Oct 24, 2005

「荒地」について。

先日、宮越妙子さんから譲っていただいた「荒地」を頻繁に開いています。
驚くのは、いままで現代詩文庫やアンソロジーなどで目にしていた田村隆一や北村太郎などの詩が、
ここではまったく違う印象で現れることです。

今までわたしは、これらの詩人の作品に対して、それほど強い思い入れを感じてはいませんでした。
新しく出版された印刷物で読む彼らの作品は、狭い所に小さな字で無理矢理詰め込まれていた所為か、
今ひとつ感慨深いものには思えず、「ふうん」といった程度にしてしまっていました。
しかしそれは、「荒地」や詩集などに掲載されたものの、
コピーのコピーのコピーのコピーを読んでいたに過ぎなかったようです。

この「荒地」にはそのオリジナルがあります。
ざらついた紙に、荒々しく釘止めされた詩の言葉からは、
詩人の思いが痛切なまでに迫ってきます。
ここにある「どんな恐ろしい事があったのですか」(疋田寛吉)とか
「真夜中 眼ざめると誰もゐない」(三好豊一郎)といった言葉は、
あるいは新しく印刷されたもので目にしても、感慨なく読み飛ばしてしまうものかもしれません。
しかしこの「荒地」の紙の上にある同じ言葉には、思いがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、
それを縛った紐が今にもはじけ飛びそうな印象すら受けます。
これらの詩の居場所は、ここだったのだなあと痛感させられました。
考えてみれば、当たり前のことですね。

適材適所とは味気ない言葉ですが、必要なことだと思います。
いるべき場所にいなければ、詩も人間も本来の力は発揮できないのではないでしょうか。
確かに現代詩文庫やアンソロジーは、たくさんの人の作品が簡単に手広く読めるという意味で、
大変大きな価値を持っていると思います。
しかしやはりあくまで詩の居場所は詩集であり、同人誌上あるいは朗読者の肉声の内であると
思い知らされました。
その意味でも、詩集や同人誌を作るといった行為は、おろそかに出来ない特別な行為であるのでしょう。

私も今回詩集を作るにあたり、自分なりにない頭をを絞って構成したつもりですが、
この「荒地」を目撃した後では、詩作も構成も、
もっと気合を入れてやっておけばよかったと後悔しきりです。
Posted at 23:52 in n/a | WriteBacks (1) | Edit
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こんばんは。
今回の文章を拝読しまして、生の詩に接された小川さんの生の感触がつたわってきました。
考えさせられます。ありがとう。

Posted by 白井明大 at 2005/10/26 (Wed) 22:16:22
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