今年もツツジが旺盛に咲いてます。



灰皿町で遊ぶ
今年もツツジが旺盛に咲いてます。
一月ほど前に撮影。どうしてか、こんな覆面を被ったような画像になった。ときどきこんな風に撮れてしまう花がある。不思議な話。
夏の陽も陰り
暑く疲れた太陽の日々が傾く
秋の夕暮れがきらめくころには
恋人のゆめ、来たりて
むしろこころときめくに
思いを託して歌を朗じめる、ひとのあり
ささやかな言葉たち、わが手のひらに踊りて
こころ染め抜く
秋に熟して、枯れるさまざまに色づく
そのものたちを、語りて
今年はこの目にも鮮やかなピンク色のツツジが目立った。たくさん写真を撮ったが、もうそろそろ終わり。桜のように名残り惜しい。
いまや音楽業界を売上ベースで見ると、アメリカ、その半分が日本、次にイギリスの順だと言われている。
ただ最近大きな変化だと思うのが、日本語の曲がそのまま外国で聴かれているという状況。いかなるナショナリズムがあるわけでもないが、そして私も信じられないのだが、近くは「アナと雪の女王」で松たか子さんが歌った”Frozen:Let it go”の日本語歌詞が原曲並みにアメリカで評価されたとか、こういう話がよく聞かれる。
とくにアニメの曲を歌ったということもあるが、もう惜しまれながら解散してしまったKalafinaは、ほぼ全曲が日本語。全世界で、そして10代から60代まですべての年齢層で圧倒的な評価を取ってしまった。その理由がKalafinaのメンバーも参加したライブでのこの曲。言語に見えるが、これは歌うための人造語である。これは重要なことだろう。
私達の10代の頃は意味もわからず英語の歌を聴いていた。ファッションのこともあるが、文化の違いが見える。先日グラミー賞の授賞式を観ていたが、もう自分の耳が大きな質の違いを感じているのに気づいた。文化の勢力図が変わりはじめていると思う。
独自性ということでは、むかしYMOが海外の音楽にも影響を与えたし、クイーンのような複雑なギター・オーケストレーションを世界中がそっぽを向いていたときに、日本のファンは熱狂的に歓迎した。日本のポップスは複雑な音の構成に向かっているのに、欧米のバンドのなかではもはや古典的なロックサウンドの方向を維持していることが多いようだ。
以下の曲、あとでKalafinaの「未来」という日本語曲が出ているが、どうもよい例がないので、興味があれば検索して聴いてもらいたい。
わたしも、ちょつと書いてみました。埋め草。
日常 雨の音、風の声 しわがれて耳にするもの それは朝、まだ見ぬものに憧れている 蒼きこころ それは白く、城壁の漆喰のように 民を威圧しては労苦を強いる、昼 それは夜、曇ることは多くても 底冷えのように腹痛をまねく そのようなときを解(ホド)く、安らぎとは まだ言葉にもならない問い、眠りのこと
光のコントラスト調整だろうか、電柱を描写するために空が見た目より暗い目に写る。電線が面白い配置に写った。
世の中、巣ごもり状態でだれもがそうなのだろうが、私の場合は大きな病歴もあって、コロナの感染機会を減らそうと無駄な外出を控え、外出しても用事を済ませて最低限の行動で帰るようにしている。したがって写真を撮る機会が減った。
写真は下がカメラに写ったもの、しかし見た目は実際に色補正した上の写真のように鮮やかなものだった。花の名前は知らないが、拡大してみるとかなり複雑な花のようだ。
私のサイトの表示用バナーですけど、もう少し色を濃く太字にしたかったけど、うまく行きませんでした。使用例は以下です。
http://www.shimirin.net/~tomizawa/
良いのができたら、替えるかもしれません。
本当の人生は日常のなかのひとコマにあるとか。真夏の夕、思わずきれいに感じた。どうだろうか?