にしている。おそらく現代人の心は古人のそれよりも、ずっと小さくて弱く、痩せたものになっているのだ。

                  2 生という経験

 この小さな項ではしばらく『病いの哲学』本文から離れる。冒頭の『論語』の引用ではないが、「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」というように、生死は一対一体のものとして考えられることが多いようだ。しかし、少し立ち止まって考えてみるに、死についての言説の多さほどに、生それ自体についての言説は多くはないような気がする。死は自体として語られることが多いのに、生はその有という性質からか、いさおしや名誉、酒や女、美しいもの醜いもの、苦悩や喜びや悲しみ、愛憎、といった内容の多様性に覆われて、自体として語られる部分は意外に少ないというのが実情ではないだろうか。
 つまり、生は経験に置き換えられるということだ。さきほども引いたが、ウィトゲンシュタインの有名な言葉に「死は人生のできごとではない。ひとは死を経験しない。」というのがある。けれど、生が人生のさまざまなことがらの経験であるとしたら、その当体である生自体は経験に属すのか。私は生自体も人生のできごと(=経験)ではないという考えに立つ。もしこの言説が成り立つとすれば、それは生の発生そのものが人生の外側に足場を置いているということに対応するだろう。いまここにいるという私の生は、やがていなくなるという私の死と同様、私にはまったく理解が及ばない、いまの私とはかかわりのない部分があるのだ。
 こういうことが言えるのではないか。死が経験に属さないものだとしたら、生もまたしかり、死の瞬間が経験に属さないとすれば、生が発生するその瞬間もわれわれの経験に属さない。では、真の生そのものや死そのものは、それらは、「いまの」わたしには与えられず、知られないだけの「隠された経験」だとでも言うのか。
 うまく言うのがむずかしいが、生を例に取れば、たったいま、この瞬間「生きている」こと、その生の感じ、実感は、経験として私に与えられている、生そのものの一つの側面にすぎない。この「感じ」はまぎれもないが、その生そのものを私は「経験裡」にはいわば確定することができない。生死をひっくるめてそういう事態を確定している経験の外側、生死の外側のなにものかがある。時空の外にあるアプリオリな形式とでも言うほかないような。
 生死はおそらく両面ではなく一である。生きてあることと死んであることとは、たぶん同じことなのだ。先にも引いた「生への死の分散、死への生の分散」というのは、内在的にはこのことの別の言い方だと思う。仏法に次のような言葉がある。道元『正法眼蔵』第一「現成公案」(岩波文庫版)から引く。

かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しやう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。(第一分冊56頁)

 およそ世界の存在者は不生不滅、生ずるものでもなく、ゆえに滅するものでもないことを、高らかに宣している。おそらく死はアプリオリなものだろう。同様に生は(死と異なり)アポステリオリなものをその内で語りうる、同様にこれもアプリオリなものだと私は考える。生を現実の側から見るのではなく、経験的なものとして固定的に捉えるとき、われわれはいくぶんか、ものごとに対して思弁的、観念的に接しているのではないだろうか。だが、このアポステリオリな思弁や観念に、私が何かしら切ない懐かしみのようなものを感じてしまうというのは、どうしたことか。いまはもう吸わなくなった、むかしのタバコの匂いみたいに。

  3 病ととりもどし

 クロード・レヴィ=ストロースは、1977年のCBC(カナダ)ラジオにおける講話のなかで(『神話と意味』みすずライブラリー)、幾何学的な観念の起源の問題について、古来からある議論、つまり例えば円などの観念は白紙状態の心に経験によってもたらされるのだ、という説と、もともと円や直線の観念はイデアとして人間の心に本来備わっているものだ、という両説を挙げたあと、次のように述べる。

 さて、現代の神経生理学者たちが視覚について教えるところによりますと、網膜の神経細胞および網膜の後方にある他の器官は役割分担が決まっているのだそうです。ある細胞は垂直方向にまっすぐなもののみを感じとり、他のあるものは水平方向、他は斜めの方向、そのあるものは背景と中心映像の関係のみを感じとるという具合です。そういうわけで(中略)経験と心の対立というこの問題の全体の解決は神経系の構造のなかに見出されうるように思われます。心の構造とか経験のなかにではなくて、心と経験のあいだのどこかで神経系が築きあげられるやりかた、そしてその体系が心と経験とのあいだの仲介をするやりかたのなかに見出されると思うのです。(9頁)

 形而上学と生理学とに二極化されがちな議論を、文化の具体性として鋭く根拠づける言明といえるが、私がここで触発されたのはそういうことではない。
 先の「病歴」の自己紹介でも触れたけれど、私の左の脳の運動野には治療後に残った9ミリほどの傷がある。今でも、昏倒や意識の混濁こそないが、てんかんに属する痙攣発作は2~3週間に1回ほどの頻度で出現する。たいていは軽く3~4分ほど、さいしょ見えない針に刺される感じ、それから鋭い電流の走る感じが右手右腕に来る。ひどいときは随意にならない筋肉の激しい動きをともない、バタバタという感じで上膊部ごとあばれることもある。自覚的にも、また傍目にも、なんらかの事態が起こっているのは右手右腕のパーツにほかならない。知覚も経験も心もそう見なしている。だが、現実にてんかん性の放電のようなことが生起している部位は、そのパーツは、脳の左側なのである。あまり専門的なことに踏み込むわけにはゆかないけれど、これは、たとえば右手を切ったら血が流れて痛みがある、という事態とは少し異なるのではないだろうか。痙攣発作が起きているとき、頭部の左側には何ら際立った感覚もないのである。
 この病以前には、たまたまシャツのボタンを付け替えたときに違和感があり、そのせいだとずっと思っていたのがじつは帯状疱疹の痛みに繋がるものだったことや、何の自覚もないのに検診の結果、間質性肺炎の診断を下され、CTの写真にポコポコと壊死した真っ黒な空洞が写っているのを示されたすえ、何度目かのCT撮影で突然病巣が「消えて」いるのを見たり、この病(肺ガン)に関してはそもそも痛みや呼吸困難という、想定されがちな兆候がまったく無く、声の変調(嗄声)から検査をしてみて初めて判った、ということなどから、少なくとも身体の見えないところで起こっていることは「自覚的」「合理的」には何一つ判ったものではないことを痛感している。
 [手術によって声帯をめぐる神経が切断され、声のほとんどが失われたにも拘わらず(声はもう出ないと医師に言われたと記憶する)、現在の私は普通の声で普通に喋ったり歌ったりしている。筋肉の他の部分が代替しているのだと説明すると人はなるほどという顔で納得するけれど、2回の転移をふくむ3つの部位にわたるガン(担当医師は「最悪の経過だった」と最近になって私に打ち明けた)がいま緩解を迎えていることと併せ、私の身に起こったことは一つの奇跡に匹敵する怖ろしい事態なのだと、個人的には思っている。ラザロという言葉(ロゴス)が思い浮かんだゆえんである。]
 さて、「心と経験のあいだのどこかで神経系が築きあげられるやりかた、そしてその体系が心と経験とのあいだの仲介をするやりかた」というレヴィ=ストロースの言説がこのとき注目されるのだ。なぜならそれは、診察と検査とによって診断が下され、病名を確定するという西欧医学が、その発展成長の過程で捨象してきたものを示しているような気がするからである。
 つまり、病名が確定されて初めて病が成立する(それは治療法が確定することでもある)という西欧医学的世界観は、病に陥っている当の人間(医者ではなく)自身の「心と経験のあいだの仲介をする」もの、言い換えれば病者自身が自らの病が「何であるか」を知り、理解するという側面をみごとに捨象してきたのではないかということだ。病む者はじぶんに何が起きていて、なぜこういう、多くは苦痛という形で訪れる感覚に繋がるのか、実感的に理解し、納得したいのだ。
 しかし、絶対的受動者としての病者、つまり患者を病院の医師は相手にしているのであって、医師は患者が自らの(それは医師の、でもある)病気について医師と同じように分析的に解釈するのを、ほとんど職業生理的に嫌悪する。医師と患者とはけっして一つの象限に同舟することはない。医師は体系立った専門的知識という、いわば乱数表ともいうべき特権にして武器を、病という具体性に当てはめてその世界を捉える立場だ(具体性としての病はつねにその乱数表で分節される世界を少しずつはみ出した、不整合なところから、言い換えれば、自然を源泉とする領域からやって来ることは、しろうとでも分かることだ)。交換可能な二人の人間がいて、病という事態が二人に関わって存在する場合、「乱数表」を持つのはどちらか一人でいいし、その乱数表は一つでなければならない。
 たとえ病者が同時に医師であったとしても、そして自らのために処方した薬を服用したり自らの肉体にメスを入れたりしても、彼が乱数表を当てはめるのは「じぶん」ではなく、あくまでも対象としての身体、他者のそれと同じく他としての肉体にほかならない。譬えて言えば、このとき彼は、人が経験と、言い換えれば世界と、心、つまり「じぶん」とを結びつけている神経系の構造を介するのとは別の経路で、自らと、病んだ身体を見ている。いわばじぶんの心と、病んだ身体という経験とを排中律的に眺めていると言うべきなのではないか。その加療時、病者である医師のなかで、苦痛を感じている一つのパーソナリティであったときのように病者と医師は一つであるのではなく、ふたたび象限を異に峻別されるのである。
 私の経験では、すぐれた医師はこの専門的知識という乱数表が有機的組織のように柔軟に伸び縮みするけれど、そうでない医師はこの乱数表が堅い物差しのように、曲線的かつ柔らかであるほかない対象に直線的に当てはめられるのだ。円を、回転の要素を欠いた直角定規で描こうとしているのだ。すぐれた医師の場合はその説明の一つ一つが具体的で理解でき、病者はいまじぶんに何が起こっているのか納得できるし、それが「神経系の構造」を介した手触り、実感に至る可能性さえ、しばしばほの見えたりする。そうでない医師の希望的な見立てが、しばしば病者を絶望でしかない現実に陥らしめるのと鋭い対照をなすように。
 特に医師を始めとする医療従事者のすべては、『病いの哲学』の次の箇所で語られるような事態に深く思いを致すべきである。かれらにとって患者の生(とその尊厳)は往々にして禁忌の対象であることにはじまって、驚くべきことにそれが存在することへの無視に至り、患者そのものを奇怪にも非人格の軽侮すべき対象物のごとく扱う場合がある。

もちろん病人は悲惨である。そんなことは誰でも知っている。しかし、「生命、しかも病的な生命」は、「もっと深い、もっと隠された、存在論的レベル」に位置している。深き淵にいるのだ。とすれば、それに相応(ふさわ)しい「根本的な地位」を賦与しなければならないのは明らかではないか。(224頁)

 ところで『病いの哲学』ではいままで述べてきたこの乱数表というメタファーを、コミュニケーション・ギャップというタームであらわす。

排除と包摂の構造があろうがなかろうが、「利得」があろうがなかろうが、病人は徹底的に受動的で無知で無力な状態に置かれる。自分の肉体の来し方・行く末についてさえも無知で無力な状態に投げ込まれる。(中略)病人は回復を望むが、無知で無力である。これに対して、医師は、回復のための知識と力を持っている。これが、コミュニケーション・ギャップである。(196頁)

 むろん、医師が実際に「回復のための知識と力」を持っているか、いないか、実際に「回復」させるか、させないか、という現実に関わりなく、コミュニケーション・ギャップは存在している。また、すぐれた医師であろうが問題のある医師であろうが関係なく、このコミュニケーション・ギャップは厳然と存在する。この配置にはどこか秘儀的なところがあるのだ。おそらく、シャーマンが病を治していた時代、クスシが病人の脈をとっていた時代とそう変わるものでなく、でもだから旧習を改めましょうという論議にはならないような微妙な問題だと私は思う。シャーマンが村の人間の病を治す図と、先端の医療設備が整った病院で医師が患者に対する図とのあいだには、なにか相似て共通した普遍性のようなものがあるのではないか。私自身はこの「配置」を、否定的にのみ考える立場をとらない。ここから拡がってゆく「文化」の問題には、意外に大きく深いものがあるのではないかと思うのだ。
 このコミュニケーション・ギャップの問題に接して、小泉氏はパーソンズの言説から治療可能性と治療不可能性という概念をみちびく。

 「医師の治療の根本的な限界」「不確実性の非常に重要な領域」が、厳然として存在しているのである。パーソンズが見据えているのは、このクリティカルな地点である。治癒する場合においてさえも、いわゆる自然治癒力の寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない。(199頁)

 この「不確実性」の領域は現実のすべてに膜のようにかかっている。ある現実からある術語を導き出すことはできても、その術語で現実そのものを顕示することはできない。厳密な意味で現実を「再現」することはできないのだ。その術語であらわされるのは、現実というよりその分断である。なぜなら術語は術語であって現実ではなく、術語と現実とは絶対に可逆的ではあり得ないからだ。医学が(科学が、と言い換えてもよい)現実や自然に対し、ますます網の目を細かくするような昨今を目にするにつけ、不確実性は縮小するのではなく、細かくされて網の目が増えた分だけ、それに対応して、却ってその領域を拡大させているように見える。じぶんの患者の症状が予想に反して悪化したり、逆に消滅したりするのをまえに首をひねるということは、むしろベテランの医師に多い経験なのではなかろうか。医師はほぼ術語によって病という現実と関わり、その治療は術語の範囲以外の領域にも関係して病という自然の一項に加えられると考えることができる。「いわゆる自然治癒力の寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない」ゆえんであろう。私はいま、この「自然治癒力の寄与分」ということに深く沈思を傾けたい思いがしている。ただやみくもに「治りたい」のではない。病ということを通して生を理解したいし、その全うされた形、言い換えればその突然の訪れさえをも容れうる了解性として、死をわが内海としたい。希望は、そんなところにあるという気がしている。
 このとき、まえに言った「神経系の構造」というものに重点を置いて病にアプローチするやり方、つまり自らの身体性に実感的に迫ろうとする動きが気になってくる。整体やヨガ、中医学、マクロビオティックなど(しかしこれらはいささか過去の話柄に属するものかも知れない)、これらの動きは現在医療的なものに繋がる色んな分野で澎湃と立ち上がっているようだ。とはいえ、自らの身体について実感的であるというのは、いかにも逆説のように聞こえるがほとんど百八十度の世界像の転回を要するほどの難事だと、自身の経験に照らしてつくづく思う。また過渡期にありがちな(私は今を乱世だと思うが)、胡乱な話や商売ネタに類する言説もたくさん振りまかれ、それを科学至上主義という俗信がここぞとばかりに攻め立ててあざわらうという構図も、随分見てきたような気がする。アガリクスやメシマコブその他に祈るように縋っていた何人もの療友を亡くした。オウムのこともあった。けれど、私が痛感するのは「神経系の構造」を介してのみ、また、その自然からの糧道ともいうべき回路を手放さないことでのみ、人は世界と、自らと、繋がっていられるということだ。そして付け加えたいのは、神経系の構造は知覚を統べるが、それは人にとっては不随意性そのものであるということだ。この不随意性そのものはたぶん、人生の出来事に属さない。これがあるから人はその生の切所要所において、厳粛で、適切でありうるのだと思う。マルセルだったらこれを神秘という言葉であらわすだろうが。
               07/02/23                        
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Sep 23, 2008

評伝

大木重雄誄


 そのじっさいの謦咳についに接することがなかった。私がいつかそっちのほうへ行く仕儀となっても、芭蕉の書簡によくあるように「猶追而貴面」(手紙の書面ではなく、実際にお会いしてお話しします)というわけにもまいらぬだろう。けれど、私が現実にお会いした誰よりも、大木さんとは密実な手紙や葉書のやりとりがあった。大木さんと袖振り合うほどのご縁の方の誰しもが、びっしりと白紙や桝目を埋めたあの懐かしい細かいペン文字を思い浮かべるのではなかろうか。紛失したものも多く、そのことが今ではこころの生傷のように痛むのだが、遺された手紙葉書がいま私の横のここに積まれてあるのを見ても、つくづくと思う。ここに大木さんは居て、現在でも私に、ここから放出される未来のことまで語り尽くして倦んじない、と。それはビデオやコピーのたぐいではない。一枚一枚が取り替えの利かない、大木重雄という深い一回性の現前にほかならないのだ。
 大木さんは生前、あまり作品集というものを出すことにこだわらなかった。業績としてジョン・P・オニール著『メトロポリタン美術館の猫たち』(誠文堂新光社、昭和五十八年)という翻訳書が一冊あるというのが、ダニエル社から二冊の詩集を出す以前の公式の記録といえる。大木さんのものされた評伝『回想の牧章造』(坂井信夫氏個人誌「索」に十五回連載)によれば、大木さんは戦後すぐから詩や小説を書き、発表してきたが、その総数は私としては知るべくもない。それらが輿論においていかなる評価を受けたかも、個々についての詳細を、大木さんはその細かい文字による消息の一片だに残すことなく持って行ってしまわれた。繰り返すようだが、私の手元に残されたのは、詩集『山谷堀寸描』(平成十九年二月、ダニエル社)、第二詩集『愛にひきあげられて』(平成二十年六月、ダニエル社)、それから私宛の大量の手紙、葉書類のみである。此によってこれにより、大木さんの人となりと生涯を、その一端なりとも想い起してみたい。
 大木重雄さんは、昭和三年、東京・浅草に生まれた。ご尊父は歌舞伎界の道具方の重鎮であったことが、葬儀の日の弔辞により明らかにされたが、たぶんよちよち歩きの時分から歌舞伎座の観客席はもちろん、楽屋や奈落まで出入りされていたのではないだろうか。学齢時代は山谷堀尋常小学校から京華商業、それから年譜的には明治学院に進まれて戦後を迎えた。この間に、昭和二十年三月十日の下町を襲った東京大空襲に遭遇し、九死に一生を得ている。このことは、私思うに大木重雄氏の一生涯をほとんど被うほどの翳となってその身に寄り添っていたのではないだろうか。卒業後、生計のために汐留の日通でアルバイトなどするうちに、詩人の牧章造と出会い、親交を深めるきっかけとなる。のち、やや転身して立正中学・高校に奉職し、立正大学で英文学など講じるに至る(筆者宛書簡より)。戦後、結婚した百合子夫人と一男をなし、平成十八年、夫人を亡くされる。「それは私の死も同然だ」(『愛にひきあげられて』あとがきより)。
 私とは、たぶん平成十五年ころから個人的に親しくさせていただいた。きっかけは拙詩集をお送りし、それへの評が好意的以上のものに感じられ、個々発表した拙作についても丁寧だったり辛辣だったり、ときに過褒とも思われる言葉をいただいて、ついに十冊ほどある、あまり評判も取らずにわが家の押入で眠っていた詩集をふくめ、愚作のすべてをお送りする仕儀にまで立ち至った。大木さんの言葉はつねにわが詩作の励みであり、その見識と直感の鋭さにおいて、豚を木に登らすにじゅうぶんな力を持っていた。
 詩のことに関してはさておき、私がお送りした文庫本サイズの飲み食いの話『解酲子飲食』(かいていしおんじき)は大木さんをことのほか喜ばせたようだ。あのなかで「銀座の魚屋」と書いたのを大木さんは見咎めて、はて銀座のしかも木挽町あたりに魚屋などあったか知らんとおっしゃるので、「歌舞伎座裏の魚石です」と答えたら、《お礼申し上げなければならないのは私のほうです。木挽町界隈はわりあい知っているつもりでしたが、知らないことが多多あると分かり自戒しております》と書いて寄越されたが(平成十五年十二月四日付葉書)、今から考えると誰を相手にものを言っていたのか、私もめくら蛇に怖じずで、随分恐ろしいやりとりをしたものである。冷汗一斗とはこのことだ。
 私の前便で江戸料理の泥鰌や田螺のことを話題にしたところ、上記の返信でこんなことを書いておられたのが、いかにも大木さんらしい。《先日脚の故障をおして久久に歌舞伎座へ言ってまいりました。「お染の七役」の小悪党鬼門の喜兵衛と土手のお六の侘び住まいの場面で、喜兵衛がみずから求めてきたアテで、お六に酌をさせるところがあります。そのアテを喜兵衛がはっきり「たにしの煮つけ」と言っております。(中略)「たにしの煮つけ」というのは当時の庶民のもっとも安直なアテだったのでしょう。これは南北の闇の世界…。》(同前)。
 いったいに大木さんの飲食というのは、あるいは、飲食から見た世界観と言ってもいいが、ご自身がまさにそうであるように、骨の髄からの江戸人のそれにほかならない。清酒好き、魚好き、肉は得意でなく、歌舞伎の見巧者、見知らぬ町へ行ってその町の銭湯に入るのが好き、推理小説やクラシック音楽をいたく好み、フランス語に堪能、英語はご専門、だが、そういうことをひけらかすのは野暮天がすることとばかり、その種の話柄に出会うと「顔をしかめた」そうだ(佐野菊雄氏の弔辞による)。その東京の下町に寄せる思いは並々のものでない。いつか小さな詩の集まりの仲間で、忘年会をやったことがある。場所は深川は高橋(たかばし)の「山利喜」。そのときのことをおもしろ可笑しく書いた私の駄文がまた大木さんのお眼鏡に適ったようで、その尺牘をここに紹介しても差し支えあるまい。
 《「林」の忘年会「山利喜」とはやはりという感じ。発案者は当然倉田さんでしょうね。倉田さんの食物記を拝見すると、尻が落着かなくなります。と言って蟄居の身、お便りを食するしかありません。「目に毒」と言いますが、目のほうは年賀執筆中に襲われました。いつもなら数日でおさまるのですが、今回はなかなか旧に復しません。世はショーチュウ党一色で、すし屋でも「イイチコ」などが取置きで満杯のとき、皆様日本酒党のようで、わが意を得たりです。でも「山利喜」にナチュラルチーズやアンディーヴが登場するなんて、私の時代遅れもはなはだしいと言わねばなりません。何回も拝読しているうちに、発狂(?)にも似た妬ましさを覚え、すごすごとお便りを封におさめました。有難うの上に「お」をつけて鶴見までふわふわ飛んでいきたい、と言うことではありません。むしろ大変元気づけられました。奥様もかなりの酒豪のご様子、もし良いアテでもあればどうなるのでしょう。(息子も楽しそうだなと嘆じておりました)》(平成十七年十二月三十一日付葉書全文)
 「山利喜」をちゃんとご存じであった、というのは話の順序が逆で、むしろ私のほうが下町の人間なら誰でもが知っていたはずのこの店に、よくも巡り合ったものだという僥倖めいたことを思うべきなのかも知れない。これも、めくら蛇に怖じず、のたぐいであろう。そういえば上述の食物記で、「日本堤のけとばし屋に行った」と書いたら、おいおい君、という感じで、困りますね、私の縄張りにまで入ってきちゃあ、といったニュアンスのお便りをいただいて、このときもいたく恐縮した。「日本堤のけとばし屋」とは、桜鍋の「中江」である。こういった下町の店々を友人たちと飲み回って深更にいたり、気がつけば今までそばにいたはずの彼らみんなが幻のように消えていた、という氏の幻想小説の一端を拝読させてもらったことがあるが、これは死者となった若き日の友人たちへの愛惜であると同時に、「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」「前世」の記憶(『山谷堀寸描』より)、その中にしか存在しない大木さんの東京下町というものへの秘められたる鍾愛といえるのだ。
 大木さんの下町好きはまたその歌舞伎好きにも通じる。詳しくはないのであまり大きなことは言えないのだが、さっき紹介した葉書の文面にも鶴屋南北が登場している。河竹黙阿弥もお好きのようであったが、これは私の好みと重なる。役者では断然菊五郎。ただし六世で、これをオン・タイム、生で見るのを得たことが大木さんの大きな財産のようであった。葉書の中で大木さんはこんなことを書いている。《「間」は「魔」で歌舞伎でも同じです。私が今も六代目菊五郎を尊敬してやまないのは「魚宗」のセリフの「間」に鳥肌が立ったのを忘れないからです。》(平成十七年八月二十日付葉書)。また、中村歌右衛門と坂東玉三郎のやりとりをこんな風に言う。《(妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)について)歌舞伎ではとても通しはのぞめませんね。精々「山の段」―「道行」―「館の段」ぐらいですが「山の段」が見ごたえがあります。それで思い出したのですが、六代歌右衛門が定高(さだか)を演じるとき、他の人とは違うところがあると聞いた玉三郎が、自分が演ずるとどこが違うか知らせてほしいと頼んだそうです。結局はちょっと小腰をかがめて顔をそむけるうれいの姿(後段の伏線)だったそうですが、玉三郎がどうやったかは覚えていません。いま歌舞伎座建て替えの話があるそうですが、あの辺をよくご存じの倉田さんはどうお感じでしょう。戦後やっと歌舞伎座の上演が許され、焼失した歌舞伎座でなく筋向かいの東劇で上演、私も行きましたが、出し物は「助六」、いくら名優の六代菊五郎でも揚巻はどうにも「アクタイのハツネ」も通りませんでした。》(平成十八年六月十七日付葉書)。「あの辺をよくご存じ」とは、私がかつてあのあたりにあった出版社で、フリーランスとして七年ばかり仕事をしていたことがあるのを指す。「木挽町の魚石」はそのときの話である。また、六世菊五郎の「アクタイのハツネ」とは何かが、今の私には判じようもないのが、隔靴掻痒のごときものであるのだけれども。
 大木さんの文学に関することと言えば、創作を別とすれば、大いにご自身に影響があったというか、その文学的体力に資するところがあったのは、やはり英語であり、それから独学でやって来られたというフランス語の文学であろう。あまり詳しくはおっしゃらなかったが、英語圏ではジョン・ダンを読んでいた一時期があるという。またフランス語ではボードレールの『悪の華』全巻を通読されたのが大きいと思う。大木さんは野暮な大声を出されない人なので、このほかにも泰西の大小詩人たちに関する知的な蓄積量に、目を瞠るものがあることはその片言隻語からじゅうぶんスパークしていた。そのスパークが分からない向きにはまた「顔をしかめ」たことだろう。
 音楽ではモーツァルトのどれそれ、シューベルトのどれそれといった、作曲家や作品そのものを評するというかランクづけするということはあまりなく、誰のどんな演奏がよかったかとか、演奏者の逸話や表情といったことに重きを置かれていたようだ。つまり作品がどうであるかというよりは、その現前たる演奏や演奏家がどうであるか、といったことに興味の中心がおありだったのではなかったか、と書けば、我田引水になろうか。この曲はこの演奏家に限る、という言い方もあまりされなかったように思う。
 詩以外では、小説は無類にお好きであったと感じる。海外文学だが、ドストエフスキーは全部お読みになったのではないだろうか。「近代文学」の作家としてだろうけれど、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』など、私に恵与くださった。埴谷は私は若いころ、一種の思想家として考えていたものだが。それから島尾敏雄の『贋学生』に話が及び(手紙でである)、あれを若いころ読んだことがあると書いて送ったら、あれまではなかなか島尾を読んだと言っても読んではいないのだ、とお褒めに与った。あの作品を石川淳が評して「駄作というより、世紀の悪作である」と言ったと教えてくださった。ついでに、島尾敏雄を大作家という人がいるが、じぶんは島尾が「大」のつく作家という気がしない、とも話されていた。
 その詩的履歴については、なんといっても『回想の牧章造』が第一資料として挙げられよう。これをなんとかして、パンフレテールな形ででもよいからまとめておき、流通させたいものと思う。金子光晴始め、じっさいに大木さんがその謦咳に接した詩人たちが走馬燈のように出現しては消えてゆく、そのまぢかの息遣いさえ聞こえてくる貴重でレアな記録である。また現在では失われてしまっている、幾時代かの雰囲気のようなものがそくそくと伝わってくる。ちなみに原爆詩で著名な大木淳夫は、大木さんの御縁者のようである。大木さんは決して原爆詩や空襲詩や思想詩などは書かれなかったが。
 最晩年、という言い方も私には口惜しいが、その晩節に夫人を亡くされたことが大きな痛手であろうことはみずからも仰られ、また容易に他からも推し量ることができようが、それを境としてそれまでにも傾向としては萌芽をのぞかせていた、一種の神秘思想に傾いてゆかれた形跡が窺われる。先にも言ったが、ジョン・ダンを読んでいた一時期があったということを告白されてもいる。夫人を亡くす一年前であるが、こんな葉書を寄越されている。《また今生を相対視しはするが、迷信には行きつかない(拙詩集『夕空』のあとがきによる)、の迷信とは「ある種の神秘主義」でしょうか。シュタイナーをかじった私には耳が痛いのですがおっしゃる通りでしょう。》(平成十七年八月二十日付葉書より)。そして、最後となった第二詩集『愛にひきあげられて』に顕著なキリスト教のしかも旧教の面影が濃厚な詩群、それは亡夫人との深い対話を為すものであるが、それに通じる葉書の一節をここに引いてみる。《私はもっと単純に考えます。人間(というより私自身)は一個の生物体に過ぎませんので他の生物と同じ道筋に従う。この自覚はかなり若い時期に訪れました。家族は子供の誕生を祝うが、子供自身は誕生しなかったことを祝われるべきではないかと。しかし、現在はすこし変わってフィルムを逆回転させ、幻の母の胎内におさまればよい終結だと。凡庸な「胎内願望」に過ぎませんがほんのすこしの「神秘」が加味されています。》(平成十九年三月十日付葉書より)。
 この女性性にかかわる「神秘」が、大木さんの晩節に訪れたと見てよいのではなかろうか。いっぽうで、大木さんにはこんな側面があるのだ。《……ここだけの話ですが(ビトウイン・ユー・アンド・ミー)、私が「女色に潔癖」などよくお判りになりましたね。正確に言えば「女性への恐怖心」とも言えるでしょうか。女性は現世に足がついていますが、私は二、三センチ宙に浮いて生きてきたようです。昔、ある文学の会合である女の子が、私を見つめて、私の詩を全行すらすらと暗唱したことがありました。その結果はご想像にまかせます。》(平成十七年五月二十六日付葉書より)。
 ここで言う「恐怖心」がどこからやってくるのか、にわかには判じがたいけれど、思うに、むしろ女性たちを強く引き寄せてしまう要素が、大木さんにはありていに言って可成りにおありだったのではなかったか。みずから仰るごとく、大木さんにはあまり、ではない、全くと言ってよいほど女色への嗜好、いいかえれば俗臭が感じられないのは事実だ。それが神秘的な氏の女性性とどうかかわっていたのか、精しくは大木さんご当人にあちらに行ってからゆっくり伺うにしても、その俗臭の無さの理由のひとつに、ご自身が過剰なまでに固く身を律することをされていたことが挙げられる。その潔癖さの根源をはるかに思えば、却って「色を好むが如くする」(『論語』)という言葉が思い浮かんでくるのは、一体どうしたわけか。むしろ女性性をめぐることがらは大木さんにこそ相応しい。若い吉本隆明がかつて太宰治と面談したさい、君その無精髭を剃りたまえと言われた、所謂「マザー・シップ」の伝説など思い合わされる。ご母堂や夫人に支えられて生きてこられた大木さんが、「女に愛されない男」であるわけがない。むしろ大木さんという少年的な存在が、女性性の篤い庇護を受けているという、聖画の構図のようなものさえ浮かんでくるようだ。
 ご夫人が逝かれたのが平成十八年、大木さんが逝かれたのが平成二十年。なんと短くて長い、遅い、遁走曲のひまであったろうか。大木さんの訃報を聞いた夜、大木さんは女性性という大いなる神秘へ還ってゆかれたのだと、つまらない句でもって一瞬のミサとした。

 水無月のやへがきとはに妻籠みに  解酲子
   
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Sep 13, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート3 地名、詩、差別のことなど


 ある存在が具体的に存在するとは、どういうことなのだろうかと考えた場合、それはその存在が世界と繋がれてある、というのがひとつの答えとなってくるような気がする。人間に引き直してみれば、その人間の帰属先ということであるが、先の戦争のこともあってか、このことを公明に論議するのが避けられてきた嫌いがなくもなかったようだ。
 復古とか国粋とかの翳りなくして、この問題にあたうかぎりの精確さをもってあたってきたある部分が、たとえば柳田國男であり、たとえば折口信夫といった人びとと言える。彼らは、ある個性や集団のアイデンティティがまさに危機に瀕していた近代の始め、その個性や集団を支えていたアイデンティティそのものが奈辺にあり、どこに帰属していたのか、柳田はモーセのような指導性をもって、折口は鋭利な学匠詩人の内面で、深く掘り下げていったのだ。
 人が具体的に在る、と言うとき、もちろん米を食いパンを食して屋根のある場所で寝、畑へ行って芋を掘り、あるいは鎚をふるって鋤鍬を鍛えるのだが、それらのことが具体性なのではない。柳田や折口がさぐったのは、人びとはただ己の欲求したままにそれらを行為するのではなく、ひとつの理法とも言うべきものに則ってこれらを行い、理法もふくめたそのことに初めて具体性がある、という現実にまつわるsomethingなのだった。
 この理法のことを詩だと言ったら、性急に過ぎ、またおおかたの向きの顰蹙を買うだろうが、といって何か積極的な理由がなければ人は、たとえば食べ物に色々な料理法を加えることさえしないと思う。食べ物に限定すれば、食べてはいけないとされる物が、別の場面では薬として摂取され、また、それどころか、ある家(神職など)では禁忌の対象である食べ物が、他のおおかたの家々では大変なご馳走であったりする理由というものにも、少しく地上的ではない性格があるのではなかろうか。これをそのまま詩だとは言えないにしても、そこに連接してゆく性格がある、とまでは言えそうだ。
 最近柳田の『地名の研究』を読み返してみて思ったのだが、それは、われわれは抽象的な空間に符号のように点在しているわけではなく、あるひどく具体的な言語圏、風土、季節や気候の中に血を通わせていて、その取り巻く環境(milieu)の重要な項目に地名というのがあるのではないかということだった。このことは、一旦東京のような都市にいると往々にして忘れがちなことではある。
 われわれは自分の帰属先のヤカラ・ウカラを思い浮かべて、じぶんのことを一般的に日本人と称するが、たとえば英国人は、じぶんはウェールズ人である、じぶんはスコットランド人である、という具合の言をなすそうだ。よその国のことは調べていないのでよく分からぬところがあるが、少し前の日本人なら、熊谷二郎直実が武蔵国熊谷の人、新田義貞が上野国新田の人であること等は常識であって、地名と人の名(家の名)が切り離せないものであること、たとえば平家語りの、能楽の、あるいは浪曲での主人公の名乗りに同じである。
 これは歴史的に言えば、近代国家成立以前の人の帰属先というものを表現していると言える。いささか、ここでも性急な口吻をもってすれば、「帝国」成立以前の、クニが暴力装置としての巨大機械に変貌する以前の、もっと小さな単位で生活が成り立っていた地名たちというものの気配がそこにある。
 柳田によれば、地名の発生は最初は地点名ともいうべきもので、「黒岩とか二本杉とかいう類の狭い場所だけしかさしておらぬ」ものがそれである。同じものでも、それが「山の麓のやや続いた緩傾斜地」を意味する長野となると、「そこにお寺の大きいのが建って繁昌すると、後には市の名となって、谷陰にも大川の岸にも及び、さらには県庁が設置せられると、後には広い信州一国の県名とさえなった」。私の住んでいる横浜でも似たようなことがあって、京浜急行の各駅停車が停まる仲木戸という駅があるが、そこは東海道の木戸が置かれていた場所で、付近にカナガワ(上無川、金川とも)といわれる小川が流れていたのがそのまま宿の名や区の名となっている。もともとこの土地、江戸の開国にあたり、アメリカ領事館等西欧人のさかんに往来する、政治経済上の重要地点となったせいでもあったためか、明治の改元の折に早々と県の名にまで拡張せられて今日に至っている。
 つまり、京都とかそれに関係する人工的な名づけである東京、外国で言えば王城の名そのものであるソウルや北京、サンクトペテルブルグなどは別として、ローマとアルスター、柏と横浜と岩手に差異はあっても大小優劣のヒエラルキーは何ら存在していない。長野は本来あくまでも「山の麓のやや続いた緩傾斜地」であるのだ。ここでよくよく考えなくてはならないのは、それらのすでに出来てしまっている差等を無にするのではない、けれど、いつだって、今ここでさえ、存在しているたとえば柏と横浜と岩手が、みな契機としては平等に抱懐する可能態のようなものについてだ。
 たとえば、江戸のころにも当然都市と農村の格差はあったけれど、重要なことはそれが地方と中央の格差のような形ではなかったことだ。これが、破滅的な現在とは違う点だ。医者でも儒者でも絵師でも、江戸期には肥前長崎には誰それ、備前岡山には誰それ、摂津高槻には誰それといった具合に、名だたるオーソリティは各国に分散して住しており、現在のようにほぼ東京一極に集中するということはなかった。学びたい者はそれぞれ旅をして、彼らに会いに行ったのである。可能態とは、このパラレルな分散がモデルとなる、江戸と岡山と長崎と高槻の、大小優劣のない、潜在的な絶対的平等状態のことをさす。
 これを来訪される側の地方からすれば、自らの土地や集団、職掌、社稷に誇りを持てたと言えるのである。私の見るところ、地名に付随し、かつ人が外部集団に向かってする、古代から続く「名乗り」、それは一種の神の顕現であるという性格により、却って普段は絶対実名を明かさないが、それが形式として最高度の成熟を見せたといえるのが、封建といわれるこの江戸期にほかならなかった。私の家では現在でも親戚のことを、名で呼ぶことにあまり意義が感じられないので、八王子のとか、宮城のとか、名古屋のとか、呼ぶが、これなど「名乗り」の一種でありながら、地名の陰に実名が隠れてしまった例といえる。
 こういった事例にかこまれて、われわれは世界内に存在する理法を感じることができるのだが、古代の歌謡や長歌、短歌、中・近世の連歌俳諧の中に詠じられた山川の名、海浜の名、それらをふくんだ歌枕などは、大げさでなく、数千年にわたってわれわれの詩になじみの深いものだったのである。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる。このときにまず第一に土地=地名であるべき実在に、人は、詩を理法としつつ繋がれたのである。だが、詩の近代はこのことを絶えず無化する方向の中にあった。即ち、近代がもたらした、都市=中央のあまりの偏奇な栄えと地方の破壊的な衰退が、詩から地名を奪っているのだ。
 他方、おもに関西地方に無数に点在する、天皇直属の部民であったり、寺社の神人集団だったり、職掌集団であったりしたところの集落差別の領域にも、このことは踏み入ることになるであろう。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる、と書いたが、こういった世界内の実在感と帰属感は、裏返せばそのまま、差別にまつわる実在感と帰属感に連接してゆく気がする。さらに、詩と差別の問題は深く相関している、との予測も立つ。
 ひとつ、言えることは、この問題には神のことと詩のことが切り離せず、さらに信仰のことと社会的役割のことが骨がらみになっていて、この深層が表層に、表層が深層に、裏返っているごとき状態を冷静な認識のピンセットで弁別してみることが第一。第二には、詩によってのみ可能な、地名の地形への還元というか、地名を地形と相等なものとする、大小優劣のない絶対的平等状態への構想力を提起しておく。これにより、区域はかぎりなく小面積で、地名はかぎりなく多くなるか、あるいは、一区域に地名一つ二つという少数になってゆくか、地形の事情によってどちらかに別れてゆくであろう。
 いずれにせよ、マチが野を圧倒するのでなく、野の中にマチが点在して見えるような光景があって初めて、真の、誇りうる、地名にかかわる詩が出現できるのだということを強調しておきたい。


「COAL SACK」61に掲載  
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Sep 03, 2008

詩を読む

近藤弘文「膝を抱えた」について


 詩論というのでは大げさになるが、「SPACE」no.81に載った近藤弘文の詩の、感想のようなものを書きたい。さいきんの近藤の作品の常ながら、作品のボリュームは小さい。「SPACE」に載った「膝を抱えた」は見開きにも満たない、16行という分量なのだが、以下に示してみる。


膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
としての雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
に無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
はあかごの籠に
を刻印するでしょう
のそこに座る
、ということが
やまないんだね
光の膝


 まず気づくことは、句意、文意といったものが、走査線のように入った意図的な断裂によって飛散しているという印象だ。ふつう、一文の文意は、最初に名詞か、あるいは名詞化された分節(文節)から語り出され、読点のつくような箇所で指向性を帯びた空白を抱きつつ句切れをし、句点のつくような場所に(空白の)問題解決的に着地する。本来、分節の末尾に接続すべきこの指向性を帯びた空白が、文の頭につくようになっているのがこの作品をひどく特徴づけているところである。文の頭に名詞や副詞や形容詞・動詞がつくといったふつうの構文ではいわば「頭でっかち」の文となるところが、この作品では逆に頭が削がれていて、文の実在感が非常に希薄になっているのだ。
 他方、「としての」「に」「は」「を」「の」「、」といった行の頭に来る不安定的な指向性の品詞群を除いて読んでも、ほぼ、詩としての体裁を失わず、出来の如何を問わなければ、まったく安定的に読み進めることが可能だ。批評家の阿部嘉昭みたいだが、私も真似してちょっとした操作をここに加えてみよう。


`膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
あかごの籠に
刻印するでしょう
そこに座る
ということが
やまないんだね
光の膝


 気の抜けたラムネのような味わいになってしまったのは如何ともしがたいけれど、ここで明らかになることは、読点・助詞・格助詞・連語などが行頭に来ることによって生じる半ば無理やりな不安定感こそが、作品「膝を抱えた」の要諦にして琴線であるということだ。
 こういう挙になぜ出たか、私にはよく分かるような気がする。近藤は、担保することを求める言葉、回収することを求める言葉、食べることのできない言葉強迫する言葉生きていない言葉から逃れようとして、非・意味の無数の走査線を担保的な言葉や現実の表面にはしらせ粉々にし、却って言葉でないところから言葉の真の意味を追う、といった、いわば絶対矛盾的自己同一のような冒険に出ている、と私は見る。自由な世界へは、叩き壊さなければその先に行けない、といった遍歴が必要となる。このとき、叩き壊すこと自体に自由の匂いがたちこめることがある。これは私の言葉だが、ここで「前衛」に堕すか、それとも「前衛」を超えたところに行くか、危険な岐れ路だといえよう。
 じっさい私にも覚えがある。措辞を敢えて破壊するというつもりはないけれど、構文を末端から揺るがし罅割れさせていって根幹に迫りながら、新しい意味が出現してくるのを俟つ、という詩の作り方をしたことが私にもあるのだ。近藤はサミュエル・ベケットに深い関心があるようだが、私も若いころ、翻訳でその小説『モロイ』や、当然『ゴドーを待ちながら』を読み、そのきわめて冷血で空白的で散乱した言語のうちに、散文的文法ではなく明らかに「詩法」の自由の空が拡がるのを感じた。ただ、近藤と私が異なる点と思われるのは、私の場合積極的にその空へ突き進むべき肯定命題が感じられたのに対し、近藤の場合は担保でも回収されるのを促すのでもない、時空の逃亡師としての言語をベケットに見ているのではないか、ということだ。素質の違い、と言っても、時代の違い、と言っても、どちらも違うような気がする。
 ところで、詩「膝を抱えた」の構文を逆に見ると、「頭削ぎ」の行頭それぞれ1語くらいにすぎない品詞を取り除けば、詩の言葉自体は実になだらかな日本語ではないかという印象を私は持つ。詩風はむしろセンシティブでやわらかい抒情詩だ。同じく「前衛」的な、次の詩の断片とくらべてみるとそのことはいっそうはっきりする。


三角形の多い土地で、美術館は瞋っている。絵画は音符を並べている。来館者は休止符である。建築のもっとも美しい角度ともっとも醜い現実が、休止符の中に堆積してゆく。音符は他の音符を切り刻み、音符の破片は菌糸として美術館を伝導する。せりあがった彫刻たちは音符の表面に囲まれ、音符の先端は彫刻を貫通し彫刻の影に紛れ込む。僕は音符と休止符を演奏する。なぜならば僕は三角形だからだ。
              (広田修「探索」現代詩手帖2008年8月投稿欄より)


 近藤は「なにぬねの?」というSNSで、彼の愛するたくさんの戦後詩を紹介する欄を持っている。彼の年齢にしては実におびただしい作品を「所蔵」しているのだが、あるとき彼も交えて何人かで酒を飲んだおり、近藤が、これら多数の作品や詩人のことを通時的に考えたことは全くなかったと言ったのにちょっとした驚きを覚えた。詩史論というものを自分は持たないのだと。では、もし詩史論が「物語」に過ぎないとすれば、われわれの寄る辺はどこにあるのか、という戸惑いを、この発言に感じる一方で、これは詩史論という呪縛から逃れて、自由への入口に立つものかも知れないと考えた。このとき、比較のために引いた、修辞としては非常に美しい広田修の作品にくらべて、近藤の抒情性が別の何かしら新しいもののように際立って見えるのである。詩の構文の散乱的なビューは、「ひび割れた光が散っていて」や「光の膝」という行がキーワードであるごとくに、この16行を、般若心経や陀羅尼といった「経文」のような見かけのもとに光被しているのだ。
「子宮」「破水」「あかごの籠」と、嬰児や幼児のイメージが顕著だが、これは、たとえば、外界に対しては暴力的なまでの修辞によって守られるべきもの、という寓意があるような気がする。守られるべきものとは詩であり、あるいはそれを書く詩人自身でさえあるのではないか。少なくとも、「膝を抱え」るのは余人ではないと思う。そこにあるのは詩についての詩、己を風景と見るまでの、自分に対する分裂的なまでのまばゆい愛だ。近藤弘文の現在の「詩」はここにある。さしあたって似た資質、個性の現代詩人を考えると、高貝弘也あたりが思い及ぶに近いところか。
 そうなると、「あ、蜻蛉」は、「あ、トンボ」ではなく、「あ、アキツ」と読みたい心が動いてならないのだが。

                                   2008/09/02
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Aug 11, 2008

日本の絵師たち1

若冲綵絵

 ある長い時間の尺度をとって、ひとつの文化文明の頂点とみなされる時期はたしかにあり、ほぼ日本語を母語とするわれわれの居る地域の時代区分で言えば、江戸期がそれに当たるのではないかと私はひそかに思っている。その江戸期の中でもさらに絶頂と考えられるのが、伊藤若冲がさかんに絵筆を動かしていた、西暦でいえば十八世紀中葉にあたる、宝暦、明和、安永に渉る時期の京・大坂であったと、これはかなりの確信をもって言い切ることができる。
 思いつくままに名を挙げていっても、同時代人には、若冲の周囲を見ただけでも、相国寺僧・大典顕常、売茶翁、木村蒹葭堂、また同じ京には、与謝蕪村、池大雅、円山応挙、大坂には近松半二、名古屋には、加藤暁台、横井也有、江戸には平賀源内や司馬江漢などがいて、私などはため息が出てしまう。この宝暦から安永末年に及ぶ三十年間、それ自体永遠に接続したきらびやかな仏国みたいな時間が現出したと想像できるのだが、やがて東日本では天明の大飢饉、京では天明の大火(一七八八年)によって、この奇跡のような日々におおきな翳りがやって来る。事実若冲も京を襲った天明の大火によりみずからの居を焼かれ、伊藤家と若冲が深い由縁を持つ大刹・相国寺も焼亡する。晩年の最後まで衰えることなく絵筆を動かしていたようだが、若冲八十五翁、みずから刻した多くの羅漢の石像に囲まれて示寂したのが寛政の御代が終わる前の年(一八〇〇年)で、翌年からはじまるキリスト紀元十九世紀には、すでに幕末の干戈のひびきは忍び寄っていたのである。
 こうした、若冲の生きた時代とは一口に言うが、現在と異なるどんな時代でも、とりわけて古い時代の作物について、何かしら言及する場合に考えなくてはならないのは、その時代にそれをものした意識というのが、現在と異なっているということ、そしてそれはディテールに渉りかなり論理的に徹底しているということである。別の時代のことを具体的に考えるとは、こうした眼のいわば「異なる光学」みたいなものが必要だと思う。
 それかあらぬか、洋の東西を問わず絵には画題というものがある。画題とは、日本の詩に譬えていえば、長歌に付属して反歌というものがあり、そこから反歌が分離して和歌となる如き、背後にエピソードを引きずった、和歌当体やまたその兼題のようなものである。この長歌のようなものから独立したのが近代絵画であり、独立しきれていないのが近代以前の絵画や芸術だ、という言い方もできる。
 古い絵はほぼすべて、この画題に依らないものはないと言い切ってよいと思う。画題におけるあるテーマの反復は、背後に隠されている寓意の存在に連なるものだ。歌で言えば、まだ和歌が命脈を保っていた中世前期あたりまで、歌の詞(ことば)の端々に古代の神話的生活の名残を匂わせていたわけで、和歌が和歌として存立していられたのは、長歌をさらに遡源したそのような神話的世界が、未だ歌の背後に生きていたからだと思う。いわば和歌は、長い叙事的時間を背後におりたたんでいるのだ。譬えが長尺になったけれど、ちょうどそのように、画題はおうおうにしてその中に入れ子のように、深いエピソードともいうべき精神的世界、言ってみれば大きな神話的世界や宗教観を、寓意の形で抱懐している。
 この寓意の端的な例として、若冲のたぶん壮年期の作と思われる水墨画で「仔犬に箒図」一幅がある。縦長の紙本の天に近い上部に賛があり、画面の三分の二くらいの右上から、斜めに左下へ、一本の箒が立てかけられ、画面の地からやや浮いた感じの地面と思しきところに、箒の黒い棕櫚の部分をかかえるように白い仔犬が蹲っている。蹲った仔犬の目が鋭く、また画面の三分の二を斜めに抉るように分割した、箒の黒と余白の白のモンドリアンのような対比が「現代的」でしゃれていると思うことのほかは、おそらく、古い物に嗜好を持たぬおおかたの現代人にはそれほどの感想がないのではないか。
 だが、じつは若冲は(おそらく菩提寺の)相国寺の臨済の世界や、後年世話になることになる黄檗の教えに深く親炙していた人だ。この墨画は「趙州狗子」(あるいは「趙州無字」)、つまり仔犬に仏性が有るか無いか、という禅の公案に基づいた古くからの画題によるものなのだ。俵屋宗達も応挙も富岡鉄斎も、また当然のようではあるが仙厓義梵和尚そのほか無数の画人が描いたこの画題の背後にある公案のエピソードとは、詳細にわたるのは避けるが、かいつまんで言うと、あるとき一僧が趙州という高悟の僧に訊ねた。(このかわいらしい)仔犬にも仏性があるのでしょうかと。趙州は即座に「無し」と答える。さてその意は? というもので、絵に描かれた仔犬も箒もすべて何らかの寓意を持たされていることは確かなところで、若冲の場合、白い仔犬の目が鋭く描かれているのも意味ありげである。
 現代の目から見て、しゃれてるわねの一言で感想を終わらせないとすれば、画面上部に四行にわたってしたためられた賛、たぶんそれは詩偈として書かれた黄檗の丹崖和尚(無染浄善)による七言絶句の、おそらくは若冲自身による写しと思われるものだが、その賛を無視するわけにはゆかない。私はまったくこの方面には暗いのだが、こんな文字が見えるような気がする。「趙州門外不看児/其佛棕櫚毛帚載/佛性不須曰有無/満(?)蓙三昧汪(?)是起」。最後の行ははなはだお寒い読字でまったく自信がないのだけれど、要するに、「わたくし趙州が属する僧門=世界内のほかで犬の仔を見ることはない、あんたの言う仏とはその箒の棕櫚の毛に載っているようなものだ、仏性はほんらい有無を言われるものではない、ただ座禅する蓙に三昧は満ちて溢れる云々」といったような意であろうかとは想像できる。仔犬とは限らないが、存在者の中に仏性の有無を問うた瞬間に仏性は消えて無くなる、そういった、仏性というものの(実体本質論的な本性ではなく)ありかたとしての常在を説いたものであろう。
 ちなみに宗達の「双犬図」にも、その没後に丹崖は賛を寄せているが(後賛というそうだ)、丹崖と親しかった若冲は当然丹崖を介し宗達の「双犬図」について、直接見るか、話を聞くかしたと思われる。宗達の犬は黒白で二匹である。そういえば、趙州狗子の画題の仔犬は鉄斎にしても仙厓にしても応挙にしても、ほぼ「双犬」ないし「群犬」だ。若冲の犬は一匹だが、図柄的にはたとえば宗達画における白犬の、もう片方の黒犬が黒い箒に変じていると考えると、少し寓意の隙間が空く。禅家において箒は重要な存在で、行脚の僧が寺に泊めてもらったお礼にその庭を掃いて出たり、庭掃除が大切な修行の法であったり、また庭を掃き去ったときに小石が当たって火を発した瞬間、大悟した僧の話など、なかなか侮れる道具ではない。また、同じ時代の蕪村の禅味のある水墨画に(蕪村は浄土宗徒だが)、若冲のそれによく似た棕櫚の箒を描いたのがあって、その横に「一潑一墨掃破俗塵」と一行、賛があるのを見る。
 それやこれやで鑑みるに、どうも若冲においても箒は俗塵を払う重要な法器として映っていたようで、「其佛棕櫚毛箒載」は、かなり痛烈な言語とみることができる。管見の及ぶかぎりでは「狗子仏性」の他の仔犬はすべてが愛くるしく描かれており、それが「無仏性」という法語のさわりともなっているはずだが、反して若冲の仔犬は身を屈め眼光鋭く、仏性の有無を「掃破」する棕櫚箒とともに、悩み多き暗愚凡小のわれわれに襲いかからんとするかのようなのだ。あるいは仔犬は眼光鋭く、却って仏性そのものかも知れないこの棕櫚毛の「其佛」を載せた箒を、狛犬のように守護しているもののようでもある。
 こういった解釈の反転と一種の鋭さは、彩色された絵になるとじつに華麗な文様として時空を読み替え、森羅を覆ってゆくことになる。イロニーとか反語的とか言わないが、何かそういった普通でないところ、浮世娑婆めいていないところに、昨今の若冲人気の秘密があるような気もする。ここで少しばかり若冲畢生の大作ともいうべき、「動植綵絵(どうしよくさいえ)」について考えてみる。
 宮内庁三の丸尚蔵館発行の図録『動植綵絵―若冲、描写の妙技』によれば、若冲ははじめ、狩野派系の絵師に絵の手ほどきを受けたようである。若冲が生前に自らつくり、大典が碑文を撰した墓銘碑「寿蔵碣銘(じゆぞうけつめい)」にいう、すなわち、そうしたまねびだけでは狩野派の囲繞を越えることはできない、そして狩野派の画法を捨て、当の狩野派も学んだ大元の「宋元画」を臨模すること千本に及んだ、しかるに宋元の中国画人たちは現実の動植を直に見て描くのに対し、自分はそれを臨模するだけであって、その動植物を物に即して直接に描いているわけではない、そこで村里に飼われているものとして馴染み深い鶏ならば、羽毛美しく、彩色に工夫を凝らすべきで(描画の対象として格好である)、鶏数十羽を自宅の庭に放して観察し写生すること数年、(さらに)その描くところ、草木、羽毛虫魚に及び、絵の神髄に達することができた云々――とある。
 動植綵絵は文字どおり、花、鳥、草木、皓月、日輪、流水、降雪、紅葉、虫や魚介に至るまで、動植物のみならず花鳥風月のあらゆる現象に触手を伸ばし絡めた、いわば万象を色彩と意匠で埋(うず)み尽くしたかのような「怪作」とでも言うしかない作品群である。ただし、森羅万象を感じさせるこの作品を、ただ斬新な色やデザインの装飾で覆われた、友禅や京焼の絵付けなどにいまでも見る単なる工芸品のみごとさに類するもの、と捉えるだけでは片手落ちであろう。ほぼ宝暦六~八年から明和三年頃にわたる、約八年から十年という(思いのほかに短い)制作期間を経て完成した、三十幅の絵の中心に据えられるべきは、じつは釈迦三尊像だったのである。つまり、ほんらいは動植綵絵は、若冲の帰依深い相国寺に寄進された(末弟の宗寂の追善の意もあるという)、同じく若冲筆の釈迦三尊像の荘厳画として制作されたものなのだ。図録に言う、「『動植綵絵』が単なる花鳥画でないことには、重要な意味がある」(4頁)。つまり、ここにも近代絵画とはいささか性格を異にした、画題というものにかかわる問題を残響のように聴くことができる。
 伊藤若冲筆、動植綵絵三十幅。いうまでもないことだが、絵の分類としては花鳥画に属する。若冲が臨模し学んだ宋元画とは(さらに明清画もそこに加わると思う)、主に院体の花鳥画を指すことは疑いない。かつて根津美術館で南宋絵画展が開催されたとき、院体画の典型のようなのを見たことがあるが、また大倉集古館で明清の宮廷花鳥画を見たときの印象もそうだが、その冷徹で凄まじいばかりの精妙巧緻な対象描写と、一見矛盾するようだがその典礼的な装飾性の共在は、「十百本」を臨模しただけに動植綵絵にもそのまま窺われて、私などは唸らされた。ただ、著しく異なる点はその寸法で、動植綵絵が大略一四二×七九センチの大きさで揃えられているのに対し、院体の花鳥画や明清の宮廷画は、縦横ないし幅三〇センチをいくらも越えない意外な小ささである。動植綵絵が「怪作」であるゆえんは、じつにその大きさの中に、院体画や明清画の密度を実現してしまったところにあると私は思う。
 ところで、対象描写の精密さと装飾性の共在ということについてだが、図録一番の「芍薬群蝶図」を例にとると、飛んでいる蝶の形態はまことに正確無比と感じられ、芍薬もかさなりあう花弁ひとひらひとひらの色彩の濃淡が質感にまで高められて、まず目で見た実景に限りなく近いように受け取られる。はずである。が、どこか眼の知覚とは違うぞともささやく声がする。羽を半ば閉じながら芍薬花の蜜を吸う姿はともかくとして、群蝶はこんな展翅ピンで広げられた標本みたいな姿で飛んでいるはずはないし、芍薬にしたって何か解剖とはいわないが、前後左右上下から徹底して観察された後に、いわば傷口をふさいで綜合された絵柄のように感じられる。けっして近代的な写実画や写真のようではない。現実の種類にもよるけれど、現実にはけっしてこんなふうに見えるものではないのだ。群蝶と芍薬、また芍薬でも花と茎と葉、葉どうし、つぼみと開いている花、それらのひとつひとつは精緻だが、ある決められた骨法ともいうべきものに則って組み合わされているために、写実性よりも装飾性、また「写実」が微妙にゆがんだところで滲出してくる幻想的な味わいが感じられると言える。ほんらい花鳥画とは、これも画題である四君子(蘭、竹、梅、菊)に神仙の面影を見る如く、聖なるものの写しという側面があるわけで、近代的あるいは西欧的な写実画とは一線を画するのだ。この絵を含む動植綵絵の典礼的な性格はこんなところにも起因していると考える。
 同じことは鶏を主題にした八幅の絵にもいえる。たとえば図録の十番「芙蓉双鶏図」を見ると、雄鶏が舞踏するような勢いで、下から上向きに首をひねって見上げる雌鶏に対して、両脚のあいだから股覗きみたいに雌に向かい、挨拶だか求愛のポーズだかをとっている。こんな不自然な格好を若冲は現実に見たのだろうか、という問いには、一瞬でもやはり見たのだろうと私は答えざるをえない。ただその紙本への定着の仕方に誇張がある、というよりは、ここでも画題にともなって堆い時間の層を持つ、「骨法」に則っているのだろうと、考えたほうが実情に近そうだ。これが西欧的な、でもやはり「骨法」というしかない観点から見て、後進的だ、などとはいささかも思わない。たとえば散歩の途中、咲いている酔芙蓉の花や葉などをしげしげと眺めると、まさに若冲の芙蓉そのものであるが、このことなど、われわれの視覚を決定しているフレームのようなものが、いかに取り替え可能なものであるかを物語っていると思う。図録七番「大鶏雌雄図」、図録十四番「南天雄鶏図」、そして図録二十番「群鶏図」に至るまで、雄鶏の鶏冠や脚はいかに怪異な色と形と質感に満ちていようと、怖ろしいほど正確に描出されているはずであり、その羽毛の一本一本は明瞭な輪郭線でかたどる勾勒(こうろく)画法と見紛うばかりだが(ひとくちに没骨(もつこつ)画法と言ってしまうとなんだか身も蓋もない)、じつは色彩やその明度輝度の差異性のみで出現している、輪郭線とは明瞭に異なる線により、一種の刻薄を思わせる精緻さと輝きに満ちて描き分けられているのである。精密に過ぎてなんだか非現実的な感じさえするほどだ。さっき典礼的とか巧緻な写実とか言ったが、これら鶏たちの躍るような姿態を一言であらわせば、硬質透明で徹底的なイデーのもとにある、とも言うべきか。
 動植綵絵は、ほんらい釈迦三尊像を荘厳するためのものであるが、イデア的であるところがただちにそこ(仏)に?がるのではない。イデアルに描かれた動植物や森羅万象の嬉遊が、むしろ万物を空とみる仏のたなごころで、空そのものとして歓ばれ尊ばれている、と、私ならばその「荘厳」の意味を理解する。三十幅はすべて花鳥画だからか、人やけものは登場しない。図録八番「梅花皓月図」には鳥や虫さえ存在しない。ただ皓々とした月と、いちめんの夜の白梅花のむらがりだけがある。また図録二十五番「老松白鳳図」は現実には存在しない、まったくの想像上の鳥だが、図録九番の「老松孔雀図」、同十一番の「老松白鶏図」、同十二番の「老松鸚鵡図」と、同じ老松を背景にした、同系列の白い聖鳥の図を見てきた目には、深裂は存在しないと言っていい。図録二十三番の「池辺群虫図」における蝶以外の虫や、同二十四番「貝甲図」、同二十七・二十八番の「群魚図」などは模本があったとも思われない。「群魚図」や「貝甲図」など、その魚介の形や種類を考え、またそもそも若冲の「物に即して」描くという態度からいって、京の錦市場あたりで目睫に見たものと想像する余地はじゅうぶんにある。家督は弟に譲ったとはいえ、「本業」は錦小路にある青物の大店の主人たる、若冲らしいとは言えまいか。それにしても、描く対象に鯛や虎河豚、甘鯛にヤガラなどの高級食材を選ぶあたり、若冲はかなりの美食家でもあったのではないかという気がする。そういえば彼の晩年を世話し、看取ったであろう黄檗の門は、日本に普茶料理をもたらしたことでも有名で、売茶翁の煎茶といい、さらにはその出自といい、若冲はなぜかどこまでも口腹に関することと無縁ではない。
 宝暦十年(一七六〇)の冬至の日、大典と親しかった売茶翁に、若冲は「丹青活手妙神通」(丹青活手の妙、神に通ず)の一行書を贈られる。丹青とは赤い色と青い色、転じて絵や絵を描くこと。活手はその達人。黄檗の門の売茶翁に一行書を贈られるというのがどういうことであるのか、たんなるグリーティングカードに類するものなのかどうか、本当のところは現在ではもうよくわからなくなっている。冬至の日にそれを贈られる、というのも何か意味がありそうだ。総じてこの江戸期のハイヌーンのような日々を生きた人間と現代の人間と、宇宙乾坤とまでは言わないが、その時空の感覚認識が同質であると考えたとしたら、深く過つような気がする。
 火事で焼け出された晩年、高価な絵の具も思うようには購うことができなかった若冲だが、その代わり水墨画をよくしたようだ。なかで、寛政九年(一七九七)の作に「鶏図押絵貼?風」六曲一双がある。そう、最後まで鶏なのだ。しかし、もはや動植綵絵の濃密で犀利な色彩や光輝はそこには存在しない。そこにあるのは一種の無窮動に似た鶏の動きそのものである。動植綵絵ではあまり前面に出ることのなかった、ものの運動、筆による濃淡、滲みも掠れもある墨痕が、おそらく色彩という一種の牢獄から解放されることによって、より自由に、闊達に、画面いっぱいを風のように縦横に擦過している。図録の解説子は、これを「抽象的な文字」と形容しているが、それならばこの「文字」は、コトバに付随する意味や概念を欠いている。鶏を描いているが、それは鶏である必要はかならずしもなく、何か意味を与えられたりすることもある形象、である必要すらない。なにか形象外のところで満ちたり引いたりするsomethingを、仮にこの世界の言語で語ってみたら、このような描線を曳きながら露頭し光って消えてゆく、という感じで、それが十二枚の古ぼけた紙本の奥に夢のように浮かんでいるのだ。ヒトの自由とは、こんなに凄みのあるものだったのか。この十二の尾羽の、跳ね上がり沈み込むような動きに見とれているうちに、邯鄲の黄粱(おおあわ)は煮えあがり、人生は盛衰し、斧の柄は朽ちるのだろう。
 これをしも、人間が枯れるというのか。時代の太陽はまだ中天のあたりにあって、晩年の若冲に色は必要なかった、というより、色はあってもなくてもよかったのだろうと思う。たんに購うお足がたりないというだけで、それならばと木石に羅漢でもせっせと彫っていたのに相違ない。禅門に深く帰依しているが食べることにも趣味のあった老人は、もしかしたら本気で、即身是仏をしゃれ込んでいたのかも知れない。    

「飢餓陣営」33号掲載 2008年3月
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Aug 10, 2008

書評

詩人であることについて ――吉田群青詩集『海月の骨』に触れて

 こんど出た吉田群青さんの詩集『海月の骨』を読んで思ったことは、詩人という役回り、あるいは詩人であることが避けがたい巡り合わせというものがあるのだな、ということだ。と言って、群青さんの身の上の具体的な何かを、直接存じ上げている、というわけではない。彼女に関する情報は、みんな彼女自身によるところの、詩やブログのうえでのものでしかない。そもそも、当詩集を恵与され、拝読することになったきっかけ、さいしょが、詩のウェブマガジンと言うのが正確どうか分からないが、「未詳」という媒体に乗った彼女の作品で、それが他の作者のものとはひどく異質に思え、検索をかけて(ストーカーみたいに)、「ホテル・バルセロナ」という名の、吉田群青としてのブログや、「弁解なんかしたくなかった」という詩専門のホームページに辿り着いたのだ。ここから本腰を入れて群青さんの作品を読んでいったのだが、そこではじめに言った感想をあらがいがたく持たされた。
 どこが他のあまたある凡庸なネット詩人と違うのか。かかるネット詩人たちをふくむ、現代の多くのわかものがそのことに苦しんでいる、現実感の無さ、展望というものや達成感、具体性の欠如に、彼女もまた同じく悩まされている。そして、同じく絶望している。だが彼女の場合、無感覚の苦しみも、絶望感―そこから来る寂寥感という苦しみも、余人のそれよりさらに遠く深い場所からの感覚といえるのではないか、という気がするのだ。遠く深い場所から群青さんは、驚くほど正確かつ無造作に、その感覚を物象としてつかみ出し、言葉に貼り付ける。おそらく冷静とか厳密ということから最も遠いところで。ただし一種の静かなトランス状態のなか、はたから見たら冷静とか厳密というものとちょっと見間違うばかりに。人が詩を、書き進めるうちにだんだんにせり上がってゆく達成点というものがあるとするなら、彼女はいきなり「その地点から」書くことをはじめてしまう。そしてそんなステージの高さは彼女の(病歴とか性格とかの)悲劇性というdestinyに精確に対応しているのだが、しかし詩は、彼女のそういった個人的でプライヴェートな事情を恐らく超過してしまう。ここが詩人であることの否応のない巡り合わせであり、余人と異なる点なのだ。
 群青さんの詩の具体的なところに、ここで少し触れてみる。彼女の詩を読んでいると、ふつうの抒情詩とは少しかけ違った感じを持たされる。通常の抒情詩が静止画のようなものとすれば、対して彼女の詩には時間的な進行と展開(転換)があるのだ。つまり小説的なのである。ついでに言えば、作品に、落語のいわゆるオチのようなさいごの二、三行ないし一行がしばしばつく。
 この点についてもっと言えば、「雨の日に変質する」のさいご二行は、詩では心当たりがないが、小説では漱石の『吾輩は猫である』の冒頭、「残酷なこども」のさいごの二行は、同じく漱石の『坊っちゃん』のむすびによく似ている。ちなみに引いてみる。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。(『吾輩は猫である』)

自分の名前は
まだ考え付いていない (「雨の日に変質する」)


死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(『坊っちゃん』)

家にはすでにどこからか
新しい母がちゃんと来ていて
ドーナツを揚げたり
ホットケーキを焼いたりしてて
だから別にいいのかなあと思う

新しい母には顔がなくて
だから僕は母の顔を知らない (「残酷なこども」)

 この二例は気のせいかも知らぬが、それほど群青さんの詩の世界は、近代詩や戦後詩というよりは、私などにはなつかしい日本の近代小説の匂いがする。じじつ、「妻の話」では、太宰治の『斜陽』を「わたし」が読んでいるところが登場しさえする。
 時間的な進行について言えば、そのことを示す助動詞や副詞をふくむ行が「お話」の進行や展開(転換)を促している。たちどころに例示できるであろう(< >で示した部分)。

誰か来たような気がして
<ドアをあけたら>
君の気配が立っていた     (「君の気配」)

<やがて夜になると電柱は>
支える青を急になくして
心もとなくそこに立っている  (「夜空の電柱、冬のはじまり」)

<そのうち熊はわたしを横目で見ながら>
りんごを買って
去っていった         (「雨の日に変質する」)

 詩の世界の雰囲気が近代小説的であるというのも、いわば抒情詩のような静止画でなく、時間的な進行をともなった叙事・物語的な、こういう特有の性格から推し量ることができるのである。所謂抒情詩とは少しく異質な、ひとつひとつがある意味でコンパクトな「お話」の素から成っている。そしてそれが群青さんにより、行分けされて私たちに示されるとき、詩の在り方としては「寓話的なもの」という概念に相等なことが判る。それは、よくできた小咄のようなものから(「小さなシリーズ」など)、名手が書いたみたいな短編小説(「妻の話」「王様」「資本主義と社会主義」など)、背後に「お話」の存在を思わせる一種静止画的な抒情詩(「夜空の電柱、冬のはじまり」「初夏」「お母さんと結婚したい」等、本詩集では数多く書かれたはずのこの系統の作品が比較的に割愛されている)、それから厳粛なアポカリプスのような示現に至る多様な層から成っている。そして、この詩集の基層にある「気分」というものを言うのなら、いま示したさいごのカテゴリーに属する、われわれの胸に厳粛ともいえる印象を残す次の詩を挙げなくてはならない。これは群青さんからこの世界に突きつけられたアポカリプスである。すなわち「飼育係、或いは荒廃」と「昨日、戦争が」だ。
 前者は小学校のときのことらしいが、メダカを水槽から排水溝に流した(逃がした?)作者と思しき飼育係は、そのあと空の水槽に入れられたミドリガメが、男の子たちの「遊び」によりサッカーボールの代わりに蹴られて教室の隅で死に(虐殺され)、ミドリガメの後、また空の水槽に入れられたハムスターが、男の子たちの「冗談」によって踏み殺され(虐殺され)るのをただ傍観するしかない。そして「死んでいった小さい生き物」を悼むため、自罰のようにみずからの息を止めるのだ。群青さんがそのときまさにそのようであった、子供たちの世界がこんなにも救いのないものである事実に、私は息をのむ。
 また後者は架空の寓話に似ているが、目の前に拡がる世界に、悪夢のような、非現実的なまでの残酷さを感覚し、造形している作者が、まだ二十四歳の若い女性であるということに、驚くとともにひどく胸が痛むのだ。

僕が戦争に気付いたのは
それから三日後で
何故気付いたかと云うと
僕のぼろアパートに
女の子が訪ねてきたからだった
女の子は一人では無かった
子供を抱っこしていた
子供は血まみれだった
頭がかち割れて
きれいにかち割れて
そこから宇宙のような
宇宙のような

女の子は錯乱しているようで
この子を助けてください
あたしの妹なんです
と何度も何度も叫んだ
どう見たってもう死んでいるのに
(中略)
だって僕はまだ若いし
とたわけた事を考えた刹那
どこからか飛んできた大砲の弾が
女の子を吹き飛ばした
宇宙のような
宇宙のような
塵・芥が雨のように    (「昨日、戦争が」)

 ユーモアもあり、トボケていたり、真面目であったり、家族に対する切ないまでの愛情を抱いていたりとさまざまだが、総じていま示したこの二篇が作者の世界の最深奥にうずくまって、この詩集の「気分」を醸成している。それは恐怖に満ち、逃げ場がなくて、人間的な感情といったら諦念しかなく、けれど一歩たがえればあこがれと見まがうほどに綺麗な寂寥の色を帯びている。巧拙ではなく、生身でそのただ中にいて、絶対に見えないものと切り結んでいる。実に詩人であるということは、詩の巧拙を超えたなにものかなのだ。それはひとつの栄耀であり、痛苦でもある。この詩集のさいごの、次の詩のさいごのように。

無意識のうちに手をいっぱいに広げている
何を掴みたいんだろう
掴みたいものなどもう何も
無いはずだと思っていたのだけれど   (「ひとりぐらし」)
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Jan 04, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート2  ―風流、あるいは詩的であることについて


 森鴎外の『渋江抽斎』のなかに、風流韻事のことにひどく五月蠅いらしい喜多村某が、抽斎の友人である芝居の見巧者、二世劇神仙・真志屋五六作とその一党を漫罵して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」等と云ったとある箇所をみる。ここで鴎外は「風流をどんな事と心得てゐたか」と、いささか色をなして糺す。彼は言う。「わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。」
 三世劇神仙の称を五六作から譲られた抽斎のことだから、もとより風流韻事のことについて昧(くら)いところがあろうはずもないけれど、このエピソードは彼がいたずらに高踏的なものに価値を置かなかった事実を物語るのみならず、角兵衛獅子の訪れのごときにある種のエピファニー(顕現)を見ていたといった感じがしてならない。これは私の想像だが、おそらく角兵衛獅子にしてそうであるのなら、季節や節気の巡りの度にイエの門先にやって来たであろう、六部の鉦やぼろんじの尺八の音、また祭文語りの詠唱に、抽斎はまぎれもなく「詩」を体感していたのではないか。
 私の子どもの頃くらいまでは、二十四節気に準じた小さな祭礼がそれぞれの家でおこなわれていた記憶がある。生まれてから小学校の三年まで、川崎の今で言う高津区にいた。たしかタナバタの篠竹はツダヤマまで数キロの道のりを歩いていって採って来、ツキミの薄はタマガワの河原まで行って調達したのが毎年のことで、その仕事は姉と私という、子どもたちがおこなうべき小さな賦役とされていた。正月には私たちの親のような大陸引揚者住宅の住人の戸口にも、土地の獅子舞の獅子はやって来て、大きな予祝の噛みつきの口のなかで、私たち子どもはひとりひとり恐れて泣いた。
 当時のちんどん屋は現代に生き返った漂泊芸と言うべく、新開店の宣伝というよりはその店のコトホギの性格が強かったという意味合いで、唱導芸人や説経語りの部類に入れられると思う。構文論になずらえて話すとするなら、そこでの本地の神は、いわば主文から脱落したと見えるだけで、実は形容詞や述語、また一文の現象面ともいうべき活用性能にあたるところの、きらびやかな衣装や常人とは極端に掛け違ったコトヨウの化粧、音曲や律動をともなう身のこなしといった具体性の細部に、まさに示現していたのである。
 地元には、顔にそれなりの皺は刻まれているのだが、ついに肉体的にも精神的にも「大人」になることのなかった「ミゾノクチのヨッチャン」というclowneryがいて、ちんどん屋が来ると一種の恍惚状態になり、彼らのお株を奪うような身のこなしでどこまでもどこまでも跡をついてゆくのであった。たぶんその光景に見入っていた私などは、振り返って顧みるに抽斎の「詩的」なるものとそう遠いところにいたのではなかったと思う。即ち抽斎と同じく、この何ものかがしきりに生起している現場に立ち会っている私は、一個の「高踏的」なる傍観者ではありえなかったはずである。
 いわゆるアンガージュマンとはちょっと違うと思うが、この、共に何かしらのただなかにいる感じ、引き込まれる感じを詩的と称して差し支えない気がする。これを現代の文芸としての詩にひきよせて考えれば、たとえば批評的なものであれ芸術的なものであれ、どちらが正しいどちらに価値があるとかまびすしく論じる前に、この何かしらのただなかに引き込む、引き込まれる、という側面が存在しなければ、メッセージ的であろうが耽美的であろうが実験的であろうが、そもそもの論の立てようがないのだ。
 この詩的ということは、われわれがこの世界に具体的にいる感じと密接に繋がっているように思う。だいたい、具体性というのはどういうことかというと、なんで氷のうえをスケートの刃が滑ることができるのか、あるいは蛍光灯の発光のメカニズムについて、いずれも科学的・論理的に説明することが不可能である等の意外に奇妙な現実と関連している。精密機械の特殊な部品が、いまだに職人の手業に頼らざるを得ないという例など、興味深いものがある。
 ある数値は、その数値が前提する観点からのみ可能な、現実の切り取りに過ぎない。いわば同義反復であり、ある意味で人間はこういった環境を、みずからの周りに自然破壊的に営々と築いてきたとも言える。だが、計測は現実の翻訳に過ぎず、概念や数値を積分していっても微分していっても、そこに捕らえきれない光のように必ず漏れ出てゆくものがある。あるいは積んでも割っても、概念操作と数値という表象によっては、絶対に現実と同形になることはできない。机上のことでなく、現実の用に充てるたぐいのことは「下駄を履いてみるまで判らない」のである。じつに具体性の現実というのは秘密に満ち充ちていて、しかもその秘密は、すぐ手が届いて触れることが出来るほどにもさりげない傍らに露頭しているものなのだ。おそらく詩的ということはこういったことに関する、気づきと驚きの方角からやってくると思う。誤解のないように書き添えておくが、宗教的なものが即ち詩であると言っているのではない。詩的なものと宗教的なものの根源に相通うものがあると言っているのだ。それらはあらゆる諸芸術と諸学の却って根源をもなしている。
 抽斎は大名行列を観ることを好んだそうである。そして各大名家の鹵簿(ろぼ)(行列の内容)を暗記して忘れなかった。武鑑(大名旗本の名鑑)に着色などもしていた。この嗜好は喜多静廬(せいろ)が祭礼を看ることを喜んだことと頗る似ている、と鴎外は言う。抽斎とそう時代を隔てない富岡鉄斎なども太秦の牛祭り再興に尽力するごとき、抽斎に似たところがあるが、総じてこの頃の人々にとって風流という名の詩は、今のわれわれよりもはるかに身近に在ったようだ

    07/06/05
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Aug 28, 2007

宗教・神話・詩論

大木重雄詩集『山谷堀寸描』寸感 ――わたしが消えれば その記憶も消えるのだ


 大木重雄さんとはいつのころよりか、消息を交わす間柄となった。私よりお年嵩というも愚かな、この謎にみちた「La Vie」上の先達で、おたよりの筆跡から推して、鶴のような方、と、勝手に思いなしている。電話で話したことや、お会いしたことはない。歌舞伎が尋常の好きの域を越えていて、推理小説フリークとおぼしく、銭湯や居酒屋に目がなく、見知らぬ街をわけもなくさまよう趣味があり、少しミザントロープ(人間嫌い)の気があって、女色に潔癖、厭世や皮肉の色も交じり、しかも肉が苦手、英語がご専門なのになぜだかフランス語に熱中して斯界に堪能、また音楽(クラシック)なくしては夜が明けない趣味人の、なによりも江戸っ子であると、こう書いてゆくと、酒のご趣味を除いてはまるで岡本綺堂見たような人ではある。ここに詩や文芸の嗜好を加えないのは、詩人にとって詩が趣味ではありえない事情と軌を一にしている。この「索」誌上に十五回の連載を先号で完結された『回想の牧章造』を、はじめから拝読してきた(息をつめるようにして)身としては、敗戦後すぐの学生時代から現在に至るまでの六十年余、詩や小説を書き、発表してきた大木さんに、翻訳書のほか、一冊の作品集もないというのはまことに意外なことで、しかしひるがえって、実に容易く詩集などが出版される昨今を勘案するに、このことは含羞深い大木さんの持つ謙譲という名の気高さと、かつての出版界のむしろ健全さとを思うべきなのかも知れない。
 その大木さんが詩集を出された。ご自身は「パンフレット」と謙遜されるが、さきほどのお人柄の形容に従えば、鶴の羽のような印象の清潔簡素な詩集である。Ⅰ部とⅡ部に分かれ、Ⅰ部は五つの詩篇とあいだにはさまったインテルメッツォとも言わんかの四つの散文、Ⅱ部は百十三行の長詩、という組み合わせから成っている。わずかずつの内容の違いによって構成されてあるようだが、かえりみればすべてが山谷堀を中心とするひとつの幻影と、そこが絶対的に失われることの契機となった昭和二十年三月十日の東京大空襲を深い角度で指し示す、いわば「おなじつらなる」品々と見てさしつかえない。それにしてもここにひろがる寂しい明るさはなんということだろう。その寂しさには一切の湿り気というものが存在しない。そしてここにある、私が読んでも感じられる不思議な懐かしさは、山谷堀で大木さんが過ごした少年時代の具体的な物事や出来事のあれこれについての共感覚というよりは、詩人がそれらのことどもを捉えるアプリオリな視線や手つきの中にその秘密が隠されているような気がする。いわばその懐かしさは永遠のほうからやって来る。
 とはいえ、表紙の装丁の戦前の地図や本文中に出現する、吉野町、今戸町、待乳山聖天、象潟署、吉原病院、馬道等々の名辞に、息を呑むような濃密な思い出に似たものを思わずも覚えてしまうのは、若年のかつて、意外に深入りした江戸趣味や、戦前の小説、ことに鴎外綺堂荷風、夷斎石川淳などの卒読の記憶が暮れ残っているせいかもしれない。
 詩集を披くのっけから、ダガバジジンギヂ老の「留守じゃ 留守じゃ」の、座禅で言えば十棒ほどを振舞われることになる(「待乳山聖天」)。声はするが(無い声を聞いたのかもしれない)老はどこにもいない。「小高い境内には誰もいな」くて「堀そのものがすでに消え」ている。この作の中で「いくさ」という言葉はたった一か所。「立ちすくむわたしも/生き永らえた誰かの夢かもしれない」という、詩集全体の結論のような言葉がすでにして劈頭に提示されているのを見て、「あとがき」にいう「幻想レクイエム」の意味するところが、なんとなく感得された気が私にはした。「いくさ」の紅蓮をレテの河のように隔てて、ここには生起し、展開し、終末に流れるといった性格の「時間」が存在しないのだ。永遠とも、無時間と言っても同じことだが、「わたしが消えれば その記憶も消える」(「山谷堀尋常小学校」)他人が見る夢のごときもの、誰でもがそうであるひとりぼっちという青い虚空がひろがっているばかりなのだ。「地上とは思い出ならずや」(稲垣足穂)とは大木さんがつねづね好む言葉である。老や聖天社や「いくさが裂いた男」に会うためには、切ないことに「五億年」ほど経ってから出直すしかない(高橋新吉「るす」による)。
 そういえば、私がみずからの病について触れた詩集をお送りして、その感想をいただいた折、他の作品については大いに書いていただいたのが、病に関するところについては、お互い明日はどうなる身とも知れないのだし、このことについてはまあ余り話すのも野暮なことという意味の文言をいただいた。そのときはご高齢であることと足がお悪いことなどから来た言葉なのかと生半可に納得したが、じぶん自身に病から生還したことの意味とその恐ろしさの実感が徐々にやって来て、この詩集の真のテーマである三月十日の大木さんの体験と、みずからのそれを重ね合わせたとき、大木さんがどんな風にこの世を眺めているか、その眼にこの世界がどう映っているか、判ったような瞬間があって、肌が粟立った。大木さんは本誌三十九号に載った『回想の牧章造』(十二)で、原民喜の『夏の花』の部分を引き、その「死者の眼」による原爆投下直後の惨状描写を「作品が閉じている」として批判されている。大木さんは自ら進んで思想詩や原爆詩を書くという発想は、いままでもこれからも決して持たれないだろう。それらは多分大木さんにとっての「詩」になじむテーマではない。さっき三月十日が真のテーマと言ったが、集中それの具体的な描写は一切無いと言ってよい(Ⅰ部の「赤門寺跡」と、さいごの「むせる新聞」にその気配はあり、ことに「むせる新聞」には最も激しいアクチュアリティの表出がある)。具体的な描写はないけれど、しかしコンパスの針のように集中のすべての表現の指向性は三月十日という極北にむかって常に震えているのであって、やはり戦後の大木さんには「死者の眼」がどこかにつきまとう印象がある。けれどそれは他者に向けられた虚無という形をとらず、自らを限りなく相対化するまなざしという形をとる。思えばその含羞も謙虚さも、少しの皮肉と清潔な寂しさも、三月十日体験という格子(グリッド)を通すことによって、ああそういうことなのかと私には大きに腑に落ちるところがあるのだ。そんな大木さんが、譬えは悪いが斎藤別当のように老骨に鞭打って、けれど恋文のようなひめやかさも伴って、書置きみたいにこの『山谷堀寸描』という「戦争詩集」を出されたのだと私は理解している。
 「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」(「山谷堀寸描」)慕わしい他界に似た界隈と生活。四歳で逝った音楽の精霊のような弟、「島牛乳会社」の煙突、「オビシャ」(お毘沙)の甘茶(「正法寺」)、「埃まみれに眠る薬種屋」の小さな河童の格好をしたウオーター・ボーイ(「泪橋」)、戦前の下町にあった月見の習俗(「中秋」)……。「時」に堰をもうけることなどできず、十万虚空は悉皆消殞して、戦前の生活と風景だけが細やかで非現実的な蒔絵の図柄のようにひとりぼっちの幻想として残される。その光景が寂しければ寂しいほど、大木さんにばかりではなく私たちの眼にも、鋭い慰藉と甘さを湛えて映るのは、大きな何かが壊滅した後のような、そんな「現在」に対するわれわれの深い絶望感と、多分無縁ではない。
 詩集のさいごに大木さんとおぼしき白襟の小学生の写真の一葉を見るが、お会いしたことのない大木さんの想像の風采とあまりに一致していたのには、ふたたび肌が粟立った。


「索」43号(終刊号、2007・5・31)所収  
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宗教・神話・詩論

寺田操・高堂敏治著『酒食つれづれ』詩話  ――解酲子飲食番外

 酒食のことを書いてはおられるが、この本の著者であるお二方は本来詩人であるので、酒食エッセイとはいえ、詩のことを経糸(たていと)にして感想を述べてゆきたい。事実詩は、本文中にしきりと顔を覗かせているのである。
 この本の本篇をなす「酒食つれづれ」は歳時記仕立てになっているので、冒頭をかざるのは当然、おせちや雑煮といった正月料理である。いっぱしの酒徒を気取るようになってからは別だが、子どもの時代、私の目に正月の食卓はそれはそれはすばらしいものに映った。今に比べ、もとより大層なものが並んでいたわけでは決してないはずである。にもかかわらず「正月にはお年玉をもらい、雑煮を食べたり双六やカルタで遊ぶのが、なによりの楽しみであった」(高堂)、「餅つきは、餅つき屋の指導で我家の庭で行われた。(略)大人も子どもも総出で餅をまるめるので、大小さまざまな形になる。自分でまるめた餅でお正月の雑煮を食べるのは、子どもごころにも楽しかった思い出だ」(寺田)といった特別な心持ちは、料理の味までも本質的に変えさせた。と、こう言葉で書けばこれっきりだが、そこには「「happiness」は「happen」という言葉に語源的なつながりがあります。突然、思いも掛けなかったような形で、神のおぼしめしが与えられた、という意味がこめられています」(中沢新一)という状態に似た、常ならぬ光明にみちたものがあったのだ。ただし、私の場合、酒は極端なからくちに傾きがちなので、おせちのあの甘い味付けや雑煮の主食っぽさを厭った時期が長かった。今はまた別だ。
 鰤のことを言えば北陸出身の高堂さんの前で、可成りに忸怩たるものがあるのだが、関東で、私の子どもの頃などには大ごちそうであった、照り焼きやハマチの刺身で知っていた鰤の、その常識を打ち砕いたのが、金沢で出会った鰤である。重厚で、はなやかで、それでいてどこか幽かに泥臭く力強い味わいは、金沢の他の料理や菓子、文化・芸事、宝飾にも通うものがある。ところで寺田さんが京都の冬の風物詩として紹介されている「塩ぶりの焼いたん」は、金沢の鰤に比べて一見雑駁で荒っぽいように思えるが、じつはおそろしく洗練されたものがありはしないか。ちなみにここで「ぶりは、東京では、わかし→つばす→さわらなどと呼び名を変えて」とあるが、「さわら」は「わらさ」の誤植であろう。
 「湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな 久保田万太郎」という句を挙げて、湯豆腐のはなしをするのは寺田さんである。久保田万太郎の、豆腐というよりは湯豆腐・熱燗好きはきわだっていて、湯豆腐の句は五句、熱燗に至っては生涯にじつに十四句をかぞえる。万太郎はどうも甘辛両刀遣いだったみたいで、焼芋なんかも六句ばかり詠んでいる。それはともあれ、問題は湯豆腐である。万太郎句に「湯豆腐に一も二もなく承知かな」とあるように、酒飲みならば、冬に湯豆腐とくれば、どんなにうるさいやつでも大抵は黙らせることができる。それで、昭和三十八年の死の最晩年の吟に「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とあるごとく、傘雨万太郎七十四翁、辞世のさいごまで湯豆腐なのである。じっさい自分が湯豆腐で飲んでいて、そんなような心持ちになることが、ときたま、ふっとは、まあ、ある。ところで「まだ煮えてこぬ」の句は、芭蕉の、これも晩年の「もののふの大根からき(にがき)はなしかな」をかすめたような気がするのだが、どうであろうか。
 高堂さんは摘み草について、こんな思い出を書く。「農作業の忙しいこの時期、蕨採りは子どもの仕事。山遊びが好きな私は、独り奥山に入り、陽が落ちるまで、蕨採りにあけくれた。両親はいちども捜索願を出したことはない。牧歌的なよき時代であった」と。たとえば子どものものであるわらべ唄や遊びの形のなかに、非常な文化の古層がしまわれている例はしばしば指摘される。春の摘み草などもこの例に漏れず、かつては子どものほかに女性たちが、さらにその昔には男たちも、野に出(いで)て摘み草をした。野遊び、というやつである。手近なところでは、百人一首にある「君がため春の野に出て若菜摘む」の和歌とか、万葉集劈頭の「こもよ みこ持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児」とかの歌謡に顕著だ。それはたんに、邪気をはらうヨモギなどの聖草を摘みにゆく、という以上に、「遊び」が神事の義をも具しているごとく、里から離れた山野に隠れてちょっとした潔斎状態に入ることを意味している。高堂少年も奥山に分け入るとき、少し酔ったような状態に没入していたのではなかろうか。「牧歌的な」とは言うけれど、往昔しばしば子どもが神隠しに遭ったその事由も、なんとなく偲ばれる。
 寺田さんはあんまりお好きではないみたいだけれど、高堂さんはイカナゴの味に季節を感じられるようである。尤も、イカナゴの便りに春を感じるのは、阪神地区にお住まいらしい寺田さんも同様であるようだ。こういう感覚は関東人にはあまりなじみがない。イカナゴはカマスゴともいうが、お二人が住されるあたりの季節感なら『猿蓑』歌仙の次の運びに、その本情は十全に発揮されていると想像する。

乗出して肱(かひな)に余る春の駒       去来
摩耶が高根に雲のかゝれる       野水
ゆふめしにかますご喰へば風薫(かをる)    凡兆
蛭の口処(くちど)をかきて気味よき      芭蕉

 詩の言葉の力というのは顕著なもので、これらの句の運びによって、東京の居酒屋などで、いくら春のものだからといって釘煮などを出されても、京阪人が感じるようなこっくりとしたイカナゴのあじわいから開闢してゆく雄大な眺望というのは、ここには全く存在していないものなのだな、ということが納得される。
 さて、初鰹である。高堂さんは「なんといっても」たたきだと言い、寺田さんは刺身のほうに軍配を上げる。私はといえば、脂の強い十月頃の戻り鰹はたたきにし、まだ脂のない清新な、とも形容できる初鰹は、「なんといっても」刺身にとどめをさす。女房を質に入れても、と言われる江戸の初鰹は、現在の物価に換算して、低く見積もっても一本十万円くらい、高いところでは二、三十万ほどしたらしい。川柳に「寒いときおまえ鰹が着られるか」というのがあるが、今の季節には必要がないからといって、女房とは言わないが、袷や綿入れなどのありったけを質屋に入れ、初鰹の料にする、ために発生するせまい家でのこんなやりとりがリアルに偲ばれる。鰹は江戸のそのかみは芥子酢で、そして刺身で食したらしいが、同じころ、上方で初鰹にこんなに血道を上げたことを聞かない。鰹のもっとも繊細な味の区別は刺身でわかるのだが、この四、五年、鰹の味がいちじるしく落ちてきている気がする。どんな新鮮なものでも、血と脂のにおいが鼻につくのだ。海で何か起きているのではないだろうか。
 ところで、酒や蕎麦やまたその両方が苦手な向きには永遠のアポリアである酒と蕎麦の相性については、つまるところ蕎麦好きの酒飲みのなかに、うるさく講釈を垂れるやつがいるからいけないのだ。本来蕎麦に酒を合わせるのは江戸の嗜好で、合わせる蕎麦は蕎麦切り、つまり麺の状態になった蕎麦である。なぜか酒が冷やなのはファストフードとしての蕎麦っ喰いの名残だろう。すなわち気ぜわしない江戸っ子が燗がつくのを待ちきれずに冷や酒を啖い、胃袋がきゅーっとなったところで蕎麦切りをたぐって、飯台に銭を叩きつけて屋台や店から出ていったのだ。これが原型で、焼き海苔だの蒲鉾だのやきとりだのは、後生になってからの付けたりにすぎない。寺田さんが岐阜で出遭ったという災難は、蕎麦掻きに酒という取り合わせに尽きると私は考える。蕎麦掻きに酒なんて、すいとんでからくちをやるみたいなもので、寺田さんでなくとも胸焼けするようだ。もともと蕎麦と酒は連句における付合・寄合のようなものといえる。付合・寄合とは、弁慶といえば薙刀、赤穂といえば仇討ちのたぐいのことである。そこには必ずしも有機的・内在的な連関が無くてもよい。昔読んだ立原正秋の小説の中に、鎌倉の僧坊にいる僧が、友人の作家に蕎麦を打ったのでおいでくださいと招く場面があって、それなら酒を酌みましょうと、作家がスコッチを一本提げてゆく、というくだりがある。蕎麦には酒、気は心で、酒でさえあるならば清酒でなくともスコッチで一向かまわない。私はそこに、形のないイデーにまで高められた蕎麦による簡素な宴、純粋飲食(おんじき)、とでもいえるような、立原の美学を感じるのだ。当然、蕎麦はたぐって啜る蕎麦切りであろう。
 さて、酒と言えば、寺田さんは1516年のヴィルヘルム4世によるビール純粋令に触れられているが、このような法令を下さなくてはならないほど、ドイツの酒は混ぜものが多い、という例をもうひとつ。こんな小話を聞いたことがある。ある有名なモーゼルワインの大醸造家は、製法に工夫を凝らしてこんにちの地位を築いたが、寄る年波には勝てず、病の床に伏した。いよいよ臨終となって、彼はすべての人を遠ざけ、跡取りの息子だけを呼び寄せてこう言った。「お前にだけは言い残しておきたいことがある。いいか、せがれ、うちのワインには秘密がある。それは、うちのワインの中にはブドウも入っとるということだ!」
 「金色のウィスキー」の高堂さんの文章を読んで、なんと無茶をするものかと思った。「冷蔵庫でキンキンに冷やし、ストレートで飲む」なんていうことは、いくら胃が丈夫でも、少し続ければその結果はおおむね想像できる。もっとも、さらに胃が丈夫であったら、倒れるくらいではすまない事態に立ち至ったはずである。同じ見開きに寺田さんが書いている田村隆一先達がそうだったので、長寿に属するとはいえ先達を襲ったのは、生(き)の強い蒸留酒を愛好する人をしばしば蝕む、食道や咽頭に出来る悪性腫瘍だった。「きみが眼ざめるとき/どんな夢を見る?/青いライオンに追いかけられて/地の果てまで?/それとも死んだ男と抱きあって/金色のウイスキーを飲みながら漂流する?」(「飛ぶ」)。寺田さんが引いた田村先達のこの詩句、若い頃は気づかなかったが、どうもヘミングウェイの『老人と海』における最後の一行のイメージと重なるようだ。「老人はライオンの夢を見ていた」(The old man was dreaming about the lions)。この精神的なマッチョ、ダンディズムは時として夢見るようなまなざしでうつくしい幻影を追うことがある。1976年刊の『詩人のノート』には、上記の詩を引いたあと、大阪のイヴェントで飲みに飲み、大阪のアメリカ文化センターはじまって以来の「最高のエンタテインメントを演じた」翌朝、東京(鎌倉?)へ帰る新幹線の車中でのことを次のように書く。これは「ライオンの夢」の続きといえるだろう。「食堂で、金色のウイスキーをのみつづけ、小田原をすぎたので、席にもどったが、いつのまにか眠ってしまって、二十七、八歳の女性の、しみとおるような優しい声、「着きましたよ、着きましたよ」。やっと目をあけたときは、その女性のうしろ姿、ドレスの色しか見えなかった……青いライオン。」
 高堂さんは「濁り酒」の項で藤村の詩を引く。「濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」(「千曲川旅情の歌」)。久々に近代詩を目にした気がするが、案外佳いものだと思うがいかが。衰退しきった現在の詩に比して、藤村のような悶々とした文弱でさえ、張りもつやもあるのがことさら印象深く感じられる。当時は文弱でさえ、濁り酒を飲む姿がさまになっていた。飲酒は本来雅(が)に属する事柄なのだ。詩ではないが、俳句の、それも投稿俳壇で目にとまった句がある。作者の名前ももう覚えてはいないが。

 濁り酒出世頭も鬼籍入る

 濁り酒の詩語としての本情を尽くして余すところがない。専門俳人の「味噌可なり菜漬妙なり濁り酒 四方太」などもこれに遠く及ばない。私が購読しているのは朝日だが、投稿欄には時折こんなことがあって、次の句にもひそかに唸らされた。

 満月を見て春窮のさなかなり

 こちらに覚悟を迫ってくるような句ぶりといえようか。春窮とは、たくわえていた冬の食糧が底をつき、しかもまだ春の収穫が期待できないときのことをいう季語。しかしこの満月に作者は、なんと曇りなく鮮明に対峙していることだろう。月のかがやきを食べて人間を回顧しているかのようだ。
 ここにも純粋飲食はあり、濁り酒でもビールでも安ウイスキーでも焼酎でも、高堂さんのふるさとの、立山、銀盤でも、なんでもいい、月明の下で悉皆平等である。そこにはなんだか、鬼籍に入っているやつも、生きているやつも、入り交じり、ざわついて立ったり座ったり、赤いギンガムチェックのシャツの、長身の、老いた、詩を書くよっぱらいが、顔をしかめながら猥談を隣の娘にささやいて、かんなぎ髪の女将に叱りとばされ、神隠しに遭って人生の中に消え去った少年や少女、雪女もいて、夏の木陰、蕨やよもぎ、冷たいグラスやゼリーの彩りの瓶がきらきらと光る宴会の大テーブルの端っこで、だれかが「しっ静かに」と言ったあと、風のような音楽が始まる……金のライオン。

         
(『酒食つれづれ』白地社刊、2007年7月、1300円+税)
「索通信」1(2007・8・15)所収     
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Aug 06, 2007

宗教・神話・詩論

華厳の森
     ―田川紀久雄詩集『見果てぬ夢』について

 お見舞いに行ったり電話で話したり、これまでの付き合い方と違ってきた最近になって判ってきたのだが、田川紀久雄さんと私とは、時代は十年ほどかけ違いこそすれ、意外にも同じような地域で少年時代を過ごし、そして彼が川崎の鋼管通り(浜川崎)に移ってきた現在も、鶴見に住まいのある私と似たような土地や町の風土感覚を共有しているといっていいのである。いうなれば「同じ京浜地区の空の下」といった感覚ででもあろうか。
 そしてもうひとつ、「よく判る」こととは軽々に言うべきではないのだが、私も彼と同じ病を病んだことがあるという事実がある。もちろん胃と肺、末期とⅢ期といった具合に、病気の部位もステージも病像も異なりはするし、同じ病でなければ詩集を評することはできないなどと言おうとしているわけでもない。この詩集、『見果てぬ夢』について、当然違う見方も接し方も出来ると思うけれど、その共感覚・共苦についての(生還者たる)私の心のふるえを伝えることは必ずしも無意味なことではないと考えるのだ。いわば、そのように書かれて手渡され、読まれた詩の在り方として。
 詩集には収められていない作品だが、この「操車場」創刊号の彼の詩にこんなくだりがある。

生きている者だけが
影や光を感じ取っているわけではない
この地球のすべての生命体が自覚し合いながら
生きている生命や死者達の魂と呼吸し合っている
一瞬という永遠の無の中ですべてが息づいている
                             (「永遠の都」より)

 素朴な汎自然論なのではない。「一瞬という永遠の無」云々に見られるように、これらは華厳経の世界にかさなる視点と言うべきであり、生死(しようじ)を無礙とする仏説にかようものだと言える。しばしば批判されがちな田川詩の無造作さや現代詩作品としての防備の無頓着さは、彼の作品をつぶさにその既刊詩集から追ってゆくと、このような匕首のように鋭く華麗な詩行を隣に露頭させている、その同じ鉱脈から成っているものであることが知られる。
 そうかと思えば、読者から見ればいきなり最低のポテンシャルに突き落とされる思いがする、こんな詩行もある。

この前のストライプハウスギャラリーでの
あなたの詩語りは素晴らしかった
それなのにお客は誰一人も集まらなかった
そして私の詩語りの時はたった一人のお客であった
                   (「空がある」より/『見果てぬ夢』所収)

 いいところもあれば悪いところもある、といった問題ではない。何か根本から彼の詩を考え直さなくてはならないような気がする。
 ここで田川紀久雄というひとの風貌や生き方、来し方、芸術の愛し方(一般的に言っても彼の描く絵は詩と違い(!)実際に買い手がつくほどのものだ)、その哲学などを思い浮かべるとき、呼応するように立ち上がってくるある人物の記憶がある。
 彼は私よりやはり十ほど年かさで、いわゆる「自由な」生き方をする若者たちの先達のような存在だった。渋谷の町をねじろとし、昼は名曲喫茶、夜になるといちばん安いやきとり屋で芸術論をたたかわせ、年下の友人の住まいの近くにある養鶏場から生きた老鶏を安く買ってきて、アパートの前の路上で首を刎ねてシチューにしたり、その頃はまだ多かった新横浜の田んぼで大泥鰌を捕らえ、泥臭い鍋にして食ったりした。北條民雄やホイットマン、ギンズバーグ、荻原井泉水などが彼の神で、奥多摩で窯をひらき、陶芸家になったが、ずっと苦労を共にしてきた奥さんは二人の子どもを置いて家を出ていった。私の目には彼の姿は当時のヒッピーとも遅れてきたビートニクとも映り、さらに戦前にまでさかのぼる、たとえば種田山頭火のような風狂の系譜に連なるものでもあった。いずれにせよ、その後の彼の声価や風評がどうであれ、同時代人としての六〇年代の対抗文化(カウンターカルチャー)を体現した、私たちの先行者、ないしは併走者だったのだ。
 振り返って田川紀久雄という存在を考えるとき、これは私だけの感じ方かもしれないけれど、彼のうちにこのNという先輩とじつによく似た面影を見てしまう。かの「ストライプハウスギャラリー」云々の無造作なくだりと、同じ作品でいえば、たとえば「花は枯れることを嘆きはしない/風が吹き/種は風に乗って/自由に飛んでゆくだけだ」という、旧約の「雅歌」や『ルバイヤート』の智慧を彷彿させる詩行とは、それほど違った意識で書かれたものでなく、見た目ほどにはそんなに違ったものとはいえない。これを言い換えれば、病者の書『見果てぬ夢』では特にだが、これらはきわめて「自由に」書かれているコトバたちなのではないか。
 当然喩法にやかましい「現代詩」的にいえば、随分つまらなくも古臭くも散文的にも感じられよう詩句は、しかし視点を変えて、死病に罹った自由人が同時に詩人であった場合にものされた書の中のコトバと読み替えるとき、じつに深々としたホリゾントをともなって立ち現れてくる。「現代詩」の多くがそうであるようなひとつの根本的な衰弱とは掛け違った、悩みも苦しみもあるけれど、その死自体さえ嬉遊の様相を帯びた世界が見えてくる。やはり彼は、私の知っているかつてのNというひとがそうであったように、言葉をいじくるエンジニアみたいな詩人ではなく、どんなに世に容れられず、酷評を浴び続けようと、ひとりの自由な芸術家であったのだ。
 そしてひとりの芸術家のコトバとしてこの詩集を見るとき、どちらかというとまず意味をたどろうと真剣になっている自分に気づく。どちらかというと詩的効果という点から「作品」を捉えようとする戦後詩的なものとは範疇を異にした。

限られた生命(いのち)
日々首を締め付けられている気持ちだ
そのことに対して悲しいとも思わない
いや 限られた生命(いのち)だからこそ
一日一日が楽しく生きられる
どんな些細なことでも
すべてを愛おしく思う

薬罐から湯気が出ているのを見ても
眼に映るすべてのものが新鮮に感じられてならない
もし赤ん坊に大人の感覚があったら
いまの私のように生きている一瞬一瞬に驚きを覚えるだろう

限られた生命(いのち)だからこそ
今が永遠に思えてならない
『貝の火』の中で最後に出てくる言葉
《それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ》*
そういままでの人生の中で
今が一番豊饒な時なのかも知れない
                    *『貝の火』宮澤賢治の童話
                                   (「限られた生命」全行)

 詩法的にはどうあれ、私にもこの感覚は痛いほど判る。一瞬と永遠との区別が無く、刻々と新しく、かついつでも劫初が現前するという、この感覚。生死のきわに立ったとき、そこから恐怖という感情が脱落する瞬間がある。このときに虚心坦懐にものごとが見え、すべてが異様に明澄に感じられることがある。その発見を、詩は教典の詩句を日本語に直訳したような文体で綴っている。散文体ではなく、明らかに田川紀久雄の血肉より発する韻律が感じられるのは、この詩に限ったことでなく詩集の全体に及んでいることはいうまでもない。
 私たちは『見果てぬ夢』の一行一行をまず意味的に追い、それから思わぬ嬉遊とも自由ともいうべき詩的効果を受け取る、いくつかの詩の終結部を見ることになる。

多摩川にも多くの鮎が登ってくるようになった
あなたが夕方見舞いに来たら
新橋の近くの佃煮屋から
鮎の甘露煮を買ってきてもらうよう頼もう
まだいくらかは喰い意地があるうちは生きていられる
                             (「鮎の詩」終結部)

来年まだ生きていたら
多摩川添いの桜をあなたと見にゆきたいものだ
そうそうあなたとみた六義園のしだれ桜は見事だった
来年のことを言うと鬼が笑うというから
桜の話はこれでおしまいにしておく
                            (「鬼が笑う」終結部)

東の空が明るいのに
南の空は黒い
いまにも雨が降り雷が鳴りそうだ
見舞いに来てくれたKさんは
きっと途中でずぶ濡れになるだろう
                     (「ずぶ濡れ」全行/詩集終結部作品)

 私ならこれらの「遊び」のある詩の雰囲気になつかしいものを覚える。戦前から戦後のある時期、非モダニズム的なある種の詩人たちの作風に似通う印象がある。井伏鱒二や高見順、宮澤賢治は当然のこと、尾崎方哉や尾形亀之助ほか、著名な詩人やその詩的業績などいまでは忘れられかけている詩人までさまざまだが、戦争詩を書いて吹っ飛んだ詩人もそこまで生きられなかった詩人も、沈黙していた者も、ある意味で共有していた日本的ボヘミアンの系譜をひしひしと感じる。言い換えれば、この『見果てぬ夢』という詩集にはそうした色んな顔たちが、はるかな記憶のようにひしめいている。
 だが自由であり嬉遊とはいえ、その中では堪えがたい歎きが歎きつくされる。死後までの気がかりは「あなた」や「妹」だ。

死は怖くはない
それより私を支えに生きている人のことを思うと
無性に切なく思うだけだ
                        (「充実した日々を送る」より)

 どういうわけだか、いざとなるとこの気持ちが将来されてくるのは誰しものことのようなのだ。そうだ、死は、私ひとりの死は、決して怖いものではない。仏説にも愛別離苦を八苦の一とするように、残された者のことがすさまじいまでの悲しみとなって頻りに思われてならないのだ。これは、生命が減衰するにせよ横溢して恢復するにせよ、病が終結に向かうに従い、いずれ逓減し、消滅の時を迎える。だが、その根本的な現実が現前しない中空のうちは、深い痛みとなって病者を苦しめる。

老子の教えの「道(タオ)」も
法華経の教えの「さとり」も
死を前にしている今の私にとって
生きる糧とはならない
私は救われたいと祈ってはいない
                           (「何もいらない」より)

 少なくとも田川紀久雄という詩人は、病者は、やって来る心の苦患も躰の(まことにフィジカルな)苦痛も、そのすべてから身を逸らそうとはしない。事実、私はやめたほうがいいと言ったのだが、一日、薬を飲まずどこまで自分が耐えられるか、肉体的な痛みに向き合ったということがあるそうだ。肉体の苦痛は心を蝕むゆえに、私は何の役にも立たないと考えるのだが、おそらく少年のような新鮮な興味をもって彼はそのことに臨んだのだと思う。そういうことと考え合わせるとき、いま引用したこの詩句は、苦悩は苦悩として、しかしまったく絶望の表現ではないことがわかるし、その世界は重くない。彼は愚痴と不平の多い天使みたいに、軽く、自由で、その業(ごう)が「並大抵のものではない」(「償い」)ぶんだけ、却ってその霊位は高いだろう。次の詩を見てみるがいい。その愛別離苦の苦しみも、浸潤の恐怖も、ししむらの痛みからはじまる絶望的な世界観からも、ほとんど独力で脱し得ているではないか。書かれたコトバののちに、同じ苦しみは、慣れ親しんだ心拍のように、夕闇のように、繰り返しまたおとずれるとしても。

胃のあたりが痛むのですが
これはもう死ぬまで直らない症状でしょう
死に際には誰でも激痛で死ぬと聞いています
胃の痛みとは反対に頭はとても爽やかです
病院の窓から街路樹の銀杏の葉の揺らぐ音が聞こえてくると
ああ世の中は幸せなのだなとつくづく思うのです
とはいえ妹やあなたのことを思うと
やはり生きて行く人達は
つねに重荷を背負って生きてゆくしかないのだと思ってしまいます
私の心はこんなに落ち着いているのに
あなたの心は嵐を迎える前夜のような気持ちなのですね
                              (「痛む胃」全行)

 この詩から宮澤賢治の詩「眼にて云ふ」の影響を云々するのはたやすいけれど、私なら賢治もやっぱり同じような心持ちであったのだな、という解釈に傾く。妹や「あなた」への憂苦は、先にも述べた肉体や生命の減衰にともなって漸増する、ひとつの悲というか、大いなるやさしさのうちに解けてゆくようだ。こうして、「己がままならざるもの」は出現して、無数の田川紀久雄とその家族を、このたったいまも、包摂している気がする。
 「好きなように生きてきた」と、彼・田川紀久雄は言う。詩を書く者としての業の深さは彼と選ぶところのない私は、どこか彼に風狂者、かつてのカウンターカルチャー・ムーブメントの具現者たちの匂いを感じてたじろぐことがある。私と彼とは異なるが、彼はいつまでも私のなつかしい先行者、何かに対して必死でたたかい続けてきた同志なのだ。永遠の華厳の森にいる痩せた聖者のような。


「操車場」3号(2007・8月)掲載
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Jul 27, 2007

宗教・神話・詩論

食物語彙考


 言葉には熟す・熟さないということがあって、折口信夫の昔風に言えばその「表現性能」に随分と関わっているようである。表現性能とは、言い換えれば、その言葉が実現させる感覚的側面とでもいおうか。これを考えるうえで都合の良いのが食物に関する諸語彙だと、私は思っている。
 例えば甘いものをとってみてもよい。単に、もち、というのでなく、駿州安倍川名物のあべかわもちとか、吉祥の意を冠しただいふくもち、というように、大元のものよりも個別化、限定化された言い方のほうが、感覚的な側面がより具体的なものになる。むしろ、ここから「もち」が取れて、あべかわ、とか、だいふく、とかいう言い方をおこなっているのがわれわれの具体性の現状ではないのか。この場合、あべかわやだいふくは「もち」が付いたものより、より熟しているコトバといえる。「もち」が付いたものよりこっちのほうが、練れて、具体的で、旨そうな感覚をわれわれに与える。しかし、言語のレベルから言えば、これらのもののほうが、より原義・原形的なコトバから遠いものとなっていることは、注意しておいていい。
 同じような、地名や寺号、固有名詞に係る、(料理法もふくめた)食物の名辞のことを、他に思いつく限りで考えてみると、おぐら(餡)、やながわ(鍋)、なんばん(漬)、おでん(でんがく豆腐)、すいぜんじ(海苔)、どうみょうじ(糒=ほしい)、きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)、たぬき(蕎麦)、しっぽく(饂飩)、すあま(州浜)、きんつば、しおがま、なると(巻)、やげんぼり、などが思い浮かぶ。
 さいしょの、おぐらの具体性とやながわのそれとではどっちがどうであろうか。その人が住する環境や地域にもよるだろうが、私は「餡」が取れたおぐらのほうに、調理法としての「鍋」の概念が常について回るやながわより、感覚性の強さと熟度を感じる。一種の逆転現象だが、小倉百人一首と聞いて、暗い色と甘い味とを思い浮かべ、なんだか旨そうだと子ども心に感じたことがある。また、関東の人間にとっては、頭では「=田楽(豆腐)」ということがじゅうぶんに理解されていながら、おでん、と言うと極めて強い感覚性を覚えると思う。おでんと発話した場合、ただちに付随して、だいこん、ちくわ、とうふ、すじ、こんにゃく、といったコトバと概念の鎖がある具体的な接近を起こし始めるのである。鼻腔に熱燗の匂いさえ立ち上ってくるようだ。しかし、これは繰り返すようだが、本来の甘味噌を塗り炭火であぶった田楽豆腐の原義・原形から、遠く離れたものであることは言うまでもない。
 寺号ということから言えば、日本の食物の多くは、舶来ものの輸入業と製造業を兼ねたような中世以来の寺院にその多くを負っている。酒、味噌、野菜、料理、菓子、またそこの僧や神人が関わる門前の土産品など、枚挙にいとまがないところだろう。すいぜんじ(水前寺)は、これは寺号と言うよりは肥後の地名だが、すいぜんじ海苔といって感覚性を喚起される人間は、いまは、もうほとんど居ないのではあるまいか。私も「吸物は先出来されしすい(ゐ)ぜんじ 芭蕉」という、この猿蓑「鳶の羽も」巻の芭蕉連句によって初めて知ったくらいのコトバだ。他方、どうみょうじというコトバに生々しい感覚性を喚起される向きは、けっこう多いのではなかろうか。もとは道明寺糒というこの食物を、広辞苑でひろえば、「(河内の)道明寺で天満宮に供えた飯の下がりを乾燥貯蔵したのに起る」という。それが餅菓子の名となったのだが、どうみょうじと聞いただけで、ただちに感覚のところまで降りてくるものがある。そしてこれも感覚的になった分だけ熟し、かつ原義から遠ざかっている。寺号では他に、きんざんじみそ、というのが思い当たる。金山寺味噌とも径山寺味噌ともあてるが、これはまだ「味噌」が取れるところまで熟してはいないようである。食物ではないが、似たようなことは、例えばけんにんじがき(建仁寺垣)をけんにんじとはまだ言わず、八丈島産の八丈絹や奄美大島産の大島紬で製した反物を、たんに八丈や大島と言うだけで一向あやしまない事情にもあらわれている。
 また、人名(しばしば伝説的な)によるものもある。きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)などがそれだ。きんときは坂田公[金]時の金太郎時代の体色であった代赭色にちなむ豆の色から来ているし、きんぴらは金平浄瑠璃の主人公(金時の子とされる)の強精無比なところが、牛蒡の強精作用に通じるものと考えられたところから来ている。両者とも、いわば原義・原形に加えられた隠喩の作用が強いので、そこから「豆」や「牛蒡」が取れても、原義からあまり遠くには行かない。われわれは、小さな金太郎を食べ、金平の精を食べて、その僅かな時間、小さな神話に参画しているのである。いっぽう、たくあ[わ]んは、ことさらに坊主のことを思わなくても、また思ったとしても、「漬」をふり払ったこのコトバ自体で十全に熟していると言える。現実の沢庵和尚との繋がりは意外に希薄なのではないだろうか。一説に「貯え漬」の転であると、辞書には載っている。たくあ[わ]んと言ったとき、あのにおいを思い浮かべない本土人は幾人いるだろうか。この特有のにおいに、史実における沢庵和尚は感覚的に関係が薄いのだ。尤も一番若い世代など、あるグループにはこの限りでない、というのがグローバルな現実であるようだけれど。
 料理名では、関西にしっぽく、というのがある。辞書には卓袱と書いて、きのこやかまぼこ、野菜などを具に載せた「そば・うどんの種」とあるけれど、現在リアルにおこなわれているところでは、これは、うどん以外には考えられない。これに対応するように、同地ではたぬきうどんというのは、その概念自体が欠けているらしい。関東ではたぬきときつねとは対称性のうちにあるが、関西では非対称で、関東みたいに「たぬきそば・うどん/きつねそば・うどん」というきれいな概念の交叉は見られない。関西でのこの模式は、「きつね(しっぽく)うどん/たぬきそば」で、きつね(しっぽく)そばは考えにくく、たぬきうどんというものは存在すらせずに、仮にその位置にあるものを無理に言わせるとすれば、「てんかすを散らしただけの(す)うどん」という位置づけらしい。ところで、しっぽく、というと、関東人の私でさえある感覚性を受け取る。最近では、さぬき、というコトバに官能を刺激される関東人も増えてきているのではあるまいか。
 このほかに固有名詞そのもの、という一群が考えられる。主に商標だが、すあま(州浜)、きんつば(金鍔)、やげんぼり(やげん堀=薬研堀)、など。この3例は、いずれも数世紀を閲してほとんど普通名詞に近くなるまでに熟したコトバだと言える。このコトバを聞くだけで、薄甘く冷たい餅のような食感、口の中でほろほろ崩れる砂糖の歯触り、カプサイシンが匂い立つまでの複雑で強烈な辛さなどが、感覚的な体腔に似た心の内で励起してくる。この感覚性は、例えば酒の銘柄など、昔は大いにその実在感を発揮したのではあるまいか。
 私の若いころはキリンや剣菱を飲む、ということは特別なことで、ケンビシ、という音韻からおのずと唾が出てきたものである。そのかみは、柳(の酒)やもろはく(諸白)、という名を聞くだけで舌なめずりした酒飲みたちがきっといたはずである。往昔の人間は、伊丹(酒)や灘の下りものにのどを鳴らし、石見銀山と聞くだけで怖気をふるったものである。そういう意味で、白髪が生じたことをカシラに置いた霜、と言うがごとき暗喩法的なものより、駅で手荷物を運ぶ役割のポーターのことをその被り物から赤帽、と言うごとき換喩法的なもののほうが、自然から、より文化に近く、リアルな日常の具体性のただなかにいる人間にとり、確たる感覚性を与えるものとは言えないか。ただし、文化の推移に従って、その感覚性の実感も無常に推移するものではあるけれど。
 極端な話のようだが、ここでオノマトペなどを考えても、「ざぶざぶ」や「ぬるぬる」は、そう言うから文化的にかく感覚され、かく認知されるのである。そういう意味でそれらもやはり、原義・原形から遠く離れたところで、却って生理的な皮膚感覚とまがうばかりの具体性を持つ、そんな感じだ。藤井貞和氏の最近の著作に「ともあれ感情の起源は神話や制度に由来する」(『タブーと結婚』23頁、笠間書院、2007年)という一節を見るが、実際コトバの感覚にもそんなところがあるようだ。


《「tab」4号(2007・5・15)より》
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宗教・神話・詩論

随筆岸谷散歩草木虫譜


 丘の上に立つ集合住宅のわが家から散歩に出るには、まず谷あいにまっすぐに降りてゆく階段の道を踏むことからはじめなくてはならない。寺の後背の高台にあたるそこは、樹木草本の密生する、夏の間はすさまじいばかりの蝉の声が降り注ぐ、ちょっとした散歩への「天国の門」みたいな感じがある。その場所でいまの時期しきりに目に留まるのが葛の花である。釈迢空の『海やまのあひだ』の最初のほうに有名な歌があったのを思い出した。

 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 たしか隠岐での詠であるとなにかで読んだことがあるが、はっきりと確かめたわけではない。「踏みしだかれて、色あたらし」というところに、ある種ソバージュな憤ろしさを感じるが、しどけないものを見つめる視線もどこかにひそんでいるような気がする。「色あたらし」は、当然いまさっき踏みしだいていった何者かの痕跡である以上「新し」であろういっぽう、「鮮(あたら)し」の筆勢も一首はひめているのではないか。いずれにせよ、葛の花なるものにじっさいに遭遇した経験があれば、なるほどと納得される歌だろう。
 その階段の上の葛の花は、花房に開花が徐々に充ちてゆく段階を終え、こないだのある一日には間断なく、静心なく、さくらの花のように散りつづけているさまを見た。その花房の盛りであったとき鼻を近づけて匂いを嗅いだことがあるけれど、おそろしく濃縮されて非・発散的なものになってしまった香水の原材料みたいな、たとえばフルボディのブルゴーニュの赤や林檎香を伴った芋焼酎の熟成を思わせた。見た目はほんとうにおとなしやかで小さな濃紫の花弁の集合に過ぎないのだけれども。
 それからこのあいだから執心の、古代の残存、タブノキの植生であるが、この岸谷のいずれも丘の部分に六本まで存在することを確認した。そのひとつは寺の境内、またもう一本は丘の斜面の小さな稲荷社にあるのだが、どちらにしてもそういったエリアには「自然」が残りやすい、ということでその植生の理由を片づけてしまわれぬ気がしてならない。神社があるからタブノキがたまたまそこに残ったのではなくて、タブノキが生い繁るようなエリアであるからこそ神社や寺院がそこに存在すると考えたほうが順当な思考経路なのではないか。まあ、またあらぬことを口走っていると思われかねないので、この問題はこのくらいにしておく。
 階段の下は個人宅だが寺の隣でもあるせいか、やはり樹木が盛んに繁っている。その繁みや生垣で観察されるのは三種まで確認できる蜘蛛および蜘蛛の巣である。ひとつは一枚の平面の網として巣を編んでいる米粒ほどの灰色の蜘蛛、だがよく見ると黒い条(すじ)が躰に入っていて、日差しの具合で灰色の部分が銀白色に光っているような印象だ。獲物は胡麻粒以下の大きさの羽虫のたぐいである。方形をなす索条の枠内に網の目の斉(そろ)った几帳面な円形の巣を張る。
 もうひとつは、これは私にも名前が言える女郎蜘蛛。一枚の平面のように見える巣を複数の方向から見てみると、ちょうど二枚貝のホタテ貝のような角度で開いた、二つの網面からなる三次元の立体であることが判明する。そしてその構造体を支持するため、無数の繊細なワイヤ・ロープが巣の内外に張られている。蜘蛛の躰はこの時期にはわりあい小さいけれど、ひと月前より現在のほうがひとまわりもふたまわりも大きい。胴体部分で二十ミリほど、脚を含めれば三、四十ミリもあろうか。脱皮した殻が巣にそのまま屈曲した骸骨みたいに引っかかっていたりする。夏のはじめにカイガラムシみたいな白い絮(わた)のようなものから生まれたクサバトなど、比較的に大物を捕食しているのをよく見かける。包帯で巻かれたエジプトのミイラみたいにぐるぐる巻きにされて、金華ハムかサラミさながらに巣に吊ってあるのは保存食というわけであろうか。九月に入ってから一つの巣に大小二匹の個体がいるのに気がついたが、これはたぶん繁殖行動なのだろうと勝手に思っている。
 さいごは、これはいわば籠形に巣を張る種類で、巣の中には枯葉の小さいやつが、たまたまどこかから落ちてきてこの巣に引っかかったにすぎませんという格好で、しかしどの巣にも必ず「その一枚」が存在する。そっと覗いてみると、やはり体長四、五ミリほどの金色の丸っこい蜘蛛が一匹隠れている。黄金色の可愛らしい大仏あるいは入道という感じか。ただ仏門とはいっても、源氏物語の明石入道みたいな生臭な感じはあるのだけれど。「籠」はサーカス小屋を逆さにしたようなもので、サーカスのテントの天井に、収納されたさまざまな道具、仕組まれた仕掛け、縄、構造物などが露わであるように、この蜘蛛の巣においても同様に、いろんな太さ・形状・角度の索条が、いかにも辛苦の手をかけましたと言わんばかりに丁寧に無数にきらきらと張り巡らされているのを見て、この蜘蛛の手を借りてもたらされた神の労作ともいうべき小品に、私は息を呑むのだ。

  驟雨ののち
 蜘蛛の巣のしづくの夏をただに見る     解酲子

 庚申塚へと向かう裏道をたどって二丁目の三叉路に出る。ここいらへんはいろんな三叉路の組み合わせで町の条里が出来上がっている。そのひとつに入り、さらに分岐してゆく三叉路の手前に面して古い木造の一軒家があるが、目に立つのはその家の丈に倍するような、門扉を圧倒して繁るふたもとの大夾竹桃である。ひとつは白い花を咲かせ、他方は紅色の花を咲かせるけれど、私がこのとき初めて知ったのが、白花は一重で紅いほうは八重であるということだ。これは岸谷のほかの場所で咲いている夾竹桃によって確認したことでもある。まあ、夾竹桃のもともとは紅色の一重の花をつけるもので、白と八重咲きとは園芸品種であることがあとで判明したのだけれど。たしかアルカロイド系の毒性を持つこの木が、なにゆえに庭木としてもちいられているのか、もうひとつ釈然としない。と、いうより、そもそも庭木とは何か。一体、庭とは何か。橘や桜や竹をヤシキに植えて、住まうということに関し、昔人は何を思い、何を祓ったのか。
 朽ちかけたようなこの家の玄関には古びた軒灯があって、ふとこんな句が思い浮かんだ。夜でもないのに。

 軒灯や夾竹桃の花の奥     解酲子

 そこを曲がるとアスファルト上に石榴の実が潰れている。青空を背にして、右手の家の庭に植わった木から落ちてきたものであろう。冒頭の「踏みしだかれて、色あたらし」ではないが、なにものかの意志を感じさせるような潰れ方といったら、おわかりになるだろうか。意志と言っても、たぶん、ヒトのそれ、ではない。怖ろしい力(フォース)。

 高きよりなげうたれてや石榴の壊(ゑ)     解酲子

 散歩帰りには魚屋と生協に寄って晩飯の材料を仕入れる。今日は生の穴子の割いたやつがあったので、茄子と桜エビ、鷹の爪といっしょに胡麻油で醤油炒め煮をつくることにした。料理の成否を決するのは煮酒用の酒を惜しまぬこと。またうちではこの種の煮物に砂糖類はもちいない。魚と茄子と胡麻油その他のもろもろを「adaptation au milieu」(環境にやさしい?)という文字を染め抜いた、生協で貰った布袋に入れて肩に引っ担ぎ、公園を抜ける。生協の主旨に反対というのではけっしてないが、なんだか「私は老人を大切にします」という文字を大書したTシャツを着て歩くみたいな気分ではある。
 公園に入ってすぐ右の空き地にそびえる七本の椎の木は、樹齢はさあどれくらいだろうか。その木々が年々目に見えて、森厳、という形容が相応しいようなかんさびた趣と、その中からは絶対に脱けることができないであろうような深い森を想起させる、ある古蒼な高さ、巨大さを具えてきたような気がするのは私だけか、齢のせいか。秋になり、そういえば空が異様な青さ、高さで感じられるようになったのもそのせいか。
 シベリアン・ハスキー犬のベル兄弟のいる路地をめざす。路地の手前、四つ角の小さな木造の家には道に面してイチジクの木があり、そういえば私が子どものころはイチジクを店で買うなんて発想はどこにもなかったことなど思い出したが、ようやく熟れかけて黄色くなったたわわの実が、鴉の仕業かと思うが、いくつもいくつも抉り割られていて、熟れたイチジクの甘い匂いが芳醇なアルコールみたいに路地に漂い、それに惹かれてハチドリほどもあるクマンバチ(?)がぶんぶんと飛行して来ていた。
 やがてマンションに戻る最後の階段の横に生えた、薄荷の繁みに至る。花が咲く夏の間、そこはちょっとした虫たちの楽園だった。薄荷の花といってもミントの匂いがするわけではない。その花穂がかすかに発するのは、蜂蜜の蜜にひそむような、蓮華の、菜の花の、サルビアの、あるいはライラックの花に共通する、淡い体臭めいたところもあるあの親密な香りである。花にはアシナガバチや蜆蝶、名前のわからない地味な柄の蜂のたぐいと、ローマ軍の工兵隊みたいな蟻たちが日の暮れるまでしんかんと嬉遊していた。ちぎると揮発性の匂いのたつ円い葉には、薄褐色のゾウムシ、カメムシ、また真っ黒に見えるが光が当たると曜変みたいな鋭い虹色を発する豆粒大の静謐な甲虫たちが、気がつくとそこここに姿を現している。
 なかに明らかに藪蚊の文様の虫が花の蜜を吸っていたので緊張したが、考えてみれば吸血するのは雌だけなので、この、花の蜜を吸う蚊は明らかに血を吸わない雄と知られた。そして一歩踏み込んで考えるに、こうして何もせず「観察」しているだけで、彼らに何か仕掛けようなどと思わないでいると、むかし子どもの私をあんなに刺したアシナガバチでさえ、ただ存在するだけのものとしていまのこの私を受け入れているような気がするのである。蜂は刺さず、カメムシは臭気を発しない。さまざまな甲虫たちが、多くわれわれの手にかかったすえのその断末魔に救命信号みたいに放出する、耐えがたく、対立的で、危険な液汁に遭遇することもないのだ。われわれが不快を感じる虫たちとその生態、行動は、人間にとって不快であるだけであって、彼らにとって人間は何物でもないのだと思う。
 蛭や蚊は私の血を吸うだろうが、「人間だから」吸うわけではない。狸や馬や山猫と区別されたものとして(彼らにとっての)人間がいるわけでもないだろう。文化的に「区別する」のは人間だけだが、ただの存在としてわれわれが彼らの間にうち交じることができるというのは、実は驚くべきことではないか。大きな巡りの中にヒトや虫はいて、そんな「われわれ」は、まったく同等のものとしてWe are all mortal(われらみな、死すべきもの)、という真理の裡に消尽する幸福な存在であるべきなのだと思う。


                                   06/9/3~4

初出「倉田良成詩文片「メタ」十八号  2006・9月」
 
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Jul 20, 2007

宗教・神話・詩論

「歩行に関する仮説的なノート」(1972年刊)より


第三のノート(自註)



   a
    
〈テーゼ〉はそれがどのようなものであろうと出された瞬間に相対化される。このことはあらゆる人間活動のある本来的な規定である。いかなる内容であれ、それ自体としてのテーゼの方向は、ひとつの〈効力〉の枠に集中するが、それを有効化せしめるためにはおおかれすくなかれ、〈信憑〉ということが不可欠な要素となる。ちょうど〈世界〉を信憑するごとくに、である。

 もし虚偽を避けたいのなら、眼は出されたテーゼの内容にむかわず、テーゼが提出されるそのしかたを遡行してゆけばよい。しかし、この眼のなりゆきに忠実であるならば、かかる遡行、逆行はおそらく無限になされなければならないだろう。あたかも、〈世界〉を追跡するように、である。

 このようにするとき、僕はことごとく〈場処〉というものを失うだろう。〈場処〉とは判断によってあたえられるものだ。ところで〈世界〉を無限に遡行する、ということもひとつの判断によってあたえられたある〈場処〉だとすれば、判断-場処を拒んで〈世界〉を追跡するものにとって、それはあきらかに自己撞着である。

 ここに、〈ひとが思考する〉という行為より発するある究極的な不合理性ともいうべきもの、ひるがえって言えば、ひとつの有機性、もっとも厳密な意味における〈倫理〉のようなものがあらわれているのだとおもわれる。

       b
 
  〈方法〉がつくられるためには、具象的な現実はあたうかぎりしりぞけられ、持ちうる能力それ自体が最大限に動員されなくてはならない。

 僕が非常な努力をかたむけてつくろうとしていたのは、単なる方法論ではなく、それによって、僕の思考、意識、感情、生理等が統御され、ある一点へと束ねられてゆくべきより有機的な方法そのものであった……。

 僕にとって……方法とはかんがえられるものではなく、行なわれるものだ。そこで、僕は恢復する。

 みずからを再構成したいという欲望。なぜひとつの思考は、実証され、展開されなくてはならないのか。世界は他のなにものにも依ることなく、ただみずからの脳髄の重さだけで倒れなくてはならない。

 方法はみずからを語らないはずである。なぜならそれはひとつの悪無限であるから。そこに〈行なう〉ということの持つ、沈黙の不思議な肉感性が存する。

 そしてどうしても還元することのできぬものが残ったとき、それなりの遣り方で自分か時代かにかえしてやれば良い。

 意識性は、厳密であろうと欲すれば欲するほど対象のうちに微細に分岐してゆき、凍てついてゆく過程をたどる。それにたいして方法性は、意識にある盲目性を強いることで、あの〈親密さ〉という運動の感覚を喚ぶ。

 方法とは一種の意識の、あるいは思考する、ということの、もっとも原基的な能力の場である。意識はそれだけではいかなる〈面〉も持たず、したがって自動する構造も持たない。

 方法を逆向きにたどることによって、僕のひとつのあるきわめて〈質的な〉由来といったものがあらわにされるはずである。

 方法それ自体はいかなるものも絶対に対象に加えたりはしない。すなわち方法それ自体は、いっさいの〈結果〉をおもわない。したがってどのような〈結果〉もおそれない。

〈結果〉をおもうのは〈ひと〉であって方法ではない。ここにおこる一種の切断を注視せよ。このまぶしさは〈ひと〉あるいは方法の、述語の息の根を止めてしまうような背理性にほかならぬ。

 方法は時間のなかを遍歴しながら、突如、みずからがひとつの空間のうちに顕わになっているのをかんじるだろう。

      c

 しばしば、ある絶対性をおびたニュアンスをもってかたられる〈体験〉は、それがどのようなものであろうとも、ひとしく、単彩の〈現実〉へおしかえされるべきである。
  
〈根拠〉はそれがある目的をもって言われたちょうどその瞬間にすでに〈根拠〉ではなくなる。僕が言いうることは、ただ触れてはならぬその一点もまた〈根拠〉いがいのものの命ずるままに、ひらきつくすことに依ってかくしぬけ、ということだけだ。

   どのような意味でも体験はたんに体験でしかない。それがそれ以上のものとなる、そのさきはもはやそれは体験とはかかわりがない。あらゆる言葉はかかる場においてためされるべきだ。どんなことをしてこようと、それゆえ、僕はいつでも〈ここ〉からはじめることができなくてはならぬ。

 ひとつのものを、そのもっとも純粋なかたちで把えるためには、そこから〈時間〉を追放しさえすれば良い。すると、把握とは、その〈現在〉で所有するということにほかならない。

 それがどのように否定のいろにそめられていようとも、あるものを〈美〉とかんずるかぎりは、ある〈了承〉をその感受の根底に敷いているといわなくてはならない。

〈了承〉という鍵がはずされると、〈美〉はある種の展性をあたえられる。あたえられるや否や、それはたんに〈美〉とは呼びえなくなるような地点にいたるまで、おのれを展開させて止まないだろう。かくして僕は〈美〉よりその全権をゆずりうけ、その対象が美であるにせよ、ないにせよ、なにごとか行為せねばならない。

 美とは、ひとつの状態のほかのものではないのであって、おそらく固有名詞の〈美〉といったものは存在せず、あるのはただ、〈昂揚〉ということばであらわされる、精神のある種の形姿のみである。

 理性も感性も信じないこと。だが理性や感性が存在するとして。僕の不信はそのように区別することにではなく、区別したものに名称をあたえることにむけられている。

 感性を拒否することも、反理性をさけぶことも、ひとしく、かならずしも迷妄とばかりは言いきれぬ、ひとつの迷妄のふたつの貌にすぎない……。

 読書法……。
 はじめて見る、ということにはある〈奇怪さ〉がつきまとう。一冊の書物が、もし〈真正〉な著者の手に成るものであるのならば、ことごとくこれを奇怪な書とみてさしつかえない。それが〈偽物〉でないとすれば、その奇怪さは終始一貫したものであるだろう。巨大な思想はつねにある端初的なものをその核として保存しており、われわれにとって〈端初〉とはつねにある奇怪さをもってあらわれるものであるからだ。一種の〈置換〉ともいうべき操作をおこなうこと。論理学は詩のようにも読める。作家は本来的に孤りであるという究極的な視座をたえず設けておくこと。~主義、~運動といった名のもとに、あるいは多少なりともそのことに関連させて、一個の作家を判断せぬこと。

 内容の豊饒さよりも、〈場〉の堅固さにむかうこと。おそらく内容は無限にかさねてゆくことができるが、その堆積にある構造をあたえるのは、ただひとつの〈場〉である。

   d

     実証されることのない明証ともいうべきものがある。それは、いかなる意味をも包合したところで名指されるべき〈意識〉というものの総合における一種の発光であって、通常〈直観〉と呼ばれているところの現象である。この総合による発光と、個々の場面での反射とをきびしく弁別せねばならない。

 A≠A,-A……。だがこの定式への解答は案外、易しいことなのかもしれぬ。僕が為すべきことのいっさいの区分け-すなわち行なうか、行なわぬか。もっとも知ってはならぬものは自己自身である。

 ひとつの解釈にたいする他の解釈は、方法的な眼においてはひとつの〈発見〉となる。なぜならそこには、可能もしくは不可能という極度に〈個〉的な与件が、直接、介入しているから。

 ひとつの発見をひとつの解釈に堕さしめぬこと。可逆の関係に捉えられていたものが、不可逆のかがやきを発するまでに、あの、〈精神〉とよばれるものの運行を持続させなければならない。

 同質的なたんなる〈状態〉は、これに意識のひかりをあてることをせず、つねに〈忘れている〉べきだ。そうしなければ、意識と肉体とは刻々、異様な共喰いをはじめて僕のすべての〈動き〉すなわち精神の運動をしめあげていってしまうだろう。

 虚無は否定の極限としては存在しえない。それはむしろ肯定の極限として解されるべきものである。

 世界がなにものかでありつづけるかぎり、ついに〈純粋〉はひとつの否定の質としてしかあらわれることはないだろう。

 現実への密着は、通常それ自体としてそのようには意識化されない。したがって、かかる〈現実密着〉をそのものとして感覚するとすれば、それはかならず強烈な現実乖離の象となってくる。

   e

 ひとつのものを注視すると、それは、ほんらいのそれとは全く別のものになってしまう。

 ひとつの思考を、ひとつの比喩をもって表現するのは、厳密に云えば虚偽である。

 ひとの思想に依って思考せぬ、ということは、みずからの思考に依って発見ないしは獲得したものに、毛の筋ほどにも〈普遍〉の感覚をゆるさないことである。

 いかなる言葉も無益に通用してしまう。ほんとうに通じにくい言葉は、しかしどこかにあるはずだ。

 ものを区別する、とはもっとも基本的な把握-理解の遣り方であるが、それは〈ひと〉がする、〈世界〉への最小限度の妥協をも意味している。

 区別されえぬものはしかしかならず消滅する。すなわち、区別される。

(言われたものにはあたかも臓腑のような構造を負わせ、それを言う僕そのものをはるかに外延化してしまえ。)
 現実はもっとも遠いところから〈私〉を直撃する。そんなとき〈私〉もしくは現実は、ひとつの巨きな夢となる。

 そして僕のうちで、なんとあの〈他者〉がおもわれていることだろう。
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Jul 17, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学



 本日は「詩の教室」の集まりにお招きいただきまして、ありがとうございます。このような題で、分かりづらいところもあるかも知れませんし、うまく話せるか心許ないところもありますが、どうぞ最後までお付き合いください。
 まず詩とは何か、言葉とは何かを考えることから始めます。今日はウィトゲンシュタインの言語論=哲学の助けを借りながらやってみたいと思います。まず言葉とは何かを考える上で、像と現実(言い換えると文化と自然)という考え方をお示ししたいと思います。この場合の像とは視覚的なイメージというよりは、その記号によって直接に表されていることがらを指します。「東大寺」とか「美人」でもいいけれど、「ソナタ」や「関数」や「大会」といったことを思い浮かべてみるといいでしょう。「B」「γ」のようなものでもよい(他方、すべての概念内容=ソナタやγのようなものでも、ことごとくこれを視覚的なイメージに置き換え得る、というところに言語の持つ一つの秘密があるようです)。現実とはこういった像の「もと」になるもので、それ自体(「もと」自体が何か)を説明するすべはありません。説明はすべて像によってなされるものであるからです。
   像(文化)の源泉は現実(自然)です。現実からの糧道を断たれると、像は痩せるか、死んでしまいます。死んだ言葉ということがよく言われますね。逆に像がなくても現実自体は痩せも、死にもしません。じつに当たり前のことですが、人間は死ぬけれど、自然はそもそも人間的な生き死にの範疇を超えているという意味で、生死がありません。この絶対的な一方性が、文化と人間存在の基礎・源泉と考えられます。
 極端な話をします。文化は新たな自然を創り得ず、また自然を「変形」させることもできません。例えば、山を崩したり、海を埋め立てたり、化学的な化合物に分子を一つ新しく加えたりすることは、人間による自然の創造や変形ではなく、それ自体文化に属する可能な自然解釈の一形態にすぎないと私は考えます。地形を変えることはできるが、自然を変形させること、いいかえれば摂理を変えることはできないでしょう。月という惑星を消滅させることは可能ですが、そのことによる人間等への影響、つまり摂理から人間は逃れることが絶対にできません。
 簡単に言ってみます。たとえ分子が新たに一つ加えられた高分子化合物でも、その分子はすでに自然の中に有ったものでして、その化合物自体、既往の環境や時空の形式に適合したものであるからこそ、自然の中で「存在」できるのです。分子を一つ加えるという行為のみがせいぜい「文化的な」意味を持つのであって、加えられたのちのその存在の帰属先はやっぱり自然なのです。
 自然の基本要素、アトム、光、時間と言っても同じことですが、自然という「全体」には、人間は手を触れ得ないでしょう。文化は自然に何かを付け加えたり、そこから何かを差し引いたりすることはできないと考えられます。不増不減不生不滅、という仏説が抱懐しているのはこれのことです。このこと(文化的行為)が人間にとって豊かなものであるかどうか。自然と対話せず、そこから材や財を得る分析等のための素材の特定・区別程度のものしか汲み取ることをしない文化的行為は、往々にして(人間自身にさえ牙を剥く)野蛮さを伴うことは、二十世紀が終わったばかりの現在、ますます問題化しているところであることは、みなさんご承知のとおりです。
 詩の大きな役割として、この像と現実、言葉と本来それのもとになったものとの間に血を通わせるということがあるのではないでしょうか。言い得ざるものを言う。言われたものに迫力や現実味、具体感を与える。これはリアリズムとは限りません。「世間」的には滅裂な言説でも、迫力のあるものとそれの感じられないものとがあります。否定的な言葉でもいい気持ちになれるものがあるし、肯定的な言葉の世界に、じつに厭な気持ちになることもあります。例を挙げれば、最近物故された詩人の川崎洋氏による全国の罵詈雑言蒐集というものがあります。私はまだ未見ですが、こういうところに「詩」を見出されていた氏の慧眼を感じます。また、ほとんど罵詈雑言に聞こえる河内弁でおこなわれた淀川筋の河内衆の売り子の売り言葉というのがあるそうです。「餅食らわんか、酒飲みさらせ」という決めゼリフのようです。たしかこれは司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の一シーンだったのでは、と記憶します。この悪罵的な言説の定型化した言い回しの背後には、むしろ深い規範や道徳の存在を思わせるものがあります。
 このように「現実」という言葉はいつでも必ずしも現実的であるというわけではないようです。言い得ざるものを言う詩の端的・明快な例を引きたいと思います。

「海ではない」   尾内達也

バスを降りても
まだ見えない
地下道をくぐって
いきなり海
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

サザン・ビーチは
烏帽子岩の無言と
ビーチ・パラソルの饒舌
ゴミくずと貝殻が入り混じり
水溜りで死んだ魚が
白い腹を見せている

水平線は泡立ち
ところどころ 水蒸気で霞む海
金髪の少女のグループが
吸殻の後始末をしている

人はなぜ海を前にすると
言葉が少なくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

懐かしい昭和の海の家
セーラー服の女の子たちが
素足で
一斉に波打ち際に駆け出す
歓声と波の音

人はなぜ
突然、海を見たくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの
言葉より先の
名づけられぬ瞬間
――まだ、だれもいない

人はなぜ海を見た瞬間
息を呑むのだろう?
世界の果て
世界の始まり
海に向かって
                         (「COAL SACK」54号より)

 「海――そう言ってしまうと/もう違ってしまうもの」とは、「海」という概念記号の否定の上に、「海」という概念記号の「もとになったもの」(つまりそれが「海」ですが)を呼び出そうとしている、まさに「シニフィアン」そのもの、転轍機のようなはたらきをする二行で、作品全体の鍵となるものです。言い得ざるものは、このようなコトバのはたらきによってわれわれの内部にまざまざと示されているのです。  ここでいわゆる「自己言及」の危険について、ちょっと触れておきたいと思います。
 古典論理学的には、「私は嘘つきだ」の言明が真であるとすれば、私は本当のことを言ったのであり、すなわち今これを言った私は嘘つきではなくなり、この言明は成り立たなくなります。けれど、成立しない言明、いいかえれば偽たる言明をおこなう主体=私は、いわば嘘つきだ、とも言えます。
 「私は嘘つきだ」は単純な一人称ではなく、「彼は嘘つきだ」という三人称のような立場から発言されているのだと仮に考えてみるとちょっと納得がゆきます。また、自分をある意味突き放し「私は詩については嘘つきだ」と言うのなら問題は少なくなるのではないでしょうか。語られるのは自分から分出された自己ともいえるもので、これは自分でありながら自分を対象化しているのです。あるいはこんな例はどうでしょうか。「わたしって寒いのがダメなヒトだから」。「ヒトだから」という客体化のワンクッションをおくことにより、「わたし」は前面に出てはいるが、それを言う主体はその場から一歩(責任回避的に)退いているといえます。
 さっきの「私は嘘つきだ」の堂々巡りは言葉(像)の次元内では解決されないでしょう。言葉はどんな非合理なことでも言明することが可能だからです。ことの真相は次の三点にあると思われます。
 ①言葉(像)、②その言明の裏側に絶対的に隠れている主体、③言明が可能な「場」を与えている、つまり言葉のもとになっている現実。この三つのディメンションが存在するのであって、「嘘をつく私」はその言明を為す主体ではなく、あくまでその言明の内容を成す一構成要素でしかない、ということ。
 落語に「あたま山」という噺があります。頭に桜の木が生えた男が、花見時には大勢客がやってきてどんちゃん騒ぎをするので煩くて堪らないので木を抜いたら、跡に池が出来て、やっぱり魚釣りの子どもなどが騒いで夜まで煩くて堪らず、これではかなわんと世をはかなんでその池に入水して果てた、というのがそれです。
 現実との関わり合いが問われないところでは、つまりは抽象的(無責任的)には何をどう言ったってかまわないのですが、でもある意味内容が具体的に求められる場においての言説としては、そういった発言はしばしば無意味・無価値・無発言のゼロと同様という事態になりがちなのは、最近いたるところでじつによく見られる現象です(→状況に応じて適切に処理する。心の問題)。
 先の落語のナンセンスは話芸としてじゅうぶんに成熟していて有意味的といえますが(理法がちゃんと背後にあるから)、ちかごろの詩の、意味を歪めたり、ずらしたりする(悲しいかな、言葉である以上意味の痕跡をなくすことはできません)傾向は、その作品行為自体の基となる理法、つまり何を・どこに向けて・何のために表現しているのかということの背景が薄弱で、わるいですけれどつまりその、この世に存在する積極的な理由がどうしても感じられません。つまり、意味の変形は何か理由があって行われるはずですが、その意味の変形が自己目的化しているのです。さいしょにお話しした現実との糧道が断たれた状態と言っていいわけで、譬えてみれば食を断たれた蛸がみずからの脚を食べている図に似ています。
 それが何のためでもない「自己表現」なのだと主張するなら、その極北の例、たとえば山本陽子の世界などを考えてみるといいでしょう。ただしその内実を容易に窺い知ることができるとは思えませんし、まして凡百の薄弱な詩人(ポエマー)などが真似するなど絶対に不可能なことであると私は考えています。あれは彼女の中でまだまだ言葉が苦痛なくらい豊富で、そこから逃れ出たくなるほどの重い感触があったからこそなしえた業なのであって、そういった鋭利で強靱な日本刀みたいな「言葉」と彼女は刺し違えたのだと言えます。逃げ出したいほどの言葉(ロゴス)の存在感を官能できる人が今のこの時代、何人いるでしょうか。死を賭して詩に立ち向かうなんて詩人が、存在するんでしょうか。
 これは、詩語において先鋭に現れていますが、われわれにとっての具体性の喪失、ということと関係しています。
 周りにあるのはみな、どこかしらで聞いた言葉であり音楽であり、テレビに映る映像やCMのコピーにも、みな新作であるにもかかわらず、すべてに著しい既視感を覚えます。みな、直でなく、何かコピー的なものを介して見聞きしたものばかりです。迫力というものが過激さや露骨さや残酷さとすりかえられ、真に迫力のあるわずかな例(しばしば控えめな姿をとる)は黙殺の憂き目にあい、怜悧さが傷つきやすさをひめた冷笑と隣り合う、という光景を、職場で、学校で、街角で、モニタ上で、常にわれわれは目撃しています。
 これはいいかえると、じつは陳述の範疇にない現実において本来処理したり判断したり行為するべき実質が、ことごとく「言葉」だけの次元に簒奪されていて、喫緊の現実の問題を、そういった簒奪された陳述によって(言い換えればディメンションの異なるもの同士で)、おざなりに処理しようとするところに、さまざまな非道や撞着が現れてくるのだと思う。
 例を挙げれば、科されるべき罪とは別に、謝罪の言葉を被害者の家族に述べるのを要求されること、おびただしく発表され出版される「手記」の数、遺書を残し実際に死んでしまうのだがどこか作り物めく若者や子どもの自裁等、「陳述」の次元での現象ばかりが溢れているように私には見えます。われわれを取り巻く圧倒的な存在としてのマスコミュニケーション。マニュアルの範囲を超えたことがらに対応できない非熟練従業員。現実をけっして認めたがらないストーカー。これらは本来表層的なことがらであるものが、深層化してしまっているとでもいうべき、非常にゆゆしい事態だと言えます。
 以上のような「どこかで聞いた文句」から脱するためには、より具体的なものをそれこそフィジカルに感触・知覚・判断・思考することが必要なのではないでしょうか。
 「人間の現に有ることはその根拠において《詩人的》である」(ハイデガー「ヘルダーリンの詩の解明」)という言葉があります。これにちょっと触れてみます。
 白水(しろうず)智という少壮の歴史学者の「知られざる日本 山村の語る歴史世界」という本によれば、街にいる老人たちが、昔住んでいた不自由な山村にまた舞い戻って暮らす例がちかごろ増えているといいます。彼らはそこで、煮炊きには薪ストーブやプロパンガスを使い、水は川から引くといった生活をしているそうです。
 ハイデガーの先の著によれば、詩人的であることは同時に「神々のプレゼンス」を感じつつ存在することだそうです。これを説明すれば、「詩人的」である、とは、安らかでいられる場所に暮らし、働き、慶弔や祭礼や宴会、また日本でいえば四季の感受のただなかにいること等だと私は考えます。今もその痕跡の残る二十四節気などを考えてみてもいいでしょう。「神々のプレゼンス」とは、霊気のような何かがそこにいる感じ、と解釈すべきかと思います。
 確かに便利この上ない街の暮らしの中に、「神々」はおらず、現代都市において人は決して詩人的であることはできません。ここ五年十年、ますますその傾向は非道くなっているようです。次の言葉はよくある、自分探しや生きがいを求めて、なんていうことでは決してないでしょう。「息子は危ないから、いくな、という。でも都会の家でじっとしていると、自分がだめになってしまう」と老人の女性の一人は山へ戻るその理由を語っています(白水、前掲書)。具体的なるものを知っている彼らは、彼らが「ふつう」でいられる生活というものが街には存在しないと、酸素や水が急激に引いてゆくような感覚で感じ取っているのではないでしょうか。真に具体的なものは都会にはない、と私は断言できると思います。
 同じハイデガーの言葉に、「詩は勲しではなく賜物である」、また「《詩人的に住む》とは物事の本質の近さによって襲われること」というのがあります。一見性格を異にするようですが、次の2例は批評の散文性の向こうに「賜物」たる詩が透けて見える見本といえます。お手本と言ってもいいです。

「爽春に」   河野俊一

爽やかな春は
誰のためにある

花粉症で
苦しむ人のために
花粉のない杉が開発されたという
爽春
という名の杉は
まるで
花の咲かない薔薇
卵を産めない鶏
精子を忘れた夫

もとより戦後
資源育成というスローガンのもと
猫も杓子もつべこべいわず
右むけ右
と植えられた杉なのに
林野庁なるおかみから
現行品種より爽春へと
またもや

昨日
おかみから開いた花びらを毟られる薔薇
を思い
今日
おかみから産み出すたびにかち割られる卵
の夢を見る
そして
明日は
おかみから頭なでられる伝説
を書き記す俺が
世界からはみ出る
爽やかな春風に
そよがれて
                      (「COAL SACK」53号より)
「調査報告」   渋谷卓男

聞き書きの最後に加えてほしいと
電話のむこう
かすれた声が言う

その人は
標高八〇〇米の傾斜地で
石垣を組み上げ、田を作った
その人は
馬鞍の両脇に繭かごを重ね
ふもとの町まで出荷した
その人は
伐採した杉を木製の車輪に載せ
山から曳き下ろして母屋を建てた
その人は
明治三八年生まれ
一〇〇歳で入院し
一〇一歳になって退院してきたその人が
ひとり電話をかけてくる

戦後C級戦犯に問われ
公職追放になりました
そのことを
書き加えてください
                         (「COAL SACK」55号より)

 両者とも終わりのあたりで「本質の近さによって襲われる」光景が現前し、顕現します。これらは「勲し」を武具みたいに手に携えた批評的作品といえますが、ものごとの本質を暴き立てて世に知らしめる、というよりは、そのえぐり出された光景が静かに心の底に降りてきて、魂に触れてくるといったところにいちじるしい特徴があるようです。いずれも、最後の収束に至って明瞭になってくるのは、批評を透過してあらわれる「賜物」としての詩にほかなりません。批評が単なる告発で終わらず、なお詩(賜物)であり得ているのは、これらの作者の手にしっかりと握られているみずみずしい具体性それゆえです。これがないと空疎なスローガンや空疎な詠嘆、あるいはまったく「当たり」の感覚のないモダニスティックな記述になってしまうのは、詩において往々にして見られるところです。
 具体性については、以下の発言も参考になります。

(前略)社会的に評価して詩はいいことだということじゃなくて、個人にとってもう引返せない、傍の者を泣かせてでも好きな道はやめらんねえや、というそれになるかならないかが大事なファクターだと思うんです。(中略)社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて、同じサイクルで詩を動かそうとするでしょう。僕はやり方がこれでは本当は逆だと思うんです。何か変てこな小さなものに惹きつけられて深入りして、その深入りするうちに自分のヴィジョンも突き入れられ、またそこで次第に世界観も出来上がるという、そういうのが本当だと思うな。
(思潮社現代詩文庫「堀川正美詩集」のうち詩論「CONTRA ET CONTRA」より)

 「社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。」というのは予言的で、巷にこんなに「詩人」が溢れているにもかかわらず、まさにこれは「現在」にあてはまる事態なのではないでしょうか。皮肉を言っているのではありません。あらゆる言葉が、重みや陰影や、それどころかその機能にさえ現実感が失われている現在にこそ、「本当」の詩が試されているのだと思います。
 一方「天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて」もダメだというけれど(これはまったくの正論)、ただ詩のスパンをもっと大きくとれば、例えば中国の古典詩や日本の述志の歌などに、じゅうぶんな深さと重さ、シリアスさを以て「天下国家」の詩が成立している例などを見ることができます。何も詩は、抒情詩ばかりとは限りません。
 詩は「何か変てこなものに惹きつけられ」ることをきっかけに、世界観にまで拡大する可能性のある、最初はひめやかな具体性であるに違いないにしても、純粋にワタクシの弄びもの、個人的な趣味の領域に留まるものではないと思います。現在、モダニズム系の作風はけっこう盛んなようですが、それが個人の嗜好・性癖・恣意の限りで書かれているとしたら、活字にして世に出すのにあんまり意味・意義は認められないのではないかな、というのが正直なところです。
 堀川正美氏はこのインタビューの別のところで、「(前略)物理的に食うことが楽になってきているから、その次に自己表現みたいなことをしたがるわけだ。みんながまあまあ食うことが出来る体制になっているとすれば、むしろそこから孤独になって自分が何をしたいかを発見して、すばやく社会と切れる方法とか、折れ曲がって内面の仕事を見つけるとかすれば正しいんだけど、衣食が足りるとすぐ社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へ出ようとするでしょう。」と発言していますが、この言葉の持つ清潔な棘ともいうべきものは、詩を書く者の心得として肝に銘ずべきでしょう。
 話が逸れましたが、もともとモダニズム的なものは、二十世紀初頭にあらわれた当初から個を超えて文明批評的な、すぐれてクリティカルな性格を持つものであったといえます。反・何々、非・何々という形で(個を超えた志向は社会性から却って背を向けるという形をとることもあり得ます)。音楽も絵画も文学も舞踏もみんな、「かつて存在しなかったものを創り出す夢」といいかえてもよいものをめざしたのだと思います。それらは当然趣味や性癖と絡んでいるけれど、行きつくところは全然趣味・性癖とは無関係な広い場所です。
 例えば多分に文芸思潮的なものであった戦前の日本のではなく、アンドレ・ブルトンらによる、ヨーロッパにおけるシュールレアリスムは芸術運動と言うより、後年のカウンターカルチャーに通じる文化運動であったのではないかと私はひそかに考えています。60年代初頭からのヒッピームーブメントや学生叛乱、古い大きい(硬い)体制・常識からの解放運動などにその流れはそそいでいるのではないかと、私は考えています。現在に繋がる、民族・民俗的なものや宗教への関心、非・西欧的なものへの関心、近代への疑問や環境・生態系、農業への問題意識などは、みんなこの時期に胚胎されたといえます。ここでも自然と文化ということが重要なテーマになってきますが、そのことにブルトンがまず気づき、そのバトンが渡された先はどこかと言えば、私はクロード・レヴィ=ストロースあたりではないかと考えているのです。
 現在、いわば「反」や「非」の対象とされていた「何々」の側に、なにか大きな潮目の変化のようなものが出来してきているような気が私にはします。いまそれは、言葉の「もと」となる、それ自体は言説の外にある最も重要な「現実」や「自然」への感性の痩せ、窮乏として現れている感じです。言語(文化)と現実(自然)の間に血を通わせるものとして詩があると言いましたが、その淵源は実は有史以前、国家成立以前からの神話にあるのだと考えるようになりました。詩について深く考えれば考えるほど、このことからあらゆる詩論は逃れられないのではないか、と思うようになったのです。乖離したり、傷ついたり、対立してしまった自然と人間の関係を修復し、恢復させるものとしての役割が神話にはありますが、まさに自然と人間との関係が決定的な「毀れ」の様相を呈してきている今現在というこの時、多く否定的な文脈で語られてきた神話というコトバに、生命を吹き込む必要があるのではないでしょうか。それはおそらく新しい神話を創始することではありません。太古の神話のなかに原石のようにちりばめられている、怖ろしいほど深い智慧の煌めきにもう一度立ち返ってみる、虚心坦懐に正視してみる、ということから始まる何事かです。そういう意味からするとこれから先、ただ今おこなわれているようなモダニズム系の詩に過剰な期待、多くの希望を持てなくなってくるような予感が私にはいたします。
 ここで蛇足のような与太話をします。話を単純にするために俳句を例に取ってみます。


花冷(はなびえ)の庖丁獣脂(じうし)もて曇る    木下夕爾
葉桜の中の無数の空さわぐ   篠原 梵
金亀虫(こがねむし)擲つ闇の深さかな    山口誓子


夕汐や柳がくれに魚わかつ   加舎白雄
我事(わがこと)と鯲(どぢやう)の逃げし根芹哉   内藤丈草
渡り懸(かけ)て藻の花のぞく流(ながれ)哉   野沢凡兆

 1は近代写生句のお手本のような作です。どこにも隙がなく、重厚で、巧緻を極めています。2は江戸期の古俳諧の立句で、朔太郎や四季派や戦前のモダニズム、戦後の列島や荒地を経てきた目には取り立てて言うところもない、それどころか何とも物足らない句でもありましょう。正岡子規あたりなら爪弾きするような旧態依然たる句振りです。しかし最近、年のせいか何のせいだかわからないけれど、前者のたぐいの句が少々煩わしく感じられるようになってきたのです。そして後者のような句に思いがけなくもみずみずしい具体性が感じられてしかたありません。幻のような何かが躰の内側で恢復し、立ち上がってくるようだと言ったらおわかりでしょうか。
 思えば丈草や凡兆の大いなる師であった芭蕉翁は、「言いおおせて何かある」、とか、「造化(自然)にしたがい、造化に帰れ」という言葉を残したのでした。もともと芭蕉は中国の老荘思想に深く親しんでいましたが、老子荘子個々人はもちろん、孔子でさえその流れを汲むと考えられる、巫祝の伝統のなかにそれらの言説はあり(白川静氏による)、またさらにさかのぼったその源流にあるはずの、神話的トポスからやって来るはるかな光線を私は思わずにはいられません。私たちのまだ見ない詩にとっての希望は、案外こんなところに潜んでいるのかも知れないと、個人的な願望も含めて、最近はそんなふうに考えております。ご清聴ありがとうございました。

*ハイデガーの引用は、京都の詩人、高野五韻氏の試論より孫引きしたもの。
*俳句の引用は大岡信氏の「第三 折々のうた」による。
  
(2006年10月22日・山本十四尾「詩の教室」講演=「コールサック」56号所収)
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Jul 16, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート1 実物とコピー、および共通語について



 わたくしごとで恐縮だが、去年出した拙著の序に当たるところで、例えば職人などが修業するうえで欠かせない行程として「本物を見る(食べる、触る、聞く、嗅ぐ等)」ということがあり、それは写真やビデオ、再生機などの復元機械を介しては得られないものがある、芸術鑑賞にも似たようなところがあって、画集を眺めて絵を論じたり、レコードやCDを聴いて音楽を理解したりは(本当には)できないのではないか、と書いた。
 これには多くの方々から反論をいただいた。ちょっと言葉が足らなかったのかも知れない。私が言いたかったのは、画集の絵と元になった絵そのものは違うという単純なことなのだが、そしてそれに対する感受も当然のことながら異なってくるということだったのだが、論じたり理解したりはできないというところに批判の大半は集中したようだ。また、レコードにはレコードそのものの蓄積された文化と時間、すなわち特有の世界があるのだとか、経済的に余裕のない者に(例えばバイロイトに行く、とか)その論は酷だとか、何々はどこそこのどんな条件で聴く(見る)に限るという話をはじめたらきりがない、といった意見まで飛び出して、私が最初に考えていたことは何だったか、思い出すのに少々の努力が必要だった。
 話を簡単にするために音楽を例に取れば、実際にピアノならピアノを弾くことが常態になっている人間にとって、モーツァルトのソナタの何番は別の何番より作品として優れているかいないか、といった発想は通常はおこなわない。その作品からもたらされる感動は、ひとえにその作品の解釈、奏法、強弱、音質といった実際の「演奏」(performance)の有するフィジカルな同時的体験をみなもととしている。いわば一回ごとに異なる、同じものとてない「時間」を奏者と共有することを意味しているのである。これこそが、本来の、真の、基準たるべき、モーツァルトの何番であるというようなものは存在しないのである。いうなれば、その日その時、その場に顕現した音楽の具体的な現存と、その全面的な享受があるだけだ。音楽はその楽譜とは異なる、という言い方もできる。
 CDのたぐいは絶対的時間差のあるこれのコピーである、ということにあまり異論は出ないのではあるまいか。ただしそれは再生されたものであっても、「再現」されたものではあり得ない。おそらく画集についても同様のことが言えると思う。レコードや画集がすでに歴史的に持ってしまった「文化」の側面をこれで否定しているわけではないし、レコードをレコードとして、画集を画集として、蒐集し鑑賞することに異を唱えるわけでもない。ただしそれは当の音楽そのものではないし、当の絵じたいではないということだ。
 ちょっと屈折した見方をすれば、例えばダリ画集を本物のダリの絵よりも愛するという人間もいるに違いない。本物よりもコピーを愛するというこの立場は、しかし本物そのものはあり得るけれど、コピーそのものは本物の存在なしにはあり得ない、という事情によって、たぶんコピーの工程を介しておこなわれる本物の変質といったものを愛しているのだ。ここいらへん、込み入っているけれど、このときダリ画集を偏愛する者は、本物でも、その正確な再生をめざしたコピーでもない、変質したコピーという(彼あるいは彼女にとっての)ある種の「本物」に出会っているといえる。
 しかし、ダリの絵を愛する者は「ダリ」ではなく、実はカンバスに展開する具体的な線、陰影、激しい色やマチエールに接触することを通じてダリを愛好しているのだが、ダリのコピーを愛する者は多分、おのが意のままに手に取ることのできる、モニタ的ななにごとかの内で「ダリ」を愛している、という違いはあるだろう。レコード蒐集にも似たような事情があり、やはりこれらは代用品なのだなという感想を持たざるを得ない。そして、いわば「現実の」絵や音楽に背を向けて、これらそのものを自分は好むのだ、と断言する立場(そういう人はけっこういる)にはある神経の痩せとあやうさがほの見える気がする。
 これを言葉の場合で言うとなるとどうなるか。その著『物語理論講義』の中で、藤井貞和氏は次のように述べている。《『アコロイタク』(一九九四年)はアイヌ語を習うための教本で、なかをひらくと、十勝方言、沙流方言、旭川方言、千歳方言、静内方言、浦河方言というように、方言のみから成る。アイヌ語という〈国語〉はないのだということを主張したい。》藤井氏はこのくだりの「注」で《日本語と沖縄語との関係にしても、本土方言が日本国国籍者九十九パーセントの使用者からなり、琉球方言(沖縄語)が一パーセントの使用者からなるとして、方言としては対等の関係にある。》とも述べている。
 ここでわかってくることは、共通語(標準語)としての「国語」は、ある抽象的な想定のもとで初めて存在し得ること、しかしそれが共通語以外の「方言」と並べられるとき、つまり実在の言語使用の野においては、いわば「共通語的方言」とでも言うしかないありようで対等具体的に存在しているという事実だろう。以前グリーグの「遅い春に」という、ノルウェーの土着語であるブークモール語の詞で書かれた歌曲を聴いたことがある。「春が私の方へ 運んでくれたすべてのもの/そして 私が摘んだ花/それは 父祖の霊だと私は信じた」。こんな内容だが、「共通語」としての日本語や英語によっては、そのコトバに真に対応するものが何かは、実は窺い知れないという感が深い。そこに出てくる「笛」や「ウワミズザクラ」など、実際にはどんな感情を抱懐しているのか。共通語はそこを翻訳するけれど、顕示はしない。フィジカルな現実と一種の非現実である言葉との関係にそれは似ていて、この構造を一気に言挙げするものとして、詩が要請されているのだと思う。



《07/04/25発行「COAL SACK」57号より。》
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October 2017
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