Jul 27, 2007

宗教・神話・詩論

食物語彙考


 言葉には熟す・熟さないということがあって、折口信夫の昔風に言えばその「表現性能」に随分と関わっているようである。表現性能とは、言い換えれば、その言葉が実現させる感覚的側面とでもいおうか。これを考えるうえで都合の良いのが食物に関する諸語彙だと、私は思っている。
 例えば甘いものをとってみてもよい。単に、もち、というのでなく、駿州安倍川名物のあべかわもちとか、吉祥の意を冠しただいふくもち、というように、大元のものよりも個別化、限定化された言い方のほうが、感覚的な側面がより具体的なものになる。むしろ、ここから「もち」が取れて、あべかわ、とか、だいふく、とかいう言い方をおこなっているのがわれわれの具体性の現状ではないのか。この場合、あべかわやだいふくは「もち」が付いたものより、より熟しているコトバといえる。「もち」が付いたものよりこっちのほうが、練れて、具体的で、旨そうな感覚をわれわれに与える。しかし、言語のレベルから言えば、これらのもののほうが、より原義・原形的なコトバから遠いものとなっていることは、注意しておいていい。
 同じような、地名や寺号、固有名詞に係る、(料理法もふくめた)食物の名辞のことを、他に思いつく限りで考えてみると、おぐら(餡)、やながわ(鍋)、なんばん(漬)、おでん(でんがく豆腐)、すいぜんじ(海苔)、どうみょうじ(糒=ほしい)、きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)、たぬき(蕎麦)、しっぽく(饂飩)、すあま(州浜)、きんつば、しおがま、なると(巻)、やげんぼり、などが思い浮かぶ。
 さいしょの、おぐらの具体性とやながわのそれとではどっちがどうであろうか。その人が住する環境や地域にもよるだろうが、私は「餡」が取れたおぐらのほうに、調理法としての「鍋」の概念が常について回るやながわより、感覚性の強さと熟度を感じる。一種の逆転現象だが、小倉百人一首と聞いて、暗い色と甘い味とを思い浮かべ、なんだか旨そうだと子ども心に感じたことがある。また、関東の人間にとっては、頭では「=田楽(豆腐)」ということがじゅうぶんに理解されていながら、おでん、と言うと極めて強い感覚性を覚えると思う。おでんと発話した場合、ただちに付随して、だいこん、ちくわ、とうふ、すじ、こんにゃく、といったコトバと概念の鎖がある具体的な接近を起こし始めるのである。鼻腔に熱燗の匂いさえ立ち上ってくるようだ。しかし、これは繰り返すようだが、本来の甘味噌を塗り炭火であぶった田楽豆腐の原義・原形から、遠く離れたものであることは言うまでもない。
 寺号ということから言えば、日本の食物の多くは、舶来ものの輸入業と製造業を兼ねたような中世以来の寺院にその多くを負っている。酒、味噌、野菜、料理、菓子、またそこの僧や神人が関わる門前の土産品など、枚挙にいとまがないところだろう。すいぜんじ(水前寺)は、これは寺号と言うよりは肥後の地名だが、すいぜんじ海苔といって感覚性を喚起される人間は、いまは、もうほとんど居ないのではあるまいか。私も「吸物は先出来されしすい(ゐ)ぜんじ 芭蕉」という、この猿蓑「鳶の羽も」巻の芭蕉連句によって初めて知ったくらいのコトバだ。他方、どうみょうじというコトバに生々しい感覚性を喚起される向きは、けっこう多いのではなかろうか。もとは道明寺糒というこの食物を、広辞苑でひろえば、「(河内の)道明寺で天満宮に供えた飯の下がりを乾燥貯蔵したのに起る」という。それが餅菓子の名となったのだが、どうみょうじと聞いただけで、ただちに感覚のところまで降りてくるものがある。そしてこれも感覚的になった分だけ熟し、かつ原義から遠ざかっている。寺号では他に、きんざんじみそ、というのが思い当たる。金山寺味噌とも径山寺味噌ともあてるが、これはまだ「味噌」が取れるところまで熟してはいないようである。食物ではないが、似たようなことは、例えばけんにんじがき(建仁寺垣)をけんにんじとはまだ言わず、八丈島産の八丈絹や奄美大島産の大島紬で製した反物を、たんに八丈や大島と言うだけで一向あやしまない事情にもあらわれている。
 また、人名(しばしば伝説的な)によるものもある。きんとき(豆)、きんぴら(牛蒡)、たくあ[わ]ん(漬)などがそれだ。きんときは坂田公[金]時の金太郎時代の体色であった代赭色にちなむ豆の色から来ているし、きんぴらは金平浄瑠璃の主人公(金時の子とされる)の強精無比なところが、牛蒡の強精作用に通じるものと考えられたところから来ている。両者とも、いわば原義・原形に加えられた隠喩の作用が強いので、そこから「豆」や「牛蒡」が取れても、原義からあまり遠くには行かない。われわれは、小さな金太郎を食べ、金平の精を食べて、その僅かな時間、小さな神話に参画しているのである。いっぽう、たくあ[わ]んは、ことさらに坊主のことを思わなくても、また思ったとしても、「漬」をふり払ったこのコトバ自体で十全に熟していると言える。現実の沢庵和尚との繋がりは意外に希薄なのではないだろうか。一説に「貯え漬」の転であると、辞書には載っている。たくあ[わ]んと言ったとき、あのにおいを思い浮かべない本土人は幾人いるだろうか。この特有のにおいに、史実における沢庵和尚は感覚的に関係が薄いのだ。尤も一番若い世代など、あるグループにはこの限りでない、というのがグローバルな現実であるようだけれど。
 料理名では、関西にしっぽく、というのがある。辞書には卓袱と書いて、きのこやかまぼこ、野菜などを具に載せた「そば・うどんの種」とあるけれど、現在リアルにおこなわれているところでは、これは、うどん以外には考えられない。これに対応するように、同地ではたぬきうどんというのは、その概念自体が欠けているらしい。関東ではたぬきときつねとは対称性のうちにあるが、関西では非対称で、関東みたいに「たぬきそば・うどん/きつねそば・うどん」というきれいな概念の交叉は見られない。関西でのこの模式は、「きつね(しっぽく)うどん/たぬきそば」で、きつね(しっぽく)そばは考えにくく、たぬきうどんというものは存在すらせずに、仮にその位置にあるものを無理に言わせるとすれば、「てんかすを散らしただけの(す)うどん」という位置づけらしい。ところで、しっぽく、というと、関東人の私でさえある感覚性を受け取る。最近では、さぬき、というコトバに官能を刺激される関東人も増えてきているのではあるまいか。
 このほかに固有名詞そのもの、という一群が考えられる。主に商標だが、すあま(州浜)、きんつば(金鍔)、やげんぼり(やげん堀=薬研堀)、など。この3例は、いずれも数世紀を閲してほとんど普通名詞に近くなるまでに熟したコトバだと言える。このコトバを聞くだけで、薄甘く冷たい餅のような食感、口の中でほろほろ崩れる砂糖の歯触り、カプサイシンが匂い立つまでの複雑で強烈な辛さなどが、感覚的な体腔に似た心の内で励起してくる。この感覚性は、例えば酒の銘柄など、昔は大いにその実在感を発揮したのではあるまいか。
 私の若いころはキリンや剣菱を飲む、ということは特別なことで、ケンビシ、という音韻からおのずと唾が出てきたものである。そのかみは、柳(の酒)やもろはく(諸白)、という名を聞くだけで舌なめずりした酒飲みたちがきっといたはずである。往昔の人間は、伊丹(酒)や灘の下りものにのどを鳴らし、石見銀山と聞くだけで怖気をふるったものである。そういう意味で、白髪が生じたことをカシラに置いた霜、と言うがごとき暗喩法的なものより、駅で手荷物を運ぶ役割のポーターのことをその被り物から赤帽、と言うごとき換喩法的なもののほうが、自然から、より文化に近く、リアルな日常の具体性のただなかにいる人間にとり、確たる感覚性を与えるものとは言えないか。ただし、文化の推移に従って、その感覚性の実感も無常に推移するものではあるけれど。
 極端な話のようだが、ここでオノマトペなどを考えても、「ざぶざぶ」や「ぬるぬる」は、そう言うから文化的にかく感覚され、かく認知されるのである。そういう意味でそれらもやはり、原義・原形から遠く離れたところで、却って生理的な皮膚感覚とまがうばかりの具体性を持つ、そんな感じだ。藤井貞和氏の最近の著作に「ともあれ感情の起源は神話や制度に由来する」(『タブーと結婚』23頁、笠間書院、2007年)という一節を見るが、実際コトバの感覚にもそんなところがあるようだ。


《「tab」4号(2007・5・15)より》
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宗教・神話・詩論

随筆岸谷散歩草木虫譜


 丘の上に立つ集合住宅のわが家から散歩に出るには、まず谷あいにまっすぐに降りてゆく階段の道を踏むことからはじめなくてはならない。寺の後背の高台にあたるそこは、樹木草本の密生する、夏の間はすさまじいばかりの蝉の声が降り注ぐ、ちょっとした散歩への「天国の門」みたいな感じがある。その場所でいまの時期しきりに目に留まるのが葛の花である。釈迢空の『海やまのあひだ』の最初のほうに有名な歌があったのを思い出した。

 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 たしか隠岐での詠であるとなにかで読んだことがあるが、はっきりと確かめたわけではない。「踏みしだかれて、色あたらし」というところに、ある種ソバージュな憤ろしさを感じるが、しどけないものを見つめる視線もどこかにひそんでいるような気がする。「色あたらし」は、当然いまさっき踏みしだいていった何者かの痕跡である以上「新し」であろういっぽう、「鮮(あたら)し」の筆勢も一首はひめているのではないか。いずれにせよ、葛の花なるものにじっさいに遭遇した経験があれば、なるほどと納得される歌だろう。
 その階段の上の葛の花は、花房に開花が徐々に充ちてゆく段階を終え、こないだのある一日には間断なく、静心なく、さくらの花のように散りつづけているさまを見た。その花房の盛りであったとき鼻を近づけて匂いを嗅いだことがあるけれど、おそろしく濃縮されて非・発散的なものになってしまった香水の原材料みたいな、たとえばフルボディのブルゴーニュの赤や林檎香を伴った芋焼酎の熟成を思わせた。見た目はほんとうにおとなしやかで小さな濃紫の花弁の集合に過ぎないのだけれども。
 それからこのあいだから執心の、古代の残存、タブノキの植生であるが、この岸谷のいずれも丘の部分に六本まで存在することを確認した。そのひとつは寺の境内、またもう一本は丘の斜面の小さな稲荷社にあるのだが、どちらにしてもそういったエリアには「自然」が残りやすい、ということでその植生の理由を片づけてしまわれぬ気がしてならない。神社があるからタブノキがたまたまそこに残ったのではなくて、タブノキが生い繁るようなエリアであるからこそ神社や寺院がそこに存在すると考えたほうが順当な思考経路なのではないか。まあ、またあらぬことを口走っていると思われかねないので、この問題はこのくらいにしておく。
 階段の下は個人宅だが寺の隣でもあるせいか、やはり樹木が盛んに繁っている。その繁みや生垣で観察されるのは三種まで確認できる蜘蛛および蜘蛛の巣である。ひとつは一枚の平面の網として巣を編んでいる米粒ほどの灰色の蜘蛛、だがよく見ると黒い条(すじ)が躰に入っていて、日差しの具合で灰色の部分が銀白色に光っているような印象だ。獲物は胡麻粒以下の大きさの羽虫のたぐいである。方形をなす索条の枠内に網の目の斉(そろ)った几帳面な円形の巣を張る。
 もうひとつは、これは私にも名前が言える女郎蜘蛛。一枚の平面のように見える巣を複数の方向から見てみると、ちょうど二枚貝のホタテ貝のような角度で開いた、二つの網面からなる三次元の立体であることが判明する。そしてその構造体を支持するため、無数の繊細なワイヤ・ロープが巣の内外に張られている。蜘蛛の躰はこの時期にはわりあい小さいけれど、ひと月前より現在のほうがひとまわりもふたまわりも大きい。胴体部分で二十ミリほど、脚を含めれば三、四十ミリもあろうか。脱皮した殻が巣にそのまま屈曲した骸骨みたいに引っかかっていたりする。夏のはじめにカイガラムシみたいな白い絮(わた)のようなものから生まれたクサバトなど、比較的に大物を捕食しているのをよく見かける。包帯で巻かれたエジプトのミイラみたいにぐるぐる巻きにされて、金華ハムかサラミさながらに巣に吊ってあるのは保存食というわけであろうか。九月に入ってから一つの巣に大小二匹の個体がいるのに気がついたが、これはたぶん繁殖行動なのだろうと勝手に思っている。
 さいごは、これはいわば籠形に巣を張る種類で、巣の中には枯葉の小さいやつが、たまたまどこかから落ちてきてこの巣に引っかかったにすぎませんという格好で、しかしどの巣にも必ず「その一枚」が存在する。そっと覗いてみると、やはり体長四、五ミリほどの金色の丸っこい蜘蛛が一匹隠れている。黄金色の可愛らしい大仏あるいは入道という感じか。ただ仏門とはいっても、源氏物語の明石入道みたいな生臭な感じはあるのだけれど。「籠」はサーカス小屋を逆さにしたようなもので、サーカスのテントの天井に、収納されたさまざまな道具、仕組まれた仕掛け、縄、構造物などが露わであるように、この蜘蛛の巣においても同様に、いろんな太さ・形状・角度の索条が、いかにも辛苦の手をかけましたと言わんばかりに丁寧に無数にきらきらと張り巡らされているのを見て、この蜘蛛の手を借りてもたらされた神の労作ともいうべき小品に、私は息を呑むのだ。

  驟雨ののち
 蜘蛛の巣のしづくの夏をただに見る     解酲子

 庚申塚へと向かう裏道をたどって二丁目の三叉路に出る。ここいらへんはいろんな三叉路の組み合わせで町の条里が出来上がっている。そのひとつに入り、さらに分岐してゆく三叉路の手前に面して古い木造の一軒家があるが、目に立つのはその家の丈に倍するような、門扉を圧倒して繁るふたもとの大夾竹桃である。ひとつは白い花を咲かせ、他方は紅色の花を咲かせるけれど、私がこのとき初めて知ったのが、白花は一重で紅いほうは八重であるということだ。これは岸谷のほかの場所で咲いている夾竹桃によって確認したことでもある。まあ、夾竹桃のもともとは紅色の一重の花をつけるもので、白と八重咲きとは園芸品種であることがあとで判明したのだけれど。たしかアルカロイド系の毒性を持つこの木が、なにゆえに庭木としてもちいられているのか、もうひとつ釈然としない。と、いうより、そもそも庭木とは何か。一体、庭とは何か。橘や桜や竹をヤシキに植えて、住まうということに関し、昔人は何を思い、何を祓ったのか。
 朽ちかけたようなこの家の玄関には古びた軒灯があって、ふとこんな句が思い浮かんだ。夜でもないのに。

 軒灯や夾竹桃の花の奥     解酲子

 そこを曲がるとアスファルト上に石榴の実が潰れている。青空を背にして、右手の家の庭に植わった木から落ちてきたものであろう。冒頭の「踏みしだかれて、色あたらし」ではないが、なにものかの意志を感じさせるような潰れ方といったら、おわかりになるだろうか。意志と言っても、たぶん、ヒトのそれ、ではない。怖ろしい力(フォース)。

 高きよりなげうたれてや石榴の壊(ゑ)     解酲子

 散歩帰りには魚屋と生協に寄って晩飯の材料を仕入れる。今日は生の穴子の割いたやつがあったので、茄子と桜エビ、鷹の爪といっしょに胡麻油で醤油炒め煮をつくることにした。料理の成否を決するのは煮酒用の酒を惜しまぬこと。またうちではこの種の煮物に砂糖類はもちいない。魚と茄子と胡麻油その他のもろもろを「adaptation au milieu」(環境にやさしい?)という文字を染め抜いた、生協で貰った布袋に入れて肩に引っ担ぎ、公園を抜ける。生協の主旨に反対というのではけっしてないが、なんだか「私は老人を大切にします」という文字を大書したTシャツを着て歩くみたいな気分ではある。
 公園に入ってすぐ右の空き地にそびえる七本の椎の木は、樹齢はさあどれくらいだろうか。その木々が年々目に見えて、森厳、という形容が相応しいようなかんさびた趣と、その中からは絶対に脱けることができないであろうような深い森を想起させる、ある古蒼な高さ、巨大さを具えてきたような気がするのは私だけか、齢のせいか。秋になり、そういえば空が異様な青さ、高さで感じられるようになったのもそのせいか。
 シベリアン・ハスキー犬のベル兄弟のいる路地をめざす。路地の手前、四つ角の小さな木造の家には道に面してイチジクの木があり、そういえば私が子どものころはイチジクを店で買うなんて発想はどこにもなかったことなど思い出したが、ようやく熟れかけて黄色くなったたわわの実が、鴉の仕業かと思うが、いくつもいくつも抉り割られていて、熟れたイチジクの甘い匂いが芳醇なアルコールみたいに路地に漂い、それに惹かれてハチドリほどもあるクマンバチ(?)がぶんぶんと飛行して来ていた。
 やがてマンションに戻る最後の階段の横に生えた、薄荷の繁みに至る。花が咲く夏の間、そこはちょっとした虫たちの楽園だった。薄荷の花といってもミントの匂いがするわけではない。その花穂がかすかに発するのは、蜂蜜の蜜にひそむような、蓮華の、菜の花の、サルビアの、あるいはライラックの花に共通する、淡い体臭めいたところもあるあの親密な香りである。花にはアシナガバチや蜆蝶、名前のわからない地味な柄の蜂のたぐいと、ローマ軍の工兵隊みたいな蟻たちが日の暮れるまでしんかんと嬉遊していた。ちぎると揮発性の匂いのたつ円い葉には、薄褐色のゾウムシ、カメムシ、また真っ黒に見えるが光が当たると曜変みたいな鋭い虹色を発する豆粒大の静謐な甲虫たちが、気がつくとそこここに姿を現している。
 なかに明らかに藪蚊の文様の虫が花の蜜を吸っていたので緊張したが、考えてみれば吸血するのは雌だけなので、この、花の蜜を吸う蚊は明らかに血を吸わない雄と知られた。そして一歩踏み込んで考えるに、こうして何もせず「観察」しているだけで、彼らに何か仕掛けようなどと思わないでいると、むかし子どもの私をあんなに刺したアシナガバチでさえ、ただ存在するだけのものとしていまのこの私を受け入れているような気がするのである。蜂は刺さず、カメムシは臭気を発しない。さまざまな甲虫たちが、多くわれわれの手にかかったすえのその断末魔に救命信号みたいに放出する、耐えがたく、対立的で、危険な液汁に遭遇することもないのだ。われわれが不快を感じる虫たちとその生態、行動は、人間にとって不快であるだけであって、彼らにとって人間は何物でもないのだと思う。
 蛭や蚊は私の血を吸うだろうが、「人間だから」吸うわけではない。狸や馬や山猫と区別されたものとして(彼らにとっての)人間がいるわけでもないだろう。文化的に「区別する」のは人間だけだが、ただの存在としてわれわれが彼らの間にうち交じることができるというのは、実は驚くべきことではないか。大きな巡りの中にヒトや虫はいて、そんな「われわれ」は、まったく同等のものとしてWe are all mortal(われらみな、死すべきもの)、という真理の裡に消尽する幸福な存在であるべきなのだと思う。


                                   06/9/3~4

初出「倉田良成詩文片「メタ」十八号  2006・9月」
 
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Jul 20, 2007

宗教・神話・詩論

「歩行に関する仮説的なノート」(1972年刊)より


第三のノート(自註)



   a
    
〈テーゼ〉はそれがどのようなものであろうと出された瞬間に相対化される。このことはあらゆる人間活動のある本来的な規定である。いかなる内容であれ、それ自体としてのテーゼの方向は、ひとつの〈効力〉の枠に集中するが、それを有効化せしめるためにはおおかれすくなかれ、〈信憑〉ということが不可欠な要素となる。ちょうど〈世界〉を信憑するごとくに、である。

 もし虚偽を避けたいのなら、眼は出されたテーゼの内容にむかわず、テーゼが提出されるそのしかたを遡行してゆけばよい。しかし、この眼のなりゆきに忠実であるならば、かかる遡行、逆行はおそらく無限になされなければならないだろう。あたかも、〈世界〉を追跡するように、である。

 このようにするとき、僕はことごとく〈場処〉というものを失うだろう。〈場処〉とは判断によってあたえられるものだ。ところで〈世界〉を無限に遡行する、ということもひとつの判断によってあたえられたある〈場処〉だとすれば、判断-場処を拒んで〈世界〉を追跡するものにとって、それはあきらかに自己撞着である。

 ここに、〈ひとが思考する〉という行為より発するある究極的な不合理性ともいうべきもの、ひるがえって言えば、ひとつの有機性、もっとも厳密な意味における〈倫理〉のようなものがあらわれているのだとおもわれる。

       b
 
  〈方法〉がつくられるためには、具象的な現実はあたうかぎりしりぞけられ、持ちうる能力それ自体が最大限に動員されなくてはならない。

 僕が非常な努力をかたむけてつくろうとしていたのは、単なる方法論ではなく、それによって、僕の思考、意識、感情、生理等が統御され、ある一点へと束ねられてゆくべきより有機的な方法そのものであった……。

 僕にとって……方法とはかんがえられるものではなく、行なわれるものだ。そこで、僕は恢復する。

 みずからを再構成したいという欲望。なぜひとつの思考は、実証され、展開されなくてはならないのか。世界は他のなにものにも依ることなく、ただみずからの脳髄の重さだけで倒れなくてはならない。

 方法はみずからを語らないはずである。なぜならそれはひとつの悪無限であるから。そこに〈行なう〉ということの持つ、沈黙の不思議な肉感性が存する。

 そしてどうしても還元することのできぬものが残ったとき、それなりの遣り方で自分か時代かにかえしてやれば良い。

 意識性は、厳密であろうと欲すれば欲するほど対象のうちに微細に分岐してゆき、凍てついてゆく過程をたどる。それにたいして方法性は、意識にある盲目性を強いることで、あの〈親密さ〉という運動の感覚を喚ぶ。

 方法とは一種の意識の、あるいは思考する、ということの、もっとも原基的な能力の場である。意識はそれだけではいかなる〈面〉も持たず、したがって自動する構造も持たない。

 方法を逆向きにたどることによって、僕のひとつのあるきわめて〈質的な〉由来といったものがあらわにされるはずである。

 方法それ自体はいかなるものも絶対に対象に加えたりはしない。すなわち方法それ自体は、いっさいの〈結果〉をおもわない。したがってどのような〈結果〉もおそれない。

〈結果〉をおもうのは〈ひと〉であって方法ではない。ここにおこる一種の切断を注視せよ。このまぶしさは〈ひと〉あるいは方法の、述語の息の根を止めてしまうような背理性にほかならぬ。

 方法は時間のなかを遍歴しながら、突如、みずからがひとつの空間のうちに顕わになっているのをかんじるだろう。

      c

 しばしば、ある絶対性をおびたニュアンスをもってかたられる〈体験〉は、それがどのようなものであろうとも、ひとしく、単彩の〈現実〉へおしかえされるべきである。
  
〈根拠〉はそれがある目的をもって言われたちょうどその瞬間にすでに〈根拠〉ではなくなる。僕が言いうることは、ただ触れてはならぬその一点もまた〈根拠〉いがいのものの命ずるままに、ひらきつくすことに依ってかくしぬけ、ということだけだ。

   どのような意味でも体験はたんに体験でしかない。それがそれ以上のものとなる、そのさきはもはやそれは体験とはかかわりがない。あらゆる言葉はかかる場においてためされるべきだ。どんなことをしてこようと、それゆえ、僕はいつでも〈ここ〉からはじめることができなくてはならぬ。

 ひとつのものを、そのもっとも純粋なかたちで把えるためには、そこから〈時間〉を追放しさえすれば良い。すると、把握とは、その〈現在〉で所有するということにほかならない。

 それがどのように否定のいろにそめられていようとも、あるものを〈美〉とかんずるかぎりは、ある〈了承〉をその感受の根底に敷いているといわなくてはならない。

〈了承〉という鍵がはずされると、〈美〉はある種の展性をあたえられる。あたえられるや否や、それはたんに〈美〉とは呼びえなくなるような地点にいたるまで、おのれを展開させて止まないだろう。かくして僕は〈美〉よりその全権をゆずりうけ、その対象が美であるにせよ、ないにせよ、なにごとか行為せねばならない。

 美とは、ひとつの状態のほかのものではないのであって、おそらく固有名詞の〈美〉といったものは存在せず、あるのはただ、〈昂揚〉ということばであらわされる、精神のある種の形姿のみである。

 理性も感性も信じないこと。だが理性や感性が存在するとして。僕の不信はそのように区別することにではなく、区別したものに名称をあたえることにむけられている。

 感性を拒否することも、反理性をさけぶことも、ひとしく、かならずしも迷妄とばかりは言いきれぬ、ひとつの迷妄のふたつの貌にすぎない……。

 読書法……。
 はじめて見る、ということにはある〈奇怪さ〉がつきまとう。一冊の書物が、もし〈真正〉な著者の手に成るものであるのならば、ことごとくこれを奇怪な書とみてさしつかえない。それが〈偽物〉でないとすれば、その奇怪さは終始一貫したものであるだろう。巨大な思想はつねにある端初的なものをその核として保存しており、われわれにとって〈端初〉とはつねにある奇怪さをもってあらわれるものであるからだ。一種の〈置換〉ともいうべき操作をおこなうこと。論理学は詩のようにも読める。作家は本来的に孤りであるという究極的な視座をたえず設けておくこと。~主義、~運動といった名のもとに、あるいは多少なりともそのことに関連させて、一個の作家を判断せぬこと。

 内容の豊饒さよりも、〈場〉の堅固さにむかうこと。おそらく内容は無限にかさねてゆくことができるが、その堆積にある構造をあたえるのは、ただひとつの〈場〉である。

   d

     実証されることのない明証ともいうべきものがある。それは、いかなる意味をも包合したところで名指されるべき〈意識〉というものの総合における一種の発光であって、通常〈直観〉と呼ばれているところの現象である。この総合による発光と、個々の場面での反射とをきびしく弁別せねばならない。

 A≠A,-A……。だがこの定式への解答は案外、易しいことなのかもしれぬ。僕が為すべきことのいっさいの区分け-すなわち行なうか、行なわぬか。もっとも知ってはならぬものは自己自身である。

 ひとつの解釈にたいする他の解釈は、方法的な眼においてはひとつの〈発見〉となる。なぜならそこには、可能もしくは不可能という極度に〈個〉的な与件が、直接、介入しているから。

 ひとつの発見をひとつの解釈に堕さしめぬこと。可逆の関係に捉えられていたものが、不可逆のかがやきを発するまでに、あの、〈精神〉とよばれるものの運行を持続させなければならない。

 同質的なたんなる〈状態〉は、これに意識のひかりをあてることをせず、つねに〈忘れている〉べきだ。そうしなければ、意識と肉体とは刻々、異様な共喰いをはじめて僕のすべての〈動き〉すなわち精神の運動をしめあげていってしまうだろう。

 虚無は否定の極限としては存在しえない。それはむしろ肯定の極限として解されるべきものである。

 世界がなにものかでありつづけるかぎり、ついに〈純粋〉はひとつの否定の質としてしかあらわれることはないだろう。

 現実への密着は、通常それ自体としてそのようには意識化されない。したがって、かかる〈現実密着〉をそのものとして感覚するとすれば、それはかならず強烈な現実乖離の象となってくる。

   e

 ひとつのものを注視すると、それは、ほんらいのそれとは全く別のものになってしまう。

 ひとつの思考を、ひとつの比喩をもって表現するのは、厳密に云えば虚偽である。

 ひとの思想に依って思考せぬ、ということは、みずからの思考に依って発見ないしは獲得したものに、毛の筋ほどにも〈普遍〉の感覚をゆるさないことである。

 いかなる言葉も無益に通用してしまう。ほんとうに通じにくい言葉は、しかしどこかにあるはずだ。

 ものを区別する、とはもっとも基本的な把握-理解の遣り方であるが、それは〈ひと〉がする、〈世界〉への最小限度の妥協をも意味している。

 区別されえぬものはしかしかならず消滅する。すなわち、区別される。

(言われたものにはあたかも臓腑のような構造を負わせ、それを言う僕そのものをはるかに外延化してしまえ。)
 現実はもっとも遠いところから〈私〉を直撃する。そんなとき〈私〉もしくは現実は、ひとつの巨きな夢となる。

 そして僕のうちで、なんとあの〈他者〉がおもわれていることだろう。
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Jul 17, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学



 本日は「詩の教室」の集まりにお招きいただきまして、ありがとうございます。このような題で、分かりづらいところもあるかも知れませんし、うまく話せるか心許ないところもありますが、どうぞ最後までお付き合いください。
 まず詩とは何か、言葉とは何かを考えることから始めます。今日はウィトゲンシュタインの言語論=哲学の助けを借りながらやってみたいと思います。まず言葉とは何かを考える上で、像と現実(言い換えると文化と自然)という考え方をお示ししたいと思います。この場合の像とは視覚的なイメージというよりは、その記号によって直接に表されていることがらを指します。「東大寺」とか「美人」でもいいけれど、「ソナタ」や「関数」や「大会」といったことを思い浮かべてみるといいでしょう。「B」「γ」のようなものでもよい(他方、すべての概念内容=ソナタやγのようなものでも、ことごとくこれを視覚的なイメージに置き換え得る、というところに言語の持つ一つの秘密があるようです)。現実とはこういった像の「もと」になるもので、それ自体(「もと」自体が何か)を説明するすべはありません。説明はすべて像によってなされるものであるからです。
   像(文化)の源泉は現実(自然)です。現実からの糧道を断たれると、像は痩せるか、死んでしまいます。死んだ言葉ということがよく言われますね。逆に像がなくても現実自体は痩せも、死にもしません。じつに当たり前のことですが、人間は死ぬけれど、自然はそもそも人間的な生き死にの範疇を超えているという意味で、生死がありません。この絶対的な一方性が、文化と人間存在の基礎・源泉と考えられます。
 極端な話をします。文化は新たな自然を創り得ず、また自然を「変形」させることもできません。例えば、山を崩したり、海を埋め立てたり、化学的な化合物に分子を一つ新しく加えたりすることは、人間による自然の創造や変形ではなく、それ自体文化に属する可能な自然解釈の一形態にすぎないと私は考えます。地形を変えることはできるが、自然を変形させること、いいかえれば摂理を変えることはできないでしょう。月という惑星を消滅させることは可能ですが、そのことによる人間等への影響、つまり摂理から人間は逃れることが絶対にできません。
 簡単に言ってみます。たとえ分子が新たに一つ加えられた高分子化合物でも、その分子はすでに自然の中に有ったものでして、その化合物自体、既往の環境や時空の形式に適合したものであるからこそ、自然の中で「存在」できるのです。分子を一つ加えるという行為のみがせいぜい「文化的な」意味を持つのであって、加えられたのちのその存在の帰属先はやっぱり自然なのです。
 自然の基本要素、アトム、光、時間と言っても同じことですが、自然という「全体」には、人間は手を触れ得ないでしょう。文化は自然に何かを付け加えたり、そこから何かを差し引いたりすることはできないと考えられます。不増不減不生不滅、という仏説が抱懐しているのはこれのことです。このこと(文化的行為)が人間にとって豊かなものであるかどうか。自然と対話せず、そこから材や財を得る分析等のための素材の特定・区別程度のものしか汲み取ることをしない文化的行為は、往々にして(人間自身にさえ牙を剥く)野蛮さを伴うことは、二十世紀が終わったばかりの現在、ますます問題化しているところであることは、みなさんご承知のとおりです。
 詩の大きな役割として、この像と現実、言葉と本来それのもとになったものとの間に血を通わせるということがあるのではないでしょうか。言い得ざるものを言う。言われたものに迫力や現実味、具体感を与える。これはリアリズムとは限りません。「世間」的には滅裂な言説でも、迫力のあるものとそれの感じられないものとがあります。否定的な言葉でもいい気持ちになれるものがあるし、肯定的な言葉の世界に、じつに厭な気持ちになることもあります。例を挙げれば、最近物故された詩人の川崎洋氏による全国の罵詈雑言蒐集というものがあります。私はまだ未見ですが、こういうところに「詩」を見出されていた氏の慧眼を感じます。また、ほとんど罵詈雑言に聞こえる河内弁でおこなわれた淀川筋の河内衆の売り子の売り言葉というのがあるそうです。「餅食らわんか、酒飲みさらせ」という決めゼリフのようです。たしかこれは司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の一シーンだったのでは、と記憶します。この悪罵的な言説の定型化した言い回しの背後には、むしろ深い規範や道徳の存在を思わせるものがあります。
 このように「現実」という言葉はいつでも必ずしも現実的であるというわけではないようです。言い得ざるものを言う詩の端的・明快な例を引きたいと思います。

「海ではない」   尾内達也

バスを降りても
まだ見えない
地下道をくぐって
いきなり海
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

サザン・ビーチは
烏帽子岩の無言と
ビーチ・パラソルの饒舌
ゴミくずと貝殻が入り混じり
水溜りで死んだ魚が
白い腹を見せている

水平線は泡立ち
ところどころ 水蒸気で霞む海
金髪の少女のグループが
吸殻の後始末をしている

人はなぜ海を前にすると
言葉が少なくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの

懐かしい昭和の海の家
セーラー服の女の子たちが
素足で
一斉に波打ち際に駆け出す
歓声と波の音

人はなぜ
突然、海を見たくなるのだろう?
海――そう言ってしまうと
もう違ってしまうもの
言葉より先の
名づけられぬ瞬間
――まだ、だれもいない

人はなぜ海を見た瞬間
息を呑むのだろう?
世界の果て
世界の始まり
海に向かって
                         (「COAL SACK」54号より)

 「海――そう言ってしまうと/もう違ってしまうもの」とは、「海」という概念記号の否定の上に、「海」という概念記号の「もとになったもの」(つまりそれが「海」ですが)を呼び出そうとしている、まさに「シニフィアン」そのもの、転轍機のようなはたらきをする二行で、作品全体の鍵となるものです。言い得ざるものは、このようなコトバのはたらきによってわれわれの内部にまざまざと示されているのです。  ここでいわゆる「自己言及」の危険について、ちょっと触れておきたいと思います。
 古典論理学的には、「私は嘘つきだ」の言明が真であるとすれば、私は本当のことを言ったのであり、すなわち今これを言った私は嘘つきではなくなり、この言明は成り立たなくなります。けれど、成立しない言明、いいかえれば偽たる言明をおこなう主体=私は、いわば嘘つきだ、とも言えます。
 「私は嘘つきだ」は単純な一人称ではなく、「彼は嘘つきだ」という三人称のような立場から発言されているのだと仮に考えてみるとちょっと納得がゆきます。また、自分をある意味突き放し「私は詩については嘘つきだ」と言うのなら問題は少なくなるのではないでしょうか。語られるのは自分から分出された自己ともいえるもので、これは自分でありながら自分を対象化しているのです。あるいはこんな例はどうでしょうか。「わたしって寒いのがダメなヒトだから」。「ヒトだから」という客体化のワンクッションをおくことにより、「わたし」は前面に出てはいるが、それを言う主体はその場から一歩(責任回避的に)退いているといえます。
 さっきの「私は嘘つきだ」の堂々巡りは言葉(像)の次元内では解決されないでしょう。言葉はどんな非合理なことでも言明することが可能だからです。ことの真相は次の三点にあると思われます。
 ①言葉(像)、②その言明の裏側に絶対的に隠れている主体、③言明が可能な「場」を与えている、つまり言葉のもとになっている現実。この三つのディメンションが存在するのであって、「嘘をつく私」はその言明を為す主体ではなく、あくまでその言明の内容を成す一構成要素でしかない、ということ。
 落語に「あたま山」という噺があります。頭に桜の木が生えた男が、花見時には大勢客がやってきてどんちゃん騒ぎをするので煩くて堪らないので木を抜いたら、跡に池が出来て、やっぱり魚釣りの子どもなどが騒いで夜まで煩くて堪らず、これではかなわんと世をはかなんでその池に入水して果てた、というのがそれです。
 現実との関わり合いが問われないところでは、つまりは抽象的(無責任的)には何をどう言ったってかまわないのですが、でもある意味内容が具体的に求められる場においての言説としては、そういった発言はしばしば無意味・無価値・無発言のゼロと同様という事態になりがちなのは、最近いたるところでじつによく見られる現象です(→状況に応じて適切に処理する。心の問題)。
 先の落語のナンセンスは話芸としてじゅうぶんに成熟していて有意味的といえますが(理法がちゃんと背後にあるから)、ちかごろの詩の、意味を歪めたり、ずらしたりする(悲しいかな、言葉である以上意味の痕跡をなくすことはできません)傾向は、その作品行為自体の基となる理法、つまり何を・どこに向けて・何のために表現しているのかということの背景が薄弱で、わるいですけれどつまりその、この世に存在する積極的な理由がどうしても感じられません。つまり、意味の変形は何か理由があって行われるはずですが、その意味の変形が自己目的化しているのです。さいしょにお話しした現実との糧道が断たれた状態と言っていいわけで、譬えてみれば食を断たれた蛸がみずからの脚を食べている図に似ています。
 それが何のためでもない「自己表現」なのだと主張するなら、その極北の例、たとえば山本陽子の世界などを考えてみるといいでしょう。ただしその内実を容易に窺い知ることができるとは思えませんし、まして凡百の薄弱な詩人(ポエマー)などが真似するなど絶対に不可能なことであると私は考えています。あれは彼女の中でまだまだ言葉が苦痛なくらい豊富で、そこから逃れ出たくなるほどの重い感触があったからこそなしえた業なのであって、そういった鋭利で強靱な日本刀みたいな「言葉」と彼女は刺し違えたのだと言えます。逃げ出したいほどの言葉(ロゴス)の存在感を官能できる人が今のこの時代、何人いるでしょうか。死を賭して詩に立ち向かうなんて詩人が、存在するんでしょうか。
 これは、詩語において先鋭に現れていますが、われわれにとっての具体性の喪失、ということと関係しています。
 周りにあるのはみな、どこかしらで聞いた言葉であり音楽であり、テレビに映る映像やCMのコピーにも、みな新作であるにもかかわらず、すべてに著しい既視感を覚えます。みな、直でなく、何かコピー的なものを介して見聞きしたものばかりです。迫力というものが過激さや露骨さや残酷さとすりかえられ、真に迫力のあるわずかな例(しばしば控えめな姿をとる)は黙殺の憂き目にあい、怜悧さが傷つきやすさをひめた冷笑と隣り合う、という光景を、職場で、学校で、街角で、モニタ上で、常にわれわれは目撃しています。
 これはいいかえると、じつは陳述の範疇にない現実において本来処理したり判断したり行為するべき実質が、ことごとく「言葉」だけの次元に簒奪されていて、喫緊の現実の問題を、そういった簒奪された陳述によって(言い換えればディメンションの異なるもの同士で)、おざなりに処理しようとするところに、さまざまな非道や撞着が現れてくるのだと思う。
 例を挙げれば、科されるべき罪とは別に、謝罪の言葉を被害者の家族に述べるのを要求されること、おびただしく発表され出版される「手記」の数、遺書を残し実際に死んでしまうのだがどこか作り物めく若者や子どもの自裁等、「陳述」の次元での現象ばかりが溢れているように私には見えます。われわれを取り巻く圧倒的な存在としてのマスコミュニケーション。マニュアルの範囲を超えたことがらに対応できない非熟練従業員。現実をけっして認めたがらないストーカー。これらは本来表層的なことがらであるものが、深層化してしまっているとでもいうべき、非常にゆゆしい事態だと言えます。
 以上のような「どこかで聞いた文句」から脱するためには、より具体的なものをそれこそフィジカルに感触・知覚・判断・思考することが必要なのではないでしょうか。
 「人間の現に有ることはその根拠において《詩人的》である」(ハイデガー「ヘルダーリンの詩の解明」)という言葉があります。これにちょっと触れてみます。
 白水(しろうず)智という少壮の歴史学者の「知られざる日本 山村の語る歴史世界」という本によれば、街にいる老人たちが、昔住んでいた不自由な山村にまた舞い戻って暮らす例がちかごろ増えているといいます。彼らはそこで、煮炊きには薪ストーブやプロパンガスを使い、水は川から引くといった生活をしているそうです。
 ハイデガーの先の著によれば、詩人的であることは同時に「神々のプレゼンス」を感じつつ存在することだそうです。これを説明すれば、「詩人的」である、とは、安らかでいられる場所に暮らし、働き、慶弔や祭礼や宴会、また日本でいえば四季の感受のただなかにいること等だと私は考えます。今もその痕跡の残る二十四節気などを考えてみてもいいでしょう。「神々のプレゼンス」とは、霊気のような何かがそこにいる感じ、と解釈すべきかと思います。
 確かに便利この上ない街の暮らしの中に、「神々」はおらず、現代都市において人は決して詩人的であることはできません。ここ五年十年、ますますその傾向は非道くなっているようです。次の言葉はよくある、自分探しや生きがいを求めて、なんていうことでは決してないでしょう。「息子は危ないから、いくな、という。でも都会の家でじっとしていると、自分がだめになってしまう」と老人の女性の一人は山へ戻るその理由を語っています(白水、前掲書)。具体的なるものを知っている彼らは、彼らが「ふつう」でいられる生活というものが街には存在しないと、酸素や水が急激に引いてゆくような感覚で感じ取っているのではないでしょうか。真に具体的なものは都会にはない、と私は断言できると思います。
 同じハイデガーの言葉に、「詩は勲しではなく賜物である」、また「《詩人的に住む》とは物事の本質の近さによって襲われること」というのがあります。一見性格を異にするようですが、次の2例は批評の散文性の向こうに「賜物」たる詩が透けて見える見本といえます。お手本と言ってもいいです。

「爽春に」   河野俊一

爽やかな春は
誰のためにある

花粉症で
苦しむ人のために
花粉のない杉が開発されたという
爽春
という名の杉は
まるで
花の咲かない薔薇
卵を産めない鶏
精子を忘れた夫

もとより戦後
資源育成というスローガンのもと
猫も杓子もつべこべいわず
右むけ右
と植えられた杉なのに
林野庁なるおかみから
現行品種より爽春へと
またもや

昨日
おかみから開いた花びらを毟られる薔薇
を思い
今日
おかみから産み出すたびにかち割られる卵
の夢を見る
そして
明日は
おかみから頭なでられる伝説
を書き記す俺が
世界からはみ出る
爽やかな春風に
そよがれて
                      (「COAL SACK」53号より)
「調査報告」   渋谷卓男

聞き書きの最後に加えてほしいと
電話のむこう
かすれた声が言う

その人は
標高八〇〇米の傾斜地で
石垣を組み上げ、田を作った
その人は
馬鞍の両脇に繭かごを重ね
ふもとの町まで出荷した
その人は
伐採した杉を木製の車輪に載せ
山から曳き下ろして母屋を建てた
その人は
明治三八年生まれ
一〇〇歳で入院し
一〇一歳になって退院してきたその人が
ひとり電話をかけてくる

戦後C級戦犯に問われ
公職追放になりました
そのことを
書き加えてください
                         (「COAL SACK」55号より)

 両者とも終わりのあたりで「本質の近さによって襲われる」光景が現前し、顕現します。これらは「勲し」を武具みたいに手に携えた批評的作品といえますが、ものごとの本質を暴き立てて世に知らしめる、というよりは、そのえぐり出された光景が静かに心の底に降りてきて、魂に触れてくるといったところにいちじるしい特徴があるようです。いずれも、最後の収束に至って明瞭になってくるのは、批評を透過してあらわれる「賜物」としての詩にほかなりません。批評が単なる告発で終わらず、なお詩(賜物)であり得ているのは、これらの作者の手にしっかりと握られているみずみずしい具体性それゆえです。これがないと空疎なスローガンや空疎な詠嘆、あるいはまったく「当たり」の感覚のないモダニスティックな記述になってしまうのは、詩において往々にして見られるところです。
 具体性については、以下の発言も参考になります。

(前略)社会的に評価して詩はいいことだということじゃなくて、個人にとってもう引返せない、傍の者を泣かせてでも好きな道はやめらんねえや、というそれになるかならないかが大事なファクターだと思うんです。(中略)社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて、同じサイクルで詩を動かそうとするでしょう。僕はやり方がこれでは本当は逆だと思うんです。何か変てこな小さなものに惹きつけられて深入りして、その深入りするうちに自分のヴィジョンも突き入れられ、またそこで次第に世界観も出来上がるという、そういうのが本当だと思うな。
(思潮社現代詩文庫「堀川正美詩集」のうち詩論「CONTRA ET CONTRA」より)

 「社会的に詩がどんどん疎んじられて、詩なんてものは何の役にも立たないというふうに、さっさとあきらめられたら初めて本当になる可能性がもっと増えると思う。」というのは予言的で、巷にこんなに「詩人」が溢れているにもかかわらず、まさにこれは「現在」にあてはまる事態なのではないでしょうか。皮肉を言っているのではありません。あらゆる言葉が、重みや陰影や、それどころかその機能にさえ現実感が失われている現在にこそ、「本当」の詩が試されているのだと思います。
 一方「天下国家を論じる精神でそのまま詩を書いて」もダメだというけれど(これはまったくの正論)、ただ詩のスパンをもっと大きくとれば、例えば中国の古典詩や日本の述志の歌などに、じゅうぶんな深さと重さ、シリアスさを以て「天下国家」の詩が成立している例などを見ることができます。何も詩は、抒情詩ばかりとは限りません。
 詩は「何か変てこなものに惹きつけられ」ることをきっかけに、世界観にまで拡大する可能性のある、最初はひめやかな具体性であるに違いないにしても、純粋にワタクシの弄びもの、個人的な趣味の領域に留まるものではないと思います。現在、モダニズム系の作風はけっこう盛んなようですが、それが個人の嗜好・性癖・恣意の限りで書かれているとしたら、活字にして世に出すのにあんまり意味・意義は認められないのではないかな、というのが正直なところです。
 堀川正美氏はこのインタビューの別のところで、「(前略)物理的に食うことが楽になってきているから、その次に自己表現みたいなことをしたがるわけだ。みんながまあまあ食うことが出来る体制になっているとすれば、むしろそこから孤独になって自分が何をしたいかを発見して、すばやく社会と切れる方法とか、折れ曲がって内面の仕事を見つけるとかすれば正しいんだけど、衣食が足りるとすぐ社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へ出ようとするでしょう。」と発言していますが、この言葉の持つ清潔な棘ともいうべきものは、詩を書く者の心得として肝に銘ずべきでしょう。
 話が逸れましたが、もともとモダニズム的なものは、二十世紀初頭にあらわれた当初から個を超えて文明批評的な、すぐれてクリティカルな性格を持つものであったといえます。反・何々、非・何々という形で(個を超えた志向は社会性から却って背を向けるという形をとることもあり得ます)。音楽も絵画も文学も舞踏もみんな、「かつて存在しなかったものを創り出す夢」といいかえてもよいものをめざしたのだと思います。それらは当然趣味や性癖と絡んでいるけれど、行きつくところは全然趣味・性癖とは無関係な広い場所です。
 例えば多分に文芸思潮的なものであった戦前の日本のではなく、アンドレ・ブルトンらによる、ヨーロッパにおけるシュールレアリスムは芸術運動と言うより、後年のカウンターカルチャーに通じる文化運動であったのではないかと私はひそかに考えています。60年代初頭からのヒッピームーブメントや学生叛乱、古い大きい(硬い)体制・常識からの解放運動などにその流れはそそいでいるのではないかと、私は考えています。現在に繋がる、民族・民俗的なものや宗教への関心、非・西欧的なものへの関心、近代への疑問や環境・生態系、農業への問題意識などは、みんなこの時期に胚胎されたといえます。ここでも自然と文化ということが重要なテーマになってきますが、そのことにブルトンがまず気づき、そのバトンが渡された先はどこかと言えば、私はクロード・レヴィ=ストロースあたりではないかと考えているのです。
 現在、いわば「反」や「非」の対象とされていた「何々」の側に、なにか大きな潮目の変化のようなものが出来してきているような気が私にはします。いまそれは、言葉の「もと」となる、それ自体は言説の外にある最も重要な「現実」や「自然」への感性の痩せ、窮乏として現れている感じです。言語(文化)と現実(自然)の間に血を通わせるものとして詩があると言いましたが、その淵源は実は有史以前、国家成立以前からの神話にあるのだと考えるようになりました。詩について深く考えれば考えるほど、このことからあらゆる詩論は逃れられないのではないか、と思うようになったのです。乖離したり、傷ついたり、対立してしまった自然と人間の関係を修復し、恢復させるものとしての役割が神話にはありますが、まさに自然と人間との関係が決定的な「毀れ」の様相を呈してきている今現在というこの時、多く否定的な文脈で語られてきた神話というコトバに、生命を吹き込む必要があるのではないでしょうか。それはおそらく新しい神話を創始することではありません。太古の神話のなかに原石のようにちりばめられている、怖ろしいほど深い智慧の煌めきにもう一度立ち返ってみる、虚心坦懐に正視してみる、ということから始まる何事かです。そういう意味からするとこれから先、ただ今おこなわれているようなモダニズム系の詩に過剰な期待、多くの希望を持てなくなってくるような予感が私にはいたします。
 ここで蛇足のような与太話をします。話を単純にするために俳句を例に取ってみます。


花冷(はなびえ)の庖丁獣脂(じうし)もて曇る    木下夕爾
葉桜の中の無数の空さわぐ   篠原 梵
金亀虫(こがねむし)擲つ闇の深さかな    山口誓子


夕汐や柳がくれに魚わかつ   加舎白雄
我事(わがこと)と鯲(どぢやう)の逃げし根芹哉   内藤丈草
渡り懸(かけ)て藻の花のぞく流(ながれ)哉   野沢凡兆

 1は近代写生句のお手本のような作です。どこにも隙がなく、重厚で、巧緻を極めています。2は江戸期の古俳諧の立句で、朔太郎や四季派や戦前のモダニズム、戦後の列島や荒地を経てきた目には取り立てて言うところもない、それどころか何とも物足らない句でもありましょう。正岡子規あたりなら爪弾きするような旧態依然たる句振りです。しかし最近、年のせいか何のせいだかわからないけれど、前者のたぐいの句が少々煩わしく感じられるようになってきたのです。そして後者のような句に思いがけなくもみずみずしい具体性が感じられてしかたありません。幻のような何かが躰の内側で恢復し、立ち上がってくるようだと言ったらおわかりでしょうか。
 思えば丈草や凡兆の大いなる師であった芭蕉翁は、「言いおおせて何かある」、とか、「造化(自然)にしたがい、造化に帰れ」という言葉を残したのでした。もともと芭蕉は中国の老荘思想に深く親しんでいましたが、老子荘子個々人はもちろん、孔子でさえその流れを汲むと考えられる、巫祝の伝統のなかにそれらの言説はあり(白川静氏による)、またさらにさかのぼったその源流にあるはずの、神話的トポスからやって来るはるかな光線を私は思わずにはいられません。私たちのまだ見ない詩にとっての希望は、案外こんなところに潜んでいるのかも知れないと、個人的な願望も含めて、最近はそんなふうに考えております。ご清聴ありがとうございました。

*ハイデガーの引用は、京都の詩人、高野五韻氏の試論より孫引きしたもの。
*俳句の引用は大岡信氏の「第三 折々のうた」による。
  
(2006年10月22日・山本十四尾「詩の教室」講演=「コールサック」56号所収)
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Jul 16, 2007

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート1 実物とコピー、および共通語について



 わたくしごとで恐縮だが、去年出した拙著の序に当たるところで、例えば職人などが修業するうえで欠かせない行程として「本物を見る(食べる、触る、聞く、嗅ぐ等)」ということがあり、それは写真やビデオ、再生機などの復元機械を介しては得られないものがある、芸術鑑賞にも似たようなところがあって、画集を眺めて絵を論じたり、レコードやCDを聴いて音楽を理解したりは(本当には)できないのではないか、と書いた。
 これには多くの方々から反論をいただいた。ちょっと言葉が足らなかったのかも知れない。私が言いたかったのは、画集の絵と元になった絵そのものは違うという単純なことなのだが、そしてそれに対する感受も当然のことながら異なってくるということだったのだが、論じたり理解したりはできないというところに批判の大半は集中したようだ。また、レコードにはレコードそのものの蓄積された文化と時間、すなわち特有の世界があるのだとか、経済的に余裕のない者に(例えばバイロイトに行く、とか)その論は酷だとか、何々はどこそこのどんな条件で聴く(見る)に限るという話をはじめたらきりがない、といった意見まで飛び出して、私が最初に考えていたことは何だったか、思い出すのに少々の努力が必要だった。
 話を簡単にするために音楽を例に取れば、実際にピアノならピアノを弾くことが常態になっている人間にとって、モーツァルトのソナタの何番は別の何番より作品として優れているかいないか、といった発想は通常はおこなわない。その作品からもたらされる感動は、ひとえにその作品の解釈、奏法、強弱、音質といった実際の「演奏」(performance)の有するフィジカルな同時的体験をみなもととしている。いわば一回ごとに異なる、同じものとてない「時間」を奏者と共有することを意味しているのである。これこそが、本来の、真の、基準たるべき、モーツァルトの何番であるというようなものは存在しないのである。いうなれば、その日その時、その場に顕現した音楽の具体的な現存と、その全面的な享受があるだけだ。音楽はその楽譜とは異なる、という言い方もできる。
 CDのたぐいは絶対的時間差のあるこれのコピーである、ということにあまり異論は出ないのではあるまいか。ただしそれは再生されたものであっても、「再現」されたものではあり得ない。おそらく画集についても同様のことが言えると思う。レコードや画集がすでに歴史的に持ってしまった「文化」の側面をこれで否定しているわけではないし、レコードをレコードとして、画集を画集として、蒐集し鑑賞することに異を唱えるわけでもない。ただしそれは当の音楽そのものではないし、当の絵じたいではないということだ。
 ちょっと屈折した見方をすれば、例えばダリ画集を本物のダリの絵よりも愛するという人間もいるに違いない。本物よりもコピーを愛するというこの立場は、しかし本物そのものはあり得るけれど、コピーそのものは本物の存在なしにはあり得ない、という事情によって、たぶんコピーの工程を介しておこなわれる本物の変質といったものを愛しているのだ。ここいらへん、込み入っているけれど、このときダリ画集を偏愛する者は、本物でも、その正確な再生をめざしたコピーでもない、変質したコピーという(彼あるいは彼女にとっての)ある種の「本物」に出会っているといえる。
 しかし、ダリの絵を愛する者は「ダリ」ではなく、実はカンバスに展開する具体的な線、陰影、激しい色やマチエールに接触することを通じてダリを愛好しているのだが、ダリのコピーを愛する者は多分、おのが意のままに手に取ることのできる、モニタ的ななにごとかの内で「ダリ」を愛している、という違いはあるだろう。レコード蒐集にも似たような事情があり、やはりこれらは代用品なのだなという感想を持たざるを得ない。そして、いわば「現実の」絵や音楽に背を向けて、これらそのものを自分は好むのだ、と断言する立場(そういう人はけっこういる)にはある神経の痩せとあやうさがほの見える気がする。
 これを言葉の場合で言うとなるとどうなるか。その著『物語理論講義』の中で、藤井貞和氏は次のように述べている。《『アコロイタク』(一九九四年)はアイヌ語を習うための教本で、なかをひらくと、十勝方言、沙流方言、旭川方言、千歳方言、静内方言、浦河方言というように、方言のみから成る。アイヌ語という〈国語〉はないのだということを主張したい。》藤井氏はこのくだりの「注」で《日本語と沖縄語との関係にしても、本土方言が日本国国籍者九十九パーセントの使用者からなり、琉球方言(沖縄語)が一パーセントの使用者からなるとして、方言としては対等の関係にある。》とも述べている。
 ここでわかってくることは、共通語(標準語)としての「国語」は、ある抽象的な想定のもとで初めて存在し得ること、しかしそれが共通語以外の「方言」と並べられるとき、つまり実在の言語使用の野においては、いわば「共通語的方言」とでも言うしかないありようで対等具体的に存在しているという事実だろう。以前グリーグの「遅い春に」という、ノルウェーの土着語であるブークモール語の詞で書かれた歌曲を聴いたことがある。「春が私の方へ 運んでくれたすべてのもの/そして 私が摘んだ花/それは 父祖の霊だと私は信じた」。こんな内容だが、「共通語」としての日本語や英語によっては、そのコトバに真に対応するものが何かは、実は窺い知れないという感が深い。そこに出てくる「笛」や「ウワミズザクラ」など、実際にはどんな感情を抱懐しているのか。共通語はそこを翻訳するけれど、顕示はしない。フィジカルな現実と一種の非現実である言葉との関係にそれは似ていて、この構造を一気に言挙げするものとして、詩が要請されているのだと思う。



《07/04/25発行「COAL SACK」57号より。》
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Jul 15, 2007

宗教・神話・詩論

ある暦表のために (抜粋)


第六日

……ひかりによって眼ざめさせられるように、暗がりがはげしく気づかれることもある。そして記憶されうるものはすべて想い出しうるものでなければならない。
(そこで世界は残るのか。)
……否。世界もまた、そこで始めてのように想い出されているのだ。
(そこで世界そのものさえ残されないのであれば、〈わたし〉のうちでさいごまでとどまって、「はたらいて」いるものは何なのか。さらにそのようなはたらきのうちで世界や〈わたし〉の現存はいかなる変化をこうむるのか。)
……このとき世界や〈わたし〉にはいっさいの変化はもたらされない。このような「はたらき」のうちで、すでに改変をこうむるべき現存は揮発させられているのだから。そしてすべてをあげて行われる想起のうちで、〈わたし〉の視るちからだけが想い出されない。それが「はたらき」そのものであるのだから。
(さいごにのこされるものが視覚…であるとすれば、世界は像のうちに想い出されるのか。)
……想い出されるものは絶対に像ではない。はじめから排されている。そして世界が何時も像である訣ではない。
(視覚は、それならば何か。どこに理由をもつのか。)
……じつは視覚とは、それ自体ではどんな限定もうけないものであることによって、いままでもそしてこれからも、あたうかぎり永く延びている単純な端緒、はじまり以外のものではない。視覚がまた想い出されるという事態を描け。その短い転換のうちで〈わたし〉は像をもたず、像の知覚だけをつよく知覚するにちがいない。じつに、現に視うるものを信じないためにはひとつの視力が要ることをおもえ。視力のうちに〈わたし〉が捉えさせられるもの。それは〈わたし〉の所有ではなく、その知覚は何かに似ていたり違っていたりすることはできない。結論。もっとも至近に迫る盲目を、世界…と呼ぶことで、〈わたし〉は視ず、象らず、しかも〈わたし〉が、想い出しうる視野のぜんたいだ。
(このことは明日起こりうることかもしれず、また昨日起こりえたことであるのかも知らぬものであったか。)
……想い出すことが喚び起こしてゆくぜんたいは、あらゆる構成や再構成を排除する、そのような「現在」の実現であるべきだ。そしてそれは、きょうあすを問わず、絶えず生起しつつある世界の意味にむかって投げつけられているべきだ。かつまたそれは、像をへだててではなく、〈わたし〉の視―力を〈つうじて〉行われるべきだ。
(すると、世界を想い出す、とは?)
……世界の意味が知覚にまで迫ることがありうべき事態であり、〈わたし〉に生存の判断をもたらすものであるのなら、そのとき〈わたし〉のぜんたいはもっとも価値的となるはずだ。すなわち〈わたし〉は世界について直接であるはずだ。そのときにはむしろ知覚こそもっとも作用的な間接性となるはずだ。〈わたし〉が世界を生きるのではない。世界が〈わたし〉を生きるのだ。
(想い出す、とは、すると?)
……それが決して対象の無を意味しない、〈非〉対象の部域への、絶えざる生存の接合だ。


詩集「旱魃の想い出から」(1977年刊)の第Ⅱ部、ネット上は非公開部分。
 
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Jul 13, 2007

宗教・神話・詩論

言葉の自由について



 もう十五年も前になるか、清水鱗造さんに仲立ちしてもらって、福間健二氏と初めて飲んだということがある。そのとき、当時鱗造さんの主宰する「Booby Trap」誌上に書きはじめていた芭蕉論について、氏に、倉田さんあれじゃあやっぱり判らないよと言われた。自分でも判っていたのかどうか、はなはだ心許ないところだったが、ある手触りのような感覚は強く持っていて、ただそれを言葉に出来ないもどかしさがあった。なんとなく、今ならそれを言えるような気がする。最初に思いついてから二十年近く、言葉にするまでにかかってしまったが、これについて、少し試みてみたい。話の始めは芭蕉書簡のうち、「鳶の評論」という名で伝えられる一文に関してである。
 芭蕉の俳諧的閲歴では比較的初期の天和二年(1682)、芭蕉は美濃蕉門、大垣の谷木因に次のような付け合いを示して感想を請うている。


  蒜[ひる]の籬に鳶をながめて
 鳶のゐる花の賤屋とよみにけり


 連歌連俳の付け合いでは、花に花を付けるというようなことは原則として禁則に属する。花に、違うコトバである桜を付けることでさえ、憚られるのだ。これは同じカテゴリーに属するコトバを、一句を跨いでまた使うのをひどく嫌うことや、前句の面影を付け句で繰り返すことを出来るだけ避けようとする傾向と共通する、連句というものの基本的性格でさえある。それをじゅうぶん知悉しているはずの練達の俳諧師が、鳶に鳶を持ってきて付け合いとするなんてことをどうしてやったのか。
 このアポリアを、木因は頭のいい生徒みたいに解いて見せて先生の前に提出している。こんな風に処理すればいいのではないでしょうかと。

 菜薗集 巻七
  春 誹諧哥
   蒜のまがきに鳶をながめ侍りて
 鳶のゐる花の賤屋の朝もよひ
  まきたつ山の煙見ゆらん

 架空の勅撰集のような仕立てをつくって、鳶は鳶でも詞書の鳶にすれば問題はないのではないか、と師に答えているのである。芭蕉は別の書簡でこの答えを激賞している。私はこれを、詞書といういわば「逃げ道」の発明を褒めたのではないと考える。付け合いというのは本来、一枚の画布に描かれた二つの文様の取り合わせの妙を謂うのではないと思うのだ。ある文様が描かれた一枚の画布に、別のもう一枚の文様入りの画布を突き合わせてみることなのではないか。その時「画布」は消えて見えないが。
 木因の示した解の詞書というのは、じつはこういった異なるディメンションの存在を示唆したもので、そういえばもともとの当の芭蕉考案の付け合いを見てみると、「鳶のゐる花の賤屋と《よみにけり》」と、やはりここでも前句とは違うディメンションが出現していることが知られる。
 連句が面白いのは、このディメンション(画布)を異にする連衆というのが、さまざまに関係し合う取り合わせそれ自体にあるのであって、壮麗な一枚の(平面的な)画の完成のためにひとりひとりが部分を担って協力し合うイメージというよりも、ABと対比され、BCとつづき、CBとAの対照が次々にあらわれる、といった、無時間的な経過という名の非構築的な音楽のイメージに近いものがある。睡眠や食事や明日のことがあるから、三十六句や百韻をもって限りというか区切りとするが、いつ止めてもいいし、どんなにつづいてもかまわないというのが本来なのではないか。
 ことは言葉の自由ということに関わってくるけれど、いろんな画布があるということは、あるものとあるものの対比が有意味的であれば(この取り合わせ自体に無意味なものを感じなければ)、それは鳶と鳶でもいいし青空と灰皿でも何でもいいが、喩えるものと喩えられるものとは本来同等であることに繋がってゆくのではないか。それは不等式ではなく等式で結ばれる関係ではないか。「岩のような味のブドウ」と言ったとき、好悪や世間的な意味で当然不等式は成立するであろうが、岩とブドウはそう言う(そう言われた)とき、われわれのなかで共に生きられているという意味で、等式的に存在しているのである。詩の言葉や智慧の言葉はしばしばこのようにしてわれわれの前に露頭することがある。
 と、いうことは、あるコトバはあるコトバに「対比されている」のであり、厳密に言えば、それはあることをあることで、主従的な関係裡に「喩えている」のではない、ということになる。詩にとってメタファーの占める地位はとんでもなく高い。映画「イル・ポスティーノ」で、郵便夫がパブロ・ネルーダと会話するなかに、詩人が言った言葉「この星空も、風の響きも、海のうねりも、みんなメタファーになるんだ」というのを引き取って、ではそれら夜の星や風や海や恋の囁きから成るこの世界というものそれ自体が、はたして何かのメタファーなのか、と問いかける場面がある。郵便配達夫の問いはじつに本質的なところを衝いているのであって、実体本質論的なものの従属的な影としてメタファーを捉えるから、このときネルーダは答えられずに、「とにかく泳ごう」と言うしかなかったのである。そうではなく、機縁があり、あるものが違う画布である別のあるものと合わさることで、また異なる場面となって展開してゆく、というカレードスコープのような(量的な意味でない)無限の「対比」が存在しうることの異なる表現が、「世界はひとつのメタファーである」という言明なのだ。
 これは何か「世界は幻のごときもの」と言っているのではない。あらゆるものはその〈すべて〉が対比されえ、あらゆる対比はどこかしらで意味を、言い換えればどこかしらでわれわれにとっての切実な実在性を有しているということだ。詩におけるメタファーの地位が高いと書いたが、詩に先立ってメタファーがあるのではないことは肝に銘じておくべきだと思う。現在、詩の世界でメタファーは出尽くしたかと思わせられる。またそう思わせられるほど、この世界にある種の衰弱の兆候が見て取れるように思う。その中にはおそろしく巧緻を極めたメタファーを含むものもあるようだ。けれど、私はこのごろ黄葉した木、とか、冷たい風、とか、それどころか、恋しい、という一語にさえ、これはなんだか至上の喩ではないかと感じることがある。その言葉を前にしただけで、私という画布、そのディメンションの全体がひびきわたるのである。たぶんこのとき、それらの言葉は私の中の知られざる・見えざる何かと深い「対比」を起こしているのだ。

            06/12/01~02


*芭蕉書簡「鳶の評論」についての拙文は、清水鱗造氏のお手を煩わせ、愚HP「γページ」上に公開しています。


《*「tab」2号より(2006・12月)》
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Jul 12, 2007

宗教・神話・詩論



Sound in autumn night ――ミシャ&サブを聴く


 この二〇〇六年の十月十日、ちょうど三年ぶりにミシャ・メンゲルベルク(p.)と豊住芳三郎(ds.)のデュオを聴いた。三年前よりもっとずっと近いところで、ミシャや豊住の濃厚なプレゼンスを感じながら、である。場所は、千葉は稲毛のジャズ喫茶CANDY、宵もやや深まった八時過ぎからのことだ。聴衆は二十人もいたか、どうか。
 最初はオーケストラで言えば調弦にあたる音合わせだと思った。ミシャと豊住のばらばらに叩く音が四、五秒もしたか。気づけばふいに、「演奏」はもう始まっている。
 はじめのほうのミシャはなんだか病気、と言ってわるければ、長旅から来る疲労や風邪っ引きを思わせる沈鬱さで鍵盤に向かっているように見えた。一見、その場を支配しているのは挑発的に叩きつづける豊住のパーカッションの鮮明さだけみたいだったけれど、じつは地鳴りのように響いているピアノの存在感がなければ、表現された「音」のかたちとしてはおそらくわれわれは納得がゆかなかったのではないか。
 いま沈鬱と書いたが、太く大きな指が鍵盤に軽く下ろされるとき、その天性の重さ、鍛えられた力、ほとんど無意識の正確さによって、音は驚くほど綺麗である。笑ってしまったのは、時折見せる肘打ちならぬ拳打ちとでもいうような鍵盤叩きの技だが、もっと笑ってしまったのは握った拳打ちから指を開いてふつうに叩くときに、まったく音が変わらないということだった。目をつむって聴いていたら絶対に判らないだろう。両手の十指をフルに使って、上半身を微動だにさせず、細かな音からなるパッセージを叩いているのを見て、ビデオに映った演奏時のホロヴィッツとおんなじだ、と言ったのは横に坐っていた妻だった。事実、ミシャの音の現前を目の当たりにして、私たちが向き合っていたのは多分徹頭徹尾のヨーロッパだったのだ。ローマが終わって二十世紀の大戦争に到るまでの、連続した廃墟の時間に嬉遊する戦場のピアニスト、真っ赤な野球帽を被ってこの夜あらわれたミシャにはそんな雰囲気がつきまとう。
 時間が流れるにつれ、神を呼び降すお囃子みたいな豊住のドラムスの効験もあってか、ミシャにも確実な降霊の時が来たようで、さっきの沈鬱はかんなぎを襲う憂愁のたぐいであったとはっきり判る、脱臼的に異質な演奏に変わっていった。ホロヴィッツとは言ったけれど、ミスタッチ、やろうとして瞬時の判断でやらなかったこと、欠損、過剰その他いろいろ挙げようと思えば挙げられるが、では過剰や欠損は「何」に対してのそれであるのか。あれらは瑕疵ではなく、間然するところのない自由といううつし身であらわれた、紛れもない必然ではなかったか。私たちは現に在るものに対して、現には無い貧しいイデーとしての物差しをいたずらに当てる陥穽におちいりがちである。あの夜、鳴っていた音に表現として欠けたところはどこにもなかった。あばたやえくぼを含めたその音楽の性格からして、あの夜、あそこで響いたすべての音は、全部が正解であり、修正の介在し得ない完全な思い出であり、出された音の一つ一つは喜ばしい現成[げんじょう]にほかならなかった。こういう豊かさへ踏み出す勇気を、もっとわれわれは持ってもいいのではないか。
 演奏の途中から豊住が二胡を取り出して、いきなり弾き始めたのにはびっくりさせられたが、あの木枯らしよりもっとすがれた弦のしのびねは、中国というよりはやはりユーラシアのアースカラーを思わせるのであって、ミシャの徹頭徹尾のヨーロッパが、この巨大大陸の端に位置する、ほんの小さな広場であることを改めて感じた。
 三年前に彼らの演奏を聴いたとき、いろんなパフォーマンスに類する行為を「あくまでも音の顕現」と感じてそう書いたけれど、今回もそれはあり、もう一歩踏み込んで考えてみた。豊住は時折ハイハットにスティックを打ち付ける寸前で止めるということをやっていたが、あれは「真似」としてのパフォーマンスではない。叩かれる寸前で叩く棒は引っ込められるが、多分そのとき「音」はまさしく実在しているのだと思う。無音ではなく、おそらく「非存在の音」として。ここでは非存在の音と発せられた音とはまったく等価である。ふつうの意味でも、音楽の休符というのは音楽の断絶ではなく、りっぱな「音」の一部といえるのだから。あの引っ込められたスティックは、まさしく沈黙の様態でそこに充満している非存在の音の明らかな徴[しるし]たる、休符の記号だったのだ(動く肉体を使っての)。われわれは、そこに沈黙の要素がなければ、そもそも音楽自体が発生・存在する余地さえないことを知っている。なにか、この世のありさまと似てはいないか。
 ミシャと豊住のセッションは音のやり取りだけではない。声の掛け合いもあって、まあ、彼らの「音」の一つに組み入れられているのだろうが、私はもっと大きな意味での言葉(言語)を感じた。面白かったと思ったのは、彼らがおこなう鳥の鳴き声のような、あるいは全く未知の部族の喃語みたいに聞こえる喋りでの対話だ。鳥の鳴き声とは言ったが、鳥の鳴き交わす声といいかえたほうがよいかも知れない。言葉を前にするときわれわれはまず概念的意味を求めるが、それ以前の言葉そのものの剥き出しの実在に出会うことがある。多く儀礼や神事や芸能に見られるが(また当然ライブ等でも)、一つの空間を共有することで、概念的意味を追わなくても、何が言われているか、求められる理解は何か、何となく正確に分かってしまう場合がある。この掛け合いがまさにそれだった。概念的な意味を超えた「意味」そのものがあるといったような。禅問答や、芭蕉の言う「俳諧地」に一旦乗った連句の流れ、また、ある深みに達したシュールレアリスムの言語実験などに共通するところだと私は考えている。
 さいごにアンコールがあって、セロニアス・モンク(風)の曲を、豊住の二胡とのコラボレーションで弾いたミシャだが、指の回らなさとも見まがうモンクのピアニズムをまるっきりトレースした上で、舌を巻く軽快さでもって西欧の哄笑する神々、ティル=オイゲンシュピーゲルやガルガンチュア、フォルスタッフらの光と影を私たちにまざまざと幻視させて、一夜は終わった。
 聴衆はおおむね若いのが大勢を占めた。彼らに今夜の演奏について何か聞いたとしたら、同感する答えが返ってくるかも知れないし、とんちんかんな答えが返ってくるかも知れない。けれど、それぞれがどう感じ、解釈しようが、この夜、ここにいた二十人弱の聴衆が向き合い、官能していた現実は、同じたった一つのものなのである。演奏上のテンポを全く無視して、痙攣的な首振り運動をさかんにおこなっていた最前列の若いのが、コーヒーを飲んでいる終演後のミシャに、感極まって何度も何度も「You are great!」を連発したのに対し、ペコちゃん人形みたいな赤い帽子の老ピアニストは彼を見遣り、優しげな低音で「I am shit great」(私は糞偉大)と答えたのだった。
 

《*「tab」1号より(2006・11月)》
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宗教・神話・詩論



荒涼について――関富士子詩集『音の梯子』の二つのキーワード


 2003年の『女―友―達』、2004年の『植物地誌』、そしてことし2005年の『音の梯子』と、関富士子はここ三年立て続けに詩集を刊行してきた。その精力的な書きぶりには感心させられるけれど、詩集としての質においていささかも怯むことのない、その戦闘的ともいえる達成度はさらに私を驚かせて余りあるものがある。
 『女―友―達』においては、「キョウコ」を中心とする詩篇のなかに自らのアドレセンス、その精神的な出自と葛藤を描き出し、『植物地誌』において植物という宇宙(コスモス)のなかに万華鏡みたいに世界という名の小宇宙(ミクロコスモス)が展開するさまを活写した詩人は、『音の梯子』で鎮魂と荒涼という二つがキーワードとなった彼女の現在をつづれ織りのように繰り広げている。
 まず鎮魂という側面から『音の梯子』を見てゆくと、関富士子にとって田村奈津子というひとの存在を外せないことが明瞭になる。2001年の10月に、四十歳という若さで乳癌で亡くなったもうひとりの詩人について、私は多くの知識を持たないが、関富士子のホームページによりいくつかのことを知った。
 詩集はあざみ書房から三冊、『地図からこぼれた庭』(1995)、『虹を飲む日』(1996)、『人体望遠鏡』(1999)があり、藤富保男氏主宰の散文作品の会「COLOUR」に散文詩とも掌篇エッセイともつかない作品を発表していたことなど、である。彼女はユングの唱えるシンクロニシティ(意味のある偶然の一致、虫の知らせに類する)という概念に深い共感を抱き、自然との合一感を、時としてかなり奥深い神秘のごとく感じるような精神的素質を有していたようである。その詩は一面晦渋なところもあるけれど、いま言った彼女の素質を虚心坦懐に受け止めれば、ほんとうは戦慄すべき予言性と透視力をひめたものでもあるのだ。実際、天はこういう人をあまり長い間、地上に置きたがらない。
 『音の梯子』に収められた、田村奈津子の詩の引用を含む作品は三篇だが、より直截に切実に、挽歌と言いうる作品は「神月の出雲へ」である。十月(神無月)に向こう岸に旅立った出雲出自(十月は出雲では神在月)の詩人に向けられたタイトルであろう。このほかにも、作品中にはさまざまに故人が残した詩句、概念、行実などが隠され仕掛けられているようで、あるいは親しかった人にしかわからないところがあるやもしれない。
 葬儀の日のことを関はこんなふうに描き出す。「儀式の日までからだはひどく寒い所に横たわっていて/頬のおそろしい冷たさにわたしはふるえた/(略)/死をこんなに寂しいものと知らなかった」(「神月の出雲へ」より。以下同)
 体温が失せるというのは温度を感じなくなるということではない。それは「おそろしい冷たさ」を有するものなのだ。死は悲しいけれど、我に返って自らの感情を世界の内側に置いて見るとき、それは限りない寂寥の裡にあることがわかる。
 関富士子はまるで怒りに駆られて自身を制御できない人のように以下を書く。「魂のことをわたしは何も知らない見たことも感じたことも/地の上には空があるばかりだ空の上のことを想像できない」このことは却って関が田村奈津子に認めていた「空の上のことを想像」できる素質のことを言っているのではないか。このとき次のような引用が高貴な賜物のように関を慰藉する。「わたしを通過した理由は問わない/流れてゆく贈り物を/ただ感じるだけ」(田村奈津子「風を見る石」)
 こうして関は以下の四行によって、田村奈津子との訣れを明るい無常ともいえる風の中で遂げるのである。「斜めに少しかがむように別れのお辞儀をして/留めようもなく軽がると駅の人ごみへまぎれていく/すそに模様のついた踝までのスカートがふくらんで/逆光のからだが透きとおり風がまっすぐ通りぬけた」
 言うまでもないけれど、軽々と駅の人混みへまぎれてゆく「踝までのスカート」を着けたひとは、関富士子ではない。

 もうひとつ、『音の梯子』をはじめとする関の最近の仕事で、やや際立って私の目を引くのは、荒涼とした世界ともいうべきものへのセンシティブな意識である。この場合荒涼とは精神的な意味でのそれがあるのは勿論のことだが、これらの世界でひしひしと露わにされているのは、もっと皮膚感覚に訴えてくるような、ぞっとするような具体性である。そういう意味で、いままで述べてきた田村奈津子の清潔な悲しみとでも呼べそうな世界とは対極にある世界の事情といえる。
 作品に登場するのは、新聞の折り込みチラシ、空き部屋物件のサッシやトイレの配管の臭い、廃棄物のベッド、姿の見えないホームレスの軍手、ビールの空き缶やペットボトル、汚れた毛布などなど。それらが私たちの日常に「ありふれたもの」であるから具体性なのではない。それらがある「監視」(監視カメラ的なもの)と、徹底的な無視、無関心の謂いであるネグレクトと、さらに言えば人知れぬ悪意に満ちたコンテクストの裡に引き裂かれてあることによる、私たちにもたらされた視覚のまがまがしい輝かしさを具体性といいたいのだ。そしてかくも「ありふれたもの」がそれ自体として独自に取り出され、光被され、私たちを透き間もなく包囲するという事態はけっして幸福なことではないと思う。それは詩としてどうか、ということより、文学作品のなかにさえ、伝票や請求書、名簿、数理の表、計算システムが入り込んできた二十世紀初頭のヨーロッパの、フランツ・カフカが目撃した悪夢と同質のもの、というよりさらに決定的になりつつある事態を彷彿させるのである。
 詩集の最後のほうに置かれた作品「燃やす人」でそれは、こんなふうにはじまる。「ついさっきまで何もなかった/この空き地に立ち止まり川向こうの/トラクターの黄色いボディが日に反射するのを見てから/土手を歩いて川辺を巡りこの空き地に戻ってきた/三十分も経っていない/なのに/そこに火が燃えていて/ベッドが焼けている」(「燃やす人」以下同)それはどこにでもありそうな都市の郊外で繰り広げられる光景だ。それは「わたし」が散歩の途中、それまで無意識であったものからちょっと目を離した隙に起きた出来事だ。こういうことは現代の街の雑踏や駅のホームや白昼のビルの陰で、いつでもあり得ることではないのか。普段は限りない無関心の裡に歩み去ってゆく街のそこここで、ふいに信ずべからざる光景を、私たちは目にしたことがなかったか。あるいは、目にすることを避けたことはなかったか。じっさい最近では街中でどんなに非道い、理不尽な(明らかに犯罪に属する)暴力に出会っても、通行人はおろか、駅の係員や警察官さえ被害者を黙殺するような時代である。
 ベッドはこんなふうに燃えている。「横倒しに焦げた四角い鉄枠に/両端が槍のように尖った背もたれ/四本の鉄製の脚/マットレスは見当たらない/すでに背板や座板は焼け落ちて/灰の塊のあちこちから炎が上がる/顔を近づけると熱気に煽られる/黒い地面の油の臭い/空き地の向こうに農家らしい家屋がある/濃い影のなかに静まりかえって/だれも出てくる気配がない」
 ――「ありふれたもの」の息詰まるような具体性は、こうしてようやく惨劇の様相を呈してくる。「ありふれたもの」は、生活の中で使用され、人間の体型・体臭になずみ、使われつづけている間は何の違和も生ぜしめないが、ひとたび不使用物となると、その人間的なものが占めるウェイトの分だけ、非人間的な部分が(ヒトにとって)過剰・先鋭となるだろう。畢竟、ヒトのために作られたものはヒトが使用を止めたとき、(ヒトもそこに含まれる)世界にとって過剰なものでしかないのだ。この過剰さ、先鋭さはなぜ最近になってから特に際立って感じられるようになったのだろうか。やはりこれは自然と人間を、管理と放任という二項対立の裡でのみ考える、そこからはみ出るものは徹底したネグレクトのもとに置く、という昨今ますます顕著なものとなりつつある世界観が行きついた姿なのだろう。いままではその過剰を処理し解消させていた大元のコミュニティや家の急速な自壊がそれに拍車を掛けている。自然を蒙昧とせず、また自然を制覇できるなどと考えるのではなく、それと取引することを学ぶこと、人間が進歩するものだということを疑ってかかること。まずなによりも田村奈津子が鋭敏に察知していたこういった世界観の過剰さがもたらすものこそ、この作品のなかで、「火葬されるベッド」というイマージュを通して視認された(非)人間世界の喩にほかならないと思う。
 そこで皮膚が焼けただれ、あばらがめくれ、内臓が煙をあげている屍体を見る「かのように」凝視されているのは、単に肉体的な、フィジカルな人間性ではなく(有機体や生体としての「人間」という概念は成り立たない)、ほんとうは肉体そのものもそこに包括されるべきメタ・人間性とでも呼べるものだ。人間性という言葉に語弊があるとするなら、これを神々の殺害と言い換えてもよい。実に、ここいらへんの関富士子の手腕には舌を巻くほかない。「わたし」は誰が、どんな理由で、こんなふうなベッドを燃やすという挙に出たのか想像を巡らす。「たぶん若くはないが屈強な男で」悪意に満ちた分だけ周到で、「ゆっくりと煙草を吸ったあと/燃えさしを投げ入れ」て、油をそそいでおいた廃棄物に火を点けたのかも知れない。「ベッドに寝ていた」のは男の妻か母親で、「長く病んで亡くなったのだ」。「火はいつまでもくすぶっているのに/家からはだれも出てこない」。そして、悪意に満ちて濃い影の家の窓からこちらをうかがっている目。
 「わたし」は自分のおかしな考えに頭を振りながら歩き出す。空き地でただひとつ燃えていたベッドの光景は、ここらあたりから次第にねじれた世界を拡げはじめる。「川を離れて農家の脇道へ曲がる/そこは畑だが/耕されもせず雑草が茂っている/緑に半分埋もれて錆びた金属の物体がある/それはスチールのダイニングチェアだ/クッションは焼け骨格だけが転がっている」そして気がついて「わたし」が見渡すと、畑のあちこちに打ち捨てられている赤茶色の鉄の残骸が次々に目に飛び込んでくる。蔓草を象ったベンチの背もたれと脚。歪んだアルミの窓枠。元は金塗りのテーブルワゴン。そして洗濯機の穴の空いたドラムとそれを回すファン。それら、何だかわけのわからない骨組みだけのたくさんの奇妙な物体が、耕されない畑の向こうまで荒涼とした悪夢みたいに続いている。管理と放任と、そしてネグレクトと悪意との交錯によって、まるで天啓のようにもたらされた世界がここにあるのだ。



「コールサック」52号(2005年8月)初出
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宗教・神話・詩論

あるキリスト者への返信


前略 お礼がこのように遅くなってしまったこと、ならびにワープロ文字で申し訳ありません。御高著二冊、ことのほか『詩とレリギオ』、強い感銘をもって読み終わりました。「詩的混沌」「鎮魂」ということ、「神みずからは笑いたもう」など、大きな共感を覚えます(美しく飾られた宇宙というイメージの何と豊饒なこと!)。
 吉本隆明のヴェーユ理解に関しては昔から私も疑問を感じていたので、彼がまったくそうであるというのではありませんが、やはりアクティビズム的な近代性からヴェーユそのひとを理解することは出来ないのだと、(かねて思っていたとおり)納得させられました。彼女を被虐的な、あるいは加虐的な心理類型から語ったとしても、それは何事も言っていないのに等しいことで、私はそのような人が存在すると知るだけで、この世界に畏怖に近い感情を覚えます。神の問題を本質的には避けながら、神を客観的に語るという愚を多くの人間は犯しがちです。
 同じことですが、奇跡については私も多く思考の時間を割いてきました。結論ではないのですが、それについてあれこれ証明や説明をしようとしても、人間の相対性(ヒトに限界があるということ)のうちに揉み消えてしまうものなのではないでしょうか。私というものがいまここにいて、何かを考えたり、落ちた消しゴムを拾ってみたり、ウイスキーの一滴を口に含んだりしていることは、奇跡とはいえないでしょうか。ドイツ語で何というのか存じませんが、確かニーチェの言に「ある現象の証明は出来るが、それを説明することは出来ない」というのがあります。超自然(ヒトにとっての)は、自然という偉大な事実のうちの小さな一項目にすぎないと私は思います。
 さいごに、イエスのことをこんなに豊かに示されたことは、私にはあまり経験がありません。ガリラヤの昼下がりの、葡萄の葉陰にみちた静かな時間を、御著の記述に芳醇な酒のように感じたと申したら敬虔さを欠くでしょうか。ランゲヴァイレ(長き冗長な時)ということばの滋味とともに、また喜びとともに味わわせていただきました。送らずもがなの拙文を同封して、お礼申し上げます。不尽
                             2003年12月12日 倉田良成
 今駒泰成様

今駒泰成著『詩とレリギオ』感想(「鮫」97、2004年春号所収)
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Jul 11, 2007

宗教・神話・詩論

形容詞と副詞の発生(折口信夫国語論ノートより 1974年)



 これまで触れてきたとおり、「熟語構成」には、「構成」の解体という逆過程が含まれる。すなわち、単純な語根、あるいは体言性の語が相互に結びつき、屈折をおこして「熟語」を構成する、といった過程は半面にすぎず、もう半面の、複雑な構成を為す「熟語」が、〈習熟句〉としての反復の段階を経て、主部を落としたり形を縮小させたりすることによって再び単純な省略された姿で〈叙述〉の性能を発揮する、といった解体の過程をも包括して、〈熟語的なもの〉の全体を考えねばならない。
 そしてこの〈解体〉の過程において、〈習熟句〉のような一定の姿で反復されてきたために、〈熟語的なもの〉は、ある心的な内容性とも云うべきものを、〈叙述〉のさいにもたらす――ということが〈発生以後〉における「日本語」表現の重要なモメントとなっている。
「熟語」が縮小しあるいは省略された短い形となって語の現存をかえるとき、熟語の主部や習熟句の全体の内容(=叙述部分)は、その短い簡易な形のうちに、〈代表〉され〈暗示〉されるのである。略語が、文章表現の全体について持つ意義は、折口の言い方では、「はぶいたゞけの気分」(P415)を孕んでいる。そして、この熟語、あるいは、習熟句の縮小する形、略される形は、「日本語」特有の「周辺表現」すなわち、叙述の主部であるべきものを表わさず〈暗示〉することによって表現し、また内容に就いては、たとえば感情の程度だけを述べ、それがどのようなものであるか具体的にその種類を述べない、といった表現形式を形づくってゆくのである。(「あさまし」「うたて」「あはれ」等について折口の論述を見られたい。)
 この形(〈熟語的なもの〉の展開)がもっとも特徴的に絡まりあって形成されるのが、第二次以下の、「形容詞」および「副詞」の発生過程である。このふたつの発生について、ほんの概要だけしか述べる余裕がないが、メモ風に記しておく。(ちなみに「形容詞論」「副詞論」は折口の「国語学」のうち最重要の〈環〉をなしている。)

A)形容詞
 まず「形容詞」について〈熟語的なもの〉の関与を見てみる。
 この場合ほとんど一義的に終止形を決めている形容詞語尾「し」が問題となる。「用言」の発生が単一の要因によるものでなく、いわば複層の構造をもっていることは、先程から、彼の考察のうちに見てきた通りであった。「形容詞」の場合でも折口は発生契機(経路)を間接と直接と、第一次と第二次と、というように複数でとらえるのである。
 まず、動詞用言の語尾発生に典型的にあてはまる、語根の直接的屈折による、云わば「内部」的な発生としての「し」が考えられる。むしろ折口としては、動詞語尾がウ列に近い子音としての「語根」内部に包含されていたように、「し」もまたその形に近いものとして「語根」の一部(あるいは「語根」そのもの)といったものであったと、「形容詞」語尾一般の発生を決めたがっていたように思われる。それが一般的に可能であるならば、ほとんどすべての用言語尾発生の機構を原理的に押えることができるからだ。
 だがそのさい、困難は具体的に、そしてただちに現れてくる。第一に、発生時代の古文献の絶対的不足、またそのことにおおきくかかわって、たとえばすべての「用言」が原態において統一的に把えうるものであれば、動詞では母音ウ列で定まっているものが、何故「形容詞」の場合、一義的に「し」でなければならず、屈折も母音ではない端的な「し」から類推しなければならないのか、その理由をつかむ手だてが失われているのである。
 折口はここで、「し」の問題を直接の発生(第一次的)から説くことを避けて(そのような例も多く妥当的に存在するが)、第二の途、すなわち「し」の展開のありようから、その固有の発生の理由を(「遠く」から)類推してゆく方法をとる。
 つまり、屈折的なものとは明瞭に弁別される、云わば遊離している(無機的な・「囃し詞」のような・それ自身の文法的職能の希薄な)「し」が存在し、それが他の同様の性格をもった「ら」「や」「か」などとともに、用言的屈折をしない体言性の語のために熟語格をつくって〈熟語的なもの〉特有の運動のうちに用言的なものに転化させ、そのひとつの帰結として「形容詞」の終止形が発生する(=「し」が終止の妥当的な感覚をもつ)という経路を考えるのである。「し」が一義的に終止を決める語(としての形容詞)は、そこで領格対象語すなわち「熟語」の主部を脱落させているものとみなされ、むしろ「し」がつくことによって主部脱落の形跡を「明示」しているもの、として把えられるのだ。「形容詞」の形は、「し」によって「謂はゞ傷口が縫はれてゐる」(P432)のである。
 折口によれば「語根の一部」である「し」のほかに「語にわり込んできた〈し〉」がある。「やすみしゝ」「いよしたゝしゝ」など、「律文」における音声的要素(囃し詞)としてしか、現在では考えることができない、文法的職分から云えば(用言性能からは)無に等しいような「し」の一群である。
「律文」において、この「し」は後続する語を「無機」的に、あるいは「気分」的に媒介すると云える。(その意味で「領格」とも考えられる)それが次第に表現性能を拡げる。すなわち、いっぽうで、かならずしも後続する語のみに係ることをしなくなってゆき、他方、□し□という形をつくる「熟語格」のなかで、文法的職分の(用言的な)有機性とも云うべき性格を有してゆくのである。
 後者については、「古代式表現」に従えば、云わば□・□の形で通ずる二語の間に、〈緩衝句〉としての「し」が介入することによって、(□し□となる)「熟語」の形を構成すると云えよう。その中で「し」は、次第に単なる「熟語」格であることから、有機的な(用言的な現存をもつ)時間意識(→過去表現)としての性格を帯びてくるようになるのである。この「し」は「一種の連体法を作る語尾」であり(P83)、「熟語」の構成から解放され、さらに所謂「助動詞」となる一歩手前で、「形容詞語尾」と岐れる――というふうに説かれるのである。  いずれにせよ、□し□の形は「し」のありかたの〈原型〉をなすということが重要である。「し」はかならず後続する□の〈叙述〉の空間を、云うなれば「断絶的」に示しているとも考えられるのである。ここで折口は、□し□という「熟語」格の在り方から、□し、という形容詞終止形固有の姿をとるまでの過程に、□しもの(□じもの)という形を措定する。□しもの、の「もの」の部分は、後続する□の叙述の空間を表わすものとしても考えられるが、しかし折口にとっておそらく□しもの、の形は、「し」が熟語過程をとる端緒にすでに用意され、□し、となったのちも、或る心的内容(それ自体は無形の)として、実在と空白とが同義であるような在り方で継続してゆくものであった――というように考えられている。
 □し、という「形容詞」固有の在り方は、「しもの」の意識をつねに含むのである。「形容詞の論」の最後に、「し」の内在的契機とも呼びうる構造を次のように述べていることで、折口は、その「形容詞」発生に関する思考のアルファとオメガを〈飛躍〉的につないでいるように思われるのである。



 「じもの」の語源については、「其(シ)物」「状(シ)物」など言ふ印象分解説はあるが、其では「もの」の説明を閑却してゐる。「もの」はやはり、霊魂の義である。「かしこじもの」は「畏し霊」で、其威力によつての義を含んで居り、「をとこじもの」は壮夫霊(ヲトコジモノ)によつて、招魂(コヒ)すると言ふ咒詞的な用語例があつたものと見る。意識が変じて、壮夫なれば、壮夫としてなど言ふ風に感じられ、其が更に、新しい民間語源説を呼び起したものと見える。併し、其径路にあるものとして、遷却崇神祭祝詞・出雲国造神賀詞を見るがよい。物質・霊魂を譬喩或は象徴としてゐることが知れる。同時に「…の霊の表現としての」「…の寓りなる」と言ふ古代信仰が見えてゐる。(「形容詞の論―語尾「し」の発生―」P99~100)


 
B)副詞
 さて、つぎに「副詞」について、その展開を一瞥してみよう。折口は、ここで「副詞」それ自体の発生というより、むしろ〈副詞的なもの=副詞表情〉の発生および展開を考えていることは、先の「形容詞」論と(性格はことなるが)、「展開」論において一般であると見ることができよう。なによりも「形容詞」自体、「副詞」自体が発生するのでなく、まず〈形容詞的なもの〉〈副詞的なもの〉が展開して、〈品詞〉の現存に最終的に行きつく、ということが彼の「用言論」の独特の思考である。
「副詞表情の発生」は(P101以降)、云わば「律文」の表現論とも云いうるものであり、「形容詞の論」と同様、あるいはそれ以上に、〈叙述〉の水準は突出的に考えられている。(だが先にことわっておいたように、ほんの骨格だけしか、ここでは述べられない)
 まず折口は、古代の律文表現において無用とおもわれるような修辞・用例の類型が存在することに着目して、「その文章上の瘤とも言ふべき」(P111)表現が何故に行われたのであるか、その理由、原因を〈熟語的なもの〉の運動のうちに捉えようとする。例で云えば、「消なば消ぬかに(べく)」「おひばおふるかに」「言えばえに(言えば言ひえに)」、その他の表現類型である。
 さいしょに注意すべきことが二つある。ひとつは、これらの類型は〈散文〉ではなく〈律文〉において見出されること、であり、そこには未だ〈散文〉が未成熟であった表現形態の古層が前提されている。ふたつには、これらの類型は文献の中から極めて僅かにしか発見されない、いわば〈除外例〉に近いものであるが、たとえば万葉期における歌の制作が、実際には、収録されたものの幾万倍に及ぶ、という事実から類推して、ひとつの〈通例〉として行われていたものと判断することができる、ということである。(折口は、あらゆる「国語」に関して例外なるものをみとめない――というより、現存除外例を解読することで、むしろありうべき「国語」の全体を把えようとするのである。)
 以下、簡略に、「副詞表情」の経過を記す。

 副詞表情において、〈熟語的なもの〉は、ある副詞句の背後に、呼応の条件の構成をとる文章形式を前提する、という形において現れている。云い換えれば、この呼応の条件の構成が縮小し、省略されていった過程に〈副詞表情の発生〉をみとめるのである。
 まず呼応の複雑な文章形式を構成する「熟語」があり、それは同時にかならず踏襲される〈習熟句〉でもある。呼応の文はこのばあい、多くある特定の対象をもっている。「消なば消ぬべく(かに)」の例で云えば、それは、「天象」の類型であり、「露」「雪」(とりわけて「露」)などである。(消なば消ぬかに…露)この形は反復されるうち、内容を拡げて、他の、例えば同じ「天象」である「霧」や「霜」等にも自由にかかってゆくようになる。
 ここで注意すべきことは、〈熟語〉→〈習熟句〉の形が、〈叙述〉にあたっては文の類型であると同時に心的な内容の類型(表現類型)でもある、といった程の性格を含むということである。そのため、やがて〈熟語的なもの〉が省略・縮小・解体といった過程にのぞむとき、(「消なば消ぬかに」→「消ぬべく」→「かに」「べく」)その省略され「固定断片化」(P108)した形は、ある心的な機制に促されて(「其気分的欠陥を補ふ為に」(P124)、「原型」の内容や指向に関連のある修辞をその上にいくたびも重ねるのである。例で云えば、「消ぬべく」だけで「零雪虚空(フルユキノソラニ)」「天きらし零来雪之(フリクルユキノ)」「鴨草之日斜共(ツキクサノヒタクルナベニ)」等を受けるといった、云わば「頭勝ちの句、文」(P360)の傾向を見せはじめる。これを「歌」の構造について考えれば、第一句から第四句までを長い「序歌」のように仕立て、「消ぬべく」あるいは「かに」という固定断片化した句でもって、そこから上を一挙に「副詞句」にしてしまう、といった形にまで進むのである。
「副詞」の原型は、少くともこのような過程を踏まえて出てきたものであることは注目される。そこでは、表現技巧(テクニック)の、〈叙述〉の空間における変化(変形)自体が、「感情論理の展開」、および「歴史の徐々たる『にじり歩み』」(P103)を表わすのである。やがて、〈副詞的なもの〉は、原型的な「心の対象」とも云うべきものを捨ててゆき、「心の方向」だけを有するようになる。これは、「熟語」の固定断片化が自らの過程をつきつめていった果ての形であると解される。固定断片化した句は、そこで、特定の対象をもたず、その文法的な職分は、云わば一文の全体にかかってゆくようになる。おそらく、この「心の方向」に関してのつよい関係意識だけが残されることで、〈副詞的なもの〉は、他方で、〈伝承句〉のたぐい、〈諺〉的なものの、〈叙述〉の空間を能く媒介するような働きをもつに到るのである。(P111以降、「とも」に就いての論述を参照)(折口によれば、それは〈“とも”など〉比喩法における「否定法」の起源をなす。)
 折口は、「副詞」発生の過程を、最後につぎのように概括している。



  …その波のいやしくしくに、わぎも子に恋ひつゝ来れば、あごの海の荒磯の上に、浜菜つむ海部処女(アマヲトメ)等が、纓有領巾文光蟹(ウナゲルヒレモテルカニ)手に纏(マ)ける玉もゆらゝに、白栲の袖ふる見えつ。あひ思ふらしも
 決して、単に纓有領巾文だけを照るかにで受けたのものではなかつた。尠くとも、あごの海以下の句は、最初は詞章を構成する筈であつたのが、卒然として、「かに」によつて、副詞句化せられたのである。かうした長い副詞句が、元は文章であり、又、其が為に、文章的でなければならなかつた為の条件法を具へた副詞句が、次第に単純化せられていつた。さうして「けなばけぬかに」が新しい発想法の上から「けなばけぬべく」と直り、更に「けぬべく」だけで訣る様になり、愈端的に、「露霜」など言ふ所謂序歌的なものを全然ふり落す様になる、さうした径路は、まだ実は半分しか辿りきれて居ないのであつた。(「副詞表情の発生」P124~125)


  
 そして、折口の〈叙述〉に関する何ごとかの主張は、〈副詞的なもの〉に集中的にその経路が示されているように、「言語詞章は、常に複雑から単純に赴く。」(P126)という一貫した論理の展開を、見ることのうちにあったと云える。

 
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宗教・神話・詩論

意味という喩 ――海埜今日子『隣睦』について




 海埜今日子の新詩集『隣睦』(りんぼく)が出た。彼女の作品を詩集として展観するのは実は初めてのことだったが、色んな感想が湧いた。その一部分を、ちょっと書いておきたい。
   一読して抱かされたことは、それは個々に発表された海埜作品を見るときにも感じたことだが、こうして一覧すると、その文体、とでも言おうか、語彙、とでも言おうか、それの実に特徴的な抵抗感である。むろん、詩作品であるから、散文的な明晰をそこに求めるのは当を得たことではないけれど、文脈はまるで踊るように、一直線に進むかと見れば立ち止まり、逡巡するかに見えて反転し去って読者の視界から遠ざかる。
 だけれども、ペースメーカーみたいにリトムを刻み統御するものがあって、抵抗感の拠ってきたるところは、ほんとうは踊るような文脈のつかみ難さと言うよりは、この統御の感じの、透明な隔壁を叩く如きリトムにあるのだと思う。それは粘着語としての日本語に特有の音楽的側面と言っていい。『隣睦』から任意の箇所を引く。(字詰めについては容赦されたい)


こみいった音がかきけされては、しびれをつたうたしかさもまたあったのだと。メモのなかから風がこぼれた。かれらはかれをなんどもむすび、秤のあわいにくずしてゆく。あなたは衣魚をページにもどす、今日のような手つきだった。呼気のはてに夜更けが急いていたのだと、だれでもなさが語りあった。距離のきしみに足拍子。わたしたちはかの女をいない。あなたは「僕」をすれちがった。かけらの後先にふりむく日付。
         (「あなたもまたかの女をいない。」より)


 これを、次のような「文」に対比してみたい思いを私はうまく抑えられない。


ゆめよりもはかなき世のなかをなげきわびつゝあかしくらすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木のしたくらがりもてゆく。築土のうへの草あをやかなるも、ひとはことにめもとゞめぬを、あはれとながむるほどに、ちかき透垣のもとに人のけはひすれば、たれならんとおもふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。
         (『和泉式部日記』冒頭より)


 無謀ということを承知で対比したが、一息で述べる文節の息の長さと「意味」の明晰性について、海埜作品は『和泉式部日記』とは較べられないものの、私たちが感じるこれら二つの「文」の、話者と対象との距離感(滞空時間の感じ、と言い換えてもいいけれど)と、それによって自ずと圧し出されてしまう、等時拍的なまとまりからなる韻律の感じは共通するものがあるかと思う。
 くりたたね、ときはなち、じゅんじゅんと囁く無限旋律には、和泉式部に限らず、たとえば紀貫之の模倣を招くほどにも日本の女にとって(あるいは東北アジアにおける女にとって)特有の理由があるのかも知れない。そういう意味で、この詩集における顕在的なモチーフが何であれ、海埜作品は無数にいたかも知れなかったイエやムラやクニの、少納言たちや式部らの語りの系譜を引くものではないか。ただし彼女は現代のマチの式部ではあるけれど。
 もうひとつ、話者と対象との距離感ということで言えば、彼女に特有の語法というものがある。引用作品に特徴的に現れているが、それはこんなもの。「かれらはかれをなんどもむすび、」「だれでもなさが語りあった。」「わたしたちはかの女をいない。」「あなたは「僕」をすれちがった。」
 たとえば格助詞「を」について広辞苑ではこんなようなことになっている。「対象を示す。他動的意味の動詞と対応して目的格的な働きをするが、奈良・平安時代には自動的意味の動詞や形容詞の前でも使われた。心情・可能の対象を示す「を」は、古くは「が」が一般的であったが、現代語では「人を好き」「故郷を恋しい」「字を書ける」など「を」も広く使われる。」
 海埜作品はさしづめ奈良・平安時代の用法、あるいはその用法を極限にまで押し広げた末、その語法の限界まで「現代的」に破ってしまったというところか。話者は対象にぜったいに触れないまま、対象そのものについて斧を打ち下ろすように「断言」している。「わたしたち」は「かの女」を「いない」のだ。傍目にはけっしてそうは見えないが、こうすることで確かに彼女のうちで終わらせられたり始められたりしているこころの装置がある。しかし、まるごとの「断言」をした結果、誰かが(ひとが、わたしが)血を流すことを絶対的に回避したいというおののきが、文法をおおきく歪め、意味の破綻の寸前で、却って無意識の生命みたいに「詩」をまさぐっているのではないかとも思う。
 対象をまるごと抱きかかえ、抱き締めるそのときに、内在的には絶対的に対象を厭離している、外している。この矛盾のなかで書くとはどういうことか。私の考えでは、そのとき文として顕在している「意味」が歪むのだ(こんなところに彼女の主体としての意外なしたたかさを見る思いがする)。言い方を替えると、このとき顕在している「意味」の歪みというものが、顕在していない一全体のあたかも喩の働きを為すのだ。このため、通常の詩的メタファーとしては拡散した印象があるこの「変な文」、これを逆に言えば、地の文(の意味性)そのものがいつ何処でも詩的メタファーに変わり得るような性格を持っていることがみとめられる。地の文(の意味性)そのものが非顕在のものの現れとして、完結しない喩という、捻れた形をとることになる。この捻れは大抵作品の最後で解決する。日本の詩において長歌のあとに必ず反歌が添えられて完結するように、海埜作品では(ことに成功している場合の多くは)最後に短い過去ないし半過去形の一節が添えられることによって、詩として明快に完結する印象がある。その、長い長い語りの始末をつけるように、あるいはたまさかの、任意の、偶然のうちに終息するかのように(語る時間の消尽、という最も決定的な物語の終わり)。次に引く。


「分岐路に、あなたの息がかさなった。ながい午後が隣にいない。」(「隣睦」最後)
「あなたは坂をおぼえていた。降ってくる、いたはずの場所がうらがえる。しずんだ冬のにおいがした。」(「降るほうへ。」同)
「着込んだふいうちが余白をやぶる。なんどもかわき、またよぎって。わたしはかれにまた出会った。」(「逃げ水」同)
「彼の足取りがにぎやかになり、ぶれない程度に、たぶん女をひきはなす。月は存外明るかった。」(「縫われる月」同)


 成功している作品の場合、だいたいが回帰的な帰結をとることが多いと思う。海埜今日子というひとの成熟して行くひとつの方向が示されているようだ。
 ここで見られるように、変形させられた意味は、非意味、つまりナンセンスなのではない。「歪んだ意味」は非顕在のものの現れとして詩の全体にまで根を張った喩であって、極北まで行くとすれば、その分節(された)そのものに接するだけで、意味を超えた意味とでもいうべき領域の感得にいたるであろう。一全体の分節がすなわちあまたの思考であり、意識であり、さらに言えば音楽であるという。それらは言語という形象を借りることによって、文は限りなく文に似た喩、意味は限りなく意味に似た喩、それどころか、喩も限りなく自らに似た喩であり、こういったことは音楽がある側面で精密な思考にほかならず、人がするあらゆる行動、情意、意識のくまぐまといったものがある一点から先は複雑でしかも蒸発しがちな音楽にほかならない、といったレヴェルの存在にまで繋がって行くものだと思う。ここまで来れば、音楽・文学・絵画・舞踏の別はほとんど無いといっていいだろう。言い換えれば、無のただなかに、形象、という針の先ほどの核を落とすことによって結晶し展開し始めるきらびやかなアラベスク。
 私は、海埜今日子がそこまで行っているとは考えていない。ただ、そこに触れ、そこへ繋がって志向する彼女の詩の性格を言いたいのだ。彼女はそこまで行っていない。けれどもこれからめざすかも知れないし、詩集最終部の「鳥肌の、そのかそけき行く先から、ふかい子どもが帰ってくる。」というように、ついにそこへは行かないのかも知れない。だがしかし、私たちは「その先」へ行ったまま帰ってこなかったひとりの天才が遊んだ、次のような領分を知識としては知っている。この連想はいずれにせよ、海埜今日子という詩人に伝えておくべきだと思った。


          しじま
 活きてきた、     くうかくが 、 煌すみおりする
            ひとり、ひとりの//
    そこ
ゆっとり、と さわゆぎ、ながら
           夜充、おんひつする様へ 流ろう、て
            (山本陽子『遺稿』詩篇より)


「メタ」12号   2005・7月
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Jul 10, 2007

宗教・神話・詩論

「一人で考える」こと――石川和広詩集『野原のデッサン』について

 最近ふとしたきっかけから、メールや郵便物のやり取りなどをするようになった人がいる。大阪は古刹・四天王寺の近くに住まいする石川和広という、若い人だ。若いといっても1974年生まれということだから、1953年生まれの私と比べて大分お若いという表現のほうが相応しいか。その公開したプロフィルにもあるので言ってもいいかと思うし、また彼の詩の根幹に関わることでもあるので言うのだが、彼は精神疾患に悩む人でもある。同時にその病のなかでごくフィジカルに自らを立て直すさい、行われる切実な「思考」が、はからずも今の世界を覆う色んな問題、というよりは私が思うところ今の世界を緊縛している「災厄」と言うしかないことどもと、まともに切り結ぶさまを私たちは目の当たりにすることになる。彼が去年出した処女詩集『野原のデッサン』を通してこのあたりのことを見てゆきたい。ちなみに、いわゆる辞書的な、「修辞論」的な意味では、私の筆がやや甘くなっていることをお断りしておきたい。
 彼が病気であるということを、いわば症状的に明らかに前面に立てたと思しき(まあ、全編がそうだと言えないこともないけれど)、特徴的な詩行がある。

「帰りたくない」と叫ぶと
ヘビみたいな黒くて長いカゲが何百となくぶらさがってきて
目の前がまっくらになりました

気がつくとぼくは寝ていました
お母さんの買ってくれたパジャマを着ていました
だけど変に頭が冷たいのが夢の中と同じでした
暖かい布団にくるまってぼくはひとりだと思いました
               (不法投棄)

死んだ者には顔があるよ
ものの形をしているけれど
ひとの形はしてないよ
グチャグチャなのも
キレイのも
みんなみんな
光るところは光り
影は無に至るまで

                                 (旅[3])

 少し注意しなければならないが、これらは病的な表現、あるいは表現の病なのではない。これらは明確に統御された、「病者の光学」を掌中にした主体による、ある種したたかさをも予感させるような「病の表現」なのだ。病のこちら側も、あちら側も知っているという意味では、皮膜危うい地点につま先立ちしているようだが、病の「こちら側」にいたとしたら、その瞬間には、とてものことにこんなふうに書けるものではない。じぶんの病を静謐なまなざしで照らし出している、もうひとつの冷厳な目があるのだと思う。そこで、完成や洗練をどこかしらで拒んでいる、どこか、いうなれば「収容」されることを拒んで、表現のそこここをわざと舌足らずにしたり、壊したりしている、ひとつの「こだわり」の形をとった倫理性とも言うべきものが明らかに存在している。彼は詩集のあとがきで、この中でのじぶんの詩がいうなれば「呼吸の形をたどっている」のを発見したと書いているが、この壊れたり歪んだり、また突然アリアみたいに清澄に立ち上がる声の数々は、そうした「呼吸」の内実を物語っているのであろう。
 この壊れや歪みが、そのものの有意味性として鮮やかな着地を見せることもあれば、三回転半ジャンプに失敗してアイスリンクにお尻をついてしまうのに似た光景もある。いずれにしても果敢なことをやっているなという印象は、同世代やもっと彼より若い世代の、詩を書く人たちにおうおうにして見られる、破綻それ自体、狂気それ自体が目的となり果てて、世界にも他者にも、それどころか本質的には自分自身にさえ関心を向けない、一部の詩の傾向とは一線を画しているということだけは指摘しておきたい。石川自身にそうした「破綻」や「狂気」があるとしても、それは彼らとはかけちがって、何かしら具体的なものの感じ、手応えがあると言ったらいいか。詩、それ自体が目的の詩などに詩はない。宗教それ自体に向けられた祈りがないように。石川もそのウェブログで言っていたが、私たちは自らが立ち帰り、自らをそこで立て直す場所として、詩を理解していたはずである。彼はあるアンケートの《この世に『詩』がなかったら》という問いに対し、「もしかしたら無くても生きていけるかもしれない。生きている事自体を詩のようにしてしまいたい」と答えている。彼にとってその、つまり詩の現れは、世界(=他者)を含んだじぶんというものの救抜のイメージを伴うように、私には思える。この苦患に満ち、ついに自己崩壊を開始したノモス的世界からの救抜という。

宇宙が
川の底から
たくさんの
見えない電流
僕に
かすかに
あながち
世界は続いたからね

手紙をおくる

誰に

鏡のように
虹に見えたのは
ネオンから
放たれる無数の
悲喜
                                (いいんだ)

しまったな、と
まぶたがつぶやいたら乳白色から
とうめいへと移行するビルを
つきやぶって
完全な朝が歩いてきてわたしのからだに
おおいかぶさった
さああ
                               (夢/全行)

 言葉こそ、歪み、つっかえているが、また一瞥いかにも不格好に見えるが、私はこれらに意外に鮮烈で華麗な、一人の若い「詩人」の誕生を見る思いがある。「いいんだ」で言えば、「鏡のように/虹に見えた」ものが、波浪のような人々の「悲喜」であるところ。唐突な例だが、私はここに、今は筆を折った堀川正美などをはるかに想い起こす。「夢」について言えば、「完全な朝が歩いてきてわたしのからだに/おおいかぶさった」など、方向はいわば逆だが、次のごときアルチュール・ランボーの匂いさえ、ふと感じた。「ぼくは、夏の曙を抱いた。(………)道を登りつめたところの、月桂樹の森の近くまで来て、ぼくはなお幾重ものヴェールごと彼女を包み、彼女の巨大な肉体を微かに感じた。曙と子供は森のすそに倒れ込んだ。」(『イリュミナシオン』中の「曙」〈Aube〉=渋沢孝輔訳)
 こうして見ると、堀川正美やランボーやの、夢見られた言語としての詩(そういうものがあるとして)とは、まったく奇矯ではない、滅裂さの追求が目的などではない、自体としてはごく普通の語彙と文法で書かれた奇跡という印象がある。彼らは世界を破砕したのではない。彼らは壊したのではなく、彼らの言葉(ロゴス)でもって世界を分割したのだ。これは、実に当たり前の話であるべきなのだが。
 石川和広の言葉の壊れや歪みは、彼の世界をそのまま反映したというものでなく、恐らく世界を分割するための予感的な微細動のようなものであろう。そして詩集のページを繰って行くと、思いがけない光景に出くわすことになる。「ぼくのカラダをさがして」を、ここで少し詳しくたどってみたい。
 ある日「ぼく」は、じぶんの胸に穴が空いた実感をまざまざと覚えて慌てるが、胸をどんと叩くと穴は空いていない。次の日は右腕がなくなったので、驚いて119番に電話をかけようとするが、電話を持つ手を見ると右腕である。また次の日はコンビニエンスストアで膝から下の感覚がなくなって、視野が下にさがり、はっきりと膝から下が消えている。パニックに陥って混乱するが、よく見ると膝から下がぼんやりとある。病院に行き、老師みたいな医師と禅の公案のようなやり取りの後、さっぱり分からずに家に帰って半月、ふいに「ぼくの体はここにあるのにぼくのカラダはどこに行っているのだ」という、まるで落語「そこつ長屋」の「抱かれてるのはたしかにおれだけれど、抱いてるおれは、いったいどこのだれなんだろう」という下げに酷似した、「問い」の形をとって落着する(ちなみに、この「問い」やそこつ長屋の下げに見る言説は、現代思想の重要な部分をなす立論に同じといえる)。彼は感覚の錯乱に落ち込んだというよりは、具体性というものを喪ってしまったのだ。そんな日々のなかのある夕暮れ、彼は次のような体験をする。

ある日 夕暮れ川べりを散歩していたら
カン高い女の子の遊ぶ声がひびきました「こっち!」「こっち!」
どこだろう? 少し涙が出ました
                  (ぼくのカラダをさがして)

 はなしを大げさにするつもりはないが、私はこの「声」に、アウグスティヌスがキリスト教へと回心するきっかけとなった「声」と同質のものを感じるのである。それまでマニ教徒であった三十二歳のアウグスティヌスはある日、キリスト教徒の友との改宗をめぐる対論の後、混乱した心を抱えて家の近くのイチジクの木の下まで行ったとき、隣家の子供の「取って、読め」「取って、読め」(Tolle, lege.)という、うたうような声を聞く。彼はそのあと部屋に戻ってパウロの書を「取って、読む」のだが、重要なのはこのときアウグスティヌスが言いようのない平安と光明を覚えたことだと思う。キリスト教であるかどうか、ということでさえ、あまり重要なことではないと、暴論のようだが言ってしまえると私は考えている。ブッダのニルヴァーナや、修行中、箒に当たった石が飛んで火を発したことで頓悟した禅僧の話や、またゴゼや盲僧語りの数々における口舌に、死者や英雄や神の声を親密な倍音のように聞き取ること、ほか、数え上げれば切りがあるまい。誰にでもではないが、ときおり人にやって来ることのある、このアンティームな訪れ。一方では宗教体験であるけれど、他方では世界を分割する契機、哲学とも詩的体験とも括れないような神話的で不思議な時間であろうものに、彼は、石川和広は、確かにこの夕暮れ、出会っていたのである。

悟りきったように
雨だった
鉄錆のトタン屋根血のように
濁った生を洗い流した素直に生きることを
問う
あなたには力なく頭を下げた
ぼくは限りなく人を差別する
よく見ると晴れていたあまたの神が口の端に笑みを残し
空にたくさん浮いていた
                      (天候/全行)

 「あなたには力なく頭を下げた/ぼくは限りなく人を差別する」という二行に胸を衝かれる。宗教的なものに通じるようにも感じるが、実は宗教や倫理の成立そのものの根幹に関わる海深を窺わせる。ここにあるのは恐らくキリスト教的な愛や原罪感ではない。ノーマライゼーションが一種の尖端思想の様相を帯びてきた現在、愛ではなく、すべての絶対性を撥無しながら、かついかなる否定性でもない「無」という考えがにわかに重みを増していると思う。いま世界を覆っている災厄のみなもとは、父性的なものの喪失ではなく、母性的なものの危機にあるのだと私は考えている。石川はホームヘルパー二級の資格を持っていて、発病以前は福祉関係の職に就いていたという。そこにこころざしも手応えも感じていたという。病気によってそれは断念せざるを得なかったけれど。そんなこころざしを持つ、しかも自ら「障害者」となる命運を負わされたひとつの鋭い稟質が、否も応もなく透視してしまう眩むばかりの深淵を、私は思ってみる。まことに「一人で考えるのは/やさしいことじゃない」(空と犬と)のだ。「あなたには力なく頭を下げた/ぼくは限りなく人を差別する」。この二行はそんな深みから発せられた、痛烈で美しい歌といえるのではないか。


「メタ」十六号 2006・5月
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宗教・神話・詩論

小さな演奏会 ――「大和千賀子&小田求コンサート」について


 三月三日上巳の夜、その日はちぎれ雲のあいだからふいに太陽が輝いたり、冷たい突風が吹いたり、西の空が異様に暗くなったかと思えば烈しい驟雨がアスファルトを叩きつけたりなどしたのだが、日が没してから漸く収まり、妻がその彼女の子どもの時にピアノのレッスンをつけたという、今ではもう立派な声楽家となっている女性の主宰する小さなコンサートに行ってきた。会場は、ティアラこうとう小ホール。
 結論めいたことを先に言っておけば、ライブの音楽鑑賞とはつくづく、芸能体験なのだということだった。これは私のような、レコードや放送を通して音楽の世界に目覚めた、といった世代の人間にとっては新鮮な感覚である。じっさいにそののち、何かの機会にジャズライブや演奏会のたぐいに足を運ばせることがあっても、鑑賞態度というかなんというか、私たちのその姿勢にはなにかしら(じっさいに目の前でやっているのに)放送やレコード等再生機の皮膜を通して音や映像を感覚しているに似たみたいなところがあったのではないか。どこか素直でないといったふうな。直接に見ようとし、聞こうとしなければ、いまこの目の前で現実に生起していることどもであってさえ、絶対に見えないし、聞こえてもこないものなのだ。
 芸能体験とは、オペラを始めとしてガムラン体験やロックのライブはもちろん、日本で言えば歌舞伎や文楽を見ることに類し、宝塚、美空ひばりや北島三郎の座長公演を見ることをも意味し、また能楽や流鏑馬に立ち会い、鎮魂の叙事詩としての浪曲、また平家語りを拝聴すること、田遊びの神事に臨場すること等も意味している。演歌で三十年四十年、一番を張っている歌い手には、生では恐らくテレビで観る以上の迫力ある存在感が男女を問わず湛えられているのであり、そうした人間が嘯く小節[こぶし]を間近で聞いてみたいと心から思う。人目に晒されればおのずと付いてくる浮気な派手さとは別の、たぶん「異常な」要素が彼ら彼女ら本物にはあるのだと考える。楽屋落ちの刻薄なおはしゃぎで公共の電波を独占している塩化ビニールみたいなタレントたちと、「芸能者」はちがうのだ。
 そんなことを思ったのも、ことは以上述べた如き大仰さとは趣を異にするけれど、大和千賀子さんという個性に、ある種の濃やかな芸能性、その源泉となっているある種の憑依の素質体質を感じたからだ。舞台の板の上に立つという意味では、彼女に限らず、どんなに偉大なあるいはどんなに無名の、だけれども一晩聴衆を沈思させたことのある歌手であるならば誰にでも、この憑依は訪れているに相違なく、歌手も聴衆もこの憑依の到来をほとんど動物的な感覚の深さ鋭さで同時に嗅ぎ分けて、一夜の舞台の成否を瞬時に判断するのだろう。その到来の感じを言い換えて、一夜の夢を見たとひとは言うのだ。
 舞台は2部に分かたれ、1部は(このコンサートの副題「美味しい曲のア・ラ・カルト」に倣えば)いわばアントレないしアンティパスト・ミスト、2部はメインディッシュであるセコンド・ピアットというところか。さまざまな独立した歌曲から成る1部は大石綾乃さんという伴奏者によるピアノ独奏も交えて(この演奏が面白かった。こんなシャープな遺作のノクターンを聴いたのは初めてで、ちょっとびっくりした)、まさに酒肴[おつまみ]といっていいのに対し、2部はア・ラ・カルトとは銘打つものの、コース料理の一部をそのまま抜き取って持ってきたみたいな、オペラとオペレッタのなかの存在感ある詠唱群である。
 1部冒頭のフォーレは大和と小田求さんが声を合わせるかたちのものだが、ちょっと硬かった。男声のほうはキーが低いせいなのか、高いせいなのか、シロウトの耳にはよく分からなかったけれど、ほんの少し音程が不安定で、特に彼が学んできたとプログラムにあるベルカント唱法が存分に生かされていないような気がした。だけれども、あとになるにつれて、つまり舞台が練れて来、熱くなるにつれてこの問題は解消されてゆく。そして声はふたりとも、凄く大きい。ときどき耳の奥が痒くなるほどに。
 次の、同じ詩に中田喜直と別宮貞雄の二人の作曲家が別々にメロディをつけたという、そしてそれを大和と小田がそれぞれに歌うかたちの「さくら横ちょう」は、ある意味音楽とは別の私の専門分野(?)からの視点で見て面白かった。詩の作者は加藤周一で、この作品はマチネ・ポエティクのものだという。詩史論的な意味では無残かつ非道なまでの悪評を蒙っている、中村真一郎や福永武彦らの日本語による、敗戦期を挟んだ数年間の韻文詩運動(日本語でおこなう詩に、シラブル数の規定や押韻・脚韻といった西欧詩の有する音楽性を持ち込もうという試み)「マチネ・ポエティク」の仲間に加藤周一がいたとは(また詩人だったことがあるとは)まことに赤い恥ながら今さらに知って驚いたのだけれど、この(二つの)曲のどちらかというとリズムをあまり感じさせない、誤解を恐れずに言ってしまえばレチタティーヴォ的な無調の色合いは(不安な空の色を思わせる)、この当時の若い文学エリートたちを捉えていた前衛的芸術の時空というものがどういう雰囲気を持つものであったか、作曲者も含めそのフリーズされた時間が解凍するさまを如実に見る気がして、貴重な体験をさせてもらった。
 このあと、大和の歌うグリーグの「遅い春に」を聴いていて、普段なら首っ引きのはずの訳詞カードを、さして重要視していない自分に気づきほんのわずか動揺した。詞は歌の、メロディを別とすれば最大の構成要素のはずなのに。ちらっとそこに目を落としていくつかの言葉、例えば「春が私の方へ 運んでくれたすべてのもの/そして 私が摘んだ花/それは 父祖の霊だと私は信じた」など、その零れてくる光の世界をカーテンの隙間から窺うみたいなわずかな仕種で、すべてを理解できるような気持ちがした。要するに大和の声で胸がいっぱいになったのである。いわゆる国民楽派といわれるグリーグ作曲のこの歌曲は、歌詞が「ブークモール語」というデンマーク語系の土着の言語で書かれているそうだが、その歌詞の具体性は翻訳されたいちいちの日本語の中にあるのではないと感じた。どんなに精妙に訳出しても、ここに出てくるノルウェーの「笛」や「常緑樹」や「ウワミズザクラ」とは何か、絶対に了解不能のところがある。文化が違い、当然それに対する日常の感覚も違うのだから。大和の歌はそれが例えば英語にしたら、日本語にしたら「何」であるかという、共通性という抽象に向かわず、その一つ一つがそれ自体としてただ「有る」ものであるということをつぶ立てて、いってみれば「記号言語(signe)とは違った音楽という言語」の具体性でもって現前させた。意味は辞書的にはまったく分からないけれど、グリーグや国民楽派とされる音楽者たちの理念(神話に通ずる)、実はナショナリズムをさえ超出したところをめざすその理念のようなものを遥かに想起するようだったのは、西欧伝統のものとは微妙に異質な和音やメロディ進行のほかに、大和の歌いの巫女的な側面が翳を落としていたせいもあるだろうと思う。この選曲で、彼女がじぶんの資質の傾向をよく自覚していることが知られよう。
 2部は冒頭の小田による歌劇『カルメン』中のアリア「花の歌」がよかった。中肉中背の若い小田の白面に、無謀で直情径行、野卑ではないけれど猛々しい、ドン=ホセという青年の面貌がふとよぎったようで、体格さえもくろぐろと大きく見え、その愚かしさと、愚かしさゆえのけだかさとが背理ではなく、アマルガムのように共在する輝かしさを明快に歌いきった。彼のベルカントを私はここではっきりと確認したわけだ。フランスにとってのスペイン、またビゼーにおけるメリメの意味するところを考えて、私は密かにうなる思いである。
  この『カルメン』と、オペレッタ『こうもり』中の詠唱群から2部の全体が構成されているけれど、大和はこの2部で、ホセの若い許嫁ミカエラ(『カルメン』)、浮気者の亭主アイゼンシュタインを持つロザリンデ(『こうもり』)、ロザリンデ扮するハンガリーの伯爵夫人をまた演じるなど、私から見るとまさに八面六臂という印象である。イニシアチブをとっているのは大和だが、当然小田のほうも許嫁ミカエラを持つホセ、ハンガリーの伯爵夫人に化けた妻ロザリンデにそうとは知らず言い寄る好色なアイゼンシュタイン、といった役柄を避けがたく割り振られるわけで、舞台の上は男女という、仮の役柄のようにさえ感じられる対照的かつ対称的な魂が、互いに求め合い、反撥し、交錯する、小さくて濃密なコスモスという様相を帯びてくる。
 舞台なので当然、録音録画や編集の手など全く無意味なわけで、私たちがいまこの音楽という名の現場にまさにいる、そのざらざらした現実感の一つともいえるが、ちょっとしたミスや失着に類することもしばしば認められた。しかしそれらの出現を圧倒する瑞々しい感触で、目睫の間、とくに二重唱のそこここに、深い、ほとんど荒々しい甘さ(ドルチェ)ともいうべき極小の天国の顕現(Epiphany)を私は見た。オペラとはこんなに善いものであったかと溜息をつく思いだ。
 舞台上で大和は歌い、笑い、あるいは恐怖に身を震わせ、男の肩にしなだれかかる媚態を見せ、おおきな悲しみに耐え、滑稽に怒り、さいごに羽のような軽さで、じぶんをハンガリーの貴婦人と思い込んでいる男からあっという間に大切な時計を取り上げて舞台上から立ち去る。この瞬間、小ホールにいたすべての聴衆の時間も盗み取られたのだ。ハンガリーの貴婦人を演じているロザリンデに扮している(とみんなが思い込んでいる)、大和千賀子という芸能者のかたちをとって、今夜このホールで嬉遊している、なにものかに。
 柳田國男や折口信夫を通じて知ったのだが、芸能者はしばしば、その聴衆や観衆から彼や彼女が語り演じる物語の主人公と同一視されるということがある。中世の都市や集落を渡り歩いた琵琶法師や八島語りの芸能者は、数百年の過去世に生きた平知盛や九郎判官義経その人として、ほとんど神ともいうべき貴さに耀映しつつこの時ばかりはまざまざと聴き手の前に立っていたのである。卑近な例で心苦しいが、私の母親など、おおむかしテレビの画面で森進一が「命かれても」などを嫋々と歌っているのを見て、こうして流行歌手はいっとき売れては儚く消えてゆくんだねえ、などと言っていたものだが、このころ彼は豪邸に住んでいたはずである。浪曲の森の石松は荒ぶる片目の英雄神の如く死者のなかから呼び出されるし、こまどり姉妹など、極限の貧しさ惨めさを持った出自の連想を離れないことが、成功した芸能人であることの絶対必須の条件と言えるのだ。つまり、私たちが歌手や役者として理解している彼ら彼女らに、歌手や役者以外のディメンションで相会うことは理論的にあり得ない。背後にあるはずの彼らの「ほんとうの姿」を探っても、私たちはそこに何もない空無(neant)をつかむだけである。
 この夜、大和千賀子という人は、妻の教え子と芸能者と、二つの面を併せ持っていたとは私には到底思えない。舞台上の芸能者・大和千賀子の背景には何もない、つまり過去がないという空無ばかり(だから彼女は何にでもなれる。お望みとあれば、男にでさえ)。花束を抱えてにこにこと妻に挨拶するステージ後の千賀子さんは、どう考えてもコンサートを仕切るまでに成長を遂げた、妻のかつての教え子にすぎなかった。芸能者のいる場所は、この世界の外側なのだ。
         
     
初出「メタ十四号」(06/03/12~15)
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宗教・神話・詩論

歎けとて――百人一首の西行


 月花とくれば代名詞みたいにその名が挙げられる西行法師の、その月の歌である百人一首の「歎けとて」の詠は意外に不人気であるようだ。私も、ほかに彼の月の名歌はいくらでもあるだろうに何でよりによってこんな屈折した歌が撰ばれたものかと、長年考えてきたのだが、さいきんそうとも限らないぞと思うようになってきた。現在手軽に入手できる文庫本で、委曲を尽くして格調高さを疑い得ない善本である島津忠夫訳注『百人一首』(角川文庫)によって、ちょっとこの歌を見てみたい。

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

現代語訳・嘆けといって月がもの思いをさせるのであろうか。いやそうではない。それだのに、それを月のせいにして、恋しくなつかしく恨めしくこぼれ落ちるわが涙であることよ。(184頁)

 ちなみに新明解古語辞典の現代語訳では、こうである。

[月は何も嘆けといって物思いをさせるわけではない、それなのに(月を)見るとそのせいで悲しい恋を思い出させられて、涙が落ちることである]

 一首のうちで上の句の反語的な言い掛けが問題なのではない。一首の読みを厄介にしているのはたぶん「かこちがほ」なのだと思う。託ち顔とあてるその言葉は、二様の意味を含んでいて、一つには何かに文字どおりかこつける、ことよせる、口実にするなどの意であり、もう一つは嘆きや恨みを(大声でなく)訴える義がある。どうしてこの二様の義がおなじ言葉の中で分かれているのか、恐らく二つが一つである深い理由が存在するはずであるが、今の私の手には負えない。ただ、西行は明らかにこの二つを一つの言葉のうちに掛詞みたいに使役していて(かこつける・恨み嘆く)、この言葉の読みのいわば匙加減によって、一首がつまらなく見えたり面白く見えたりもするのだろう。
 たぶんこれまでこの歌を私につまらなく見せていたのは、恨み、嘆きに重きを置いた解釈や訳だったのではないかと思う。もっと言えば、西行を単なる多情多恨の感じやすい恋愛詩人という肖像で描出する一連の解釈が、私以外にも無数にいる西行好きからこの歌を遠ざけていたのではないか。問題は「我」が恨み嘆いている相手は「誰」であるのか、ないのか、ということではないか。また、その恨み嘆く感情のよってきたるところは何かと。『千載集』恋の部に「月前恋といふ心をよめる」として見えるこの歌の、いわば難解さともかかわってくるのだが、私の考えでは恐らくそれは都にいる(仮託された)女人の誰それについてではない。そのやってきた感情は女人への恨みつらみではない。この歌ばかりではなく、西行の月花、恋の歌は、実はある宗教感情というべきものに深く関係しているのではないかと私は考えているのだ。
 同じ『百人一首』で島津忠夫氏は、大僧正行尊の吉野大峰山中で得た歌、「諸共に哀と思へ山桜花より外に知人(しるひと)もなし」について《定家が『八代抄』(雑上)に、『金葉集』の詞書を変えて、「修行し侍りける時」とし、この歌と「草のいほをなにつゆけしと思ひけむもらぬいはやも袖はぬれけり」の歌を並べているのも、やはり、これらの歌に宗教的な崇高な感覚を味わっていたものであろう。》と述べている(144頁)。山桜の花に「あはれ」を観ずるのも、もらぬいわやに袖を濡らすのも、何と恋情の表現に近いのだろうかと思う。西行の月花の歌をちょっと引いてみても、この感情(崇高な感覚)の側から見た方が鮮明な像をむすぶような気がしてならない。

かげさえてまことに月のあかきには心も空にうかれてぞすむ
ながむればいなや心の苦しきにいたくなすみそ秋の夜の月
世のうさに一かたならずうかれゆく心さだめよ秋の夜の月
よしの山花をのどかに見ましやはうきがうれしき我が身なりけり
花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ

 宗教的感情をいうのなら仏教のそれとばかりは限定されない。役小角や良弁が山中修行中に覚えたであろう「感情」は仏教以前のものを多分に含んでいたであろうし、またそういう心の古くて巨大な堆積がなければ大きな意味での仏法の東漸はありえなかったはずである。西行の、ここに見られる「(心も空に)うかれゆく心」や「うきがうれしき」我が身、花を見て理由もなく苦しくなる心など、それらに意外に近代的な抒情を発見して驚いてみても空しい気が私にはする。これらは近代的感傷というよりは、むしろ巫祝のトランス状態に近いものがあるのではなかろうか。しばしば忘れられがちな、西行が宗教者であることの側面をもっと重く受け止めるべきかと私は思う。
 無謀を百も承知で現代語訳を試みてみる。以下。

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

試訳・嘆けといって月が人に物思いをさせるということがあろうか。[月に計らいはないのだ]かがやく夜の月にかこつけ誣(し)いるようにしてあふれ出る、わが嘆きの涙よ。


06/04/17
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Jul 08, 2007

宗教・神話・詩論

随筆岸谷散歩朱夏篇
 

   四月が終わるころから本格的な夏の匂いが流れる梅雨の晴れ間、この六月の末にかけて、実に良く歩いている。日によって、うちから見て東北の総持寺方面と、西南に当たる子安台公園の方面と、ふたつに分けて歩いていることになる。きょうは子安台公園のほうに行ってみようかと思う。腹ごしらえは、生麦商店街の中華「自由軒」か、手打ち蕎麦の「味楽」の麺類でたいてい済ます。
 大踏切を渡り、岸谷の商店街に入ると陶器と花を売る小さな店がある。ホテイアオイや金魚なども売るそこで、最近目につくのは水に浸けて青々としたサカキの葉の束である。年の瀬に鳶職などが仮屋を出してユズリハや松や竹を売るのを見ることはあっても、街の花屋などで時季ごとのこういったものを出す光景に、近ごろはとんとお目にかかっていない。そういえば総持寺の大伽藍の前に、昭和四十年代の初めに植樹されたものか、宮様(常陸宮だったか?)お手植えのサカキの大きく育った一対があった。また、生麦ではこのころに巨大な青萱の蛇形が家々を回って雨を乞い、災厄を祓う「蛇も蚊も祭り」(じゃもかもまつり)などあって、この夏の初めは神様関係が何かと忙しいようである。それを見て、なんとなく実朝の歌にこんなのがあったのを思い出した。

 神まつる卯月になれば卯花の憂き言の葉の数やまさらむ  (金槐和歌集巻之上夏部)

 六月は卯月ではないが、陰暦にすると梅雨時の概ねこのあたりのこととしてそれほど非道い間違いとはいえまい。今年はいろんな花の勢いがいい、ということもある。現に岸谷の垣根のあちこちで卯の花はいまを盛りと(だがある意味ひっそりと)咲いている。実朝の云う「憂き言の葉」とは何か。恋か、人間関係か、自らの悲劇的な未来への予感か(卯の花に卯月はもちろん、憂きことや神まつるを掛ける、などは、まことに詠い尽くされた観のある縁語、クリシェであるが)。それらもあるだろう。あるだろうが、そもそもそれら人間感情を本来覆っているもっと根本的なものが、この「歌」という形を通して現れ出ているようにも私には思える。金槐和歌集夏部の、この歌の一つ前は詞書付きのこんな詠だ。

  卯花
 我宿の垣根に咲ける卯の花はうきことしげき世に(こ)そ有けれ

 ごく初学の手習いのようでもある。でも、憂き言の葉の数がまさるといい、うきことしげきといい、何か夏になるに従って深くなりまさる木下闇、はなはだしくなってゆく「うたてきこと」という感じがあって、さすがに歌になっている。『古事記』において「うたてあり」とされたスサノオの振る舞いは、浄められ、祓えられなくてはならなかったのだが、「卯花」の詞書を持つこの歌の、たとえば「世にある」における「世」が有する、実朝にとっての意味ということをやや重く考えたい。
 吉本隆明氏の「制度としての実朝」は、その著『源実朝』(日本詩人選・筑摩書房)における最大の卓見であったが、私の感覚では、詩人としての実朝と、制度としての実朝を峻別するところで何かを見落としてしまうような気配がしてならない。吉本氏によると、制度としての実朝は、同時に祭司としての将軍(祭祀の長者)でもあった。この祭司というものを、あまりおどろおどろしい、昔の米製映画が「インディアン」を描くみたいな、バルバロイな感じで考えるとヘボ筋にはまる。伊豆権現、箱根権現の二所詣で行のなかで数々の名歌をものし(だが、なぜ「名歌」なのか)、鶴岡八幡宮にほぼ月参する。このような行住のなかで、同時に神の言の葉でもある歌が、それら宗教生活的なものと何ら関係がない、とはとても思えない。さまざまな予祝や慎み(ツツミ)、災厄退散の咒法がいとなまれるこの時期、農事にとって先鋭なまでに神聖な卯の花に掛けた「ウキコト」に、実朝個人を超え、かつ祭司としての実朝の孤影に輻輳するモノたちの翳を見ないとしたら、これらの卯の花の歌はまことにありきたりな、月次の歌でしかないのである。この時代、純粋に個人的な詠草というものがあったのかどうか、否、本来「歌」を詠むという行為の本質に、近代的な意味での個人という概念がなじむものなのか、どうか。『サラダ記念日』なんかを思い浮かべてみたとしても、この感慨は変わらない。
 岸谷の商店街から杉山神社の丘を迂回して子安台公園に上がる坂にさしかかる。岸谷小学校へ向かうその坂の植え込みに小笹の群落があって、ことしは一斉に線香花火の火花みたいな黄色い竹の花が咲いた。いまは青い実を結んでいる。ためしに禾(のぎ)を毟って中の小さな胚乳を取り出し、口に含んでみたら青臭い竹の匂いと微かに甘いデンプンの味がした。かつて竹の実は飢饉の際の救荒食だったことがあると聞く。だが花が咲き、実を結ぶことによって、やがてこの群落の全体は枯死することになる。それにしてもイネ科の植物たちの、とくにその花の咲くさまに何と心震えるものがあることか!
 谷あいになっている、猛々しいばかりの濃緑の草木に囲まれた、まさに故園という感じの古い古い児童公園を抜けて、階段を使っていきなり坂の頂上に出、そこからさらに工事中の仮設階段を上って丘のてっぺんに開けた子安台公園に至る。現在、丘の真ん中をぶち貫くトンネル工事をやっていて、著名なここの貝塚などはどうなってしまうのか分からないけれど、丘の中腹にあった「滝坂不動」の湧水はとっくに涸れ、いきおい地中の水脈も変化して、この丘の、恐らく貝塚時代から続く植生も滅んでゆくのは時間の問題だろう。さいしょ工事現場の外壁は、よくある「緑豊かな」蔦の絵が描かれたパネルを用いていたのが、このごろはそれがガーデニング風の明るい色の木柵に変わり、そこにいちめんに吊り下げられたテラコッタの鉢のなかにはまさしく色とりどりの本物の洋花が植わっていて、なんとも癒されたいわれわれの眼と心を癒してくれる。いよいよ深間にはまって足掻いているのだと思った。野蛮とはこういうことを指すのだ。
 しかし展望台のようなその丘に立って、私は驚嘆することになる。そこはタブノキの群生が見られるのだ。それは折口信夫の、かの『古代研究・国文学篇』の口絵の写真に登場する、かつて日本列島の沿岸地帯全体を覆っていた、神の蓬髪を思わせるあの常緑高木である。そのまことにはかない、宝石のような古形の残存がみとめられるのだ。タブノキの葉陰から南に、青い横浜の海が眼に飛び込んでくる。中沢新一氏の『アースダイバー』ではないが、まさにここは彼岸と此岸が接触するというミサキの思想そのものを具現する場所ではないか。貝塚からは人骨も出ることがあると聞くが、そこが現代のような意味でのゴミ捨て場でないことはあきらかである。たぶん新石器人にとって貝塚とは何らかのsaintの思想が交錯する場所であったろうことは疑いない。そして北に眼を転ずると三つの谷と三つの丘が、それぞれミサキの形をとってはっきりと視認できる。それは、杉山神社の丘、北町八幡神社の丘、そして青い大甍が覗く総持寺の丘である。みんな海の方向に突き出ていて、クレバスのように入り組んでいるその谷あいは、そこがまさにかつて狭隘な入江だったことをうかがわせる。私は、この子安台の丘を含むそれぞれの丘の上に立ったことがみんなあるけれど、それぞれが天空に近い感覚にありながら、なぜか井戸の底に居るようなしんとした静けさと落ち着き、心地のよさを覚える。社寺の立地ということに関し、こういう感じはかなり重要な何事かを語っているような気がしてならない。
 起伏の多い土地をすでに二時間あまり歩きつづけている。さすがに疲労を感じてきたので帰り道をたどることにする。鮮魚「魚徳」で買ったマグロの落とし(通常三百円)を提げて、生協までのちょっとしたナワテみたいな裏道を行く。右手には、春先に柔らかい若葉と棘を萌えさせたカラタチが、いまではすっかり濃く青く、硬くなった葉と棘を広げている。ああこれが枳殻垣というものなんだと思った。その葉をちぎって鼻先に持ってくると微かに鋭い柑橘香がたつ。高貴な女人が放つ悋気、とでもいうべきか。猿蓑歌仙における、凡兆句につけた芭蕉の以下の、光源氏の年上の愛人である六条御息所のおもかげを添わせる句は、棘のほか、香りもその重要な要素だったような気がする。暗夜に匂い立つ枳殻邸(六条河原院)の闇の絶え間は、実朝の「憂き」卯月の、ウツギの花の「にほひ」とはちょっと違うのだけれど。


 隣をかりて車引こむ         凡兆
 うき人を枳殻垣よりくゞらせん    芭蕉


                             06/6/21~22
 
初出「メタ17号 2006・6月」
Posted at 19:39 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit

宗教・神話・詩論

岸谷タブノキ始末


 前回の「リタ」に載った岸谷散歩で、近所の子安台公園にタブノキの群生があると書いたが、いささかの訂正をおこないたい。私が群生と見たものはその後のいろんな調べと観察により、タブノキではなく、比較的最近に人の手によって公園樹として植えられた別の木である可能性が高いことが判明した。興奮した私が馬鹿みたいだが、しかし公園から外れた同じ丘の上に明らかなタブノキが一本自生していることから考えて、全くの見当違いというのでもないことも判った。
 事実それどころか今回の岸谷散歩草木虫譜でも書いたように、私の住まいする岸谷のあちこちに(庭木としてさえ!)タブノキの植生は確認できるのだ。葉の形、芽のつき具合、若葉の出方、幹のありさま、実の生りよう、それと葉を千切ったときの芳香と、同定の基準である、葉柄を切断してもう一度傷口同士を接着させたのちに、そっと引き離すと粘液質の糸を引くという観察などから得られた結果である。
 また、かの子安台公園から遠く望んだ総持寺の森は、実際に行ってみると、それこそ古代色ゆたかなこの木のまさに群生林と言っていい。ただし、七堂伽藍のある丘の頂上は徹底して人の手が入っており、下草はきれいに刈られ、植物苑などもあり、もとからある樹木としてはクスノキの大木だけが残されたことが窺え、あとはシイノキやマツ、ここらあたりの他の公園やマンション内の植栽としてよく見る(名前は知らない)樹木がこまやかな手入れの跡を明らかにして植わっている。総持寺が能登の鳳至[ふげし]からここ横浜は鶴見の地に移ってきたのが明治四十四年というから、手入れされた木々は大木に見えて実は百年も閲していないということになり、それ以前、この丘を覆っていたのは一面のタブノキであったと考えられる。
 訂正することがもう一つある。総持寺の大祖堂前に常陸宮お手植えのサカキがあると書いたが、サカキではなくってあれは月桂樹なのだった。お手植えは宮様一人の行跡ではなく、常陸宮妃もお手植えになった、そうした一対であったのだ(これとは別の、迎賓館に当たる堂の前に、高松宮妃お手植えの同じく月桂樹がひともとだけあった)。これにつき、少し気がついたことがある。西欧的「左右」観とはかけ違い、大祖堂に向かって右手に宮妃の樹、左手に宮の樹があるということで、なるほどこれは右大臣ではなく、左大臣のほうに優越を考えることに現れている、極東に位置する島嶼地域の「左右」に関する伝統的なものの考え方に基づいているのだな、と納得させられた。
 七堂伽藍の背後、広大な墓域との境に位置する場所に四方を築地で囲った非公開の、高い格式を思わせる神社様式の建物がある。後醍醐帝を祀ったものだそうで、総持寺は帝の深い帰依を得ていたらしく、その宸筆なども境内の宝物舘に収蔵されている。寺の、東北(鬼門)ではないけれど明らかに北側に位置するこの施設の名は御霊殿と書くが、帝の生涯や行跡、ご気性を思うともしや御霊信仰に関係する「ゴリョウデン」と読むのではないか、と興奮したが、これはごくふつうに「ゴレイデン」と読むそうだ。けだし読み方はゴレイデンであるにせよ、そのような高い霊位を有する施設が寺の鬼門に近い場所を占めている、という事実に変わりはない。


06/10/03
初出「メタ19号」
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