Sep 05, 2006

さて、九月ですね。

私のパソコンはいまだ入院中、
以前に使っていた98を引張り出してこれを書いているわけですが、
98とDOS/V機ではキーボードが少し違うので、勝手が違って戸惑います。
一文字消そうとしたら、ページがロールアップしたりしてイライラ。
きっとこのキーボードに慣れたころに退院してくるんでしょうね。

詩人の竹内敏喜さんが第六詩集「ジャクリーヌの演奏を聴きながら」(水仁舎)を、
八月半ばに上梓しています。
これは165冊しか制作されていない、私家版と言ってもいいものであり、
残念ながら入手は困難であると思います。

内容を通読すると、私は合評会をご一緒させて頂いている関係上、
既に読んだものが多く見られました。
単独で読んだ時には、その書き方に疑問に思ったものも中にはありましたが、
こうして一冊の詩集に、同じ作者の作品群の一篇としてあるのを見ると、
意外な程その姿が違って見え、収まるべき所に収まったな、と言う印象を受けます。

この詩集は、単なる作品集と言うより、三十三篇の作品をひとつにまとめる事によって、
一人の詩人そのものを表現する事を目的にしたものです。
ですから一つ一つの作品を独立して観賞するのではなく、
全体で一人の詩人の体であると考えて観賞すべきだと思います。
内容は個人的な経験を軸に展開しており、それについての個人的な価値感が語られますが、
このような詩、または詩集は、読み方から自由度が奪われることから、
見方によっては一方的な作品に見え、敬遠されることも多いかと思います。
そこのところを承知しているからこそ、詩人は私家版という形をとったのでしょう。

しかしこれもまた、詩という表現方法のひとつであることも確かです。
流通を目的にするのではなく、一人の詩人によって著された詩集を、
「ある存在」として、そこに置くこと。
そしてそれが置いてあるところまで行って手を伸ばし、ページを開いて読み通すこと。
その存在について、思うこと。

詩人竹内敏喜は都会の真中に棲み、世間の至るところから聞こえてくる現状、
メディアから流れてくる洪水のような情報を、否応なしに受けとって行きます。
それらに対しての思いが起こり、しかし何らかの主張をするかといえばそうではなく、
詩人は途方に暮れています。
自分の経験や知識を持って、なんとか現状を説明、納得しようとはするのですが、
それに至らないまま呆然とするうち、やがて詩の言葉がこぼれ出します。
そこに詩人竹内敏喜の存在意義とも言える小さな泉が出現し、この詩集の底を形成しています。

また詩人は、日常に体を撫でて去る他愛もない出来事にも、同様に向き合っています。
平坦な言葉で表わされる日常がふと震える瞬間、
詩人はその向こうにあるものを見通そうと、それが業であるかのように目を凝らします。
そこにかいま見えたものは、言葉では到底表現出来ないなにものかであり、
しかしあえて詩人はそれを滲み出させようと、言葉を丁寧に削り出しながら、
少しずつその感覚へ近付いて行こうとします。

彼には最近姪が生まれました。
彼女について、この詩集のハイライトと言うべき連作が収められています。
彼女と、彼女を囲むまわりの人たちの様子を見つめ、そこに人の存在の原点を掴もうとしています。
実に気負いなく書かれたこれら連作は、柔らかい雰囲気に満ちており、
ハッとする印象ぶかい言葉も多く見られます。

機会があれば、是非一読を。
Posted at 01:48 in n/a | WriteBacks (6) | Edit
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