Dec 31, 2006

暮れのご挨拶。

年末に近づくにつれて寒さが厳しくなってまいりましたが、
みなさまお風邪などひいてらっしゃらないでしょうか。
今年一度でもこちらへ足を運ばれた方、
そして何度も足を運んだという奇特な方、
トラックバックをつけてくださった神様のような方、
どなた様にも心より厚く御礼申し上げます。
みなさまにとって2007年が素晴らしい年となることを心よりお祈り申し上げ、
今年最後の更新とさせていただきます。
来年もどうかお立ち寄りのほどを。

で、ついでといってはなんですが、
現代詩手帖1月号の方にイベントのレポートを書いていますんで、
ご高覧頂けたなら幸いです。
で更に言いますと、タイトル横に載っている当日の写真で、
一番手前に写りこんでいるぼさぼさ頭が私です。

それではみなさま、よいお年を!

小川三郎拝
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Dec 28, 2006

ギャンブラーズ・ブルース

突然ですが、私はギャンブルというものが好きではありません。
真面目とかそういうことではなく、全く興味を感じられないのです。
それでも友人との付き合いもあるので、パチンコや競馬や競輪など行ったことはあるのですが、
どれもその場限りで、少なくとも自主的にギャンブルをしに行ったことは一度もありません。
付き合いと言えどパチンコやパチスロは回数にしてみれば結構行っているのですが、
いまだにルールというか、やり方すらも覚えられません。

何故好きになれないかといえば、恐らくはギャンブルで勝つことに喜びを感じられないからでしょう。
まあ付き合いで遊び半分にやっていても、時には勝ってしまうこともあります。
すると払い戻しとして何千円か何万円かのお金が手元に戻ってくるわけですが、
そのお金を見ても、びっくりするほど嬉しくないのですね。

勿論お金自体に興味がないわけではありません。
私も人並みにお金は好きです。
でもギャンブルで勝ったお金というのは、なんかこう、違って見える。
自分の給料が入っている口座からおろした一万円札はとても重みのあるものに見えているのに、
ギャンブルで勝った一万円札は、なんかほんとに、ただの券にしか見えないのです。
お金は所詮紙切れといいますが、全くその言葉通り、貴重なものという実感がわきません。

この感覚、ギャンブル嫌いな人間だけなんだろうなと思っていたのですが、
ギャンブル好きの友人がパチンコで勝ったお金をその直後、
ぱーっと無駄遣いとしか思えぬ遊びや飲み食いに全部使ってしまったり、
よせばいいのに更にパチンコを続けて全部すってしまったりしているのを見ると、
多かれ少なかれ彼らも同じような感覚を持っているのかもしれません。
悪銭身につかず。
あ、ちなみに私はギャンブルをする人を蔑んだりとかそういう気持ちは全くありません。
ギャンブルも正当なお金の使い道だと思いますし、人がなんと言おうと本人が満足ならいいと思います。

で、ギャンブルで勝って得たお札、あれをじっと見ていると、なんか不思議な気分になってくるんですね。
こーんなただの紙切れで事実上人間様の価値や幸不幸が決まってしまうのかとか、
証券会社や銀行で他人のお金を扱っている人は、こんな目でお金を見ているんだろうなあとか、
そりゃ何億円税金無駄遣いしたって抵抗なくなるよなあとか。
そんな虚しさが実感としてわいてくると同時に、そういうことが仕方ないことのように思えてくるのです。
自分でかけた魔法なだけあって、実に素直に人間は操られ、ことを進めていきます。
恐らく私も彼らのような立場だったら、それがどんな大金でも、
どぶに捨てるような使い方をして平気でいるでしょう。
そんな仕組みであるからこそ、いいにつけ悪いにつけ、世の中はまわっているのかもしれません。

なんてことをつらつらと書いたのは、つい先日また友人数人に付き合ってパチンコをやった際、
何故か私だけ偶然結構な大金を勝ち、ああこれで新しいコート買っちゃおうかなあと思ったのも束の間、
直後に全額その場にいた友人の飲み代に消えたことへの、なんとも言えない不条理な思いからでした。
とほほ。
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Dec 23, 2006

ガイドブック

おおっ、灰皿町は初雪ですか。
私の住んでいるところでは、雪は当分先っぽいです。

最近はまとまった読書が出来ていないのですが、
先月ぐらいまで「文学界」に連載されていた「無意味なものと不気味なもの」というのが面白かったので、
その著者の春日武彦の本をちょこちょこ読んでいます。
この人の本業は精神科医で、著作の殆どは本業の経験からのものなんですが、
どうやら文藝関係の読書量が半端ではないようで、異常に文章が上手で読ませるのです。
描写力など本職の物書きなみの上手さで、羨ましくなります。
さらに患者さんの症例に、小説などからの引用文とをうまく絡め、所謂狂気について考察していくので、
本が好きな人はかなり楽しめると思います。
引用されるものは医学関係書は勿論、純文学から海外ミステリーといった古今東西の文芸作品、
更には詩や短歌まで出てきて、ブックガイドとしても使えるぐらいに豊富です。

ところで私はガイドブックという奴がすごく好きなんですね。
出不精なんで旅行とかそういうガイドブックは読まないんですが、
本とかCDなんかのガイドブックは大好きです。
音楽も本も、新しいジャンルに興味を持つと、すぐにそのガイドブックを探してきて、
あれもよさそう、これもよさそうとひとりでやっています。
暗っ!
思えば中学生の頃に音楽雑誌で「ロック名盤ベスト100」とかそういう企画を見て、
そこに出ているアルバムを全部聴いてやろうと躍起になっていたのが最初でしょうか。
ブルースに興味を持ったときには「ブルースレコード・ガイドブック」なるムックを買ってきて、
欲しいアルバムにサインペンでチェック入れたりして、ボロボロになるまで使ってました。
その後も音楽ではジャズ、クラシック、本では海外小説、SFなど、
新しいジャンルに興味を持つたびにガイドブックを買ってきて読みふけり、
せっせと本屋やレコード屋に出かけては棚が本とレコードに埋め尽くされていくという日々・・・。
駄目すぎます。

春日武彦の著作に惹かれたのも、八割はそのガイドブック的要素からだったりして。
多分しばらくはここに出てきた小説で面白そうなのをあちこち探し回っていることでしょう。
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Dec 19, 2006

12月の合評会。

昨日の日曜日は、今年最後のPSP合評会の日。

この日私が一番だと思ったのは、小網恵子さんの「池」でした。
夜中、心と身体の境目に現われた池を見詰め、
そこにあるものが自分に与える影響を予感しながらも、不安定な足元を確かめつつ近づいていき、
自ら折り重ねた記憶をそっとめくって見ることをためらっているような作品でした。
小網さんが表そうとしているものは、下手をすると気付かずそのまま流れ去ってしまうような、
そんな非常に繊細な感覚です。
しかしそれでもその感覚が読むものの胸の内に流し込んでいけるのは、
小網さんの持つ非凡な技術の成せるわざなのでしょう。
改めて書く技術の大切さを思い知らされると同時に、
自分の内側を恐れずに見詰めることの大切さを思いました。

また福士環さんの作品も心に残りました。
個人的な経験からもたらされた、個人的な思想、考え方の変化について書かれたものでしたが、
このような作品にありがちな排他的であったり押し付けがましかったりという感じが全くなく、
別の環境やものの考え方をしている人にも、素直にその変化が受け止められる柔らかな作品でした。
福士さんは恐らくは特定の人に向けてではなく、
幅広い人へ向けて言葉を発していかれたいのだと思います。
言葉でこねくりまわしたり誤魔化したりせず、素直な目で自分の内側を見詰めることは、
逆に外側に向って伝える力になっていくことを改めて感じさせられました。

今年一年合評会に参加して、なかなか得るものは多かったと思います。
自分では気付かなかった欠点を知れたりもしましたし、詩の読み方というものも随分わかってきて、
すると今まで随分薄っぺらな読み方しかしていなかったことがもったいないです。
また、様々な人にも出会えましたし、飲み会では他では知れない詩壇の事情や、
いろいろな詩人のエピソードなども知ることができました。
合評会というものは否定的な見方もされがちですが、いい意味で自分勝手に利用すれば、
なかなか有益な場所だと思います。
また来年も懲りずに参加する予定…。
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Dec 12, 2006

名前など。

12月に入ってなかなか色々と忙しいです。
ブログもさぼり気味になりますね。

私の小川三郎という名前は筆名です。
当然ながら本名は別にあります。
この筆名は、以前現代詩手帖に投稿を始める際につけたもので、
意味があるといえばありますし、ないと言えばありません。
元来私は名前というものに執着心を持っておらず、なくてもいいとすら思っています。
しかしなければやはり困りますから、一応つけてあるとその程度です。
ということで小川三郎と言う名前は、筆名というよりも寧ろ偽名に近いものです。

もしも誰かが私の作品を知る機会があったとして、
私は小川三郎という名前を覚えて欲しいとは思いません。
ただその作品の中の一行の半分でも心の中に残ってくれれば、それで充分です。
「ああ、その詩知ってる。いや、誰が書いたかまでは知らないけど…」くらいが私の理想ですね。
まあ、とてもそこまでは行かないでしょうが。
有名になるには勿論作品よりも寧ろ名前を売ることが必要でしょうが、
私にはあまりそういう欲求もないですし、もしも名前か作品のどちらかが僅かにでも認知されるなら、
それはやはり作品の方がいいです。

例えば谷川俊太郎さん。
この方は勿論大変に有名で素晴らしい詩人であり、名前作品ともに世間で認知されていますが、
それでも谷川俊太郎という詩人は知っているし顔も知っているけど、
その作品はと言われると出てこない、という人は世間にはたくさんいると思います。
逆に、「鉄腕アトム」のアニメの主題歌。
ある世代から上の方は、ほとんど誰もがこの歌をご存知でしょう。
しかしこの歌の歌詞を作詞したのが谷川俊太郎であることを知っている人は、
普段から詩に親しんでいる方々は勿論ご存知でしょうが、
世間的には案外少ないのではないでしょうか。
実際私がこのことを友人に話したりすると、驚く人が結構います。、
私は後者のほうがかっこいいと思いますし、理想です。
本音では、そう思われている人も多いのじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

んー、ちょっと尻切れトンボですけど、今日はこの辺で…。
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Dec 06, 2006

現代詩手帖12月号を購入。

去年もこの「現代詩年鑑」についてはここで書いたような気がします。
今年も一年早かったですねー。

巻頭は佐々木幹朗氏、田野倉康一氏、水無田気流氏による討議。
しかし水無田さんは中原中也賞受賞以来大出世ですね。
私が詩手帖に投稿を始めた年に詩手帖賞を受賞されたので、なんかとても親近感があります。
誌上そしてイベントと、様々なところで精力的に活躍されているのを見ると、
つくづくすごい人だなあと感嘆してしまいます。
いま一番求められている人でしょう。
詩も書けて、しっかりした論も展開できる方ですから、今後も詩の世界に厚みを与える一人として、
広範囲に渡って活躍していってもらいたいものです。

他の特集では毎年恒例、様々な詩人が今年出た詩集を取りあげて論じています。
とにかく凄い量ですので、これはもう読んでもらうしか。
挙げられている詩集で多いのは、やはり「新しい詩人」シリーズ。
ざっと見たところ、三角みづ紀さんの「カナシヤル」、石田瑞穂さんの「片鱗篇」の評価が高いようです。
ふと思ったのですが、今年は第二詩集が多く出た年だったんですね。
そしてその出来がいいことに驚かされます。
最初の詩集を編むときに学んだことを最大限に生かして作っておられるのでしょう。
処女作を超える、というのは、表現者がぶつかる最初の壁でしょうが、
多くの方がクリアしているようで、一度の評価に満足しない姿勢を見せ付けられます。
個人的に嬉しいのは、私が書評を書かせていただいた斎藤恵子さんの「夕区」が、
実に多くの人から高い評価を得ていること。
あれは素晴らしい詩集でした。
きっとなんらかの賞をいただけるに違いありません。
そしてここで取り上げた斉藤倫さんの「オルペウス オルペウス」、薦田愛さんの「流離縁起」、
和合亮一さんの「入道雲入道雲入道雲」、手塚敦史さんの「数奇な木立ち」、
キキダダマママキキさんの「死期盲」も沢山の方が高評価を与えています。
どれも大好きな詩集ですから嬉しいですね。
新人では望月遊馬さんの「海の大公園」が注目されています。

拙詩集は去年のこの時期に出たので、すっかり忘れられているだろうなと思いきや、
幾人かの人が名前を出してくれてますね。
感謝。

うーん、年鑑は内容が盛りだくさんな分、逆にレビューすることがないですね。
ていうかあまりのボリュームに、実はまだ三分の一も読めてなかったりして。
年末にかけてじっくり読むことにしましょう。
普段詩手帖は立ち読みで済ましている方も、この号だけは買っておいてもいいんじゃないでしょうか。
詩人住所録の載っていることだし。
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Dec 02, 2006

12月

になっちゃいましたねー。
今年も早かった…。

以前、クラシックのピアノ曲などを聴きはじめた頃、
元々好きな曲だったり、印象的なメロディーを持った曲だと割と楽しんで聴けるのですが、
ちょっと難解な曲や渋めの曲を聴くと、やはりちょっと退屈してしまいました。
演奏者についても、どぎついぐらいの個性を持っている人はいいのですが、
渋めの魅力を持った演奏者などだと、違いがよくわからず、音が耳を素通りしてしまって、
せっかくCDを買っても一回しか聴かなかったりでした。

しかし、誰の演奏を聴いているときだか忘れましたが、
あるときふと、これは音楽として受け入れるよりも、
一種の言語として受け取った方がいいのではと思い、
これは「ピアノでしか喋ることが出来ない人が発する言葉」だと想像して聴いてみると、
言葉で説明することは出来ないまでも、作曲者や演奏者が何を思っているのかが、
強くこちらに伝わってくるような気がしました。
途端にピアノの曲を聴くのが面白くなり、
いままで一回聴いたっ切りでしまいこんでいたCDを引っ張り出して聴いてみると、
なんでもないと思っていた演奏が驚くほど面白く聴こえてきて、また同じ曲でも演奏者によって、
大きく話し方が違うのがわかり、以来そんな風にしてピアノ曲を聴いています。

読んでもよくわからない詩に行き当たった時、私は上記のことを応用して、
これは文学ではなく、「こうしか喋ることのできない人が発する言葉」だと思って読みます。
すると、それまでさっぱり意味の通らなかった言葉が、すっとこちらの胸に馴染んで来たりします。
とてもわかりゃしないと数秒前まで思っていた詩句から突然意味が浮き出てくる瞬間というのは、
なかなかクセになります。

どうも私はいつのまにか、先入観という壁を自分で作ってしまっていたようでした。
ピアノ曲とはこういう風なもの、詩とはこういう風なもの、といった先入観をもってしまうと、
その領域からはみ出したものは、頭が激しく拒否反応を起こして受け付けなくなってしまいます。
しかし考えてみると、私の勝手な先入観が作り出していた領域とは、
呆れるほど狭いところであったようで、
取り去ってみると実に広々としてスリリングな景色がみえてきました。
大胆に言ってしまえば「音楽」や「詩」と言った括りでさえ、先入観に過ぎないのかもしれません。

私たちは主に共通の言語でコミュニケーションをとり、必要最低限の事はそれで済むのでしょうが、
それだけでは伝えられないことも数多くあります。
そういったことを伝えたいと欲するとき、
ひとは現在音楽なり詩なりと一般的に括られているような特殊な言語を使って、
より深いコミュニケーションを図ろうとするのでしょう。

すると芸術というのは、多言語の世界のようです。
映像や彫刻や絵画などの表現方法は、それぞれ固有の言語であって、
更にひとつの言語の中でも、個人によってかなり話し方が違ってきます。
しかしそれを聞き取るのは比較的楽でも、自分から話せるようになるのは難しい。
ひとつの言語を話すことを習得するには、一部の天才を除けば、一生かかるぐらいなので、
殆どの人が、ひとつの言語を話せるようになるのがせいぜいでしょう。
詩と彫刻をやる、と言う人も中にはいますが、一種のバイリンガルと言えるかもしれません。
複数の言語を合わせてひとつの言語にする例もあり、
映像というものが現われてからは、特にその傾向が強いようです。
音楽と映像という二つの言語は、抜群に相性がいいですし、詩と絵画にもその傾向があるようです。
建築はそれ自体ひとつの言語でありながら、その外部や内部に無数の言語を取り込むことが出来ます。
また言語の中には、非常に似た言語もあるようです。
詩と写真なんて、結構言語的には似ている気がするのですが、どうでしょう。
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Nov 27, 2006

現代詩60年を語る

25日はジュンク堂書店池袋本店で行われた、城戸朱理さん、和合亮一さん、小笠原鳥類さんによるトークイベント「現代詩60年を語る」に行ってきました。会場は4階にある喫茶店。その狭い空間に40人ほどの聞き手が集い、先鋭的なお三方のお話にじっと耳を傾けていました。

城戸朱理さんからは戦後詩60年の、包括的な流れについて語られました。「荒地」から始まり、谷川俊太郎さんなどの新世代への飛翔、そして政治的活動の影響が濃い60年代詩への突入、外国詩の影響など。今更言うのも失礼ですが、城戸さんの豊かな知識と深い考察から紡ぎ出されてくる言葉は、知識の浅い私にはとても新鮮で刺激的でした。またお話の中に、外国の著名な詩人たちが日本の俳句に大きな関心を持っていたということがあり、はっとさせられました。日本人とは別の目で感じ取った俳句の魅力や新鮮さは、改めて私たちが見詰めなおすべきことだろうと思います。

和合亮一さんは司会を兼任しながら、90年代の初頭から詩を書き始めた人間から見た詩の実情をお話されました。和合さんは常に行動する詩人であることから、自然お話はご自身の体験からのことが中心になるので、聞く者には親近感が持ててわかり易く、そのひとつひとつのことに会場は大きくうなづいていました。また面白い経験も豊富に持っていらっしゃって、張り詰めた空気の会場を和ませていました。和合さんは谷川俊太郎の影響から詩作を始め、大学の先生の言葉から吉岡実に傾倒していったとのこと、このあたりは詩を書く者として非常に興味深いものがありました。

小笠原鳥類さんはレジュメを用意し、吉岡実を中心にして、高貝弘也さん、野村喜和夫さん、キキダダマママキキさんの詩の言葉の魅力について語られました。日常で交わされたり著述されたりする言葉とは、同じ言葉でも完全に異質である詩の言葉の力、その煌きや屈折に敏感に反応する小笠原さんの鋭い感受性、そしてその感動を多くの人に伝えたい、感じて欲しいという熱意に満ちた語りでした。また、書店などの一角にある詩集のコーナーに「闇市」の雰囲気を感じるというお話が印象的でした。

一時間半ほどのトークイベント、60年を語るにはあまりに短い時間でありましたが、それでも重要であることがいくつも提示され、観にきた人はみな満足して帰られたのではないでしょうか。

イベントが終わったあとは、例によって打ち上げ。主役のお三方を囲んで、若い方を中心に、かなりの人数が参加されました。私も端っこに参加。

ここで私はとても若い詩のマニアの方とお話することが出来ました。嬉しいことにその方は私のことをご存知でいらして、このブログも時折読んでくださっているとのこと。それどころか、私が現代詩手帖に投稿していたときから知っていたというから相当なマニア、更に現代詩新人賞の最終選考まで残ったということで、詩の腕も確かなものをお持ちです。話していると、とにかく詩が好きだというエネルギーがびんびんと伝わってきて、詩の読者が不在と言われる中にあっても、ちゃんとこういう方がいらっしゃるのだなあと嬉しくなりました。まだ23歳とのことで、このような方が、これからの時代を作り上げていくに違いありません。詩の未来の、具体的な姿を見たような気がしました。

打ち上げは二時間ほどで一端終了し、お店を変えて二次会へ。次の日が日曜日ということもあって、20人ほどの人が夜通しの詩談議を繰り広げました。その大部分が若い方であったことは重要であると思います。20代を中心に30代、40代の詩人たちが活発に意見交換して刺激し合う様子は、詩の現在と未来を感じさせます。詩への情熱を持った若い世代はいま確実に存在し、それぞれに次のことを考えています。とにかく凄いエネルギー。全くテンションが衰えることなく朝を迎え、私は5時半ぐらいにお暇したのですが、その後もまだまだ詩談議は続いたようでした。参加された方々、どなた様もお疲れ様でした!
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Nov 22, 2006

PSP合評会。

先日の日曜日はPSP合評会でした。

参加者12人という、この会にしては大人数での合評、また初めて参加される方もいらっしゃって、
なかなか熱い意見が飛び交いました。

面白かったのは竹内敏喜さんの作品。
印象的な引用文を三つ並べ、その後に自作を持ってきて一つの詩として完成させるコラージュ的な作品で、
変わったやり方ではありますが、その並べられた引用文というのが、相互関係がないように見えて、
しかしなんらかの関連性を予感させるものであり、
この手法のメリットを最大限に生かしているものだと感じました。
手法というものは、表現したいものが先にあってから選ばれるべきだと思いますが、
この作品はまさに題材に手法が選ばれた感があり、変則的と見える手法でも、
実に自然に鑑賞することができました。
ここらへん、私にとっては収穫でした。

北見俊一さんの作品も、とても楽しめました。
中世のお嬢様のような文体で書かれたこの詩は、あちこちに別の意味が隠されているような、
そんな不思議な魅力を持っていました。
勘ぐる内に、勝手にこっちでいろいろ想像を膨らませてしまったりして、しかしそんなことも、
詩を読む楽しみのひとつだと思います。
北見さんもまた、あるひとつの感情を表現するために、自由に、また的確に表現手法を選んで、
詩を書いていらっしゃます。
今回の作品も、読者をいろいろ惑わしながらも、北見さんが表現したかったものは、
読み手へしっかりと伝わっていたと思います。

ところで私の作品はというと、またもや厳しい意見に曝されてしまったのですが、
痛感したのは、ひとつの言葉を選ぶ重要性です。
頂いた意見の多くが、細かな言葉遣いに関するものでした。
自分ではいいと思った語句も、人から見れば違った印象を持たれたり、作為の跡が見え見えだったり、
軽い気持ちで使った言葉から、そのいい加減さが見透かされてしまったり、
たったひとつの言葉を間違えただけで読む者を混乱させてしまったりと、
今更ながら言葉選びの大切さを思いました。
このことは詩を書く限り、永遠の課題とすべきところでしょう。
このように、自分だけでは気付けない部分をばっちり指摘してもらえるのは、
合評会の有意義なところ。
遠慮せずに意見を言ってくれるひとはありがたい存在です。

今回は、今村純子さんが初めて合評会に参加してくださいました。
今村さんは、以前に合評会に参加してくださった大谷良太さんのご友人です。
芸術哲学、芸術倫理学がご専門であるそうで、ご自身で詩を書かれることはないそうですが、
詩人に興味があるということで、参加してくださいました。
「詩を読む人」と「詩を書く人」がイコールに近いという現状においては、
「詩を書かない人」の意見というのは非常に貴重で、大切なものではないでしょうか。
是非またご参加いただいて、たくさん意見を言っていただきたいところです。
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Nov 18, 2006

レビューが続きましたので、

今日はちょっと雑談を。

私は何年か前、自分はどうやら物語の結末というものに興味がないようだと気がつきました。
小説や映画など物語と呼ばれるものに昔から多く接して来て、それは現在も続いていますが、
考えてみれば、どれを鑑賞している最中にも「どうしてもこの話の結末を知りたい」という欲求には、
本当のところ駆られたことは殆どなく、だからつまらなければ途中で鑑賞をやめることに、
それほど未練を感じません。
お金を払っていますから、一応映画なんかは最後まで観ますけど。

今は全くやりませんが、随分前にはテレビゲームなどをしていたこともあり、
「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」といったロールプレイングゲームなどもやって
みましたが、その中の幾つかのエンディングを私は見ていません。
クリアできなかったのではなく「この敵を倒したら間違いなくエンディング」という所まで到達すると、
急に興味を失って、ゲームを放り出してしまうのです。
結末を見たくないというより興味がもてず、その為に苦労して強い敵を倒す気になれなかったのです。
今から思えば、私がゲームの中で一生懸命敵を倒していたのは、ゲームの続きを見たいからであって、
結末にたどり着くためではなかったのでしょう。

どうやら私の興味は物語自体にはなく、物語の持つ雰囲気や世界観などにあるようです。
そういうものに浸りながら、流れを追っていくのが好きなんですね。
だから、そういうものさえ魅力的であれば、結末がどんなにしょぼかろうと、私には面白い作品です。
私の好きな映画や小説などを思い返してみると、その雰囲気や世界観に惹かれたものばかりですし、
中には正直どんな結末だったのか思い出せないものもあります。
好きな映画のビデオを引っ張り出して観てみたら、結末の直前でちょん切れていたとしても、
私はそれほどショックを受けないでしょう。

話の展開の面白さに惹かれることはあります。
まずなにが起こって、その次に何が起こって、それが連鎖してこんなことになって、のような事は、
そのスピード感や転がっていく方向などをディテールとして捉えられて楽しめます。
その延長線上に結末があるのであれば、それはディテールとしてどんな結末になるか楽しみです。
しかしそういう作品の場合、一度の鑑賞は楽しめても、雰囲気や世界観に強く惹かれていなければ、
もう一度その流れに身を任せたいとは思いません。
私がその作品に惹かれるかどうかの基準は、あくまで雰囲気や世界観によるものであって、
物語性によるものではないようです。

詩という形態には、ストーリー性や結末などは必ずしも必要とされません。
ある程度以上の展開を持たず、物語に義務付けられるような結末も持たない場合が多いです。
そういう作品は、大多数の人が読みにくいと感じるのではないでしょうか。
詩は物語の一種であるという意識が働いてしまっていると、
物語に必要な最低条件を満たしていない詩は未完成品であるように見えて、
つまらないもの、取るに足らないものと判断されてしまいます。

しかし詩の魅力というのは、当然のことながら物語の巧みさではなく、
その詩自体が持つ生の力であり、そこから噴出される雰囲気やディテールです。
それさえあれば、その詩はひとつの優れた「作品」として、まずは存在出来るはずです。
ただ難儀であるのは、物語の巧みさは、たくさん勉強すれば得られるものかもしれませんが、
優れた詩を書けるか否かは、ある程度の天性に寄ったり、偶然性が大きく関わっているということです。
だからこそ、魅力的な詩というものは、発表される詩全体の数に対して、非常に少ないのでしょう。
私のように物語性を求めないような者でも、惹き込まれる詩集にはなかなか出会えません。
一篇の優れた詩は、ある種の奇跡とすら言えそうです。

また、読む者を詩の魅力にまで引き連れてくるには、「詩は物語の一種ではない」ということを、
一瞬にして読むものに知らしめなくてはならず、その為には最初の数行で、
「これは物語とは全く別のものだ」と直感させるような凄い詩句が必要となります。
しかしそんな口で言うほど簡単に事が済めば、誰も苦労なんかしませんね。
と言うか考えれば考えるほど、やはり優れた詩は難しいというより奇跡以外の何ものでもないようで・・・。
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Nov 14, 2006

入道雲入道雲入道雲

和合亮一さんの新詩集「入道雲入道雲入道雲」(思潮社)を読みました。
一年前に刊行された前作「地球頭脳詩篇」が第47回晩翠賞を受賞し、
その興奮も冷めやらぬうちの刊行です。
第五詩集。

白い装丁にタイトルが筆で書き叩かれたこの詩集の内容は、
「入道雲」、「入道雲入道雲」という二つの長編詩からなっています。
開いてみると、最初のページからいきなり言葉が中空を疾走し始め、
読み手を引っ張るというよりも、駆け抜ける勢いで詩句が放られていきます。

詩の中にドゥカティというバイクの名前が出てくることもありますが、
この疾走感はバイクに似ています。
詩人はバイクを駆って、故郷の風景とそこで暮らしてきたことの記憶、
そして白々しい情報が飛び交う現在を縦横無尽に駆け抜け、
その光跡がそのまま詩へと変換されていくようです。
詩人和合亮一の住む世界は詩句で満ち溢れた世界なのでしょうか。
散りばめられた言葉は詩人自身のものでありながら、
詩人の三十八年の人生を外側から包括的に見つめる目ともなり、
いきおい詩人の生まれる以前と死後にまで広がっていきます。
このようにスケールの大きな作品であるにも拘らず、読み手を高みから見下すのではなく、
常に寄り添うような言葉使いで誘うあたりも、和合さんの詩の魅力のひとつでしょう。

後半の「入道雲入道雲」に入ると、テーマは変わらずとも詩人の立ち位置が大きく変わります。
疾走していた前半「入道雲」とは打って変わって、故郷の自然と丸ごと同化するように一所に留まり、
声を大きくしたり小さくしたり、また膨らませたり縮まらせたりしながら、
ずぶずぶと深く沈んでいくことによって故郷を見つめていきます。
そうして故郷と自分とを行き来しながら、究極なほど自由に言葉を繰り出して行きますが、
それでも支離滅裂になることなく一貫し、緊張感を持続しているのは、
詩人が自己というものを明確に捉えているからであり、
それが出来て初めて自由が得られるのだという基本的なことをも感じさせられます。

和合さんの言葉は、普通一般には通じないような奇妙な言葉です。
ですから詩篇の一部を抜き出してみても、よく意味がつかめないものが多いのですが、
しかし和合さんの詩が持つスピードや流れなどと共に受け入れると、
不思議とその言葉たちが発する感情がテレパシーのように伝わってきます。
疾走感もまた詩の一部であり、和合さんの詩篇の成立に不可欠なものです。
詩の手法について言えば、行に激しい高低差をつけたり字体を変化させたりと、
躍動的なものが目立ちますが、このいかにも現代詩的な手法は、
使う人によっては手法に自己が食われてしまって、外見はいかにも過激に見えながらも、
実は中身は意外と凡庸な詩になってしまっていたりするものも多いようです。
しかし和合さんはこの手法も自分の世界にまで充分に引き込み、
押さえ込んで利用してしまっているあたり、詩人としての揺るぎない地力を感じます。
装丁、手法のほか、パフォーマンスなどにも、様々に新しい試みを打ち出す和合さんですが、
その原動力になっているのは、小手先や思いつきではなく、
紛れもなく和合さんが弾き出す詩篇そのものの力であり、
それが否応なしに詩の周囲を刷新させていくのでしょう。
このような確かなベクトルを持つ詩人は、歴史的に見ても稀有なのではないでしょうか。
現代詩のシーンというものがあるのなら、それを動かしているものの一つは、
確かにこの人に渦巻いている力です。

前作の「地球頭脳詩篇」もいいですが、個人的にはこの「入道雲入道雲入道雲」の方が好きです。
それなりにボリュームのある本ではありますが、ほぼ一気に読み干してしまいました。
しかし明確な個性を持つ詩人の作品は、あんまり繰り返し読むと影響されてしまいそうで怖いですね。
ほどほどにしておきましょう。
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Nov 10, 2006

流離縁起

薦田愛さんの新詩集「流離縁起」(ふらんす堂)を読みました。

この詩集の装丁は深い緑色ですが、内容もまた非常に濃密で深く、
一篇一篇読むごとに感じられる手応えは半端ではありません。
これを一回で全篇読み通すことが出来る人は、なかなかいないのではないでしょうか。
もちろんこれは読みづらいということではなく、寧ろ読みやすいのですが、
その分こちらに流れ込んで来る情報量はとてつもないもので、
受け止める側にもなかなか体力が要求されます。

薦田さんの描く、現実から一歩大きく踏み外したような詩の世界は、
日常をそつなく生活する人の顔の裏面に貼り付いたもうひとつの顔が発する言葉や情感のようです。
その顔は、現実とは似ても似つかない、悪夢のように歪んだ出来事を淡々と語り、
それと対峙する詩人の感情や行動は、
現実の生活によって、あるいは生まれつきに歪んだ形になってしまっている心を、
正常な形に戻そうとする行為であるようです。

しかし読むうち、心とは寧ろ歪んだ形であることが普通であり、
その歪み加減こそがその人らしさを表していて、
それでも本来の形へと戻そうとする原初的な意志や行為が、
生きるということなのかもしれないと思い当たりました。

そんな薦田さんより発せられる詩の言葉に沿っていくと、異形な世界であるにも拘らず、
なにかニアミスのように、突然に詩人の感覚に親近感を覚えたりします。
いつかどこかで自分も同じ感覚を持ったことがあるような。
そんな気がするのは、優れた筆力によるところもありますが、
恐らくは薦田さんの言葉の一つ一つが、異常なまでに強く匂いたっているからではと思います。
その匂いは生い茂った草むらのようでもあり、またなにかに固執する女性の体臭のようでもあります。
するとこれらの言葉は頭で考えられたものというより、肉体によって得られた感触そのものであり、
だからその匂いを吸い込むと、言葉の表面よりも奥にある、深い部分を感じられるのではと思います。
言葉を通じて、頭から頭ではなく、肉体的にその感覚を伝えるのが、薦田さんの言葉であるようです。

詩集の最後に収められている「石積み」の連作は圧巻です。
幼少時に亡くなった姉が好きだった花を摘む老婆が、一緒に花を摘む孫へとかける柔らかい言葉。
しかし老婆の、長い時間が蓄積されたその内部よりこぼれ落ちるが如く発せられる言葉には、
何気なくありながらも深い沈思の海が見えます。
詩人は内側の顔で、その海に立つ波や渦潮の様子を静かに語っていきます。
やがて言葉は老婆の独白となり、その中でここにはいない姉の姿が再生して揺らめき、
老婆との繋がりの匂いを再び立ち上らせていきます。
人生が閉じていく時間の中で、経てきた長い時間が一点に集約されていく過程に結晶する大切なこと、
詩人は見事にそれを言葉に変えて、読み手へと提示します。

とにかくこの詩集はずっしりと手応えのある詩集ですので、
じっくりと長い時間をかけてひとつの世界に浸りたい方にお薦めです。
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Nov 06, 2006

オルペウス オルペウス

思潮社から刊行中のシリーズ「新しい詩人」の中の一冊、
斉藤倫さんの第二詩集「オルペウス オルペウス」を読みました。

斉藤さんは、とても優しく親近感の持てる作品を書く方です。
第一詩集の「手をふる 手をふる」(あざみ書房)も、読みながらだんだん心が柔らかくなっていくような、
白い綿のような感触を持つ詩集でした。
今回の詩集はその特徴を受け継ぎながらも、連作長篇詩という形に挑戦されています。
タイトルになっているオルペウスは、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人の名前であり、
悲劇的な運命を持つキャラクターですが、この詩集に現われるオルペウスは、
斉藤さんの中に住んでいる、あるいは誰の中にも住んでいる小さな友人のようです。

普通の街で普通に暮らして、普通に悩みや葛藤などと戦っている普通の人。
そんな人の中にこっそり潜んでいる勇敢な吟遊詩人オルペウスは、人がなんらかの現実、
恋や人間関係の摩擦などとぶつかった時、突然現われ、詩人の目で現実に対峙し言葉を発します。
その言葉は、現実に振り飛ばされてしまいそうになった自己を支え、
しっかりと両足で立たせる役割を担っています。

斉藤さんとオルペウスの共同作業のようにして書かれた作品群は、ユーモアにあふれていて、
現実に打ちのめされたときに泣いていたって仕方がない、洒落のめして前に進むしかない、
と言っているようです。

オルペウスは、普通の人の現実において詩を発しますが、
やがて何を思ったのか、ふと自分の物語を語り始めたりします。
オルペウスと関係の深い者たちの名前を交えて、ギリシャ神話にある出来事を語るのですが、
斉藤さんの手を借りたそれは、確かにギリシャ神話なのですが、
なんだか宮沢賢治の童話のように親近感があります。
キャラクターも神話の登場人物というよりも、かにとか、さるとか、いぬとか、
日本むかしばなしに出てくるどうぶつたちといった風情。
しかし根底にある痛みや苦しみといったものはそのまま流れ続け、
いま現実と対峙する普通の人の内面へと流れつきます。
人は痛みに叫び、死を見詰めすらしますが、それを表すオルペウス(斉藤さん)の言葉は、
やはり白く柔らかいもので、そんな詩が流れる中、また人は普通の日常へと帰っていくのです。

この詩集を読んでいると、普段見慣れた日常の雑踏をいく人々の風景が、
きれぎれのオルペウスの言葉に満ちているように感じられてきます。
みんなそれぞれいろいろな悩みを抱えているけれども、
ひとの中に普遍的に存在するオルペウス的存在と手を取りあいながら、
なんとか生きているのだなあと思います。
自分を含めて。

というわけで、この詩集「オルペウス オルペウス」は、
いわゆるゲンダイシというのが苦手な方にお薦めです。
しかしもちろん薄っぺらいものではなく、
柔らかい言葉が心に何処までも何処までも染み込んでいく詩集です。
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Nov 02, 2006

11月!!

ということで、現代詩手帖11月号を購入しました。
特集は谷川俊太郎の詩論。
詩の森文庫での詩論三部作完結に合わせた特集で、谷川氏と四元康祐さんによる対談、
それに著名な詩人さんなどがエッセイを寄せています。

そして今号では「現代詩新人賞」が発表になっています。
受賞作品は中尾太一さんの「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」。
中尾さんのお名前も作品も初めて目にしました。
掲載された受賞作を読むと横書きを多用した大作であり、
私には詩人の過去を叙情的に物語っていく作品と読めました。
詩的な長篇小説から最も詩的な部分だけを抽出してまとめた作品のようでもありますが、
表現したいことの焦点がはっきりとしている所為か、そのエッセンスは地下水のように澄んでおり、
この方はこの先、既成の詩の概念から一歩はずれた、唯一無比のやり方で自己の世界を広げていく
予感がします。
選評によると、個人で造本されたものが送られてきたとのこと。
あるいはその形で読むと、誌上で読むのとは、また違った魅力があるのかもしれません。

今月号をパラパラとめくっていて一番心惹かれたのは、「<クレオール>な詩人たち」で取り上げられて
いるカリブ海の島セントルシア出身の詩人デレック・ウォルコット。
ノーベル賞を取っているすごい人ですが、その作風は、奴隷制度の過去や貧困といった重いテーマを
取り上げながらも、ユーモアと明るさを持ったものです。
細かい名詞や事情などは注釈に頼らざるを得ませんが、わからないままでもぐいぐいと読まされます。
氏の特集は前号に引き続いてのものであり、今号に掲載された長編詩は、詩というより寧ろ
物語性の強いものですが、行間の向こうを覗いてみると、太陽とそれを反射する海の煌きが見通せ、
それにヘミングウェイとかマルケスとか、南米の作家たちの文章が持っているあの匂いが薫ってきて、
単純ですが、ああ南米っぽい、カリブ海っぽいなあと思います。
こういう、自分が生まれ育ったところとは何もかも違う雰囲気というのは、
どうしても惹き付けられてしまいます。
表されるニュアンスのひとつひとつが興味深く、特に彼らが肌で感じてきたことから滲み出てくる言葉の
様子、ものごとの受け止め方など、恐らくは実際の十分の一も理解できていないであろうけれども、
なんか、かっぱえびせんのように、やめられずに次から次へと読んでしまいます。
是非まとめて読んでみたいところですが、残念ながらウォルコットの詩集は絶版の様子…。
古本屋を回ってみるしかないようです。
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Oct 29, 2006

「空白期」

先日のPSP合評会の際、参加者の高田昭子さんより新詩集「空白期」をご恵与いただきました。
今回はその感想を。

高田さんの紡ぐ言葉は、そのひとつひとつがとても魅力的であり、
目にした途端に胸を染められてしまうものばかりです。
その見事さに思わずそのまま詩句から目を上げ、感慨に浸ってしまいそうですが、
高田さんの世界はその詩句もさることながら、それらの言葉が浮かんでいる水のようなものにこそ、
本来の魅力があるのだと思います。
高田さんの詩とは、静かな水面にじっと詩句が浮かんでいるような、そんな詩なのです。
ですから、詩や詩句について語るより、その水より伝わってきた思いを書いてみます。

高田さんの詩は、ありのままの世界を表すというよりも、詩人の目で捉えた景色を、
目を瞑って自分の内にある箱庭に植え、自らの水分を養分にして育てるというような、
そんな描き方をされています。
そこにある景色は、現実の世界とは色合いを別にしていながらも、魅力的で、人を惹きつける力を持ち、
同時に詩人自身の内面を映す鏡となっています。
覗き込んでいると、幻想的な色あいの世界であるにも拘らず、
意外なほど詩人の生の姿が映りこんでいるのが見て取れます。

生命を育むものは、季節や自然を流れるもの。
そして同じように人の中にも流れゆくものがあり、それが人としての心を育んでいます。
人が見詰める季節には、しかしなにかがひとつ足りないようで、その足りないぶんが、
様々な奥行きや意味合いを人に思わせ、そこに新たな感慨としての色彩が現われるのでしょう。
それは現実の色彩と、その人だけが持っている色彩が混じり合って醸し出された色であり、
言葉ではとうてい言い表すことが出来ないものですが、
高田さんは自らの時間と共に毎日刻々と変化していくその色彩を、詩という方法によって表現し、
読む者の前に提示します。

そこにある時間は、過去でも未来でもなく、常に「今日」です。
詩を読んでいくと、このかけがえのない今日という時間を、
高田さんはとても大切にしているように感じられます。
そして常に存在し、また失われていくその時間は、人の心の深い底へといつも繋がっています。
そのひとがそのひとであることを証明する、目には見えない心の底の暗い場所、
しかし確かに感じられるその空間の冷たさ暖かさを、
高田さんはゆっくりと、いまという時間の全てを使って感じ取り、
文字の表に浮かび上がらせていきます。

生きているということは、常に期待と不安が続くことです。
ひとは日常の、ほんの些細なことに対してさえ、常に期待し、また不安を感じています。
それは時に微かな感情でしかなく、人はそれをえいと手で払いのけながら一日をやり過ごし、
またそうすることが「大人」である証拠のように思われていますが、それを感じる部分から本当は、
今日を生きていたいと強く願う、祈りのようなものが生まれるのでしょう。

そしてそのようなかけがえのない一瞬の繰り返しによって、人の見詰める季節は巡り、
この世界で起こった沢山の小さな事や大きな事が、思い出として形づくられ、
やがて人の形を成すのでしょう。
高田さんは祈るようにして今現在の時間を見詰め、どんな些細なことも、一瞬である限り、
永遠へと繋がっていくことを「わかって」おられます。

また、この世界と時間はあらゆる方向に向って広がっているにも拘らず、
人はただ一本の道を、真っ直ぐ歩いていくしかありません。
様々なものを目にし、様々なものを耳にしながら歩いていくそのただ一筋の道は、
あるいは円を描いており、最後は最初に戻るのかもしれません。
行く道でもあり帰り道でもあるその道の途中で、人は沢山の眠りを眠ります。

高田さんの詩に現われる眠りは、祈りそのものであるかのようです。
本当の祈りは、夢の中でしか成し得ないものなのか。
詩人の祈りは、決して何を望むわけでもなく、
ただ、全てのものがそこに在る事を祈るようです。
祈りは過去にも未来にも向けられず、ただ現在、今この一瞬にのみ向けられています。
ずっと以前に消えてしまったものさえも、詩人は現在として見詰め、在ることを祈っています。

しかしまた、詩人はその一瞬一瞬の中にも、消えていく無数のものがあることを、
正直に見詰めています。
そして消えていくものとは、いつも何よりも愛おしいものです。
たとえそれらと面識がなくても、また遥か遠い存在でも、詩人は同じく深く祈りを捧げます。
人の目に映るありのままの世界は、指先ひとつ触れることは出来ず、
ただ感じ、見守り、待ち続けるしかなく、
それが即ち生きていることとするなら、あたかも人のする全てのことが、祈りであるようです。
そして詩人にとって、高田さんにとって、それはやはり詩を詠むということであるのでしょう。

最後に、やはり水仁舎の美しい造本に触れないわけにはいきません。
薄い水玉の入った白い表紙に、銀の箔押しでタイトルや著者名が記された、
このシンプルかつコンパクトな本は、とても大切なものを内包している印象を強く与えます。
決して目立ちはせず、しかし宝ものがたくさん詰った小さな箱、といった感じです。
この装丁はまるで上記した「水」のようでもあり、
「空白期」というタイトルは、この詩集の内容、装丁の全てに対して名付けられたものであるようです。
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Oct 25, 2006

PSP合評会。

この前の日曜日は、月イチ恒例のPSP合評会でした。

まずはあたらしい詩集がまたひとつ生まれたこと。
灰皿町の住民でもある詩人高田昭子さんの新詩集「空白期」(水仁舎)が完成しました。
掌にしっくりくる小ぶりの本を開くと、高田さんの独特な魅力が匂い立ちます。
収録された20篇の詩作品は、何処を切っても、高田さん、高田さん、ですね。
この詩集については、また日を改めて書きたいと思います。

この日の合評会、私は少し多めに発言してみました。
と言っても、普段発言が少ない方なので、多めと言っても高が知れているのですが。
それでも自分なりに、他の皆さんの作品について、突っ込んで考えてみたつもりです。
感じたのは、詩の肝となる言葉の存在でした。

会に参加されている方々の詩をじっくりと時間をかけて読んでみると、あ、この行がこの詩の肝だな、
と思われる行に行き当たります。
まずこのような肝がしっかり存在していることが、詩を成立させるためには不可欠なことでしょう。
そういった行が必ず見当たるあたり、やはりPSP参加者のレベルは高いなと感じさせられます。

その行を観察してみると、使われている言葉を少し変えただけで詩全体が大きく変わってしまうぐらい、
その詩において重要な役割を担っていることが見えてきます。
そこにどのような詩句を持ってこれるかによって、詩全体の印象が決まってきてしまう。
ここに絶妙な言葉を挿入することができれば、途端にその他の行の深い意味も浮き上がり、
詩全体が輝きはじめる、あるいはそういうことが起こること自体を、詩と呼ぶのかもしれません。

ですので、この行をばっちり決めることが、詩を詩として成り立たせるために重要となるのでしょうが、
これがまた、いかんせん難しいことです。
その行を存在させられること自体、大変難しいことですし、またその行を絶妙な言葉、
作者が表したかったことを見事に詩の中に出現させる言葉を選び抜くには、
相当の努力と時間とセンスが必要であると思われます。

そこらへんを重々わかっていながらも、他の皆さんの作品を読ませていただきながら、あ、惜しいなあ、
もうちょっとここにいい言葉が入れば凄くなるのに、なんて思ってしまいます。
メンバーの作品全体のクオリティが高いために、そんな贅沢な不満を感じてしまうのです。
逆に、そこぐらいしか突っ込むところがないんですね。
それじゃあどんな言葉を入れればいいんだ、と聞かれても答えられないんですが。

ちなみに私、今回はちょっとわかり辛いだろうなと思う作品をあえて持って行ってみました。
反応は、やはり「???」「…」という感じでしたが、メンバーに気になった箇所をいろいろ
指摘して頂いて、随分参考になりました。
他の人に読んでいただいて意見を言ってもらうと、自分だけでは気付けない点などに気付かされます。
これは伝わるだろうと思い込んでいた部分が伝わらなかったり、あまり気にせず配置した言葉が、
思いがけず読み手を躓かせてしまったり、とても勉強になります。
やっぱりせっかくの場ですから、褒めあいっこしても仕方がないですからね。
ま、褒められると、それはそれですごく嬉しいんですが…。

それと今回はあたらしく、杉本つばささんが参加してくださいました。
杉本さんはずっと京都で活動されていたそうですが、最近東京に居を移され、
これからも参加してくださいそうな気配。
ちなみに現在公開されている「いん・あうと」で杉本さんの書かれた論考を読むことが出来ます。

合評会後はいつもの通り二次会飲み会。
いつもの通りに盛り上がりました。
久谷さんも相変わらず元気そうでした!
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Oct 22, 2006

なんだか冴えない

話題ばかりの映画「ゲド戦記」ですが、
今度は挿入歌である「テルーの唄」の歌詞の一部が萩原朔太郎の詩に酷似している、
なんてニュースがありました。
なんでも作詞した宮崎吾郎監督は、朔太郎の詩を参考にしたと明言していて、
公式サイトにはそのことは書かれているようですが、CD自体には記載されていないようです。
詳しくはネットニュースで見てください。

このようなニュースは後を絶ちませんね。
時を同じくして、ミュージシャンの槙原敬之氏が書いた曲の歌詞が、
「銀河鉄道999」に出てくる言葉に酷似しているというニュースも流れています。
ちょっと前には画家和田義彦氏が、アルベルト・スギ氏の絵を盗作しただとか、
あと詩の世界にもそんな話題がありましたね。

上記したようなヒットを義務付けられているような人たちは、ものすごいプレッシャーの中で、
気持ちが揺らいでしまうこともあるのでしょう。
本当に盗作であったかどうか私には判断できませんが、
盗作自体はやはりいけないことですね。

なんらかの表現をしていると、
好きな表現者の作ったものを真似してみたいという欲求に駆られることはあると思います。
あのバンドのギタリストが大好きだから、同じギターを買って、同じ髪型にして、曲のコピーを、
というのはとても楽しいですし、絵が上手ければ、好きな漫画家のキャラクターを使って、
好き勝手な漫画を描くのは楽しいに違いありません。
それはそれでとても楽しいのですが、やっぱりそれはアマチュアのすることだと思います。
私は音楽が好きで、洋楽のアーティストなどよく聴いていたのですが、
日本のプロミュージシャンが海外の曲のフレーズなどを、もう盗作としか思えないほど、
そっくりそのまま自分の曲に使って平気な顔をしているのを見ると、やはり悲しくなります。
そういうのを見ると、日本の音楽シーンは寧ろものまね王座決定戦に近いとさえ思えます。

詩を書く人は、殆どが詩からの収入だけでは生活が成り立たないので、
そういう意味では世間で言うところのアマチュアなのでしょうから、
少しぐらいパクっちゃってみても許されそうな気もしますが、
しかしやっぱり心意気ぐらいは持っていないと悲しいです。
「誰も認めてくれないし、詩集も全然売れないけど、俺はプロなんだぜ」と、
口には出来なくても、心の底ではこっそり思っていたいものです。
そうすると、やはりいくら心酔する詩人がいて、その人の真似がしたくても、
少なくとも自分の名義だけで発表するなら、それはすべきでないと思います。
もちろん先人たちが確立してきた詩の形を見てしまっている限り、
そこから様々な影響を受けることは避けられないのですが、それを抜け出した時に初めて、
ひとりの表現者として成立するのだと思いたいですね。
それは大変しんどいことでしょうし、結局無駄な努力に終わる可能性は非常に高いですが、
気持ちだけは忘れたくないところです。

しかしゲド戦記の「テルーの唄」、いい曲だなあなんて思ってたんですけど。
荒川洋治氏が「諸君!」で言っているように、原詩:萩原朔太郎、ぐらいはCDに記載しても
良かったのではと思います。
そうしたら、CDを買った人の中には、朔太郎の詩集にも手を伸ばしてみる人も多かったのでは。
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Oct 17, 2006

横浜詩人会賞。

先週の土曜日は、横浜詩人会賞の授賞式に出席してきました。
今年の受賞詩集は大谷良太さんの「薄明行」(詩学社刊)
実は私もこの賞には応募していたのですが、
最終候補の6冊にまではなんとか残ったものの、あえなく落選…。

大谷さんとは、以前に合評会にいらっしゃった時にお会いしました。
なにせ人に愛される性格の方なので、二次会では初対面にも関わらず一気に馴染み、
その後もお会い出来はしないものの、詩集や手紙、メールのやり取りなどあって、
いいお付き合いをさせていただいていました。
横浜詩人会賞に詩集を送るときも、「どうする?送る?」的なやり取りなんかもしていたので、
彼が受賞したという連絡を貰ったときには、悔しいより「ああ、よかった」という気持ちでした。
ま、その連絡ってのは、本人から貰ったんですけど。

ということで、本人から案内状を貰い、受賞式会場へ。
詩集の受賞式というものに初めてお邪魔しましたが、なんだかちょっと結婚披露宴のような様子でした。
私は受賞者の関係者ということで、図々しくも本人の真横に着席。
大谷さんはスーツで格好よく決めていました。
しかしスピーチなどあるので、かなり緊張した様子、手も震えていました。
ご両親もいらっしゃっていて、ご家族とのやり取りを見ていると、
実にいい家庭にお育ちになられたようで、とても暖かい雰囲気を感じました。

授賞式は関係者の挨拶、選考経過報告などを経て、賞状と賞金の授与。
やっぱり大谷さん、かなり緊張されていましたが無事こなし、
次に大学時代からの友人である今村純子さんによる受賞者紹介。
ここでは、大学入学当時の大谷さんの様子が語られ、そのかなりぶっとんだ様子に、
会場も随分と和みました。
そして大谷さんの受賞者挨拶。
やっぱり声が震えていて、言葉が途切れ途切れであったものの、
大谷さんの優しい人柄を感じさせるとても気持ちのいいスピーチ。
このスピーチを聞いて会場の誰もが、この人にとってもらってよかった、と思ったのではないでしょうか。
そしてとりあえず儀式的なことは無事終わり、乾杯。

ところで、この授賞式には、
思潮社から「すみだがわ」という詩集を出されている廿楽順治さんも出席されていました。
「すみだがわ」は、最後まで「薄明行」と受賞を争った、非常に優れた詩集です。
廿楽さんは前々回の現代詩手帖賞を受賞されており、同じ時期に投稿していた者としては、
とてもお会いしたかった方のひとりでした。
お話してみると、なんとこのブログを読んでいただけていたとのこと。
いやー、嬉しいやら、恥ずかしいやら。
それならばもうちょっとちゃんと書いておけばよかった、なんて。

受賞式のあとはそのまま食事をしながらの懇親会へ移行。
私の方は、あとはお酒でも飲んでお腹一杯ご飯を食べようか、なんて気楽に思っていたのですが、
とつぜんスピーチを頼まれ、え、まじで?という感じ。
もうビールを飲んでいたので、そのままさささっと適当に喋って済ませてしまいましたが、
他の皆さんはかなりちゃんとお喋りになっていて、いや、私は喋るのは苦手で…困ります。
大谷さんは大役を果たしたと言うことで、気持ちが楽になったのか、ビールをがんがん飲んでいました。
それでもスピーチをされた方には、どの方にも丁寧に頭を下げ、ここらへんも人柄が表れていました。

その後、受賞式会場を後にし、二次会の会場へ。
私もまた、図々しくついていき、ここでは私は横浜詩人会の方々とお喋りさせていただきました。
失礼ながら、年配の方が殆どでいらっしゃいましたが、どの方もお優しく、気持ちのいい方ばかりで、
面白い話や、拙詩集を読んで頂けた方からのアドバイスなど聞けました。
しかし詩人会、というと、なんだかいろいろ政治的なことが渦巻いていたり、
暗黙の内に上下関係がきっちり出来ていたりして、というイメージを持っていたのですが、
横浜詩人会の場合はそういう殺伐とした印象はなく、なんだか実にアットホームな雰囲気でした。
その後また店を変えて三次会へ、11時ぐらいまで会は続きましたが、
がんがん飲み続けていた大谷さんはついに撃沈。
立てなくなって詩人会の皆さんに肩を借りながら店をあとにし、タクシーにのせられて帰宅。
なんとも大谷さんらしい受賞式でした。
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Oct 14, 2006

クラムボン…

先日のクロコダイル朗読会で設けられたトークショーは、
「クラムボンの歌」と題して宮沢賢治についてのお話でした。
タイトルからすれば「クラムボン」という言葉についての話があっても良かったのでしょうが、
残念ながら時間が少なく、その言及はありませんでした。

「クラムボン」とは周知の通り、
宮沢賢治の童話「やなまし」で蟹の兄弟の会話に出てくる謎の言葉ですね。
「やまなし」冒頭の、蟹の兄弟の会話だけ引用してみます。

「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンははねてわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

「クラムボンはわらっていたよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「それなら、なぜクラムボンはわらったの。」
「知らない。」

「クラムボンは死んだよ。」
「クラムボンは殺されたよ。」
「クラムボンは死んでしまったよ……。」
「殺されたよ。」
「それならなぜ殺された。」
「わからない。」

「クラムボンはわらったよ。」
「わらった。」

この童話は確か私の場合、小学校の教科書に出てきました。
私は不真面目な生徒だったので、大して授業を聞いてはおらず、
ですからこの童話が宮沢賢治の作であることを知ったのは、
随分あとのことだったと思います。
しかし、作者の名前を知らなくても、「クラムボン」という言葉、
そして「かぷかぷ」という笑い声は、強く印象に残っていました。
私と同様、私の友人も不真面目な人が多く、本を全く読まない輩も多いのですが、
なにかの拍子に私が「クラムボン」と言うと、大抵の人がその言葉だけは知っています。
「ああ、かぷかぷ笑う奴だろ。なんだっけ、それ」みたいな感じで。
宮沢賢治が好きだったり、読み物が好きな人ならわかりますが、
全然そうでないひとの記憶にまで、しっかり残ってしまうこの言葉の魔力は、凄いものがあります。
その一番の理由は、やはり言葉の響きでしょう。
「クラムボン」「かぷかぷ」という響きは、思わず口に出して言いたくなる衝動に駆られます。
実際この童話を読んだひとで、この言葉を口に出してみなかったひとなど、いないのではないでしょうか。
それにそののん気な響きの直後に「死んだよ」という強烈な言葉が被さってくることにより、
更に印象深いものになっているようです。

ところでこの「クラムボン」が一体なんなのか、と言うことは童話の中では明かされません。
だからこそ研究者の興味を惹きつけてやまず、聞くところによれば10以上の仮説があるそうですが、
著者が死んでしまっている以上、「クラムボン」を確定することは最早出来ません。
一体なんなのでしょう「クラムボン」とは。
「やまなし」を読んでみると「泡」ともとれますし「母親」ともとれますし「卵」ともとれそうです。
また、特に意味などないのかも知れません。

私としては…「クラムボン」とは生まれて間もなくして死んでしまった兄弟たちではないかと。
蟹は卵の中にいる時や孵化してすぐの頃、殆どが他の魚の餌になってしまうはずです。
それで、ここに出てくる兄弟以外はみんな魚に食べられてしまって、いまは二匹だけが残っている。
勝手に深読みすれば、
兄弟のセリフは二匹が生き残った者たちであることを表しているのではないでしょうか。
自分たちと一緒に、元気に笑っているように動き回っていた兄弟たちが、
しかし次々魚に食べられ消えていった事実を、彼らはわけがわからないなりに受け止めている。
するとこのあと、かわせみが現われて、
元は自分たちの捕食者であった魚を一撃のもとに獲って去ることにも繋がるのでは。
つまり、厳しい自然界における食物連鎖の隙間の時間が、この「やまなし」に流れる時間ではないかと。
そんな時間には蟹もまた、白い樺の花びらが流れてくるのを眺めたり、吐き出す泡の比べっこをしたり、
流れてきたやまなしを追いかけて親子で川底を歩いていったりしている。
そんな様子を宮沢賢治は描きたかったのではないでしょうか。
ま、どうだかわかりませんが。

しかし上に引用したセリフだけを見てみると、詩のようにも見えます。
「クラムボン」「かぷかぷ」と言った言葉は、詩の言葉としては最高です。
読めば一度で憶えてしまって忘れられず、しかもとても謎めいていて、
いつまでも心に引っかかっている。
世代を超えて人々の心の中を流れていく言葉。
読んだ人の数だけ意味を持つ、ひとつの言葉。
仮にも詩を書くなんてことをしている身にとっては、
一生にひとつでいいからこういう言葉を編み出してみたいものですね。
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Oct 09, 2006

連休真っ直中

に更新です。

私は今まで、所謂ビジネス文書と言われるもの以外、
人目に触れるところに文章を書く機会がありませんでした。
しかし最近では、書評などの文章を書く機会に僅かながら恵まれ、
すると、これも僅かにですが文章について考えもします。

私は、ほとんどの場合、キーボードで文章を打ちます。
その方が手書きより断然早いことと、推敲が楽であることがその理由です。
しかし日本でワープロやパソコンが普及する以前は、
当然ながら誰もが手書きであったわけで、
そしていまもそういう方は多くおられます。
その場合、原稿用紙に文字を書きつけていくわけですが、
長年書かれている方は、10枚という依頼であれば、最初の一行から書き始め、
10枚目の最後の一行できっちり終わる、という技術を持っている方も多いと思います。
所謂キーボードの世代には、この感覚は全くないのではと思います。
勿論私もそうです。

私の書き方は、まず思うままに、文法や順序などを気にせず文章を打っていき、
自分の中のものを全部出しきったところで、推敲に入り、体裁を整えていきます。
考えてみればこのやり方は、手書きで書かれている人から見れば、随分幼稚な、
作法と言うよりパズルに近いやり方でしょう。
大体、筋道を立てて考えを文章にしていく、ということを全くやっていません。
考えてみれば、私は筋道を立てて長く話すということが出来ないのです、昔から。
例えば資料などを見ながら、その一つ一つを説明したり、質問に答えたりすることは出来るのですが、
自分の意見を長い時間述べるとなると、喋っている内に支離滅裂になって、
言わねばならないことが抜けたり、逆に言わなくていいことを長々と喋ってしまったり、
まあとにかく喋るのが下手で、頭の中もじつに混沌としている人間です。
スピーチなどもってのほか。
だからこそ、詩という奇妙な表現を使うようになったとも言えるのですが。

こういう人間は、まず根本から頭の中を鍛えなおすべきなのですが、しかしそんな人間ですら、
キーボード入力だと、推敲さえちゃんとすれば、それなりに文章がかけてしまいます。
それは悪でもありますし、救いでもあります。
多分私はキーボードがなかったら、詩もその他の文章を書いてはいないでしょう。
とりあえず私は恩恵にあずかりましたが、それによって失ったものの事も、
考えるべきなのかもしれません。
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Oct 04, 2006

先週の日曜日は、

渋谷のクロコダイルに朗読会を見に行きました。
これは詩人浜江順子さんが主催となって毎年開かれているものです。
私は去年初めてこのイベントに行き、詩の朗読というものを、殆ど初めて観ました。
あの時はまだ詩集も出していなくて、会場に知っている方も殆どいなかったのですが、
一年経って、私もいろいろな方と交流させていただくことが出来、
今年は出演者の方に案内のお葉書を頂くことも出来ました。

会場には開演5分前くらいに到着、ぴりぴりしたような雰囲気はなく、
実にフランクな雰囲気の会場に入り、灰皿町の桐田真輔さん、高田昭子さんの隣に居場所を据えると、
お葉書を頂いた海埜今日子さん、森川雅美さん、それに柴田千晶さん、村野美優さんなどにご挨拶。
さて、あとは開演を待つのみ、飲み物でも取ってこようかな、と思っているところへ、
森川雅美さんから「ちょっと手伝って欲しいんだけど」と声をかけられ、なにかと思えば、
森川さんがステージで朗読をしている時に、森川さんの詩の一部を会場からエコーのようにして朗読して欲しいとのこと。
急なことで「え!?」と思いましたが、恥ずかしながら手伝わせていただくことにしました。
しかしプログラムを見ると、森川さんはトップバッター。
練習の時間などなく、原稿を読んで、読めない漢字がないことを確認するのが精一杯。
すぐに朗読が始まり、一応お役は果たしましたが、慣れないことゆえ、
ちょっとタイミングを外してしまいました。

朗読は森川雅美さんのあと、田中庸介さん、柴田千晶さん、渡辺めぐみさん、
筏丸けいこさん、浜江順子さん、海埜今日子さんと続きました。
みなさん流石に場数を踏んでいらっしゃる方ばかりで、見事に朗読をこなしていきます。
筏丸さんは去年と同じバンドのメンバーを率いての朗読。
浜江さんは、ウッディアレンの映画音楽も担当されたトム・ピアソンさんのピアノをバックに。
海埜今日子さんは、ROSSAというアコースティックトリオをバックに朗読されました。

ここで休憩のあと、吉田文憲さん、相沢正一郎さん、キキダダマママキキさんによるトークショー。
吉田さんが去年上梓された「宮沢賢治―妖しい文字の物語」を中心に、宮沢賢治についてのお話。
お題が宮沢賢治となると、お三方とも喋りたいことは山ほどあるでしょうが、
残念ながら時間が30分ほどしかなくて、言いたいことの半分も喋れなかったご様子、
しかし私としては充分面白いお話が聞けました。
キキダダさんは、吉田文憲さんの教え子さんなんですね。
恩師と肩を並べてのトークで、結構緊張されていました。

トークのあとは、この日のハイライトともいえるキキダダマママキキさんの朗読。
私はキキダダさんの詩には、比較的静かな音をイメージして読んでいたのですが、
この日の朗読は、一つ一つの言葉を途切れさせ、叫び、足を踏み鳴らしながらの激しいパフォーマンス。
キキダダマママキキという筆名は、ご自身が思春期の頃、吃音に悩み、
自分の名前を言う時にどもってしまっていたことから、つけられたそうですが、
この日の朗読はそれと同じく、苦しみながらひとつひとつの言葉を必死に吐き出していく様子でした。
また、紙面で個人的に詩を読んだ時と、本人自身から発せられる言葉の間にあるギャップを突きつけられた気もしました。
しかし、そういった領域の広がりもまた、詩の面白いところなのでしょう。

朗読会がはねると、近くの居酒屋で二次会。
去年は知り合いがいなかったので遠慮しましたが、今年は参加。
ここでは浜江順子さんとも、少しですがお喋りすることが出来ました。
大変バイタリティのある方で、まさに中心人物たる人です。
この方の人柄に惹かれて、毎年参加したり観に来たりする方も多いのではないでしょうか。
それに灰皿町の住人でもある、生野毅さんともお喋り。
イベントでよくお顔は拝見させていただいていたのですが、
この方が生野さんであることを、この日初めて知りました。
詩作、朗読、俳句、評論等様々な活動を精力的にされているご様子。
それに年齢が比較的近いことも嬉しかった。

その後、三次会、四次会と場所を移動。
人数は段々少なくなりながらも、話は段々濃いほうへと。
ここでは筏丸けいこさん、林木林さんなどとおしゃべり。
そしてPSPでもおなじみKさんは、先週の飲み会に参加できなかった所為か、
大いに飲まれ、森川雅美さんと熱いバトルを展開しつつ、午後10時くらいにお開きでした。
どなた様も、お疲れ様でした。。。
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Sep 30, 2006

現代詩手帖10月号

が届きました。

今号には斎藤恵子さんの第二詩集「夕区」のレビューを書かせていただきました。
紙媒体に載る初めてのレビュー、改めて読むと拙いですね…。お恥ずかしい。
詩集の売れ行きに響かないか心配です。

特集は「現代詩手帖賞を読む」。
歴代の受賞者の受賞作品が一挙掲載され、井川博年さん、瀬尾育生さん、井坂洋子さん、
城戸朱理さんがエセーを寄せています。
歴代受賞者と選考者の名前を見ると、さすがに錚々たるメンバーですね。
受賞者の方は、こう見ると圧倒的に女性が多いです。
伊藤比呂美さん、倉田比羽子さん、白石公子さん、河津聖恵さんなど、
現在も一線で活躍される詩人さんの名前も。
注目すべきというか、特に1999年以降の受賞者の方々は、
もう全員現在活躍されている方々ばかりです。
一方選者さんの方は、こちらは何故か圧倒的に男性が多い?
成り行きでしょうが、とにかく名のある詩人さんは殆ど名を連ねていると言っても
いいくらい、豪華なメンバーです。
投稿欄というものは、選者さんによって、かなり傾向が違ってくるものですが、
リストを見ると、1966年に投稿していた人はきつかったですね。
何しろ選者さんが、黒田喜夫、堀川雅美、寺山修司、ですから。
そして受賞者は「該当者なし」…。

以前にも書きましたが、私も去年の初め頃まで、三年という長い期間、投稿してました。
入選、選外佳作には何作か取り上げられるも、残念ながら詩手帖賞には遠く及びませんでした。
しかし投稿していたことは、非常に良かったと思います。
入選することは、結構麻薬です。
やはり自分の作品が詩誌で活字になる、と言うことは誰でも嬉しいことでしょう。
一度活字になれば、なんとかもうひとつ、なんて頑張ってしまいます。
入選落選で一喜一憂し、落選すれば、こういうことが足りなかったんじゃないか、
じゃあこんなのはどうだ、なんて試行錯誤して、それが毎月ですから、いい特訓でした。
なんでもそうですが、一番重要なのは、やり続けることだと思います。
どんな不器用でも、やり続けていれば、それなりになるものです。
それに入選を何度かしたことによって、編集部や選者さんに名前を覚えてもらって、
私はそれで、詩手帖賞をとってもいないのに、詩集を出すことが出来ました。

思潮社では八月の終わりまで、現代詩新人賞という賞への公募を行っていました。
今号ではその一次選考通過者の名前と作品名がずらりと並んでいるのですが、
なんか既に知られている人の名前もちらほら…。
灰皿町では、海埜さんの名前もあったりして…。
んー、私も出しておけばよかったかな、なんて。
とにかく実力者が多く含まれて最終選考に突入と言うことで、
かなりの激戦になるかと思います。
来月号の発表が楽しみですね。

最後に八木忠栄さんの詩作品「雪はおんおん」
日本的な旋律が聞こえてくるような、「うた」を感じさせる詩です。
これを読んでいたら、「うた」とは本来、なにを伝えるためのものだったのかなあ、
なんてことを考えてしまいました。
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Sep 27, 2006

やーっと、

パソコンが直って帰って来ました。
マザーボードとCPUの交換という大掛かりな手術を経たものの、
約一ヶ月ぶりに元気な姿で帰宅。
なによりよかったのは、ハードディスクが無事だったこと。
なにせここ一年ぐらいで書いた詩が、ぜーんぶ入ってたんですから。
あぶないとこでした。
あとパソコン購入時に、3000円払って補償に入っていたおかげで、
今回の修理代三万数千円はタダでした。
入っとくもんですね。

先週の日曜日は、恒例の合評会。

今回はあまり発言することが出来ませんでした。
というのも、これはいつものことなのですが、この合評会に参加されている方々は、
みな詩人としてのキャリアを多く積んでいる方ばかりなので、それぞれが大変個性的で、
しかもクオリティも高い詩作品を毎回提出されています。
するともう、どこどこをこうした方がいい、とか、そういうことはなかなか言えなくなってしまいます。
欠点と言えなくもない部分でさえ、その人の個性と捉えることが出来、そして実際そうなのですから、
それを言うのは野暮、ということになって、すると結局、それぞれに褒めあってお仕舞いになってしまい、
それはそれで気持ちよくはあるのですが、考えてみれば、
それでは合評する意味があまりないのではとも思います。

それぞれの素晴らしさを認めたうえで、さらに突っ込んだ読みをし、様々な立場、
角度から意見を言うことが必要なのですが、私はそれが出来ていませんでした。
反省です。
合評会の中心メンバーのTさんは、そういう詩の読み方をし、意見を述べられています。
彼のばあい、前置き抜きにして、いきなりかなり深いところに突っ込んでしまうので、
周りがついていけなかったり、反発を受けたりするのですが、作品を書いた者にとっては、
そういう意見が実は一番有意義であるのでしょう。
実際私も、自分の作品に対しての彼の意見は、非常に参考になります。

まず充分鑑賞し、そして批評していく、という姿勢。
純粋な読み手としては、鑑賞だけで充分なのでしょうが、書き手同士、互いを高めあって
いく場として合評会があるのだとしたら、それだけでなく、書き手だけが持つ目を持って
批評しあっていくことが必要でしょう。

とは言うものの、今回のみなさんの作品はみんな良かった…。
ほんと、これ以上何を言えばいいの?というくらい。
でもそれぞれに壁を前にしていることも確かなんですね。
合評会として、ひとつ山を越えるべきところに来ている気がします。
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Sep 23, 2006

ちょっと前に、

伊坂幸太郎の本を数冊紹介しましたが、
相変わらず読んでいるもんで、続き書きます。

「アヒルと鴨のコインロッカー」(東京創元社、2003年)
長編作品。
舞台は伊坂作品共通の仙台。
生まれて初めて一人暮しを始める主人公の部屋に、奇妙な隣人がたずねて来て、
いつの間にやら本屋を襲う手伝いをさせられる羽目に…というところから話が始まり、
過去と現在が交錯しながら、見事に両者がつながっていって、最後は思いがけない
どんでん返しが待ち受けているという、非常に質の高いミステリー作品です。
のほほんとした雰囲気でありながら、あまりに緻密なストーリー組み立てである上、
全ての要素が最終的にひとつにまとまっていくので、内容は書けません。
読んでください。
「ダヴィンチ・コード」よりずっと面白いです。
来年映画化の予定だそうですが、映像化はかなり難しい内容かと…。
吉川英治文学新人賞受賞作品。

「チルドレン」(講談社、2004年)
「小説現代」に掲載された作品をまとめた連作短編集です。
常識破りな家裁調査官と、抜群の推理力を持つ盲人を中心に、
ハートウォームなミステリーが五篇。
殺人はありませんが、さすがに一筋縄ではいかないストーリー展開であり、
あちこちにトラップがしかけられていて楽しめます。
いままでの長編では結構ハードな心理が描かれていましたが、
この初短編集ではずいぶんと砕けた心理が描かれ、希望がテーマといってもいい内容。
全ての作品に共通することですが、伊坂幸太郎は人間を描くのが非常にうまいと思います。
この作品もまた出てくるキャラクターがみな魅力的で、これだけでお仕舞いになって
しまうのがなんとも残念。
読めば絶対続編が読みたくなります。
今年の五月、WOWOWで映像化。

「グラスホッパー」(角川書店、2004年)
書き下ろし長編。
一転して重いです。バンバン人が死にます。
主要な登場人物は三人ですが、何せそのうちの二人が、いわゆる殺し屋。
殺し方は読んでのお楽しみですが、一人はかなり変わっていて面白い。
こんな殺し屋見たことないっす。
しかしまあ重いといっても、ハードボイルドというわけではなく、
村上春樹的な柔らかさを保ってはいるのですが。
そう、村上春樹が好きな人は、この著者の作品は気に入るかもしれません。
そして伊坂幸太郎作品の特徴のひとつに、
哲学的な要素がセンスよくちりばめられていることがあるのですが、
この作品あたりからだんだんとその傾向が強くなります。
著者は哲学書、文芸書にかなり精通しているようで、
場合によってはちょっと鼻につくかもしれませんが、
ファンとしては、それも持ち味とすることにいたしましょう。

「死神の精度」(文藝春秋、2005年)
「オール読物」に掲載された作品をまとめた連作短編集です。
これは単純に面白い!
300ページ弱なので、一冊気軽に何も考えず読みたいとしたらこれでしょう。
主人公は音楽好きで一寸ずれてる妙な死神。
こいつの行動を見ているだけでも非常に面白いですし、
もちろんストーリーテラーとしての伊坂幸太郎の才能も存分に発揮され、
また人間群像劇としても、非常に質の高い作品です。
とにかく死神のキャラクターが面白く、前出の「チルドレン」と同様、
絶対続編が読みたくなります。
いまのところはないようですが、期待。
日本推理作家協会賞短篇部門受賞作品。

「魔王」(講談社、2005年)
書き下ろし長編。
またまた一転して重いです。
というか、政治が大きく絡んでくるという意味でも、
伊坂幸太郎作品の中では、かなり異質の作品。
これは決して一番最初に読んではいけません。
この著者を誤解してしまう可能性大です。
伊坂幸太郎が持つ哲学や思想がかなり大ぶりに表現され、
あるいは辟易してしまうかも。
伊坂幸太郎が好きになってから読むことをお薦めします。

今回紹介した作品は全てハードカバー、値段は1500円ほど。
本格的なものを一冊求めるなら「アヒルと鴨のコインロッカー」、単純に楽しめるもの
を一冊求めるなら「死神の精度」がいいと思います。
実はこのあとの作品「終末のフール」も読了しているのですが、
それはまた今度、残りの二作品といっしょに書くことにします。
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