Aug 31, 2005

文学へと

軌道修正して、小説家としての竹西寛子。

竹西寛子は小説よりも古典文学に関しての仕事やエセーの方が有名でしょう。
雑誌「ユリイカ」でも長くエセーを書き続けられています。
私が彼女の小説作品を最初に読んだのは、大江健三郎が編んだ戦争文学アンソロジー「なんとも知れない未来へ」の中にあった「儀式」でした。

内容は、ちょっと説明するのが難しいのですが、広島で被爆しながら生き残った女性の、死に行く人々を見つめる目、とでもしておきましょうか。
私が惹かれたのは内容もさることながら、その文体の静謐さでした。
原爆や死と言ったテーマを正面から扱いつつも、この作品には重苦しさがありません。
それどころか透明感すら感じさせます。
現実そのものと言うより、現実に接する主人公の思考の、しかし現実に非常に近い部分の流れを描いたという感じです。

その感じをかもし出しているのは、この作者の極限まで削られた文体だと思います。
竹西寛子の文章は、あと一語削ったら意味が通らなくなる、といったところまで削り込まれた、非常にシンプルなものです。
装飾が殆どないので現実感は薄れますが、しかし書かれている内容は恐らくご自身の生の体験を基にしており、だから現実を離れていかずにとどまっています。
そしてそのとどまる位置が絶妙なのです。
何と言いますか、頭蓋骨の眉間のあたりのちょっと内側と言いますか…うーん…わからないか。

とにかく私はこのシンプルな文体に惹かれ、竹西寛子の小説作品の殆どに目を通しました。
どの作品も同じく透明な文章で書かれ、しかも老いや心中などといった重いテーマを扱いながら、暗くなりすぎず軽くなりすぎず、見事に作品として描ききっています。

この作者の文章を読んでいると、文体はシンプルになればなるほど、現実から思考へと近づいていくのかなあなどと思います。
じつは私はひそかに、自分の日本語の手本を、竹西寛子の文章と決めているのです。
だから文章と言うものに行き詰ると、竹西寛子の小説を1,2冊読み返してみて、ああそうか、などと反省したりしています。
そう言いつつも、この文章はなんだかわかりづらいものになってしまいました。
また読み返す時期に来ているのかも。
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