Feb 13, 2007

対象物。

またまたおひさ。

詩人の方の中には、カメラが好きな方が多くいらっしゃるようです。
恐らく詩の言葉と写真とでは、捉えようとする感覚に共通するものがあるのでしょう。
しかし私は、写真を撮ると言う行為に不思議なくらい興味がありません。
これはもう子供の頃からのことで、カメラという機械に興味を持ったこともなければ、
旅行などに行った際に写真を撮ることも殆どしませんでした。
写真を撮るぐらいなら目に焼き付けておく、それで後々忘れてしまうぐらいなら、
それは自分にとって大した意味のある眺めではなかったのだ、なんて思ってしまいます。
ましてやカメラをぶら下げて何かを撮りに行こうという発想などあろうはずがありません。

なのに写真を見るということは、かなり好きなのですね。
好きな写真家の作品集はお金を出して買うこともありますし、
「アサヒカメラ」などの写真雑誌を購入して、有名な写真家の作品はもちろん、
投稿欄の作品まで丹念に眺めていたりします。
以前、詩誌の投稿欄マニアが存在すると聞いたとき、とても驚いたことがあったのですが、
考えてみれば、私も写真雑誌の投稿欄マニアでした。
こちらもカメラが好きな方から見れば、大分おかしな存在でしょう。

さて、なぜに自分は写真を撮ろうとしないくせに、見る方ばかりに熱心なのかと自己分析してみるに、
多分私は手で触れることの出来る現実というものに、殆ど興味がないんですね。
目に見えないもの、手で触れることができないものにだけ、私は興味を覚えるのです。
思うに写真を「撮る」という行為は、手で触れられる現実に正面から対峙する行為であり、
写真を「見る」という行為は、既にそこにはない、手の届かなくなったものに触れようとする行為で、
私は後者にだけ惹かれるのです。

これは人間として良くない傾向です。
よくある、バーチャルにしか対応できない不完全な人間の一種であるとも言えます。
思えば私は絵画や映画などの、一枚膜を隔てた向こう側にある芸術には惹かれても、
彫刻や陶器など、直接手で触れられるものにはほとんど興味を持てないのでした。
先週の「新日曜美術館」でオルセー美術館展の特集をやっていましたが、その中で、
ゴッホやセザンヌやゴーギャンは対象物に実際に対峙して絵を描いていたのに対して、
ルドンやモローは記憶や想像の世界を絵に描いていたという話がありました。
モローに至っては、手で触れられる現実には興味がないと言い切っています。
どうやら私はモローの仲間ですね。

私は詩を書くとき、実際に何か現実の風景やものを見ながら書くことが、実はあります。
寧ろ想像だけで書くことよりずっと多い。
これは対象物を見つめてシャッターを押すのとは違い、
対象物から一旦目を落して紙に字を書くという行為によって、
そこにある現実を、そのそばから現実でなくしてしまっているから、
私のようなタイプでも自然に行えるのでしょう。
紙に字を書く、またはパソコンのキーボードを叩いて文章を書くというのは、
指先でひょいひょいとつまらない現実を好き勝手に捻っていく行為かもしれません。
これは私にとって、随分楽しい行為です。
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