Jul 08, 2006

キキダダマママキキさんの新詩集

「死期盲」が先日届き、
一読、その後も時々開いては、ちりばめられた詩の言葉を眺めています。

これは書物であることだけが明記された一冊の本です。
他にはなにも定義されていません。
ただひたすらキキダダマママキキという人が記した「死期盲」という書物です。
ここには、現実界にある時間の流れに似たものは見当たりません。
思考の中で時折起こるフラッシュ、その一瞬だけに存在し得た言葉がページ上に、
あるときは不用意にこぼした水滴のように点在し、
あるときは畑の作物のように整然淡々と植えられています。
その速度での著述ですから、ここに物語に類似したものはありません。
あるのは、言葉であると同時に呼吸に近い断片の数々であり、
そのそれぞれは、通常の文章が持つ時間の長さを持ちません。
一瞬だけに存在し、他に影響を与えることすら拒否しています。
しかしながら、そういうものがある距離感をもって浮かんだとき、
一種の特別な、実に人間的な空間が現出することが、この書物では証明されています。
ちりばめられた言葉は、その声色すらそれぞれで異なり、
別々の人間があちこちで発している声にも聞こえます。
それは著者の中にいる、自分という名の無数の他人の発言群なのでしょう。
だから言葉が飛び行く方向すら異なる詩篇も存在します。
なのにこの書物は、不思議なまでに読み辛さを感じさせません。
それはその呼吸、あるいは言葉があくまで人間のものであり、
読み手の私もまた人間であるからなのでしょう。
どこかの夜にいる著者の呼吸に合わせて自分も呼吸し、
そこに見えてくるものにじっと目を凝らしてみる。
それは詩以外には経験できない「読む」という行為であり、
この書物では書き手の卓越した技術とセンスによって、
その可能性が不足なく準備されています。
誰もいない公園に点在する不可思議な遊具と形容も出来そうな、
雫として独立した連あるいは行は、それぞれで見ると実は非常に受け入れやすく、
また知らず知らずに覚えてしまうほど魅力的な言葉によって形成されており、
一度読んで気が付かなくても、再読すると、思いがけず多くの言葉と響きを、
記憶させられていることに気付きます。
そして読み返すたび、記憶される言葉は確実に増えていきます。
その驚きと快感が、この詩集を繰り返し手にとらせる原因のひとつでしょう。
あるいはそうやって読み返させられていくうち、全ての言葉を記憶してしまって、
そのとき初めてこの詩集の本当のフォルムが垣間見られるのかもしれません。
Posted at 01:18 in n/a | WriteBacks (2) | Edit
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