Aug 25, 2005

少し自分の

詩作についてのことを書きます。

私は喋ることが苦手です。
相手に自分の言いたいことをうまく整理して伝えることができません。
今は少しまともになりましたが、二十代前半までは結構ひどかったと思います。
一生懸命説明した後に相手から「何言ってるかわからない」と冷たく言われてそっぽを向かれることがよくありました。
それで随分傷つき、臆病になりました。

だから書くという作業をするようになったのだと思います。
自分の考えていること感じたことがうまく伝わるよう、私は言葉選びに散々時間をかけて文章を書きます。
それは詩を書くときにも同じです。
読み手が読む努力をしないでも、詩のほうから読み手へ飛びかかっていく、そんな言葉を探しだそうと、ああでもないこうでもないといつまでもやっています。
そんな行為は返って詩を弱めることになる、という人もいるでしょうが、それをしないとひどく不安になってしまうのです。

にもかかわらず、失敗することがとても多い。

先日の詩の合評会で提出した作品についての参加者の感想は「難しい」というものでした。
自分ではわかりやすく書いたつもりが、またうまくできなかったようです。
この不器用さには、自分のことながらまったく呆れてしまいます。

会の後で参加者の一人から、「ひとつの詩に色々と詰め込みすぎだ」というご指摘をいただきました。
なるほど。
つらつら考えてみると、私は昔からあまりに多くのことを一遍に喋ろうとし過ぎる癖があるのでした。
言いたいことがたくさんありすぎて、だから混乱してごっちゃになって、「何言ってるかわからない」ことになってしまうのです。

私は詩を書き始めてからしばらくは、ひとつの詩にあまりたくさんのことを詰め込みませんでした。
私が好きな詩人たちも、やはり詰め込まない詩を書く人ばかりでした。
しかし詩を書き続けていて、多少なりとも向上心などというものがあると、今までと同じでは嫌だ、もっと意味を持った詩を書きたい、などと思い始めるものです。
そう思うことは、別に悪いことではないと思います。
ただ無理にそうしようとして、せっかくの持ち味を台無しにしてしまう人の多いことも事実です。

だから詰め込まないことに徹するほうが、詩作においては得策なのかもしれません。
実際私はそういう詩を書くのも好きで、寧ろそういう作品を書くことのほうが多いぐらいです。
しかしその一方で、これが「何言ってるかわからない」になる原因なのだと知りながらも、可能な限り詰め込みたいとする欲望を消すことができないでいます。

果たして詩において、それを実現することは可能なのでしょうか。
たくさんのことを言うには、それに見合った長い時間が必要なのかもしれません。
書くという行為の場合、それは長編詩か散文ということになるでしょう。
また、多くのことを言おうとすればするほど、逆に言葉は少なくなっていって、最後は俳句のような形になるのかもしれません。
あるいはもっと別の、未知の形があるのかもしれません。

どうにしろ、まだしばらくは、一杯詰め込んで一遍に喋っても相手に伝わる方法を、欲に任せて模索していると思います。
馬鹿馬鹿しい努力なのでしょうが、ちゃんと答えを出しておかないと、次に進めそうにありませんから。
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