Jan 14, 2006

うちのあたりは、

久しぶりに本格的な雨です。
今年に入って初めてかな。

私は、詩を書くのに詩を読まないタイプの人間で、
しかしあまり不勉強なのもいけないと思い、
最近は、努めて有名な詩人さんの作品を読むようにしていますが、
そんな中でぼんやり思うのは、
詩には答えが必要なのだろうか、
と言うことです。

私はなにかものを書くとき、
一応その塊の中に、行き着くところ、
つまりある種の答えを求めようとするのですが、
色々な詩を読んでいると、
特に答えを求めていない作品に多く出会います。
殆ど状況描写のみであったり、短い感覚や疑問の羅列だったり、
話の途中で放り出されていたり、
細かく見ていくと優れているようなのですが、
行き着く場所がないために、
私には、全体の形がいびつに見えてしまいます。

この場合の、答え、行き着く場所とは、別に高尚な意味ではなく、
はっきりと言葉になっていなくてもいいのですが、
私はその作品に何かしらの答えが感じられなかったとき、
つまらないと思ってしまうようです。
もちろん私の読解力が劣っているために、
答えが読み取れていないことも多いのでしょうが。

しかし答えが感じられなかったとき、
考えてみれば、詩に答えなんか必要なのだろうか、
との疑問が浮かんできます。
別に答えなんかなくても、
放り出したままだっていいのではないか。
寧ろ無理に答えに結び付けようとする方が、
不自然なのかもしれない。

しかし私は、それではどうもしっくり来ないのですね。
自分で書いているときにも、たとえ前半が会心の出来であっても、
後半を含めた全体の収まりがうまくつかないと、つまらなくなって放り出してしまいます。
自分で書いていてつまらないのに、
他人が読んで面白いわけがないと。
私にとってひとつの詩が完成するのは、
何かしらの答えが感じられたときであるようです。
繰り返しになりますが、
この場合の「答え」とは、高尚な意味での「答え」ではありません。
なんとなく雰囲気的な、全体を環として閉じるものです。

しかしそう思う反面、
それは自分を変に縛っていることではないのか
という疑問も首をもたげます。
本当は答えなんてないのに、
答えがあるように振舞っているだけではないのか、
なんていう疑問にも、またなにかしらの答えを求めていたりして、
性なんでしょうね、こういうのは。
結局は、感情だけで行動できない臆病者なだけかもしれません。
と、まとまらない答えを偽造したところで、
今日はこの辺で。
Posted at 22:08 in n/a | WriteBacks (0) | Edit
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