Jun 02, 2007
宗教・神話・詩論
杉山神社研究・考察篇(承前)*18
「杉山社」に関係する記録は、あまり荒唐なものを含まない。事実かどうかということは別にして、それらは散文そのものである。ただしその別当寺の縁起等はまだつまびらかにしない。以下、年代誌のなかにときたま露出する「杉山社」及びその集中地区に関する記録を拾ってみる。
承和五年(838)二月庚戌武蔵国都筑郡の杉山神社はその霊験をもって官幣を授けられた(続日本後紀)。その十年後の承和十五年(848)の五月には、それまで無位であった「枌(杉)山明神」に従五位下の位階が授けられた(同右書)。また延長五年(927)に成立した『延喜式』に「武蔵国都筑郡一座 小 杉山神社」の記載がみえている。『吾妻鏡』には杉山神社についての直接の記事はないが、建久元年(1189)および承久三年(1221)の項、源頼朝に扈従するいわゆる鎌倉御家人のうちに、鴨志田、都筑、寺尾、奈良、江田、師岡、加世、綱島等の姓がみとめられる。現在の杉山社集中地区における土豪の存在を暗示するものである。この間、諸杉山社の伝承に鎌倉との関係を言うものが多い。元暦二年(1185)に、宿願によって鎌倉殿(頼朝)よりの奉幣があったとするもの(茅ヶ崎社)。源頼朝が鎌倉幕府の開設に際し、鬼門にあたるこの地の「杉山社」を尊崇し、なお付近に新たに七社の分霊を設けたとするもの(西八朔社)。ほか類似の伝承が上谷本、蒔田の杉山社に残され、(歴史的には鎌倉時代以前の人物だが:後注)鎌倉権五郎景政の霊廟が吉田の杉山社に合祀される、といった具合である。これ以降になると「杉山社」に関する記録・口碑といったものはあまり存在していない。諸社に現存する石文等も、近世初頭以前に溯るものはない。ただし、記録ではないが、その間の事情の、ある一面をうかがわせるに足るものとして鶴見社の田遊神事の歌本、いわゆる「杉山神社神祷歌」がある。その他、茅ヶ崎社の伝承に、延文二年(1357)足利尊氏によって、その所領をことごとく没収せられたことが記されている(茅ヶ崎忌部氏系図)。
*19
次に各社について、年代の判明する史料を掲げてみる。ただし社伝のたぐいはこれに含まれない。
吉田社
〇安永五年(1776)別当正福寺分限帳
「一、杉山大明神 久保田十左衛門殿御代官所 本地不動明王御丈壱尺 二童子六寸 立像 宮縦八尺 横五尺 社地木立東西三拾間 南北二拾五間」
茅ヶ崎社
〇天文三年(1534)及び天正四年(1576)の棟札。武蔵国風土記記載。
「フルキ棟札二枚存セリソノ一面ニハ甲午奉造立杉山大明神砌天文三年九月十六日トシルシ裏面ノ文字ハ磨滅シテヨムヘカラスタヽ以悦衆生故長澤新左衛門尉源六大工直近丹六郎太郎四郎ナトノ数字ワツカニヨムヘシ又一枚ハ奉建杉山大明神御鳥居一間事大旦那領主深澤備後守同代官下山新介禰宜藤原朝臣金子惣右衛門尉秀長大工源太郎兵衛勝正天正四年丙子十一月廿一日トアリ…云々」
〇寛文十一年(1671)棟札。
表「十方諸神影現中我此道場如帝珠南無十六大菩薩南無八大竜王諸仏諸世者住於大神通諸願成就社安穏当所安全/奉造立杦(杉)山大明神宮倍増法楽所/南無十五童子 為悦衆生故無量神力如意満息災延命守護所南無廿八宿我身現神祇前頭面接足帰命礼(署名)別当自性院 両名主 □次兵衛 金子三右衛 子祇 北村玄番ママ 大工吉兵衛 小工七兵衛」
裏「寛文十一辛亥天九月十九日 武州都筑郡小机之内茅ヶ崎村/大阿間ママ梨法印快栄俊憲房 敬白 惣氏子」
佐江戸社
〇武蔵風土記曰
「神体ハ束帯ノ像ニテ長サ一尺許彫刻モイトシツホクニシテ甚古物ノサマニ見エ勧請ノ年代ハ伝ヘサレト東漸寺ニ持伝フル慶長十八年(1613)再興ノ棟札アリ云々」
西八朔社
〇武蔵風土記曰
「慶安年中社領ノ御朱印ヲ賜フ其文左ニノス/武蔵國都筑郡西八朔村極楽寺杉山明神社領同村之五石六斗事任先規寄附之訖全可収納并境内山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違者也/慶安二年(1649)八月廿四日御朱印アリ」
〇王禅寺寺領取調書上帳 嘉永六年(1851)
「同郡西八朔村の内 王禅寺末/一、御朱印高五石六斗 朝岡三次郎知行所/但し杉山明神社領 同国同郡西八朔村/極楽寺」
新羽社(北新羽ではないほうの)
〇手洗水盤 文化七年(1810)の銘
〇力石 一)安政二年(1855)三月
二)嘉永六年(1853)秋
樽社
〇武蔵風土記曰
「社内ニ棟札アリ其中ニ応永年中鰐口ヲ鋳シコトヲシルスコノ鰐口ハ故アツテ昔村民ノ方ヘアツケヲキシト云伝フルノミニテ今ハ在所サタカナラスカヽル古キ物ノアリシナレハ当社ヲ勧請セシモ定テ古キコトナルヘケレトモ社伝モ見エス且口碑ニ残ルコトサヘナケレハ今ヨリハタヽシカタシ因テ暫ク其棟札ヲ左ニアケテ後ノ考ヲマツ/杉山大明神 別当師岡村法華寺 応永十八辛卯年(1411)鰐口鋳之元禄六癸酉年(1693)当社建立応永十八卯年ヨリ元禄六酉年迄二百八十三年 酉四月」
〇石灯籠
「正徳四年(1714)四月吉日奉立杉山宮御宝前」の銘
〇手洗水盤
銘「天保十二年(1841)丑年七月吉」
〇石段
銘「弘化三年丙午(1846)八月吉日」
青砥社
〇石塔四基
一)二十三夜塔 明治四未年十一月建
二)堅牢地神 文政八酉年(1825)正月吉日
三)二十三夜塔 天保四巳年(1833)正月建之
四)馬頭観音 天保年間
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これらは『杉山神社考』に記録されているもののうち、私が今までに歩きえた社にかぎって、『神社考』の記述を再録し、加えて私の若干の見聞を添えたものである。いずれにせよ、「杉山社」の性格(無性格といってもいいが)に関与するような異常なものは何も見出し得ない。そこには、伝承でも歴史でもない、刻々と朽ちてゆく「事実」の集積があるばかりのようにみえる。その中で『(新編)武蔵(国)風土記(稿)』載せるところの次のような棟札の文字は、いくぶんか注意を惹く。
杉山大明神 別当師岡村
法華寺
応永十八辛卯年鰐口鋳之
元禄六癸酉年当社建立
応永十八卯年ヨリ元禄六酉年迄二百八十三年 酉四月
もとより応永十八年に鋳造されたこの鰐口と、元禄六年に建立された社との間にどんな関係があるのか、これだけでは判らない。しかし鰐口がたんに古物であるという理由だけでは「二百八十三年」といった時間の経過が記されることはなかったはずである。すなわち、この鰐口が二百数十年の隔たりを持つ古物であるということではなく、新しい社の完成にあたり、応永十八年からの時間の連続性がこの鰐口によって新たに確認され、とくに記されたのだと思う。このことはまた別の想像へ私を赴かせる。「鰐口」からの紀年を数えるということは、社に属する伝承に、すでにかなりの危機がおとずれていた徴候とうけとるべきなのではないか。それがこの時期(1600年代)の杉山神社にとって、社殿を新築することとかならずしも矛盾していないことは、他の社に徴してみても、これを窺うことができる。武蔵風土記伝えるところの佐江戸社の項に「慶長十八年再興ノ棟札アリ」という記事が見え、同じく西八朔社の項にも、慶安三年の「御朱印」の文に「……社領同村之五石六斗事任先規寄附之訖全可収納」の文字が存在する。戦火がおさまり、共同体の秩序がようやく旧に復しつつあったときに、これら新社殿の造営があり、旧例の回復が行われた。武蔵風土記が樽社についていう「社伝モ見エス且口碑ニ残ルコトサヘナケレハ」といった事情は、元禄の時代にも今とたいして違わなかったようである。もし共同体の恢復ということがなかったら、この欠落は欠落として自覚される契機をうしなっていた。その意味で棟札に残された「二百八十三年」の文字は「杉山神社」にとって逆説的なメモワールといわれなければならない。
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