Dec 31, 2006

暮れのご挨拶。

年末に近づくにつれて寒さが厳しくなってまいりましたが、
みなさまお風邪などひいてらっしゃらないでしょうか。
今年一度でもこちらへ足を運ばれた方、
そして何度も足を運んだという奇特な方、
トラックバックをつけてくださった神様のような方、
どなた様にも心より厚く御礼申し上げます。
みなさまにとって2007年が素晴らしい年となることを心よりお祈り申し上げ、
今年最後の更新とさせていただきます。
来年もどうかお立ち寄りのほどを。

で、ついでといってはなんですが、
現代詩手帖1月号の方にイベントのレポートを書いていますんで、
ご高覧頂けたなら幸いです。
で更に言いますと、タイトル横に載っている当日の写真で、
一番手前に写りこんでいるぼさぼさ頭が私です。

それではみなさま、よいお年を!

小川三郎拝
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Dec 28, 2006

ギャンブラーズ・ブルース

突然ですが、私はギャンブルというものが好きではありません。
真面目とかそういうことではなく、全く興味を感じられないのです。
それでも友人との付き合いもあるので、パチンコや競馬や競輪など行ったことはあるのですが、
どれもその場限りで、少なくとも自主的にギャンブルをしに行ったことは一度もありません。
付き合いと言えどパチンコやパチスロは回数にしてみれば結構行っているのですが、
いまだにルールというか、やり方すらも覚えられません。

何故好きになれないかといえば、恐らくはギャンブルで勝つことに喜びを感じられないからでしょう。
まあ付き合いで遊び半分にやっていても、時には勝ってしまうこともあります。
すると払い戻しとして何千円か何万円かのお金が手元に戻ってくるわけですが、
そのお金を見ても、びっくりするほど嬉しくないのですね。

勿論お金自体に興味がないわけではありません。
私も人並みにお金は好きです。
でもギャンブルで勝ったお金というのは、なんかこう、違って見える。
自分の給料が入っている口座からおろした一万円札はとても重みのあるものに見えているのに、
ギャンブルで勝った一万円札は、なんかほんとに、ただの券にしか見えないのです。
お金は所詮紙切れといいますが、全くその言葉通り、貴重なものという実感がわきません。

この感覚、ギャンブル嫌いな人間だけなんだろうなと思っていたのですが、
ギャンブル好きの友人がパチンコで勝ったお金をその直後、
ぱーっと無駄遣いとしか思えぬ遊びや飲み食いに全部使ってしまったり、
よせばいいのに更にパチンコを続けて全部すってしまったりしているのを見ると、
多かれ少なかれ彼らも同じような感覚を持っているのかもしれません。
悪銭身につかず。
あ、ちなみに私はギャンブルをする人を蔑んだりとかそういう気持ちは全くありません。
ギャンブルも正当なお金の使い道だと思いますし、人がなんと言おうと本人が満足ならいいと思います。

で、ギャンブルで勝って得たお札、あれをじっと見ていると、なんか不思議な気分になってくるんですね。
こーんなただの紙切れで事実上人間様の価値や幸不幸が決まってしまうのかとか、
証券会社や銀行で他人のお金を扱っている人は、こんな目でお金を見ているんだろうなあとか、
そりゃ何億円税金無駄遣いしたって抵抗なくなるよなあとか。
そんな虚しさが実感としてわいてくると同時に、そういうことが仕方ないことのように思えてくるのです。
自分でかけた魔法なだけあって、実に素直に人間は操られ、ことを進めていきます。
恐らく私も彼らのような立場だったら、それがどんな大金でも、
どぶに捨てるような使い方をして平気でいるでしょう。
そんな仕組みであるからこそ、いいにつけ悪いにつけ、世の中はまわっているのかもしれません。

なんてことをつらつらと書いたのは、つい先日また友人数人に付き合ってパチンコをやった際、
何故か私だけ偶然結構な大金を勝ち、ああこれで新しいコート買っちゃおうかなあと思ったのも束の間、
直後に全額その場にいた友人の飲み代に消えたことへの、なんとも言えない不条理な思いからでした。
とほほ。
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Dec 23, 2006

ガイドブック

おおっ、灰皿町は初雪ですか。
私の住んでいるところでは、雪は当分先っぽいです。

最近はまとまった読書が出来ていないのですが、
先月ぐらいまで「文学界」に連載されていた「無意味なものと不気味なもの」というのが面白かったので、
その著者の春日武彦の本をちょこちょこ読んでいます。
この人の本業は精神科医で、著作の殆どは本業の経験からのものなんですが、
どうやら文藝関係の読書量が半端ではないようで、異常に文章が上手で読ませるのです。
描写力など本職の物書きなみの上手さで、羨ましくなります。
さらに患者さんの症例に、小説などからの引用文とをうまく絡め、所謂狂気について考察していくので、
本が好きな人はかなり楽しめると思います。
引用されるものは医学関係書は勿論、純文学から海外ミステリーといった古今東西の文芸作品、
更には詩や短歌まで出てきて、ブックガイドとしても使えるぐらいに豊富です。

ところで私はガイドブックという奴がすごく好きなんですね。
出不精なんで旅行とかそういうガイドブックは読まないんですが、
本とかCDなんかのガイドブックは大好きです。
音楽も本も、新しいジャンルに興味を持つと、すぐにそのガイドブックを探してきて、
あれもよさそう、これもよさそうとひとりでやっています。
暗っ!
思えば中学生の頃に音楽雑誌で「ロック名盤ベスト100」とかそういう企画を見て、
そこに出ているアルバムを全部聴いてやろうと躍起になっていたのが最初でしょうか。
ブルースに興味を持ったときには「ブルースレコード・ガイドブック」なるムックを買ってきて、
欲しいアルバムにサインペンでチェック入れたりして、ボロボロになるまで使ってました。
その後も音楽ではジャズ、クラシック、本では海外小説、SFなど、
新しいジャンルに興味を持つたびにガイドブックを買ってきて読みふけり、
せっせと本屋やレコード屋に出かけては棚が本とレコードに埋め尽くされていくという日々・・・。
駄目すぎます。

春日武彦の著作に惹かれたのも、八割はそのガイドブック的要素からだったりして。
多分しばらくはここに出てきた小説で面白そうなのをあちこち探し回っていることでしょう。
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Dec 19, 2006

12月の合評会。

昨日の日曜日は、今年最後のPSP合評会の日。

この日私が一番だと思ったのは、小網恵子さんの「池」でした。
夜中、心と身体の境目に現われた池を見詰め、
そこにあるものが自分に与える影響を予感しながらも、不安定な足元を確かめつつ近づいていき、
自ら折り重ねた記憶をそっとめくって見ることをためらっているような作品でした。
小網さんが表そうとしているものは、下手をすると気付かずそのまま流れ去ってしまうような、
そんな非常に繊細な感覚です。
しかしそれでもその感覚が読むものの胸の内に流し込んでいけるのは、
小網さんの持つ非凡な技術の成せるわざなのでしょう。
改めて書く技術の大切さを思い知らされると同時に、
自分の内側を恐れずに見詰めることの大切さを思いました。

また福士環さんの作品も心に残りました。
個人的な経験からもたらされた、個人的な思想、考え方の変化について書かれたものでしたが、
このような作品にありがちな排他的であったり押し付けがましかったりという感じが全くなく、
別の環境やものの考え方をしている人にも、素直にその変化が受け止められる柔らかな作品でした。
福士さんは恐らくは特定の人に向けてではなく、
幅広い人へ向けて言葉を発していかれたいのだと思います。
言葉でこねくりまわしたり誤魔化したりせず、素直な目で自分の内側を見詰めることは、
逆に外側に向って伝える力になっていくことを改めて感じさせられました。

今年一年合評会に参加して、なかなか得るものは多かったと思います。
自分では気付かなかった欠点を知れたりもしましたし、詩の読み方というものも随分わかってきて、
すると今まで随分薄っぺらな読み方しかしていなかったことがもったいないです。
また、様々な人にも出会えましたし、飲み会では他では知れない詩壇の事情や、
いろいろな詩人のエピソードなども知ることができました。
合評会というものは否定的な見方もされがちですが、いい意味で自分勝手に利用すれば、
なかなか有益な場所だと思います。
また来年も懲りずに参加する予定…。
Posted at 00:09 in n/a | WriteBacks (2) | Edit

Dec 12, 2006

名前など。

12月に入ってなかなか色々と忙しいです。
ブログもさぼり気味になりますね。

私の小川三郎という名前は筆名です。
当然ながら本名は別にあります。
この筆名は、以前現代詩手帖に投稿を始める際につけたもので、
意味があるといえばありますし、ないと言えばありません。
元来私は名前というものに執着心を持っておらず、なくてもいいとすら思っています。
しかしなければやはり困りますから、一応つけてあるとその程度です。
ということで小川三郎と言う名前は、筆名というよりも寧ろ偽名に近いものです。

もしも誰かが私の作品を知る機会があったとして、
私は小川三郎という名前を覚えて欲しいとは思いません。
ただその作品の中の一行の半分でも心の中に残ってくれれば、それで充分です。
「ああ、その詩知ってる。いや、誰が書いたかまでは知らないけど…」くらいが私の理想ですね。
まあ、とてもそこまでは行かないでしょうが。
有名になるには勿論作品よりも寧ろ名前を売ることが必要でしょうが、
私にはあまりそういう欲求もないですし、もしも名前か作品のどちらかが僅かにでも認知されるなら、
それはやはり作品の方がいいです。

例えば谷川俊太郎さん。
この方は勿論大変に有名で素晴らしい詩人であり、名前作品ともに世間で認知されていますが、
それでも谷川俊太郎という詩人は知っているし顔も知っているけど、
その作品はと言われると出てこない、という人は世間にはたくさんいると思います。
逆に、「鉄腕アトム」のアニメの主題歌。
ある世代から上の方は、ほとんど誰もがこの歌をご存知でしょう。
しかしこの歌の歌詞を作詞したのが谷川俊太郎であることを知っている人は、
普段から詩に親しんでいる方々は勿論ご存知でしょうが、
世間的には案外少ないのではないでしょうか。
実際私がこのことを友人に話したりすると、驚く人が結構います。、
私は後者のほうがかっこいいと思いますし、理想です。
本音では、そう思われている人も多いのじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

んー、ちょっと尻切れトンボですけど、今日はこの辺で…。
Posted at 00:42 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Dec 06, 2006

現代詩手帖12月号を購入。

去年もこの「現代詩年鑑」についてはここで書いたような気がします。
今年も一年早かったですねー。

巻頭は佐々木幹朗氏、田野倉康一氏、水無田気流氏による討議。
しかし水無田さんは中原中也賞受賞以来大出世ですね。
私が詩手帖に投稿を始めた年に詩手帖賞を受賞されたので、なんかとても親近感があります。
誌上そしてイベントと、様々なところで精力的に活躍されているのを見ると、
つくづくすごい人だなあと感嘆してしまいます。
いま一番求められている人でしょう。
詩も書けて、しっかりした論も展開できる方ですから、今後も詩の世界に厚みを与える一人として、
広範囲に渡って活躍していってもらいたいものです。

他の特集では毎年恒例、様々な詩人が今年出た詩集を取りあげて論じています。
とにかく凄い量ですので、これはもう読んでもらうしか。
挙げられている詩集で多いのは、やはり「新しい詩人」シリーズ。
ざっと見たところ、三角みづ紀さんの「カナシヤル」、石田瑞穂さんの「片鱗篇」の評価が高いようです。
ふと思ったのですが、今年は第二詩集が多く出た年だったんですね。
そしてその出来がいいことに驚かされます。
最初の詩集を編むときに学んだことを最大限に生かして作っておられるのでしょう。
処女作を超える、というのは、表現者がぶつかる最初の壁でしょうが、
多くの方がクリアしているようで、一度の評価に満足しない姿勢を見せ付けられます。
個人的に嬉しいのは、私が書評を書かせていただいた斎藤恵子さんの「夕区」が、
実に多くの人から高い評価を得ていること。
あれは素晴らしい詩集でした。
きっとなんらかの賞をいただけるに違いありません。
そしてここで取り上げた斉藤倫さんの「オルペウス オルペウス」、薦田愛さんの「流離縁起」、
和合亮一さんの「入道雲入道雲入道雲」、手塚敦史さんの「数奇な木立ち」、
キキダダマママキキさんの「死期盲」も沢山の方が高評価を与えています。
どれも大好きな詩集ですから嬉しいですね。
新人では望月遊馬さんの「海の大公園」が注目されています。

拙詩集は去年のこの時期に出たので、すっかり忘れられているだろうなと思いきや、
幾人かの人が名前を出してくれてますね。
感謝。

うーん、年鑑は内容が盛りだくさんな分、逆にレビューすることがないですね。
ていうかあまりのボリュームに、実はまだ三分の一も読めてなかったりして。
年末にかけてじっくり読むことにしましょう。
普段詩手帖は立ち読みで済ましている方も、この号だけは買っておいてもいいんじゃないでしょうか。
詩人住所録の載っていることだし。
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Dec 02, 2006

12月

になっちゃいましたねー。
今年も早かった…。

以前、クラシックのピアノ曲などを聴きはじめた頃、
元々好きな曲だったり、印象的なメロディーを持った曲だと割と楽しんで聴けるのですが、
ちょっと難解な曲や渋めの曲を聴くと、やはりちょっと退屈してしまいました。
演奏者についても、どぎついぐらいの個性を持っている人はいいのですが、
渋めの魅力を持った演奏者などだと、違いがよくわからず、音が耳を素通りしてしまって、
せっかくCDを買っても一回しか聴かなかったりでした。

しかし、誰の演奏を聴いているときだか忘れましたが、
あるときふと、これは音楽として受け入れるよりも、
一種の言語として受け取った方がいいのではと思い、
これは「ピアノでしか喋ることが出来ない人が発する言葉」だと想像して聴いてみると、
言葉で説明することは出来ないまでも、作曲者や演奏者が何を思っているのかが、
強くこちらに伝わってくるような気がしました。
途端にピアノの曲を聴くのが面白くなり、
いままで一回聴いたっ切りでしまいこんでいたCDを引っ張り出して聴いてみると、
なんでもないと思っていた演奏が驚くほど面白く聴こえてきて、また同じ曲でも演奏者によって、
大きく話し方が違うのがわかり、以来そんな風にしてピアノ曲を聴いています。

読んでもよくわからない詩に行き当たった時、私は上記のことを応用して、
これは文学ではなく、「こうしか喋ることのできない人が発する言葉」だと思って読みます。
すると、それまでさっぱり意味の通らなかった言葉が、すっとこちらの胸に馴染んで来たりします。
とてもわかりゃしないと数秒前まで思っていた詩句から突然意味が浮き出てくる瞬間というのは、
なかなかクセになります。

どうも私はいつのまにか、先入観という壁を自分で作ってしまっていたようでした。
ピアノ曲とはこういう風なもの、詩とはこういう風なもの、といった先入観をもってしまうと、
その領域からはみ出したものは、頭が激しく拒否反応を起こして受け付けなくなってしまいます。
しかし考えてみると、私の勝手な先入観が作り出していた領域とは、
呆れるほど狭いところであったようで、
取り去ってみると実に広々としてスリリングな景色がみえてきました。
大胆に言ってしまえば「音楽」や「詩」と言った括りでさえ、先入観に過ぎないのかもしれません。

私たちは主に共通の言語でコミュニケーションをとり、必要最低限の事はそれで済むのでしょうが、
それだけでは伝えられないことも数多くあります。
そういったことを伝えたいと欲するとき、
ひとは現在音楽なり詩なりと一般的に括られているような特殊な言語を使って、
より深いコミュニケーションを図ろうとするのでしょう。

すると芸術というのは、多言語の世界のようです。
映像や彫刻や絵画などの表現方法は、それぞれ固有の言語であって、
更にひとつの言語の中でも、個人によってかなり話し方が違ってきます。
しかしそれを聞き取るのは比較的楽でも、自分から話せるようになるのは難しい。
ひとつの言語を話すことを習得するには、一部の天才を除けば、一生かかるぐらいなので、
殆どの人が、ひとつの言語を話せるようになるのがせいぜいでしょう。
詩と彫刻をやる、と言う人も中にはいますが、一種のバイリンガルと言えるかもしれません。
複数の言語を合わせてひとつの言語にする例もあり、
映像というものが現われてからは、特にその傾向が強いようです。
音楽と映像という二つの言語は、抜群に相性がいいですし、詩と絵画にもその傾向があるようです。
建築はそれ自体ひとつの言語でありながら、その外部や内部に無数の言語を取り込むことが出来ます。
また言語の中には、非常に似た言語もあるようです。
詩と写真なんて、結構言語的には似ている気がするのですが、どうでしょう。
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