Mar 30, 2006

一月に白井明大さんの詩を舞台化した

劇団夢現舎の公演「中庭の狂人」を観劇しました。
私が見たのは3月24日(日)の夜の部。

内容は、井伏鱒二が主人をつとめる質屋の中庭にて、
創作に行き詰ったために、その才能を質入れしてしまった作家たちが、
新たな創作へ向って入り乱れつつ奇怪な努力をするというものです。
出てくるのは芥川龍之介、太宰治、川端康成、与謝野晶子、宇野千代、
柳原白蓮、原阿佐緒、井伏鱒二、林芙美子、三島由紀夫、住井すゑという、
馴染みのある作家ばかり。

お世辞抜きに、素晴らしく面白い作品でした。
見る前は二時間という長さに不安も感じていたのですが、
始まってしまうと、間近で繰り広げられる俳優さんたちの演技に惹きつけられ、
またその設定やセリフの面白さ、次々に繰り出される短いストーリーに見入り、
あっという間に最後まで、退屈する隙もなく見せられてしまいました。

普段、演劇を見に行くことがない私にとっては、
生で見る俳優さんたちの演技は大変刺激的でした。
洗練された発声、動きの美しさと連続性、表情を含む全身を使った表現など、
映画などで見る演技とは異なる生々しい凄みと迫力をまざまざと見せ付けられ、
演劇と言うものの面白さを、この歳になって初めて気付かされた感じです。
貴重な、とてもいい経験でした。

白井さんの舞台の時にお見かけした顔も多くあり、
「ああ、あの人があの役を…」なんていう楽しみもありました。
それだけで勝手に親近感を持ってしまい、少しえこひいき気味に見てしまったかも。
(宇野千代さん、太宰治さん、原阿佐緒さん、住井すゑさん、柳原白蓮さん…)
舞台美術も、白井さんの時と同じ方が担当されており、
またあのときとは違った作風で、
不気味で奇怪な中庭の風景を見事に再現されていて、
作品の意図に合わせて的確に仕事をされる方だなと思いました。

台本も、演技表現の可能性を目一杯引き出した、素晴らしいものでした。
随所にちりばめられたユーモアには思わず笑わされましたし、
舞台が中庭に固定されているにもかかわらず、
少しも飽きさせることのないスピーディーな展開、
それぞれの場面のポイントの深さなど、見所が満載でした。
また流れるようなセリフのリズムとともに、
文学的な言葉が次から次へと飛び出す様子は快感でした。

作品のテーマは生と死、誕生と再生であったと思います。
質屋の中庭に囚われ、まるで死んでいるように生きる語り部たちが、新たに誕生すべく、
物語であったり、短歌であったり、古典であったりを激しく模索し、
しかし僅かな先には、否応なしにやってくる死がある。
再生への試みを繰り返すことが生きることであり、
それを極めることが即ち、死を受け入れることだという気がしました。
中庭に囚われた作家たちは虚構ですが、実際それぞれの作家たちにとっても、
書くことは、生まれてきてしまったことへのけじめであったのではないでしょうか。

たまに行った舞台でしたが、運良く大当たりでした。
いままで演劇に足を運ばなかったのは勿体なかったかと反省。
今後は演劇の方にもちらちら視線を送って行きたいと思います。
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Mar 27, 2006

先日、古本屋で購入した

八木忠栄著「詩人漂流ノート」(書肆山田)を読了。

これは現代詩手帖の編集長を勤められていた八木忠栄さんが、
新人編集者時代から思潮社を退社されるまでに出会った様々な詩人たちとの交流を、
愛情のこもった文章で書き綴り、「静岡新聞」に連載されたものです。

一章にひとりずつ、総勢54名の有名詩人たちのエピソードが語られていくのですが、
読み始めてみると異常に面白く、読み終えてしまうのが勿体無くて、
だからゆっくり読もうと思っていたのですが、一章読み終わって、
次の章の詩人の名前を見て、数行目を走らせると、
もうその章の最後まで読まずにいられないほどでした。

とにかく全編、詩と詩人に対する愛に溢れていて、読んでいて幸福な気分になります。
私は詩作品を味わうために、詩人個人のことを知る必要なないと考える者ですが、
どのエピソードに登場する詩人も、愛すべきキャラクターの持ち主で、
いやがおうにも、もっとこの詩人のことが知りたい、
この人の詩集を読んでみたいという気分にさせられます。

田村隆一さんのエピソードなど流石に最高ですし、
吉増剛造さんや清水哲男さん、天沢退二郎さんなどの大詩人が登場してきた時代を、
ほぼ同世代の詩を愛する青年の目、また新米編集者の目で見た様子はとても新鮮、
それに大岡信さんや吉岡実さんなどの先輩詩人に愛されながら仕事をする著者の様子も、
興味深いものがありました。
他にも詩人と編集者という間柄でなくては発生しないやりとり、
またそんなときに見える詩人の横顔など、
ああこんな風に長い付き合いというのは築かれていくのだなあと思わされます。

また詩集という書物が、いかに大切に丁寧に作られてきたかも垣間見られます。
妥協のない詩集に仕上げるために、発案から出版まで何年もかかってしまったり、
子供のようにアイデアを出し合う様子にも、やはり著者の詩に対する愛情を感じます。
更にひとつの章の最後には必ずその章で取り上げた詩人の詩が一篇、
全文が載せられており、一種のアンソロジーとしても読むことが出来ます。

奥付を見ると発行は20年前の1986年です。
最近といえばまあ最近なので、
詩に詳しい人ならとっくに読了済みという方も多いかとは思いましたが、
面白かったので紹介してみました。
文中何度も繰り返してしまったように、とにかく詩と詩人への愛情に触れられる一冊なので、
まだ読んだことのない方、入手することは少々困難かと思われますが、
どこかで見つけたら是非。
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Mar 24, 2006

私はカメラと言うものに、

不思議なほど興味がありません。
自分のカメラを持ったことはないですし、欲しいと思ったこともありません。
シャッターを押した記憶すら、殆どありません。
と言っても別にカメラが嫌いというわけではなく、
ただ、不思議なくらいに「写真を撮る」という行為に対して、興味がないのです。

にもかかわらず、写真を見るのは好きなんですね。
マニア、というわけではありませんが、荒木径惟や川内倫子、
植田正治やなんかはわざわ作品集を買ったりしますし、
岩合光昭の動物写真なんかも好きです。

「アサヒカメラ」と「日本カメラ」というカメラ雑誌がありますが、
私はあれを良く見ます。
と言っても、毎月買っていては散財なので、古本屋で一冊百円で売っている奴を、
時折3,4冊買ってきて眺めます。
巻頭には、有名な写真家の新作が並び、それはそれで興味深く見るのですが、
それよりも私が好きなのは、投稿欄という奴です。

カメラ雑誌の投稿欄には、実に様々なアマチュアカメラマンが作品が犇めき合っています。
カメラを始めてすぐの人から、恐らくプロを目指しているであろう人まで、
またスナップ写真から、思い切り演出を施したものまで、
色々な被写体や状況の写真を見ることが出来ます。
カメラ人口は膨大なので、素人といえどもかなりのクオリティを持ったものが多く、
それだけでもかなり楽しめるのですが、その中でも1,2ヶ月に一枚ぐらい、
奇跡的と思えるほど凄い写真に出くわすことがあります。
明らかに撮影者の実力を超えたもので、それはもう技術うんぬんというよりも、
写真の神様が舞い降りたような偶然によって傑作となっており、
思わず切り抜いて額に飾りたくなるほどです。
その衝撃を目当てに、私はカメラ雑誌を買うのですね。

カメラ素人の私がいうのもなんですが、
写真と言うのは、非常に偶然性の高い表現手段だと思います。
その日の天候、光の具合、撮影者と被写体の気分、予期せぬハプニングなど、
様々な偶然的要素が一枚の写真に色濃く反映されます。
私はその偶然性というところに、とても惹かれてしまうのです。
プロの撮った写真であっても、勿論偶然性はあると思いますが、
それはプロとしての経験と勘が、偶然を嗅ぎつけるのでしょう。
素人カメラマンには、そういうことはあまりないはずです。
だからこそそこに現れた偶然は、混じりけのない純粋な偶然で、
そういうものに出くわすと、なんだか奇跡に立ち会えたような気すらしてくるのです。

考えてみれば写真に限らず、私は偶然性にばかり惹かれてきた気がします。
音楽の一期一会性には強く惹かれていますし、文学や詩の場合も、
計算ではなく奇跡のように現れた言葉に惹かれます。
絵画や彫刻、映画などを見るときでも、私が求めているのは技術よりも、
偶然性であった気がします。
ある意味、最終的に作品を作品足らしめるのは、偶然性なのではと私は思っています。

以前にも書いたような気がしますが、写真と詩は、なんとなく似ている気がします。
似ている要素については様々なものがあると思いますが、
そのひとつに、偶然性があるのではないでしょうか。
もちろんまず技術は大いに必要でしょうが、
端から端まで計算づくだったり、僅かなブレもない作品では、
幾らよく出来ていても、やはり面白くありません。
たったひとつだけでも、作品の中に奇跡や偶然が起こったとき、
詩にしても写真にしても、作品として成る(歩が金に成るように)のではないでしょうか。

そういえば以前思潮社の編集の方に、現代詩手帖の投稿欄にはマニアがいる、
ということを聞いたことがあります。
詩を投稿するマニアではなく、投稿欄の作品を読むほうのマニアです。
変わった人がいるもんだなあと思ったものですが、
考えてみれば私も写真を撮ることには興味がないくせに、
投稿欄の素人の写真ばかり見て喜んでいるのですから、
相当変わっているのかもしれません。
Posted at 01:27 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Mar 21, 2006

昨日は恒例の合評会の日。

今回はなんと岡山県から、斎藤恵子さんが参加してくださいました。
高見順賞の授賞式に出席するために先週末から上京され、
お帰りになる日曜日が丁度PSP合評会の日だったので、
参加していただくことが出来ました。

斎藤さんとは今回初めてお会いしたのですが、
とても活発で明るい方でいらっしゃいました。
高見順賞の授賞式を見るために、
わざわざ岡山から上京されるところからも、
その行動力の素晴らしさに恐れいるとともに、
本当に詩を愛しているのだなあと感じました。

今回、斎藤さんは作品も出してくださいました。
「零下の日」と題されたこの作品は、私の読んだところ、
雪の積もった日にバス停でバスを待つ女性の肩に手を伸ばしてくる、
幻想的で恐ろしい出来事と、その末路に垣間見える不確かな希望が描かれた作品でした。
斎藤さんは一昨年上梓された詩集「樹間」が中原中也賞の最終選考に残るなど、
大変高い評価を受けた方ですが、
その場所に安住することなく更に詩作の枠を深め広げようとされています。
今回出された「零下の日」も、
今までの斎藤さんの作品にはない魅力が更に加えられ、
しかも持ち味である独特な音感や不思議さ、水の感触などが更に磨かれ、
結晶していました。
更なる発展が非常に楽しみです。

今回の合評会では、季節がらか、春を題材にしたもの、
または作品のどこかに春を散らせたものが多く見られました。
そういうことをするのは、なんだかありきたりのように見えますが、
やはり日本の風土の中で生きて詩作している限り、
どうしても四季の節々の様子と物思いは密接であるようです。
平安時代の和歌の頃から現代に至るまで、また年齢の老若男女に関わらず、
このことは日本人の根底にあり、詩が現れる源になっていると思います。
ありきたりながらも、これが日本という地域で生きて詩作することの、
一番の利点ではないでしょうか。

そして柿沼徹さんからは、ご自身の詩集「浅い眠り」を頂きました。
内容は、実に最高。
にやにやしながら一気読み。
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Mar 18, 2006

暖かくなってきましたね。

スポーツのニュースを見ると、
WBCで日本が韓国に2連敗しちゃってます。
そうかと思うと、アメリカもメキシコに負けて、
日本がぎりぎり準決勝へ。
とは言っても、トリノオリンピックでも日本は不調でしたし、
今年の日本はスポーツ駄目な年なんでしょうか。
そういえば、夏にはサッカーのワールドカップもありますが…。

ネタがないので、詩手帖の特集「タイトル論」をパクッて、タイトルの話。
私はタイトルをつけるのが非常に苦手です。
詩を書くときには、タイトルはいつも最後の最後につけます。
それも何らかの形で人に見せるときにしかつけないので、
手元にある詩の殆どに、タイトルがついていません。

タイトルは、作品全体を鏡に映したものだと思います。
なんというか、作品全体と対になるものですね。
そのぐらいタイトルというものは重要で、
本当ならおろそかに出来ないものなのでしょうが、
私はどうも苦手です。
格好いいタイトルをつけたいとは思うのですが、
大抵は詩作品の中を眺め回してみて、
タイトルに出来そうな言葉を探してつけることが多いです。

タイトルのいい本は中身もいい、なんてことを言いますが、
必ずしもそうではない気がします。
すごく面白そうなタイトルがついていて思わず買ってみると、
意外とそうでもないものが多いですし、
中身がいいと思う本のタイトルを改めてみてみると、
意外と凡庸なタイトルがつけられていたりします。
勿論、タイトルも中身もバッチリというものもありますが、
それは寧ろ幸運な例であるように思います。

最近の新書はなかなか商売上手なタイトルが多いですね。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」とか「人は見た目が9割」とか
思わず知識欲を刺激されるタイトルがいっぱい。
しかしこれも、中身を見ると意外と普通であることが多いです。
…タイトルは著者以外の人がつけているのでしょうか。
また、よく小説なんかで、大げさすぎるタイトルを良く見かけます。
なんだか世界の根幹に関わるような凄いタイトルがついている小説を開いてみると、
なんのことはない、ただの内輪な恋愛話だったりします。
と書いてみて、自分の詩集のタイトルも、
なかなか大げさだったことを思い出して反省。

ジャンルを問わずに、私の好きな「タイトル」を挙げてみますと、
まず「叫ぶひと囁く」。
これは泉谷しげるのアルバムのタイトルですが、最強に格好いいですね。
勿論アルバムの内容もばっちりです。
小説家丸山健二のつけるタイトルも格好いいのが多いです。
「正午(まひる)なり」とか「虹よ、冒涜の虹よ」とか。
でもこの人の場合、タイトルがいいから中身もいいとは限らないようです。
波の激しい人ですから。
深沢七郎の「楢山節考」なんかも相当格好いいですね。
最後の「考」がなんとも利いてます。
これは内容も最高。
中原中也の「山羊の歌」なんかも、不気味に怖くていいですね。

他には町田町蔵のアルバム「腹ふり」、シオンの「夜しか泳げない」、
つげ義春の漫画「ねじ式」、夢野久作の小説「ドグラ・マグラ」、江戸川乱歩の「人間椅子」、
山田太一の「飛ぶ夢をしばらく見ない」、澁澤龍彦のエセー「少女コレクション序説」、
これは邦題ですが、マルキ・ド・サドの「ソドムの百二十日」、
ジャン・ジュネの「泥棒日記」などは、タイトルだけで思わず手が出たものでした。
これらはみんな中身も最高です。
しかし考えてみると、
諸手を挙げて讃えたくなるタイトルというのは、なかなかないようです。
やはりタイトル付けは難しいということでしょうか。

そういえば先日、
故手塚治虫さんの漫画「日本発狂」をタイトルに惹かれて買ってみたのですが、
中身は全然発狂していませんでした…。
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Mar 15, 2006

私はこのブログで

自分のことを「私」と書きます。
そして詩を書くときも、私は自分のことを「私」と書きます。

しかし私は普段、友人などと会話をするとき、
自分のことを「俺」と言うのです。
また独り言を言うときも「俺」です。
「・・・あれ、俺あれ何処やったっけ・・・」とか。
目上の人と話すときに「僕」と言うこともあったり、
また仕事や公的な場では自分のことを「私」と言いもしますが、
基本、個人的な私は「俺」です。

ならば詩を書くときも「俺」で書くべきところでしょうが、
私にはそれができません。
「俺」や「僕」は、口にするのは平気なのですが、
字面にすると、何故か非常に違和感を覚えてしまうのです。
これは飽くまで私個人が自分の詩に対して感じることですが、
字面にした「俺」「おれ」は、ちょっとハードすぎるような気がします。
また「僕」「ぼく」とすると、しゅっとした顔のお坊ちゃまっぽい気がします。
そこで「私」と書くと、なんだか違和感なくすんなりと書き進められます。

これはひとつは、「私」という文字が持っている没個性性が、
私の書くような詩には合っているということがあると思います。
「俺」や「僕」に比べて「私」は、
顔のない、実在するのか否かわからない雰囲気を持っています。
しかしこれが、詩を書く私には合っているのですね。
決して自分の個性を消そうとか、隠そうとかしているのではありません。
「俺」や「僕」で書くと、その表現自体に力がありすぎて、
自分を書こうとしても、逆にぼやけさせられてしまうのです。

それともうひとつ思うは、
恐らく私の中で「・・・なんで俺ばっか・・・」などと独り言を言っている「俺」な私と、
詩を書きつけている私は、別の私だということです。
その私が、「俺」でも「僕」でもない、強いて言うとするなら「私」なのです。
思えば子供の頃は、自分はひとつだけしかいなかったはずです。
成長するにつれて、自分を色々と使い分けるようになり、
そのひとつが、詩を書き始めたと言ったところでしょうか。

それに対して、私の中の「俺」は詩を書こうとしません。
「俺」にも勿論、苛立ちや嘆きや喜びは大いにあるのですが、
それを詩で表現することに、私は違和感を覚えるのです。
時折「俺」も、なにかしら書き殴ることがあるのですが、
私の目から見ると、それは「詩」という形で表現すべきものではありません。
だからこの先もし、それを表に出すことが仮にあったとしても、
詩という形以外で出すことになるはずです。

すると私が詩の朗読をしないのは、
「私」が書いた詩を「俺」は読むことが出来ないからでしょう。
自分が持っている朗読に対しての拒絶感を考えると、
「私」と「俺」は自分の中でも全く別の場所にいるようです。
なんというか、感じとしては、
「俺」より「私」の方が、より深い場所にいる気がします。
そして「私」は、日の当たる場所までは決して出てくることが出来ません。
だからこそ、「詩」というまどろっこしい形でなければ、自分を表現できないのです。
それを朗読するのだとしたら、もう「俺」に任せるしかないのですが、
「俺」にその役目は引き受けるつもりはありません。

朗読をされる方は恐らく、詩を書く自分と普段の自分が同じか、
または非常に近い場所にいるのではないでしょうか。
恐らくその方が詩人としては普通のことなのでしょうし、
客観的に見ても魅力のある詩人に見えるはずです。
しかし私は今のところ、そうはなれそうにありません。
Posted at 01:14 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Mar 12, 2006

今日は行きつけの古本屋、

町田の高原書店に行ってきました。

ここはでかいです。
古本屋なのに地上4階建て。
各階には小さな会議室程度の部屋が5、6部屋あり、
その全てが古書に埋め尽くされています。
扱う本も幅広く、文系、理系、芸術系他、なんでもありという感じ。

といっても私が主に見るのは、芸術系、サブカル系、文学系、そして詩ですね。
詩のコーナーもかなり充実していて、
恐らく今ではなかなか手に入らないであろう詩集がたくさんあります。
現代詩文庫も、都心の大きな本屋まで行かないとないようなのが揃っており、
また現代詩手帖やユリイカなどの詩誌も、
かなり古いものまでが良心的な値段で大量に置いてあって重宝します。
ここは私のリファレンスのような場所ですね。
田舎者にとっては、こういうところがあることは幸福なことです。

今日は八木忠栄さんの「詩人漂流ノート」(書肆山田)を買ってみました。
そんなに古くはない本ですが、様々な詩人さんのことが読みやすい文章で書かれていて、
面白そうだったので購入。
1260円也。
こういうのはじっくりと、時間をかけて読みたいです。

他には普通の本屋さんで、詩の森文庫「吉岡実散文抄」も購入。
吉岡実さんは散文を書くのが苦手だったそうですが、
喫茶店でぱらぱら見た感じでは、やはりちょっと不器用な文章ですね。
詩があれだけアクロバティックなのに、散文になるとこんなに実直な書き方になるとは、
人間とはやはり何処かでバランスを保とうとするものなのでしょうか。

ついでに、なんだか急に無性に読みたくなった「ゲゲゲの鬼太郎」も購入…。
Posted at 00:18 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Mar 09, 2006

最近は新書ブームだそうで…。

私も少々新書づいてます。
本屋に平積みされている新刊のキャッチコピーを見ると、
どれももの凄く面白そうに見えます。
それで思わず衝動買いすると、意外とそうでもないことが多い…。
何しろ最近の新書は、タイトルとキャッチコピーで100万部、みたいなところが
ありますから、ちゃんと中身を見てから買ったほうがいいですね。

最近読んだ新書で面白かったのは、これは少し古いものですが、
中野雄著「丸山眞男 音楽の対話」(文春新書)です。
政治学者丸山眞男とのクラシック音楽についての対話を、
丸山に師事した中野雄氏が様々なエピソードを交えて聞き取り書きしたものです。

私は丸山眞男について全く知識がないのですが、
この本を読む限り、丸山はかなりクラシック音楽に傾倒しており、
そのレベルは趣味の域を遥かに超えていたようです。
この本にはワーグナーやフルトヴェングラーについて、
たくさんの興味深い考察思索が書かれていて全編面白いのですが、
私が気になったのは「執拗低音(バッソ・オスティナート)」というものです。

この音楽用語は、例えば変奏曲などにおいて、様々に高音部のメロディーが変化する中で、
ずっと同じテーマを執拗に繰り返す低音部のことです。
高音部の変化は常にこの低音部を軸に展開され、
だから幾ら極端に変奏しても、低音部の主題に基づくことによって、
ひとつの音楽としてまとまるのです。
ジャズやロックのポピュラー音楽でも、ベースの存在は地味でありながら、
とても重要です。

高音部のメロディーは派手なので、嫌でも耳につきますが、
低音部は地味であるため、曲によっては聴き取ることすら困難です。
しかし優れた曲、優れた演奏では、聴こえなくとも聞き手のうちに入ってきて、
高音部のメロディーの意味を成立させる重要な存在です。
また高音部のメロディーを聴き取ることによって、
自然と低音部の主題を感じ取れる作品が、いい作品と言えるのではないでしょうか。

丸山はこれを日本の政治思想史に当てはめ、
日本独特の「執拗低音」に基づく形で日本の歴史はあり、
外国から入ってきたものが、どのような形で日本に馴染んでいくかを見ると、
日本の持つ「執拗低音」が見えてきて、それを見極めることが、
日本の歴史を思想的に捉えることに役立つ、というようなことを語っています。

丸山は政治学者ですから、
自分の専門分野に「執拗低音」という概念をあてはめましたが、
私は「政治学者」でなく、ただの「詩を書いたりなんかもするひと」なので、
やはり詩にあてはめてしまいます。

詩というものについても、やはりその根底に流れるものがなくては、
幾ら巧みに書かれていても散漫な印象を与え、
読み手の内にまで伝わらないのではないかと思います。
また、幾ら脈絡なく変化するように見える詩でも、「執拗低音」がちゃんと響いていれば、
その詩は表現として形を成すのではないでしょうか。
この場合の「執拗低音」とは、その詩人自身の根底に流れるものだと思います。
すると作品を作品足らしめるのは、「執拗低音」があるか否かであるかもしれません。

しかし自分の作品を眺めてみても、そこに「執拗低音」なるものがあるのかどうか、
ようわからんのですね。
それがあるようにと意識して詩を書いているわけでないですし、
なんらかの手法によって低音を打ち出すことも、実は不可能なようです。
書き手の内側から滲み出る形でないと、「執拗低音」は響きださないようです。
小手先だけの技術では、詩は詩として成立しないという結論に達しましたが、
私はまだまだ修行が足らんようです。
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Mar 06, 2006

もう春でしょうか。

花粉症の季節でしょうか。
私は今のところ花粉症にはなっていませんが、
あれは突然なるらしいので、毎年戦々恐々です。
私のまわりにも花粉症の人は多いので、
その人たちの苦しむ姿をみると…。

これといって書くことがないので困りました。
そうそう、現代詩文庫の「山本太郎詩集」を古本屋で購入。
この人の言葉は格好いいですね。
最初から読んでも途中から読んでも、
そのあまりの格好いい言葉に、するすると読み進められ、
詩を読む快楽がストレートに感じられます。
やっぱ私も男の子なもんで、
どうしたって格好いいのが好きなんですね。

別の古本屋では詩誌「ガニメデvol33」を購入。
噂には聞いてましたが、手にするのは初めてです。
普通の本屋さんで売っているところを見た事がないもんで。
まず、その分厚さにびっくり。
そして巻頭のT・Sエリオットの「聖灰水曜日」や、
ニコライ・コーノノフの「針葉の軍勢」などのボリュームにびっくり。
さらに執筆陣の多さ豪華さにびっくり。
あんまりびっくりして、まだあんまり読めていません。

ここ一年ほどで、少ないながらも詩人の方にお会いする機会が増え、
詩誌を頂くことが多くなりました。
近いところでは「たまたま」「あんど」「母衣」「ポエームTAMA」「鐘桜」
「ドックマン・スープ」「現代詩図鑑」「紙子」など頂きました。
すこしずつ詩誌を読む楽しみもわかり始めてきたところです。
以前ここにも書きましたが、私は著者名を隠して詩誌を読むのです。
すると先入観なく純粋に詩の言葉と対峙でき、
なんだか宝探しをしているみたいで面白いです。
最近では「母衣5号」の中の「朝倉」を読んでいいと思い、
あとで著者名を見てみると久谷雉さんの作でした。
読んでいたときには久谷さんとは気付きませんでしたが、
やっぱり地力のあるひとは、なにを書いても違いますね。

今日はこの辺で失礼…。
Posted at 01:13 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Mar 03, 2006

現代詩手帖3月号を購入。

今年もはや2ヶ月が過ぎたというわけですね。

とりあえず詩作品をざっと読んでみると、
季節柄か雪を扱ったものが多いですね。
新連載の田中清光さんの詩も雪がモチーフです。
雪に覆われた世界を、人類世界に重ねて眺めながら、とつとつと歩いていく感じ、
社会性が垣間見えるのに美しさを保っている、とてもいい詩です。
私が惹かれたのは、オヤールス・ヴァーツィエティスという、
ラトヴィアの詩人の作品「リーガの吹雪」
ちょっと滑稽で、同時に染みる作品です。
篠原資明さんの短詩も楽しくていいですね。

入沢康夫さんの連載「偽記憶」を私は面白く読んでいるのですが、
これは以前からの入沢さんのファンの方はどのように読んでいるのでしょうか。
この連載の詩は散文的で難解さがなく、野暮な言い方をすれば、
「ものすごく大人の星新一」といった趣があって単純に楽しめるのですが、
物足りなさを感じる人も多いのかもなんて思います。

多和田葉子さんの詩は、
軽い言葉の響きを千切って並べて、人間の暗い欲情を描いているようです。
多和田葉子さんに関しては、10年ぐらい前に初めて読んだ
「光とゼラチンのライプチッヒ」という短篇がとても面白く、
その後、芥川賞を取った「犬婿入り」を始め、本が出るたびに読んでいました。
私はなんとジャンル分けしていいのかわからないような小説が好きで、
そんな好みに多和田さんの小説世界はぴったりあっていました。
「ゴットハルト鉄道」とか、面白かったですね。

最近単行本になって高見順賞をとった伊藤比呂美さんの「河原荒草」は、
多和田さんの小説世界に通ずるものがあって、手帖の連載時は面白く読みました。
個人的な好みですが、できれば「河原荒草」は詩ではなくて、
小説と銘打って出して欲しかったなあなんて思います。
そのほうが、反発が大きくてよかったんじゃないでしょうか。

詩誌月評には「ルピュール2号」から有働薫さんの詩が引用紹介されています。
Posted at 00:45 in n/a | WriteBacks (0) | Edit
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