Mar 26, 2010
「ブレーン」を立ち読み
毎日、散歩の途中成城学園前駅二階の三省堂で一休みする習慣。駅が新しくなる前は江崎書店で立ち読みをしていた。
駅ビルに三省堂が進出、二年くらい耐えていた江崎書店だが
一年ほど前閉店。わたしは長年お世話になっていたので
青いシートで目隠しをして本を箱詰めする店員に「申し訳ない!」
シートの隙間から作業を覗き見ながら「三省堂が出来てからも
ぼくは江崎書店が好きだったよ、、、」と思った。
思っただけだった!
今は三省堂の常連。もう齢だ、本は増やさない、でもよく買う。
買っては妻に叱られる。隠す時もある。カラス並みの智恵。
ビジュツシやコダイシやセイシンイガクの本を隠すカラス。
「ブレーン」4月号を見た/読んだ。
清水幹太さんが出ていた。ポートレートも大きい。インタビューと
作品の写真。内外での数々の受賞でBIG NAMEに。会社の執行役員。
2002年、わたしにHPをつくってくれた幹太さん!
嬉しい立ち読み/対面。
うれしい(ひとりさびしい・タチヨミ)タイメン。
もう、かんた、幹太と呼び捨て/気楽に言えないな。
親しみを抱いての呼び方だったけど、と思ったことでした。
もう6,7年もお会いしていない。
美術雑誌や本は立ち見/読みに向いている。
昔は活字メディアのデザイナー達の「ブレーン」誌だったが
今では電子メディアの先端を走るディレクターの舞台です。
駅前、旧江崎書店のあとは今も青いシートが張られたままだ。
Mar 16, 2010
しみず、清水、いずみ、泉
灰皿町の清水さんをわたしは町長と呼ぶが、密かに清水の親分とも呼んでいる。
清水港の大親分、次郎長のように強くて、頼もしいからだ。
PCにいじめられ、キレて喧嘩になると「親分!」と泣きつく。
でも、わたしがメチャメチャにいじるのでPCの方がまいっていて
このごろは喧嘩にもならない。
当分、このPCには写真を要求しないことになる。
十八まで育った家の裏にしみず、清水が湧いていた。
大雨で泉の石囲いが泥水を被っても底から湧き出す清水でじきに
澄む。
だからシミズ、しみず、清水と呼んでいた。
家の暗い台所に井戸があり、黒い石積みの深い穴が、覗き見る
子どもの頭を引き込むようで怖い。その点、泉はやさしい。
果てもなく泉底に砂粒を踊らせて湧く清水。
シミズ、しみず、清水。2010年の今もあるわたしの泉。
で、清水の親分、よろしく!
Mar 11, 2010
洲を読む
月に一度多摩川に行く。その河原を私書箱としているから。
洲に流れてきた石の散らばり。
湾曲部の砂州や中洲に雨後の増水で新しく石が敷き詰められている。
大小の石は流水水理による規則的頒布と今までの堆積石との偶発の位置取りで行間が乱れ、行変えも気まま、字体はまちまち、誤字、脱字、誤植だらけだがやはり読みたくなる。
本ならその一頁ではなく、五頁位を重ねて透写したらこういう文かな、という文脈を感じ、風、川面の反射光、草等々の注釈と立ち続ける痴呆力で読む。
手書きの手紙!として大きく広がっていて、そよ風を浴びながら親しみを感じて読める洲もある。太古の、古代人も見た、そして天を経由して今ここに届いた手紙。
Feb 23, 2010
山を見ていた
18歳まで山に囲まれて育った。2000メートル級の越後三山周辺の山々。 南北にほぼ等距離で並ぶ駒ケ岳(2003) 中ノ岳(2085) それに丹後山(1809)を越後三山というのかと思う。 すぐそばにある1778mの八海山は修験道の霊場だ。酒の名前にもなっている。 一回り上の長兄達は成人の年前後に青年団で修験登山している。 「八海山から見るとおらあ家の後ろの山なんて畦みたいに低い」と。 そういうものか、どういうことか、と小学生の頭で聞いて、その時の兄と自分の姿が今も思い浮かぶ。八海山頂上からは東方に三山が、また東南尾瀬方向の山々が望めたか、とそこまで訊く知見はなかった。 丹後山の南東には平ケ岳(2141)景鶴山(2004)尾瀬沼の燧ケ岳(2346)がやはり等距離で並ぶ。尾瀬から見ると燧ケ岳が2346mもあるとは感じられない。 以上七つの山のうち、名のとおり燧ケ岳だけが火山。 我が家の正面は形の良い金城山だ。冬は真っ白。春から夏にかけて渓谷の残雪がアニメーションを演ずる。表情の変わる人の顔や動物の駆ける姿。暗号じみた幾何学形、ナゾの古代文字など。 「畦のように低い」裏山の麓、家の裏の泉を飽かず眺め、振り仰ぐ金城山。湧き止まない清水とどっしり不動の山々を見て育った。Feb 01, 2010
ユキノシタ
曇、寒。ラジオの声では「夕方には雪が降る」と。
数日来太陽に当ててほぐしておいた土を集め、
義姉が「咳止めに効く」と送ってくれた
雪ノ下をプランターに植えた。
雪ノ下は漢名では虎耳草と立派で、凍傷にも効くそうだ。
届いたのは一週間前。土をつくる、を口実に
植えるのが延び延びになったのだ。
これでは、雪の予報で雪ノ下を思い出したと思われそうだ。
雪ノ下をダンボール箱から出し夜の雪の下にして虎耳草を
凍傷にしようとの魂胆か。いやいや、偶然のことなのです。
凍傷に効く葉なんだから雪くらいでは虎の耳は凍傷にならないはず。
ひとり俯いたまま笑う。
今夜、雪は降るのでしょうか。
Jan 31, 2010
Mar 11, 2008
キタミ通信 No.10 黒部晃一さん来訪
黒部さんが初めて僕のアトリエに来てくれました。 暖かい日でした。黒部さんは碧南市で永島卓さんが企画してくれた私の「破片」の個展を高校生の時かに詩人であるお母さん黒部節子さんと一緒に観てくださった。私はそのことを、ずっと後に知りました。その後黒部さんは芸大の院生の時、名古屋のギャラリーNAF(河合塾)で私の個展(「絵画のアポカリプス」、72~83までの作品)を企画してくれたのでした。
下の絵はその時の絵ではありませんが、20数年前の作です。 題名はまだです。マア、仮に「破片」と呼んでいます。
黒部さんが終電に間に合ったかどうか、心配です。
Feb 17, 2008
キタミ通信 NO.9 清水さん来訪
今日は清水さんに来て頂いてブログに絵を載せる勉強をした。清水さんは自転車で世田谷通りを走って来てくれました。
ほぼ10年ぶりで会いましたが、清水さんは私の思っていた通りの清水さんだった、とやはりそうだよなあ、と反芻しながらも自分 は年とったから、道であっても清水さんは僕のことを分からないかもしれないなとおもいました。
折角、親切に教えてくれるのにすぐに忘れるのかと心配で良く覚えられないのは、年のせいでもなく、もともと頭が悪いのではな く、絵などを描いていて手と目を使うばかりで段々子どもになるのかと怖いです。
アカコワ
アカベロ
Jan 02, 2008
キタミ通信 No.8 2008.元旦
あけましておめでとうございます。2003年3月27日以来中断していた通信を再開します。約4年半振りです。
(まったく、あの時、アメリカのイラク攻撃は無茶だった。)
18歳で新潟の山深い寒村を(腹巻に札束を縫い込み)出立以来50年、このたび灰皿町の鱗造町長(蝶々)のご好意で、ようやく町人(蝶人の私、花の蜜だけでタバコは吸いませんが)になりました。
幹太さんのシロアリ塚から這い出して(追い出されて)年の瀬の寒空、泣いていたらうしろから優しい声、なんとお父さんではないですか。
幹太さんの作品を拝見するにつけ、氏は今はもう名前通り太い幹になり大きな樹冠を開いたのだ!と思いました。
もう蟻塚で眠っているのはやめ、私も本日2008年元旦から、灰皿町人として写真と短文を載せて行こうと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
写真 コマ絵 「来迎の図」展(日本画廊 2007.10.29〜11.10 )より