Dec 03, 2006

金時鐘さんの今日の夕刊の記事

KimSijyo

 モーガン・フリーマンという役者さんは、年老いて、さらにかっこよい人だと思うのだが、私は金時鐘さんという詩人を拝見したことがあって、この人かっこいいなあと思っていたのだけど、今日の朝日新聞の夕刊の文化欄の記事(小野十三郎賞の記念講演)は、彼女に勧められて読んだのだが、とても元気をもらった。私はまだまだの人間なのですが、肩をたたかれたような、そんな強い気持ちが伝わってきた。
 以前彼の講演で、「詩は身銭を切って書くものです。まさに身を切って書くのです」と熱い言葉を聞いて、そのときの感じをよく覚えている。すかんぽという文学学校の近くの飲み屋さんに彼の姿を見たとき、ここに詩人がいる、生きている詩人がいると思ったものだ。とてもやさしそうで元気な感じで、なんといっていいか、立ち姿がいい。何かの折に彼の詩を読んだとき、その場から動けなくなったことがある。体系的にテクストに接したことはないけれど(ごめんなさい)、印象に残る方だ。驚くべきことに、今、印象に残る生きたフレーズを私たちは、口にできているだろうか。

 記事から、いくつか引用する。「光に映えるところほど、裏の暗がりは深いのです。だから詩は、誠実に素朴に生きている側にあるべきものなのです。それを疎外する一切のものとは当然向き合わざるを得なくなります。ですので詩というのはけだし、言葉だけの創作に限りはしません。そのように生きようとする意志力のなかにこそ、そう(日常になれあってしまうこと;石川註)であってはならないことへの批評が息づいています。そのこと自体がもはや詩といっていいものですが、その批評を言葉に発露できる人が詩人ですので、詩は好もうと好むまいと、現実認識における革命なのです。」

 安部政権の「美しい国」という言葉を書き換えるように彼はこうも云っている。

 「見過ごされ、打ち過ごされていることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には美しい国です。」

 「見過ごされ、打ち過ごされている」というのは、自由のことだと思う。左翼的なことに限らず、抵抗の初志というのを忘れないということだと思う。何気ない違和感を大切にすること、ひっかかりを言語化すること、勇気のいることで、しかし、そうでないと生きているということが枯れてしまう。彼は枯れていない詩人である。何より「点在」というのがいい

 最後にK-1で、ボンヤスキーがキンテキ攻撃に耐えて勝った。しかし、次のラウンドに進めなかった。代わりに、出てきたピーター・アーツが負けはしたが、決勝で見事な戦いをした。 
Posted at 00:00 in nikki | WriteBacks (3) | Edit
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