Dec 31, 2006

暮れのご挨拶。

年末に近づくにつれて寒さが厳しくなってまいりましたが、
みなさまお風邪などひいてらっしゃらないでしょうか。
今年一度でもこちらへ足を運ばれた方、
そして何度も足を運んだという奇特な方、
トラックバックをつけてくださった神様のような方、
どなた様にも心より厚く御礼申し上げます。
みなさまにとって2007年が素晴らしい年となることを心よりお祈り申し上げ、
今年最後の更新とさせていただきます。
来年もどうかお立ち寄りのほどを。

で、ついでといってはなんですが、
現代詩手帖1月号の方にイベントのレポートを書いていますんで、
ご高覧頂けたなら幸いです。
で更に言いますと、タイトル横に載っている当日の写真で、
一番手前に写りこんでいるぼさぼさ頭が私です。

それではみなさま、よいお年を!

小川三郎拝
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Dec 28, 2006

ギャンブラーズ・ブルース

突然ですが、私はギャンブルというものが好きではありません。
真面目とかそういうことではなく、全く興味を感じられないのです。
それでも友人との付き合いもあるので、パチンコや競馬や競輪など行ったことはあるのですが、
どれもその場限りで、少なくとも自主的にギャンブルをしに行ったことは一度もありません。
付き合いと言えどパチンコやパチスロは回数にしてみれば結構行っているのですが、
いまだにルールというか、やり方すらも覚えられません。

何故好きになれないかといえば、恐らくはギャンブルで勝つことに喜びを感じられないからでしょう。
まあ付き合いで遊び半分にやっていても、時には勝ってしまうこともあります。
すると払い戻しとして何千円か何万円かのお金が手元に戻ってくるわけですが、
そのお金を見ても、びっくりするほど嬉しくないのですね。

勿論お金自体に興味がないわけではありません。
私も人並みにお金は好きです。
でもギャンブルで勝ったお金というのは、なんかこう、違って見える。
自分の給料が入っている口座からおろした一万円札はとても重みのあるものに見えているのに、
ギャンブルで勝った一万円札は、なんかほんとに、ただの券にしか見えないのです。
お金は所詮紙切れといいますが、全くその言葉通り、貴重なものという実感がわきません。

この感覚、ギャンブル嫌いな人間だけなんだろうなと思っていたのですが、
ギャンブル好きの友人がパチンコで勝ったお金をその直後、
ぱーっと無駄遣いとしか思えぬ遊びや飲み食いに全部使ってしまったり、
よせばいいのに更にパチンコを続けて全部すってしまったりしているのを見ると、
多かれ少なかれ彼らも同じような感覚を持っているのかもしれません。
悪銭身につかず。
あ、ちなみに私はギャンブルをする人を蔑んだりとかそういう気持ちは全くありません。
ギャンブルも正当なお金の使い道だと思いますし、人がなんと言おうと本人が満足ならいいと思います。

で、ギャンブルで勝って得たお札、あれをじっと見ていると、なんか不思議な気分になってくるんですね。
こーんなただの紙切れで事実上人間様の価値や幸不幸が決まってしまうのかとか、
証券会社や銀行で他人のお金を扱っている人は、こんな目でお金を見ているんだろうなあとか、
そりゃ何億円税金無駄遣いしたって抵抗なくなるよなあとか。
そんな虚しさが実感としてわいてくると同時に、そういうことが仕方ないことのように思えてくるのです。
自分でかけた魔法なだけあって、実に素直に人間は操られ、ことを進めていきます。
恐らく私も彼らのような立場だったら、それがどんな大金でも、
どぶに捨てるような使い方をして平気でいるでしょう。
そんな仕組みであるからこそ、いいにつけ悪いにつけ、世の中はまわっているのかもしれません。

なんてことをつらつらと書いたのは、つい先日また友人数人に付き合ってパチンコをやった際、
何故か私だけ偶然結構な大金を勝ち、ああこれで新しいコート買っちゃおうかなあと思ったのも束の間、
直後に全額その場にいた友人の飲み代に消えたことへの、なんとも言えない不条理な思いからでした。
とほほ。
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Dec 23, 2006

ガイドブック

おおっ、灰皿町は初雪ですか。
私の住んでいるところでは、雪は当分先っぽいです。

最近はまとまった読書が出来ていないのですが、
先月ぐらいまで「文学界」に連載されていた「無意味なものと不気味なもの」というのが面白かったので、
その著者の春日武彦の本をちょこちょこ読んでいます。
この人の本業は精神科医で、著作の殆どは本業の経験からのものなんですが、
どうやら文藝関係の読書量が半端ではないようで、異常に文章が上手で読ませるのです。
描写力など本職の物書きなみの上手さで、羨ましくなります。
さらに患者さんの症例に、小説などからの引用文とをうまく絡め、所謂狂気について考察していくので、
本が好きな人はかなり楽しめると思います。
引用されるものは医学関係書は勿論、純文学から海外ミステリーといった古今東西の文芸作品、
更には詩や短歌まで出てきて、ブックガイドとしても使えるぐらいに豊富です。

ところで私はガイドブックという奴がすごく好きなんですね。
出不精なんで旅行とかそういうガイドブックは読まないんですが、
本とかCDなんかのガイドブックは大好きです。
音楽も本も、新しいジャンルに興味を持つと、すぐにそのガイドブックを探してきて、
あれもよさそう、これもよさそうとひとりでやっています。
暗っ!
思えば中学生の頃に音楽雑誌で「ロック名盤ベスト100」とかそういう企画を見て、
そこに出ているアルバムを全部聴いてやろうと躍起になっていたのが最初でしょうか。
ブルースに興味を持ったときには「ブルースレコード・ガイドブック」なるムックを買ってきて、
欲しいアルバムにサインペンでチェック入れたりして、ボロボロになるまで使ってました。
その後も音楽ではジャズ、クラシック、本では海外小説、SFなど、
新しいジャンルに興味を持つたびにガイドブックを買ってきて読みふけり、
せっせと本屋やレコード屋に出かけては棚が本とレコードに埋め尽くされていくという日々・・・。
駄目すぎます。

春日武彦の著作に惹かれたのも、八割はそのガイドブック的要素からだったりして。
多分しばらくはここに出てきた小説で面白そうなのをあちこち探し回っていることでしょう。
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Dec 19, 2006

12月の合評会。

昨日の日曜日は、今年最後のPSP合評会の日。

この日私が一番だと思ったのは、小網恵子さんの「池」でした。
夜中、心と身体の境目に現われた池を見詰め、
そこにあるものが自分に与える影響を予感しながらも、不安定な足元を確かめつつ近づいていき、
自ら折り重ねた記憶をそっとめくって見ることをためらっているような作品でした。
小網さんが表そうとしているものは、下手をすると気付かずそのまま流れ去ってしまうような、
そんな非常に繊細な感覚です。
しかしそれでもその感覚が読むものの胸の内に流し込んでいけるのは、
小網さんの持つ非凡な技術の成せるわざなのでしょう。
改めて書く技術の大切さを思い知らされると同時に、
自分の内側を恐れずに見詰めることの大切さを思いました。

また福士環さんの作品も心に残りました。
個人的な経験からもたらされた、個人的な思想、考え方の変化について書かれたものでしたが、
このような作品にありがちな排他的であったり押し付けがましかったりという感じが全くなく、
別の環境やものの考え方をしている人にも、素直にその変化が受け止められる柔らかな作品でした。
福士さんは恐らくは特定の人に向けてではなく、
幅広い人へ向けて言葉を発していかれたいのだと思います。
言葉でこねくりまわしたり誤魔化したりせず、素直な目で自分の内側を見詰めることは、
逆に外側に向って伝える力になっていくことを改めて感じさせられました。

今年一年合評会に参加して、なかなか得るものは多かったと思います。
自分では気付かなかった欠点を知れたりもしましたし、詩の読み方というものも随分わかってきて、
すると今まで随分薄っぺらな読み方しかしていなかったことがもったいないです。
また、様々な人にも出会えましたし、飲み会では他では知れない詩壇の事情や、
いろいろな詩人のエピソードなども知ることができました。
合評会というものは否定的な見方もされがちですが、いい意味で自分勝手に利用すれば、
なかなか有益な場所だと思います。
また来年も懲りずに参加する予定…。
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Dec 12, 2006

名前など。

12月に入ってなかなか色々と忙しいです。
ブログもさぼり気味になりますね。

私の小川三郎という名前は筆名です。
当然ながら本名は別にあります。
この筆名は、以前現代詩手帖に投稿を始める際につけたもので、
意味があるといえばありますし、ないと言えばありません。
元来私は名前というものに執着心を持っておらず、なくてもいいとすら思っています。
しかしなければやはり困りますから、一応つけてあるとその程度です。
ということで小川三郎と言う名前は、筆名というよりも寧ろ偽名に近いものです。

もしも誰かが私の作品を知る機会があったとして、
私は小川三郎という名前を覚えて欲しいとは思いません。
ただその作品の中の一行の半分でも心の中に残ってくれれば、それで充分です。
「ああ、その詩知ってる。いや、誰が書いたかまでは知らないけど…」くらいが私の理想ですね。
まあ、とてもそこまでは行かないでしょうが。
有名になるには勿論作品よりも寧ろ名前を売ることが必要でしょうが、
私にはあまりそういう欲求もないですし、もしも名前か作品のどちらかが僅かにでも認知されるなら、
それはやはり作品の方がいいです。

例えば谷川俊太郎さん。
この方は勿論大変に有名で素晴らしい詩人であり、名前作品ともに世間で認知されていますが、
それでも谷川俊太郎という詩人は知っているし顔も知っているけど、
その作品はと言われると出てこない、という人は世間にはたくさんいると思います。
逆に、「鉄腕アトム」のアニメの主題歌。
ある世代から上の方は、ほとんど誰もがこの歌をご存知でしょう。
しかしこの歌の歌詞を作詞したのが谷川俊太郎であることを知っている人は、
普段から詩に親しんでいる方々は勿論ご存知でしょうが、
世間的には案外少ないのではないでしょうか。
実際私がこのことを友人に話したりすると、驚く人が結構います。、
私は後者のほうがかっこいいと思いますし、理想です。
本音では、そう思われている人も多いのじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

んー、ちょっと尻切れトンボですけど、今日はこの辺で…。
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Dec 06, 2006

現代詩手帖12月号を購入。

去年もこの「現代詩年鑑」についてはここで書いたような気がします。
今年も一年早かったですねー。

巻頭は佐々木幹朗氏、田野倉康一氏、水無田気流氏による討議。
しかし水無田さんは中原中也賞受賞以来大出世ですね。
私が詩手帖に投稿を始めた年に詩手帖賞を受賞されたので、なんかとても親近感があります。
誌上そしてイベントと、様々なところで精力的に活躍されているのを見ると、
つくづくすごい人だなあと感嘆してしまいます。
いま一番求められている人でしょう。
詩も書けて、しっかりした論も展開できる方ですから、今後も詩の世界に厚みを与える一人として、
広範囲に渡って活躍していってもらいたいものです。

他の特集では毎年恒例、様々な詩人が今年出た詩集を取りあげて論じています。
とにかく凄い量ですので、これはもう読んでもらうしか。
挙げられている詩集で多いのは、やはり「新しい詩人」シリーズ。
ざっと見たところ、三角みづ紀さんの「カナシヤル」、石田瑞穂さんの「片鱗篇」の評価が高いようです。
ふと思ったのですが、今年は第二詩集が多く出た年だったんですね。
そしてその出来がいいことに驚かされます。
最初の詩集を編むときに学んだことを最大限に生かして作っておられるのでしょう。
処女作を超える、というのは、表現者がぶつかる最初の壁でしょうが、
多くの方がクリアしているようで、一度の評価に満足しない姿勢を見せ付けられます。
個人的に嬉しいのは、私が書評を書かせていただいた斎藤恵子さんの「夕区」が、
実に多くの人から高い評価を得ていること。
あれは素晴らしい詩集でした。
きっとなんらかの賞をいただけるに違いありません。
そしてここで取り上げた斉藤倫さんの「オルペウス オルペウス」、薦田愛さんの「流離縁起」、
和合亮一さんの「入道雲入道雲入道雲」、手塚敦史さんの「数奇な木立ち」、
キキダダマママキキさんの「死期盲」も沢山の方が高評価を与えています。
どれも大好きな詩集ですから嬉しいですね。
新人では望月遊馬さんの「海の大公園」が注目されています。

拙詩集は去年のこの時期に出たので、すっかり忘れられているだろうなと思いきや、
幾人かの人が名前を出してくれてますね。
感謝。

うーん、年鑑は内容が盛りだくさんな分、逆にレビューすることがないですね。
ていうかあまりのボリュームに、実はまだ三分の一も読めてなかったりして。
年末にかけてじっくり読むことにしましょう。
普段詩手帖は立ち読みで済ましている方も、この号だけは買っておいてもいいんじゃないでしょうか。
詩人住所録の載っていることだし。
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Dec 02, 2006

12月

になっちゃいましたねー。
今年も早かった…。

以前、クラシックのピアノ曲などを聴きはじめた頃、
元々好きな曲だったり、印象的なメロディーを持った曲だと割と楽しんで聴けるのですが、
ちょっと難解な曲や渋めの曲を聴くと、やはりちょっと退屈してしまいました。
演奏者についても、どぎついぐらいの個性を持っている人はいいのですが、
渋めの魅力を持った演奏者などだと、違いがよくわからず、音が耳を素通りしてしまって、
せっかくCDを買っても一回しか聴かなかったりでした。

しかし、誰の演奏を聴いているときだか忘れましたが、
あるときふと、これは音楽として受け入れるよりも、
一種の言語として受け取った方がいいのではと思い、
これは「ピアノでしか喋ることが出来ない人が発する言葉」だと想像して聴いてみると、
言葉で説明することは出来ないまでも、作曲者や演奏者が何を思っているのかが、
強くこちらに伝わってくるような気がしました。
途端にピアノの曲を聴くのが面白くなり、
いままで一回聴いたっ切りでしまいこんでいたCDを引っ張り出して聴いてみると、
なんでもないと思っていた演奏が驚くほど面白く聴こえてきて、また同じ曲でも演奏者によって、
大きく話し方が違うのがわかり、以来そんな風にしてピアノ曲を聴いています。

読んでもよくわからない詩に行き当たった時、私は上記のことを応用して、
これは文学ではなく、「こうしか喋ることのできない人が発する言葉」だと思って読みます。
すると、それまでさっぱり意味の通らなかった言葉が、すっとこちらの胸に馴染んで来たりします。
とてもわかりゃしないと数秒前まで思っていた詩句から突然意味が浮き出てくる瞬間というのは、
なかなかクセになります。

どうも私はいつのまにか、先入観という壁を自分で作ってしまっていたようでした。
ピアノ曲とはこういう風なもの、詩とはこういう風なもの、といった先入観をもってしまうと、
その領域からはみ出したものは、頭が激しく拒否反応を起こして受け付けなくなってしまいます。
しかし考えてみると、私の勝手な先入観が作り出していた領域とは、
呆れるほど狭いところであったようで、
取り去ってみると実に広々としてスリリングな景色がみえてきました。
大胆に言ってしまえば「音楽」や「詩」と言った括りでさえ、先入観に過ぎないのかもしれません。

私たちは主に共通の言語でコミュニケーションをとり、必要最低限の事はそれで済むのでしょうが、
それだけでは伝えられないことも数多くあります。
そういったことを伝えたいと欲するとき、
ひとは現在音楽なり詩なりと一般的に括られているような特殊な言語を使って、
より深いコミュニケーションを図ろうとするのでしょう。

すると芸術というのは、多言語の世界のようです。
映像や彫刻や絵画などの表現方法は、それぞれ固有の言語であって、
更にひとつの言語の中でも、個人によってかなり話し方が違ってきます。
しかしそれを聞き取るのは比較的楽でも、自分から話せるようになるのは難しい。
ひとつの言語を話すことを習得するには、一部の天才を除けば、一生かかるぐらいなので、
殆どの人が、ひとつの言語を話せるようになるのがせいぜいでしょう。
詩と彫刻をやる、と言う人も中にはいますが、一種のバイリンガルと言えるかもしれません。
複数の言語を合わせてひとつの言語にする例もあり、
映像というものが現われてからは、特にその傾向が強いようです。
音楽と映像という二つの言語は、抜群に相性がいいですし、詩と絵画にもその傾向があるようです。
建築はそれ自体ひとつの言語でありながら、その外部や内部に無数の言語を取り込むことが出来ます。
また言語の中には、非常に似た言語もあるようです。
詩と写真なんて、結構言語的には似ている気がするのですが、どうでしょう。
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Nov 27, 2006

現代詩60年を語る

25日はジュンク堂書店池袋本店で行われた、城戸朱理さん、和合亮一さん、小笠原鳥類さんによるトークイベント「現代詩60年を語る」に行ってきました。会場は4階にある喫茶店。その狭い空間に40人ほどの聞き手が集い、先鋭的なお三方のお話にじっと耳を傾けていました。

城戸朱理さんからは戦後詩60年の、包括的な流れについて語られました。「荒地」から始まり、谷川俊太郎さんなどの新世代への飛翔、そして政治的活動の影響が濃い60年代詩への突入、外国詩の影響など。今更言うのも失礼ですが、城戸さんの豊かな知識と深い考察から紡ぎ出されてくる言葉は、知識の浅い私にはとても新鮮で刺激的でした。またお話の中に、外国の著名な詩人たちが日本の俳句に大きな関心を持っていたということがあり、はっとさせられました。日本人とは別の目で感じ取った俳句の魅力や新鮮さは、改めて私たちが見詰めなおすべきことだろうと思います。

和合亮一さんは司会を兼任しながら、90年代の初頭から詩を書き始めた人間から見た詩の実情をお話されました。和合さんは常に行動する詩人であることから、自然お話はご自身の体験からのことが中心になるので、聞く者には親近感が持ててわかり易く、そのひとつひとつのことに会場は大きくうなづいていました。また面白い経験も豊富に持っていらっしゃって、張り詰めた空気の会場を和ませていました。和合さんは谷川俊太郎の影響から詩作を始め、大学の先生の言葉から吉岡実に傾倒していったとのこと、このあたりは詩を書く者として非常に興味深いものがありました。

小笠原鳥類さんはレジュメを用意し、吉岡実を中心にして、高貝弘也さん、野村喜和夫さん、キキダダマママキキさんの詩の言葉の魅力について語られました。日常で交わされたり著述されたりする言葉とは、同じ言葉でも完全に異質である詩の言葉の力、その煌きや屈折に敏感に反応する小笠原さんの鋭い感受性、そしてその感動を多くの人に伝えたい、感じて欲しいという熱意に満ちた語りでした。また、書店などの一角にある詩集のコーナーに「闇市」の雰囲気を感じるというお話が印象的でした。

一時間半ほどのトークイベント、60年を語るにはあまりに短い時間でありましたが、それでも重要であることがいくつも提示され、観にきた人はみな満足して帰られたのではないでしょうか。

イベントが終わったあとは、例によって打ち上げ。主役のお三方を囲んで、若い方を中心に、かなりの人数が参加されました。私も端っこに参加。

ここで私はとても若い詩のマニアの方とお話することが出来ました。嬉しいことにその方は私のことをご存知でいらして、このブログも時折読んでくださっているとのこと。それどころか、私が現代詩手帖に投稿していたときから知っていたというから相当なマニア、更に現代詩新人賞の最終選考まで残ったということで、詩の腕も確かなものをお持ちです。話していると、とにかく詩が好きだというエネルギーがびんびんと伝わってきて、詩の読者が不在と言われる中にあっても、ちゃんとこういう方がいらっしゃるのだなあと嬉しくなりました。まだ23歳とのことで、このような方が、これからの時代を作り上げていくに違いありません。詩の未来の、具体的な姿を見たような気がしました。

打ち上げは二時間ほどで一端終了し、お店を変えて二次会へ。次の日が日曜日ということもあって、20人ほどの人が夜通しの詩談議を繰り広げました。その大部分が若い方であったことは重要であると思います。20代を中心に30代、40代の詩人たちが活発に意見交換して刺激し合う様子は、詩の現在と未来を感じさせます。詩への情熱を持った若い世代はいま確実に存在し、それぞれに次のことを考えています。とにかく凄いエネルギー。全くテンションが衰えることなく朝を迎え、私は5時半ぐらいにお暇したのですが、その後もまだまだ詩談議は続いたようでした。参加された方々、どなた様もお疲れ様でした!
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Nov 22, 2006

PSP合評会。

先日の日曜日はPSP合評会でした。

参加者12人という、この会にしては大人数での合評、また初めて参加される方もいらっしゃって、
なかなか熱い意見が飛び交いました。

面白かったのは竹内敏喜さんの作品。
印象的な引用文を三つ並べ、その後に自作を持ってきて一つの詩として完成させるコラージュ的な作品で、
変わったやり方ではありますが、その並べられた引用文というのが、相互関係がないように見えて、
しかしなんらかの関連性を予感させるものであり、
この手法のメリットを最大限に生かしているものだと感じました。
手法というものは、表現したいものが先にあってから選ばれるべきだと思いますが、
この作品はまさに題材に手法が選ばれた感があり、変則的と見える手法でも、
実に自然に鑑賞することができました。
ここらへん、私にとっては収穫でした。

北見俊一さんの作品も、とても楽しめました。
中世のお嬢様のような文体で書かれたこの詩は、あちこちに別の意味が隠されているような、
そんな不思議な魅力を持っていました。
勘ぐる内に、勝手にこっちでいろいろ想像を膨らませてしまったりして、しかしそんなことも、
詩を読む楽しみのひとつだと思います。
北見さんもまた、あるひとつの感情を表現するために、自由に、また的確に表現手法を選んで、
詩を書いていらっしゃます。
今回の作品も、読者をいろいろ惑わしながらも、北見さんが表現したかったものは、
読み手へしっかりと伝わっていたと思います。

ところで私の作品はというと、またもや厳しい意見に曝されてしまったのですが、
痛感したのは、ひとつの言葉を選ぶ重要性です。
頂いた意見の多くが、細かな言葉遣いに関するものでした。
自分ではいいと思った語句も、人から見れば違った印象を持たれたり、作為の跡が見え見えだったり、
軽い気持ちで使った言葉から、そのいい加減さが見透かされてしまったり、
たったひとつの言葉を間違えただけで読む者を混乱させてしまったりと、
今更ながら言葉選びの大切さを思いました。
このことは詩を書く限り、永遠の課題とすべきところでしょう。
このように、自分だけでは気付けない部分をばっちり指摘してもらえるのは、
合評会の有意義なところ。
遠慮せずに意見を言ってくれるひとはありがたい存在です。

今回は、今村純子さんが初めて合評会に参加してくださいました。
今村さんは、以前に合評会に参加してくださった大谷良太さんのご友人です。
芸術哲学、芸術倫理学がご専門であるそうで、ご自身で詩を書かれることはないそうですが、
詩人に興味があるということで、参加してくださいました。
「詩を読む人」と「詩を書く人」がイコールに近いという現状においては、
「詩を書かない人」の意見というのは非常に貴重で、大切なものではないでしょうか。
是非またご参加いただいて、たくさん意見を言っていただきたいところです。
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Nov 18, 2006

レビューが続きましたので、

今日はちょっと雑談を。

私は何年か前、自分はどうやら物語の結末というものに興味がないようだと気がつきました。
小説や映画など物語と呼ばれるものに昔から多く接して来て、それは現在も続いていますが、
考えてみれば、どれを鑑賞している最中にも「どうしてもこの話の結末を知りたい」という欲求には、
本当のところ駆られたことは殆どなく、だからつまらなければ途中で鑑賞をやめることに、
それほど未練を感じません。
お金を払っていますから、一応映画なんかは最後まで観ますけど。

今は全くやりませんが、随分前にはテレビゲームなどをしていたこともあり、
「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」といったロールプレイングゲームなどもやって
みましたが、その中の幾つかのエンディングを私は見ていません。
クリアできなかったのではなく「この敵を倒したら間違いなくエンディング」という所まで到達すると、
急に興味を失って、ゲームを放り出してしまうのです。
結末を見たくないというより興味がもてず、その為に苦労して強い敵を倒す気になれなかったのです。
今から思えば、私がゲームの中で一生懸命敵を倒していたのは、ゲームの続きを見たいからであって、
結末にたどり着くためではなかったのでしょう。

どうやら私の興味は物語自体にはなく、物語の持つ雰囲気や世界観などにあるようです。
そういうものに浸りながら、流れを追っていくのが好きなんですね。
だから、そういうものさえ魅力的であれば、結末がどんなにしょぼかろうと、私には面白い作品です。
私の好きな映画や小説などを思い返してみると、その雰囲気や世界観に惹かれたものばかりですし、
中には正直どんな結末だったのか思い出せないものもあります。
好きな映画のビデオを引っ張り出して観てみたら、結末の直前でちょん切れていたとしても、
私はそれほどショックを受けないでしょう。

話の展開の面白さに惹かれることはあります。
まずなにが起こって、その次に何が起こって、それが連鎖してこんなことになって、のような事は、
そのスピード感や転がっていく方向などをディテールとして捉えられて楽しめます。
その延長線上に結末があるのであれば、それはディテールとしてどんな結末になるか楽しみです。
しかしそういう作品の場合、一度の鑑賞は楽しめても、雰囲気や世界観に強く惹かれていなければ、
もう一度その流れに身を任せたいとは思いません。
私がその作品に惹かれるかどうかの基準は、あくまで雰囲気や世界観によるものであって、
物語性によるものではないようです。

詩という形態には、ストーリー性や結末などは必ずしも必要とされません。
ある程度以上の展開を持たず、物語に義務付けられるような結末も持たない場合が多いです。
そういう作品は、大多数の人が読みにくいと感じるのではないでしょうか。
詩は物語の一種であるという意識が働いてしまっていると、
物語に必要な最低条件を満たしていない詩は未完成品であるように見えて、
つまらないもの、取るに足らないものと判断されてしまいます。

しかし詩の魅力というのは、当然のことながら物語の巧みさではなく、
その詩自体が持つ生の力であり、そこから噴出される雰囲気やディテールです。
それさえあれば、その詩はひとつの優れた「作品」として、まずは存在出来るはずです。
ただ難儀であるのは、物語の巧みさは、たくさん勉強すれば得られるものかもしれませんが、
優れた詩を書けるか否かは、ある程度の天性に寄ったり、偶然性が大きく関わっているということです。
だからこそ、魅力的な詩というものは、発表される詩全体の数に対して、非常に少ないのでしょう。
私のように物語性を求めないような者でも、惹き込まれる詩集にはなかなか出会えません。
一篇の優れた詩は、ある種の奇跡とすら言えそうです。

また、読む者を詩の魅力にまで引き連れてくるには、「詩は物語の一種ではない」ということを、
一瞬にして読むものに知らしめなくてはならず、その為には最初の数行で、
「これは物語とは全く別のものだ」と直感させるような凄い詩句が必要となります。
しかしそんな口で言うほど簡単に事が済めば、誰も苦労なんかしませんね。
と言うか考えれば考えるほど、やはり優れた詩は難しいというより奇跡以外の何ものでもないようで・・・。
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Nov 14, 2006

入道雲入道雲入道雲

和合亮一さんの新詩集「入道雲入道雲入道雲」(思潮社)を読みました。
一年前に刊行された前作「地球頭脳詩篇」が第47回晩翠賞を受賞し、
その興奮も冷めやらぬうちの刊行です。
第五詩集。

白い装丁にタイトルが筆で書き叩かれたこの詩集の内容は、
「入道雲」、「入道雲入道雲」という二つの長編詩からなっています。
開いてみると、最初のページからいきなり言葉が中空を疾走し始め、
読み手を引っ張るというよりも、駆け抜ける勢いで詩句が放られていきます。

詩の中にドゥカティというバイクの名前が出てくることもありますが、
この疾走感はバイクに似ています。
詩人はバイクを駆って、故郷の風景とそこで暮らしてきたことの記憶、
そして白々しい情報が飛び交う現在を縦横無尽に駆け抜け、
その光跡がそのまま詩へと変換されていくようです。
詩人和合亮一の住む世界は詩句で満ち溢れた世界なのでしょうか。
散りばめられた言葉は詩人自身のものでありながら、
詩人の三十八年の人生を外側から包括的に見つめる目ともなり、
いきおい詩人の生まれる以前と死後にまで広がっていきます。
このようにスケールの大きな作品であるにも拘らず、読み手を高みから見下すのではなく、
常に寄り添うような言葉使いで誘うあたりも、和合さんの詩の魅力のひとつでしょう。

後半の「入道雲入道雲」に入ると、テーマは変わらずとも詩人の立ち位置が大きく変わります。
疾走していた前半「入道雲」とは打って変わって、故郷の自然と丸ごと同化するように一所に留まり、
声を大きくしたり小さくしたり、また膨らませたり縮まらせたりしながら、
ずぶずぶと深く沈んでいくことによって故郷を見つめていきます。
そうして故郷と自分とを行き来しながら、究極なほど自由に言葉を繰り出して行きますが、
それでも支離滅裂になることなく一貫し、緊張感を持続しているのは、
詩人が自己というものを明確に捉えているからであり、
それが出来て初めて自由が得られるのだという基本的なことをも感じさせられます。

和合さんの言葉は、普通一般には通じないような奇妙な言葉です。
ですから詩篇の一部を抜き出してみても、よく意味がつかめないものが多いのですが、
しかし和合さんの詩が持つスピードや流れなどと共に受け入れると、
不思議とその言葉たちが発する感情がテレパシーのように伝わってきます。
疾走感もまた詩の一部であり、和合さんの詩篇の成立に不可欠なものです。
詩の手法について言えば、行に激しい高低差をつけたり字体を変化させたりと、
躍動的なものが目立ちますが、このいかにも現代詩的な手法は、
使う人によっては手法に自己が食われてしまって、外見はいかにも過激に見えながらも、
実は中身は意外と凡庸な詩になってしまっていたりするものも多いようです。
しかし和合さんはこの手法も自分の世界にまで充分に引き込み、
押さえ込んで利用してしまっているあたり、詩人としての揺るぎない地力を感じます。
装丁、手法のほか、パフォーマンスなどにも、様々に新しい試みを打ち出す和合さんですが、
その原動力になっているのは、小手先や思いつきではなく、
紛れもなく和合さんが弾き出す詩篇そのものの力であり、
それが否応なしに詩の周囲を刷新させていくのでしょう。
このような確かなベクトルを持つ詩人は、歴史的に見ても稀有なのではないでしょうか。
現代詩のシーンというものがあるのなら、それを動かしているものの一つは、
確かにこの人に渦巻いている力です。

前作の「地球頭脳詩篇」もいいですが、個人的にはこの「入道雲入道雲入道雲」の方が好きです。
それなりにボリュームのある本ではありますが、ほぼ一気に読み干してしまいました。
しかし明確な個性を持つ詩人の作品は、あんまり繰り返し読むと影響されてしまいそうで怖いですね。
ほどほどにしておきましょう。
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Nov 10, 2006

流離縁起

薦田愛さんの新詩集「流離縁起」(ふらんす堂)を読みました。

この詩集の装丁は深い緑色ですが、内容もまた非常に濃密で深く、
一篇一篇読むごとに感じられる手応えは半端ではありません。
これを一回で全篇読み通すことが出来る人は、なかなかいないのではないでしょうか。
もちろんこれは読みづらいということではなく、寧ろ読みやすいのですが、
その分こちらに流れ込んで来る情報量はとてつもないもので、
受け止める側にもなかなか体力が要求されます。

薦田さんの描く、現実から一歩大きく踏み外したような詩の世界は、
日常をそつなく生活する人の顔の裏面に貼り付いたもうひとつの顔が発する言葉や情感のようです。
その顔は、現実とは似ても似つかない、悪夢のように歪んだ出来事を淡々と語り、
それと対峙する詩人の感情や行動は、
現実の生活によって、あるいは生まれつきに歪んだ形になってしまっている心を、
正常な形に戻そうとする行為であるようです。

しかし読むうち、心とは寧ろ歪んだ形であることが普通であり、
その歪み加減こそがその人らしさを表していて、
それでも本来の形へと戻そうとする原初的な意志や行為が、
生きるということなのかもしれないと思い当たりました。

そんな薦田さんより発せられる詩の言葉に沿っていくと、異形な世界であるにも拘らず、
なにかニアミスのように、突然に詩人の感覚に親近感を覚えたりします。
いつかどこかで自分も同じ感覚を持ったことがあるような。
そんな気がするのは、優れた筆力によるところもありますが、
恐らくは薦田さんの言葉の一つ一つが、異常なまでに強く匂いたっているからではと思います。
その匂いは生い茂った草むらのようでもあり、またなにかに固執する女性の体臭のようでもあります。
するとこれらの言葉は頭で考えられたものというより、肉体によって得られた感触そのものであり、
だからその匂いを吸い込むと、言葉の表面よりも奥にある、深い部分を感じられるのではと思います。
言葉を通じて、頭から頭ではなく、肉体的にその感覚を伝えるのが、薦田さんの言葉であるようです。

詩集の最後に収められている「石積み」の連作は圧巻です。
幼少時に亡くなった姉が好きだった花を摘む老婆が、一緒に花を摘む孫へとかける柔らかい言葉。
しかし老婆の、長い時間が蓄積されたその内部よりこぼれ落ちるが如く発せられる言葉には、
何気なくありながらも深い沈思の海が見えます。
詩人は内側の顔で、その海に立つ波や渦潮の様子を静かに語っていきます。
やがて言葉は老婆の独白となり、その中でここにはいない姉の姿が再生して揺らめき、
老婆との繋がりの匂いを再び立ち上らせていきます。
人生が閉じていく時間の中で、経てきた長い時間が一点に集約されていく過程に結晶する大切なこと、
詩人は見事にそれを言葉に変えて、読み手へと提示します。

とにかくこの詩集はずっしりと手応えのある詩集ですので、
じっくりと長い時間をかけてひとつの世界に浸りたい方にお薦めです。
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Nov 06, 2006

オルペウス オルペウス

思潮社から刊行中のシリーズ「新しい詩人」の中の一冊、
斉藤倫さんの第二詩集「オルペウス オルペウス」を読みました。

斉藤さんは、とても優しく親近感の持てる作品を書く方です。
第一詩集の「手をふる 手をふる」(あざみ書房)も、読みながらだんだん心が柔らかくなっていくような、
白い綿のような感触を持つ詩集でした。
今回の詩集はその特徴を受け継ぎながらも、連作長篇詩という形に挑戦されています。
タイトルになっているオルペウスは、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人の名前であり、
悲劇的な運命を持つキャラクターですが、この詩集に現われるオルペウスは、
斉藤さんの中に住んでいる、あるいは誰の中にも住んでいる小さな友人のようです。

普通の街で普通に暮らして、普通に悩みや葛藤などと戦っている普通の人。
そんな人の中にこっそり潜んでいる勇敢な吟遊詩人オルペウスは、人がなんらかの現実、
恋や人間関係の摩擦などとぶつかった時、突然現われ、詩人の目で現実に対峙し言葉を発します。
その言葉は、現実に振り飛ばされてしまいそうになった自己を支え、
しっかりと両足で立たせる役割を担っています。

斉藤さんとオルペウスの共同作業のようにして書かれた作品群は、ユーモアにあふれていて、
現実に打ちのめされたときに泣いていたって仕方がない、洒落のめして前に進むしかない、
と言っているようです。

オルペウスは、普通の人の現実において詩を発しますが、
やがて何を思ったのか、ふと自分の物語を語り始めたりします。
オルペウスと関係の深い者たちの名前を交えて、ギリシャ神話にある出来事を語るのですが、
斉藤さんの手を借りたそれは、確かにギリシャ神話なのですが、
なんだか宮沢賢治の童話のように親近感があります。
キャラクターも神話の登場人物というよりも、かにとか、さるとか、いぬとか、
日本むかしばなしに出てくるどうぶつたちといった風情。
しかし根底にある痛みや苦しみといったものはそのまま流れ続け、
いま現実と対峙する普通の人の内面へと流れつきます。
人は痛みに叫び、死を見詰めすらしますが、それを表すオルペウス(斉藤さん)の言葉は、
やはり白く柔らかいもので、そんな詩が流れる中、また人は普通の日常へと帰っていくのです。

この詩集を読んでいると、普段見慣れた日常の雑踏をいく人々の風景が、
きれぎれのオルペウスの言葉に満ちているように感じられてきます。
みんなそれぞれいろいろな悩みを抱えているけれども、
ひとの中に普遍的に存在するオルペウス的存在と手を取りあいながら、
なんとか生きているのだなあと思います。
自分を含めて。

というわけで、この詩集「オルペウス オルペウス」は、
いわゆるゲンダイシというのが苦手な方にお薦めです。
しかしもちろん薄っぺらいものではなく、
柔らかい言葉が心に何処までも何処までも染み込んでいく詩集です。
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Nov 02, 2006

11月!!

ということで、現代詩手帖11月号を購入しました。
特集は谷川俊太郎の詩論。
詩の森文庫での詩論三部作完結に合わせた特集で、谷川氏と四元康祐さんによる対談、
それに著名な詩人さんなどがエッセイを寄せています。

そして今号では「現代詩新人賞」が発表になっています。
受賞作品は中尾太一さんの「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」。
中尾さんのお名前も作品も初めて目にしました。
掲載された受賞作を読むと横書きを多用した大作であり、
私には詩人の過去を叙情的に物語っていく作品と読めました。
詩的な長篇小説から最も詩的な部分だけを抽出してまとめた作品のようでもありますが、
表現したいことの焦点がはっきりとしている所為か、そのエッセンスは地下水のように澄んでおり、
この方はこの先、既成の詩の概念から一歩はずれた、唯一無比のやり方で自己の世界を広げていく
予感がします。
選評によると、個人で造本されたものが送られてきたとのこと。
あるいはその形で読むと、誌上で読むのとは、また違った魅力があるのかもしれません。

今月号をパラパラとめくっていて一番心惹かれたのは、「<クレオール>な詩人たち」で取り上げられて
いるカリブ海の島セントルシア出身の詩人デレック・ウォルコット。
ノーベル賞を取っているすごい人ですが、その作風は、奴隷制度の過去や貧困といった重いテーマを
取り上げながらも、ユーモアと明るさを持ったものです。
細かい名詞や事情などは注釈に頼らざるを得ませんが、わからないままでもぐいぐいと読まされます。
氏の特集は前号に引き続いてのものであり、今号に掲載された長編詩は、詩というより寧ろ
物語性の強いものですが、行間の向こうを覗いてみると、太陽とそれを反射する海の煌きが見通せ、
それにヘミングウェイとかマルケスとか、南米の作家たちの文章が持っているあの匂いが薫ってきて、
単純ですが、ああ南米っぽい、カリブ海っぽいなあと思います。
こういう、自分が生まれ育ったところとは何もかも違う雰囲気というのは、
どうしても惹き付けられてしまいます。
表されるニュアンスのひとつひとつが興味深く、特に彼らが肌で感じてきたことから滲み出てくる言葉の
様子、ものごとの受け止め方など、恐らくは実際の十分の一も理解できていないであろうけれども、
なんか、かっぱえびせんのように、やめられずに次から次へと読んでしまいます。
是非まとめて読んでみたいところですが、残念ながらウォルコットの詩集は絶版の様子…。
古本屋を回ってみるしかないようです。
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Oct 29, 2006

「空白期」

先日のPSP合評会の際、参加者の高田昭子さんより新詩集「空白期」をご恵与いただきました。
今回はその感想を。

高田さんの紡ぐ言葉は、そのひとつひとつがとても魅力的であり、
目にした途端に胸を染められてしまうものばかりです。
その見事さに思わずそのまま詩句から目を上げ、感慨に浸ってしまいそうですが、
高田さんの世界はその詩句もさることながら、それらの言葉が浮かんでいる水のようなものにこそ、
本来の魅力があるのだと思います。
高田さんの詩とは、静かな水面にじっと詩句が浮かんでいるような、そんな詩なのです。
ですから、詩や詩句について語るより、その水より伝わってきた思いを書いてみます。

高田さんの詩は、ありのままの世界を表すというよりも、詩人の目で捉えた景色を、
目を瞑って自分の内にある箱庭に植え、自らの水分を養分にして育てるというような、
そんな描き方をされています。
そこにある景色は、現実の世界とは色合いを別にしていながらも、魅力的で、人を惹きつける力を持ち、
同時に詩人自身の内面を映す鏡となっています。
覗き込んでいると、幻想的な色あいの世界であるにも拘らず、
意外なほど詩人の生の姿が映りこんでいるのが見て取れます。

生命を育むものは、季節や自然を流れるもの。
そして同じように人の中にも流れゆくものがあり、それが人としての心を育んでいます。
人が見詰める季節には、しかしなにかがひとつ足りないようで、その足りないぶんが、
様々な奥行きや意味合いを人に思わせ、そこに新たな感慨としての色彩が現われるのでしょう。
それは現実の色彩と、その人だけが持っている色彩が混じり合って醸し出された色であり、
言葉ではとうてい言い表すことが出来ないものですが、
高田さんは自らの時間と共に毎日刻々と変化していくその色彩を、詩という方法によって表現し、
読む者の前に提示します。

そこにある時間は、過去でも未来でもなく、常に「今日」です。
詩を読んでいくと、このかけがえのない今日という時間を、
高田さんはとても大切にしているように感じられます。
そして常に存在し、また失われていくその時間は、人の心の深い底へといつも繋がっています。
そのひとがそのひとであることを証明する、目には見えない心の底の暗い場所、
しかし確かに感じられるその空間の冷たさ暖かさを、
高田さんはゆっくりと、いまという時間の全てを使って感じ取り、
文字の表に浮かび上がらせていきます。

生きているということは、常に期待と不安が続くことです。
ひとは日常の、ほんの些細なことに対してさえ、常に期待し、また不安を感じています。
それは時に微かな感情でしかなく、人はそれをえいと手で払いのけながら一日をやり過ごし、
またそうすることが「大人」である証拠のように思われていますが、それを感じる部分から本当は、
今日を生きていたいと強く願う、祈りのようなものが生まれるのでしょう。

そしてそのようなかけがえのない一瞬の繰り返しによって、人の見詰める季節は巡り、
この世界で起こった沢山の小さな事や大きな事が、思い出として形づくられ、
やがて人の形を成すのでしょう。
高田さんは祈るようにして今現在の時間を見詰め、どんな些細なことも、一瞬である限り、
永遠へと繋がっていくことを「わかって」おられます。

また、この世界と時間はあらゆる方向に向って広がっているにも拘らず、
人はただ一本の道を、真っ直ぐ歩いていくしかありません。
様々なものを目にし、様々なものを耳にしながら歩いていくそのただ一筋の道は、
あるいは円を描いており、最後は最初に戻るのかもしれません。
行く道でもあり帰り道でもあるその道の途中で、人は沢山の眠りを眠ります。

高田さんの詩に現われる眠りは、祈りそのものであるかのようです。
本当の祈りは、夢の中でしか成し得ないものなのか。
詩人の祈りは、決して何を望むわけでもなく、
ただ、全てのものがそこに在る事を祈るようです。
祈りは過去にも未来にも向けられず、ただ現在、今この一瞬にのみ向けられています。
ずっと以前に消えてしまったものさえも、詩人は現在として見詰め、在ることを祈っています。

しかしまた、詩人はその一瞬一瞬の中にも、消えていく無数のものがあることを、
正直に見詰めています。
そして消えていくものとは、いつも何よりも愛おしいものです。
たとえそれらと面識がなくても、また遥か遠い存在でも、詩人は同じく深く祈りを捧げます。
人の目に映るありのままの世界は、指先ひとつ触れることは出来ず、
ただ感じ、見守り、待ち続けるしかなく、
それが即ち生きていることとするなら、あたかも人のする全てのことが、祈りであるようです。
そして詩人にとって、高田さんにとって、それはやはり詩を詠むということであるのでしょう。

最後に、やはり水仁舎の美しい造本に触れないわけにはいきません。
薄い水玉の入った白い表紙に、銀の箔押しでタイトルや著者名が記された、
このシンプルかつコンパクトな本は、とても大切なものを内包している印象を強く与えます。
決して目立ちはせず、しかし宝ものがたくさん詰った小さな箱、といった感じです。
この装丁はまるで上記した「水」のようでもあり、
「空白期」というタイトルは、この詩集の内容、装丁の全てに対して名付けられたものであるようです。
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Oct 25, 2006

PSP合評会。

この前の日曜日は、月イチ恒例のPSP合評会でした。

まずはあたらしい詩集がまたひとつ生まれたこと。
灰皿町の住民でもある詩人高田昭子さんの新詩集「空白期」(水仁舎)が完成しました。
掌にしっくりくる小ぶりの本を開くと、高田さんの独特な魅力が匂い立ちます。
収録された20篇の詩作品は、何処を切っても、高田さん、高田さん、ですね。
この詩集については、また日を改めて書きたいと思います。

この日の合評会、私は少し多めに発言してみました。
と言っても、普段発言が少ない方なので、多めと言っても高が知れているのですが。
それでも自分なりに、他の皆さんの作品について、突っ込んで考えてみたつもりです。
感じたのは、詩の肝となる言葉の存在でした。

会に参加されている方々の詩をじっくりと時間をかけて読んでみると、あ、この行がこの詩の肝だな、
と思われる行に行き当たります。
まずこのような肝がしっかり存在していることが、詩を成立させるためには不可欠なことでしょう。
そういった行が必ず見当たるあたり、やはりPSP参加者のレベルは高いなと感じさせられます。

その行を観察してみると、使われている言葉を少し変えただけで詩全体が大きく変わってしまうぐらい、
その詩において重要な役割を担っていることが見えてきます。
そこにどのような詩句を持ってこれるかによって、詩全体の印象が決まってきてしまう。
ここに絶妙な言葉を挿入することができれば、途端にその他の行の深い意味も浮き上がり、
詩全体が輝きはじめる、あるいはそういうことが起こること自体を、詩と呼ぶのかもしれません。

ですので、この行をばっちり決めることが、詩を詩として成り立たせるために重要となるのでしょうが、
これがまた、いかんせん難しいことです。
その行を存在させられること自体、大変難しいことですし、またその行を絶妙な言葉、
作者が表したかったことを見事に詩の中に出現させる言葉を選び抜くには、
相当の努力と時間とセンスが必要であると思われます。

そこらへんを重々わかっていながらも、他の皆さんの作品を読ませていただきながら、あ、惜しいなあ、
もうちょっとここにいい言葉が入れば凄くなるのに、なんて思ってしまいます。
メンバーの作品全体のクオリティが高いために、そんな贅沢な不満を感じてしまうのです。
逆に、そこぐらいしか突っ込むところがないんですね。
それじゃあどんな言葉を入れればいいんだ、と聞かれても答えられないんですが。

ちなみに私、今回はちょっとわかり辛いだろうなと思う作品をあえて持って行ってみました。
反応は、やはり「???」「…」という感じでしたが、メンバーに気になった箇所をいろいろ
指摘して頂いて、随分参考になりました。
他の人に読んでいただいて意見を言ってもらうと、自分だけでは気付けない点などに気付かされます。
これは伝わるだろうと思い込んでいた部分が伝わらなかったり、あまり気にせず配置した言葉が、
思いがけず読み手を躓かせてしまったり、とても勉強になります。
やっぱりせっかくの場ですから、褒めあいっこしても仕方がないですからね。
ま、褒められると、それはそれですごく嬉しいんですが…。

それと今回はあたらしく、杉本つばささんが参加してくださいました。
杉本さんはずっと京都で活動されていたそうですが、最近東京に居を移され、
これからも参加してくださいそうな気配。
ちなみに現在公開されている「いん・あうと」で杉本さんの書かれた論考を読むことが出来ます。

合評会後はいつもの通り二次会飲み会。
いつもの通りに盛り上がりました。
久谷さんも相変わらず元気そうでした!
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Oct 22, 2006

なんだか冴えない

話題ばかりの映画「ゲド戦記」ですが、
今度は挿入歌である「テルーの唄」の歌詞の一部が萩原朔太郎の詩に酷似している、
なんてニュースがありました。
なんでも作詞した宮崎吾郎監督は、朔太郎の詩を参考にしたと明言していて、
公式サイトにはそのことは書かれているようですが、CD自体には記載されていないようです。
詳しくはネットニュースで見てください。

このようなニュースは後を絶ちませんね。
時を同じくして、ミュージシャンの槙原敬之氏が書いた曲の歌詞が、
「銀河鉄道999」に出てくる言葉に酷似しているというニュースも流れています。
ちょっと前には画家和田義彦氏が、アルベルト・スギ氏の絵を盗作しただとか、
あと詩の世界にもそんな話題がありましたね。

上記したようなヒットを義務付けられているような人たちは、ものすごいプレッシャーの中で、
気持ちが揺らいでしまうこともあるのでしょう。
本当に盗作であったかどうか私には判断できませんが、
盗作自体はやはりいけないことですね。

なんらかの表現をしていると、
好きな表現者の作ったものを真似してみたいという欲求に駆られることはあると思います。
あのバンドのギタリストが大好きだから、同じギターを買って、同じ髪型にして、曲のコピーを、
というのはとても楽しいですし、絵が上手ければ、好きな漫画家のキャラクターを使って、
好き勝手な漫画を描くのは楽しいに違いありません。
それはそれでとても楽しいのですが、やっぱりそれはアマチュアのすることだと思います。
私は音楽が好きで、洋楽のアーティストなどよく聴いていたのですが、
日本のプロミュージシャンが海外の曲のフレーズなどを、もう盗作としか思えないほど、
そっくりそのまま自分の曲に使って平気な顔をしているのを見ると、やはり悲しくなります。
そういうのを見ると、日本の音楽シーンは寧ろものまね王座決定戦に近いとさえ思えます。

詩を書く人は、殆どが詩からの収入だけでは生活が成り立たないので、
そういう意味では世間で言うところのアマチュアなのでしょうから、
少しぐらいパクっちゃってみても許されそうな気もしますが、
しかしやっぱり心意気ぐらいは持っていないと悲しいです。
「誰も認めてくれないし、詩集も全然売れないけど、俺はプロなんだぜ」と、
口には出来なくても、心の底ではこっそり思っていたいものです。
そうすると、やはりいくら心酔する詩人がいて、その人の真似がしたくても、
少なくとも自分の名義だけで発表するなら、それはすべきでないと思います。
もちろん先人たちが確立してきた詩の形を見てしまっている限り、
そこから様々な影響を受けることは避けられないのですが、それを抜け出した時に初めて、
ひとりの表現者として成立するのだと思いたいですね。
それは大変しんどいことでしょうし、結局無駄な努力に終わる可能性は非常に高いですが、
気持ちだけは忘れたくないところです。

しかしゲド戦記の「テルーの唄」、いい曲だなあなんて思ってたんですけど。
荒川洋治氏が「諸君!」で言っているように、原詩:萩原朔太郎、ぐらいはCDに記載しても
良かったのではと思います。
そうしたら、CDを買った人の中には、朔太郎の詩集にも手を伸ばしてみる人も多かったのでは。
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Oct 17, 2006

横浜詩人会賞。

先週の土曜日は、横浜詩人会賞の授賞式に出席してきました。
今年の受賞詩集は大谷良太さんの「薄明行」(詩学社刊)
実は私もこの賞には応募していたのですが、
最終候補の6冊にまではなんとか残ったものの、あえなく落選…。

大谷さんとは、以前に合評会にいらっしゃった時にお会いしました。
なにせ人に愛される性格の方なので、二次会では初対面にも関わらず一気に馴染み、
その後もお会い出来はしないものの、詩集や手紙、メールのやり取りなどあって、
いいお付き合いをさせていただいていました。
横浜詩人会賞に詩集を送るときも、「どうする?送る?」的なやり取りなんかもしていたので、
彼が受賞したという連絡を貰ったときには、悔しいより「ああ、よかった」という気持ちでした。
ま、その連絡ってのは、本人から貰ったんですけど。

ということで、本人から案内状を貰い、受賞式会場へ。
詩集の受賞式というものに初めてお邪魔しましたが、なんだかちょっと結婚披露宴のような様子でした。
私は受賞者の関係者ということで、図々しくも本人の真横に着席。
大谷さんはスーツで格好よく決めていました。
しかしスピーチなどあるので、かなり緊張した様子、手も震えていました。
ご両親もいらっしゃっていて、ご家族とのやり取りを見ていると、
実にいい家庭にお育ちになられたようで、とても暖かい雰囲気を感じました。

授賞式は関係者の挨拶、選考経過報告などを経て、賞状と賞金の授与。
やっぱり大谷さん、かなり緊張されていましたが無事こなし、
次に大学時代からの友人である今村純子さんによる受賞者紹介。
ここでは、大学入学当時の大谷さんの様子が語られ、そのかなりぶっとんだ様子に、
会場も随分と和みました。
そして大谷さんの受賞者挨拶。
やっぱり声が震えていて、言葉が途切れ途切れであったものの、
大谷さんの優しい人柄を感じさせるとても気持ちのいいスピーチ。
このスピーチを聞いて会場の誰もが、この人にとってもらってよかった、と思ったのではないでしょうか。
そしてとりあえず儀式的なことは無事終わり、乾杯。

ところで、この授賞式には、
思潮社から「すみだがわ」という詩集を出されている廿楽順治さんも出席されていました。
「すみだがわ」は、最後まで「薄明行」と受賞を争った、非常に優れた詩集です。
廿楽さんは前々回の現代詩手帖賞を受賞されており、同じ時期に投稿していた者としては、
とてもお会いしたかった方のひとりでした。
お話してみると、なんとこのブログを読んでいただけていたとのこと。
いやー、嬉しいやら、恥ずかしいやら。
それならばもうちょっとちゃんと書いておけばよかった、なんて。

受賞式のあとはそのまま食事をしながらの懇親会へ移行。
私の方は、あとはお酒でも飲んでお腹一杯ご飯を食べようか、なんて気楽に思っていたのですが、
とつぜんスピーチを頼まれ、え、まじで?という感じ。
もうビールを飲んでいたので、そのままさささっと適当に喋って済ませてしまいましたが、
他の皆さんはかなりちゃんとお喋りになっていて、いや、私は喋るのは苦手で…困ります。
大谷さんは大役を果たしたと言うことで、気持ちが楽になったのか、ビールをがんがん飲んでいました。
それでもスピーチをされた方には、どの方にも丁寧に頭を下げ、ここらへんも人柄が表れていました。

その後、受賞式会場を後にし、二次会の会場へ。
私もまた、図々しくついていき、ここでは私は横浜詩人会の方々とお喋りさせていただきました。
失礼ながら、年配の方が殆どでいらっしゃいましたが、どの方もお優しく、気持ちのいい方ばかりで、
面白い話や、拙詩集を読んで頂けた方からのアドバイスなど聞けました。
しかし詩人会、というと、なんだかいろいろ政治的なことが渦巻いていたり、
暗黙の内に上下関係がきっちり出来ていたりして、というイメージを持っていたのですが、
横浜詩人会の場合はそういう殺伐とした印象はなく、なんだか実にアットホームな雰囲気でした。
その後また店を変えて三次会へ、11時ぐらいまで会は続きましたが、
がんがん飲み続けていた大谷さんはついに撃沈。
立てなくなって詩人会の皆さんに肩を借りながら店をあとにし、タクシーにのせられて帰宅。
なんとも大谷さんらしい受賞式でした。
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Oct 14, 2006

クラムボン…

先日のクロコダイル朗読会で設けられたトークショーは、
「クラムボンの歌」と題して宮沢賢治についてのお話でした。
タイトルからすれば「クラムボン」という言葉についての話があっても良かったのでしょうが、
残念ながら時間が少なく、その言及はありませんでした。

「クラムボン」とは周知の通り、
宮沢賢治の童話「やなまし」で蟹の兄弟の会話に出てくる謎の言葉ですね。
「やまなし」冒頭の、蟹の兄弟の会話だけ引用してみます。

「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンははねてわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

「クラムボンはわらっていたよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「それなら、なぜクラムボンはわらったの。」
「知らない。」

「クラムボンは死んだよ。」
「クラムボンは殺されたよ。」
「クラムボンは死んでしまったよ……。」
「殺されたよ。」
「それならなぜ殺された。」
「わからない。」

「クラムボンはわらったよ。」
「わらった。」

この童話は確か私の場合、小学校の教科書に出てきました。
私は不真面目な生徒だったので、大して授業を聞いてはおらず、
ですからこの童話が宮沢賢治の作であることを知ったのは、
随分あとのことだったと思います。
しかし、作者の名前を知らなくても、「クラムボン」という言葉、
そして「かぷかぷ」という笑い声は、強く印象に残っていました。
私と同様、私の友人も不真面目な人が多く、本を全く読まない輩も多いのですが、
なにかの拍子に私が「クラムボン」と言うと、大抵の人がその言葉だけは知っています。
「ああ、かぷかぷ笑う奴だろ。なんだっけ、それ」みたいな感じで。
宮沢賢治が好きだったり、読み物が好きな人ならわかりますが、
全然そうでないひとの記憶にまで、しっかり残ってしまうこの言葉の魔力は、凄いものがあります。
その一番の理由は、やはり言葉の響きでしょう。
「クラムボン」「かぷかぷ」という響きは、思わず口に出して言いたくなる衝動に駆られます。
実際この童話を読んだひとで、この言葉を口に出してみなかったひとなど、いないのではないでしょうか。
それにそののん気な響きの直後に「死んだよ」という強烈な言葉が被さってくることにより、
更に印象深いものになっているようです。

ところでこの「クラムボン」が一体なんなのか、と言うことは童話の中では明かされません。
だからこそ研究者の興味を惹きつけてやまず、聞くところによれば10以上の仮説があるそうですが、
著者が死んでしまっている以上、「クラムボン」を確定することは最早出来ません。
一体なんなのでしょう「クラムボン」とは。
「やまなし」を読んでみると「泡」ともとれますし「母親」ともとれますし「卵」ともとれそうです。
また、特に意味などないのかも知れません。

私としては…「クラムボン」とは生まれて間もなくして死んでしまった兄弟たちではないかと。
蟹は卵の中にいる時や孵化してすぐの頃、殆どが他の魚の餌になってしまうはずです。
それで、ここに出てくる兄弟以外はみんな魚に食べられてしまって、いまは二匹だけが残っている。
勝手に深読みすれば、
兄弟のセリフは二匹が生き残った者たちであることを表しているのではないでしょうか。
自分たちと一緒に、元気に笑っているように動き回っていた兄弟たちが、
しかし次々魚に食べられ消えていった事実を、彼らはわけがわからないなりに受け止めている。
するとこのあと、かわせみが現われて、
元は自分たちの捕食者であった魚を一撃のもとに獲って去ることにも繋がるのでは。
つまり、厳しい自然界における食物連鎖の隙間の時間が、この「やまなし」に流れる時間ではないかと。
そんな時間には蟹もまた、白い樺の花びらが流れてくるのを眺めたり、吐き出す泡の比べっこをしたり、
流れてきたやまなしを追いかけて親子で川底を歩いていったりしている。
そんな様子を宮沢賢治は描きたかったのではないでしょうか。
ま、どうだかわかりませんが。

しかし上に引用したセリフだけを見てみると、詩のようにも見えます。
「クラムボン」「かぷかぷ」と言った言葉は、詩の言葉としては最高です。
読めば一度で憶えてしまって忘れられず、しかもとても謎めいていて、
いつまでも心に引っかかっている。
世代を超えて人々の心の中を流れていく言葉。
読んだ人の数だけ意味を持つ、ひとつの言葉。
仮にも詩を書くなんてことをしている身にとっては、
一生にひとつでいいからこういう言葉を編み出してみたいものですね。
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Oct 09, 2006

連休真っ直中

に更新です。

私は今まで、所謂ビジネス文書と言われるもの以外、
人目に触れるところに文章を書く機会がありませんでした。
しかし最近では、書評などの文章を書く機会に僅かながら恵まれ、
すると、これも僅かにですが文章について考えもします。

私は、ほとんどの場合、キーボードで文章を打ちます。
その方が手書きより断然早いことと、推敲が楽であることがその理由です。
しかし日本でワープロやパソコンが普及する以前は、
当然ながら誰もが手書きであったわけで、
そしていまもそういう方は多くおられます。
その場合、原稿用紙に文字を書きつけていくわけですが、
長年書かれている方は、10枚という依頼であれば、最初の一行から書き始め、
10枚目の最後の一行できっちり終わる、という技術を持っている方も多いと思います。
所謂キーボードの世代には、この感覚は全くないのではと思います。
勿論私もそうです。

私の書き方は、まず思うままに、文法や順序などを気にせず文章を打っていき、
自分の中のものを全部出しきったところで、推敲に入り、体裁を整えていきます。
考えてみればこのやり方は、手書きで書かれている人から見れば、随分幼稚な、
作法と言うよりパズルに近いやり方でしょう。
大体、筋道を立てて考えを文章にしていく、ということを全くやっていません。
考えてみれば、私は筋道を立てて長く話すということが出来ないのです、昔から。
例えば資料などを見ながら、その一つ一つを説明したり、質問に答えたりすることは出来るのですが、
自分の意見を長い時間述べるとなると、喋っている内に支離滅裂になって、
言わねばならないことが抜けたり、逆に言わなくていいことを長々と喋ってしまったり、
まあとにかく喋るのが下手で、頭の中もじつに混沌としている人間です。
スピーチなどもってのほか。
だからこそ、詩という奇妙な表現を使うようになったとも言えるのですが。

こういう人間は、まず根本から頭の中を鍛えなおすべきなのですが、しかしそんな人間ですら、
キーボード入力だと、推敲さえちゃんとすれば、それなりに文章がかけてしまいます。
それは悪でもありますし、救いでもあります。
多分私はキーボードがなかったら、詩もその他の文章を書いてはいないでしょう。
とりあえず私は恩恵にあずかりましたが、それによって失ったものの事も、
考えるべきなのかもしれません。
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Oct 04, 2006

先週の日曜日は、

渋谷のクロコダイルに朗読会を見に行きました。
これは詩人浜江順子さんが主催となって毎年開かれているものです。
私は去年初めてこのイベントに行き、詩の朗読というものを、殆ど初めて観ました。
あの時はまだ詩集も出していなくて、会場に知っている方も殆どいなかったのですが、
一年経って、私もいろいろな方と交流させていただくことが出来、
今年は出演者の方に案内のお葉書を頂くことも出来ました。

会場には開演5分前くらいに到着、ぴりぴりしたような雰囲気はなく、
実にフランクな雰囲気の会場に入り、灰皿町の桐田真輔さん、高田昭子さんの隣に居場所を据えると、
お葉書を頂いた海埜今日子さん、森川雅美さん、それに柴田千晶さん、村野美優さんなどにご挨拶。
さて、あとは開演を待つのみ、飲み物でも取ってこようかな、と思っているところへ、
森川雅美さんから「ちょっと手伝って欲しいんだけど」と声をかけられ、なにかと思えば、
森川さんがステージで朗読をしている時に、森川さんの詩の一部を会場からエコーのようにして朗読して欲しいとのこと。
急なことで「え!?」と思いましたが、恥ずかしながら手伝わせていただくことにしました。
しかしプログラムを見ると、森川さんはトップバッター。
練習の時間などなく、原稿を読んで、読めない漢字がないことを確認するのが精一杯。
すぐに朗読が始まり、一応お役は果たしましたが、慣れないことゆえ、
ちょっとタイミングを外してしまいました。

朗読は森川雅美さんのあと、田中庸介さん、柴田千晶さん、渡辺めぐみさん、
筏丸けいこさん、浜江順子さん、海埜今日子さんと続きました。
みなさん流石に場数を踏んでいらっしゃる方ばかりで、見事に朗読をこなしていきます。
筏丸さんは去年と同じバンドのメンバーを率いての朗読。
浜江さんは、ウッディアレンの映画音楽も担当されたトム・ピアソンさんのピアノをバックに。
海埜今日子さんは、ROSSAというアコースティックトリオをバックに朗読されました。

ここで休憩のあと、吉田文憲さん、相沢正一郎さん、キキダダマママキキさんによるトークショー。
吉田さんが去年上梓された「宮沢賢治―妖しい文字の物語」を中心に、宮沢賢治についてのお話。
お題が宮沢賢治となると、お三方とも喋りたいことは山ほどあるでしょうが、
残念ながら時間が30分ほどしかなくて、言いたいことの半分も喋れなかったご様子、
しかし私としては充分面白いお話が聞けました。
キキダダさんは、吉田文憲さんの教え子さんなんですね。
恩師と肩を並べてのトークで、結構緊張されていました。

トークのあとは、この日のハイライトともいえるキキダダマママキキさんの朗読。
私はキキダダさんの詩には、比較的静かな音をイメージして読んでいたのですが、
この日の朗読は、一つ一つの言葉を途切れさせ、叫び、足を踏み鳴らしながらの激しいパフォーマンス。
キキダダマママキキという筆名は、ご自身が思春期の頃、吃音に悩み、
自分の名前を言う時にどもってしまっていたことから、つけられたそうですが、
この日の朗読はそれと同じく、苦しみながらひとつひとつの言葉を必死に吐き出していく様子でした。
また、紙面で個人的に詩を読んだ時と、本人自身から発せられる言葉の間にあるギャップを突きつけられた気もしました。
しかし、そういった領域の広がりもまた、詩の面白いところなのでしょう。

朗読会がはねると、近くの居酒屋で二次会。
去年は知り合いがいなかったので遠慮しましたが、今年は参加。
ここでは浜江順子さんとも、少しですがお喋りすることが出来ました。
大変バイタリティのある方で、まさに中心人物たる人です。
この方の人柄に惹かれて、毎年参加したり観に来たりする方も多いのではないでしょうか。
それに灰皿町の住人でもある、生野毅さんともお喋り。
イベントでよくお顔は拝見させていただいていたのですが、
この方が生野さんであることを、この日初めて知りました。
詩作、朗読、俳句、評論等様々な活動を精力的にされているご様子。
それに年齢が比較的近いことも嬉しかった。

その後、三次会、四次会と場所を移動。
人数は段々少なくなりながらも、話は段々濃いほうへと。
ここでは筏丸けいこさん、林木林さんなどとおしゃべり。
そしてPSPでもおなじみKさんは、先週の飲み会に参加できなかった所為か、
大いに飲まれ、森川雅美さんと熱いバトルを展開しつつ、午後10時くらいにお開きでした。
どなた様も、お疲れ様でした。。。
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Sep 30, 2006

現代詩手帖10月号

が届きました。

今号には斎藤恵子さんの第二詩集「夕区」のレビューを書かせていただきました。
紙媒体に載る初めてのレビュー、改めて読むと拙いですね…。お恥ずかしい。
詩集の売れ行きに響かないか心配です。

特集は「現代詩手帖賞を読む」。
歴代の受賞者の受賞作品が一挙掲載され、井川博年さん、瀬尾育生さん、井坂洋子さん、
城戸朱理さんがエセーを寄せています。
歴代受賞者と選考者の名前を見ると、さすがに錚々たるメンバーですね。
受賞者の方は、こう見ると圧倒的に女性が多いです。
伊藤比呂美さん、倉田比羽子さん、白石公子さん、河津聖恵さんなど、
現在も一線で活躍される詩人さんの名前も。
注目すべきというか、特に1999年以降の受賞者の方々は、
もう全員現在活躍されている方々ばかりです。
一方選者さんの方は、こちらは何故か圧倒的に男性が多い?
成り行きでしょうが、とにかく名のある詩人さんは殆ど名を連ねていると言っても
いいくらい、豪華なメンバーです。
投稿欄というものは、選者さんによって、かなり傾向が違ってくるものですが、
リストを見ると、1966年に投稿していた人はきつかったですね。
何しろ選者さんが、黒田喜夫、堀川雅美、寺山修司、ですから。
そして受賞者は「該当者なし」…。

以前にも書きましたが、私も去年の初め頃まで、三年という長い期間、投稿してました。
入選、選外佳作には何作か取り上げられるも、残念ながら詩手帖賞には遠く及びませんでした。
しかし投稿していたことは、非常に良かったと思います。
入選することは、結構麻薬です。
やはり自分の作品が詩誌で活字になる、と言うことは誰でも嬉しいことでしょう。
一度活字になれば、なんとかもうひとつ、なんて頑張ってしまいます。
入選落選で一喜一憂し、落選すれば、こういうことが足りなかったんじゃないか、
じゃあこんなのはどうだ、なんて試行錯誤して、それが毎月ですから、いい特訓でした。
なんでもそうですが、一番重要なのは、やり続けることだと思います。
どんな不器用でも、やり続けていれば、それなりになるものです。
それに入選を何度かしたことによって、編集部や選者さんに名前を覚えてもらって、
私はそれで、詩手帖賞をとってもいないのに、詩集を出すことが出来ました。

思潮社では八月の終わりまで、現代詩新人賞という賞への公募を行っていました。
今号ではその一次選考通過者の名前と作品名がずらりと並んでいるのですが、
なんか既に知られている人の名前もちらほら…。
灰皿町では、海埜さんの名前もあったりして…。
んー、私も出しておけばよかったかな、なんて。
とにかく実力者が多く含まれて最終選考に突入と言うことで、
かなりの激戦になるかと思います。
来月号の発表が楽しみですね。

最後に八木忠栄さんの詩作品「雪はおんおん」
日本的な旋律が聞こえてくるような、「うた」を感じさせる詩です。
これを読んでいたら、「うた」とは本来、なにを伝えるためのものだったのかなあ、
なんてことを考えてしまいました。
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Sep 27, 2006

やーっと、

パソコンが直って帰って来ました。
マザーボードとCPUの交換という大掛かりな手術を経たものの、
約一ヶ月ぶりに元気な姿で帰宅。
なによりよかったのは、ハードディスクが無事だったこと。
なにせここ一年ぐらいで書いた詩が、ぜーんぶ入ってたんですから。
あぶないとこでした。
あとパソコン購入時に、3000円払って補償に入っていたおかげで、
今回の修理代三万数千円はタダでした。
入っとくもんですね。

先週の日曜日は、恒例の合評会。

今回はあまり発言することが出来ませんでした。
というのも、これはいつものことなのですが、この合評会に参加されている方々は、
みな詩人としてのキャリアを多く積んでいる方ばかりなので、それぞれが大変個性的で、
しかもクオリティも高い詩作品を毎回提出されています。
するともう、どこどこをこうした方がいい、とか、そういうことはなかなか言えなくなってしまいます。
欠点と言えなくもない部分でさえ、その人の個性と捉えることが出来、そして実際そうなのですから、
それを言うのは野暮、ということになって、すると結局、それぞれに褒めあってお仕舞いになってしまい、
それはそれで気持ちよくはあるのですが、考えてみれば、
それでは合評する意味があまりないのではとも思います。

それぞれの素晴らしさを認めたうえで、さらに突っ込んだ読みをし、様々な立場、
角度から意見を言うことが必要なのですが、私はそれが出来ていませんでした。
反省です。
合評会の中心メンバーのTさんは、そういう詩の読み方をし、意見を述べられています。
彼のばあい、前置き抜きにして、いきなりかなり深いところに突っ込んでしまうので、
周りがついていけなかったり、反発を受けたりするのですが、作品を書いた者にとっては、
そういう意見が実は一番有意義であるのでしょう。
実際私も、自分の作品に対しての彼の意見は、非常に参考になります。

まず充分鑑賞し、そして批評していく、という姿勢。
純粋な読み手としては、鑑賞だけで充分なのでしょうが、書き手同士、互いを高めあって
いく場として合評会があるのだとしたら、それだけでなく、書き手だけが持つ目を持って
批評しあっていくことが必要でしょう。

とは言うものの、今回のみなさんの作品はみんな良かった…。
ほんと、これ以上何を言えばいいの?というくらい。
でもそれぞれに壁を前にしていることも確かなんですね。
合評会として、ひとつ山を越えるべきところに来ている気がします。
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Sep 23, 2006

ちょっと前に、

伊坂幸太郎の本を数冊紹介しましたが、
相変わらず読んでいるもんで、続き書きます。

「アヒルと鴨のコインロッカー」(東京創元社、2003年)
長編作品。
舞台は伊坂作品共通の仙台。
生まれて初めて一人暮しを始める主人公の部屋に、奇妙な隣人がたずねて来て、
いつの間にやら本屋を襲う手伝いをさせられる羽目に…というところから話が始まり、
過去と現在が交錯しながら、見事に両者がつながっていって、最後は思いがけない
どんでん返しが待ち受けているという、非常に質の高いミステリー作品です。
のほほんとした雰囲気でありながら、あまりに緻密なストーリー組み立てである上、
全ての要素が最終的にひとつにまとまっていくので、内容は書けません。
読んでください。
「ダヴィンチ・コード」よりずっと面白いです。
来年映画化の予定だそうですが、映像化はかなり難しい内容かと…。
吉川英治文学新人賞受賞作品。

「チルドレン」(講談社、2004年)
「小説現代」に掲載された作品をまとめた連作短編集です。
常識破りな家裁調査官と、抜群の推理力を持つ盲人を中心に、
ハートウォームなミステリーが五篇。
殺人はありませんが、さすがに一筋縄ではいかないストーリー展開であり、
あちこちにトラップがしかけられていて楽しめます。
いままでの長編では結構ハードな心理が描かれていましたが、
この初短編集ではずいぶんと砕けた心理が描かれ、希望がテーマといってもいい内容。
全ての作品に共通することですが、伊坂幸太郎は人間を描くのが非常にうまいと思います。
この作品もまた出てくるキャラクターがみな魅力的で、これだけでお仕舞いになって
しまうのがなんとも残念。
読めば絶対続編が読みたくなります。
今年の五月、WOWOWで映像化。

「グラスホッパー」(角川書店、2004年)
書き下ろし長編。
一転して重いです。バンバン人が死にます。
主要な登場人物は三人ですが、何せそのうちの二人が、いわゆる殺し屋。
殺し方は読んでのお楽しみですが、一人はかなり変わっていて面白い。
こんな殺し屋見たことないっす。
しかしまあ重いといっても、ハードボイルドというわけではなく、
村上春樹的な柔らかさを保ってはいるのですが。
そう、村上春樹が好きな人は、この著者の作品は気に入るかもしれません。
そして伊坂幸太郎作品の特徴のひとつに、
哲学的な要素がセンスよくちりばめられていることがあるのですが、
この作品あたりからだんだんとその傾向が強くなります。
著者は哲学書、文芸書にかなり精通しているようで、
場合によってはちょっと鼻につくかもしれませんが、
ファンとしては、それも持ち味とすることにいたしましょう。

「死神の精度」(文藝春秋、2005年)
「オール読物」に掲載された作品をまとめた連作短編集です。
これは単純に面白い!
300ページ弱なので、一冊気軽に何も考えず読みたいとしたらこれでしょう。
主人公は音楽好きで一寸ずれてる妙な死神。
こいつの行動を見ているだけでも非常に面白いですし、
もちろんストーリーテラーとしての伊坂幸太郎の才能も存分に発揮され、
また人間群像劇としても、非常に質の高い作品です。
とにかく死神のキャラクターが面白く、前出の「チルドレン」と同様、
絶対続編が読みたくなります。
いまのところはないようですが、期待。
日本推理作家協会賞短篇部門受賞作品。

「魔王」(講談社、2005年)
書き下ろし長編。
またまた一転して重いです。
というか、政治が大きく絡んでくるという意味でも、
伊坂幸太郎作品の中では、かなり異質の作品。
これは決して一番最初に読んではいけません。
この著者を誤解してしまう可能性大です。
伊坂幸太郎が持つ哲学や思想がかなり大ぶりに表現され、
あるいは辟易してしまうかも。
伊坂幸太郎が好きになってから読むことをお薦めします。

今回紹介した作品は全てハードカバー、値段は1500円ほど。
本格的なものを一冊求めるなら「アヒルと鴨のコインロッカー」、単純に楽しめるもの
を一冊求めるなら「死神の精度」がいいと思います。
実はこのあとの作品「終末のフール」も読了しているのですが、
それはまた今度、残りの二作品といっしょに書くことにします。
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Sep 18, 2006

ご厚意により、

「エズラ・パウンド長詩集成」城戸朱理訳編(思潮社)が手許にあります。
内容にはまだ目を通していないのですが、この本の表紙のイラスト、
当然パウンドの肖像であるとは思いますが、二十世紀前半に活躍したイタリア人指揮者、
アルトゥーロ・トスカニーニにそっくりです。
…パウンドはアメリカ人でもイタリア系なのでしょうか。

トスカニーニは、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュなどと並び、
二十世紀を代表する名指揮者です。
芸風は、上記二人が楽譜を大きくデフォルメした曲線的な演奏であったのに対し、
ほぼ楽譜の指示通りに演奏する直線的な演奏。
しかしだからと言って杓子定規のつまらない演奏ではなく、疾走感に溢れ、
歌い上げるようなカンタービレがとてもかっこいい。
日本では圧倒的にフルトヴェングラーに人気が集中しているようですが、
私はトスカニーニの方が好きです。

このあたりの指揮者の録音は1920年代から50年代までですので、
音が悪いのが難点ですが、フルトヴェングラーを一度聴いてみようと思うなら、
私はそれよりも先にトスカニーニを聴くことを薦めます。
というのは、演奏される曲が本来どんな曲なのかを予め知っているのならいいのですが、
そうで無い場合、フルトヴェングラーの演奏は非常に特殊であるため、いきなり聴いても、
曲の元形が十分わかっていないと、なにがどうすごいのかがわからないと思います。
私の場合、クラシック音楽を積極的に聴き始めた頃、「運命」とか「田園」とか「第九」
などの超有名曲は流石に知っていましたが、しかしその程度でした。
で、なにかの本でフルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第三番「エロイカ」の
ライブがすごい、というのを読んで、早速CDを買ってきて聴いてみたのですが、
何処がすごいのかよくわかりませんでした。
なにせ「エロイカ」は元々非常に複雑な曲である上、フルトヴェングラーはこの曲を
思いきりデフォルメして演奏しているのです。
それからしばらくして、今度はトスカニーニで「エロイカ」を聴いたのですが、
こちらの演奏は曲の輪郭がはっきりと掴め、「エロイカ」という曲がどういう形をして
いるのかがわかりやすく、初めてこの曲がいい曲だったことを知りました。
そのあたりから私はトスカニーニのCDを随分と買い集め、トスカニーニでまず曲を
知ってから、他の人の演奏も聴いてみる、という感じでクラシック音楽を聴き進めて
きたのですが、多分正解だったと思います。

トスカニーニは始めチェロ奏者でした。
彼は極度の近眼であり、譜面台に置いた楽譜が見えなかったため、楽譜を丸暗記していました。
ある公演旅行の際、オーケストラの指揮者が急病となり、急遽代理の指揮者が必要になったのですが、
そう簡単に見つかるはずもなく、するとオーケストラの仲間が
「あいつ、楽譜全部知ってんだから、指揮も出来るんじゃね?」
ということでトスカニーニが指揮台に立つことになり、やって見ると公演は大成功、
それからトスカニーニは指揮者に転向しました。
彼はそれからオペラを中心にぐんぐんと名声を上げ、イタリアの国民的指揮者にまでなっていきますが、
時はファシズムが台頭する1920年代。
ファシズムを毛嫌いしていたトスカニーニは、自分の音楽が政治に利用されることを拒絶し、
政府に対し猛烈に抵抗、結局アメリカに渡ってしまいます。
直線的なかっこいい演奏をするトスカニーニはアメリカで大歓迎され、
ニューヨーク・フィルの主席指揮者に就任、アメリカ国内だけではなく、ヨーロッパ遠征などもこなし、
精力的に演奏活動を展開します。
1936年、69歳のとき、高齢を理由にニューヨーク・フィルの主席指揮者を退きますが、
カムバックを求める声は高く、今度はNBC交響楽団と言う、当時普及し始めたラジオ
放送を中心に活動をする新しいオーケストラの主席指揮者に就任、演奏活動を続けます。
この時期彼は数多くの録音を残しますが、1954年、トスカニーニ87歳のとき、
コンサート中、ワーグナーの曲を演奏している際、突然彼に異変が起こります。
いつもは自信に溢れた姿で演奏するトスカニーニが、曲の途中で急に自信なさげな様子になり、
目は宙を泳ぎ、指揮棒を持つ手は機械的に振られるだけ。
実は、完璧に記憶されている筈の楽譜が、トスカニーニの頭から突然すっぽりと抜け落ち、
真っ白になってしまったのです。
なにしろ87歳と言う高齢、楽譜を失念してしまうのも無理はないのでしょうが、
記憶力に絶対的な自信を持っていた彼にとって、これ以上のショックはなかったのでしょう。
演奏が終わると、その場で彼は聴衆に向かって引退を宣言し、二度と指揮台に登ることは
ありませんでした。
1957年、89歳、家族に看取られて永眠。

CDは現在、NBCの演奏がBMGジャパンから、
ニューヨーク・フィルの演奏がNAXOSから出ています。
繰り返しますが、音は非常に悪く、当然モノラルです。
どちらかといえば年代の新しいNBCの方が聴き安いかと。
またNAXOSは3~40年代中心でありながら一枚1000円という廉価、
商業録音の聡明期の雰囲気が知られるという意味でも、面白いかもしれません。
もひとつ、SPレコード復刻専門レーベル「Opus蔵」からも、数枚のCDが出ています。
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Sep 14, 2006

私は小さい頃、

とても怖がりでした。
何故か怪談話は好きだったのですが、肝だめしなどあると本当に恐ろしく、
ホラー映画などもってのほか、ドラキュラとか狼男の陳腐な映画ですら、
恐ろしくて見られませんでした。
また、祖父母の家に泊まりに行って、これが結構古い屋敷のような家だったのですが、
夜中トイレに行きたくなって、隣に寝ていた姉貴に、「トイレに行きたい」と言うと、
「行け。生首が転がってるぞ」
これだけでもうトイレに行けませんでした。
それがある時期を境に、どうやら自分には霊感の欠片もなく、幽霊とかは見ないらしい、
と納得してから、ほぼ恐怖は克服され、夜中の墓場でも平気で歩けるようになりました。

しかし、高いところは昔から現在まで苦手です。
極度の高所恐怖症ではないので、歩道橋ぐらいの高さならなんともないのですが、
高層マンションの上の方とかになると、ぞっとします。
随分昔、スペインのサグラダファミリアの一番上までのぼったことがありますが、
まあ恐ろしかったこと。
あれ、窓とかにも柵とかガラスとかなくて、そのまんま穴なんです。
つまり、そのまま外に出れば落っこちてしまうという。
もちろん出なけりゃいいわけですし、出やしないのですが、高いところが苦手な人間は、
自分が落ちてしまうのを瞬間的に想像してしまうんですね。
見ただけで落ちている気分になってしまう。
だから人が落ちようと思えば落ちる事の出来る穴があいているだけで、もう怖いんです。

例えばデパートの階段で、中心の僅かな空間が、
上から下まで吹き抜けになっているものがあります。
あれ、人が落ちようと思えば落ちられるので、覗きこむと力が抜けます。
それから高層ビルの上の方で、
外壁が一面ガラス張りになって景色が一望できるようになっているところ、
あの場合、分厚いガラスがあるので、近くに寄っても一向に大丈夫なんですが、
たまに、窓拭きや外壁の掃除などの作業をするためでしょうか、
外に出られるドアがついている場合があります。
あれが怖いんです。
「開いたらどうしよう」
それだけで、もう近寄れない。
馬鹿馬鹿しい話ですが、誰かと話などしながら何気なく寄り掛かって、
ドアが開いちゃって、あああああああああ↓
みたいなことを瞬間的に想像してしまうのです。
阿呆ですね。
コントじゃないんだから、そんなことあるわけないんですが、でも治らない。

ま、怖がりなのは想像力が長けている証拠ということで…。
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Sep 10, 2006

蒸し暑い…。

今日は小説家の乙一のことでも。
この人は、ほぼ天才と言って差し支えない人じゃないでしょうか。
確か17歳ぐらいでデビューしてライトノベルを中心に活動し、
その後「GOTH」「ZOO」などで、一般にも名前が知られるようになりました。
「ZOO」は既に映画化され、「暗いところで待ち合わせ」も今年映画化されるようです。
ヒットした「GOTH」がホラーであるため、ホラー作家のイメージが強いですが、
SFっぽいのとか、青春っぽいのとか、ジャンルを限定せずに書いています。
ある意味、今日の筒井康隆でしょうか。

まあ、とにかくうまいですね。
現在恐らく27、8歳だと思いますが、10代に書いた作品を読んでも、
うーん、と唸らされます。
ライトノベル出身ということもあって、重厚な文章ではなく、
サクサクと流れるように読んでいける文体ですが、しかしそれでもぞっとする人間の怖さ、
それに乙一の最大の魅力でもある「切なさ」が表わされ、ここらへんもとてもうまく、
また、これは絶対映像化できないな、と思える小説的トリックが至るところに出てきたりして、
活字で物語を読んで行く楽しみを存分に味わえます。
どちらかと言うと短篇中心、長編にしても300頁弱ぐらいですので、
じっくり読むより、空いた時間を潰すぐらいに読むのが、ちょうどいいかと。

私は確か「ZOO」あたりで彼を知り、やたらと大袈裟なコピーがついていたので、
なんぼのもんじゃい、と言う感じで、大いに偏見を持って読んだのですが、
その凄さに思い切り凹まされ、その後はほぼ全てに近い作品を読んでしまいました。
まるでエンターテイメント小説を書く為に生まれて来たような人です。

上にも書いた通り、映画化もされていますが、私はまだ見ていません。
というか、あまり見る気になりません。
多分原作以上ではないと思えてしまうのです。
「ZOO」は恐らく映像化を前提に書かれたものではないと思いますので、
活字で読んだ時に最も効果があるように全てが構成されています。
そういうのは、他のジャンルに置き換えても、原作を超えられない事が殆どです。
現に「GOTH」が漫画化されたものを私は読んだ事がありますが、
全然面白くなくなっていました。

乙一の作品は殆どが文庫化されていますから、手を出し安いですね。
最近「ZOO」も文庫化されましたし。
興味がありましたら、とりあえず「ZOO」がお薦めです。
そう言えば、そろそろ新作が出てもいい頃…。
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Sep 05, 2006

さて、九月ですね。

私のパソコンはいまだ入院中、
以前に使っていた98を引張り出してこれを書いているわけですが、
98とDOS/V機ではキーボードが少し違うので、勝手が違って戸惑います。
一文字消そうとしたら、ページがロールアップしたりしてイライラ。
きっとこのキーボードに慣れたころに退院してくるんでしょうね。

詩人の竹内敏喜さんが第六詩集「ジャクリーヌの演奏を聴きながら」(水仁舎)を、
八月半ばに上梓しています。
これは165冊しか制作されていない、私家版と言ってもいいものであり、
残念ながら入手は困難であると思います。

内容を通読すると、私は合評会をご一緒させて頂いている関係上、
既に読んだものが多く見られました。
単独で読んだ時には、その書き方に疑問に思ったものも中にはありましたが、
こうして一冊の詩集に、同じ作者の作品群の一篇としてあるのを見ると、
意外な程その姿が違って見え、収まるべき所に収まったな、と言う印象を受けます。

この詩集は、単なる作品集と言うより、三十三篇の作品をひとつにまとめる事によって、
一人の詩人そのものを表現する事を目的にしたものです。
ですから一つ一つの作品を独立して観賞するのではなく、
全体で一人の詩人の体であると考えて観賞すべきだと思います。
内容は個人的な経験を軸に展開しており、それについての個人的な価値感が語られますが、
このような詩、または詩集は、読み方から自由度が奪われることから、
見方によっては一方的な作品に見え、敬遠されることも多いかと思います。
そこのところを承知しているからこそ、詩人は私家版という形をとったのでしょう。

しかしこれもまた、詩という表現方法のひとつであることも確かです。
流通を目的にするのではなく、一人の詩人によって著された詩集を、
「ある存在」として、そこに置くこと。
そしてそれが置いてあるところまで行って手を伸ばし、ページを開いて読み通すこと。
その存在について、思うこと。

詩人竹内敏喜は都会の真中に棲み、世間の至るところから聞こえてくる現状、
メディアから流れてくる洪水のような情報を、否応なしに受けとって行きます。
それらに対しての思いが起こり、しかし何らかの主張をするかといえばそうではなく、
詩人は途方に暮れています。
自分の経験や知識を持って、なんとか現状を説明、納得しようとはするのですが、
それに至らないまま呆然とするうち、やがて詩の言葉がこぼれ出します。
そこに詩人竹内敏喜の存在意義とも言える小さな泉が出現し、この詩集の底を形成しています。

また詩人は、日常に体を撫でて去る他愛もない出来事にも、同様に向き合っています。
平坦な言葉で表わされる日常がふと震える瞬間、
詩人はその向こうにあるものを見通そうと、それが業であるかのように目を凝らします。
そこにかいま見えたものは、言葉では到底表現出来ないなにものかであり、
しかしあえて詩人はそれを滲み出させようと、言葉を丁寧に削り出しながら、
少しずつその感覚へ近付いて行こうとします。

彼には最近姪が生まれました。
彼女について、この詩集のハイライトと言うべき連作が収められています。
彼女と、彼女を囲むまわりの人たちの様子を見つめ、そこに人の存在の原点を掴もうとしています。
実に気負いなく書かれたこれら連作は、柔らかい雰囲気に満ちており、
ハッとする印象ぶかい言葉も多く見られます。

機会があれば、是非一読を。
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Aug 31, 2006

現代詩手帖九月号を購入。

特集は恒例の「現代詩の前線」
例によって最も有名だと思われる詩人の新作が満載です。

まず掲載された詩作品を通読。
印象に残ったのは、巻頭に掲載された谷川俊太郎さんの「詩人の墓」、
粕谷栄一さんの「もぐら座」、井坂洋子さんの「性愛の笑劇」、
城戸朱理さんの「失題」、和合亮一さんの「ゴールド・ゴールド・ゴールド」。
あと平田俊子さん、野村喜和夫さんなどは一目見てこの作者とわかり、
やはり読まされますね。
投稿欄では近藤弘文さんと広田修さんが良かったです。
また、小特集「いま、この詩集」では、ベテランによる濃厚な論考に加え、
若手による新鮮な論考が目を惹き、読み応えがあります。

さて、大量の詩を一気に読んだのですが、
何故このテーマを書くのに、詩という方法を選んだのだろうと疑問に思う作品が幾つかありました。
寧ろ詩よりもエセーや論文、小説などの方法で表現した方が適切なテーマなのでは?
という作品を読むと、複雑な気持ちになります。
詩人ですから、どんなテーマであろうと詩で表現するのが一番やり安いのだと思います。
しかしそれが詩で書くべきテーマでないのなら、それに適した表現方法で書くべきか、
あるいは書かないべきなのではないでしょうか。

とは言え、誰もがそんなに器用に書分けられる筈はなく、大体言ってる私自身がそうです。
また詩人が書いた、殆ど詩としか思えないエセーや論考も、実は面白いと思います。
しかしその場合、例えばエセーで書くべきテーマを詩で書いたなら、
それは詩ではなく、エセーとして発表するべきではないでしょうか。
せっかく数少ない詩の専門書なのですから、他紙では決して味わえない、
詩でしか表現出来ないことを表わした作品をより多く載せて欲しいところです。
実際、今回掲載されている人の多くは、詩手帖以外にも書く場があるであろう方々ですので、
エセーで書けるものは、他の場に発表して頂いて、ここではど真ん中の「詩」を発表して欲しいものです。

ここまで書いて、ふと画家フリーダ・カーロのつけていた日記のことを思い出しました。
それは絵日記であり、発表するつもりなど毛頭なかったのでしょう、
鬼気迫る絵で日々のあからさまな心情が描き殴られた物凄いもので、
この日記こそカーロの最高傑作と言う人もいます。
しかしあれは画家の書いた、あくまで日記です。
絵画に分類するべきではありませんし、日記として見た時、真の凄さがわかるのでしょう。

…さてさて人のことより、私も詩でしか表現出来ない詩を書かなくては。
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Aug 27, 2006

おおっ。

夜が涼しい!!

遅ればせながら、最近話題の小説家、伊坂幸太郎を読んでます。
今のところ、「オーデュボンの祈り」「ラッシュライフ」「重力ピエロ」
「陽気なギャングが世界を回す」の四冊。
大体、書いた順に読んでいる形です。
というのは、一番最初に読んだ「オーデュボン…」の解説に、
そのあとの作品とリンクする部分が出てくると書いてあったので。

まず著者の実質的なデビュー作「オーデュボンの祈り」(新潮社)ですが、目茶目茶面白いです。
一応ミステリと言っていいと思いますが、ほかにもさまざまな要素が絡まり合っていて、
純文学や青春小説、SFなどの読者にも問題なく薦められます。
とにかく仕掛けがいっぱいなので、あまり詳しくは書けませんが、
とりあえず、案山子と島と殺し屋が出てきます。
ほかにも曲者が山ほど登場して、目まぐるしく話が展開し、飽きさせません。
とりあえず、この作品を読んで面白くなければ、あとの作品は読まなくていいと思います。
お次は「ラッシュライフ」(新潮社)。
このタイトルを見ると、ジョン・コルトレーンの曲が連想されますが、
ずばりその曲から取られているようです。
しかしそれだけではないところから、物語が広がっていきます。
様々な人生が入り混じって絡み合って繋がってくる、言わば群像劇でしょうか。
その緻密さが見事で気持ちいいです。
一応ミステリと言うことで、殺人が出てきますが、決してそれが中心ではなく、
あくまで様々な人生の交錯が描かれています。
そして上にも書きましたが、前作の登場人物がひょいと顔を出したりして楽しい。
次は「重力ピエロ」(新潮社)。
これは放火事件を中心に話が展開します。
著者はこの作品で直木賞候補になりました。
タイトルもまた秀逸ですね。
この著者のプロフィールをみると、出身は千葉県のようですが、
小説の舞台はみんな仙台なんですね、何故か。
仙台という街を通じて、みんな何処かで繋がっているのです。
しかしこう立続けに読んで行くと、だんだん作者の手のうちが見えてきて、
先の展開が読めてしまうのはちょっと残念です。
ミステリと言う要素から、ここら辺は仕方ないのでしょうが。
しかしそれだけではない小説なので、充分読み応えはあります。
最後に「陽気なギャングが地球を回す」(祥伝社)。
これは今年映画化もされたようですね。
ずばり痛快クライムノベルです。
演説の達人の喫茶店マスター、天才すり師の若者、相手の嘘を全て見抜ける男、
天才的な運転技術を持つ主婦、この四人が組んで銀行強盗チームを組みます。
ほら、もうなんか痛快っぽいでしょ。
もちろんここでも著者一流のトリッキーな展開が存分に発揮されて、
一気に読み尽くせます。
この作品はどうも著者の処女作を改編したもののようですね。
ですから、この中では一番最初の話と言ってもいいかもしれません。
ちなみにこの作品で起こる事件なども、やはりほかの三作品に微妙に関係しています。
・・・という事で、なるべく内容に触れないように紹介しました。
とにかく「オーデュボン…」あるいは「陽気な…」から、紹介順に読んで行く事をお勧めします。
この四作品までは既に文庫本になっていて、リーズナブル。
私はいま「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んでいるところ。
全作品読破したら、また紹介します。
今日はお酒を飲んだ頭で書いたので、文章がだらだらしてしまいました。
ん、いつもと大して変らないかな。
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Aug 23, 2006

がーん。

パソコン壊れました。
なんか黒くて四角い部品が火を吹きました。
電源、入りません。
入院です。
ううう。
ここだけの話、やっぱ激安パソコンは危ないっすよ。
お金の許す限り、メーカー品を買うことをお薦めします。
…で、いまは昔使っていた98を引張り出してきて書いているのですが、
このパソコンも、いつ止まるかわからない…。

高田昭子さんが、灰皿町のご自身のサイトの中に、
私の詩集への贈答詩を書いてくださっています。
http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/greeting
このように、私の書いたものからインスピレーションを得ていただき、
新しく作品が出来上がるのを見ることは、とても嬉しいです。
書いてくださった詩の中には、私が書いた詩の言葉が散りばめられてて、
とても幸せそうにしています。
是非、一読のほどを。
ちなみに高田さんには事前に連絡を頂き、私が承諾した上で掲載されています。

先日の日曜はPSPの合評会でした。
夏と言うこともあってか(?)、さらっとした作品が多かったような気がします。
ちなみに私も、いつもの半分ぐらいの長さの詩を持って行きました。
今回感じたこと。
詩は自己表現であり、言葉を使ってそれを実現しようと言うものですが、
詩を書き、推敲し、詰めていくと、
なかなか自分が表現しようとする感覚に届かなくて苦心します。
最後のほうになると、
あとひとつ完璧な言葉が出れば完成するのに、それがどうしても出てこない、
なんてことになります。
逆に失敗作だと諦めていた詩が、ふと浮かんだひとつの言葉によって、
いきなり完成してしまうこともあります。
こういうことを見ると、最初の直感と、最後の一押しで、
詩が詩足り得るかの大方が決まってくるような気がします。
この二つのことは、技術的と言うよりも、奇跡に近い類のことでしょう。
同時に詩を書いていて、一番恍惚とする瞬間でもあります。
「ああ、俺って天才…」なんて。
勘違いなんですけどね。
そんなことを日頃感じながら、合評会に参加して参加者の作品を拝読すると、
「ああ、ここにあと一言、最高の言葉が入ったら」とか、
「もうちょっと突っ込めば最高の詩になるのに」とか、
そんな感想を持ってしまうことが多いです。
PSPの参加者は優れた書き手の方ばかりですし、
もとより作品の完成度は非常に高いので、
余計に読み手として、そんな贅沢かつ、過酷な要求を感じてしまうんですね。
無理難題とはわかっていながら。
もちろん、その要求は結局自分にまともに返ってきて…。
たかが詩、されど詩、と言うところでしょうか。
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Aug 19, 2006

このブログも盆休みでしたが、

そろそろ再開することにいたしませう。

斎藤恵子さんの第二詩集「夕区」(思潮社刊)を読みました。
前詩集の「樹間」より、斎藤さん独特の世界がはっきりと姿を現してきた作品です。
その世界はなんとも静かで不可思議であり、
空気には薄い悲しみが溶けて漂っているようです。
心象風景ともいえるフィクション性の高い世界ですが、なんとも奇妙な魅力があり、
また、不自然さが全く感じられないのは、著者の筆力の高さを再確認させられます。
その世界で詩人の魂は色々と姿を変えながら、様々な事象を経験し、
その不可思議さの奥に向って、言葉を触手のように伸ばし、何かを掴もうとしています。
フィクション性の高い世界でありながら、そこには確かなリアリティがあり、
なので読み手も知らず知らずのうちに、一緒に手を伸ばしてしまいます。
掴もうとするものは、生まれたときに失ったもののようでもあり、
また渡されなかったもののようでもあり、
あるいは…と、自分の内にあるものを探しながら、色々と思いを馳せさせられます。
このあたりの、読み手の心をさりげなく動かしていく手腕も見事です。
さらにこの詩集では、詩のスタイルのバリエーションも豊富になり、
詩集内の小宇宙を立体的に確立することに成功しています。
自分の世界を持っている人の作品は、読んでいてとても安心できます。
わざわざ強い言葉を使わなくとも、その世界を描くだけで、
著者の思いが伝わってきます。
なかなか読みにくい詩集と言うジャンルの中で、作品集として明確な姿を持ち、
受け入れやすく、かつ内容に深みがあるこの詩集の存在は貴重です。
なにより読んでいてとても面白い。
繰り返し読める詩集としてお薦めします。
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Aug 13, 2006

盆休み

ですねー。
皆さんどうお過ごしでしょうか。
私はいつもの週末と変わりません。

池井昌樹さんの新詩集「童子」を読みました。
私は池井さんの詩集は前詩集の「一輪」だけしかもっておらず、
それ以前の作品は殆ど読んだことがありません。
正直、「一輪」の大部分を占めている七五調のリズムに、
私はなかなか慣れることが出来ませんでした。
今回も「童子」でも同じく七五調のリズムが下地となっていますが、
しかし意外にも読みにくさはほとんど感じられませんでした。
これは私が池井さんのリズムに慣れたというよりも、
書き手の中でこのリズムを血肉とすることに成功したのだと思います。
最早池井さんの詩の世界の中で七五のリズムは、風や水と同じく自然な要素としてあり、
特別意識されなくなると、そこは読み手にとって非常に心地よい空間です。
また、派手さはなくても、否応なしに覚えさせられてしまう魅力的な言葉があちこちにあり、
一度読んだだけで、もう随分長いこと繰り返し読んできた詩集であるように錯覚します。
この詩集からは、ふわりと浮いたイメージを感じました。
例えば鳥が空に向って勢いよく上昇していって、
ふと羽ばたきをとめて空中に静止状態になり、
あたりをくるりと見渡しているような、そんな印象。
この詩集の中で詩人は、何処へ行こう、何を見ようという意識よりも、
空中にしばし静止してあたりを眺めているといった様子です。
そのとき詩人は、確かにある程度の年齢を重ねてきたひとだとわかるのに、
瞳だけは今まで経てきた年齢を自在に行き交えるように、
あらゆる視点を回遊しながら現在からの眺めを見渡しています。
勤め人として夫として父親としての一日、そんな個人的な風景のそれぞれの場面が、
詩人に吐かせた言葉は人肌のように柔らかく、
様々な生活をする人へと届いていくのではないでしょうか。
読み進めていくにつれ心が静まっていく、とても読み心地のいい詩集です。
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Aug 08, 2006

すっかり真夏ですね。

高校野球、私の地元の横浜高校はいきなり派手に負けてしまいましたが、
夏はまだ当分続きます。

高橋順子の「時の雨」を、高田昭子さんにお借りして読みました。
いまから10年ほど前に上梓された詩集です。
内容の多くの部分に、当時49歳にして結婚した夫車谷長吉が関わってきます。
しかし到底新婚さんの詩集などとは呼べません。
車谷長吉は直木賞も受賞した私小説作家であり、よって非常に変わり者です。
多分夫婦でなくても、親しく付き合うにはしんどい相手であると思われます。
加えてこの夫が結婚して2年4ヶ月後、強迫性神経症という病気を発症します。
私はこの病気を詳しくは知りませんが、
近くで生活する者に多大な負担をかけるものであることは間違いありません。
そういった連れ合いを真横において、この詩集に収められた作品は書かれていきます。
生活が、膜を破って詩人の聖域に押し入り、どす黒く膨らんだ言葉をぼとりと落としていく。
しかし高橋順子は、そういった状況でも、不思議な距離感をもって、
自らの生活を見詰めています。
そこに連ねられる言葉は、明るさすら伴ったもので、
読み手に生活の生々しい色や辛さを押し付けるものではありません。
例えば旦那のことを、ひたすら男と書きますし、自分のことを女と書きます。
強迫神経症、と書くとき、まるで看板に書かれた字を読み上げるように、
淡々としています。
しかしそれが逆にリアルさをかもし出して、引きずり込まされます。
私は最近、「高橋順子詩集成」もまた高田さんにお借りして読んだのですが、
そこに収められたどの詩よりも、「時の雨」は読みやすく書かれています。
読んでわからない詩はありませんし、考えることすらせずに読み進められます。
本当の現実に対面したとき、こぼれ出す言葉は、技術を通り越して、
読み手の内まで滑り込む力を持っているようです。
…なんてくどくど書きましたが、一言で言ってしまえばこの詩集、文句なく面白いです。
まるで自分の不幸をネタに笑い話をしているよう、夫婦漫才の雰囲気すら感じさせます。
実際には非常に辛い時期だったのでしょうが、
狂った男と、それにくっついてパタパタと走り回る女、
というような絵が見えてしまって、あちこちでくすりとしてしまいます。
目茶目茶大変な目にあったとき、泣いてなんかいても仕方がない笑ってしまえ、
という感じでしょうか。
余計な説明など不要、できればここに全文を書いてしまいたいくらいですが、
無理なので、どこかで見つけたら手に取ってみてください。
読売文学賞も受賞している詩集ですから、ここを読んでくださっている方々にすれば、
何をいまさら、という感じかもしれませんが、もし読んでいない方が居られたら、
是非お薦めします。
特に詩はよくわからないと感じている方、つまらないと感じている方にお薦めです。
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Aug 04, 2006

現代詩手帖8月号を購入。

特集は台湾現代詩。
副題として「アジアのクレオール文学」とあります。
詩手帖では現在、<クレオールな詩人たち>と題された連載が進行中で、
とりあえずこれのアジア版ということでしょうか。

<クレオールな詩人たち>では南米の、
普段は読むことのできない詩人たちの作品に触れることができるので、
個人的には好企画だと思って読んでいました。
ここで紹介される詩人たちは、私たちとは全く違う環境で育ち、
全く違う価値観の中で生きてきた人たちです。
その人たちが描こうとするもの、その書き様は、私たちとは随分違って見えます。
そういう作品を読んでいると、詩は差異そのものなのだなあと、改めて感じます。

詩は散文などより自由であるぶん、共感を求めるよりも、
自分が他の人と違うことの証を表現することが多いと思います。
そういうものが書かれますから、他人が読むと、非常にしんどい。
これは、詩を読むという行為が、
人と人の差異を越えようとする行為そのものであるからだと思います。
男が女のことを本当に理解することは難しく、またその逆もそうです。
同じく人種や宗教などの様々な差異を理解することも、大変難しく、時間を要する行為です。
まして個人を丸ごと理解することなど、夫婦や肉親ですら困難なことです。
(しかしそこらへんを上手く誤魔化し(?)ながら、私たちは社会生活をしています。)
ですから個人そのものが表現された詩を読むことがしんどいのは、当たり前なのでしょう。
ある意味、詩を読むという行為は、一種の挑戦にも似た行為と言えそうです。

<クレオールな詩人たち>などに出てくる異国の詩人たちの作品を読むとき、
一度自分の価値観を完全にオフにして読んでみると、意外と読めることに気付きました。
もちろん完全に理解することは難しいのですが、その差異を感じることの魅力も発見されます。
また「ああ、これはわかる」と感じられる部分も逆に増えて、すると結構楽しいです。
そこで日本で書かれた、所謂難解と言われている詩の方にシフトして、
同じように読んでみると、これも意外とすんなり入ってくるものがあることがわかりました。
すると、難解と言われている詩の中にも、
自己を表現しようとして正面からぶつかっているものと、そうでない、
単なる真似事にしか見えないものがあることに気付きます。
何故か今まで、全くわからない、と思っていたものほど、面白く思えてきます。

私が詩を書くとき、差異そのものをストレートに出すことは避けてきました。
もちろん差異を書きはするのですが、読者を意識するとき、
それを正面からぶつけるのではなく、なんとなく紙飛行機のようなものに乗せて、
読み手がもつであろう、自分とは別の差異へ放り込んで、そこで新しく作用すればいいなと。
今でもその考えは変わりませんが、しかし正面からそれを表現できないのは、
その勇気がないからかもしれません。
詩を書くということは、大変勇気がいる行為です。

しかし、詩を読むのがしんどいのは当たり前、と限定してしまうと、
また戸惑いがあることも事実です。
やはりしんどさを感じずに読める作品も必要だと思いますし、
私はどちらかといえばそちらに属していたい。
軟弱な物言いかもしれませんが、やはりバランスなのでしょうか。
一方が重量を増しただけ、もう片方にも重量が必要。
どちらかが重過ぎれば、滑り堕ちて行ってしまうのかもしれません。

あら、全然詩手帖の感想になっていませんでしたね。
あしからず…。
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Aug 01, 2006

昨日は月イチ恒例の合評会。

今回は比較的シンプルな作品が多かったような気がします。
暑さの所為でしょうか(笑)。

今回自分の出した作品は少々長い作品で、
反省すべきは細かな言葉づかいへの注意を怠ったことでした。
詩の中の言葉は、たったひとつでも大きく全体を左右する力を持ち、
そこに的確な言葉を持ってこれるかで、
その作品が、作品足り得るかを決定するほど重要です。
私は今回それを複数の箇所で決めきれず、
結果として全体をうまく束ねることが出来なかったようです。
思い切って言ってしまえば、詩の言葉は奇跡がないと成立しないと思います。
実際素晴らしい作品に出会うと奇跡のような力を感じますし、
それを感じたときに、読み手の心はぐっと開かされるのだと思います。
だいたい詩のような短いテキストで何かを言い尽くすのには、
奇跡のような力が働かないと成されないとも思います。
そして言葉には、その奇跡を呼び込む力があるものだと思います。
自分の作品は勿論ですが、他の人の作品を拝読していても、
ここにもっと凄い言葉を持ってこれたら、とか、
最後の一行がもっと良ければ、これは奇跡のような詩になるのに、
なんて思ってしまったりします。
もちろん、それは恐ろしく難しいことなのですが。
しかしやはり、自分の表現したいことを表現しきるためには、
たったひとつの言葉にも全身全霊で対峙しなければならないことは確かだと思います。

二次会では、今回もTさんと大激論!!
「違う!それは全くの誤解!」
「だからその先を言えって!」
「新鮮であることと新しいと言うことは…!…!!……!」
別に喧嘩しているわけではありません、念のため。
平和主義の私はなかなか本音をぶつけられる相手がいないので、
Tさんは貴重な存在です。
仲いいんですよ。
次回また激論できるのが楽しみです。
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Jul 27, 2006

もうちょっとで、

梅雨明けでしょうか。

浮世絵とか雪舟の水墨画とかを見ていると、
日本人は昔から漫画というか、漫画っぽい感じのものが好きだったんだなあと思います。
平坦でシンプルでダイナミックな絵を日本人は、素直な部分で好むのでしょう。
漫画を低俗として敬遠する人もいますが、
浮世絵もまたその当時は低俗なものだったはずです。
そんな低俗なものがヨーロッパで大受けしたのは、
浮世絵が持つ色彩や空間の取り方がそれまで欧米には全くなかったからでしょう。
まったく未知なものと対面すれば、
それが低俗だろうとなんだろうと、やはり人は興奮します。
所謂カルチャーショックというやつですね。

日本の漫画がいま欧米で受け入れられているのも同じ理由からだと思います。
海外で漫画といえば子供が読むもの、スーパーマンやバットマン、
スヌーピーやムーミンなどといった種類のものを指すのでしょうが、
日本の場合、漫画は他の国とはまったく別の、独自の発達をしました。
手塚治虫をはじめとした漫画家は、「鉄腕アトム」や「仮面ライダー」などの
子供向け漫画だけでは飽き足らず、青年や大人に向けた作品を書き始め、
大衆に受け入れられていきました。
その後、有能な後継者が続々と現われて、様々な手法やモチーフをもって展開し、
いまや日本の漫画は日本にしかないものになりました。
欧米の人たちが「萌え」とかいって喜んでいるの姿は奇異に見えますが、
彼らにとって日本の漫画は浮世絵と並ぶカルチャーショックなのでしょう。

日本にある殆どの文化、建築なり絵画なり文学なり音楽なりは、
それぞれ高度な成長をして海外に通じるアーティストを輩出してきましたが
それでもやはり欧米か大陸からきたものをアレンジしたものであり、
亜流の域を出ていません。
そういうものが海外へ逆輸出されても、
「自分たちの文化を日本人が上手に真似している、大したものだ…」
としか向こうのひとは見ないでしょうが、日本の漫画だけがその域を超えています。
漫画は漫画でも、欧米では全く別の新興文化として受け入れているのでしょう。
最早彼らの概念の漫画と同じに見ることも出来ないかもしれません。

なんてことを書いた後に強引に詩の方へ。

日本で言う詩もまた、海外の詩の影響を大きく受けて発生しているようです。
日本で詩は、漫画がそうであったように、日本独自の成長を遂げてきたのか、私は疑問です。
海外の詩の愛好家は日本人の書いた詩を見て、どのように感じるかということも興味があります。
私は無知ですが、恐らく吉増剛造をはじめ幾人かは衝撃をもたらしたのではないかと思いますが、
そのほか、全体としての日本の詩はどうでしょうか。

漫画の成長を照らし合わせて考えてみると、
日本である文化が成長するには、大衆の支持を受けなければならず、
そのとき、知識層の人間に忌み嫌われても構わないようです(乱暴に言うと)。
そして日本人の、元来持っている性根に響くものでなければならないという事も重要です。
日本の詩はどうだったのかと思えば、
その二つからはあまりにかけ離れているような気がします。

大衆に受けることを先決とすれば間違いが起こるでしょうが、
どんなに突飛であろうが幼稚であろうが、
日本人の性根に素直に響くものを生み出していけば、
そこには揺るぎない積み重ねが出来ていくと思いますし、
日本独自の文化と呼べるものが生まれてくると思います。
現在もそれがないとは言いませんが、しかしかなりいびつなものであり、
成長が芳しくない上にいつ崩れてもおかしくないものです。
それを安定させるには、一度足元をよく確認する必要があるのではないでしょうか。
・・・なんて思いました。
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Jul 23, 2006

先日、ディスクユニオンで、

「津軽三味線 高橋竹山 その1」という中古のレコードを買いました。
三味線のレコードを買うのは初めてでしたが、
なぜかワールドミュージックのところあったこれをたまたま見つけ、
以前なにかの番組でこの人の演奏をちらりとやっていたのを思い出し、
その凄みのある姿が大写しになったジャケットに思わず買ってしまいました。

オビを見ると…

「津軽三味線は叩くもんでねえ弾くもんだ!」
盲目の乞食芸人として糸ひとすじに津軽をうたい続けた名人高橋竹山が
三味線生活五十年を記念してその芸の全貌を記録した伝統の津軽三味線の真髄!

…とかなり鼻息が荒いです。

高橋竹山は明治43年に生まれ、幼い頃にはしかがもとで失明し、15歳で三味線を始めてから87歳で亡くなるまでその道一筋で生きた人、熱狂的なファンも多く持ちます。

レコードを聴いてみると・・・、おお!これはブルース!
なんか例えが罰当たりというか変ですが、とにかく一音一音に情と力が充満した、
非常に密度の濃い演奏で、私がいままで聴いてきたものの中では、
ギター一本で唸るブルースに近い。
既に去った感もある三味線ブームは、私にはちょっと軽い印象で興味がもてませんでしたが、
これはあまりに重い音です。
肉声を思わせる弦の音は流麗というより無骨で、その場に楔を打ち込んで行くようにフレーズを刻み、
こちらの胸にぐいぐいと押し入ってくるようです。
所謂よく聴く三味線っぽいフレーズが、ここでは随分違って聴こえ、
「芸能」という言葉がずんと重く響いてきます。
前記したように、昔のブルースやソウルを好きな人は、結構ごく自然に入っていけるのではないでしょうか。

このレコードには語りも入っているのですが、竹山は意外に喋りが上手くて、
結構観客の笑いなどとっていたりします。
話も絶妙のタイミングで落ちに持っていったりして、落語の達人を思わせるほどです。
ネットで調べて見ると、結構CDにもなっているよう。
巷で流れている全ての音楽に飽きてしまったら、こんなのもいいかもしれません。
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Jul 19, 2006

やあ、今日あたりは

大分涼しくて過ごしやすいですね。
みなさま、どのようにお過ごしでしょうか。

少し前になりますが、町田康の「告白」(中央公論新社)を読み終えました。
町田康と言えば、以前は町田町蔵の名前でバンド活動もしていて、
「イヌ」というバンドをやっていた頃から私は好きでした。
北澤組とのアルバム「腹ふり」は名盤です。
彼が作家になってからすぐの頃は、なんだか筒井康隆の影響バリバリだなあ、
なんて思っていましたが、いまではすっかりそれを脱却して、
町田ワールドを存分に炸裂させています。

「告白」は、ある意味集大成のような作品。
河内音頭にもなっている明治時代に起こった10人斬り事件をモチーフにして、
町田康独自の文体で怒涛の670ページを突っ走ります。
私はけっこう飛ばし読みする方なんですが、話は勿論、文体がとにかく面白いので、
全然飛ばし読みできずに、随分時間をかけてこの本を読みました。
やはりミュージシャンということもあって、リズム感が抜群、
それに関西弁の小気味よさをそのまま文体に使っていて、
音楽を聴いているように読まされます。

しかしこの独特の文体を読みながら思うのは、これは外国語に訳したらどうなるのか、
このニュアンスを伝えることはできるのか、
そもそも外国の人はこのニュアンスを理解することが可能なのか、と言うことです。

例えばヘミングウェイの小説、私は正直あれがよくわかりません。
もちろんどういう話かは理解できますし、なんとなく格好いいなあとも思うのですが、
どの話も別に書くほどのことではないような話に思え、どこで思いを深めていいのかわかりません。
それがヘミングウェイが町田康のように、その国で感受性を育ててきた人間でしかわからない言い方で書いているからなのであれば、そのニュアンスを翻訳で伝えるのはもう不可能に近いでしょう。
ウッディ・アレンの映画を絶賛する評論家はたくさんいますが、ニューヨークにある暮らした人でなくては、ウッディ・アレンの本当の良さはわからないとも思います。
また、日本のお笑いコンビ「ダウンタウン」の笑いも、
日本で生まれ育っていないと直感できないニュアンスが多分にあります。
だからダウンタウンの笑いは、同じ日本人でも、まだ経験の少ない子供には全く人気がありません。

きっと原書で読めるだけの語学力があればヘミングウェイだって理解できるのでしょうけれど、
悲しいかな私には日本語しかわかりません。
ランボーの詩なんかも、やはりフランス語で読むからこそいいのでしょうし、
三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ…」なんて詩句も、
外国人が聞けば「はあ……??」てなものでしょう。
村上春樹や吉本ばななが欧米で受け入れられるのは、
そういう地域独特の感覚が殆どないからに違いありません。

生まれ育った環境、世代、性別など、人間は無数の溝に囲まれて存在しています。
自らの背負った特異性を保ちながら、なんとかその溝を飛び越えて行きたい、
というのは無謀な欲求でしょうか。

ま、とにかく町田康の「告白」は面白いですよ。
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Jul 15, 2006

長らく休眠していた

詩の批評サイト「いん・あうと」が、この7月から再スタートを切っています。
http://po-m.com/inout/
2005年の3月に終了した旧いん・あうとを第一期とし、
この度再開した新いん・あうとを第二期としての最初の更新です。
前期と同様、多彩で有能な執筆陣を揃え、充実した読み応えのあるサイトになっています。
現代詩に興味ある人もそうでない人も、とにかく是非ご一読のほどを。

特集は二つ。
一つ目は、今年中国詩のイベントがあるということで、
詩学社から刊行されている「中国新世代詩人アンソロジー」についての特集。
これは現代中国の詩のシーンに触れることの出来る貴重な機会です。
まずアンソロジーとして用意された10篇の中国詩人による作品は必読。
それに対談では「いん・あうと」の総ボスでもある詩人の和合亮一さんと、
日中両方の詩のシーンに詳しい田原さんの興味深いお話がたっぷりと。
そして論考では、詩人と詩に造詣の深い書き手たちが、
自身の目で見詰めた中国詩について論じています。
あの日本の十倍もの人口がいる中国で、また様々な政治的混乱を経験してきた詩人たちにおいて、
いま詩はどのように書かれているのか。一見の価値ありです。
ちなみに私も論考をひとつ寄せさせていただいてますが、
まあなにぶん他の執筆者が錚々たる顔ぶれですから、著しく見劣りがするのは仕方ありますまい。
他のを読んだあと、それでも時間が余ってしょうがないときだけどうぞ。

特集2は、詩の現在2006年と題して、最近出版された詩集について、
野村喜和夫さん、ヤリタミサコさんを始めとした執筆者が論考を寄せています。
既に時代の先端を走っている小笠原鳥類さん、キキダダマママキキさん、久谷雉さんなどの詩人から、
現代詩手帖賞を取ったばかりの先鋭最果タヒさんまで、
様々な「新しい」詩人たちが取り上げられ論じられています。
現在、詩誌においてもネット上においても、なかなか新人たち個人について語られる場所がなく、
いい詩集が出版されていても知られぬままになってしまうという状況があります。
このように見通しのいい場所で新人たちについての優れた批評が読めるということは、
非常に意味深いことだと思います。
今後、更新の度に新詩集の批評が行われると思いますので、是非注目してください。
あ、それと今回、拙詩集も取り上げて下さっています、一応…。

他にもエッセイや「いん・あうと批評」など、
二十代前半の若い書き手から大御所までが入り乱れて書き競う文章は読み応えがあり、
恐らくいっぺんに読むのが難しいぐらいでは。

実は当初の予定より随分遅れて始まった第二期いん・あうと。
しかし遅れただけあって、内容は非常に充実したものになりました。
それでもまだ、ハードな読み手からすると物足りないところも多いでしょう。
これから第二弾、第三弾と更新を重ねるごとに、充実を増していくことは間違いありません。

そうそう、いままで文字化けで読めなくなっていた「いん・あうと」第一期のテキストが、
ページ最下部のバックナンバーから全て読むことが出来るようになっています。
これを機会読み直してみるのも良いでしょう。
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Jul 12, 2006

足立和夫さんの新詩集

「暗中」(草原詩社)を読みました。
この詩集、面白いです。

ひとつひとつの詩が、長く深い考察の末に行き着いたものであることを感じます。
突発的なひらめきから生まれたのでないゆえに、神がかり的な言葉の流れはありませんが、
常にしっかりとした足運びであり、読み手の手を引く力は確固として一定で、
読み手は安心して詩人の世界を歩いていけます。

また、深い思索が行き着いたところに発生した作品群であるので、
ひとつひとつの詩に新たな発見が提示されており、
読み手は、書き手と共にその発見に居合わせることができます。
その発見は、不可思議な詩の世界のなかにあっても真実を感じさせ、
ふと目の前が明るくなったような気持ちになります。

この詩集が描くのは、世界の認識です。
そして観察する世界は、地下街であったり、通勤電車であったり、機械であったりと、
殺伐とした風景ですが、それと対峙し観察する詩人の感覚はユーモアを保ち、
この詩人ならではの思いがけない真実を探り当てています。
それは決してひとりよがりのものではなく、読み手とともに発見することを望んだもので、
なんだか夜更けに入ったラーメン屋で、偶然隣に座った人が話し出したような妙な親しみやすさ、
そのあたり、詩人の体温が感じられます。

また、この詩集には夜が多く登場します。
詩人は人工的な光の下で人間の生活をし、
その人工的な光の下でだけ見える真実をつかんでいきます。
そうしたからといって、詩人の生活が変わることはなく、淡々と続いて行くのですが、
その場に一瞬存在した光を、詩人は上手く捉えて詩集の頁に貼り付けることを遂行し、
それが詩人の存在意義となっています。

ひとつの詩にひとつの発見。
そこに居合わせられたことの幸福。
詩を一篇読むことは、新しいことをひとつ知ることでなければならないと、
この詩集を読んで改めて思います。
読者を選ばない詩集であり、多くのひとに体験して欲しい詩集です。
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Jul 08, 2006

キキダダマママキキさんの新詩集

「死期盲」が先日届き、
一読、その後も時々開いては、ちりばめられた詩の言葉を眺めています。

これは書物であることだけが明記された一冊の本です。
他にはなにも定義されていません。
ただひたすらキキダダマママキキという人が記した「死期盲」という書物です。
ここには、現実界にある時間の流れに似たものは見当たりません。
思考の中で時折起こるフラッシュ、その一瞬だけに存在し得た言葉がページ上に、
あるときは不用意にこぼした水滴のように点在し、
あるときは畑の作物のように整然淡々と植えられています。
その速度での著述ですから、ここに物語に類似したものはありません。
あるのは、言葉であると同時に呼吸に近い断片の数々であり、
そのそれぞれは、通常の文章が持つ時間の長さを持ちません。
一瞬だけに存在し、他に影響を与えることすら拒否しています。
しかしながら、そういうものがある距離感をもって浮かんだとき、
一種の特別な、実に人間的な空間が現出することが、この書物では証明されています。
ちりばめられた言葉は、その声色すらそれぞれで異なり、
別々の人間があちこちで発している声にも聞こえます。
それは著者の中にいる、自分という名の無数の他人の発言群なのでしょう。
だから言葉が飛び行く方向すら異なる詩篇も存在します。
なのにこの書物は、不思議なまでに読み辛さを感じさせません。
それはその呼吸、あるいは言葉があくまで人間のものであり、
読み手の私もまた人間であるからなのでしょう。
どこかの夜にいる著者の呼吸に合わせて自分も呼吸し、
そこに見えてくるものにじっと目を凝らしてみる。
それは詩以外には経験できない「読む」という行為であり、
この書物では書き手の卓越した技術とセンスによって、
その可能性が不足なく準備されています。
誰もいない公園に点在する不可思議な遊具と形容も出来そうな、
雫として独立した連あるいは行は、それぞれで見ると実は非常に受け入れやすく、
また知らず知らずに覚えてしまうほど魅力的な言葉によって形成されており、
一度読んで気が付かなくても、再読すると、思いがけず多くの言葉と響きを、
記憶させられていることに気付きます。
そして読み返すたび、記憶される言葉は確実に増えていきます。
その驚きと快感が、この詩集を繰り返し手にとらせる原因のひとつでしょう。
あるいはそうやって読み返させられていくうち、全ての言葉を記憶してしまって、
そのとき初めてこの詩集の本当のフォルムが垣間見られるのかもしれません。
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Jul 05, 2006

ちょっとお知らせ。

先日、このブログに書いた、詩のボックス書店「百年まち」ですが、
諸事情により、場所等が変わることになりました。
ただ、下北沢近辺ということは変わらない予定です。
行ってみようと思って下さっていた方々、もうしばらくお待ちください。
情報が入り次第、またここでお知らせします。
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Jul 04, 2006

昨日は年に一度の

詩の祭典「東京ポエケットin江戸博」に参加してきました。
場所は江戸東京博物館の一階会議室。
午後1時半スタート。
50を超える出展があり、雨にも関わらず大盛況、
最後までお客さんの足が止まることがありませんでした。

私は2時半ぐらいから参加。
PSPクラブのブースにずっといました。
「repure」が置いてあったところです。
これを御覧の方で、もしもお寄りいただいた方がおられましたら、
厚く御礼申し上げます。
奥に座っていた、茶色っぽいシャツを着て眼鏡をかけていたのが私です。
私はあまり会場をまわれなかったのですが、
いらっしゃった方は、かなり楽しめたのではないでしょうか。
PSPのメンバーはみな交流が広く、
特に白井明大さんなどひっきりなしに知人の来訪があるので、
横にいた私もいろいろ新しい出会いに恵まれました。
当日お会いした方、どうもありがとうございました。

ちなみにお隣のブースは、灰皿町の住民でもある詩人の足立和夫さんでした。
初めてお会いしたのですが、非常にフレンドリーな方で、
すぐに打ち解けてお話させていただくことが出来ました。
これからも是非お付き合いさせていただきたい方ですね。
足立さんは最新詩集「暗中」(草原詩社)が絶賛発売中です。

ゲスト・リーディングは二回あり、一回目は桑原滝弥さん。
かなり激しいパフォーマンスで、上半身裸で絶叫、会場を走って巡り、
体全体のリーディングでした。
二回目は柴田千晶さん、桑原さんとは打って変わって静かなリーディング。
詩集「空室1991-2000」からの朗読で、前に一度拝見していましたが、
声と詩の内容がぴたりと一致して、完全にひとつの世界を現出されていました。

ポエケット自体は午後八時にて終了。
その後は当然二次会で、私も参加させていただきました。
ここでは、関富士子さん、杉本徹さん、杉本真維子さん、いとうさんなどとおしゃべり。
そして遠く福岡から参加の松本秀文さんと約半年振りの再会が嬉しかった!
松本さんは2004年に第一詩集「角砂糖の庭」を上梓され、福岡を中心に、
様々な詩のイベントで大活躍されている、まさに行動する詩人です。
東京にもかなりのペースでいらっしゃっています。
近々第二詩集を刊行する予定もあり、私も非常に楽しみにしてます。
松本さんはこの二次会で、森川雅美さん、大村浩一さんとともに、即興の詩も披露されました。
森川さんと大村さんも勿論素晴らしかったですが、
松本さんの人をひきつける力とパフォーマンス力には圧倒されました。
終わったあとに送られた盛大な拍手は、正直な気持ちから出たものに違いありません。
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Jun 30, 2006

手塚敦史さんの新詩集

「数奇な木立ち」(思潮社)を読みました。
手塚さんは2004年にふらんす堂より第一詩集「詩日記」を上梓、
今度の詩集が第二詩集となります。

読み始めると、言葉が、すっすっと、視界を滑り抜けて行くようです。
するともう読み手である私の足の下に地面はなく、
中空の、しかし不安ではない場所に浮いており、
そして相変わらず言葉は、風のように通り過ぎていきます。
その感覚が非常に気持ちよく、身を任せたまま、感慨を深くしないまま、
どんどん読み進んでいきたくなります。
所々に道標が立っています。
そこには連の数と、様々な単位でもって現在地を知らせており、
本来なら触れることすら出来ない次元から次元へ、自由に飛び渡っていく気がします。
まるで銀河鉄道の車窓から、外をぼんやり眺めているよう。
あるいはガラスのマントをつけた、風の又三郎の視線でしょうか。
そんなここは中空であるのに、草と土の匂いが色濃くします。
また、人間のあらゆる感覚から流れ出る涙の匂いも。
温度は冷たく一定で、鉱石の温度です。
時に行に段差がつき、身を揺すられたりもしますが、不安はありません。
それは実に自然な揺れ、というかざわめきであり、
しかしそこには絶妙なバランスを保つ力がはたらいています。
言葉は相変わらず流れ続けています。
最早何処にも、知った顔はありませんし、馴染みの事物もありません。
すべてが白く、新しく、しかしずっとそこにあったのに、
ちっとも気付かなかったもののようです。
この詩集は、人間の手で作ったもの、と言う感じが、不思議なほどしません。
そういう空間がどこかにあって、それを忠実に再現しているよう、
この詩集を読むということは、その空間を体験するということのように思います。
そんな世界に浸ってみたい方、是非この詩集を手にとってみてください。
他では決して出会えない、新しい経験がそこにあります。
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Jun 27, 2006

梅雨で雨ですが、

結構過ごしやすい温度ですね。

24日は、思潮社の新詩集シリーズ「新しい詩人」の刊行記念パーティーに、
お呼ばれしてきました。

今回は刊行第一弾として、小笠原鳥類さんの「テレビ」、キキダダマママキキさんの「死期盲」、
そして手塚敦史さんの「数奇な木立ち」の三冊が既に書店に並んでいます。
今後も、九月刊行予定の、三角みづ紀さん、石田瑞穂さん、コマガネトモオさん、
斉藤倫さんを始め、総勢12人の新鋭詩人の詩集が約一年の内に続々と出版されていく予定。

さて、パーティーの方ですが、新宿の某メキシコ料理店で行われました。
参加者は3~40名ほどでしょうか。
有名どころでは、野村喜和夫さん、城戸朱理さん、田野倉康一さん、福間健二さん、
杉本徹さんなど、そして今回刊行されるお三方は勿論、杉本真維子さん、石田瑞穂さん、
斉藤倫さん、永澤康太さんといった、今後刊行される方々、
他にもあちこちでお名前を見かける方々もたくさん居られました。

野村喜和夫さんの朗読を始め、有名詩人の方々のスピーチなどがあり、あとは会食。
何人かの人とお話させていただきましたが、
今回初めてお話した詩手帖編集長の高木さんには、私の筆名の由来をぴたりと当てられて吃驚。
様々な知識に精通されている方です。

一次会は二時間ほどということであっという間に終了、すぐに二次会へ。
ここでは、かねてからとてもお話したかった斉藤倫さんとじっくりお話しが出来ました。
詩の世界では珍しく、私と同い年と言うことで、非常に話がはずみました。
上でも書きましたが、斉藤さんの詩集は九月に刊行予定、絶対面白いのでよろしく。
ほかにも、杉本真維子さん、杉本徹さんなどとお話し。
横では、酔った福間健二さんと野村喜和夫さんのやり取りが行われていて、
これはとても面白かったです。

時間を忘れて楽しんでいると、気がつけば終電が終わっていました。
もう朝までいるしかありません。
でも次の日が日曜だったので、あまり気にせず三次会に参加。
ここでは城戸朱理さんと野村喜和夫さんが中心となって、詩壇のコアな話で盛り上がり、
それに思潮社の社長さん、森川雅美さん、小笠原鳥類さん、石田瑞穂さん、
久谷雉さんなどが加わるのですから、いろんな意味で非常にディープ、
私はただ眺めているだけしか出来ませんでしたが、とても面白い話が聞けました。

ということで、朝4時まで飲み会は続き、最後に始発までマックでコーヒーを飲んで解散。
帰るのが同じ方向ということで、杉本徹さんと話しこみながら帰路に着きました。
どなたさまもお疲れさま!
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Jun 23, 2006

じわりじわりと、

暑くなってまいりました。
既に部屋ではTシャツに半ズボン。
今年は何処まで冷房を使わずに過ごせるか。

先日高田昭子さんと、高橋順子さんの著作を貸し借りしました。
私がお貸ししたのは、先日ここにも書いた「雨の名前」。
高田昭子さんも22日付けのブログで紹介されています。
私と違って、ちゃんとした紹介文です。
是非、見てみてください。
そして私がお借りしたのは、「水を編む人」と「高橋順子詩集成」。
分厚い「詩集成」はいまじっくりと読み始め、読了はまだ当分先でありますので、
今日はもう一冊の方。

「水を編む人」(愛育社)は泉豊さんの、水をモチーフにした写真に、
高橋順子さんが短い詩をつけた、美しい本です。
この本を見ていて単純に思うこと、
やっぱり水の写真ていいなあ。
眺めていると、実際の喉ではないですが、
体か心かの何処か乾いた部分が潤される感じがします。
水の写真に潤されて初めて、
そういう部分があったと気付いたりします。
大きな木の枝が、たっぷりとした川の流れに沈んでいる様子など、
「ごくごくごく」という音が、体か心の何処かから聞こえてきそう。
実際に膨大な水を前にすれば、
それこそ全身に浴びて、喉の鳴る音などないのでしょうが、
写真という不完全なものであるからこそ、
そんな部分に気付かされるのかもしれません。
こう見ると、一瞬を捉える写真には短い言葉が合いますね。
あらゆる一瞬からは、微かな、しかし無限へと繋がっていく言葉が、
常にこぼれ出ているような気がしてきます。
世界が、水のあるところと水の無いところに分けられるとしたら、
水のあるところには生命があって、ないところにはないのでしょう。
自分の体は水のあるところにあるのだけれども、
自分の心は水のあるところにあるのだろうか。
自分の詩は、水のあるところにあるだろうか。
なんてことを考えつつ、今日はこの辺で。
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Jun 20, 2006

昨日は恒例の合評会の日。

詩誌「repure3」が出来上がり、
水仁舎の北見さんより、各同人へ配られました。
今回のイメージカラーは青、
ちょっとクールビューティーな仕上がりです。
私は今回は「成就」という作品を掲載。
他にも10人の同人が作品を競い合い、
今号も充実した詩誌になっています。

合評会はメンバーちょい欠けの9人。
しかし相変わらずの佳作ぞろいに、3時間目一杯を使った合評となりました。
私は最近2ヶ月ほど、なかなか納得の行くものがかけず、
ちょっとズルして少し前に書いた作品をもって行ってしまいました。
これは同人の方とちょっと話したことですが、
この季節は若干詩を書く人の手が鈍るようです。
考えてみれば、春真っ盛りのころには私も結構書けていた気がするのですね。
しかし5月6月とどうも…。
あるいは、季節を強く感じたときにだけ、詩人の手は動くのかもしれません。
ということは、きっと夏になればまた書けるに違いない。
なんていうのは、単に書けない口実だったりして。

メンバーのひとり、手塚敦史さんの新詩集「数奇な木立」がいよいよ発売になります。
思潮社の新詩集シリーズ「新しい詩人」の第一弾として、
小笠原鳥類さん、キキダダマママキキさんの詩集とともに発売になるのですが、
詩集を普段置いている本屋さんには、
軒並み平積みにされるのではないでしょうか。
見かけることがあったら、是非手にとってみてください。

二次会はいつものとおり久谷雉さんが合流。
みんなでげらげらと騒ぎました。
騒ぎすぎてつぶれてしまった人もちらほら。
しかしこのメンバーで飲むと楽しい事この上ないです。
5時ぐらいから飲み始めて、11時近くまで飲むのですが、
信じられないくらいに時間が早く経ってしまいます。
私も若干の二日酔い…。

*PSPメンバーの方へ業務連絡。

灰皿町に新しくPSP用の掲示板が出来ました。
メンバーのトップページにある「PSPC掲示板」からいけます。
簡単な連絡用に使えそうです。
お暇な時や、伝達事項があるときに書き込んでみてください。
よろしく。
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Jun 17, 2006

梅雨真っ盛り。

靴を乾かすのが大変です。

一番好きなヴォーカリストはと訊かれれば、
たくさんいますがとりあえずジョー・ストラマーと答えます。
この人は1970年代の後半に活躍したパンクバンド、
ザ・クラッシュのヴォーカリストです。
英語の曲なので、歌っている内容は未だになんとなくしかわかりません。
しかし私は、この人の声がとても好きなんですね。
パンクなので絶叫系、ものすごく怒っているんだけど、
同時にやるせなく深い悲しみが滲んでいて、
何百回聴いてもぐっと来ます。
男だねえ。
クラッシュのアルバムは1stから3rdあたりが最高、
特に2枚目の「GIVE‘EM ENOOUGH ROPE」は泣けますねー。
未だによく聴きます。
しかし残念ながら2002年に49歳で他界。
この人も早死にでした。

ついでにもうひとり、ルー・リード。
この人は60年代中盤に、ヴェルベット・アンダーグラウンドという
サイケデリック・ロックバンドでデビュー。
その後ソロ活動に転じ、現在まで精力的に活動を続けてます。
リードの声は、激怒する直前の冷静、という感じ。
叫ぶ曲もあるのですが、何処か恐ろしいような冷たさを保っていて、
またバラードの時も、何処か冷めた緊張感というか、強い怒りを常に感じます。
ぞくっときます。
この人は傑作と駄作の落差が激しいです。
いいアルバムは最高ですが、悪いのは聴くのが苦痛なぐらい。
だから雑誌の企画とかで、ロックの名盤ベスト10、なんていう企画があると必ず入るのに、
逆にワースト10を選ぶと、また入るという。
しかし波が激しいのは天才の証ですかね。
ちなみに人間的にもかなりイタくて、
重度のドラッグ中毒の上にSM愛好家、おまけにハードゲイです。
今は大分クリーンになったようですが。
しかしこういう人に限って死にませんね。
そろそろ還暦を迎えたはず。
まだまだ頑張ってもらいたいところです。
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Jun 14, 2006

負けちゃいましたねー、

サッカー。
凹んだ方も多いのでは。

では気を取り直してといった意味も含めまして、
今日は和やかな本でも紹介しますか。

長谷川摂子著「人形の旅立ち」(福音館書店)

この本は、対象年齢が小学校上級以上とされている、
所謂児童文学書というやつです。
本文もわりと大きな文字で、ふり仮名も多く振ってありますから、
一見大人が読む本ではないようですが、しかし馬鹿にするなかれ、
実は大人でも充分に楽しめる良書です。

この本は「ユリイカ」に連載されている竹西寛子さんのエセーに取り上げられていて、
それで買ってみたのでした。
著者の長谷川摂子さんのことを私は殆ど知りませんが、
確か児童文学専門の作家さんで、普段はそれこそ小学校低学年向けぐらいのものや、
童話などを書いている人、だと思います。
その人が、児童文学の形をとりながらも、
昔子供だった大人に語りかける作品を書いたという感じ。

話の舞台は数十年前の、日本海に近い田舎町。
そこで主人公の女の子が、様々な不思議な出来事に遭遇する、
寓話的な短編集です。
単純に泣かせたり楽しませたりの話でなく、
風に薫るようなノスタルジーと悲しみが満ちていて、
なんとも気持ちを動かされます。
病気の妹が出てくる話があるのですが、
大きな声ではいえませんが、
この話を読むと、いつも危うく泣きそうになります。

この本のもうひとつの大きな魅力は、版画家金井田英津子さんによる挿画です。
金井田さんには「猫町」「夢十夜」「冥土」などの作品を版画化した本もあり、
本屋さんではよく見かけるので、見覚えのある方も多いのではないでしょうか。
挿入された版画はどれも非常に美しく、それを見るだけでも、
この本を手に取る価値があると思います。
頁全体に渡って挿画がされているものもあり、本文と一体となって、
本を作り上げています。
文章と画が同時に存在している、幸福な例ではないでしょうか。

この本、なにかしらの賞を取ってはいるはずなので、
あるいは結構有名な本かもしれませんが、
なにしろ本屋で児童文学のコーナーなど覗くことがないもんで、
よくわかりません。
でもいい本ですよ。
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Jun 11, 2006

昨日の夜はW杯の

ドイツ対コスタリカを見てました。
あまりサッカーを観戦しない私でも、
ドイツの選手が放つシュートが凄いことはわかりました。
なんとかという選手が打ったミドルシュートはデイフェンダーをすり抜け、
ポストをかすめつつ右上一杯に弾丸のように突き刺さる。
別にドイツを応援しているわけではないのに、
シュートを打った選手を知っているわけでもないのに、
「おお、すげえ!」と思わず唸ってしまいました。
うーん、華がありますね、やっぱり。

ド素人が見ても、はっきりと凄いことをやっているとわかること、
これがプロとアマの違いじゃないでしょうか。
ぱっと見「俺でもできんじゃねえかな」
と思えてしまうプレイでは、見る人は食いつきません。
世界中探しても、この人しかできないんじゃないか、と思えるようなプレイを見たときに、
人は心を奪われて「また見たい」と思うのではないでしょうか。

野球のイチローや松井、野茂や佐々木にしても、
大リーグで誰よりもたくさんヒットを打つ。
大リーグのピッチャーからホームランをかっとばす。
大リーグの強打者相手に三振をたくさん奪う。
と非常にわかりやすく凄いです。
野球を全く知らない人が見ても、はっきり凄いことがわかります。
バント職人や、中継ぎ投手、堅実な守りをこなすショートなども、
勿論素晴らしいですが、見る人の目がそこまで到達するには、
まず、わかりやすく凄い活躍をする選手がいてこそだと思います。
Jリーグや日本のプロ野球の人気が、一時期よりも陰りを見せているというのも、
華のある選手がいなくなってしまったことが、原因のひとつではないでしょうか。

スポーツだけでなく、小説を読んでいたり、音楽を聴いていたりするときも、
同じようなことを思います。
こんな歌い方を出来る人は他にいない、こんな文章書ける人はこの人しかいない、
そう思わせる技量を持った表現者が、まず人を惹きつけるのだと思いますし、
鑑賞者がそのジャンルにのめりこむきっかけを作るのだと思います。
もちろん華だけではすぐに飽きられてしまいますから、奥深さも必要ではありますが、
もとより華々しさとは、奥深さからしか生まれないような気もします。

その点、詩は随分華に欠けているような…。
一般的に詩を読んだ人の感想は、「なんか俺でも簡単に書けそう」であるような気がします。
難解な詩に関しての感想は「適当に思いついた言葉ずらずら並べてるだけじゃねえの」
ではないかと思います。
そう思ってしまうと、更に読もうという気は起きませんし、
自分にも簡単に書けそうな気がするものを、
わざわざお金を出して買って読む人は少ないと思います。
実際に書ける書けないは別にしても、そういう風に見えてしまうのは、
やっぱり華に欠けるからなのだと思います。
しっかり読めば、無限の世界が広がっていく詩もありますが、
入り口がなければ、入っていくことも出来ないのではないでしょうか。

石垣りんさんや茨木のり子さんの詩集は、
他の詩人の詩集よりも売れていると思います。
売れる理由は、言葉がわかり易いということもあるでしょうが、
お二方の作品に接した多くの人が
「この詩句は誰にでも書けるものではない」と直感したからではないでしょうか。
ド素人でも、凄いことをやっていることがわかる詩です。
谷川俊太郎さんもそうかもしれません。
いま難解な詩を読んだり書いたりしている人も、
その入り口は谷川俊太郎だった、という人も多いはずです。

上に挙げたお三方の詩は、現代詩では軽く見られる傾向があると思いますが、
こういう華を持った書き手がいなければ、
一般から現代詩への入り口は閉ざされてしまい、
そして現在、彼らの役割をする人が現代詩には見当たるかというと、
その技量を持っている人は思い当たりますが、
正当に評価はされていないと思います。

先鋭的で読む人を限定する詩も必要かとは思いますが、
W杯級選手のシュートのようにわかり易く凄い詩が、
現在最も必要とされているのではないでしょうか。
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Jun 08, 2006

ちょいと告知を。

池田實さんの個人詩誌「ポエームTAMA27」に、
拙作を載せていただきました。
ネットでも読めますので、よろしかったらどうぞ。
http://www.hinocatv.ne.jp/~planet/

多数ある私の欠点のひとつに、集中力の欠如があります。
なにしろ飽きっぽく、ひとつのことを長く続けることが出来ません。
周りに人の目があったり、明確な期限を決められているときは集中できるのですが、
ひとりの時はてんで駄目ですね。

例えば本を読むのにしても、ひとつの本を長く読んでいることが出来ないため、
いつも3冊ぐらいの本を順繰りに3,40頁ずつ読んでいくという呆れた読み方をします。
それも同じジャンルの本では飽きてしまうので、
ノンフィクションの次はフィクション、重いものの次は軽いものと、
取り混ぜながら読んでいきます。

音楽を聴く場合も、ひとつのジャンルに集中できず、あれを聴いたりこれを聴いたりです。
一時期ジャズにはまっていたかと思うと、急にクラシックを聴き始めたり、
それに飽きたらロックに行き、飽きたらまたジャズなんて、目茶目茶な聴き方です。
結果、私の知識は広く浅いものになってしまいました。
だから間違っても、論考なんて書けません。
本当はひとつのことに凄く詳しいほうが格好いいと思うのですが、
どうもこの性格は治りません。

詩を書くときも、乗っている時は、がんがん書いていけるのですが、
ふと飽きてしまうと、もう書く気が起こらず、
本を読み出すなりなんなり別なことを始め、
それに飽きるとまた詩を書き、飽きたらまた別のことをと、
非常に駄目なやり方で書いています。

と書きながらこのブログの様子を見ても、
私の集中力のなさを表しているような支離滅裂さ。
治さねばと思いながらもその一方で、
この飽きっぽさだからこそ書ける詩もある、
などと自分に言い聞かせ、あっさり納得しているのですから、
多分、死ぬまで治りません。
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Jun 05, 2006

寒いんだか暑いんだか、

良くわかりませんが、
みなさま風邪などひかれませぬよう…。

ちょっと前の話ですが、先日のPSPの時、
桐田さんとブルースの話で盛り上がりました。
桐田さんが以前ブログにアップされた写真の一部に、
とあるブルースのレコードジャケットが写っていて、
それに対してコメントしたところ、
「あんな古いレコードを知っている人がいるとは!」
と驚いていらっしゃいました。
私は後追いで聴いたのですが、
桐田さんはリアルタイムで聴かれていたんですね。
羨ましいです。

私は中学生ぐらいの頃からローリング・ストーンズに懲り、
そのルーツを探るうちにブルースに辿りつきました。
80年代のスタイリッシュな音楽を、同時代の音楽として親しんでいた私は、
まだ電化されたばかりだった50年代の黒人音楽の、
力任せとも言えるパワーに衝撃を受けました。
スピーカーから飛び出した途端、
あたりの空間を全て埋め尽くしてしまうような、でっかくて野太い声。
そしてあのぶっとい指でなければ叩き出せないギターの、
胸倉を掴んでくるような暴力的な音。
絶対に白人や日本人には出せない、
黒人でなければ不可能な音にやられてしまいました。
マディ・ウォーターズ、アルバート・キング、フロイド・ジョーンズ、
Tボーン・ウォーカー、オーティス・ラッシュ、マジック・サム、
ジョニー・ギター・ワトソン、ブラインド・ウィリー・ジョンソン、
レッドベリー、ロバート・ジョンソン…他にもたくさん。

ロバート・ジョンソンといえば、
1930年代に活躍した伝説のブルースマンですが、
この人の、ストーンズもカヴァーしている「ラブ・イン・ヴェイン」
という曲がの歌詞のなかに、
 Blue light was my baby,
 And red light was my mind.
という一節が出てきます。
男が恋人との別れを思い出している歌なのですが、
駅で恋人の乗った列車が去っていき、それをホームで呆然の見送っていると、
列車の後ろに赤と青のライトが点灯していたことを思い出し、
青いライトは俺のベイビーで、赤いライトは俺の心だったんだ、と歌うのですね。
ここのところに中学生か高校生ぐらいの私は、
生意気にも何故だか矢鱈とはまってしまいました。
その後、もし自分が恋愛小説集など出すことがあったら、
絶対この歌詞をタイトルにしよう、なんて妄想していましたが、
それはどうやら果たされそうもありません。

ブルースの歌詞はワンコーラスがとても短くて、書いてしまうと二行ほど、
これを繰り返して一曲を成立させます。
少ない言葉に限られているからこそ、
そこに多くの感情が表現されている歌詞が多く、
非常に情緒豊かで魅力的です。
なんだか短歌とか俳句に似ている気がしますね。
ブルースは殆どが失恋の歌、あとは仕事の辛さを歌ったり、
自分のふがいなさを嘆いたり、それから所謂スピリチュアルもあります。
生活そのものを歌にするんですね。
そこら辺も短歌や俳句を思わせます。
ただ、そこに漂う強烈な体臭は全く異質ですが。
しかし人間というのは、言葉や肌の色が違おうとも、
つまるところ、考えることは大体同じなのかもしれません。
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Jun 01, 2006

先日、大手新古書店で

単行本500円セールが行われていて、
何冊か買い込んできました。(新刊で買え)
そこら辺のことを。

「雨の名前」(小学館)高橋順子・文 佐藤秀明・写真

これはオールカラーのとても綺麗な本で、
内容、装丁、タイトルを見ると、一時期流行った「○○の名前」シリーズのバッタもんか?
と思わずにはいられませんが、なかなか読み飽きないお得な本です。
春夏秋冬、それぞれの雨の名前がなんと422語も紹介されており、
写真も148点、それに詩人高橋順子さんのエセーが35篇も載っていて楽しめます。
しかしこれほど雨に名前をつけたのは日本人ぐらいではないでしょうか。
どれも個性的で、名前を見ただけで、あ、あんな感じの雨かな、
とわかってしまうぐらいセンシティブです。
私は子供の時は雨が好きだったのに、毎日電車に乗るようになったり、
スーツを着るようになったりすると、いつの間にか雨が嫌いになっていました。
急な雨に降られると、空に向って口汚く罵ってみたり。
雨と言うのは、この地球の上ではごく自然なもので、
やはり文明と言うのはそういうところから離れていくことなのでしょうか。
全ての雨には名前がある、と考えれば、雨が降るのも待ち遠しくなりそうですね。

「生きているのはひまつぶし」(光文社)深沢七郎

これは私の大好きな作家、深沢七郎氏の未発表エセー集です。
オビには女性の服をめくり上げておっぱいなど露出させ、
ご満悦の深沢氏の写真が使われていて、いかにもです。
内容はどうもインタビューを文字に起こしたもののようですね。
大体この人の言うことは無茶苦茶で、
「ケネディが死んだときには赤飯を炊いた」だの、
「ヌードを見るってことは、ごはん食べたり水飲んだりとおなじ、当たり前の事」だの、
あと人類滅亡教なんてのをぶちあげていたり。
言うことはいちいち世間の道徳に反することで、
中にはかなり不謹慎と思える発言もするのですが、
しかしこの人がいうと笑ってしまうんですね。
あはははは。最高最高。
どんどん読めてしまいます。
しかしひまつぶしで生きている割には、帝劇でギター弾いたり、
小説書いて有名になったり、田舎で畑仕事に夢中になったり、
今川焼き屋の親父になったり、この本に書かれているようなことを喋って笑っていたり、
それで食っていけるのですから、やはり天才だったのでしょう。
羨ましい。

「月とアルマジロ」(講談社)樋口直哉
「愛でもない青春でもない旅立たない」(講談社)前田司郎

「群像」の5月号(多分)に新鋭作家特集があり、
面白い人はいないかな、とざっと読んでみたところ、
上記の二人が面白かったので、購入しました。
両者とも、軽い感じの作風で、まあ今風ですね。
重厚さや深刻さはありません。
でも面白いです。
樋口氏の方は、阿部公房とカフカを混ぜてミネラルウォーターで割った感じ。
いい意味で。
この人は「さよなら、アメリカ」という作品で群像の新人賞をとってデビューしたのですが、
日常を、奇抜な事物がぐにゃりとまげて、現実と非現実をくねくねしながら話が進み、
理不尽な結末にたどり着くという作風です。
この作品もなかなか面白いとは思いますが、今後もっと面白くなっていく気がします。
前田氏の方は、本職の方で劇団の作・演出を手がけられているそうで、
言語感覚は抜群です。
あくまで、今風の言語感覚ですが。
舞城王太郎あたりの感じですが、私はこちらの方が、なんか自然で好きです。
劇団で書いているだけあって、内容が無いようでいて実はちゃんと整っています。
読後感もちゃんとあります。
この人はもっとマルチに才能を発揮していくのではないでしょうか。
正直、くだらない小説と言ってしまえばそれまでですが、機会があったら是非どうぞ。
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May 29, 2006

現代詩手帖6月号、

が送られてきました。
今号の特集は「2000年代の詩人たち」。
恥ずかしながら私もそのひとりとして詩を寄稿しています。
タイトルは「春雷」
少々込み入った内容で、
先ごろ出した詩集とは大分違った印象を与えるものだと思います。

作品が載ったのも嬉しいことですが、
巻頭に組まれた座談会において、
詩人の水無田気流さんが拙詩集を取り上げてくださいました。
なんだか恐れ多いぐらいきちんと読んでくださっていて、
いやもうなんともはや、嬉しいことです。
全体としては、賛否両論という感じですね。
しかし総スカンだったり褒めちぎられたりするよりも、
賛否両論のほうがいいような気がします。
否の方の人も、ちゃんと読んでくださっているようで、
書き手としてはそれだけで嬉しいものです。

さらに今号はPSP関連の人が多く登場しています。
竹内敏喜さんは、渡辺めぐみさんの新詩集「光の果て」についての文章を寄せており、
また有働薫さんは、先ごろ亡くなられた吉行理恵さんの追悼文を書かれています。
作品では手塚敦史さん、久谷雉さんを始め、合評会に参加してくれたことのある
大谷良太さん、永澤康太さんが寄稿されています。
手塚さんは第二詩集「数奇な木立」が、シリーズ「新しい詩人」の一環として刊行されます。
裏表紙にはその広告が載っており、
次々と刊行される予定の12人の詩人の写真がずらりとあって壮観です。
手塚さんも男前に写ってますね。
こうみると結構詩人って美男美女が多いのではないでしょうか。

新人特集ということで、これでもかというほどの数の詩が掲載されています。
まさにこれから詩界を牽引して行こうという人たちの作品が目白押し。
連載されているベテランの詩人の作品も載っていますが、
それらに比べても遜色なく見えるのはいいことです。
新しい詩集のシリーズも始まることですし、
思潮社にも若い詩人を売り出す意欲が見えますね。
なにかが変わるのではないでしょうか。

それにしても投稿欄などとあわせると、
一体今号には何篇の詩が掲載されているのでしょうか。
と思い数えてみたらなんと42篇!
いやあ、全部読むだけでも体力を要します。
しかし無闇に作品を載せるのもどうかとは思いますが、
いまや貴重な詩の専門誌なのですから、
クオリティを吟味した上で、これに近い数の詩を毎号載せてみてもいいような気がします。
特に若い人の作品なんか、バンバン載せて反応を見るのもいいんじゃないでしょうか。
やはり大勢の人が見る可能性があるところに作品を置かないと、
いい作品も詩人も、
誰にも知られないまま埋もれていってしまうと思いますし、
そうすると詩の世界自体がますます衰退してしまうのでは・・・。
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May 26, 2006

窓を開けて、

ブログを書けるいい季節になりました。
昨日は大雨でしたが。

とある科学雑誌を立ち読みしていると、
蛾の口の拡大写真が載っていました。
赤く渦巻きみたいになっていて、
なんだか前衛芸術を思わせる形でした。
幻想的とか別世界とか、
またある意味グロテスクと言っていい形でした。

それを見てて思ったのですが、
現代美術などの20世紀芸術は、
ものを近くで見すぎていたのではないでしょうか。
現代美術もまた、グロテスクと言う形容をよくされると思いますが、
心とか人間性とかそういうものを、人間的な視点よりもっと、
顕微鏡で見るように、不自然なほど近くで見てしまって、
あのような理解し辛い様相になっていったのではないでしょうか。

また、宇宙などの写真を見ると、非常に魅力的な形がたくさんありますが、
そんな世界も、人間の目から見ると顕微鏡で見た世界に似ている気がします。
ミクロの世界もマクロの世界も、非常に興味を惹かれる世界ではありますが、
人間的な視点の位置とは言えない気がします。

いま、私たちが普通に眺めているこの世界は、
恐ろしく複雑に見えています。
周りの景色も、人間関係も、一人の人をじっと見るときでも、
とても言葉では言い尽くせないほど複雑に見えています。
それに対して、顕微鏡や望遠鏡で見た世界は、
見た目、非常に単純に見えます。
絵に描いてみようとすれば、両者の違いは明らかです。
人間の視点とは、
人間の複雑な脳に合わせた位置に置かれているのではないでしょうか。
これだけ複雑なら、研究者も芸術家も、一生掛かってもその全ては征服できません。

などと感じて、ふと詩のことを思うと、
やはり人間的な視点から見た世界を詩にすることが、
一番難しいように思います。
不自然なほど近づいたり遠ざかったりして描くのは、
寧ろ簡単なことなのではないでしょうか。
勿論、近づいたり遠ざかったりというプロセスは、
非常に複雑で時間の掛かる経緯を辿らねばなりませんが、
しかしその結果見えるものは、人間的な視点から見えた世界よりも、
ずっと単純なものであるように思います。
更にその向こうにあるものは、人間のためのものではないでしょうから、
人間には理解できず、理解する意味もないような気がします。

と言いながら、
私も近くに行ったり遠くへ行ったりしたいと思ってしまうのですね。
その向こうにあるものがなんとか見えないものかと、
目を凝らそうとしてしまいます。
普通の世界が一番複雑で美しい、とわかっていても、
芸術家も研究者も、別世界にどうしても惹かれてしまうのでしょう。
一種の逃げなのでしょうが、
これはもう本能であると思います。
すると人間の本能とは、人間ではないものを目指すことなのでしょうか。

私も前衛芸術は好きですが、
しかし前衛芸術は結局何も生み出さなかったと思います。
蛾の口のどアップは凄く面白いけれども、私たちに知ることが出来るのはそこまでで、
その向こうに決して進めないのではないでしょうか。
グロテスクとは、あんたはそこから先に行っちゃいけないよ、
というサインかもしれません。
あるいは、その先に行っても構わないけど、
まともなやつは誰もついてきちゃくれないよ、というサインかも。
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May 23, 2006

恒例の合評会報告。

前回は私のこのブログにおける「上品とはいえませんが」発言が
一部でえらい物議をかもし出してしまいました。
関係者様、大変ご迷惑をお掛けしました。
それでは、言葉に気をつけていきます。

今回は同人誌「ルピュール3号」の原稿締め切りでもありました。
私は以前PSPに出した「成就」という作品を掲載予定。
7月2日に行われる東京ポエケットに間に合わせるため、
造本をお願いしている水仁舎の北見さんには、
制作を急いでもらうことになってしまいました。
北見さん、何卒よろしく。
と言うわけで、東京ポエケットにはPSPで参加の予定。
みなさま、お誘いあわせの上ご来場を。
私も行きます。

合評の方は、残念ながら欠席の方が多く、少数人数で行われましたが、
久しぶりに岩村美保子さんが参加されたのが嬉しいことでした。
作品は子供から大人に成長する過程で失ってしまったもの、
変わってしまったものの不可思議を感じさせる、温かみのある作品で、
日頃、殺伐とした作品とばかり格闘している私には新鮮でした。
岩村さんは今年の2月に「生きるなんて暇つぶしさ、ってきりぎりすは言った」
というエッセイ本を出されました。
私も頂いて読んでいるのですが、とても読みやすいうえ面白い!
御自身の詩と同様温かみのある文章で、それでいてなかなか鋭いことも書かれていて、
はっとさせられる部分が数多くあります。

宮越妙子さんの作品は、東北の日本海の風景を思わせる情緒的なもので、
三部作の最初の一篇であり、今から何かが起こるという予感に満ちたものでした。
その描写力、表現力は卓越しており、感想をいうよりも、
早く先を読ませてほしいという感じです。

高田さんの作品は、主体が若干わかりにくかったものの、
ほかはいつもながらの秀作です。
夢から夢へとさまよい歩くなかでふと垣間見るような眺めが、
絵本にページをめくるように現われて、なにも考えずに没頭させてくれます。

柿沼さんの作品も素晴らしかった。
狂気をクールにテクニカルに捉えた作品で、
平凡な言葉の中から屹立するようにはっとする言葉が現われ、
唸るしかありません。

今回もっとも物議を醸し出したのは竹内敏喜さんの作品。
ジャクリーヌ・デュプレからジャック・ラカン、そして聖書へ移行して、
一篇の詩に結晶するというもので、その言葉運びの匠さと、
一つ一つの事物の深さには圧倒されるものがありましたが、
いかんせん難しい!
多方面の知識に豊富な人でないと読解することすらままならず、
当然、私は途中で振り切られてしまいました。
しかしそのクオリティは揺るぎないものがあります。

そして今回は作品は提出されませんでしたが、
これまた久々に福士環さんが参加されました。
お家の方でいろいろとあり、私も非常に心配していたのですが、
以前通りの元気なお顔を見られて安心しました。

というわけで、合評会が終われば当然ながら二次会へ突入なわけですが、
残念ながら岩村さんと北見さんが帰られて、更に少ない人数での飲み会。
おまけにいつも飲んでる店が改装だか閉店だかで工事中で、
別の店を余儀なくされましたが、
途中から久谷雉さんが参加されて盛り上がりました。
久谷さんは一番お若いのに、詩の世界では非常に事情通で、
いろいろな話が聞けてとても面白いです。
ところで、前回私のブログに登場したご両人は、
今回も日本酒をくいくい呑りながら大いに語り合っておりました。
て、こんなこというと、また物議を醸し出してしまうかな?
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May 19, 2006

久々に「2001年宇宙の旅」なぞ

DVDにて鑑賞。
この映画、最初に見たときは、何がなんだかよくわからなかったですね。
長いし、これといったアクションシーンもないし、ラストなんて意味わかんない。
しかし何回も繰り返して見るうち、段々とその凄さがわかってきました。
内容的なことやラストの意味は、小説を読めばちゃんとわかって、
それはそれで感心するんですが、
実は映画的な部分も凄いってことがわかってくると、何度見ても飽きないですね。

この映画、最初の20分ぐらいは、
人類の祖先となる猿人たちのセリフのないシーンが延々続きます。
動物の骨を道具として使うことを学び、それで動物を倒して肉を食うことを学び、
そして他集団との殺し合いまでをも学び、
あとあの有名なモノリスのシーンなんかもあるんですが、
猿人たちの動きがもの凄く計算されて出来ていることに、
何回も見てから漸く気付かされます。
セリフが一切ないのに、ちゃんと彼らの中でなにが進行しているのかがわかる。
特にモノリスのシーンで、最初に板に触れていく猿人の動きは見事です。
ある種のバレエを見ているようですらあります。
最初の頃は本当に退屈なだけのシーンでしたが、
これだけ見ても、やっぱりキューブリックって凄かったんですね。

そして猿人が骨を宙に放り投げて、それが宇宙船になって、
2001年の宇宙のシーンへと繋がるわけですが、
流れてくるのは、J・シュトラウスの「青く美しきドナウ」。
この映画を子供の頃に体験した人は、
みんなこの曲は宇宙船のテーマになっちゃってるんじゃないでしょうか。
私もそうです。
ちなみにこの映画ではカラヤン盤が使われているようですが、
私の愛聴盤はベーム盤。
優雅さがカラヤン盤より一枚上手で、いかにも宇宙に浮遊している気分になれます。
そういえばオープニングで流れる、
R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」なんて、
この映画のために作られた曲だと思っていた人も多いのではないでしょうか。
私もそうです。

しかし21世紀になって随分経ちますが、世間の眺めはちっとも変わりませんね。
もっと劇的に変わるものだと思っていましたが、
ここは本当に、あの頃の未来なのでしょうか。
鉄腕アトムなんか見てもそうですが、
宇宙旅行とかロボットとかの原型は出始めてはいるものの、
実用になるのはずっと先でしょうし、エアカーなんてのも見当たりません。
ただ携帯電話とかパソコンとかは、
予想していたよりずっと発展しているのではないでしょうか。
まあ、まだ勝手に考えたり喋ったりはしませんけど。

この映画に、21世紀的なものの価値観を植えつけられたような気がします。
コンピューターの声は飽くまで無機質でなくちゃいけないし、
部屋は可能な限り真っ白の方が未来っぽい。
しかしファッションはさすがに古くなりましたね。
スチュワーデスの宇宙服なんて、
寧ろ60年代のファッションに近い気がします。
未来は、いつまで経っても未来なのでしょうか。

ということで、私はこの映画をパソコンで、
秋刀魚の塩焼きと豆腐を肴にして、
日本酒の熱燗を飲みながら一人でぼんやり見たのでした。
淋しい…。
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May 16, 2006

サッカーWC日本代表が決まりました!

…そういえば今年だったんですね、ワールドカップ。

私はテレビドラマというものを、殆ど見ません。
昔、「101回目のプロポーズ」とか、
木村拓哉さん主演のものとかが凄い視聴率で、
周りの人はみんな見てましたが、
私はひとつも見たことがありません。
まず長い話が駄目なのと、
恋愛ものに興味がないことがその原因です。
あと毎週同じ時間に見なくてはいけない上、
一本見逃すと話がわからなくなるという強制性が耐えられません。
ならばビデオに録ってみればいいのですが、
ビデオに録ると、なんだか安心してほったらかしにしてしまいます。
そのうち何週分も溜まってしまって、
「見なくてはいけないビデオ」を無理に見るのが苦痛となり、
結局別の番組を上から重ね録りして一件落着、
だから最初からドラマは見ません。
なのに最近「富豪刑事デラックス」を見てます。
と言ってもまだ二回ぐらいしか見てませんが、
なんで見るかと言えば、これは筒井康隆の原作なんですね。
中学生の頃に筒井康隆にははまってよく読んでました。
だから原作を知っているもので、愛着を感じて見てしまうのです。
ドラマを見るのは、前シリーズの「富豪刑事」以来ですが、
このシリーズは一話完結ものなので、見逃してもダメージはありませんし、
恋愛の要素も殆どなく、主演の深田恭子もはまり役で面白い。
もの凄い金持ちのお嬢さんという役柄なのですが、
「いいえ、森の中にお家があるのではなく、お家の中に森があるのです」とか
「そんな…たった100億円ぽっちの為に…」
なんてセリフを言ってて、それを喜んで見てます。
中途半端な金持ちじゃないので、むかつくより寧ろ痛快です。
ストーリーとか謎解きとかよりも、
ただ深田恭子のお嬢様キャラが面白くて見ている感じ。
私はなぜかちょっと調子の狂ったお嬢様の言動が好きで、
考えてみると遠い昔「白鳥麗子でございます!」なんていうドラマは見てたような。
そうそうあと下らないドラマなのに、夏八木勲とか出てたりします。
前作の「富豪刑事」のときは筒井康隆本人も出ていたのに、
今回は出ていませんね。
少し残念です。
そのうち出てくるのかな。
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May 13, 2006

キースは一応退院したと言うことで、

よかったよかった。

先日観劇した遊戯空間の舞台など見ると、
詩を運ぶもののことを考えます。

詩はもちろんそれ単独で存在するものですが、
別のなにかと一緒になって、人まで届く方法もあります。
主であるのは音楽。
それに演劇の中で俳優の声から、
そしてリーディング、
また詩集や絵本、写真集などの形もあります。

先日見た演劇では、音楽が詩を運ぶように、
俳優の声が詩を運んでいました。
演出家の方は、和合さんの詩作品の中から、
ただ出来のいいものを選ぶのではなく、
演劇にして効果のあるものだけを慎重に選び出し、
劇化していました。

俳優の演技と共に送った方が、文字で読むよりも真意が伝わりやすい詩があり、
同じように音楽にのせた方がいい詩があります。
また、もっと他の方法がいい詩もあるはずで、
その方法は詩の数だけあるのかもしれません。
勿論余計な事をせず、紙に印刷したものを読むのが最もいいものもあります。

私は現在、文字で読む詩に集中して書いていますが、
その中でも、一つ一つの詩にふさわしい場所はあるのだと思います。
沢山の人の詩の中に存在した方が良かったり、
詩集の中に存在した方が良かったり、
また詩集の中でも、一番最初に置かれることがふさわしい詩があり、
最後に置かれることがふさわしい詩があり、
それを間違えると、詩はその力を存分に発揮できなくなってしまうと思います。

どこにあってもどんな伝え方でも、いい詩はいいのだ、とも言えるかもしれませんが、
例えばイチロー選手だって、大リーグに行っていなかったら、
また野球ではなく、間違ってサッカーをやっていたら、
あれだけの身体能力の持ち主ですから、それなりに成功はしたかもしれませんが、
しかし今以上ではなかったでしょう。
イチローは、自分が最も輝ける場所を探す天才でもあると思います。
極端な例えでしたが、そういうことです。

そして一緒に送るものがわかったら、
それに対しても充分に気をつかわなければならないと思います。
遊戯空間の公演では、その充分に気をつかったものを見せてもらいました。
演出家さんの手腕、俳優さんたちの研ぎ澄まされた演技力があってこそ、
和合さんの詩はそこに明らかに出現できたのだと思います。
少しでも手を抜いたものであったなら、
難しい試みだっただけに、
見るも無残なものになっていたのではないでしょうか。

私の場合、今までは詩を書くことが自分の欲望の八割方であり、
何処に出るか、どのように見せるかは、それほど気にしていませんでした。
しかしせっかく書いたものですから、ひとつひとつの詩に、
一番際立つ服を選んでやることも必要かなと思い始めています。
さて、詩手帖6月号に掲載される詩のゲラが送られてきました。
ここでは沢山の先鋭詩人の中に挟まれた所に、詩の居場所があります。
一応、それを考えて詩を選んだつもりですが、果たしてどうだったでしょうか。
心配…。
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May 10, 2006

ヤシの木から落っこちたキースのことが、

非常に心配です。
情報が錯綜していて、軽い脳震盪という情報もあれば、
脳外科手術を受けて静養中という情報もあり、
はっきりしません。
まったく60過ぎて何やってるんだか。
大したことないといいんですが…。

先日、「本城直季写真集/スモールプラネット」という写真集を買いました。
一応は風景写真集ですが、なんか変です。
実際の風景を写しているのに、ミニチュア模型のように見えるのです。
カメラの技術的なことなんでしょうけども、そこら辺にうとい私は、
いったいどうやって撮っているのだかわかりません。
以前に確かリラックスという雑誌でこの人の写真を見て、
「うわ面白れえこれ。どうやって撮ってんだよ」などと興味津々だったので、
写真集を見かけて思わず買ってしまいました。
結構ボリュームもあって、飽きずに眺めています。
桐田さんあたり、お好きなのではないでしょうか。
税込2650円也。

男はミニチュア模型が好きですね。
私も小さい頃はプラモデルをよく作りました。
宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム…
今はもう全然作りませんが、
おもちゃ屋を通りかかって、ジオラマなんかディスプレイされていると、
思わず覗いてみたりします。

そういえば私も、フィギュアという奴をひとつだけ持っています。
何年か前に、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪フィギュアがシリーズで出たのですが、
その中で私が思わず買ってしまったのが、原作者の水木しげる自身のフィギュア。
紙とペンが置かれた小机を前にして、
まだ比較的若い頃の水木しげるが胡坐をかいて座り、
顎を手でさすりながら嬉しそうに空想に耽っていて、
それを机の端っこに座り込んだ目玉親父が見上げているというものです。
すごく可愛くて、数百円と言う安さも手伝って買ってしまいました。
今も私の創作の神様として、机の前の本棚の隅で空想に耽っています。

思うんですが、盆栽というやつも、ミニチュア模型と同じですね。
大きな木を、小さい植木で再現しているんですから。
よく品評会と称して、年配の方が難しい顔して唸りながら見ていますが、
あれは実は、ガンダムのプラモデルに群がる子供たちと同じだと思います。
まったく男ってのは死ぬまで子供です。
それでいいんです。
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May 07, 2006

近頃あちこちで、

詩集を出すと言う話を聞きます。
灰皿町の中では、白井明大さん、久谷雉さんが詩集の刊行を予定していますし、
思潮社では「新しい詩人」というシリーズがスタートして、
手塚敦史さんなど先鋭詩人の詩集が出ます。
他にもたくさん、特に若い人の話をよく聞きます。
今年の下半期は、話題作が揃うのではないでしょうか。

詩を書く人にとって、
自分の作品をまとめるということは、重要なことだと思います。
一篇一篇の作品を書いていたときには意図していなかったことが、
数十篇を集めて眺めてみたとき、忽然と見えてくることがあり、
それは作品集という形でないと表現できないものです。

詩人は詩をかくとき、大概、表したい何かがあって書くわけですが、
その何かとは、その時点では重要に思えても、結果的には実は表面上のことでしかなく、
本来の表現への第一歩に過ぎないと思います。
本来の表現とは、自分でも意識できない内面深くにあるものを、
外の世界へ表出する行為であると私は考えます。

詩は自分の狂気を描くものであるという話がありますが、
それは私もそう思います。
しかし自分の狂気など、描こうと思って描けるものではないですし、
元来狂気とは自分では気付けないものです。
外面的に狂っているように見えるのは、文字通り外面でのことであって、
その原因はもっと深いところにあると思います。
それを表すことこそが、自己の表現だと思います。

意図的にそれを抽出することは大変難しいですが、
何篇も詩を書き重ねるという作業を続けていくと、
滲み出るように、それが作品の節々に表れてきて、
ある程度の数の作品をまとめたとき、はっきりと形となって見えてきます。
狂気でなくても、
自分という存在の行為の原因であったり、無意識の欲望であったり、押し隠した怒りなど、
心の底に流れているものは、作中に通奏低音のように現れてくるものだと思います。

私の拙詩集の場合でも、「世界の認識」や「食われるもの」など、
批評を頂いた中で言及されている幾つかのことは、
少なくとも一つ一つ書いていたときには、意識していなかったことでした。
一篇だけでは見えなかったことが、
ある程度の数をまとめてみたときに、初めて形を成したのだと思います。
それを発見することは、詩集を編む醍醐味のひとつだと思います。
詩を書き続けてきたけど、さて結局のところ自分はなんだったのだろう、と問い、
それを見出すことが、詩集を編むということかもしれません。
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May 04, 2006

なんだか画面が、

点滅しています。
青っぽくなったり、普通になったり。
あと、下のほうが歪んでいるようにも見えます。
うーん、そろそろこのディスプレイも寿命なのでしょうか。
なにせもう10年くらい使っているのですから、
いつご臨終となっても不思議ではありません。
むしろ凄い生命力です。
でもせっかくここまで使ったんですから、
天寿を全うするまで付き合う所存です。

例によって現代詩手帖5月号を購入。
特集は全詩集が刊行されたこともあって渋沢孝輔。
私は相変わらずの不勉強であって、この大詩人の作品を、
アンソロジーぐらいでしか読んだことがありません。
そんな私のような人のために、親切に代表詩選が載っていますね。
しかしやっぱり難しい。
「ついに水晶狂いだ」なんて凄く格好いいんだけど。
ただ全くのお手上げと言う感じではなく、
確かに言葉に意味が込められているのは感じます。
読んでいくと、言葉が網目に変わっていって、
その向こうになんとも知れないものすごいものが見え隠れしている感じ。
あるいは得体の知れない仙人のような浮浪者が、
杖を振るいながら唸るように言葉を大地に撒いている感じ。
読み手はその目撃者ですね。
しかし決して話しかけられはせず、
遠巻きに眺めるしかありません。

連載詩では入沢康夫さん、田中清光さん、吉田文憲さんが面白かった。
吉田さんは来月から倉田比羽子さんと共に、投稿欄の選者ですね。
どんな傾向になるのでしょうか。
現代詩手帖賞は十代のお二人、下馬評通りといったところでしょう。
受賞作が掲載されていますが、
最果タヒさんは、大きな文字で読んだほうが真価が感じられますね。
改名された望月遊馬さんは、静かな海の上を漂い流れて行くようです。
惜しくも受賞を逃された山田亮太さん、河野聡子さん、広田修さんなども含め、
今回の投稿欄はなかなか充実していたように思います。

来月6月号の特集は2000年代の詩人たち、
手塚敦史さん、キキダダマママキキさん、小笠原鳥類さんを始め、
新世代の詩人たちの最新作が大挙して掲載されます。
特に十代、二十代の、
これからの詩壇を背負っていくであろう詩人たちの今を体感しておくのは、
詩と付き合っていく上で非常に有意義ではないでしょうか。
必読です。
…なんて力を込めて言ってしまったのは、
詩手帖を買った人はお気づきかもしれませんが、
恥ずかしながら私も作品を寄稿する予定です。
ついでに読んであげてください。
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May 01, 2006

4月29日は予告どおり、

劇団遊戯空間による舞台、
詩×劇「世界が脳になってしまったので少年は左に回らない」
を観劇してきました。

原作には詩人和合亮一さんの最新詩集「地球頭脳詩篇」と、既刊の「AFTER」
「RAINBOW」に収録された詩篇がそのまま使われました。
前回の公演では、和合氏の第三詩集「誕生」の収録作のみを使っていたのに対して、
今回は以前に出された2冊の詩集の収録作も合わせて使われたことにより、
詩集単体の劇化というより、詩人和合亮一の世界自体を劇化したものとなっていました。

役者さんの動きが大きく派手だった前回の公演に比べ、
今回は動きを最小限に抑えて、声の表現による空間の現出に重きが置かれたことにより、
非常にストイックなものとなっていました。
そのぶん、観客は和合さんの独特な言葉に全身耳にして聴き取ることとなり、
客席には否応なしの緊張感が張り詰めていました。
また殆ど脈絡を感じさせず、しかも非常に長い文脚である和合さんの詩の言葉が、
役者さんの口から延々と唱えられ続けるのを見ているうち、突然それが止まってしまって、
劇自体が崩壊してしまうのではないかという不安感も漂っていました。
それも含めた緊張感が、言葉を舞台から客席の観客ひとりひとりの胸の内へと運んでいく、
水の流れのようなものになっていたと思います。
タイトルに、世界が脳になってしまったので、という言葉が使われていますが、
まさに舞台と客席を含んだ空間の全てが、ひとりの詩人の脳内と化していました。
そこでしか通用し得ない言語によって成される詩人の思考と妄想を、
観客は目の当たりにし、共有します。
和合さんの詩の言葉は難解と言われますが、ここではそれがごく普通の言語として流通し、
さらに役者さんの演技と演出家さんの手腕によって、
この特殊な脳は確かに実現されていました。
前回とは違ったアプローチを、失敗を恐れずされていたことは重要でした。
詩を劇化する試みを、遊戯空間はこれから先も続けられていくようです。
公演が行われるたびに、劇の肉体となる詩に様々なポーズをとらせ、
やがてそれが最終的な姿へと昇華していく過程を、今回は見られたと思います。

公演が終わったあとは、和合亮一さんと演出家の篠本賢一さん、
そして遊戯空間文藝部の荒井純さんによるアフタートークが行われました。
ここでは、篠本さんが和合さんの作品を舞台化することになった経緯や、
舞台化に際しての企み、そして荒井さんと和合さんの出会いなどの貴重なお話が、
1時間ほどに渡って大いに語られました。
私が興味を引かれたのは、和合さんの言葉の原点が、
唐十郎の公演を見たことがきっかけであるとのお話でした。
和合さんの地元福島に唐十郎のテント劇団がやってきて、
そこで奔放に繰り広げられる演劇の様を見てショックを受け、
さらに劇の最後に舞台の後ろのセットがバタンと倒れ、
その向こうに現実の福島の町並みが見えたとき、
和合さんは、ああ、俺はこれをやりたかったんだ、と思われたそうです。
そこから、あの特異な言語が生まれてきたと知ったとき、
私はとても納得しました。
上手く説明できませんが、和合さんの言語とは、
非日常が打ち破られた瞬間にだけ垣間見える日常であるのではないでしょうか。
想像力をたくましくすれば、あらゆる言語はそこから生まれてくるのかもしれません。
(すいません、すこしわけわかんなくなりました…)

アフタートークの後は、例によって、
来ていらした詩人の方々と一緒に飲みに行きました。
メンバーは一緒に観劇した竹内敏喜さんと、岡山からいらっしゃった斎藤恵子さん、
森川雅美さん、渡辺めぐみさん、えこし会の林花子さん、
そして福島からいらっしゃった虹色詩人団のみなさんです。
公演の合間を縫って和合さん、演出家の篠本さん、荒井純さんもいらしてくれて、
いろいろとお話を聞くことができました。
遠くからお越しのため、時間に制限がある方が多かったので、
残念ながら全ての方と長くお話をすることは出来ませんでしたが、
その中でも、約2ヶ月ぶりの再会である斎藤恵子さん、
そして今回初めてお目にかかる渡辺めぐみさんとお話が出来たのは嬉しいことでした。
渡辺さんは多くの詩誌で精力的に詩を発表されておられるので、
その作品に接する機会は多かったのですが、お話させていただくのは今回が初めてでした。
その作風から、少々特殊な性格の方かもしれない(失礼!)と思っていたのですが、
お話させていただくと、非常に気さくで話しやすい方でした。
馴れ馴れしくも詩集の交換などまでさせていただきました。感謝。

飲み会中、段々と人が抜けていって、最後まで残っていたのは私と、
虹色詩人団の西口さん、そしてまたもやおなじみ竹内敏喜氏という野郎三人。
この三人で和気あいあいと、
しかしかなり熱く論争を繰り広げて、あっという間に時間は過ぎていきました。
11時前にお開き。
さて、今回の竹内氏の記憶はいかほどでしょうか?

もうひとつ嬉しいニュース。
森川雅美さんが「千年紀文学」(千年紀文学の会発行)という隔月誌に、
私の拙作の書評を書いてくださいました。
著者本人が意識していなかった部分まで鋭く深く読み込んでくださり、
これはもう大変な感激です。
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Apr 28, 2006

書くほどのことではないのですが、

嘘になってしまってはいけないので一応。

前回のブログで書いた、
和合さんの原作による劇団遊戯空間の公演、
私は29日の夜の部に伺おうと思っていたのですが、
なんでも和合さんは夜の部の開演後には、
仕事の都合で帰ってしまうそうなので、
昼の部に伺うことにしました。

ですので和合さんと直接お話してみたい方は、
28日の夜の部か(既に今日ですが)、29日の昼の部に行くのがお薦めです。
(詳細は前回のブログを見てください)
気さくな方ですので、話しかければ誰でも丁寧に応えてくれるはずです。
前回は詩集の即売会もありましたので、今回も恐らくあると思います。
サインもきっと快くしてくれますよ。
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Apr 26, 2006

ちょっくら宣伝。

と言っても私のことではないのですが・・・。

4月28日(金)~5月1日(月)まで、
詩人和合亮一さんの詩集「地球頭脳詩篇」を原作とした、劇団遊戯空間による舞台、
詩×劇「世界が脳になってしまったので少年は左に回らない」が行われます。
場所はJR四谷駅から徒歩約7分のところにある「コア石響」にて。
時間は午後2時からと午後7時からの一日二回公演(28日は午後7時からのみ)です。
チケットは3000円(日時指定・全席自由)
詳しくは遊戯空間ホームページ(http://y.fantasia.to/)にてご確認ください。
コア石響:新宿区若葉1-22-16、TEL03-3355-5554
開場は開演の30分前、定員は各回70名、
29日の昼の部のあとには、和合亮一×篠本賢一でのトークショーが開かれるそうです。
興味のある方は、是非足を運んでみてください。
ちなみに私は29日の夜の部にでも伺ってみようかなと思っています。
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Apr 25, 2006

最近、書く詩が長くなってきました。

以前は40行以下で収まっていたのが、
ここ数ヶ月は、60行でも収まらないものばかり。
行数もさることながら、一行の長さも長くなっています。
普通は10文字以下で連ねていくところが、
30文字ぐらいになることもあります。

別に詩は短くても長くても構わないと思いますが、
ものには振り幅というものがあって、
片方に寄ったあとは、もう片方にも寄らないと、
バランスがとれなくなるような気がします。
ということで、ここ数日はちょっと短い詩など書いています。

私は詩を書くとき、
初めに「こういう詩を書こう」ということを考えません。
何かの拍子にある印象を受けて、
それによって最初の1,2行がふと思いついたら、
あとはそのときの気分で気ままに言葉を書き連ねます。
すると書いていくうちに、
自分が普段感じていることや考えていることがぼろぼろと溢れてきて、
それがとても気持ちよく、夢中になることが出来ます。
このやり方でないと、私は自分の中身を外に出すことが出来ません。
喋ることがうまくなく、整った文章も書けない私は、
こうすることによって精神的な便秘を治しているのかもしれません。

根が飽きっぽいこともあって、一気に書くだけ書いてしまったら、
あとは放り出してしまいます。
そしてしばらく経ってから、結構時間をかけて推敲します。
私にとって推敲の目的とは、
自分が一気に吐き出したものが存在できるために、
一番いい形を探り出すことです。

同じように4,50行書き殴ったものでも、
それより長くしたほうがいい場合もあれば、ぐっと短くした方がいい場合もあります。
連を細かく分ける方が、意味合いがより明確になる場合もありますし、
全く連分けをしない方がいい場合もあります。
一番重要だと思っていた3行を削ったらいきなり完成した、ということもあります。
というように、気ままに吐き出した自分の部分部分によって、
存在するために最適な形は異なっているようです。
それを探し出す作業は、しんどくもあり、また楽しくもあります。

最近詩が長くなっていたのは、
長い形が最適なものを自然と吐き出していたのでしょう。
改めて完成済みの詩を眺めてみても、どうにも縮まりようがないものばかりです。
逆にここ数日書き殴った詩をいじくってみると、
大幅に削れて10行ほどのこじんまりとした形になったりしています。
本人が意識していないところで、
勝手に内側で振り幅を調節していたのでしょうか。
すこし不思議な気がします。
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Apr 21, 2006

雨は降るわ風は吹くわ午後から晴れるわで、

天気のごった煮のような一日でした。

そんな今日は小網恵子さんの詩集「浅い緑、深い緑」(水仁舎)について。
奥付をみると四月二十二日発行、出来立てほやほやをいただきました。

小網さんの描かれる世界は、日常の手触りがある文章であるのに、
夢の中を泳ぐような感覚があります。
いい夢でも悪い夢でもなく、しかし深い不安が立ち込めていて、
読んでいる方は、同じ感覚をどこかで味わったことがあるような気になり、
思わず目を見張ってしまいます。
日常にふと現れた破れ目から、するすると不条理な出来事や心理が連なっていく様子は、
わざとらしくも不自然でもなく、鮮やかに著述され、
するとありえない出来事でも、そういうこともあるだろうなあなんてぼんやり思いつつ、
歩調を変えずについていけてしまう、そんな不思議な魅力をもつリズムが、
小網さんの作品にはあります。

どの詩も、はっきりとした到達点を目指すものではありませんが、
しかし意味のない出来事の連なりにしか思えない夢にも、実は何らかの意味があるように、
全ての篇に押し隠された意味が実在することを感じます。
それは読み込んでいけば解けるというものではなく、
いつか何処かの瞬間に、あ、これか…、と気付くような感覚です。
このような作風ですから、当然フィクションの部分は多いのですが、
しかしだからといってそこに真実がないわけではありません。
フィクションを描くことによって、事実を描くよりも寧ろ真実に近づくことを、
人は随分昔からしてきているのですし、
小網さんの詩の中にも、フィクションはあっても嘘はないと思います。

私が小網さんの詩に惹かれる部分のひとつに、登場人物があります。
自分自身のほかに、他者が出てくる作品が幾つかあるのですが、
私はその人たちに顔を感じません。
印象としては、やはり夢の中で出会った人物、という気がするのですが、
しかし夢と違うのは、顔を感じなくても体臭を感じるということです。
体臭とはある意味、人間の存在を顔よりも強く感じさせるものだと思います。
それが巧みに描かれていることにより、作中のどんな不条理な出来事や行動も、
人間の所業として納得され、またそのまま現実の世界に目を向けても、
人間はどんな不条理もやってのけてしまうものであることを感じさせられます。

更にもうひとつ、小網さんの作品にはタイトル通り緑が多く登場します。
その緑は大自然の緑ではなく、人の生活のすぐ傍にある緑です。
不自然な形で人間の傍に連れてこられている緑であるにもかかわらず、
その緑はとてもとても深い色をしています。
その深さは、人間の目と心を通した深さ、
あるいは人間の内から流れ出し混ざり合って成された深さのように思えます。
この業のような緑色に敢然と立ち向かって生活する、それが作者にとって、
生きること、であるように感じます。
そして得られたものは、女性の強さにも似た生命の濃さです。
性別で詩を判断することを必要以上にするべきではないと思いますが、
やはりこの作品集は、男性には決して書けない生命の形だと思うのです。

先日の柿沼さんの詩集に続いて、素晴らしい詩集を読むことが出来ました。
水仁舎のホームページで出来上がる過程を見ながら、わくわくして待った詩集でしたが、
美しい装丁にふさわしい内容の作品集で、待った甲斐があったと言うものです。
さて、私も負けずに頑張らなくては・・・。
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Apr 18, 2006

昨日は恒例の合評会。

最近ゲストの方がいらっしゃったりして賑やかだった合評会ですが、
今回は比較的少人数でこじんまりと行われました。

作品を拝読していくと、
それぞれの方がそれぞれに自分の持っている方向性を推し進めようとされています。
完成度が非常に高まっているのを見ると同時に、
苦しんでいる様子が滲み出ているものもあり、
いまさらながら、みんな真剣に自分の詩と向き合っているのだなと思わされました。
その到達点として、作品集があると思います。
竹内敏喜さん、有働薫さん、高田昭子さん、宮越妙子さん、白井明大さん、小網恵子さん、
どの方も自分の世界をもっておられ、
すると一篇だけ読むのでは物足りないという感があります。
作品がまとまることで、一端ではない丸々ひとつの世界を、
塊として感じたいところです。
塊となって初めて見える「何か」もあると思うのです。
沢山の作品をまとめて、力を込めてぎゅうと絞って、たった一滴したたり落ちるもの、
それは表現者の一番奥底にあるもののような気がします。

上に、小網さんと書きましたが、
小網恵子さんの新しい詩集が出来上がり、頂くことが出来ました。
タイトルは「浅い緑、深い緑」。
小網さんの作品を、私は非常に好きです。
毎回、純粋な一読者として作品を拝読させていただいています。
読者とはわがままなもので、ですから意見交換のときに、
随分と無理なことを言ってしまうことがあります。
自分も詩を書く身ですから、難しいことを言っているということは、
重々承知なのですが、わがままな読者ですから、つい言ってしまいます。
今回も言ってしまいました…。
小網さんの詩集、実はまだ読んでいません。
好きな本は、中途半端な気持ちで読み始めてしまうのがもったいないのです。
他の事を頭から追い出し、静かな気持ちで扉を開き、
じっくりと正面から味わわないともったいない。
ですから感想は後日…。

二次会では、特に竹内さんと桐田さんとお話をしました。
この二人、上品とはいえませんが、心から詩を愛している人たちです。
私の書いた詩を真剣に読んで、遠慮なしに批判してくれます。
ほかにも詩に対する姿勢や、今の詩界の現状について、大いに語りました。
酔っ払いトークですが…。
しかしこの方たちと思い切り話せる時間があるということは、
なんとも幸福なことです。
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Apr 14, 2006

久しぶりに、

音楽の話など。

と言っても、最近は音楽を聴くことがめっきり少なくなり、
しかも聴くものといえばクラシックが主になってしまいました。

で、最近聴いているのはブルーノ・ワルター指揮による交響曲。
この人はフルトヴェングラーなどに並ぶ大指揮者で、
いまごろ聴いているのが恥ずかしいくらいに有名な人です。
ちなみに50年ぐらい前に亡くなっています。
私はどちらかと言うと、激しい演奏をする指揮者が好きなので、
ワルターのように美しく演奏をする人は、あまり聴く気になりませんでした。
それがひょっこりブラームスの交響曲第二番を聴いたところ素晴らしく、
以前から持っていたマーラーの九番を聴き直したところやはり素晴らしく、
それからレコードをまとめ買いしてきて、
「なんだ。こんなに良かったのか。こんなんならもっと早く」と反省しているところです。

まとめ買いといっても私の場合、中古品を買うのがほとんど、
しかも未だCDよりレコードを愛好するもので、
一枚数百円というものを何枚も買ってくるのですね。
場合によっては、5枚で千円なんてものもあり。
しかし日本のレコードマニアと言う人たちは、
買ってもすぐにカセットに録音して、そちらを聴いていたので、
中古のレコードでも、
実は幾らも針を落としていないというのがほとんどですから、
音が劣化して聴けたものではない、と言うことは皆無です。
貧乏人にはありがたいことです。

いや、しかし私は、
いまだにCDよりレコードの方が音がいいなあと思ってしまうものです。
確かにノイズはありますが、音自体の広がりとか奥行きとか生々しさとかが、
レコードの方がずっと優れているように思えます。
音にはっきりとした手触りがあるのですね。
感じとしては、歯応え、と言ったほうがしっくりくるかもしれません。
特に弦楽器の、あの弦と弦がこすれあう感触なんかが、とても気持ちいいのです。
CDではそれが滑らかに磨かれすぎているようで、
数値的にはいいのかもしれないけれど、味気なくてつまらないのですね。
それに中古なら安いし。

ワルターの録音は、50年代後半のものであるにもかかわらずステレオです。
この頃のレコード会社は、みな凄腕の録音技術者を抱えており、
音質は、今年録音されたものと言われても納得してしまうほどにいいです。
各楽器の響きは勿論、楽器が鳴っていない空間にも、
音の粉がふわふわきらきらしているのが見えるよう。
この快楽が一枚200円とは…。
つくづく時代遅れの人間にとってはいい時代です。

それと、これはCDですが、
ロシアのピアニスト、アナトリー・ヴェルデルニコフのベートーベンピアノソナタを
よく聴いています。
特に後期三大ピアノソナタと、29番のハンマークラヴィーアは素晴らしい。
思い切り魂がこもった演奏、情感が雨だれのように流れ出してきて、
この曲の演奏では一番好きです。
ハンマークラヴィーアのアダージョは、通常の演奏よりずっとゆっくりに演奏していて、
それがえもいわれぬ程切なくて美しいです。
ソビエト時代の録音と言うのは、大体において非常に音が悪いのですが、
この演奏はモノラルながら、なかなかちゃんと録れています。
それ以前に演奏内容がとてもいいので、音のことはあまり気になりません。
現在は、「ロシア・ピアニズム名盤選」というシリーズのひとつとして、
DENONから一枚1260円で出ています。
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Apr 11, 2006

なんかまた寒くなっちゃいましたね。

季節の変わり目と言うこともあってか、
私の周りにも体調を崩しているひとがちらほらいます。
どなたさまも気をつけて…。

谷内修三さんが、御自身のHP「象形文字」内の「読書日記」(4・7付け)に、
拙詩集についての文章を書いてくださいました。
この「読書日記」には他にも、詩集を中心とした膨大な書評が綴られています。
丁寧に作品を読み込み書かれているので、非常に参考になります。
未見の方は、是非一度御覧になってみてください。


PSPの合評会などで他の人の作品を読むとき、
なんらかの欠点が目に付いて、
そのことを発言してみるのですが、
あとになってつらつらと考えてみると、
その欠点は自分の欠点でもあるということがあります。
というか、ほとんど確実にそうなのです。

人間の目というものは自分勝手なもので、
外の世界を眺めていても、
自分に関係するものしか見えないものだと思います。
作品でなく人自体を見て「この人のこういうところやだなあ」なんて思っていて、
しかしよくよく考えてみると、自分もまったく同じ嫌な部分を持っている、
と言うことは多いと思います。
自分が持っている部分であり、それを嫌悪しているからこそ、
同じものを他人に見つけると気になってしまうものなのでしょう。
逆に、自分にその部分が全くなかったり、気にしていなかったりすると、
他人の明らかな欠点に接しても、全く気にならない、
もしくは気付きすらしなかったりします。

ですから、他の人の作品を読んで目に付いたところがあったら、
それは自分にも同じところがある、と言うことなのでしょう。
自分と違うスタイルの作品、
または自分が好きでないスタイルの作品を読み、
その問題点について考えることは、
同時に自分の作品の問題点を認識することにもなると思います。
自分の作品を客観的に見ることはなかなか難しいことですが、
そのひとつの方法として、他人の作品を真剣に読むというやり方は有効だと思います。
そういう意味では、PSP合評会のように、
自分と全く違うスタイルと正面から向かい合える場は、
私にとって貴重です。
いままでは読まなかったようなスタイルでも、
ある程度の時間を持って読むと、どこかに必ず発見があり、
それを見つけて吟味することは、そのまま自分のメリットになると思います。

ところで水仁舎のHPを見ると、
遂に小網恵子さんの詩集が出来上がったようですね。
写真入りで紹介されているのですが、
相変わらずというか、北見さんの本造りはため息ものです。
内容も間違いなくいいものになっていると思いますので、
早く手にとって見たいところです。
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Apr 08, 2006

前回の合評会のときに、

ルピュール同人の柿沼徹さんから、
御自身の詩集「浅い眠り」(水仁舎)をいただきました。
素晴らしくいい詩集で、もう何回となく読み返しています。

この詩集は2003年に出されたもので、
収録されたどの詩も、飾り気のない純粋な言葉のみで綴られており、
だから難解な言葉など一つもないのに、
そこから放射される抒情は無限のように心に広がっていく純度の高い作品群です。
読み進めるにつれ、ぐっと胸を詰らせられる感慨が、
まるで池に波紋が次々と現れるようにして広がり、
するともうほとんど癖になるようにして、
次の作品、次の作品へと読ませられてしまいます。

詩の主人公として出てくるのは少年と、
大人の中に残っている少年、
そして少年を見詰めている大人です。
少年の息子を持ったことはありませんが、
同じく少年だった経験を持つ自分としては、
それぞれの詩篇でかもし出される痛みや切なさが、
文字通り痛いぐらいに感じとられ、
脱力に近い余韻を残されます。

10行から20行ほどの短い作品が主なのですが、
そこには必要でない言葉はひとつもなく、しかし必要な言葉はすべてあり、
単語ひとつひとつ、あるいは文字ひとつひとつが非常に濃く、また強固で、
「これしかない」という輪郭にひとつの詩がまとまっており、
白い氷の結晶に触れる感すらあります。

是非お薦めしたいところなのですが、
残念ながら少数部数発行の詩集なので、
多くの人の手に渡ることは難しいと思います。
本当はこういう詩集こそ、町の本屋に並んでほしいと思うのですが。

詩を書き続けていくと、段々と表現することに欲が出てきて、
しぜん作品が長くなっていくようです。
私も最初の頃は20行未満の短いものも多く書いていましたが、
最近は60行程度のものがほとんどになっています。
自分としては、これ以上削れないというところまで推敲しているつもりですが、
しかし柿沼さんのシンプルで深い抒情を持つ詩に触れてみると、
自分の今の詩は、どうにも喋りたがってい過ぎるような気もします。
訊いてもいないのに、勝手にどんどん喋ってくる奴はうざいですね。
私の詩も、そんなようなものになってしまっているかもしれません。
自分では多くのことを語ったつもりでも、
柿沼さんの作品の十分の一も表せていなかったようです。

喋りすぎる状態から脱するには、
より言葉というものを信用しなくてはならないのでしょう。
言葉を、また自分自身をも信用していないから、
不安で仕方がなくて、際限なく言葉を連ねてしまうのでしょう。
自分の内面と対話し、
それと素直に響きあう言葉のみを選び出して並べていけば、
それで過不足なく詩は成立するのでしょうし、
そしてそれはきっと、そんなに長いものにはならないはずです。

なんて口で言うほど簡単にいけば、苦労はないのですが…。
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Apr 05, 2006

いい陽気になってきたにもかかわらず

詩の世界では「ぽえむ・ぱろうる」が閉店になるわ、
「ミッドナイト・プレス」は休刊になるわで、
残念なニュースが多いですね。

とはいうものの、詩手帖の投稿欄を見ると、
新しい人は順調に育っているようです。
行替えのない長い詩が主流であった今年の投稿欄は、
私のような者には読みにくいものも多かったのですが、
個人レベルではみなそれぞれに試行錯誤を繰り返し、
自分のスタイルを模索している様子が垣間見られます。
最近の投稿欄を否定的に見る方も多いようですが、
投稿されている方は二十歳前後の若い方が多いようで、
するとこれからの人ばかりですから、
まだまだ捨てたものではないと思います。

私は他人の作品をどうこう言えるほど読む力があるわけではありませんが、
個人的には山田亮太さんと広田修さんが面白いなあと思ってみていました。
山田さんは、毎月激しく作風を変えてきますが、基本的な筆力のある方で、
それぞれの作品は高いレベルにまで押し上げられています。
4月号の作品はリズムのある、読んでいて気持ちのいい作品でした。
広田さんはスタイルは毎回ほとんど変わりませんが、やはり筆力のある方で、
幻想的な世界が綿密にしっかり形作られています。
4月号の佳作には森悠紀さんの名前があり、
作品名を見ると、先々月にPSPで見せてくれたものと同一のようです。
森さんは、私が投稿していたころから、作品をよくお見かけしていましたから、
もう長く投稿されており、しかしそのスタイルはかなり変貌を遂げています。
そういうところをみていると、みなそれぞれに、
必死に何処かへ到達しようとしているのだなあと思います。
他にも、静かに白い言葉が流れていく望月悠さんや、
それとは対照的に激しく言葉を撒いていく最果タヒさんなどが注目でしょう。
詩手帖賞を取りそうなのは、ここらへんの方でしょうか。

こういう方たちが彷徨の末にどこかに辿りつき、
吸引力のある作風を身につけて世に出て行けば、
また詩の可能性も広がっていくのではないでしょうか。
長く停滞してきた現代詩の世界ですが、
そろそろ新しいムーブメントのようなものが起こってもいい気がします。
私自身の作風は寧ろ近代詩に近いものですので、
そんなムーブメントとは無縁となるでしょうが、
私もやはり自分の作風を絶えず模索し高めつつ、
若い人たちの動きを眺めて行きたいと思います。

しかし「ミッドナイト・プレス」などの詩誌が減ってしまえば、
新しい人の作品が、不特定多数の目に届き難くなりますし、
詩を専門に扱う本屋さんが減ってしまえば、普通の本屋さんは、
やはり確実に売り上げが見込めるベテランの詩集をまず置きたがるでしょうから、
新しい人の詩集は置かれにくくなってしまうでしょう。
ここらが一番悲しいところですね。

現在、詩人和合亮一さんが中心となる「ゼロネンダイプロジェクト」が、
水面下で緩やかに進行中ですが、この動きが新詩人の誕生に貢献できればと思います。
そのような状況を作ることは、現状を見ると大変に厳しいでしょうが、
ゼロプロのスタッフには若い人が多く、また行動的な人も多いので、
私なりに可能性を感じています。
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Apr 02, 2006

現代詩手帖4月号を購入。

今号は、急逝された茨木のり子さんの追悼特集。

茨木のり子さんの詩に私は「もの言う詩」という印象を持っていました。
読むと、真っ直ぐこちらにむかってものを言ってくるのです。

詩というと、内に向った言葉で書かれることが多く、
しかも外に向った詩の言葉は大抵疎まれるものであるのに、
茨木さんの詩の言葉は、容赦なくこちらに向ってものを言ってきます。
極めて個人的な感慨を言っているものも茨木さんの作品には多いですが、
それでもやはり言葉はこちらに向ってきます。
ときに辛らつなもの言いで「むっ」ともしますが、
すぐに「うーん」となってしまいます。

はっきりと読み手に向って言われる詩の言葉は、
大抵は恨み言になってしまったり、説教になってしまったりしますが、
そうなるのは恐らく言葉が自分勝手だからなのでしょう。
茨木さんの言葉は、辛らつであっても自分勝手ではなかったと思います。
だからすぐに「うーん」となってしまって、
次の言葉へと読み進まずにはいられないのでしょう。

不勉強なことに私は「倚りかからず」しか持っていないのですが、
どこかで未読の茨木さんの詩を見かけると、どうしても最後まで読んでしまいます。
考えてみるに、私は茨木さんの名前を見るたび、
無意識になにかものを言って欲しくなっていたのかもしれません。
そんな私のような弱い人、あるいは心に弱い部分を持つ人が求めずにいられなくて、
「倚りかからず」は売れたのではないでしょうか。
勿論本人は、そんな連中にものをいう気などさらさらなかったのでしょうが。
亡くなられたことはとても悲しい出来事ではありますが、
詩集八冊ぶんの鮮やかな「もの言い」を残してもらったことを、
いまは感謝すべきなのだと思います。

しかし詩手帖に追悼文を寄せられた人の中に「お会いしたことがなかった」
または「十数年もお会いしてなかった」という人がとても多いのは、
凡人の目にはなんだか胸を締め付けられることでした。
しかしそれが、茨木のり子という詩人だったのでしょう。
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Mar 30, 2006

一月に白井明大さんの詩を舞台化した

劇団夢現舎の公演「中庭の狂人」を観劇しました。
私が見たのは3月24日(日)の夜の部。

内容は、井伏鱒二が主人をつとめる質屋の中庭にて、
創作に行き詰ったために、その才能を質入れしてしまった作家たちが、
新たな創作へ向って入り乱れつつ奇怪な努力をするというものです。
出てくるのは芥川龍之介、太宰治、川端康成、与謝野晶子、宇野千代、
柳原白蓮、原阿佐緒、井伏鱒二、林芙美子、三島由紀夫、住井すゑという、
馴染みのある作家ばかり。

お世辞抜きに、素晴らしく面白い作品でした。
見る前は二時間という長さに不安も感じていたのですが、
始まってしまうと、間近で繰り広げられる俳優さんたちの演技に惹きつけられ、
またその設定やセリフの面白さ、次々に繰り出される短いストーリーに見入り、
あっという間に最後まで、退屈する隙もなく見せられてしまいました。

普段、演劇を見に行くことがない私にとっては、
生で見る俳優さんたちの演技は大変刺激的でした。
洗練された発声、動きの美しさと連続性、表情を含む全身を使った表現など、
映画などで見る演技とは異なる生々しい凄みと迫力をまざまざと見せ付けられ、
演劇と言うものの面白さを、この歳になって初めて気付かされた感じです。
貴重な、とてもいい経験でした。

白井さんの舞台の時にお見かけした顔も多くあり、
「ああ、あの人があの役を…」なんていう楽しみもありました。
それだけで勝手に親近感を持ってしまい、少しえこひいき気味に見てしまったかも。
(宇野千代さん、太宰治さん、原阿佐緒さん、住井すゑさん、柳原白蓮さん…)
舞台美術も、白井さんの時と同じ方が担当されており、
またあのときとは違った作風で、
不気味で奇怪な中庭の風景を見事に再現されていて、
作品の意図に合わせて的確に仕事をされる方だなと思いました。

台本も、演技表現の可能性を目一杯引き出した、素晴らしいものでした。
随所にちりばめられたユーモアには思わず笑わされましたし、
舞台が中庭に固定されているにもかかわらず、
少しも飽きさせることのないスピーディーな展開、
それぞれの場面のポイントの深さなど、見所が満載でした。
また流れるようなセリフのリズムとともに、
文学的な言葉が次から次へと飛び出す様子は快感でした。

作品のテーマは生と死、誕生と再生であったと思います。
質屋の中庭に囚われ、まるで死んでいるように生きる語り部たちが、新たに誕生すべく、
物語であったり、短歌であったり、古典であったりを激しく模索し、
しかし僅かな先には、否応なしにやってくる死がある。
再生への試みを繰り返すことが生きることであり、
それを極めることが即ち、死を受け入れることだという気がしました。
中庭に囚われた作家たちは虚構ですが、実際それぞれの作家たちにとっても、
書くことは、生まれてきてしまったことへのけじめであったのではないでしょうか。

たまに行った舞台でしたが、運良く大当たりでした。
いままで演劇に足を運ばなかったのは勿体なかったかと反省。
今後は演劇の方にもちらちら視線を送って行きたいと思います。
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Mar 27, 2006

先日、古本屋で購入した

八木忠栄著「詩人漂流ノート」(書肆山田)を読了。

これは現代詩手帖の編集長を勤められていた八木忠栄さんが、
新人編集者時代から思潮社を退社されるまでに出会った様々な詩人たちとの交流を、
愛情のこもった文章で書き綴り、「静岡新聞」に連載されたものです。

一章にひとりずつ、総勢54名の有名詩人たちのエピソードが語られていくのですが、
読み始めてみると異常に面白く、読み終えてしまうのが勿体無くて、
だからゆっくり読もうと思っていたのですが、一章読み終わって、
次の章の詩人の名前を見て、数行目を走らせると、
もうその章の最後まで読まずにいられないほどでした。

とにかく全編、詩と詩人に対する愛に溢れていて、読んでいて幸福な気分になります。
私は詩作品を味わうために、詩人個人のことを知る必要なないと考える者ですが、
どのエピソードに登場する詩人も、愛すべきキャラクターの持ち主で、
いやがおうにも、もっとこの詩人のことが知りたい、
この人の詩集を読んでみたいという気分にさせられます。

田村隆一さんのエピソードなど流石に最高ですし、
吉増剛造さんや清水哲男さん、天沢退二郎さんなどの大詩人が登場してきた時代を、
ほぼ同世代の詩を愛する青年の目、また新米編集者の目で見た様子はとても新鮮、
それに大岡信さんや吉岡実さんなどの先輩詩人に愛されながら仕事をする著者の様子も、
興味深いものがありました。
他にも詩人と編集者という間柄でなくては発生しないやりとり、
またそんなときに見える詩人の横顔など、
ああこんな風に長い付き合いというのは築かれていくのだなあと思わされます。

また詩集という書物が、いかに大切に丁寧に作られてきたかも垣間見られます。
妥協のない詩集に仕上げるために、発案から出版まで何年もかかってしまったり、
子供のようにアイデアを出し合う様子にも、やはり著者の詩に対する愛情を感じます。
更にひとつの章の最後には必ずその章で取り上げた詩人の詩が一篇、
全文が載せられており、一種のアンソロジーとしても読むことが出来ます。

奥付を見ると発行は20年前の1986年です。
最近といえばまあ最近なので、
詩に詳しい人ならとっくに読了済みという方も多いかとは思いましたが、
面白かったので紹介してみました。
文中何度も繰り返してしまったように、とにかく詩と詩人への愛情に触れられる一冊なので、
まだ読んだことのない方、入手することは少々困難かと思われますが、
どこかで見つけたら是非。
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Mar 24, 2006

私はカメラと言うものに、

不思議なほど興味がありません。
自分のカメラを持ったことはないですし、欲しいと思ったこともありません。
シャッターを押した記憶すら、殆どありません。
と言っても別にカメラが嫌いというわけではなく、
ただ、不思議なくらいに「写真を撮る」という行為に対して、興味がないのです。

にもかかわらず、写真を見るのは好きなんですね。
マニア、というわけではありませんが、荒木径惟や川内倫子、
植田正治やなんかはわざわ作品集を買ったりしますし、
岩合光昭の動物写真なんかも好きです。

「アサヒカメラ」と「日本カメラ」というカメラ雑誌がありますが、
私はあれを良く見ます。
と言っても、毎月買っていては散財なので、古本屋で一冊百円で売っている奴を、
時折3,4冊買ってきて眺めます。
巻頭には、有名な写真家の新作が並び、それはそれで興味深く見るのですが、
それよりも私が好きなのは、投稿欄という奴です。

カメラ雑誌の投稿欄には、実に様々なアマチュアカメラマンが作品が犇めき合っています。
カメラを始めてすぐの人から、恐らくプロを目指しているであろう人まで、
またスナップ写真から、思い切り演出を施したものまで、
色々な被写体や状況の写真を見ることが出来ます。
カメラ人口は膨大なので、素人といえどもかなりのクオリティを持ったものが多く、
それだけでもかなり楽しめるのですが、その中でも1,2ヶ月に一枚ぐらい、
奇跡的と思えるほど凄い写真に出くわすことがあります。
明らかに撮影者の実力を超えたもので、それはもう技術うんぬんというよりも、
写真の神様が舞い降りたような偶然によって傑作となっており、
思わず切り抜いて額に飾りたくなるほどです。
その衝撃を目当てに、私はカメラ雑誌を買うのですね。

カメラ素人の私がいうのもなんですが、
写真と言うのは、非常に偶然性の高い表現手段だと思います。
その日の天候、光の具合、撮影者と被写体の気分、予期せぬハプニングなど、
様々な偶然的要素が一枚の写真に色濃く反映されます。
私はその偶然性というところに、とても惹かれてしまうのです。
プロの撮った写真であっても、勿論偶然性はあると思いますが、
それはプロとしての経験と勘が、偶然を嗅ぎつけるのでしょう。
素人カメラマンには、そういうことはあまりないはずです。
だからこそそこに現れた偶然は、混じりけのない純粋な偶然で、
そういうものに出くわすと、なんだか奇跡に立ち会えたような気すらしてくるのです。

考えてみれば写真に限らず、私は偶然性にばかり惹かれてきた気がします。
音楽の一期一会性には強く惹かれていますし、文学や詩の場合も、
計算ではなく奇跡のように現れた言葉に惹かれます。
絵画や彫刻、映画などを見るときでも、私が求めているのは技術よりも、
偶然性であった気がします。
ある意味、最終的に作品を作品足らしめるのは、偶然性なのではと私は思っています。

以前にも書いたような気がしますが、写真と詩は、なんとなく似ている気がします。
似ている要素については様々なものがあると思いますが、
そのひとつに、偶然性があるのではないでしょうか。
もちろんまず技術は大いに必要でしょうが、
端から端まで計算づくだったり、僅かなブレもない作品では、
幾らよく出来ていても、やはり面白くありません。
たったひとつだけでも、作品の中に奇跡や偶然が起こったとき、
詩にしても写真にしても、作品として成る(歩が金に成るように)のではないでしょうか。

そういえば以前思潮社の編集の方に、現代詩手帖の投稿欄にはマニアがいる、
ということを聞いたことがあります。
詩を投稿するマニアではなく、投稿欄の作品を読むほうのマニアです。
変わった人がいるもんだなあと思ったものですが、
考えてみれば私も写真を撮ることには興味がないくせに、
投稿欄の素人の写真ばかり見て喜んでいるのですから、
相当変わっているのかもしれません。
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Mar 21, 2006

昨日は恒例の合評会の日。

今回はなんと岡山県から、斎藤恵子さんが参加してくださいました。
高見順賞の授賞式に出席するために先週末から上京され、
お帰りになる日曜日が丁度PSP合評会の日だったので、
参加していただくことが出来ました。

斎藤さんとは今回初めてお会いしたのですが、
とても活発で明るい方でいらっしゃいました。
高見順賞の授賞式を見るために、
わざわざ岡山から上京されるところからも、
その行動力の素晴らしさに恐れいるとともに、
本当に詩を愛しているのだなあと感じました。

今回、斎藤さんは作品も出してくださいました。
「零下の日」と題されたこの作品は、私の読んだところ、
雪の積もった日にバス停でバスを待つ女性の肩に手を伸ばしてくる、
幻想的で恐ろしい出来事と、その末路に垣間見える不確かな希望が描かれた作品でした。
斎藤さんは一昨年上梓された詩集「樹間」が中原中也賞の最終選考に残るなど、
大変高い評価を受けた方ですが、
その場所に安住することなく更に詩作の枠を深め広げようとされています。
今回出された「零下の日」も、
今までの斎藤さんの作品にはない魅力が更に加えられ、
しかも持ち味である独特な音感や不思議さ、水の感触などが更に磨かれ、
結晶していました。
更なる発展が非常に楽しみです。

今回の合評会では、季節がらか、春を題材にしたもの、
または作品のどこかに春を散らせたものが多く見られました。
そういうことをするのは、なんだかありきたりのように見えますが、
やはり日本の風土の中で生きて詩作している限り、
どうしても四季の節々の様子と物思いは密接であるようです。
平安時代の和歌の頃から現代に至るまで、また年齢の老若男女に関わらず、
このことは日本人の根底にあり、詩が現れる源になっていると思います。
ありきたりながらも、これが日本という地域で生きて詩作することの、
一番の利点ではないでしょうか。

そして柿沼徹さんからは、ご自身の詩集「浅い眠り」を頂きました。
内容は、実に最高。
にやにやしながら一気読み。
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Mar 18, 2006

暖かくなってきましたね。

スポーツのニュースを見ると、
WBCで日本が韓国に2連敗しちゃってます。
そうかと思うと、アメリカもメキシコに負けて、
日本がぎりぎり準決勝へ。
とは言っても、トリノオリンピックでも日本は不調でしたし、
今年の日本はスポーツ駄目な年なんでしょうか。
そういえば、夏にはサッカーのワールドカップもありますが…。

ネタがないので、詩手帖の特集「タイトル論」をパクッて、タイトルの話。
私はタイトルをつけるのが非常に苦手です。
詩を書くときには、タイトルはいつも最後の最後につけます。
それも何らかの形で人に見せるときにしかつけないので、
手元にある詩の殆どに、タイトルがついていません。

タイトルは、作品全体を鏡に映したものだと思います。
なんというか、作品全体と対になるものですね。
そのぐらいタイトルというものは重要で、
本当ならおろそかに出来ないものなのでしょうが、
私はどうも苦手です。
格好いいタイトルをつけたいとは思うのですが、
大抵は詩作品の中を眺め回してみて、
タイトルに出来そうな言葉を探してつけることが多いです。

タイトルのいい本は中身もいい、なんてことを言いますが、
必ずしもそうではない気がします。
すごく面白そうなタイトルがついていて思わず買ってみると、
意外とそうでもないものが多いですし、
中身がいいと思う本のタイトルを改めてみてみると、
意外と凡庸なタイトルがつけられていたりします。
勿論、タイトルも中身もバッチリというものもありますが、
それは寧ろ幸運な例であるように思います。

最近の新書はなかなか商売上手なタイトルが多いですね。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」とか「人は見た目が9割」とか
思わず知識欲を刺激されるタイトルがいっぱい。
しかしこれも、中身を見ると意外と普通であることが多いです。
…タイトルは著者以外の人がつけているのでしょうか。
また、よく小説なんかで、大げさすぎるタイトルを良く見かけます。
なんだか世界の根幹に関わるような凄いタイトルがついている小説を開いてみると、
なんのことはない、ただの内輪な恋愛話だったりします。
と書いてみて、自分の詩集のタイトルも、
なかなか大げさだったことを思い出して反省。

ジャンルを問わずに、私の好きな「タイトル」を挙げてみますと、
まず「叫ぶひと囁く」。
これは泉谷しげるのアルバムのタイトルですが、最強に格好いいですね。
勿論アルバムの内容もばっちりです。
小説家丸山健二のつけるタイトルも格好いいのが多いです。
「正午(まひる)なり」とか「虹よ、冒涜の虹よ」とか。
でもこの人の場合、タイトルがいいから中身もいいとは限らないようです。
波の激しい人ですから。
深沢七郎の「楢山節考」なんかも相当格好いいですね。
最後の「考」がなんとも利いてます。
これは内容も最高。
中原中也の「山羊の歌」なんかも、不気味に怖くていいですね。

他には町田町蔵のアルバム「腹ふり」、シオンの「夜しか泳げない」、
つげ義春の漫画「ねじ式」、夢野久作の小説「ドグラ・マグラ」、江戸川乱歩の「人間椅子」、
山田太一の「飛ぶ夢をしばらく見ない」、澁澤龍彦のエセー「少女コレクション序説」、
これは邦題ですが、マルキ・ド・サドの「ソドムの百二十日」、
ジャン・ジュネの「泥棒日記」などは、タイトルだけで思わず手が出たものでした。
これらはみんな中身も最高です。
しかし考えてみると、
諸手を挙げて讃えたくなるタイトルというのは、なかなかないようです。
やはりタイトル付けは難しいということでしょうか。

そういえば先日、
故手塚治虫さんの漫画「日本発狂」をタイトルに惹かれて買ってみたのですが、
中身は全然発狂していませんでした…。
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Mar 15, 2006

私はこのブログで

自分のことを「私」と書きます。
そして詩を書くときも、私は自分のことを「私」と書きます。

しかし私は普段、友人などと会話をするとき、
自分のことを「俺」と言うのです。
また独り言を言うときも「俺」です。
「・・・あれ、俺あれ何処やったっけ・・・」とか。
目上の人と話すときに「僕」と言うこともあったり、
また仕事や公的な場では自分のことを「私」と言いもしますが、
基本、個人的な私は「俺」です。

ならば詩を書くときも「俺」で書くべきところでしょうが、
私にはそれができません。
「俺」や「僕」は、口にするのは平気なのですが、
字面にすると、何故か非常に違和感を覚えてしまうのです。
これは飽くまで私個人が自分の詩に対して感じることですが、
字面にした「俺」「おれ」は、ちょっとハードすぎるような気がします。
また「僕」「ぼく」とすると、しゅっとした顔のお坊ちゃまっぽい気がします。
そこで「私」と書くと、なんだか違和感なくすんなりと書き進められます。

これはひとつは、「私」という文字が持っている没個性性が、
私の書くような詩には合っているということがあると思います。
「俺」や「僕」に比べて「私」は、
顔のない、実在するのか否かわからない雰囲気を持っています。
しかしこれが、詩を書く私には合っているのですね。
決して自分の個性を消そうとか、隠そうとかしているのではありません。
「俺」や「僕」で書くと、その表現自体に力がありすぎて、
自分を書こうとしても、逆にぼやけさせられてしまうのです。

それともうひとつ思うは、
恐らく私の中で「・・・なんで俺ばっか・・・」などと独り言を言っている「俺」な私と、
詩を書きつけている私は、別の私だということです。
その私が、「俺」でも「僕」でもない、強いて言うとするなら「私」なのです。
思えば子供の頃は、自分はひとつだけしかいなかったはずです。
成長するにつれて、自分を色々と使い分けるようになり、
そのひとつが、詩を書き始めたと言ったところでしょうか。

それに対して、私の中の「俺」は詩を書こうとしません。
「俺」にも勿論、苛立ちや嘆きや喜びは大いにあるのですが、
それを詩で表現することに、私は違和感を覚えるのです。
時折「俺」も、なにかしら書き殴ることがあるのですが、
私の目から見ると、それは「詩」という形で表現すべきものではありません。
だからこの先もし、それを表に出すことが仮にあったとしても、
詩という形以外で出すことになるはずです。

すると私が詩の朗読をしないのは、
「私」が書いた詩を「俺」は読むことが出来ないからでしょう。
自分が持っている朗読に対しての拒絶感を考えると、
「私」と「俺」は自分の中でも全く別の場所にいるようです。
なんというか、感じとしては、
「俺」より「私」の方が、より深い場所にいる気がします。
そして「私」は、日の当たる場所までは決して出てくることが出来ません。
だからこそ、「詩」というまどろっこしい形でなければ、自分を表現できないのです。
それを朗読するのだとしたら、もう「俺」に任せるしかないのですが、
「俺」にその役目は引き受けるつもりはありません。

朗読をされる方は恐らく、詩を書く自分と普段の自分が同じか、
または非常に近い場所にいるのではないでしょうか。
恐らくその方が詩人としては普通のことなのでしょうし、
客観的に見ても魅力のある詩人に見えるはずです。
しかし私は今のところ、そうはなれそうにありません。
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Mar 12, 2006

今日は行きつけの古本屋、

町田の高原書店に行ってきました。

ここはでかいです。
古本屋なのに地上4階建て。
各階には小さな会議室程度の部屋が5、6部屋あり、
その全てが古書に埋め尽くされています。
扱う本も幅広く、文系、理系、芸術系他、なんでもありという感じ。

といっても私が主に見るのは、芸術系、サブカル系、文学系、そして詩ですね。
詩のコーナーもかなり充実していて、
恐らく今ではなかなか手に入らないであろう詩集がたくさんあります。
現代詩文庫も、都心の大きな本屋まで行かないとないようなのが揃っており、
また現代詩手帖やユリイカなどの詩誌も、
かなり古いものまでが良心的な値段で大量に置いてあって重宝します。
ここは私のリファレンスのような場所ですね。
田舎者にとっては、こういうところがあることは幸福なことです。

今日は八木忠栄さんの「詩人漂流ノート」(書肆山田)を買ってみました。
そんなに古くはない本ですが、様々な詩人さんのことが読みやすい文章で書かれていて、
面白そうだったので購入。
1260円也。
こういうのはじっくりと、時間をかけて読みたいです。

他には普通の本屋さんで、詩の森文庫「吉岡実散文抄」も購入。
吉岡実さんは散文を書くのが苦手だったそうですが、
喫茶店でぱらぱら見た感じでは、やはりちょっと不器用な文章ですね。
詩があれだけアクロバティックなのに、散文になるとこんなに実直な書き方になるとは、
人間とはやはり何処かでバランスを保とうとするものなのでしょうか。

ついでに、なんだか急に無性に読みたくなった「ゲゲゲの鬼太郎」も購入…。
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Mar 09, 2006

最近は新書ブームだそうで…。

私も少々新書づいてます。
本屋に平積みされている新刊のキャッチコピーを見ると、
どれももの凄く面白そうに見えます。
それで思わず衝動買いすると、意外とそうでもないことが多い…。
何しろ最近の新書は、タイトルとキャッチコピーで100万部、みたいなところが
ありますから、ちゃんと中身を見てから買ったほうがいいですね。

最近読んだ新書で面白かったのは、これは少し古いものですが、
中野雄著「丸山眞男 音楽の対話」(文春新書)です。
政治学者丸山眞男とのクラシック音楽についての対話を、
丸山に師事した中野雄氏が様々なエピソードを交えて聞き取り書きしたものです。

私は丸山眞男について全く知識がないのですが、
この本を読む限り、丸山はかなりクラシック音楽に傾倒しており、
そのレベルは趣味の域を遥かに超えていたようです。
この本にはワーグナーやフルトヴェングラーについて、
たくさんの興味深い考察思索が書かれていて全編面白いのですが、
私が気になったのは「執拗低音(バッソ・オスティナート)」というものです。

この音楽用語は、例えば変奏曲などにおいて、様々に高音部のメロディーが変化する中で、
ずっと同じテーマを執拗に繰り返す低音部のことです。
高音部の変化は常にこの低音部を軸に展開され、
だから幾ら極端に変奏しても、低音部の主題に基づくことによって、
ひとつの音楽としてまとまるのです。
ジャズやロックのポピュラー音楽でも、ベースの存在は地味でありながら、
とても重要です。

高音部のメロディーは派手なので、嫌でも耳につきますが、
低音部は地味であるため、曲によっては聴き取ることすら困難です。
しかし優れた曲、優れた演奏では、聴こえなくとも聞き手のうちに入ってきて、
高音部のメロディーの意味を成立させる重要な存在です。
また高音部のメロディーを聴き取ることによって、
自然と低音部の主題を感じ取れる作品が、いい作品と言えるのではないでしょうか。

丸山はこれを日本の政治思想史に当てはめ、
日本独特の「執拗低音」に基づく形で日本の歴史はあり、
外国から入ってきたものが、どのような形で日本に馴染んでいくかを見ると、
日本の持つ「執拗低音」が見えてきて、それを見極めることが、
日本の歴史を思想的に捉えることに役立つ、というようなことを語っています。

丸山は政治学者ですから、
自分の専門分野に「執拗低音」という概念をあてはめましたが、
私は「政治学者」でなく、ただの「詩を書いたりなんかもするひと」なので、
やはり詩にあてはめてしまいます。

詩というものについても、やはりその根底に流れるものがなくては、
幾ら巧みに書かれていても散漫な印象を与え、
読み手の内にまで伝わらないのではないかと思います。
また、幾ら脈絡なく変化するように見える詩でも、「執拗低音」がちゃんと響いていれば、
その詩は表現として形を成すのではないでしょうか。
この場合の「執拗低音」とは、その詩人自身の根底に流れるものだと思います。
すると作品を作品足らしめるのは、「執拗低音」があるか否かであるかもしれません。

しかし自分の作品を眺めてみても、そこに「執拗低音」なるものがあるのかどうか、
ようわからんのですね。
それがあるようにと意識して詩を書いているわけでないですし、
なんらかの手法によって低音を打ち出すことも、実は不可能なようです。
書き手の内側から滲み出る形でないと、「執拗低音」は響きださないようです。
小手先だけの技術では、詩は詩として成立しないという結論に達しましたが、
私はまだまだ修行が足らんようです。
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Mar 06, 2006

もう春でしょうか。

花粉症の季節でしょうか。
私は今のところ花粉症にはなっていませんが、
あれは突然なるらしいので、毎年戦々恐々です。
私のまわりにも花粉症の人は多いので、
その人たちの苦しむ姿をみると…。

これといって書くことがないので困りました。
そうそう、現代詩文庫の「山本太郎詩集」を古本屋で購入。
この人の言葉は格好いいですね。
最初から読んでも途中から読んでも、
そのあまりの格好いい言葉に、するすると読み進められ、
詩を読む快楽がストレートに感じられます。
やっぱ私も男の子なもんで、
どうしたって格好いいのが好きなんですね。

別の古本屋では詩誌「ガニメデvol33」を購入。
噂には聞いてましたが、手にするのは初めてです。
普通の本屋さんで売っているところを見た事がないもんで。
まず、その分厚さにびっくり。
そして巻頭のT・Sエリオットの「聖灰水曜日」や、
ニコライ・コーノノフの「針葉の軍勢」などのボリュームにびっくり。
さらに執筆陣の多さ豪華さにびっくり。
あんまりびっくりして、まだあんまり読めていません。

ここ一年ほどで、少ないながらも詩人の方にお会いする機会が増え、
詩誌を頂くことが多くなりました。
近いところでは「たまたま」「あんど」「母衣」「ポエームTAMA」「鐘桜」
「ドックマン・スープ」「現代詩図鑑」「紙子」など頂きました。
すこしずつ詩誌を読む楽しみもわかり始めてきたところです。
以前ここにも書きましたが、私は著者名を隠して詩誌を読むのです。
すると先入観なく純粋に詩の言葉と対峙でき、
なんだか宝探しをしているみたいで面白いです。
最近では「母衣5号」の中の「朝倉」を読んでいいと思い、
あとで著者名を見てみると久谷雉さんの作でした。
読んでいたときには久谷さんとは気付きませんでしたが、
やっぱり地力のあるひとは、なにを書いても違いますね。

今日はこの辺で失礼…。
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Mar 03, 2006

現代詩手帖3月号を購入。

今年もはや2ヶ月が過ぎたというわけですね。

とりあえず詩作品をざっと読んでみると、
季節柄か雪を扱ったものが多いですね。
新連載の田中清光さんの詩も雪がモチーフです。
雪に覆われた世界を、人類世界に重ねて眺めながら、とつとつと歩いていく感じ、
社会性が垣間見えるのに美しさを保っている、とてもいい詩です。
私が惹かれたのは、オヤールス・ヴァーツィエティスという、
ラトヴィアの詩人の作品「リーガの吹雪」
ちょっと滑稽で、同時に染みる作品です。
篠原資明さんの短詩も楽しくていいですね。

入沢康夫さんの連載「偽記憶」を私は面白く読んでいるのですが、
これは以前からの入沢さんのファンの方はどのように読んでいるのでしょうか。
この連載の詩は散文的で難解さがなく、野暮な言い方をすれば、
「ものすごく大人の星新一」といった趣があって単純に楽しめるのですが、
物足りなさを感じる人も多いのかもなんて思います。

多和田葉子さんの詩は、
軽い言葉の響きを千切って並べて、人間の暗い欲情を描いているようです。
多和田葉子さんに関しては、10年ぐらい前に初めて読んだ
「光とゼラチンのライプチッヒ」という短篇がとても面白く、
その後、芥川賞を取った「犬婿入り」を始め、本が出るたびに読んでいました。
私はなんとジャンル分けしていいのかわからないような小説が好きで、
そんな好みに多和田さんの小説世界はぴったりあっていました。
「ゴットハルト鉄道」とか、面白かったですね。

最近単行本になって高見順賞をとった伊藤比呂美さんの「河原荒草」は、
多和田さんの小説世界に通ずるものがあって、手帖の連載時は面白く読みました。
個人的な好みですが、できれば「河原荒草」は詩ではなくて、
小説と銘打って出して欲しかったなあなんて思います。
そのほうが、反発が大きくてよかったんじゃないでしょうか。

詩誌月評には「ルピュール2号」から有働薫さんの詩が引用紹介されています。
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Feb 28, 2006

トリノオリンピックが

終わったらしいですね…。
金メダルを一個取ったそうですね…。
結局、一競技も見なかったのでよくわかりませんが。
最近はテレビというものを、殆ど見なくなってしまいまして、
選手の名前を聞いてもさっぱりです。

随分前にこのブログで、
「楽譜とは詩であり、演奏者は読み手もしくは朗読者だ」
というようなことを書いたことありました。
そしてつい最近、いつも見ているホームページにて、私のよく知っている人が、
「詩とは、楽譜ではなく、指揮者ではないか。楽譜は、読者の胸のうちにあり、
その読者の楽譜を指揮し、音楽をかき鳴らす、という意味において」
というようなことを仰られたと書かれていました。

なるほど面白いなあ、と思いました。
つまり読み手の中にある楽譜を、詩という指揮者が演奏するということだ、
と私は解釈しました。
その発言をされた方(Tさんとします)に私は大変お世話になっているのですが、
詩に対する考え方の違いが「楽譜か指揮者か」ということに、
如実に表れていると思います。
(といっても、喧嘩するとかそういうことじゃありませんよ、念のため)

Tさんは恐らく、詩人と読み手は密接に関わるべきだと考えているのだと思います。
一方私の場合は、詩人と読み手は一切の関係がなくていいと思っています。
誰かが私の書いた詩を読んでくれるとき、そこには詩と読み手だけが存在して、
小川三郎という書き手は存在しなくていいと思っているのです。
これは拙詩集のあとがきに書いたことですが、
「この詩集を読んでくれた人が、(私の思いもしなかった)その人だけにしか出来ない
解釈を生み出してくれたなら、私はとても嬉しい」のです。
ですからそこに、小川三郎なんて詩人はいなくていいのです。

確かに私にも詩によって伝えたいと思うことはありますし、
伝わればいいと強く思ってもいますが、
それを本当に理解してくれる人は、ごく稀であると思います。
理解してくれたなら本当に嬉しいですが、理解してくれなくとも、
そこに何かしらを感じてくれれば、それで充分嬉しいのです。
もちろんそれだけでも、恐ろしく困難なことではありますが。

私が、読み手に詩を渡すときびすを返し、
「あとはよろしく」と言って、とっとと去ってしまうのに対して、
Tさんはそれよりかは、密接に読み手に関わろうとしているようです。
読み手が内に持つ楽譜を指揮して、音楽をかき鳴らそうというのですから。
Tさんは逆に詩を読むときも、詩人に密接に関わろうとします。
ですから私よりずっと詩と詩人を信じているのだと思いますし、
しぜん、読み手に対しての愛も強まるのだと思います。

私には、読み手の心の中にある楽譜を読むことは出来ません。
だから自分なりに一生懸命詩を完成させ、
それによって読んでくれる人それぞれの心の何処かに引っかかればと
願っているのです。
誰かの楽譜を読んでそれを演奏しようとしたら、
それはごく一部の人にしか響かないものになるような気がします。
しかし言い換えればそれは、ごく一部の人には深く響くものなのかもしれません。
するとTさんは一途で、私は八方美人でしょうか。
あ、なんとなくこの嫌な表現は、人間的に見ても当たっているような気が…。
考えてみればTさんは一途な人です。
それに引き換え…
うーん、八方美人って、結局最後は嫌われるんですよねー。

「人か言葉か」の選択があったとき、
私は言葉を取り、Tさんは人を取るのかもしれません。
どちらがいいかはわかりませんし、
そもそも決める必要はないと思います。
それぞれの姿勢で詩を書いていけばいいと思います。
どちらにしても、困難な道であるには違いありません。
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Feb 25, 2006

2月16日付のブログで、

「宮沢賢治の詩が直筆原稿で読める本ってあるのでしょうか」
と書いたところ、
それを見た桐田真輔さんが、
「イヴへの頌」(詩学者)という大判の本を貸してくださいました。
内容は、堀口大学から長田弘まで総勢75人もの詩人の、
肉筆原稿によるアンソロジーです。
ひとり一篇ずつとは言え、
多くの詩人の肉筆に接することができるとても興味深い、読み応えのある本です。
ここのところ家に帰るたび読み返しているのですが、全く飽きません。

当然のことながら筆跡は十人十色、ミミズののたくったような字もあれば、
デザイン的な字もあり、また読めないぐらい達筆な人がいれば、
小さくて細い繊細な字の人もいて、色々な筆跡を眺めているだけでも、
時間を忘れてしまいます。
私の好きな黒田喜夫や岡本潤の肉筆が読めたのは嬉しかった。
金子光晴の字はあまりの乱雑さにちょっと読めませんね。
やっぱりな、という気はしますが。
草野心平の字はものすごくぶれていて、これは屋外で書いたのでしょうか。
鮎川信夫はちっちゃくて丸っこい女性的な字。
秋谷豊さんは角ばったデザイン的な字で、額に入れて飾ったらきっといい感じです。
磯村英樹さんはペン習字のお手本のような、整然とした字です。
吉増剛造さんは、彫刻刀で彫りつけたような格好いい字。
他のどの詩人も、味のあるいい字を持たれています。

言葉が人間から外へ出るとき、ひとつは口調として現れ、
ひとつは文字として現われます。
口調がその人の性格を強く表しているように、
やはり書き文字も、その人のことを強く表すのでしょう。
そして人は自分の口調を聞きながら思考し、
また書き文字を見ながら思考するのでしょうから、
やはり肉筆には、その人の詩の所以の一部があるのではないでしょうか。
ならば生身の詩人を感じるには、下手な研究書なんかより、
こうして肉筆の文字で詩を読むほうがいいように思います。
こういう本が、もっと手軽に手に入るようになるといいですね。

今回この本の中で気になったのは、磯村英樹さんと鈴木喜緑さん。
二人とも、知らなかった詩人でした。
磯村英樹さんは、オキアンコウのオスとメスが登場する物語的な詩作品で、
ちょっと井伏鱒二の「山椒魚」を思わせる、とても面白い作品でした。
鈴木喜緑さんは、死のうとした母へ向けた詩で、やさしい言葉と文字ながら、
人の残酷さを鋭く突きつけてくる詩です。
今後著作を探してみようかと思います。

それと、ふらんす堂ホームページ「詩のリレー」のバトンが、手塚敦史さんから、
先日の合評会でご一緒した森悠紀さんに手渡されています。
「一語もないまま、あいている(ハコ)」を取ったようですね。
手塚さんの詩にあったしっとりと濡れた空気を受け継ぎながら、
さらに浮遊感の強い作品になっています。
是非、一読を。
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Feb 22, 2006

前日に引き続き、

19日の日曜日は、月イチ恒例のPSP合評会。

今回はゲストが多数参加で、熱気に溢れた会となりました。
まずは白井明大さんのお友達で、遠く京都から遊びに来たついでに参加してくださった、
高橋正英さん、森悠紀さん、大谷良太さんのお三人方。
なんと全員京都大学!しかもなかなかの男前揃いです。
合コンなんかではさぞかしぶいぶい言わせてるんだろうなあ、なんて邪推。
しかしみんな真面目な方のようでした。
そして久谷雉さんが中心となる同人誌「母衣」の同人で、
前回の現代詩手帖賞受賞者の永澤康太さん。
私は去年クロコダイルで行われた朗読会でお姿を一方的に拝見はしていましたが、
お会いするのは今回が初めてです。
もうひとり、作品は出されませんでしたが、会の途中から詩人のあなたひとみさんが、
参加されました。
それに加え、前回は二次会から参加してくれた小橋みきさんが合評会から参加、
残念ながら福士環さんが欠席されましたが、
他のレギュラーメンバーは勢ぞろいし、
いつもは7,8人である合評会がなんと総勢17名参加となりました。

高橋さん、森さん、大谷さん、永澤さんは、
慣れない場所であろうにもかかわらず、活発に意見を述べてくださり、
合評は熱のこもったものになりました。
いつもは私も、少ないながらも意見を述べさせてもらうのですが、
今回は人数が多い上、一回限りのゲストの方が参加ということで、
聞き役にまわりおとなしくしていました。
ということで、ゲストの方々の作品を中心に感想など。

森悠紀さんの作品は、氷のぶつかりあう音のような言葉が、
風の中を舞う光景の中を歩いていくような印象を持つ、うつくしいものでした。
難解である、冗長であるとの意見が多かったのですが、
ひとつの意味に集約していくことを目的とはしていない作品であるようで、
言葉は、響きによる印象、字面による印象によって、
ある世界を構築する可能性を持っていることを示唆していました。
ただそれを成功させるのには、ただならぬ技量と感性が必要であるようです。
森さんには、難解である、冗長であるという意見を誰にも言わせないぐらいに
この世界を完成させて欲しいです。

高橋正英さんの作品に私は、田中一村の絵を思いました。
人のこない海辺の木々、蟲たちや花々が、一日一年一生を絡み合って、
ひそかな音と共に生まれ消えていく、そんな光景が感じられ、
実際に肌をその世界に浸しているような気持ちのよい作品です。
言葉の運び、行がえから生まれるリズム、ひらがなの用い方からは涼しい風を感じられ、
私は今回の合評会で最も好きな作品でした。
高橋さんの作品は、現代詩フォーラムで読めますので、是非ご覧になってください。

永澤康太さんからは、別々の内容の詩の断片が描かれた小さな色紙が各自に配られました。
全員に違った詩がいきわたっているので、
ひとつの詩としての評は成り立ちませんでしたが、
創作というものの根本的な発生を問うものとして重要でした。
全て手書きで書かれており、脳髄からペン先に流れる瞬間的な思考がそのままに、
字の大きさ、太さ、色に反映されて現出しています。
しかし恐らく永澤さんにとってこのスタイルは通過点に過ぎず、
壮大な作品の完成へまだ踏み出したばかりであり、その初期段階に触れた感じです。
あるいはひとりの詩人が出来上がる過程を見ているのかも。
そこに目を凝らしてみると、詩を書くものとして得るものがありそうです。

もうひとりの大谷良太さんは、作品は出されなかったのですが、
つい最近詩学社から詩集「薄明行」を上梓されています。
2月21日付けの城戸朱理さんのブログにも写真入りで紹介されており、
恐らく今年あちこちで話題になるであろう詩集です。

今回初めて出された小橋みきさんの作品は、
これは私見なのですが、生きている瞬間瞬間に嫌悪を感じて、
生きた瞬間にぱっと捨て去り、すぐ次の瞬間に移行してまた捨て去り、
そうして成り立っていく日常の速度を、言葉の流れで表現した作品だと感じられました。
作品中、他人が読んでいる漫画雑誌や携帯の待ちうけ画面などに、
自分の顔を見つけて驚き逃げていく、という場面があるのですが、
自分と関係のないものを、いちいち自分と繋げてしまって焦燥するという感覚は、
わかるような気がしました。
よくある垂れ流しではないかという意見もありましたが、
私には、音楽で言えば楽譜の枠の中に必要な音が必要なぶんだけ並んでいる、
といった整然に見え、これも好きな作品でした。

レギュラーメンバーの中で特に良かったのは、手塚敦史さんの作品でした。
一行一行読み進めていくごとに、こちらの頭の中にイメージが作られていって、
最終行にそれが完成するような、まるで絵描きの作業を肩越しに眺めているような作品です。
これは私が勝手に見えたもので、作者が意図したものと全然違うかもしれませんが、
春から夏にかけての爽やかな季候の頃に、無人の教室の窓が開いていて、
カーテンが風に揺れている、といった絵が私には浮かんで見えました。

合評会が終わると、いつものように二次会。
ゲストの方々のおかげで平均年齢がぐっと若返り、更に久谷雉さんも加わって、
大盛り上がりとなりました。
特に大谷さんは弾けられて、みんなに幸福を振りまいていました。
森悠紀さんと永澤康太さんは、詩手帖の投稿欄に私と同時期に投稿していたこともあり、
私の名前を知っていてくれたのですが、小川三郎という古風な名前のためか、
「60歳ぐらいの人だと思っていた」といわれてしまいショック…。
そういう人って多いのでしょうか。
やっぱり顔写真出しとくんだったかな。
一応、三十代半ばということで、そんなに若くはないですが、そこんとこよろしく。
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Feb 20, 2006

更新が滞りました。

・・・というのも先週の土、日は詩関連の集まりが連続であり、
両日とも午前様となっていたのでした。

まず土曜日は、詩人和合亮一さんの主催する「ゼロネンダイプロジェクト」の懇親会。
午後一時半、東京駅にスタッフ16、7名があつまり、それから居酒屋に移動して気勢をあげました。
メンバーは和合さんを始め、主要メンバーである片野晃司さん、いとうさん、
沼谷香澄さん、及川俊哉さん、森川雅美さん、遠く福岡から松本秀文さん、
他にも岸田将幸さん、杉本真維子さん、
現代詩手帖新人投稿欄で活躍されている橘上さん、山田亮太さんなど。
2時から打ち合わせも兼ねつつ飲み始め、
大体8時過ぎまで大盛り上がりで会は続きました。

私はフリーペーパー「カ☆ピバラ」の編集として参加させてもらっています。
といっても編集の経験など全くないので、
当面は同じくカ☆ピバラ編集の竹内俊喜さんに、
おんぶに抱っこでお勉強といった状態です。
しかしその竹内さんですが、日本酒を飲んでいきなり暴走、
あまり大きな迷惑はかけていないとは思いますが、
次の日、本人に聞いたところ、当日のことは殆ど覚えていないようですので、
もしゼロプロの方でこのブログを見られている方が居られましたら、
そこのところよろしく。

会が終わってから、森川雅美さん、劇団遊戯空間文藝部の荒井純さん、
そして松本秀文さんと一緒に新宿に飲みに行きました。
お店は森川さん行きつけの、雑居ビルの中の小さな飲み屋さん。
なんでも往年の詩人の方が多く通っていた店だそうで、
店内には長谷川龍生さんなどの書がかかっていたりして、
いかにもの雰囲気のお店でした。

荒井さんに拙詩集を差し上げると、早速目を通していただいて感激。
森川雅美さんには既にお送りしていたのですが、
恐らく山のように詩集が送られてくるであろうにも関わらず、
私のものにもちゃんと目を通していて下さっていて、
「いい詩集だ」とお褒めの言葉も下さいました。
さらに私の詩を「食われるものの詩だ」という指摘を頂き、
なるほど鋭いなあと恐れ入りました。
松本秀文さんもしきりに「良かった」と言ってくださってまた恐縮。

しかし無知な私に比べて、他のお三人方の知識の広さ深さは膨大で、
新旧様々な詩人の作品や人柄に対しての話を次から次へとなさっていて、
私はほとんど聞いているだけながらも、いろいろ勉強させてもらいました。
十時半ごろにお店を出て、私は帰路の関係上その場でお暇しましたが、
あとの三人はさらにもう一軒行かれたようです。

そして次の日は、月イチ恒例のPSP合評会。
これはまた次回に書きます。
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Feb 16, 2006

最近、詩誌などの読み方を少し変えてみました。

それは著者名のところを手で隠して、
誰が書いた詩なのかわからないようにして読むことです。
するとあら不思議、
いままでちょっと読みづらいなあと思っていた詩誌や同人誌が、
結構するすると、満遍なく読めてしまうのです。
有名な人のものでも、そうでない人のものでも、関係なく一律に読んでいくので、
あとでまとめて名前を見たときに、「あ、これはこの人の詩だったのか」とか、
「全然注目してない人のだったけど、結構いいんだなあ」とか、感動が増えます。

私は集中力を著しく欠いた性格です。
周囲がうるさかったり何かが動いていたりすると、
それだけで本など読めなくなってしまいます。
だから電車の中や喫茶店では本を読めませんし、
自室で読むときにも、耳栓をしていなければ作品世界に入っていけません。
ちなみに今も耳栓をして、これを書いています。
そういう繊細な(?)私ですが、
しかし著者名だけでこんなに集中力を奪われていたとは、
ほとほと駄目な性格ですね。

しかし性格のことを外においても、詩作品の周りには出来るだけ、
先入観が生じるようなものはないほうがいいのではないでしょうか。
小説やノンフィクションなど、ある程度の長さを持つものであれば、
読み始めてしばらくすると著者のことなど忘れてしまうからいいのですが、
詩はどうしても作品のすぐ傍に著者名がありますから、
「これは○○という人が書いた詩だ」ということが頭の片隅に残ってしまいます。
その人の別の作品を前に読んでいたり、高名な人であったり、
あるいは聞いたこともない名前だったりすると、先入観がより強くはたらいて、
作品そのものに対峙する気持ちが濁ってしまうのではないでしょうか。
人間が出来ている人なら、そんなことは関係なく読めるのでしょうが、
心の脆弱な私は、出来れば著者名は入れないで、
何処か最後の方のページにまとめて入れておいてくれればいいのになあ、
などと自分勝手なことを考えたりしています。

そういえば詩の読み方についてもうひとつ。
これは上で言ったことに反してしまうかもしれないのですが、
詩という文学は、活字というものがそぐわないのではないかと思います。
その人の手書きの文字で読むのが自然ではないかと。
読むたびにそう思わされるのが宮沢賢治の詩です。
私が持っている白鳳社の「宮沢賢治詩集」の巻頭には、
「永訣の朝」の直筆原稿の写真が載っていますが、
凄く下手だけど味のある字で、この字でこの詩を読むと、本当に心が震えさせられます。
しかし本文の中にある同じ詩を活字で読んでも、同じ感動は得られません。
賢治のああいう詩が出来上がっていった要因のひとつには、
あの字だからこそということもあるのではないでしょうか。
特に賢治の手書きの文字が持っているリズムと、活字の持っているリズムとでは、
かなりズレがあるように思います。
賢治の読みづらい他の詩も、賢治の直筆で書かれていることを想像しながら読むと、
すんなりと心に入ってきます。
行に段をつけたり、括弧をつけたりするのも、自然に受け入れられます。
…宮沢賢治の詩が直筆原稿で読める本ってあるのでしょうか。
あと、吉増剛造さんの詩も、手書きの文字で読めたら格好いいのになあと思います。
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Feb 13, 2006

今日は一瞬だけ、

雪が降りました。
気がつくと、オリンピックなど始まってますね。

一応人並みに文学や絵画、音楽、映画などに接してきて、
そのうちの幾つかには没頭して来ましたが、
私がそれらに求めていたものは、常に抒情だったと思います。

幾ら世間で素晴らしいと称されているものでも、
抒情を感じられないものは好きになれませんでした。
逆に難解だとかハードとか、あるいはゴミと称されるものでも、
私が抒情を感じられたら、好きになり没頭してきました。

例えば音楽で言えば、パンクロックなどにも私は抒情をとても感じます。
あと、いま思いついたところでは、前衛いけばなの中川幸夫さんの作品は、
挑戦的かつ難解であるにも関わらず、抒情を感じられてとても好きです。

よって私が詩を書く上で、ひとつだけ条件をおくとしたら、
それはそこに抒情があるかどうかということです。
最近はぼちぼちと色々なスタイルの詩を試していたりしますが、
やはり私の軸になるものは抒情のようです。
どんなスタイルのものを書くにしろ、
これだけぶれさせなければ、
自分が自分でいられるのだと思います。

しかしもちろん抒情性は出そうと思って出せるものではなく、
自然に滲み出たものでないと偽ものであり、
だからとても難しく時間がかかるのですが。
どうやら目の前に壁が、
あるいは分かれ道があるようです。
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Feb 09, 2006

今日はかなり暖かかったですね。

さて、特にネタがないので、また漫画の話を…。

大人になってから、漫画を読む機会は激減しましたが、
それでもよく読んでいたのは松本大洋さんの漫画でした。
「ピンポン」や「青い春」は、
人気俳優を主役において映画にもなりましたね。

以前にも書きましたが、私が多感な時期を過ごしたのは神奈川県の藤沢市、
湘南海岸のすぐ近くです。
そして松本大洋さんも恐らく同じであるようで、
この人の漫画には、この近辺の実在の場所が多く登場します。
しかも大体20年ほど前の風景であり、
私も良く遊んだ場所がそのまま出てきます。
それだけで嬉しくなってしまいますね。
「花男」の舞台なんてまさにそのもの!
漫画なのでかなりデフォルメされていますが、
私はあの風景の中で育ちました。
だからどうだということもないですが、
もしも読む機会があったら「へえ」と思ってください。

…これでは漫画ばかり読んでいる人みたいですね。
普通の本も読んでますよ。
ぼちぼちですけど。
最近読んだ本を並べてみましょう。
「物乞う仏陀」石井光太
「葬られた夏」諸永祐司
「響きと怒り」佐野眞一
「吉本隆明「食」を語る」
「ララピポ」奥田英朗
「八つ墓村は実在する」蜂巣敦
…まあ、あんまり難しい本は読んでいないですね。
大体がノンフィクションですが、
これは最近小説に飽きているから。

上記した奥田英朗さんのは面白いですけどね。
エンターテイメント系の小説家さんですけど、
「最悪」「邪魔」は読み応え充分、
「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」(直木賞)は、
現在も単発で雑誌に発表されている「ドクター伊良部シリーズ」の続きもので、
かなり笑えます。
あれ、やっぱり漫画に近いかな。
うーん…。
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Feb 06, 2006

昨日はこの冬二度目の雪でした。

関東地方ではですけど。
前も土曜日でしたね、降ったのは。
なんだか週末になると天気が悪くなるような気がします。

前回は手塚治虫さんについてちょっと書きましたが、
今回もちょっと引きずってみます。

手塚治虫と言えば、やっぱり「鉄腕アトム」でしょうが、
最近、アトムの中の1エピソードである「地上最大のロボット」を、
「YAWARA!」などで有名な浦沢直樹さんが
タイトルを「プルートウ」と改めてリメイクしています。
ビッグコミックオリジナルに連載され、単行本は現在2巻まで出ており、
なんと累計200万部突破だそうな。
大ヒットしてたんですね。
漫画雑誌から遠ざかって久しいので、全然知りませんでした。

私が小学校高学年の頃、
祖父母の家にアトムのこの巻がおいてありました。
孫が遊びに来た時に退屈しないよう漫画の一冊でも置いておこうか、
ぐらいに考えて恐らく祖母が適当に買っておいてくれたのでしょう。
しかし偶然とはいえ、そのたった一冊がこの恐ろしいエピソードの巻とは。
祖母たちはこんな重い話の巻だとは思ってもいなかったのでしょう。
知っていて買ったのだとしたら、ちょっと怖いですが。
とにかく私は遊びに行くたび繰り返し読んだので、
この話はよく覚えているのです。

私が小学生の頃(70年代後半ごろ)には、
アトムはもうすっかり時代遅れな上、
小さい子が読む漫画と思われていましたから、
少なくとも高学年にもなって読んでいたら笑われるような位置のものでした。
私もそう思っていて、だから祖母に漫画を差し出されたときも、
「アトムかよ、餓鬼じゃあるまいし」
などと罰当たりなことを思っていたのですが、
読んでみるとのめり込みました。
怖いし切ないし。
人種差別、死、恨み、傲慢…うーん。
私はアトムというと、よくある笑顔のアトムより、
うつむいたり、泣きながら懇願したりの表情を思い浮かべてしまうのですが、
これが原因でしょう。
この巻を読んだおかげで手塚治虫の作品に対する抵抗がなくなり、
ブラックジャック、ブッダ、火の鳥などの手塚作品を読むようになりました。
だから「地上最大のロボット」は、手塚作品への入り口であり、
私にとってのアトムそのものです。

昔話はこのくらいにして、リメイク版について。
オリジナルは1エピソードに過ぎないのですが、「プルートウ」は長篇にしてあるぶん、
詳細部分はかなり作りこまれていて、じっくりとストーリーを味わうことが出来ます。
「ノース2号の巻」なんて泣けますよ・・・。
面白いのはアトムやウランちゃん、お茶の水博士などのおなじみのキャラクターが、
オリジナルにこだわらず、全く違う外見で登場することです。
アトムの頭には角がないし、お茶の水博士の鼻はそれほど大きくありません。
旧アトム世代には、もうこれだけで幻滅かもしれませんが、
しかしこれが意外と違和感も嫌悪感もなく、
オリジナルを知っていても、新鮮な気持ちで読めるのです。
それぞれのキャラクターが初めて登場する場面など、
にや、としてしまいます。
あとがきを読むと、
これは手塚治虫さんのご子息である手塚眞さんの意向であるそう。
正解ではないでしょうか。

恐らく灰皿町の皆さんにはアトム世代の方も多いのではないかと思います。
いい歳して漫画なんて、などとといわず、
久しぶりに手にとって見てはいかがでしょうか。
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Feb 03, 2006

あっというまに、

2006年も一ヶ月が過ぎてしまいました。
まだなんにもしてないのに…。
歳をとるごとに時間が立つのが早くなります。

ふらんす堂さんのホームページで、
「詩のリレー」という企画が始まってますね。
7人の詩人さんが次々と詩をアップしていくのですが、
詩の本歌どり、ということで、
前の人の何処か一行を必ず取り入れて詩を作らなければいけないそう。
そして一発目の詩を手塚敦史さんが書いています。
とても流れの気持ちよい詩で、いろいろな語句をちりばめた作品ですから、
次の人は結構とりやすいのでは。
しかし聞いたところによると、前の人の詩が掲載されたあと、
次の人は、二週間で詩をアップしなければいけないということで、
制約があるなかで書くのは大変だと思います。
私は一ヶ月かかって一つ書けるかどうかなので、
いやいや、恐れ入ります。

最近自分の詩にマンネリを感じ始めて、困っています。
ひとつ書いて、そのときはいいのですが、
しばらくしてから読み返すと、
前にも似たようなの書いた気がするなあなんて、
するとつまんなくなって、推敲する気になれません。
スタイルを少し変えてみることも考えるのですが、
無理に変えたスタイルは、他人の仮面をつけているようで、
やっぱりすぐにつまらなくなってしまうのですね。
悶々とした夜を送っております。

書きたいテーマは幾つかあるのですが、
それをどうやって表現すれば一番いいのか、
詩でいいのか、詩だとしたらどんな形でやればいいのか。
昔、漫画家の故手塚治虫さんがテレビのインタビューで、
「ああ、本当に僕は絵が描けない。アイデアは売るほどあるんだ。
でも僕にはそれを漫画にする画力がないんだ。
どうして僕はこんなに絵が描けないんだろうなあ…」
と、顔はいつもの笑顔ながらも、非常に辛そうに語っていたのを思い出します。
あの天才にして、この苦悩…。
私がぽこぽこと躓くのは当然のことなんでしょう。
ま、気長に書いてりゃ、そのうちいいのも書けるでしょ。
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Jan 30, 2006

現代詩手帖2月号を購入。

特集のひとつは「日欧現代詩フェスティバルin東京」
それに伴って欧州の詩人の作品が多数載せられています。
そのうちジャック・ダラス氏とジャン・ポルタント氏の二人の訳を、
有働薫さんが手掛けられています。
取り上げられたどの詩人も、
普段はなかなか作品を見ることが出来ない方ではないでしょうか。
日本語しかわからない私のような者には、
こういう企画は結構嬉しいです。
有働さんは表紙にもお名前が出てますね。

久谷雉さんはいつもの映画評のほかに、
「「詩」を保証するもの」というエセーを書かれています。
現代における、詩とその書き手の距離の変容についてなど、
やさしい言葉で鋭いことを書かれていて、必読です。

詩誌月評には海埜今日子さん参加の「hotel 第2章」、
PSPの竹内敏喜さん参加の「紙子」が登場。
「hotel 第2章」からは「鳥窓」が、そして「紙子」からは竹内さんの「白日」が
全篇引用されています。
竹内さんと話したところ、「いや、短いから載せてくれたんでしょう」
なんて笑ってましたが、私はとてもいい作品だと思います。
最終行の「花は失せた、闇がめくれた、しみついた」なんて、ぐっと来ます。

先週末は、同人誌「ル・ピュール」をお世話になった方々にお送りしました。
早速メールにて届いたことをお知らせ頂いた方々、どうも有難うございました。
1号の時は送る人がいなくて寂しかったのですが、
今回はたくさん送る人がいて楽しい作業でした。
しかし梱包するたびに、
「送られたら迷惑に思うだろうか」
と一抹の不安を感じずにはいられない自分がいます。
送りつけられた方、私のは後回しにして、
他の同人の方の作品を読んでみてください。
特に2号はいい作品が揃っていると思いますので。
それから私がお送りした方の中で、
「もう別の人からも貰ったよ」と言う方がもし居られましたら、
良さそうなお友達に分けてあげてください。

年末に思潮社さんの営業の方にお願いしていたこともあって、
先週あたりから、地元の大型書店、Y堂とK書店に、
拙詩集を置いてもらっています。
特にY堂は驚きの10冊平積み!
…いや、そんなに置いていただいても売れないと思うのですがね。
なんだか申し訳ない気分。
一冊ぐらい売れたのだろうか?
はたまた一冊たりとも売れていないのか?
二度ほど様子を覗いてみましたが、後者の可能性が大のようです。
まあ、置いてもらえただけでもこの上ない幸せ。
その後のことは、考えないことにしましょう。
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Jan 27, 2006

先週の土曜日、

関東地方には雪が降りましたが、
その日、私は高円寺へ行きました。
灰皿町の住民でもある白井明大さんの詩の朗読舞台
「ナマエハナンデモイイ」を見に行ったのです。

白井さんは一昨年、詩集「心を縫う」を上梓した詩人さんです。
「心を縫う」は、生活を共有する男女の、
ふとした意識の接点が描かれた作品集で、
私も時折無性に読み返したくなる一冊です。
その世界は繊細で、耳をじっと澄まさなければ聴こえない音、
目をじっと注いでいなければ見えてこないものなどを、
白い糸でそっとその形をなぞるように写し取っています。

会場はビルの地下にありました。
恐らく10メートル四方ほどの部屋の手前に客席、
奥には白く塗られた小さめの舞台があり、
そこに机と、二脚の椅子だけが配され、
机の上には白い食器が置かれていました。
この清潔な舞台の様子は、
白井さんの詩が持つ世界にぴったりです。

ここで「心を縫う」の収録作を中心に、
白い衣装で統一した6人の俳優さんが、
それぞれやわらかく詩を演じられました。
詩を言う形態は様々で、
あるときは男女が向かい合って詩を発しあい、
あるときは椅子に座って朗読する女性の言葉に、
別の男女がゆっくりと共鳴して動き、
またひとりで客席に向って詩の言葉を発したりといった具合です。

演じられた詩の多くを私は既に活字で読んでおり、
あ、これはあの詩だな、と嬉しくなるのですが、
しかし紙の上の言葉を追うのとはまた違ったリアルさで、
それらの言葉は聴こえてきました。
俳優さんの動きと発声は非常に洗練されており、
所謂リーディングのそれとは一線を画すものでした。
さらに詩の内容を明確に理解された上で演技されますので、
演じられる内容の節々から、
こちらの内側にまで詩の「声が聴こえて」きます。
言葉が「聴こえる」というのは、気持ちのいいことなのだなあと、
改めて気付かされました。

そこで聴こえていた言葉は、雑多な日常の表面にいては聞こえてこない、
しかし生活する人たちの一つ向こうに隠れているような言葉です。
だから恐らく見覚えがあり、
こちらの内側の何処かの場所にすんなり収まる感覚で、
それがまた気持ちいいのでした。

紙に書かれた詩の言葉であっても、
声質は持っていると思います。
ですので詩の言葉を実際に声に出して表現する場合、
詩の言葉が持っている声質に忠実に発声しないと、
詩の言葉はかえって聴こえなくなってしまうと思います。

年末に見た和合亮一さんの詩の舞台では、
和合さんの詩の言葉には強い声が適していると思いましたが、
白井さんの詩の言葉には、
ちいさくぽつぽつと言われる声が適していると思います。
詩の言葉の声質は、十人十色違うのでしょう。
その点では、今回の小さな舞台で、
それほど大きな声を使わないで行われた演技は、
とてもうまくいっていたと思います。

舞台の後半は、実作者の白井さんが舞台に現れ、
始めは立って、ついで椅子に座って詩を朗読されました。
私は今回、白井さんの朗読に初めて接したのですが、
白井さん自身の声も朴訥としたいい声で、
その世界を聞き手に受け渡すのにぴったりでした。
私が感じ入ったのは「シーソー」という詩。
この詩は「心を縫う」に収録されている作品です。

男性の心のつぶやきでこの詩は進んでいくのですが、
時折、共に生活する女性の実際的な声が入ります。
その声は、明るかったり落ち込んでいたりのニュアンスを持った声で、
詩集では、行中に大きく段差をつけることによって、
そのニュアンスが表現されているのですが、
朗読では、女優さんがその声の担当をします。
劇団で活動されている俳優さんなので、
たった一言の声のニュアンスを、とてもうまく表現され、
ああこの言葉はこういう声だったのだなと、
またその声を聴いていた言葉は、こういう声だったのだなと、
胸がすくような気分にさせてもらいました。
と同時に、
活字で声のニュアンスを表現することがいかに難しいかを、
再認識させられもしました。

言葉と声から煙のように世界が立ち上って客席へと届いていく、
とてもいい舞台でした。
白井さんは今年、沢山のことを考えておられるようで、
どのような活躍が見られるのか非常に楽しみ、
既存の詩の可能性の枠を、
ぐんと押し広げてくれそうな予感が私はしているのです。
「ル・ピュール」2号に掲載された作品もその兆候を見せており、
今回の舞台は、助走の最終段階を見るようでした。
期待してますぜ、白井さん。
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Jan 24, 2006

関東地方の大雪も、

一日でほぼ溶けてしまいましたが、
あちこちの街角に残された雪だるまは、
まだもうちょっと頑張るようです。

昨日(22日)は、今年最初のPSPクラブの合評会の日。
いつもながらハイレベルな作品が寄せられました。
特に高田昭子さんの作品は素晴らしく、
もうなにも言うことがなくて困ってしまうほどのものでした。
高田さんは完全にご自分の世界を構築されていて、
読み手としてはなんの疑いもなくその世界に入って行け、
眺めを楽しむことが出来ます。
評するよりも、すっかり読者になってしまうのです。

そしてこの合評会から生まれた同人誌「ル・ピュール」の2号が遂に完成、
水仁舎の北見さんより各同人へと配られました。
今号は前号より執筆者が増え、
様々な世代の総勢10名が作品を競っています。
頁数も前号の27頁から39頁に増えて、読み応え充分。
作品の質もさらに上がっています。
灰皿町の方では、有働薫さん、高田昭子さん、白井明大さんが参加されています。
ちなみに表紙のデザインは、
水仁舎のホームページ「本造りの水仁舎」の、
1月23日付ブログで見ることが出来ます。

二次会からは久谷雉さんと手塚敦史さんが合流。
これまたいつも通り、
約6時間に渡って詩談議に華を咲かせました。
そして今回は久谷さんが新しい仲間、小橋みきさんを連れてきてくれました。
小橋さんはミッドナイトプレスの「詩の教室」から出た新人の方で、
今出ているミッドナイトプレス30号にも、小詩集が組まれています。
まだ19歳(!)とのこと。
にもかかわらず、すれた大人たちの遠慮のない言葉の応酬にも、
姿勢よく笑顔で対応していた姿が印象的でした。
PSPクラブに新しい風を吹かせてくれそうです。
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Jan 21, 2006

朝起きてみたら、

雪ですわ。
関東地方は、この冬初めての雪ですね。
しかも結構積もってたりして、
灰皿町のトップページと同じ景色になりました。
びっくりしたので、
珍しく昼間にブログを書いています。
昔は朝起きて雪だとはしゃいだもんですが、
いまは窓の外の一面の銀世界をみて、
マジかよ…と嫌な顔をしている自分がいます。
今日は都内までお出かけの予定なんですがね、
なんでこういう日に限って雪なんですかね。
それにウチは、駅まで20分も歩かなければならないのです。
バスもこんな日はあてにならないし。
駅に着くまでに、靴がぐしょぐしょになってしまう…。
それより、転ばなければいいのですが、
たしか靴の底が磨り減っていたような。
しかし日本海側の方々に言わせれば、
こんな雪は雪のうちに入らないのでしょう。
天気予報によると今日いっぱいで止むようですし。
せっかくなので、
今日は全身で雪を満喫してくることにします。
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Jan 17, 2006

先日、古本屋で、

「芸術新潮2000年12月号」を買ったんですが、
この号の特集は「世紀の遺書」でした。
秀吉や千利休から、藤村操、太宰、芥川、永山則夫、澁澤龍彦、手塚治虫、
2・26事件青年将校、日航機事故犠牲者、特攻隊員など、
他にも多くの遺書や絶筆の写真が掲載されており、
不謹慎ながら、どれもそれぞれに美しさを放っています。

遺書と詩は、
なんだか非常に似通ったもののような気がします。
特に陸上選手の円谷幸吉の遺書などは、
同時に詩であるとも言い切ってしまえそうな、美しいものです。
私はこの遺書を学生の時に漫画で読んで、
その文章の美しさに心打たれたました。
この遺書の言葉やリズムに、
今の私の言葉は、幾らかの影響を受けていると思います。
「お前が一番凄いと思う詩は?」と問われたら、
この遺書を挙げるかもしれません。

田村隆一が死の直前に書いた文字は、
ジョン・ダンの「死よ、おごる勿れ」という言葉でしたが、
これは、田村の全詩の終止符として、
その仕事と繋がったものであると思います。
しかし田村は、最後の言葉が他者の言葉だったとは、
なんだか不思議なような、なるほどわかるような。

詩の言葉とは遺書と同様に、
死と繋がった言葉を指すのかもしれません。
だから詩人は、死にそうな振りをしながら書いているのでしょうか。
もちろん詩を書いたからと言って、
死んでしまうわけではないですが、
私は随分長い遺書を書いているような気がします。
今どこらへんを書いているのか見当もつきませんが、
まがりなりにも書き始めてしまったからには、
この先何処かに、何らかの形で絶筆があることは間違いなく、
最後は田村のように書ければ格好いいですね。
まあ私の場合は、ぐだぐだになって仕舞いでしょうが。

死の直前とは、
当然特別な精神状態にあるのですから、
そこから出てくる言葉は、
曇りなくその人の全てを表す言葉です。
詩人はそのような言葉を生み出そうとするのでしょうが、
この本の中の、凄まじい文字の数々を眺めていると、
そこに本当の死がなければ、どうやったところで、
結局は紛い物に過ぎなくも感じられます。
あるいは詩は、
遺書の言葉に到達する手段なのでしょうか。
言葉を学ぶということは、
遺書の書き順を学ぶことである気もします。

年明け間もないのに、縁起でもない話題でした。
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Jan 14, 2006

うちのあたりは、

久しぶりに本格的な雨です。
今年に入って初めてかな。

私は、詩を書くのに詩を読まないタイプの人間で、
しかしあまり不勉強なのもいけないと思い、
最近は、努めて有名な詩人さんの作品を読むようにしていますが、
そんな中でぼんやり思うのは、
詩には答えが必要なのだろうか、
と言うことです。

私はなにかものを書くとき、
一応その塊の中に、行き着くところ、
つまりある種の答えを求めようとするのですが、
色々な詩を読んでいると、
特に答えを求めていない作品に多く出会います。
殆ど状況描写のみであったり、短い感覚や疑問の羅列だったり、
話の途中で放り出されていたり、
細かく見ていくと優れているようなのですが、
行き着く場所がないために、
私には、全体の形がいびつに見えてしまいます。

この場合の、答え、行き着く場所とは、別に高尚な意味ではなく、
はっきりと言葉になっていなくてもいいのですが、
私はその作品に何かしらの答えが感じられなかったとき、
つまらないと思ってしまうようです。
もちろん私の読解力が劣っているために、
答えが読み取れていないことも多いのでしょうが。

しかし答えが感じられなかったとき、
考えてみれば、詩に答えなんか必要なのだろうか、
との疑問が浮かんできます。
別に答えなんかなくても、
放り出したままだっていいのではないか。
寧ろ無理に答えに結び付けようとする方が、
不自然なのかもしれない。

しかし私は、それではどうもしっくり来ないのですね。
自分で書いているときにも、たとえ前半が会心の出来であっても、
後半を含めた全体の収まりがうまくつかないと、つまらなくなって放り出してしまいます。
自分で書いていてつまらないのに、
他人が読んで面白いわけがないと。
私にとってひとつの詩が完成するのは、
何かしらの答えが感じられたときであるようです。
繰り返しになりますが、
この場合の「答え」とは、高尚な意味での「答え」ではありません。
なんとなく雰囲気的な、全体を環として閉じるものです。

しかしそう思う反面、
それは自分を変に縛っていることではないのか
という疑問も首をもたげます。
本当は答えなんてないのに、
答えがあるように振舞っているだけではないのか、
なんていう疑問にも、またなにかしらの答えを求めていたりして、
性なんでしょうね、こういうのは。
結局は、感情だけで行動できない臆病者なだけかもしれません。
と、まとまらない答えを偽造したところで、
今日はこの辺で。
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Jan 11, 2006

風邪をひくにはひきましたが、

特に熱が上がるでもなく、
ただ喉が痛いという程度におさまり、
日常生活にはなんら支障をきたすことなく、
年始の日々を過ごしております。

ちょっと報告が遅れましたが、
ネットポエトリーマガジン「リタ」の最新号に、
桐田真輔さんが「人形詩逍遙」という、
人形を題材にとった古今東西の詩に焦点をあてたエセーを書かれているのですが、
その中で私の「糸」という詩を取り上げてくださいました。
考えてみれば、これがネットで全文が読める私の唯一の作品なんですね。
だからどうだということもないですが。

このエセーでは、人形を題材にした沢山の詩を読むことが出来ます。
もちろん、それについての桐田さんの考察も歯切れよく冴え渡って、
長文であるにも関わらずぐんぐん読ませられてしまいます。
未読の方は是非どうぞ。
桐田真輔さんのトップページの一番下から行けます。

そして、今出ている「詩の雑誌midnightpress」30(2005年冬号)に、
私が参加している詩の合評会PSPクラブの発起人、
竹内敏喜さんの小詩集が組まれており、
「徳利」「原色」「嬉々」の三作品を読むことができます。
三つとも私は以前に読む機会に恵まれており、
特に「徳利」と「嬉々」は、とても面白くていい作品だと思いますので、
是非読んでみてください。

私の方も、ぼつぼつと詩を書いております。
私の信条はジジ臭く「継続は力なり」というものですから、
とにかくゆっくりでも絶えず書き続けていれば、
そのうち一個ぐらいいいのが出来るだろう、
つまり「下手な鉄砲、数撃ちゃあたる」という感じで、
止まらず走らず書いています。

しかし、ブログをネットサーフィンしたり、
最近頂いたりするようになった同人誌など見ていると、
皆さん精力的に書かれていますね。
殆ど「量産」と言っていいぐらいの方もおられて、
のんきな私は、恐れ入るやら焦るやらです。

年末年始も、休みの間は結構書いていたんですが、
あとで見直してみると、箸にも棒にもかからぬものばかり。
中には詩を書いていたつもりが、
いつの間にかショートショートみたいになっちゃったりして、
仕方がないから、そのままショートショートにしちゃったりして、
どちらにしても人様に見せられるようなものではなく、
こりゃ、お蔵入りですな

それでもたまに「うまくいった」と自分なりに思えるものが出来たりすると、
俺もなかなか捨てたもんじゃないな、
なんていい気分になったりして、
しかしそれを人に見せると、
あんまりいい反応が返ってこなかったり…
うまくいきませんね。

そういえば、
私の今回の詩集に「四季」という作品が収録されているのですが、
実はこの詩、
当初は入れるつもりではありませんでした。
初校が戻ってきて、
作品の順番を入れ替えたりなどしているときに、
なんか詩集の真ん中らへんが窮屈に思えたので、
力の抜けるような場所が欲しいなと、
言わばバランス合わせのようにして入れた作品だったのですが、
意外にも「いい」と言って下さる方が多くいらっしゃいました。

この作品、
自分としては気に入っていたのですが、
あまりにも平坦でシンプルなため、
人に見せて反応があるものではないだろうと外していたのです。
嬉しい誤算というのでしょうか。
やはり書いた本人が見るのと、他の人の見るのとでは違うようですね。
そんなわけで、もしまた詩集を作ることが出来るとしたら、
作品を客観的に見てくれるプロデューサーみたいな人がいてもいいかな、
なんて思います。
Posted at 01:04 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Jan 08, 2006

去年は一度も

展覧会というものに行かなかったことに気付きました。
一昨年は幾つか行った気がするのですが。

私は展覧会で絵を見るとき、
その横にある解説文のようなものを読みません。
あれを読むと余計な先入観が出来てしまって、
絵を純粋に見られなくなってしまうのです。

絵描きさんは、
解説文と一緒に見てもらうようには絵を書いていないはずです。
絵描きである限り、
絵だけで伝えるべき全てを表現しているはずですから、
その絵が完成しているのであれば、
付け足すものなど何もないはずです。
だから一切の説明なしにその絵と対峙するのが、
私は正しい鑑賞法だと思うのです。

そして私は一枚の絵を見るごとに、
その絵から自分なりに何かしらの言葉や感情、
また物語のようなものを引き出さないと、
気がすまないたちなのです。
ですから一枚の絵を鑑賞し切るまでにかなりの時間を要し、
展覧会を全て見終わる頃には、へとへとになってしまいます。
最近展覧会から足が遠のいているのは、
体力的な所為もあるかもしれません。
二十代の頃は展覧会のはしごもしていたのですが、
最近はその気にもなりませんね。

そういえば、前は一年に一度か二度は必ず行っていた「川崎市岡本太郎美術館」にも、
去年一昨年と行っていませんでした。
あそこに行くと、なにか自分の中で澱んでいたものが、
全部洗い流されるような気がします。
素人とはいえ、表現などというものをしていると、
いっちょ前に行き詰まりのようなものが出てくるのですが、
そんなものも太郎の絵は、ひょいとリセットしてくれるのです。

岡本太郎の絵については、多くの見方があると思いますが、
私は単純に美しいと思います。
この言い方を太郎は絶対に拒否すると思いますが、
いつもそう感じてしまうのだから仕方ありません。
太郎の絵は無造作に描かれているようで、
しかし実はものすごい技術の上に成り立った無造作であることは明白です。
鮮烈な黄の一線を描き出すために、画面全体にその色を際立たせる色が、
天才的に組み合わされて広がっていたり、
描き出された物体の質感も、寧ろ現実よりも生々しい、
本質的な姿で画面に浮遊していたりします。
それを、見るものに「上手い」という印象を与えず突きつけられるところが、
まずは太郎の凄いところでしょう。
太郎は「下手でいいんだ」と言いますが、
それは完全に血となり肉となった技術と勘を持つ者だけが、
口に出来る言葉ではないでしょうか。

と、そんな面倒臭いこととは関係なく、
太郎の絵は見る者にパワーを与えてくれます。
改めて見回してみれば、
そういう絵は世界的に見てもそうはないのではないでしょうか。
などと書いているうちに、またあのどでかい画面で、
太郎の絵が見たくなってきました。
やはりあの絵は、実物でないと意味がありません。

「川崎市岡本太郎美術館」は、
小田急線の「向ヶ丘遊園」駅下車徒歩約20分、
生田緑地公園内にあります。
まだ行ったことのない方は是非どうぞ。
癒されるのではなく、息を吹き返させられますよ。
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Jan 06, 2006

新年二発め

ということで、
意気込んで書こうと思ったのですが、
なんだかうっすらと風邪をひいているようで、
ぼうっとしています。
寝込むほどではないのですが、
なんだか喉がいがいがするし、
熱も少しあるのかな。
それでも新年二発めだし、
何か書こうとしてはみたのですが、
文章がまったくまとまらずに諦めました。
この次はちゃんとしますから、今夜はご勘弁を。
みなさん風邪には気をつけてくださいねー。
Posted at 01:25 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Jan 03, 2006

新年明けましておめでとうございます。

ちょっと遅かったか。

元旦は一日ぐうたら。
今日二日(すでに昨日)は、都心に出て大きな本屋など回ってきました。
目的は自分の詩集が置いてあるのを見に行くため。
まだ置いてあるうちに見ておかねばなりません。
自分の書いた本が本屋に並んでいるなんて、
もうこの先一生ないかもしれないんだから。

新宿紀伊国屋本店と、池袋「ぽえむ・ぱろうる」では、
嬉しいことに平積みにして頂いていました。
新宿紀伊国屋南館と池袋ジュンク堂では、
一冊だけちょこんと本棚に収まっていました。
並みいる詩人さんの詩集に囲まれながらも、
健気に頑張っているわが息子の姿に涙。
いい人に貰われていくことを祈るばかりです。

「ぽえむ・ぱろうる」には初めて行きましたが、流石に品が揃っていますね。
静かな店内には、いかにもといった容姿のお客さんがじっと本棚を見詰め、
詩の聖域というにふさわしい雰囲気をかもし出していました。
広告や名前でしか見たことのなかった詩集や、同人誌の類も多く見られ、
ここで手に入らなければ、何処に行っても手に入らないといった感じ。
そんなところに私の詩集が平積みされているのは、
なんとなく申し訳ないような場違いなような。

こうなると普通なら詩集の一冊や二冊買っていくのが道理ですが、
罰当たりな私は散々棚から色々な詩集を出して眺め倒したにもかかわらず、
結局は何も買わずに退散し、
別の売り場で、2000年に亡くなられた写真家植田正治さんの作品集
「植田正治写真集・吹き抜ける風」を買ってしまうという体たらく・・・。

植田正治は前からすごく好きだったのですが、
なかなかまとまった作品集がなくて困っていたので即買いでした。
最近出たばかりのこの写真集はボリュームも充分、
どっぷりと「植田調」の世界にはまれそうです。
植田正治の写真には詩がありますね。
世界がぴんと沈黙していて、
そこから耐え切れないように言葉が噴出してくる予兆がひしひしと感じられます。
写真集も詩集も、やはり読んでいてわくわくするものでないといけませんね。
いっぺんに見ると勿体ないから、ゆっくり少しずつ見ることにします。

というわけで新年一発目は、他愛のない雑記にて終了。
今年もよろしくお願いします。
Posted at 00:35 in n/a | WriteBacks (2) | Edit
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