6 日本の同人誌とイギリスの詩誌

6 日本の同人誌とイギリスの詩誌 



日本の同人誌とイギリスの詩誌こちらに来てから、日本の同人誌のようなものを見かけたことがない。以前とあるポエトリーグループとの合同朗読会に参加したとき、仲間同士で作成したアンソロジーを販売していたグループがいたが、単発の書籍のような形であり、定期的に発行する雑誌ではなかった。

あるとき、わたしが参加しているポエトリーグループで日本の詩誌について話したことがある。日本では投稿を受け付ける詩誌はこちらと比べて数が少なく、グループをつくって同人誌を発行するケースが多いと。これに対し、「それはいいことだわ。日本のやり方のほうが絶対いいわよ! 作品というのは本来、自分が発表したいものを発表すべきなんだから。」という肯定的な意見を受けた。

この意見の背景には、投稿をして時には数ヶ月も待たされたあげく、エディターの判断で不採用になり、発表する機会がないことにいらだちを感じている詩人がいるという状況がある。彼らは日本の同人誌のような形を、風通しがいいと感じたのだろう。

これに対し、詩の世界を知らないわたしの夫とこういう話をしていると、「日本の雑誌は一端グループに入ってお金さえ払えば、作品がよくても悪くても発表できちゃうってこと? そんなの実力じゃないじゃないか!」という意見が返ってくる。

詩の世界を外側から見ると、夫みたいな印象を持つ人が多いのかもしれない。しかし詩人の立場からすると、エディターが権限を持ちすぎていると感じるのは無理もないことだ。

わたしが考える同人誌の長所は、
  • 自分が発表したい作品を発表できる。
  • どの時代にも、才能があっても同時代の流行に合わなくて見過ごされてしまう作家がいるので、そういう作家が発表の場を与えられる。
  • 新たなムーブメントを起こそうと考えている作家たちの活動の場となりうる。
これに対し、同人誌だと、
  • 同じ仲間や配布相手からの感想に占められがちなので、自分や仲間の詩に対する固定観念ができあがってしまう。
  • 制作は自費で、売る機会が少なく無料で配布することが多いので、同人費が必要。
20世紀前半にさかのぼると、詩人のT. S. エリオットが編集していた『クライテリオン』(The Criterion)という文芸誌があった。エリオットはこの雑誌に、エズラ・パウンドやヴァージニア・ウルフなどモダニスト仲間の作品を掲載していた。『クライテリオン』は同人誌ではなかったが、モダニズム推進のために仲間の作品を意識的に載せたという点では、見知らぬ投稿者からの作品を載せる現在の一般的な詩誌と異なっている。時代が変わった今では、『クライテリオン』のようなやり方で詩誌を運営すると派閥的とみなされるかもしれないが、新たな文学を世に押し出す強い原動力にもなりうるので、こういうやり方が少なくなっているのはある意味寂しい。