Dec 16, 2007

貞久秀紀「小石の歌」を拝読して

先日、インスタレーションポエトリーマガジン【鶴亀】1号(発行人:
武内健二郎)という詩誌を拝読する機会に恵まれました。

巻頭に、ゲストとして貞久さんが寄稿なさった詩「小石の歌」が掲載され
ています。

そこには、あたらしい貞久秀紀の詩の世界がみちみちているように、私に
は感じられました。

独特のことばのあやなしに、ていねいな撚りをかけたような、1行1行のそ
のすすみに、あるひらけたあかるみをみつけ、そのあかるみと未明のはざ
かいをわけへだてるものの、なにかをさぐりあてながら、いいあてようと
せず、未明を未明のままにほうり送る仕上げに。

この詩について考えることをだけして、この年末年始はよゆうをもって過
ごせそうです。詩について、かんがえるともなくすごすなか、ここまでの
半年、ひとつの俳句がつねにあたまにあったように、この詩ひとつのなか
に、私のいまふれたいと感じるさまざまな詩のことごとが入っているよう
に感じられてうれしいのです。

詩の後半を以下に引用します。


 なじみあるこの場がつき当たりのようにあかるく、どこかべつの
ところにみえるのは、目にするものが目にするさなかにも、

 うろ覚えにあるからと、ある日ひとりの子が声のでるままにきて
金網のもとに石を並べ、いまひとりの子がいてともに並べる。

 照りわたる地べたをおとなしく、おのおの拾い歩きで生きてゆく
のにつれて、いびつに円く、途中のように。


                (貞久秀紀「小石の歌」部分)
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Apr 18, 2007

桜 2007

sakura2007
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Nov 10, 2006

詩こころの歩行 -高田昭子『空白期』-

 あるこころの道程をことばにした、そんな印象のある詩集です。
 ここに収められている詩は、春夏秋冬の順に情景を進めていくのでよけいに、進
行形のこころの歩む様をみるように感じるのかもしれません。

 冒頭の「春-叙情」から「みみ-こころ-からだ」までは、春の訪れになぞらえて、
こころの開放が歌われていくように受けとれます。

  遠いものばかり待っているので
  感受性の先端が
  いつもつめたくて
  つまさきだっている
          (「春-叙情」第一連)

に表わされる、外界との接触に神経を研ぎ澄ませているような様子から、

  いつでも目覚め方が下手なたまごは
  脇腹の温みで孵化して
  小鳥になったり 亀になったり
  とりあえずなにかのからだになって
  唄ったり 歩いたり 飛んだり
  ルルルルル ルルルルル ルルル
          (「みみ-こころ-からだ」最終連)

といった開放的な状態へと、ひらいていくようです。

 そして次の詩「水無月」から、外の世界と接して生じる心象がさまざまに表れて
いく、というように映りました。
 「水無月」のなかの、この連が好きです。

  夜更けの駅に降り立つと
  そこは深く蒼い河
  塒はその向こう側
  わたくしは鳥ではありません。
          (「水無月」より)

 河にひたっている夜更けの駅のホームに降りて、飛べるわけではない自分が、帰
る家を河の向こうに見ている、そんな気持ちで真夜中の駅に降りたことがあるなと、
夜更けの下りの駅のホームのあの静かさは、河になってしまったからだったのかと、
近しい情景として読みました。

 この「水無月」に出てくることばに「不在」というものがあります。それまでと、
詩の空気が変わるように感じるのは、こうした硬質なことばが要所を占めながら、
描かれる情景に静かさやクールさが挿し入れられるからかもしれません。
 開放という流れとして、この詩集を読み進めていくことは、ここで止められます。

  「いのちは不浄なもの。」
  雫はフロアーにあっけなく砕けてゆきます。

  そこに少しづつ育つ「不在」
  あらゆるものをうつくしくするために
  時間のそとにゆくために
  「わたくしも不在です。」と伝えて。
             (「水無月」より)

 「不在」とは待ち受ける死のことなのでしょうか。その後の詩でも、死のイメー
ジがくり返し表れます。死を、待ち受けるものとして見すえ、受容しようとするこ
ころの動きの表れなのでしょうか。

  死の理由を縦糸に
  生の理由を横糸に
  きつくもなく
  ゆるやかでもなく
  一日分の布を織る。

  やがてくる死との婚姻の朝まで。
          (「紡ぐ」より)

 目線が、死という先のことだけにあるのではなく、むしろ「一日分の布を織る」
という現在に重心を感じます。待つもの、あるもの、そしていま為すこと、そのど
れもに目を向け、過去から未来へと進行する時間の流れに寄り添おうとするかのよ
うです。(少し話が逸れますが、この詩集では時間軸が過去から未来へと伸びるも
のとしてつよく意識されてあるようで、それが、せつなく感じられもします)。

 開放的な状態へひらかれながら、「不在」、「死」に視線を配るこの詩集は、ど
こかへ向かおうとするものなのかと、道のりが示されている行を探すと、こうした
行に出会います。
 詩集の中ほどにある「駱駝に乗って」という詩の最終連はこうです。

  遠い まだまだ遠い
  駱駝に乗って
  はじまりの道をさがしにゆく
           (「駱駝に乗って」最終連)

 また、その次の詩にこんな詩行があります。

  最後のページに こっそりと
  「おはよう、旅にでます。」
  と書きおいて
  手ぶらで海辺にいきます。
  こぼれることのない巨きな水の入れ物が
  あたらしいあたしのノートだとはとても思えないけれど
                 (「七月になったら」より)

 「はじまりの道をさがしにゆく」「あたらしいあたし」という、出発、再生を求
め、さがす姿がここにあります。
 あくまで慎重に、けれどすこしずつ、ひらいていくものはひらかれ、待つときは
待ち、めざすものへと進んでいく様が道程のように表れていると、そう読んでいて
感じさせられます。

 モチーフとして表れたもので印象的だったのは「鳥」「水」「耳」です。
 「鳥」は、自由への憧れであるより、繊細さを抱えつつそれでも飛ぼうとするも
のとしてのよわさとつよさのないまぜにみえました。
 「水」は、沈んだじぶんの気分、その気分からのゆるやかな脱却の猶予期間、じ
ぶんを守り包むもの、なにかの傷から回復していく兆しなど、箇所によってこのこ
とばから感じる肌合いは異なるものの、こころがローテンションであること、その
テンションの低さを大切にしていることを一貫して表わしているように受けとれま
した。
 そして「耳」は、この詩人の素敵な特質のようにみえて、好きなものです。詩の
タイトルにも使われていることばですが、ここでは「耳」ということばが直接には
出てこない箇所で、耳をすますこと、聞くことに細やかな詩人らしいこの箇所を引
用しておきたく思います。

  「待つこと」とあなたはいった。
  わずかな拒否でもこわれてゆくものがあるから
  しずかに「はい」と応える。
  冬の空に吸い込まれていった対話。
                 (「残像」より)
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Sep 13, 2006

詩のことばの外なるもの -竹内敏喜『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』-

竹内さんの新詩集を読んでいました。

詩と、生きることが、直結している詩人ほど
詩のことばとされているものの外側へ
じぶんの詩がふくらんでいくんだな と感じました。

詩を成す姿のうつくしい詩集だ とそう感じます。

竹内敏喜『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎)


以下に二篇から、引用してみます。


きみのママは妊娠中
その腹には赤ン坊がねむっており
文字よりもふしぎな

あかるい愛のひろがりを
「あかちゃん」ときみに伝えれば
自分のお腹をなでさすり

「かちゃん、かちゃん」と
ささやくようにくりかえしている
ふくらむ夢を指さすように

(「二歳児の指」より)



二歳の子が、母のお腹に赤ちゃんのいることを、じぶんなりにわかっていくようすを描くこと。
詩集全体としてみたときは、この詩が、希望として置かれているように感じます。

が、この詩集は、こうした平明な詩だけで成ってはいません。
以下のような詩も収められています。


ジャクリーヌの演奏を聴きながら
ケースの蓋を新しいものに取りかえていると
そちらも吹っ飛ぶように破片となった
以前にも、そんなことがあった
おもいだすのは六歳のころ
親類一同で近郊の山にキャンピングしたときのことだ

ちいさな妹まで魚を釣りあげたのに
最後まで一匹もかからなかった苛立ちからか
ウッと頭に血がのぼった、瞬間
竿が手元からめきめきと壊れていった
その残骸をにぎりしめながら
自分を、かぎりなく惨めにかんじていた

あの感覚が、ジャッキーの倍音の(きしみ)に重なっていく…
「私が、私をみる神の視点をもって隣人をみるとき
隣人の中に、神にとっての私の姿がみえてくる」
「そんな場合の私にとっての隣人が、すなわち対象aである」
「隣人の中に、対象aが触知されるとき
それは私自身が神の目をもって、私をみているということ」

ジャックの、対象a
普遍の目によってみられる比率
それが神にとっての私の姿、と捉えられたとき
理性と呼ばれるものに変質し
この理性の、普遍性をもとにして
あらゆる普遍的性質を集合させた(彼)をうみだす

(「うめき、きしみ」より)




ジャクリーヌ(ジャッキー)とは、チェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレ、
そしてジャックとは、哲学者ジャック・ラカンのことを指しています。

二人の名前の響きが符合するのを連想の橋渡しにするように、
その日入手したジャクリーヌのCDから、家族との思い出へ、
そしてジャック・ラカンの理論へと展開していきます。

「ジャクリーヌの倍音の(きしみ)」に耳を寄せながら
CDの蓋、竿の損壊というできごとをみるじぶんの視点に
「私が、私をみる神の視点」を思いうかべてしまう詩人(話者)。

そしてラカンの「対象a」の話へ、
さらに「彼」(神・キリスト)の話へ、飛躍していきます。

「詩と、生きることが、直結している詩人ほど
詩のことばとされているものの外側へ
じぶんの詩がふくらんでいく」と先述しましたが、
それを感じるのは、こうした連想と飛躍の箇所にです。

この詩集には、「二歳児の指」のような詩がほかにも数篇入っているのですが
また、この「うめき、きしみ」のように、詩に色濃く、他の人物の
理論なりエピソードなりが挿入される書き方の詩も収められています。

神やキリストの話へと飛躍するのは、
ただ信仰心からなのでしょうか。

そうした面もあるのかもしれませんが、この詩集に入っている他の詩に、
“日本の八百万の神様が、神無月にじぶんの六畳間に集合する”という
詩があることを考えると、キリストへの傾倒や神への信仰心の表れとだけ
みるのは違うのでは(そうではないのでは)とみえます。

では、こうした流れは何でしょう。
なぜ、神への言及をするのでしょう。

そうしたことを疑問に思いながら読みました。
神をめぐる詩と、二歳児の姪にかんする詩が並置されているところから
意味合いがうまれてきそうに読めます。

それを、詩でなされる祈りだ、というふうに読めるようにも思います。

詩の書きよう、という話でいうなら
先に挙げた「二歳児の指」と比べると、
詩の展開の飛躍がおおきい点もさることながら、
内容の難しさという点にもっとも違いを感じます。

ラカンの理論をぼくは知りません。
では、知らないでこの詩の、ラカンの話が出てくる部分がわかるか、
といえば、わからない、ということになります。

書き手も、ラカンの理論を知らない人がいることは
もちろん承知のうえのこととおもいます。
それでも、かなり剥き出しのかたちでラカンの理論の一端を登場させています。

とすると、この詩は予備知識を前提にする詩になりますが
なぜこうしたものをも、含ませたのでしょう。

いまの世界にまなざしを向けるときに、
そうした表現を採らざるをえなかったものが
この詩人の内実にあったからではないでしょうか。

それは、かならずしも好ましいとはいえない世界の現状
(そう詩人が認識していることは「遠近」「徳利」などの詩に如実です)に
まなざしを向けたとき、そうした世界をとらえるためのものさしとして、
ラカンが用いられており、またラカンの切り口で問題をふまえよう、と
その詩で、そのとき、詩人は感じたのではないでしょうか。
(そうした書き進め方を、詩というジャンルでする、ということが
この詩人の個性ということなのかもしれません)

ラカン、マルクス、ジョン・レノンが、
「ジャック」、「カール」、「J」として現れます。
たとえば「ラカン」と書かず「ジャック」と書き表すところに
詩人がどのように、詩に人物を置こうとしているかがみえます。
詩人にとっては、彼らは慣れ親しんだ人物であり、
そうした彼らとの対話が、詩人のこころのうちで絶えずなされていることを
うかがわせます。
あたかも隣人のように、詩に彼らを置こうとしているようです。
彼らの営為を、いまの世界をはかるものさしとして、
すでに人々のための所与のものさしになっているものとして、
詩人は彼らの贈り物(歌なり理論なり)を、詩に登場させるのです。
それは、いまの世界に拮抗するための、人が人に残した知恵として。

ラカンの対象aについて語られた詩行で、
その正確な意味を追うことをぼくはできません。

ただ、詩にとって、わかる/わからないが最重要ではない、というのが
ぼくのスタンスとしてあります。
「わかるべき意味」を伝えるなら、ふつうの文章(散文)でじゅうぶんなわけですから。

その詩で伝えようとしているすべてを受け取ることはできずとも
その詩を読んでどう感じたか、それを受け止めることはできると思います。

この詩集を読んだときに感じたのは、
散文で伝えるほうがよりわかりやすいであろうと思われるような
ラカンやマルクスにかんする連想や示唆、理論の一端を詩として書き表して、
詩とは何か、詩という器に何を盛れるか、詩は祈りの役割を担えるか、
といった問いを自身に向ける詩人の真摯さでした。

難解な理論を、詩に直接書き入れると、詩としてのバランスは揺らぐほうに振れます。
それをあえてしているのは、書き手が、詩を、じぶんの思いめぐらせる内面そのものとして
うみだしているからであるように感じられるのです。
(内面のみとして書いているわけでは決してないと思いますが)

詩のまとまり、バランス、詩を整えるといった
いっさいの体裁をかなぐり捨ててでも、
いま目の前にある世界をふまえるのだ、
ふまえたうえで、なお悲観を超えて、
あたらしい生命とともに、その生命のまなざしが宿す“きよめていくもの”に
寄り添うことをしたいのだ、としている書き手の意志を感じるのです。

この詩集は、詩の内側で生きようとしているかのような、
竹内敏喜の詩、それを裏打つ詩論の現時点でのきわみに違いないと、
読後に、痛切な祈りのありようをひしと感じました。



2006/8/23-25



(追補)

 竹内さんの詩に対してなにかを言おうと思ったら、「祈り」ということに触れないと
いけないのかもしれません。祈りにとって、詩とは何か? ということについて。

 現代詩手帖の今年の6月号で、竹内さんは渡辺めぐみさんの詩集『光の果て』に寄せて、
こんなことを書いています。

 「例えば「祈り」とは、境界を知ったことへの困惑を隠蔽する仮面だと考えても良い」
「本来なら仮面は、語り手を支えつつ、空間を演じる根拠となるものだが、作者が仮面に
憑かれてしまうと、作品はあるべき文脈から外れていく」

 これらは、詩にとって、祈りとは何か? という問題意識から出てきたものとして
ぼくは読みました。祈りは、詩の装置であるか。詩を、祈りの装置とすることは、詩は
表現ではないの例の立場と衝突するものかも知れないけれど、詩を突き詰めたとき祈りの
様相を呈するということもありえるという見方も可能です。

 この点については、竹内さんの詩集一冊で語るものではなく、これまでの彼の仕事を
とおして、あるいは今の詩作にまでつうじて、みたいと思っています。まだぼくの手に
あまる、テーマです。
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May 09, 2006

『サルビア給食室だより』

kyuusyoku


5月10日(水)に、白井が文章パートを担当しましたレシピの本が出版されます。

『サルビア給食室だより』(サルビア[著] 料理・ワタナベマキ 写真・MOTOKO
ソニー・マガジンズ/bloombooks刊 1,575円(税込))

季節の食材をつかったおいしいごはんのレシピを紹介する本です。
12ヶ月それぞれの情景などを 半分詩のように 半分文章のように書いています。
書店などでみかけましたら、ぜひお手にとってご覧になってください。

くわしくはこちらのソニー・マガジンズのHPをご覧ください。
http://www.sonymagazines.jp/book/detail.php?goods=012874

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Mar 29, 2006

Hektor

johgashima_hektor

(M3, ヘクトール73mm/f1.9)
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Mar 28, 2006

ローライ/テスト撮影

rollei-002



rollei-003



rollei-001

(Rolleiflex 2.8F planar)
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地下鉄にて

subway_child

(M3, スーパーロッコール50mm/f1.8)
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沖縄、2005初夏

itoko_a



ojii

(M3, ズミクロン50mm/f2)
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Mar 15, 2006

沖縄、2004春

okinawa_jaaji

浜辺で見かけたジャージ姿の中学生


okinawa_runkids

走り抜ける子ども


okinawa_kana

いとこ


okinawa_shower

シャワー

(M3, ズミクロン50mm/f2)
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Jan 26, 2006

詩の朗読舞台

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(c)photo by Kobayu


2006.1.21sat 新高円寺・アトラクターズ スタジオにて
詩の朗読舞台『ナマエハナンデモイイ』を開催いたしました。

雪の中いらしてくださった皆様、お気にかけてくださった皆様、
どうもありがとうございました。
また、劇団夢現舎のかたがたには大変お世話になりました。
この場をお借りしてお礼を申し上げます。

出演(集合写真左から):
横川明代 春日裕美 久住奈央 越野昌子 齋藤真 片岡愉理
美術と構成:山下昇平
詩と朗読:白井明大
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Dec 13, 2005

西荻窪近辺

nisiogi

いまの部屋に引っ越すまえに、不動産めぐりをしてた時、
西荻近辺の大通り沿いでパシャとやったやつだったような気が。。

沈胴ズミクロンのモノクロです。
なんだか古い街並みたいですが、去年の春です。
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Dec 07, 2005

屋久杉

yakusugi

今年の夏に作った新聞広告です。
ぼくはコピーを担当しています。

ずーといつまでも更新がないままじゃなあ、と思い、
これをアップしてみます。

が、、そろそろライカ写真をまたアップせねば・・うぅ・・涙。
Posted at 19:20 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Nov 30, 2005

Inter BEE

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at_zenkei


at_onpu2


at_mugen


11/16-18に、幕張メッセにて「Inter BEE 2005」(国際放送機器展)が開催されました。
この展示会に出展したオーディオテクニカのブースの、
表現アイデアと、ことば(マーク化を含む)を担当しました。

美しくデザインしてくれたデザイナー、
きれいに仕上げてくださったスタッフの皆様、
あたたかく見守ってくれたクライアントやアカウントに感謝します。

また、この作品は、Inter BEE AWARDの優秀賞に選ばれました。
うれしい受賞でした。ありがとうございました。

(c)photo by Tae Toma 無断使用・無断転載厳禁
Posted at 04:34 in nikki | WriteBacks (4) | Edit

Nov 25, 2005

titi

父です。

たしかこの写真もズミクロン50mm/F2(沈胴)で撮ったはず。。

沈胴ズミクロンは、ライカを手に入れたときに一緒に付いていたレンズで
(知人から譲っていただいたんです)とてもすきなレンズです。

沈胴という、読んで字のごとく、レンズの胴体が沈むタイプで
ふだんは亀の首みたいにひっこんでて、
使うときはひっぱり出して撮る、というそういうものなのですが、
コンパクトになるのがかわいいのです。

じぶんのライカM3と製造年代がほぼ同じため、デザイン的にも一体感があるし
何枚かで構成されているレンズ面の間に空間をもたせて設計されており、
その空間を「空気レンズ」とかなんとか呼んでるらしいというへんなあだながついてていいし、
そしてなにより、写りがすき。です。
やわらかい色あいと、ぱきっとした線がでているようで
(もっとシャープなレンズもあるようですが、それはそれ。)
愛着もあって、重宝しています。

  ※

今日明日は、城ヶ島へ柴田千晶さんと仲間たち飲み会通称「肝臓強化合宿」へ行ってきます。
ライカ持っていって、また撮るぞー。おー。
Posted at 13:54 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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