Apr 08, 2006

前回の合評会のときに、

ルピュール同人の柿沼徹さんから、
御自身の詩集「浅い眠り」(水仁舎)をいただきました。
素晴らしくいい詩集で、もう何回となく読み返しています。

この詩集は2003年に出されたもので、
収録されたどの詩も、飾り気のない純粋な言葉のみで綴られており、
だから難解な言葉など一つもないのに、
そこから放射される抒情は無限のように心に広がっていく純度の高い作品群です。
読み進めるにつれ、ぐっと胸を詰らせられる感慨が、
まるで池に波紋が次々と現れるようにして広がり、
するともうほとんど癖になるようにして、
次の作品、次の作品へと読ませられてしまいます。

詩の主人公として出てくるのは少年と、
大人の中に残っている少年、
そして少年を見詰めている大人です。
少年の息子を持ったことはありませんが、
同じく少年だった経験を持つ自分としては、
それぞれの詩篇でかもし出される痛みや切なさが、
文字通り痛いぐらいに感じとられ、
脱力に近い余韻を残されます。

10行から20行ほどの短い作品が主なのですが、
そこには必要でない言葉はひとつもなく、しかし必要な言葉はすべてあり、
単語ひとつひとつ、あるいは文字ひとつひとつが非常に濃く、また強固で、
「これしかない」という輪郭にひとつの詩がまとまっており、
白い氷の結晶に触れる感すらあります。

是非お薦めしたいところなのですが、
残念ながら少数部数発行の詩集なので、
多くの人の手に渡ることは難しいと思います。
本当はこういう詩集こそ、町の本屋に並んでほしいと思うのですが。

詩を書き続けていくと、段々と表現することに欲が出てきて、
しぜん作品が長くなっていくようです。
私も最初の頃は20行未満の短いものも多く書いていましたが、
最近は60行程度のものがほとんどになっています。
自分としては、これ以上削れないというところまで推敲しているつもりですが、
しかし柿沼さんのシンプルで深い抒情を持つ詩に触れてみると、
自分の今の詩は、どうにも喋りたがってい過ぎるような気もします。
訊いてもいないのに、勝手にどんどん喋ってくる奴はうざいですね。
私の詩も、そんなようなものになってしまっているかもしれません。
自分では多くのことを語ったつもりでも、
柿沼さんの作品の十分の一も表せていなかったようです。

喋りすぎる状態から脱するには、
より言葉というものを信用しなくてはならないのでしょう。
言葉を、また自分自身をも信用していないから、
不安で仕方がなくて、際限なく言葉を連ねてしまうのでしょう。
自分の内面と対話し、
それと素直に響きあう言葉のみを選び出して並べていけば、
それで過不足なく詩は成立するのでしょうし、
そしてそれはきっと、そんなに長いものにはならないはずです。

なんて口で言うほど簡単にいけば、苦労はないのですが…。
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