Jul 15, 2007

宗教・神話・詩論

ある暦表のために (抜粋)


第六日

……ひかりによって眼ざめさせられるように、暗がりがはげしく気づかれることもある。そして記憶されうるものはすべて想い出しうるものでなければならない。
(そこで世界は残るのか。)
……否。世界もまた、そこで始めてのように想い出されているのだ。
(そこで世界そのものさえ残されないのであれば、〈わたし〉のうちでさいごまでとどまって、「はたらいて」いるものは何なのか。さらにそのようなはたらきのうちで世界や〈わたし〉の現存はいかなる変化をこうむるのか。)
……このとき世界や〈わたし〉にはいっさいの変化はもたらされない。このような「はたらき」のうちで、すでに改変をこうむるべき現存は揮発させられているのだから。そしてすべてをあげて行われる想起のうちで、〈わたし〉の視るちからだけが想い出されない。それが「はたらき」そのものであるのだから。
(さいごにのこされるものが視覚…であるとすれば、世界は像のうちに想い出されるのか。)
……想い出されるものは絶対に像ではない。はじめから排されている。そして世界が何時も像である訣ではない。
(視覚は、それならば何か。どこに理由をもつのか。)
……じつは視覚とは、それ自体ではどんな限定もうけないものであることによって、いままでもそしてこれからも、あたうかぎり永く延びている単純な端緒、はじまり以外のものではない。視覚がまた想い出されるという事態を描け。その短い転換のうちで〈わたし〉は像をもたず、像の知覚だけをつよく知覚するにちがいない。じつに、現に視うるものを信じないためにはひとつの視力が要ることをおもえ。視力のうちに〈わたし〉が捉えさせられるもの。それは〈わたし〉の所有ではなく、その知覚は何かに似ていたり違っていたりすることはできない。結論。もっとも至近に迫る盲目を、世界…と呼ぶことで、〈わたし〉は視ず、象らず、しかも〈わたし〉が、想い出しうる視野のぜんたいだ。
(このことは明日起こりうることかもしれず、また昨日起こりえたことであるのかも知らぬものであったか。)
……想い出すことが喚び起こしてゆくぜんたいは、あらゆる構成や再構成を排除する、そのような「現在」の実現であるべきだ。そしてそれは、きょうあすを問わず、絶えず生起しつつある世界の意味にむかって投げつけられているべきだ。かつまたそれは、像をへだててではなく、〈わたし〉の視―力を〈つうじて〉行われるべきだ。
(すると、世界を想い出す、とは?)
……世界の意味が知覚にまで迫ることがありうべき事態であり、〈わたし〉に生存の判断をもたらすものであるのなら、そのとき〈わたし〉のぜんたいはもっとも価値的となるはずだ。すなわち〈わたし〉は世界について直接であるはずだ。そのときにはむしろ知覚こそもっとも作用的な間接性となるはずだ。〈わたし〉が世界を生きるのではない。世界が〈わたし〉を生きるのだ。
(想い出す、とは、すると?)
……それが決して対象の無を意味しない、〈非〉対象の部域への、絶えざる生存の接合だ。


詩集「旱魃の想い出から」(1977年刊)の第Ⅱ部、ネット上は非公開部分。
 
Posted at 10:01 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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