Aug 06, 2007

宗教・神話・詩論

華厳の森
     ―田川紀久雄詩集『見果てぬ夢』について

 お見舞いに行ったり電話で話したり、これまでの付き合い方と違ってきた最近になって判ってきたのだが、田川紀久雄さんと私とは、時代は十年ほどかけ違いこそすれ、意外にも同じような地域で少年時代を過ごし、そして彼が川崎の鋼管通り(浜川崎)に移ってきた現在も、鶴見に住まいのある私と似たような土地や町の風土感覚を共有しているといっていいのである。いうなれば「同じ京浜地区の空の下」といった感覚ででもあろうか。
 そしてもうひとつ、「よく判る」こととは軽々に言うべきではないのだが、私も彼と同じ病を病んだことがあるという事実がある。もちろん胃と肺、末期とⅢ期といった具合に、病気の部位もステージも病像も異なりはするし、同じ病でなければ詩集を評することはできないなどと言おうとしているわけでもない。この詩集、『見果てぬ夢』について、当然違う見方も接し方も出来ると思うけれど、その共感覚・共苦についての(生還者たる)私の心のふるえを伝えることは必ずしも無意味なことではないと考えるのだ。いわば、そのように書かれて手渡され、読まれた詩の在り方として。
 詩集には収められていない作品だが、この「操車場」創刊号の彼の詩にこんなくだりがある。

生きている者だけが
影や光を感じ取っているわけではない
この地球のすべての生命体が自覚し合いながら
生きている生命や死者達の魂と呼吸し合っている
一瞬という永遠の無の中ですべてが息づいている
                             (「永遠の都」より)

 素朴な汎自然論なのではない。「一瞬という永遠の無」云々に見られるように、これらは華厳経の世界にかさなる視点と言うべきであり、生死(しようじ)を無礙とする仏説にかようものだと言える。しばしば批判されがちな田川詩の無造作さや現代詩作品としての防備の無頓着さは、彼の作品をつぶさにその既刊詩集から追ってゆくと、このような匕首のように鋭く華麗な詩行を隣に露頭させている、その同じ鉱脈から成っているものであることが知られる。
 そうかと思えば、読者から見ればいきなり最低のポテンシャルに突き落とされる思いがする、こんな詩行もある。

この前のストライプハウスギャラリーでの
あなたの詩語りは素晴らしかった
それなのにお客は誰一人も集まらなかった
そして私の詩語りの時はたった一人のお客であった
                   (「空がある」より/『見果てぬ夢』所収)

 いいところもあれば悪いところもある、といった問題ではない。何か根本から彼の詩を考え直さなくてはならないような気がする。
 ここで田川紀久雄というひとの風貌や生き方、来し方、芸術の愛し方(一般的に言っても彼の描く絵は詩と違い(!)実際に買い手がつくほどのものだ)、その哲学などを思い浮かべるとき、呼応するように立ち上がってくるある人物の記憶がある。
 彼は私よりやはり十ほど年かさで、いわゆる「自由な」生き方をする若者たちの先達のような存在だった。渋谷の町をねじろとし、昼は名曲喫茶、夜になるといちばん安いやきとり屋で芸術論をたたかわせ、年下の友人の住まいの近くにある養鶏場から生きた老鶏を安く買ってきて、アパートの前の路上で首を刎ねてシチューにしたり、その頃はまだ多かった新横浜の田んぼで大泥鰌を捕らえ、泥臭い鍋にして食ったりした。北條民雄やホイットマン、ギンズバーグ、荻原井泉水などが彼の神で、奥多摩で窯をひらき、陶芸家になったが、ずっと苦労を共にしてきた奥さんは二人の子どもを置いて家を出ていった。私の目には彼の姿は当時のヒッピーとも遅れてきたビートニクとも映り、さらに戦前にまでさかのぼる、たとえば種田山頭火のような風狂の系譜に連なるものでもあった。いずれにせよ、その後の彼の声価や風評がどうであれ、同時代人としての六〇年代の対抗文化(カウンターカルチャー)を体現した、私たちの先行者、ないしは併走者だったのだ。
 振り返って田川紀久雄という存在を考えるとき、これは私だけの感じ方かもしれないけれど、彼のうちにこのNという先輩とじつによく似た面影を見てしまう。かの「ストライプハウスギャラリー」云々の無造作なくだりと、同じ作品でいえば、たとえば「花は枯れることを嘆きはしない/風が吹き/種は風に乗って/自由に飛んでゆくだけだ」という、旧約の「雅歌」や『ルバイヤート』の智慧を彷彿させる詩行とは、それほど違った意識で書かれたものでなく、見た目ほどにはそんなに違ったものとはいえない。これを言い換えれば、病者の書『見果てぬ夢』では特にだが、これらはきわめて「自由に」書かれているコトバたちなのではないか。
 当然喩法にやかましい「現代詩」的にいえば、随分つまらなくも古臭くも散文的にも感じられよう詩句は、しかし視点を変えて、死病に罹った自由人が同時に詩人であった場合にものされた書の中のコトバと読み替えるとき、じつに深々としたホリゾントをともなって立ち現れてくる。「現代詩」の多くがそうであるようなひとつの根本的な衰弱とは掛け違った、悩みも苦しみもあるけれど、その死自体さえ嬉遊の様相を帯びた世界が見えてくる。やはり彼は、私の知っているかつてのNというひとがそうであったように、言葉をいじくるエンジニアみたいな詩人ではなく、どんなに世に容れられず、酷評を浴び続けようと、ひとりの自由な芸術家であったのだ。
 そしてひとりの芸術家のコトバとしてこの詩集を見るとき、どちらかというとまず意味をたどろうと真剣になっている自分に気づく。どちらかというと詩的効果という点から「作品」を捉えようとする戦後詩的なものとは範疇を異にした。

限られた生命(いのち)
日々首を締め付けられている気持ちだ
そのことに対して悲しいとも思わない
いや 限られた生命(いのち)だからこそ
一日一日が楽しく生きられる
どんな些細なことでも
すべてを愛おしく思う

薬罐から湯気が出ているのを見ても
眼に映るすべてのものが新鮮に感じられてならない
もし赤ん坊に大人の感覚があったら
いまの私のように生きている一瞬一瞬に驚きを覚えるだろう

限られた生命(いのち)だからこそ
今が永遠に思えてならない
『貝の火』の中で最後に出てくる言葉
《それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ》*
そういままでの人生の中で
今が一番豊饒な時なのかも知れない
                    *『貝の火』宮澤賢治の童話
                                   (「限られた生命」全行)

 詩法的にはどうあれ、私にもこの感覚は痛いほど判る。一瞬と永遠との区別が無く、刻々と新しく、かついつでも劫初が現前するという、この感覚。生死のきわに立ったとき、そこから恐怖という感情が脱落する瞬間がある。このときに虚心坦懐にものごとが見え、すべてが異様に明澄に感じられることがある。その発見を、詩は教典の詩句を日本語に直訳したような文体で綴っている。散文体ではなく、明らかに田川紀久雄の血肉より発する韻律が感じられるのは、この詩に限ったことでなく詩集の全体に及んでいることはいうまでもない。
 私たちは『見果てぬ夢』の一行一行をまず意味的に追い、それから思わぬ嬉遊とも自由ともいうべき詩的効果を受け取る、いくつかの詩の終結部を見ることになる。

多摩川にも多くの鮎が登ってくるようになった
あなたが夕方見舞いに来たら
新橋の近くの佃煮屋から
鮎の甘露煮を買ってきてもらうよう頼もう
まだいくらかは喰い意地があるうちは生きていられる
                             (「鮎の詩」終結部)

来年まだ生きていたら
多摩川添いの桜をあなたと見にゆきたいものだ
そうそうあなたとみた六義園のしだれ桜は見事だった
来年のことを言うと鬼が笑うというから
桜の話はこれでおしまいにしておく
                            (「鬼が笑う」終結部)

東の空が明るいのに
南の空は黒い
いまにも雨が降り雷が鳴りそうだ
見舞いに来てくれたKさんは
きっと途中でずぶ濡れになるだろう
                     (「ずぶ濡れ」全行/詩集終結部作品)

 私ならこれらの「遊び」のある詩の雰囲気になつかしいものを覚える。戦前から戦後のある時期、非モダニズム的なある種の詩人たちの作風に似通う印象がある。井伏鱒二や高見順、宮澤賢治は当然のこと、尾崎方哉や尾形亀之助ほか、著名な詩人やその詩的業績などいまでは忘れられかけている詩人までさまざまだが、戦争詩を書いて吹っ飛んだ詩人もそこまで生きられなかった詩人も、沈黙していた者も、ある意味で共有していた日本的ボヘミアンの系譜をひしひしと感じる。言い換えれば、この『見果てぬ夢』という詩集にはそうした色んな顔たちが、はるかな記憶のようにひしめいている。
 だが自由であり嬉遊とはいえ、その中では堪えがたい歎きが歎きつくされる。死後までの気がかりは「あなた」や「妹」だ。

死は怖くはない
それより私を支えに生きている人のことを思うと
無性に切なく思うだけだ
                        (「充実した日々を送る」より)

 どういうわけだか、いざとなるとこの気持ちが将来されてくるのは誰しものことのようなのだ。そうだ、死は、私ひとりの死は、決して怖いものではない。仏説にも愛別離苦を八苦の一とするように、残された者のことがすさまじいまでの悲しみとなって頻りに思われてならないのだ。これは、生命が減衰するにせよ横溢して恢復するにせよ、病が終結に向かうに従い、いずれ逓減し、消滅の時を迎える。だが、その根本的な現実が現前しない中空のうちは、深い痛みとなって病者を苦しめる。

老子の教えの「道(タオ)」も
法華経の教えの「さとり」も
死を前にしている今の私にとって
生きる糧とはならない
私は救われたいと祈ってはいない
                           (「何もいらない」より)

 少なくとも田川紀久雄という詩人は、病者は、やって来る心の苦患も躰の(まことにフィジカルな)苦痛も、そのすべてから身を逸らそうとはしない。事実、私はやめたほうがいいと言ったのだが、一日、薬を飲まずどこまで自分が耐えられるか、肉体的な痛みに向き合ったということがあるそうだ。肉体の苦痛は心を蝕むゆえに、私は何の役にも立たないと考えるのだが、おそらく少年のような新鮮な興味をもって彼はそのことに臨んだのだと思う。そういうことと考え合わせるとき、いま引用したこの詩句は、苦悩は苦悩として、しかしまったく絶望の表現ではないことがわかるし、その世界は重くない。彼は愚痴と不平の多い天使みたいに、軽く、自由で、その業(ごう)が「並大抵のものではない」(「償い」)ぶんだけ、却ってその霊位は高いだろう。次の詩を見てみるがいい。その愛別離苦の苦しみも、浸潤の恐怖も、ししむらの痛みからはじまる絶望的な世界観からも、ほとんど独力で脱し得ているではないか。書かれたコトバののちに、同じ苦しみは、慣れ親しんだ心拍のように、夕闇のように、繰り返しまたおとずれるとしても。

胃のあたりが痛むのですが
これはもう死ぬまで直らない症状でしょう
死に際には誰でも激痛で死ぬと聞いています
胃の痛みとは反対に頭はとても爽やかです
病院の窓から街路樹の銀杏の葉の揺らぐ音が聞こえてくると
ああ世の中は幸せなのだなとつくづく思うのです
とはいえ妹やあなたのことを思うと
やはり生きて行く人達は
つねに重荷を背負って生きてゆくしかないのだと思ってしまいます
私の心はこんなに落ち着いているのに
あなたの心は嵐を迎える前夜のような気持ちなのですね
                              (「痛む胃」全行)

 この詩から宮澤賢治の詩「眼にて云ふ」の影響を云々するのはたやすいけれど、私なら賢治もやっぱり同じような心持ちであったのだな、という解釈に傾く。妹や「あなた」への憂苦は、先にも述べた肉体や生命の減衰にともなって漸増する、ひとつの悲というか、大いなるやさしさのうちに解けてゆくようだ。こうして、「己がままならざるもの」は出現して、無数の田川紀久雄とその家族を、このたったいまも、包摂している気がする。
 「好きなように生きてきた」と、彼・田川紀久雄は言う。詩を書く者としての業の深さは彼と選ぶところのない私は、どこか彼に風狂者、かつてのカウンターカルチャー・ムーブメントの具現者たちの匂いを感じてたじろぐことがある。私と彼とは異なるが、彼はいつまでも私のなつかしい先行者、何かに対して必死でたたかい続けてきた同志なのだ。永遠の華厳の森にいる痩せた聖者のような。


「操車場」3号(2007・8月)掲載
Posted at 19:23 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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