Jul 27, 2006

もうちょっとで、

梅雨明けでしょうか。

浮世絵とか雪舟の水墨画とかを見ていると、
日本人は昔から漫画というか、漫画っぽい感じのものが好きだったんだなあと思います。
平坦でシンプルでダイナミックな絵を日本人は、素直な部分で好むのでしょう。
漫画を低俗として敬遠する人もいますが、
浮世絵もまたその当時は低俗なものだったはずです。
そんな低俗なものがヨーロッパで大受けしたのは、
浮世絵が持つ色彩や空間の取り方がそれまで欧米には全くなかったからでしょう。
まったく未知なものと対面すれば、
それが低俗だろうとなんだろうと、やはり人は興奮します。
所謂カルチャーショックというやつですね。

日本の漫画がいま欧米で受け入れられているのも同じ理由からだと思います。
海外で漫画といえば子供が読むもの、スーパーマンやバットマン、
スヌーピーやムーミンなどといった種類のものを指すのでしょうが、
日本の場合、漫画は他の国とはまったく別の、独自の発達をしました。
手塚治虫をはじめとした漫画家は、「鉄腕アトム」や「仮面ライダー」などの
子供向け漫画だけでは飽き足らず、青年や大人に向けた作品を書き始め、
大衆に受け入れられていきました。
その後、有能な後継者が続々と現われて、様々な手法やモチーフをもって展開し、
いまや日本の漫画は日本にしかないものになりました。
欧米の人たちが「萌え」とかいって喜んでいるの姿は奇異に見えますが、
彼らにとって日本の漫画は浮世絵と並ぶカルチャーショックなのでしょう。

日本にある殆どの文化、建築なり絵画なり文学なり音楽なりは、
それぞれ高度な成長をして海外に通じるアーティストを輩出してきましたが
それでもやはり欧米か大陸からきたものをアレンジしたものであり、
亜流の域を出ていません。
そういうものが海外へ逆輸出されても、
「自分たちの文化を日本人が上手に真似している、大したものだ…」
としか向こうのひとは見ないでしょうが、日本の漫画だけがその域を超えています。
漫画は漫画でも、欧米では全く別の新興文化として受け入れているのでしょう。
最早彼らの概念の漫画と同じに見ることも出来ないかもしれません。

なんてことを書いた後に強引に詩の方へ。

日本で言う詩もまた、海外の詩の影響を大きく受けて発生しているようです。
日本で詩は、漫画がそうであったように、日本独自の成長を遂げてきたのか、私は疑問です。
海外の詩の愛好家は日本人の書いた詩を見て、どのように感じるかということも興味があります。
私は無知ですが、恐らく吉増剛造をはじめ幾人かは衝撃をもたらしたのではないかと思いますが、
そのほか、全体としての日本の詩はどうでしょうか。

漫画の成長を照らし合わせて考えてみると、
日本である文化が成長するには、大衆の支持を受けなければならず、
そのとき、知識層の人間に忌み嫌われても構わないようです(乱暴に言うと)。
そして日本人の、元来持っている性根に響くものでなければならないという事も重要です。
日本の詩はどうだったのかと思えば、
その二つからはあまりにかけ離れているような気がします。

大衆に受けることを先決とすれば間違いが起こるでしょうが、
どんなに突飛であろうが幼稚であろうが、
日本人の性根に素直に響くものを生み出していけば、
そこには揺るぎない積み重ねが出来ていくと思いますし、
日本独自の文化と呼べるものが生まれてくると思います。
現在もそれがないとは言いませんが、しかしかなりいびつなものであり、
成長が芳しくない上にいつ崩れてもおかしくないものです。
それを安定させるには、一度足元をよく確認する必要があるのではないでしょうか。
・・・なんて思いました。
Posted at 00:54 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Jul 23, 2006

先日、ディスクユニオンで、

「津軽三味線 高橋竹山 その1」という中古のレコードを買いました。
三味線のレコードを買うのは初めてでしたが、
なぜかワールドミュージックのところあったこれをたまたま見つけ、
以前なにかの番組でこの人の演奏をちらりとやっていたのを思い出し、
その凄みのある姿が大写しになったジャケットに思わず買ってしまいました。

オビを見ると…

「津軽三味線は叩くもんでねえ弾くもんだ!」
盲目の乞食芸人として糸ひとすじに津軽をうたい続けた名人高橋竹山が
三味線生活五十年を記念してその芸の全貌を記録した伝統の津軽三味線の真髄!

…とかなり鼻息が荒いです。

高橋竹山は明治43年に生まれ、幼い頃にはしかがもとで失明し、15歳で三味線を始めてから87歳で亡くなるまでその道一筋で生きた人、熱狂的なファンも多く持ちます。

レコードを聴いてみると・・・、おお!これはブルース!
なんか例えが罰当たりというか変ですが、とにかく一音一音に情と力が充満した、
非常に密度の濃い演奏で、私がいままで聴いてきたものの中では、
ギター一本で唸るブルースに近い。
既に去った感もある三味線ブームは、私にはちょっと軽い印象で興味がもてませんでしたが、
これはあまりに重い音です。
肉声を思わせる弦の音は流麗というより無骨で、その場に楔を打ち込んで行くようにフレーズを刻み、
こちらの胸にぐいぐいと押し入ってくるようです。
所謂よく聴く三味線っぽいフレーズが、ここでは随分違って聴こえ、
「芸能」という言葉がずんと重く響いてきます。
前記したように、昔のブルースやソウルを好きな人は、結構ごく自然に入っていけるのではないでしょうか。

このレコードには語りも入っているのですが、竹山は意外に喋りが上手くて、
結構観客の笑いなどとっていたりします。
話も絶妙のタイミングで落ちに持っていったりして、落語の達人を思わせるほどです。
ネットで調べて見ると、結構CDにもなっているよう。
巷で流れている全ての音楽に飽きてしまったら、こんなのもいいかもしれません。
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Jul 19, 2006

やあ、今日あたりは

大分涼しくて過ごしやすいですね。
みなさま、どのようにお過ごしでしょうか。

少し前になりますが、町田康の「告白」(中央公論新社)を読み終えました。
町田康と言えば、以前は町田町蔵の名前でバンド活動もしていて、
「イヌ」というバンドをやっていた頃から私は好きでした。
北澤組とのアルバム「腹ふり」は名盤です。
彼が作家になってからすぐの頃は、なんだか筒井康隆の影響バリバリだなあ、
なんて思っていましたが、いまではすっかりそれを脱却して、
町田ワールドを存分に炸裂させています。

「告白」は、ある意味集大成のような作品。
河内音頭にもなっている明治時代に起こった10人斬り事件をモチーフにして、
町田康独自の文体で怒涛の670ページを突っ走ります。
私はけっこう飛ばし読みする方なんですが、話は勿論、文体がとにかく面白いので、
全然飛ばし読みできずに、随分時間をかけてこの本を読みました。
やはりミュージシャンということもあって、リズム感が抜群、
それに関西弁の小気味よさをそのまま文体に使っていて、
音楽を聴いているように読まされます。

しかしこの独特の文体を読みながら思うのは、これは外国語に訳したらどうなるのか、
このニュアンスを伝えることはできるのか、
そもそも外国の人はこのニュアンスを理解することが可能なのか、と言うことです。

例えばヘミングウェイの小説、私は正直あれがよくわかりません。
もちろんどういう話かは理解できますし、なんとなく格好いいなあとも思うのですが、
どの話も別に書くほどのことではないような話に思え、どこで思いを深めていいのかわかりません。
それがヘミングウェイが町田康のように、その国で感受性を育ててきた人間でしかわからない言い方で書いているからなのであれば、そのニュアンスを翻訳で伝えるのはもう不可能に近いでしょう。
ウッディ・アレンの映画を絶賛する評論家はたくさんいますが、ニューヨークにある暮らした人でなくては、ウッディ・アレンの本当の良さはわからないとも思います。
また、日本のお笑いコンビ「ダウンタウン」の笑いも、
日本で生まれ育っていないと直感できないニュアンスが多分にあります。
だからダウンタウンの笑いは、同じ日本人でも、まだ経験の少ない子供には全く人気がありません。

きっと原書で読めるだけの語学力があればヘミングウェイだって理解できるのでしょうけれど、
悲しいかな私には日本語しかわかりません。
ランボーの詩なんかも、やはりフランス語で読むからこそいいのでしょうし、
三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ…」なんて詩句も、
外国人が聞けば「はあ……??」てなものでしょう。
村上春樹や吉本ばななが欧米で受け入れられるのは、
そういう地域独特の感覚が殆どないからに違いありません。

生まれ育った環境、世代、性別など、人間は無数の溝に囲まれて存在しています。
自らの背負った特異性を保ちながら、なんとかその溝を飛び越えて行きたい、
というのは無謀な欲求でしょうか。

ま、とにかく町田康の「告白」は面白いですよ。
Posted at 01:18 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Jul 15, 2006

長らく休眠していた

詩の批評サイト「いん・あうと」が、この7月から再スタートを切っています。
http://po-m.com/inout/
2005年の3月に終了した旧いん・あうとを第一期とし、
この度再開した新いん・あうとを第二期としての最初の更新です。
前期と同様、多彩で有能な執筆陣を揃え、充実した読み応えのあるサイトになっています。
現代詩に興味ある人もそうでない人も、とにかく是非ご一読のほどを。

特集は二つ。
一つ目は、今年中国詩のイベントがあるということで、
詩学社から刊行されている「中国新世代詩人アンソロジー」についての特集。
これは現代中国の詩のシーンに触れることの出来る貴重な機会です。
まずアンソロジーとして用意された10篇の中国詩人による作品は必読。
それに対談では「いん・あうと」の総ボスでもある詩人の和合亮一さんと、
日中両方の詩のシーンに詳しい田原さんの興味深いお話がたっぷりと。
そして論考では、詩人と詩に造詣の深い書き手たちが、
自身の目で見詰めた中国詩について論じています。
あの日本の十倍もの人口がいる中国で、また様々な政治的混乱を経験してきた詩人たちにおいて、
いま詩はどのように書かれているのか。一見の価値ありです。
ちなみに私も論考をひとつ寄せさせていただいてますが、
まあなにぶん他の執筆者が錚々たる顔ぶれですから、著しく見劣りがするのは仕方ありますまい。
他のを読んだあと、それでも時間が余ってしょうがないときだけどうぞ。

特集2は、詩の現在2006年と題して、最近出版された詩集について、
野村喜和夫さん、ヤリタミサコさんを始めとした執筆者が論考を寄せています。
既に時代の先端を走っている小笠原鳥類さん、キキダダマママキキさん、久谷雉さんなどの詩人から、
現代詩手帖賞を取ったばかりの先鋭最果タヒさんまで、
様々な「新しい」詩人たちが取り上げられ論じられています。
現在、詩誌においてもネット上においても、なかなか新人たち個人について語られる場所がなく、
いい詩集が出版されていても知られぬままになってしまうという状況があります。
このように見通しのいい場所で新人たちについての優れた批評が読めるということは、
非常に意味深いことだと思います。
今後、更新の度に新詩集の批評が行われると思いますので、是非注目してください。
あ、それと今回、拙詩集も取り上げて下さっています、一応…。

他にもエッセイや「いん・あうと批評」など、
二十代前半の若い書き手から大御所までが入り乱れて書き競う文章は読み応えがあり、
恐らくいっぺんに読むのが難しいぐらいでは。

実は当初の予定より随分遅れて始まった第二期いん・あうと。
しかし遅れただけあって、内容は非常に充実したものになりました。
それでもまだ、ハードな読み手からすると物足りないところも多いでしょう。
これから第二弾、第三弾と更新を重ねるごとに、充実を増していくことは間違いありません。

そうそう、いままで文字化けで読めなくなっていた「いん・あうと」第一期のテキストが、
ページ最下部のバックナンバーから全て読むことが出来るようになっています。
これを機会読み直してみるのも良いでしょう。
Posted at 01:17 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Jul 12, 2006

足立和夫さんの新詩集

「暗中」(草原詩社)を読みました。
この詩集、面白いです。

ひとつひとつの詩が、長く深い考察の末に行き着いたものであることを感じます。
突発的なひらめきから生まれたのでないゆえに、神がかり的な言葉の流れはありませんが、
常にしっかりとした足運びであり、読み手の手を引く力は確固として一定で、
読み手は安心して詩人の世界を歩いていけます。

また、深い思索が行き着いたところに発生した作品群であるので、
ひとつひとつの詩に新たな発見が提示されており、
読み手は、書き手と共にその発見に居合わせることができます。
その発見は、不可思議な詩の世界のなかにあっても真実を感じさせ、
ふと目の前が明るくなったような気持ちになります。

この詩集が描くのは、世界の認識です。
そして観察する世界は、地下街であったり、通勤電車であったり、機械であったりと、
殺伐とした風景ですが、それと対峙し観察する詩人の感覚はユーモアを保ち、
この詩人ならではの思いがけない真実を探り当てています。
それは決してひとりよがりのものではなく、読み手とともに発見することを望んだもので、
なんだか夜更けに入ったラーメン屋で、偶然隣に座った人が話し出したような妙な親しみやすさ、
そのあたり、詩人の体温が感じられます。

また、この詩集には夜が多く登場します。
詩人は人工的な光の下で人間の生活をし、
その人工的な光の下でだけ見える真実をつかんでいきます。
そうしたからといって、詩人の生活が変わることはなく、淡々と続いて行くのですが、
その場に一瞬存在した光を、詩人は上手く捉えて詩集の頁に貼り付けることを遂行し、
それが詩人の存在意義となっています。

ひとつの詩にひとつの発見。
そこに居合わせられたことの幸福。
詩を一篇読むことは、新しいことをひとつ知ることでなければならないと、
この詩集を読んで改めて思います。
読者を選ばない詩集であり、多くのひとに体験して欲しい詩集です。
Posted at 00:01 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Jul 08, 2006

キキダダマママキキさんの新詩集

「死期盲」が先日届き、
一読、その後も時々開いては、ちりばめられた詩の言葉を眺めています。

これは書物であることだけが明記された一冊の本です。
他にはなにも定義されていません。
ただひたすらキキダダマママキキという人が記した「死期盲」という書物です。
ここには、現実界にある時間の流れに似たものは見当たりません。
思考の中で時折起こるフラッシュ、その一瞬だけに存在し得た言葉がページ上に、
あるときは不用意にこぼした水滴のように点在し、
あるときは畑の作物のように整然淡々と植えられています。
その速度での著述ですから、ここに物語に類似したものはありません。
あるのは、言葉であると同時に呼吸に近い断片の数々であり、
そのそれぞれは、通常の文章が持つ時間の長さを持ちません。
一瞬だけに存在し、他に影響を与えることすら拒否しています。
しかしながら、そういうものがある距離感をもって浮かんだとき、
一種の特別な、実に人間的な空間が現出することが、この書物では証明されています。
ちりばめられた言葉は、その声色すらそれぞれで異なり、
別々の人間があちこちで発している声にも聞こえます。
それは著者の中にいる、自分という名の無数の他人の発言群なのでしょう。
だから言葉が飛び行く方向すら異なる詩篇も存在します。
なのにこの書物は、不思議なまでに読み辛さを感じさせません。
それはその呼吸、あるいは言葉があくまで人間のものであり、
読み手の私もまた人間であるからなのでしょう。
どこかの夜にいる著者の呼吸に合わせて自分も呼吸し、
そこに見えてくるものにじっと目を凝らしてみる。
それは詩以外には経験できない「読む」という行為であり、
この書物では書き手の卓越した技術とセンスによって、
その可能性が不足なく準備されています。
誰もいない公園に点在する不可思議な遊具と形容も出来そうな、
雫として独立した連あるいは行は、それぞれで見ると実は非常に受け入れやすく、
また知らず知らずに覚えてしまうほど魅力的な言葉によって形成されており、
一度読んで気が付かなくても、再読すると、思いがけず多くの言葉と響きを、
記憶させられていることに気付きます。
そして読み返すたび、記憶される言葉は確実に増えていきます。
その驚きと快感が、この詩集を繰り返し手にとらせる原因のひとつでしょう。
あるいはそうやって読み返させられていくうち、全ての言葉を記憶してしまって、
そのとき初めてこの詩集の本当のフォルムが垣間見られるのかもしれません。
Posted at 01:18 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Jul 05, 2006

ちょっとお知らせ。

先日、このブログに書いた、詩のボックス書店「百年まち」ですが、
諸事情により、場所等が変わることになりました。
ただ、下北沢近辺ということは変わらない予定です。
行ってみようと思って下さっていた方々、もうしばらくお待ちください。
情報が入り次第、またここでお知らせします。
Posted at 22:12 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Jul 04, 2006

昨日は年に一度の

詩の祭典「東京ポエケットin江戸博」に参加してきました。
場所は江戸東京博物館の一階会議室。
午後1時半スタート。
50を超える出展があり、雨にも関わらず大盛況、
最後までお客さんの足が止まることがありませんでした。

私は2時半ぐらいから参加。
PSPクラブのブースにずっといました。
「repure」が置いてあったところです。
これを御覧の方で、もしもお寄りいただいた方がおられましたら、
厚く御礼申し上げます。
奥に座っていた、茶色っぽいシャツを着て眼鏡をかけていたのが私です。
私はあまり会場をまわれなかったのですが、
いらっしゃった方は、かなり楽しめたのではないでしょうか。
PSPのメンバーはみな交流が広く、
特に白井明大さんなどひっきりなしに知人の来訪があるので、
横にいた私もいろいろ新しい出会いに恵まれました。
当日お会いした方、どうもありがとうございました。

ちなみにお隣のブースは、灰皿町の住民でもある詩人の足立和夫さんでした。
初めてお会いしたのですが、非常にフレンドリーな方で、
すぐに打ち解けてお話させていただくことが出来ました。
これからも是非お付き合いさせていただきたい方ですね。
足立さんは最新詩集「暗中」(草原詩社)が絶賛発売中です。

ゲスト・リーディングは二回あり、一回目は桑原滝弥さん。
かなり激しいパフォーマンスで、上半身裸で絶叫、会場を走って巡り、
体全体のリーディングでした。
二回目は柴田千晶さん、桑原さんとは打って変わって静かなリーディング。
詩集「空室1991-2000」からの朗読で、前に一度拝見していましたが、
声と詩の内容がぴたりと一致して、完全にひとつの世界を現出されていました。

ポエケット自体は午後八時にて終了。
その後は当然二次会で、私も参加させていただきました。
ここでは、関富士子さん、杉本徹さん、杉本真維子さん、いとうさんなどとおしゃべり。
そして遠く福岡から参加の松本秀文さんと約半年振りの再会が嬉しかった!
松本さんは2004年に第一詩集「角砂糖の庭」を上梓され、福岡を中心に、
様々な詩のイベントで大活躍されている、まさに行動する詩人です。
東京にもかなりのペースでいらっしゃっています。
近々第二詩集を刊行する予定もあり、私も非常に楽しみにしてます。
松本さんはこの二次会で、森川雅美さん、大村浩一さんとともに、即興の詩も披露されました。
森川さんと大村さんも勿論素晴らしかったですが、
松本さんの人をひきつける力とパフォーマンス力には圧倒されました。
終わったあとに送られた盛大な拍手は、正直な気持ちから出たものに違いありません。
Posted at 00:09 in n/a | WriteBacks (2) | Edit
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