Feb 28, 2006

トリノオリンピックが

終わったらしいですね…。
金メダルを一個取ったそうですね…。
結局、一競技も見なかったのでよくわかりませんが。
最近はテレビというものを、殆ど見なくなってしまいまして、
選手の名前を聞いてもさっぱりです。

随分前にこのブログで、
「楽譜とは詩であり、演奏者は読み手もしくは朗読者だ」
というようなことを書いたことありました。
そしてつい最近、いつも見ているホームページにて、私のよく知っている人が、
「詩とは、楽譜ではなく、指揮者ではないか。楽譜は、読者の胸のうちにあり、
その読者の楽譜を指揮し、音楽をかき鳴らす、という意味において」
というようなことを仰られたと書かれていました。

なるほど面白いなあ、と思いました。
つまり読み手の中にある楽譜を、詩という指揮者が演奏するということだ、
と私は解釈しました。
その発言をされた方(Tさんとします)に私は大変お世話になっているのですが、
詩に対する考え方の違いが「楽譜か指揮者か」ということに、
如実に表れていると思います。
(といっても、喧嘩するとかそういうことじゃありませんよ、念のため)

Tさんは恐らく、詩人と読み手は密接に関わるべきだと考えているのだと思います。
一方私の場合は、詩人と読み手は一切の関係がなくていいと思っています。
誰かが私の書いた詩を読んでくれるとき、そこには詩と読み手だけが存在して、
小川三郎という書き手は存在しなくていいと思っているのです。
これは拙詩集のあとがきに書いたことですが、
「この詩集を読んでくれた人が、(私の思いもしなかった)その人だけにしか出来ない
解釈を生み出してくれたなら、私はとても嬉しい」のです。
ですからそこに、小川三郎なんて詩人はいなくていいのです。

確かに私にも詩によって伝えたいと思うことはありますし、
伝わればいいと強く思ってもいますが、
それを本当に理解してくれる人は、ごく稀であると思います。
理解してくれたなら本当に嬉しいですが、理解してくれなくとも、
そこに何かしらを感じてくれれば、それで充分嬉しいのです。
もちろんそれだけでも、恐ろしく困難なことではありますが。

私が、読み手に詩を渡すときびすを返し、
「あとはよろしく」と言って、とっとと去ってしまうのに対して、
Tさんはそれよりかは、密接に読み手に関わろうとしているようです。
読み手が内に持つ楽譜を指揮して、音楽をかき鳴らそうというのですから。
Tさんは逆に詩を読むときも、詩人に密接に関わろうとします。
ですから私よりずっと詩と詩人を信じているのだと思いますし、
しぜん、読み手に対しての愛も強まるのだと思います。

私には、読み手の心の中にある楽譜を読むことは出来ません。
だから自分なりに一生懸命詩を完成させ、
それによって読んでくれる人それぞれの心の何処かに引っかかればと
願っているのです。
誰かの楽譜を読んでそれを演奏しようとしたら、
それはごく一部の人にしか響かないものになるような気がします。
しかし言い換えればそれは、ごく一部の人には深く響くものなのかもしれません。
するとTさんは一途で、私は八方美人でしょうか。
あ、なんとなくこの嫌な表現は、人間的に見ても当たっているような気が…。
考えてみればTさんは一途な人です。
それに引き換え…
うーん、八方美人って、結局最後は嫌われるんですよねー。

「人か言葉か」の選択があったとき、
私は言葉を取り、Tさんは人を取るのかもしれません。
どちらがいいかはわかりませんし、
そもそも決める必要はないと思います。
それぞれの姿勢で詩を書いていけばいいと思います。
どちらにしても、困難な道であるには違いありません。
Posted at 02:00 in n/a | WriteBacks (2) | Edit
Edit this entry...

wikieditish message: Ready to edit this entry.

If you want to upload the jpeg file:


Rename file_name:

Add comment(Comment is NOT appear on this page):
















A quick preview will be rendered here when you click "Preview" button.