Aug 04, 2006

現代詩手帖8月号を購入。

特集は台湾現代詩。
副題として「アジアのクレオール文学」とあります。
詩手帖では現在、<クレオールな詩人たち>と題された連載が進行中で、
とりあえずこれのアジア版ということでしょうか。

<クレオールな詩人たち>では南米の、
普段は読むことのできない詩人たちの作品に触れることができるので、
個人的には好企画だと思って読んでいました。
ここで紹介される詩人たちは、私たちとは全く違う環境で育ち、
全く違う価値観の中で生きてきた人たちです。
その人たちが描こうとするもの、その書き様は、私たちとは随分違って見えます。
そういう作品を読んでいると、詩は差異そのものなのだなあと、改めて感じます。

詩は散文などより自由であるぶん、共感を求めるよりも、
自分が他の人と違うことの証を表現することが多いと思います。
そういうものが書かれますから、他人が読むと、非常にしんどい。
これは、詩を読むという行為が、
人と人の差異を越えようとする行為そのものであるからだと思います。
男が女のことを本当に理解することは難しく、またその逆もそうです。
同じく人種や宗教などの様々な差異を理解することも、大変難しく、時間を要する行為です。
まして個人を丸ごと理解することなど、夫婦や肉親ですら困難なことです。
(しかしそこらへんを上手く誤魔化し(?)ながら、私たちは社会生活をしています。)
ですから個人そのものが表現された詩を読むことがしんどいのは、当たり前なのでしょう。
ある意味、詩を読むという行為は、一種の挑戦にも似た行為と言えそうです。

<クレオールな詩人たち>などに出てくる異国の詩人たちの作品を読むとき、
一度自分の価値観を完全にオフにして読んでみると、意外と読めることに気付きました。
もちろん完全に理解することは難しいのですが、その差異を感じることの魅力も発見されます。
また「ああ、これはわかる」と感じられる部分も逆に増えて、すると結構楽しいです。
そこで日本で書かれた、所謂難解と言われている詩の方にシフトして、
同じように読んでみると、これも意外とすんなり入ってくるものがあることがわかりました。
すると、難解と言われている詩の中にも、
自己を表現しようとして正面からぶつかっているものと、そうでない、
単なる真似事にしか見えないものがあることに気付きます。
何故か今まで、全くわからない、と思っていたものほど、面白く思えてきます。

私が詩を書くとき、差異そのものをストレートに出すことは避けてきました。
もちろん差異を書きはするのですが、読者を意識するとき、
それを正面からぶつけるのではなく、なんとなく紙飛行機のようなものに乗せて、
読み手がもつであろう、自分とは別の差異へ放り込んで、そこで新しく作用すればいいなと。
今でもその考えは変わりませんが、しかし正面からそれを表現できないのは、
その勇気がないからかもしれません。
詩を書くということは、大変勇気がいる行為です。

しかし、詩を読むのがしんどいのは当たり前、と限定してしまうと、
また戸惑いがあることも事実です。
やはりしんどさを感じずに読める作品も必要だと思いますし、
私はどちらかといえばそちらに属していたい。
軟弱な物言いかもしれませんが、やはりバランスなのでしょうか。
一方が重量を増しただけ、もう片方にも重量が必要。
どちらかが重過ぎれば、滑り堕ちて行ってしまうのかもしれません。

あら、全然詩手帖の感想になっていませんでしたね。
あしからず…。
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