Sep 13, 2006

詩のことばの外なるもの -竹内敏喜『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』-

竹内さんの新詩集を読んでいました。

詩と、生きることが、直結している詩人ほど
詩のことばとされているものの外側へ
じぶんの詩がふくらんでいくんだな と感じました。

詩を成す姿のうつくしい詩集だ とそう感じます。

竹内敏喜『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎)


以下に二篇から、引用してみます。


きみのママは妊娠中
その腹には赤ン坊がねむっており
文字よりもふしぎな

あかるい愛のひろがりを
「あかちゃん」ときみに伝えれば
自分のお腹をなでさすり

「かちゃん、かちゃん」と
ささやくようにくりかえしている
ふくらむ夢を指さすように

(「二歳児の指」より)



二歳の子が、母のお腹に赤ちゃんのいることを、じぶんなりにわかっていくようすを描くこと。
詩集全体としてみたときは、この詩が、希望として置かれているように感じます。

が、この詩集は、こうした平明な詩だけで成ってはいません。
以下のような詩も収められています。


ジャクリーヌの演奏を聴きながら
ケースの蓋を新しいものに取りかえていると
そちらも吹っ飛ぶように破片となった
以前にも、そんなことがあった
おもいだすのは六歳のころ
親類一同で近郊の山にキャンピングしたときのことだ

ちいさな妹まで魚を釣りあげたのに
最後まで一匹もかからなかった苛立ちからか
ウッと頭に血がのぼった、瞬間
竿が手元からめきめきと壊れていった
その残骸をにぎりしめながら
自分を、かぎりなく惨めにかんじていた

あの感覚が、ジャッキーの倍音の(きしみ)に重なっていく…
「私が、私をみる神の視点をもって隣人をみるとき
隣人の中に、神にとっての私の姿がみえてくる」
「そんな場合の私にとっての隣人が、すなわち対象aである」
「隣人の中に、対象aが触知されるとき
それは私自身が神の目をもって、私をみているということ」

ジャックの、対象a
普遍の目によってみられる比率
それが神にとっての私の姿、と捉えられたとき
理性と呼ばれるものに変質し
この理性の、普遍性をもとにして
あらゆる普遍的性質を集合させた(彼)をうみだす

(「うめき、きしみ」より)




ジャクリーヌ(ジャッキー)とは、チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレ、
そしてジャックとは、哲学者ジャック・ラカンのことを指しています。

二人の名前の響きが符合するのを連想の橋渡しにするように、
その日入手したジャクリーヌのCDから、家族との思い出へ、
そしてジャック・ラカンの理論へと展開していきます。

「ジャクリーヌの倍音の(きしみ)」に耳を寄せながら
CDの蓋、竿の損壊というできごとをみるじぶんの視点に
「私が、私をみる神の視点」を思いうかべてしまう詩人(話者)。

そしてラカンの「対象a」の話へ、
さらに「彼」(神・キリスト)の話へ、飛躍していきます。

「詩と、生きることが、直結している詩人ほど
詩のことばとされているものの外側へ
じぶんの詩がふくらんでいく」と先述しましたが、
それを感じるのは、こうした連想と飛躍の箇所にです。

この詩集には、「二歳児の指」のような詩がほかにも数篇入っているのですが
また、この「うめき、きしみ」のように、詩に色濃く、他の人物の
理論なりエピソードなりが挿入される書き方の詩も収められています。

神やキリストの話へと飛躍するのは、
ただ信仰心からなのでしょうか。

そうした面もあるのかもしれませんが、この詩集に入っている他の詩に、
“日本の八百万の神様が、神無月にじぶんの六畳間に集合する”という
詩があることを考えると、キリストへの傾倒や神への信仰心の表れとだけ
みるのは違うのでは(そうではないのでは)とみえます。

では、こうした流れは何でしょう。
なぜ、神への言及をするのでしょう。

そうしたことを疑問に思いながら読みました。
神をめぐる詩と、二歳児の姪にかんする詩が並置されているところから
意味合いがうまれてきそうに読めます。

それを、詩でなされる祈りだ、というふうに読めるようにも思います。

詩の書きよう、という話でいうなら
先に挙げた「二歳児の指」と比べると、
詩の展開の飛躍がおおきい点もさることながら、
内容の難しさという点にもっとも違いを感じます。

ラカンの理論をぼくは知りません。
では、知らないでこの詩の、ラカンの話が出てくる部分がわかるか、
といえば、わからない、ということになります。

書き手も、ラカンの理論を知らない人がいることは
もちろん承知のうえのこととおもいます。
それでも、かなり剥き出しのかたちでラカンの理論の一端を登場させています。

とすると、この詩は予備知識を前提にする詩になりますが
なぜこうしたものをも、含ませたのでしょう。

いまの世界にまなざしを向けるときに、
そうした表現を採らざるをえなかったものが
この詩人の内実にあったからではないでしょうか。

それは、かならずしも好ましいとはいえない世界の現状
(そう詩人が認識していることは「遠近」「徳利」などの詩に如実です)に
まなざしを向けたとき、そうした世界をとらえるためのものさしとして、
ラカンが用いられており、またラカンの切り口で問題をふまえよう、と
その詩で、そのとき、詩人は感じたのではないでしょうか。
(そうした書き進め方を、詩というジャンルでする、ということが
この詩人の個性ということなのかもしれません)

ラカン、マルクス、ジョン・レノンが、
「ジャック」、「カール」、「J」として現れます。
たとえば「ラカン」と書かず「ジャック」と書き表すところに
詩人がどのように、詩に人物を置こうとしているかがみえます。
詩人にとっては、彼らは慣れ親しんだ人物であり、
そうした彼らとの対話が、詩人のこころのうちで絶えずなされていることを
うかがわせます。
あたかも隣人のように、詩に彼らを置こうとしているようです。
彼らの営為を、いまの世界をはかるものさしとして、
すでに人々のための所与のものさしになっているものとして、
詩人は彼らの贈り物(歌なり理論なり)を、詩に登場させるのです。
それは、いまの世界に拮抗するための、人が人に残した知恵として。

ラカンの対象aについて語られた詩行で、
その正確な意味を追うことをぼくはできません。

ただ、詩にとって、わかる/わからないが最重要ではない、というのが
ぼくのスタンスとしてあります。
「わかるべき意味」を伝えるなら、ふつうの文章(散文)でじゅうぶんなわけですから。

その詩で伝えようとしているすべてを受け取ることはできずとも
その詩を読んでどう感じたか、それを受け止めることはできると思います。

この詩集を読んだときに感じたのは、
散文で伝えるほうがよりわかりやすいであろうと思われるような
ラカンやマルクスにかんする連想や示唆、理論の一端を詩として書き表して、
詩とは何か、詩という器に何を盛れるか、詩は祈りの役割を担えるか、
といった問いを自身に向ける詩人の真摯さでした。

難解な理論を、詩に直接書き入れると、詩としてのバランスは揺らぐほうに振れます。
それをあえてしているのは、書き手が、詩を、じぶんの思いめぐらせる内面そのものとして
うみだしているからであるように感じられるのです。
(内面のみとして書いているわけでは決してないと思いますが)

詩のまとまり、バランス、詩を整えるといった
いっさいの体裁をかなぐり捨ててでも、
いま目の前にある世界をふまえるのだ、
ふまえたうえで、なお悲観を超えて、
あたらしい生命とともに、その生命のまなざしが宿す“きよめていくもの”に
寄り添うことをしたいのだ、としている書き手の意志を感じるのです。

この詩集は、詩の内側で生きようとしているかのような、
竹内敏喜の詩、それを裏打つ詩論の現時点でのきわみに違いないと、
読後に、痛切な祈りのありようをひしと感じました。



2006/8/23-25



(追補)

 竹内さんの詩に対してなにかを言おうと思ったら、「祈り」ということに触れないと
いけないのかもしれません。祈りにとって、詩とは何か? ということについて。

 現代詩手帖の今年の6月号で、竹内さんは渡辺めぐみさんの詩集『光の果て』に寄せて、
こんなことを書いています。

 「例えば「祈り」とは、境界を知ったことへの困惑を隠蔽する仮面だと考えても良い」
「本来なら仮面は、語り手を支えつつ、空間を演じる根拠となるものだが、作者が仮面に
憑かれてしまうと、作品はあるべき文脈から外れていく」

 これらは、詩にとって、祈りとは何か? という問題意識から出てきたものとして
ぼくは読みました。祈りは、詩の装置であるか。詩を、祈りの装置とすることは、詩は
表現ではないの例の立場と衝突するものかも知れないけれど、詩を突き詰めたとき祈りの
様相を呈するということもありえるという見方も可能です。

 この点については、竹内さんの詩集一冊で語るものではなく、これまでの彼の仕事を
とおして、あるいは今の詩作にまでつうじて、みたいと思っています。まだぼくの手に
あまる、テーマです。
Posted at 00:28 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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