Jul 12, 2007

宗教・神話・詩論



荒涼について――関富士子詩集『音の梯子』の二つのキーワード


 2003年の『女―友―達』、2004年の『植物地誌』、そしてことし2005年の『音の梯子』と、関富士子はここ三年立て続けに詩集を刊行してきた。その精力的な書きぶりには感心させられるけれど、詩集としての質においていささかも怯むことのない、その戦闘的ともいえる達成度はさらに私を驚かせて余りあるものがある。
 『女―友―達』においては、「キョウコ」を中心とする詩篇のなかに自らのアドレセンス、その精神的な出自と葛藤を描き出し、『植物地誌』において植物という宇宙(コスモス)のなかに万華鏡みたいに世界という名の小宇宙(ミクロコスモス)が展開するさまを活写した詩人は、『音の梯子』で鎮魂と荒涼という二つがキーワードとなった彼女の現在をつづれ織りのように繰り広げている。
 まず鎮魂という側面から『音の梯子』を見てゆくと、関富士子にとって田村奈津子というひとの存在を外せないことが明瞭になる。2001年の10月に、四十歳という若さで乳癌で亡くなったもうひとりの詩人について、私は多くの知識を持たないが、関富士子のホームページによりいくつかのことを知った。
 詩集はあざみ書房から三冊、『地図からこぼれた庭』(1995)、『虹を飲む日』(1996)、『人体望遠鏡』(1999)があり、藤富保男氏主宰の散文作品の会「COLOUR」に散文詩とも掌篇エッセイともつかない作品を発表していたことなど、である。彼女はユングの唱えるシンクロニシティ(意味のある偶然の一致、虫の知らせに類する)という概念に深い共感を抱き、自然との合一感を、時としてかなり奥深い神秘のごとく感じるような精神的素質を有していたようである。その詩は一面晦渋なところもあるけれど、いま言った彼女の素質を虚心坦懐に受け止めれば、ほんとうは戦慄すべき予言性と透視力をひめたものでもあるのだ。実際、天はこういう人をあまり長い間、地上に置きたがらない。
 『音の梯子』に収められた、田村奈津子の詩の引用を含む作品は三篇だが、より直截に切実に、挽歌と言いうる作品は「神月の出雲へ」である。十月(神無月)に向こう岸に旅立った出雲出自(十月は出雲では神在月)の詩人に向けられたタイトルであろう。このほかにも、作品中にはさまざまに故人が残した詩句、概念、行実などが隠され仕掛けられているようで、あるいは親しかった人にしかわからないところがあるやもしれない。
 葬儀の日のことを関はこんなふうに描き出す。「儀式の日までからだはひどく寒い所に横たわっていて/頬のおそろしい冷たさにわたしはふるえた/(略)/死をこんなに寂しいものと知らなかった」(「神月の出雲へ」より。以下同)
 体温が失せるというのは温度を感じなくなるということではない。それは「おそろしい冷たさ」を有するものなのだ。死は悲しいけれど、我に返って自らの感情を世界の内側に置いて見るとき、それは限りない寂寥の裡にあることがわかる。
 関富士子はまるで怒りに駆られて自身を制御できない人のように以下を書く。「魂のことをわたしは何も知らない見たことも感じたことも/地の上には空があるばかりだ空の上のことを想像できない」このことは却って関が田村奈津子に認めていた「空の上のことを想像」できる素質のことを言っているのではないか。このとき次のような引用が高貴な賜物のように関を慰藉する。「わたしを通過した理由は問わない/流れてゆく贈り物を/ただ感じるだけ」(田村奈津子「風を見る石」)
 こうして関は以下の四行によって、田村奈津子との訣れを明るい無常ともいえる風の中で遂げるのである。「斜めに少しかがむように別れのお辞儀をして/留めようもなく軽がると駅の人ごみへまぎれていく/すそに模様のついた踝までのスカートがふくらんで/逆光のからだが透きとおり風がまっすぐ通りぬけた」
 言うまでもないけれど、軽々と駅の人混みへまぎれてゆく「踝までのスカート」を着けたひとは、関富士子ではない。

 もうひとつ、『音の梯子』をはじめとする関の最近の仕事で、やや際立って私の目を引くのは、荒涼とした世界ともいうべきものへのセンシティブな意識である。この場合荒涼とは精神的な意味でのそれがあるのは勿論のことだが、これらの世界でひしひしと露わにされているのは、もっと皮膚感覚に訴えてくるような、ぞっとするような具体性である。そういう意味で、いままで述べてきた田村奈津子の清潔な悲しみとでも呼べそうな世界とは対極にある世界の事情といえる。
 作品に登場するのは、新聞の折り込みチラシ、空き部屋物件のサッシやトイレの配管の臭い、廃棄物のベッド、姿の見えないホームレスの軍手、ビールの空き缶やペットボトル、汚れた毛布などなど。それらが私たちの日常に「ありふれたもの」であるから具体性なのではない。それらがある「監視」(監視カメラ的なもの)と、徹底的な無視、無関心の謂いであるネグレクトと、さらに言えば人知れぬ悪意に満ちたコンテクストの裡に引き裂かれてあることによる、私たちにもたらされた視覚のまがまがしい輝かしさを具体性といいたいのだ。そしてかくも「ありふれたもの」がそれ自体として独自に取り出され、光被され、私たちを透き間もなく包囲するという事態はけっして幸福なことではないと思う。それは詩としてどうか、ということより、文学作品のなかにさえ、伝票や請求書、名簿、数理の表、計算システムが入り込んできた二十世紀初頭のヨーロッパの、フランツ・カフカが目撃した悪夢と同質のもの、というよりさらに決定的になりつつある事態を彷彿させるのである。
 詩集の最後のほうに置かれた作品「燃やす人」でそれは、こんなふうにはじまる。「ついさっきまで何もなかった/この空き地に立ち止まり川向こうの/トラクターの黄色いボディが日に反射するのを見てから/土手を歩いて川辺を巡りこの空き地に戻ってきた/三十分も経っていない/なのに/そこに火が燃えていて/ベッドが焼けている」(「燃やす人」以下同)それはどこにでもありそうな都市の郊外で繰り広げられる光景だ。それは「わたし」が散歩の途中、それまで無意識であったものからちょっと目を離した隙に起きた出来事だ。こういうことは現代の街の雑踏や駅のホームや白昼のビルの陰で、いつでもあり得ることではないのか。普段は限りない無関心の裡に歩み去ってゆく街のそこここで、ふいに信ずべからざる光景を、私たちは目にしたことがなかったか。あるいは、目にすることを避けたことはなかったか。じっさい最近では街中でどんなに非道い、理不尽な(明らかに犯罪に属する)暴力に出会っても、通行人はおろか、駅の係員や警察官さえ被害者を黙殺するような時代である。
 ベッドはこんなふうに燃えている。「横倒しに焦げた四角い鉄枠に/両端が槍のように尖った背もたれ/四本の鉄製の脚/マットレスは見当たらない/すでに背板や座板は焼け落ちて/灰の塊のあちこちから炎が上がる/顔を近づけると熱気に煽られる/黒い地面の油の臭い/空き地の向こうに農家らしい家屋がある/濃い影のなかに静まりかえって/だれも出てくる気配がない」
 ――「ありふれたもの」の息詰まるような具体性は、こうしてようやく惨劇の様相を呈してくる。「ありふれたもの」は、生活の中で使用され、人間の体型・体臭になずみ、使われつづけている間は何の違和も生ぜしめないが、ひとたび不使用物となると、その人間的なものが占めるウェイトの分だけ、非人間的な部分が(ヒトにとって)過剰・先鋭となるだろう。畢竟、ヒトのために作られたものはヒトが使用を止めたとき、(ヒトもそこに含まれる)世界にとって過剰なものでしかないのだ。この過剰さ、先鋭さはなぜ最近になってから特に際立って感じられるようになったのだろうか。やはりこれは自然と人間を、管理と放任という二項対立の裡でのみ考える、そこからはみ出るものは徹底したネグレクトのもとに置く、という昨今ますます顕著なものとなりつつある世界観が行きついた姿なのだろう。いままではその過剰を処理し解消させていた大元のコミュニティや家の急速な自壊がそれに拍車を掛けている。自然を蒙昧とせず、また自然を制覇できるなどと考えるのではなく、それと取引することを学ぶこと、人間が進歩するものだということを疑ってかかること。まずなによりも田村奈津子が鋭敏に察知していたこういった世界観の過剰さがもたらすものこそ、この作品のなかで、「火葬されるベッド」というイマージュを通して視認された(非)人間世界の喩にほかならないと思う。
 そこで皮膚が焼けただれ、あばらがめくれ、内臓が煙をあげている屍体を見る「かのように」凝視されているのは、単に肉体的な、フィジカルな人間性ではなく(有機体や生体としての「人間」という概念は成り立たない)、ほんとうは肉体そのものもそこに包括されるべきメタ・人間性とでも呼べるものだ。人間性という言葉に語弊があるとするなら、これを神々の殺害と言い換えてもよい。実に、ここいらへんの関富士子の手腕には舌を巻くほかない。「わたし」は誰が、どんな理由で、こんなふうなベッドを燃やすという挙に出たのか想像を巡らす。「たぶん若くはないが屈強な男で」悪意に満ちた分だけ周到で、「ゆっくりと煙草を吸ったあと/燃えさしを投げ入れ」て、油をそそいでおいた廃棄物に火を点けたのかも知れない。「ベッドに寝ていた」のは男の妻か母親で、「長く病んで亡くなったのだ」。「火はいつまでもくすぶっているのに/家からはだれも出てこない」。そして、悪意に満ちて濃い影の家の窓からこちらをうかがっている目。
 「わたし」は自分のおかしな考えに頭を振りながら歩き出す。空き地でただひとつ燃えていたベッドの光景は、ここらあたりから次第にねじれた世界を拡げはじめる。「川を離れて農家の脇道へ曲がる/そこは畑だが/耕されもせず雑草が茂っている/緑に半分埋もれて錆びた金属の物体がある/それはスチールのダイニングチェアだ/クッションは焼け骨格だけが転がっている」そして気がついて「わたし」が見渡すと、畑のあちこちに打ち捨てられている赤茶色の鉄の残骸が次々に目に飛び込んでくる。蔓草を象ったベンチの背もたれと脚。歪んだアルミの窓枠。元は金塗りのテーブルワゴン。そして洗濯機の穴の空いたドラムとそれを回すファン。それら、何だかわけのわからない骨組みだけのたくさんの奇妙な物体が、耕されない畑の向こうまで荒涼とした悪夢みたいに続いている。管理と放任と、そしてネグレクトと悪意との交錯によって、まるで天啓のようにもたらされた世界がここにあるのだ。



「コールサック」52号(2005年8月)初出
Posted at 09:45 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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