Mar 09, 2006

最近は新書ブームだそうで…。

私も少々新書づいてます。
本屋に平積みされている新刊のキャッチコピーを見ると、
どれももの凄く面白そうに見えます。
それで思わず衝動買いすると、意外とそうでもないことが多い…。
何しろ最近の新書は、タイトルとキャッチコピーで100万部、みたいなところが
ありますから、ちゃんと中身を見てから買ったほうがいいですね。

最近読んだ新書で面白かったのは、これは少し古いものですが、
中野雄著「丸山眞男 音楽の対話」(文春新書)です。
政治学者丸山眞男とのクラシック音楽についての対話を、
丸山に師事した中野雄氏が様々なエピソードを交えて聞き取り書きしたものです。

私は丸山眞男について全く知識がないのですが、
この本を読む限り、丸山はかなりクラシック音楽に傾倒しており、
そのレベルは趣味の域を遥かに超えていたようです。
この本にはワーグナーやフルトヴェングラーについて、
たくさんの興味深い考察思索が書かれていて全編面白いのですが、
私が気になったのは「執拗低音(バッソ・オスティナート)」というものです。

この音楽用語は、例えば変奏曲などにおいて、様々に高音部のメロディーが変化する中で、
ずっと同じテーマを執拗に繰り返す低音部のことです。
高音部の変化は常にこの低音部を軸に展開され、
だから幾ら極端に変奏しても、低音部の主題に基づくことによって、
ひとつの音楽としてまとまるのです。
ジャズやロックのポピュラー音楽でも、ベースの存在は地味でありながら、
とても重要です。

高音部のメロディーは派手なので、嫌でも耳につきますが、
低音部は地味であるため、曲によっては聴き取ることすら困難です。
しかし優れた曲、優れた演奏では、聴こえなくとも聞き手のうちに入ってきて、
高音部のメロディーの意味を成立させる重要な存在です。
また高音部のメロディーを聴き取ることによって、
自然と低音部の主題を感じ取れる作品が、いい作品と言えるのではないでしょうか。

丸山はこれを日本の政治思想史に当てはめ、
日本独特の「執拗低音」に基づく形で日本の歴史はあり、
外国から入ってきたものが、どのような形で日本に馴染んでいくかを見ると、
日本の持つ「執拗低音」が見えてきて、それを見極めることが、
日本の歴史を思想的に捉えることに役立つ、というようなことを語っています。

丸山は政治学者ですから、
自分の専門分野に「執拗低音」という概念をあてはめましたが、
私は「政治学者」でなく、ただの「詩を書いたりなんかもするひと」なので、
やはり詩にあてはめてしまいます。

詩というものについても、やはりその根底に流れるものがなくては、
幾ら巧みに書かれていても散漫な印象を与え、
読み手の内にまで伝わらないのではないかと思います。
また、幾ら脈絡なく変化するように見える詩でも、「執拗低音」がちゃんと響いていれば、
その詩は表現として形を成すのではないでしょうか。
この場合の「執拗低音」とは、その詩人自身の根底に流れるものだと思います。
すると作品を作品足らしめるのは、「執拗低音」があるか否かであるかもしれません。

しかし自分の作品を眺めてみても、そこに「執拗低音」なるものがあるのかどうか、
ようわからんのですね。
それがあるようにと意識して詩を書いているわけでないですし、
なんらかの手法によって低音を打ち出すことも、実は不可能なようです。
書き手の内側から滲み出る形でないと、「執拗低音」は響きださないようです。
小手先だけの技術では、詩は詩として成立しないという結論に達しましたが、
私はまだまだ修行が足らんようです。
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