Dec 31, 2006
大晦日
今年も残りわずか。皆様よいお年をお迎えください。一昨日診察の日、年金の更新に必要な「障害状況確認届」(診断書)を持っていった。これで、次期の年金の等級が決まるようだ。何級になるかお金のことなので気になる。先生に日常生活能力のことを話し、先生は目の前で、いくつかの項目を書いてくれた。来月誕生月なので提出。次回診察までに書いていただくことに。診断書代はけっこうする。
昨日、友達がチケットが余ったというので、門真のなみはやドームに「メダリスト・オン・アイス」というアイスショーを見に行ってきた。テレビで見るのと実際はちがう。単に上手下手でみるのではなく、雰囲気と云うものがとても楽しめる。僕は中野選手がとても可憐で、地味なのだが、いいなと思った。ジャンプは、全体の中の一要素であると同時に、特にハイレベルで競技している選手にとって、大事なものだとわかった。安藤選手は、怪我で出れず。
今日は大掃除。窓拭きやベランダの掃除などをする。午後には彼女の家の犬に会いに行く。彼女が外出するとそればっかり気にしてあまり、ぼくと遊んでくれなかったので、げんきんな奴だなあと思った。
Dec 30, 2006
六ヶ所村ラプソディー
第七藝術劇場で上映されている『六ヶ所村ラプソディー』はとても面白かった。面白いというと変かもしれないが、頭の中に悪い意味での?が浮かばなかった映画だ。六ヶ所という土地、場所というか、そこに生きる人と、「生命」というもののリンクを思った。けして簡単ではないその関係性を、見事に切り取っていく。ドキュメンタリー。現実にあるということを強く思う。しかも、いろんな人が、その個性のまんま撮られている。かわいい犬達。おいしそうなトマト。うたうおばあちゃん。雪かきをするおじいさん。津軽三味線がいい。賛成派も反対派も、子ども達の未来と云うのを考えているが、その方向がまるでちがうまま、別の大きな力が作用して、稼動しようとしている不気味な施設。日本の行く先を見ているようで、確実に他所事ではない。このままでは、やはりおかしい。そこで、声をあげる難しさもこの映画はきちんと撮っていた。
今日ふと思ったのだが、僕は、これから現実を生きようとしている。へんな言い方だが、そう思った。プラグマティストの鶴見俊輔の本を手に取ったのは故あることかもしれない。
Dec 28, 2006
今日の言葉
「己(おれ)は人間でないのだ。人間の中に交ってきた。それがまちがいだったんだ。」肺腑をつかれる思いだった。これは、鶴見俊輔『詩と自由』の中に引かれた、あの中井英夫の言葉。(最近の自分は何かぬるい言葉を吐いているのではないかと感じた)解説はしない。焼酎の久米仙を少し飲んだ。今は酔っていない。
Dec 27, 2006
超能力はわからないとして思うこと
相棒が旅行に行っているのでひとりです。だから、昨日はだらだら酒を飲んだり、ぼーっとテレビを見ていました。みなさんに「くだらない」と笑われるかもしれないのですが、恐いもの見たさに、単なる野次馬根性から、江原啓之の「天国からの手紙」と「FBI超能力捜査官」を見ました。死後の世界も超能力もよくわからない私ですが、多くの人が「この世を超えたもの」に惹かれているのでしょう。それはやはり何か現実は辛いのでというのがあるのでしょうか。両者ともうさんくさいのは、抜きにして見ていたら、重大事件の犯罪被害者遺族の方が、出ていました。被害者家族救済というのが進んでいない中で、わらをもすがる気持ちで、出ていたのでしょうか。江原さんの方は大阪の姉妹殺人放火事件で、FBIのほうはライブドアの堀江元社長の昔の側近の怪死でした。
僕は、切ないものを感じていました。例え法があったとしても、大きな悲惨の当事者ともなると、身近な死、それも殺人ですね、きわめて痛ましい。怪死事件の方も、自殺として、いくつかの不審点があるにもかかわらず、片付けられたのですから。僕たちは、というか、マスコミは、時がたてば、片付けてしまいます。片付けられていないのにです。しかも、他人の僕たちも、日々いろんなことがあるので、当事者に共感し続けるというのはなかなか難しい。外から気づかうことくらいしかできないかもしれません。
彼らがたとえ、エンターテイメントとして扱われてしまうとしても、出たというのは切実なものがあったということ。見過ごせません。そのことが気になって、何か真剣に見ていました。超能力はわからないとしてもです。他の多くの身近な人が亡くなったことにしても、様々な生を見るのでした。それはそれとして、テレビは死をもネタにするということを忘れてはいけないでしょう。しかし、身につまされることばかりです。生きている間は、僕たちは、誰かを常に見送っているわけですから。
NHKを見ていたら
角野卓造さんが出ていた。『サイドマンブルース』という番組でラサール石井が司会だった。この人は小劇場出身なのだということを初めて知った。僕の好きな北村和夫さんがVTRで出演していて、角野さんに、「ちょっと真面目すぎる。もっとレールをはみ出すような初めてのような芝居をやってほしい」と云っていたのがとても印象深く、愛情の深い人同士のようで、いいなと思った。何かにひたむきに取り組む人に僕は憧れる。きっと愛情が深くなっていくと、どんどんひたむきになり、北村さんくらいになると、自由というものを考えるのだと思った。きれいなおじいさんだな。Dec 25, 2006
イブは合評会
私のホームページが1周年です。8000アクセスを超えました。細々と日記を書いていても、読んでくださる方々がいて、大変あたたかい気持ちになります。ありがとうございます。イブは何をしていたかというと合評会でした。イブにもかかわらず、いつもより多くの方が参加していて、ありがたい気持ちでした。マイミクの方を誘ったら、参加してくれました。いい作品を書いてきてくれて、とてもうれしかったです。ありがとうございます。詩を書くというのはむずかしいことですが、何も肩の力を入れて書かなくてもいいと自作を振り返って思いました。
帰って、ささやかなクリスマス会をしました。シャツをプレゼントしてもらって、早速着たりしていました。元憂歌団の木村充揮のCDがすごくピッタリでした。
今日は買い物に行って掃除して、年賀状を出しました。ちなみに今年のベストCDに一番聴いたスガシカオの〝PARADE〟を入れたいと思います。2位くらいです。紅白で、どんなステージをするのかなあ。
Dec 22, 2006
今年のベストCD・本
CDは、ジルベルト・ジルの〝ジル・ルミノーゾ〟です。ボサノバとジャンル分けする以前に、僕は、この曲たちから、音楽そのものの、可能性の追求をとても感じた1枚でした。8曲目が、痛快で、どこへ連れて行かれるのかと感じました。世界に対する強い何かが表現されていると思います。7~8曲目が節目になっていい流れを作っています。このようにうたいたいと思いました。巧みの技です。詩の哲学性はすごいものがあります。和訳で読むだけでポルトガル語はできないのですが地球の裏側にはとんでもないうたうたいがいます。今年出たのではないCDではムーンライダーズの〝マニア・マニエラ〟、THE BOOM〝ノーコントロール〟、コールドプレイの〝パラシューツ〟が良かったです。チャレンジしているものが多いでしょうか。
本は永井均『西田幾多郎』かな。といっても、いろんな意味で僕が揺るがされたのは、このブログでも何度か取り上げましたが、小泉義之『病いの哲学』です。批判めいたことを書きましたが、何か、僕の中の何かがこの本に強い反応を起こしたのだと思います。何かよそ事とは思えなさ過ぎるというか…僕の文章にお見苦しい点やてんてこ舞いな部分があらわれているのは、やはりその反応のゆえだと思います。けっこう舞い上がりました。かっこ悪いなあ…
詩の先輩である方々が、強い関心をこの本にもっていることを見聞きして、力のある本なのだと改めて認識しました。
もともと専門でもないのに哲学的な事柄に惹かれます。それでよく頭がこんがらがっています。冗談ではなしに、来年もさらに、頭をもつれさせてやりたいです。まだもつれ方が足りません。いくつかの主題をからめあい、エッセンスが星のようになれば、何かの星座ができるかもしれません。そうすると何かがはっきりするように思うのです。咳がひどくなってきたので、この辺で終わり。
Dec 21, 2006
「元気」を気ままに考える
病気を治すには、寝ることと起きることが大事であると思う。こういうと当たり前かもしれないが、私は病気になってから、ふたつのバランスが当たり前にとれなくなることが大変深刻なことだと知った。今はだいぶマシになっているけれど、それでも、薬がないといい睡眠はとれない。試しに抜いてみると、悪夢、眠りが浅い、夜中目が覚めてしまうなどなど。カウンセリングの先生に「元気ですか?」と聞かれた。先生はある人に「元気ですかと聞かれてどう答えていいかわかりません」と云われたと打ち明けた。「元気」、むずかしい言葉ですねと。私はアランの話を出した。うろ覚えだが、「ご機嫌いかが?と聞いても機嫌はもともと悪いのが当たり前だ。それにいいですよと答えるのが礼儀」とか何とか。字は違うが、両者とも「気」について尋ねている。ニーチェは東洋の哲学を尊敬していたが、「気」という言葉を知っていたら、あんなに力んで「力」という必要はなかったのではないか。
先生と「元気」の「元」は何だろうかと云う話をする。私は「はじまり」と「根源」の意味があると思いますと答えた。もともとあるもので、常にはじまりであるようなもの。「病気は気が病むことでしょうか?」と先生が尋ねるから、私は想像で、病気も元気の中にふくまれていて、病気は元気の或る状態ではないでしょうか、と答えた。こう考えると「病気」と「健康」をつつむ「元気」という状態があると仮定できるだろう。「病いの哲学」もこの「元の気」=生命のことを云っているのかもしれないと思った。私たちは大きな生命=元気の中を沈んだり浮かんだり(斉藤和義の「劇的な瞬間」の歌詞みたいだな)しているのかもしれない。そう考えると、ニーチェが病気の中でも「私は健康だ」と云っていた意味がわかる気がする。
私はふたつの声を今年は聞いてきた。一方は「がんばれ」で、もう一方は「がんばるな」である。そのふたつの間で私は平衡状態を保ってきた。これが養生というものである。はじめの起きると寝るもそのことだ。何とかある平衡状態を保てたので、これからはもっと自分らしさを出していこうと思う。私の持つ欠如や葛藤に新たな形で向かい合いたい。
憲法について何か書きたいが、なかなか書けない。書かないかもしれないな。気が向いたら書くかも。約束はできません。
「僕の歩く道」のちょっと辛口な感想
クサナギくんのドラマが一昨日終わった。以前「僕の生きる道」というクサナギくん主演のドラマがあって、こちらの方が訴えてくるものがあった。だけど「歩く道」のほうもけっこうマメに見ていた。次々と、困難をクリアしていく辺りが、私には解せなかった。もちろん、自閉症の人が何もできないわけではなく、私の介護職時代の経験でも、彼らは、その人にとって難しいことをクリアしていくことが度々あり、うれしくなったものだ。私はグループホームにいたから、夜寝れなかった人が落ち着いて眠れるようになったり、今まで家族と一緒にいた人が、親と離れても過ごせるようになったり。
だから否定はしないけども、あまりにもご都合主義的であった。できること、できないことを静かに見つめるドラマであってほしかった。
それと、自閉症の人が人を好きになるというのは、あると思う。だけど、このドラマのように、それを両者が「恋愛」として受け入れる事態がどれくらいあるのだろうか。私はこのドラマほど楽観的になれない。もちろん、自閉症といっても、様々な人がいるわけだが、私の職場経験からは「恋愛」という形で成就できる人はあまりいなかった。逆に私は彼らの気持ちがきわめてストレートというか、気に入った人を見つけるセンサーはあると思うのだった。(だから、その点ではこのドラマはおかしくないかもしれない)それが私に伝わってくると、私はしょうがねえなあと思いながら、とてもうれしかった。そういう関係の機微みたいなものがあって、そういうのを出してくれないかなあと思った。全体に私は奇蹟的なエピソードを作り上げてしまうということに反発をもったので、実は奇蹟というのは、いつも起こりつづけていて、それを丁寧に描写してほしいのだが看板ドラマではできないか…。蛇足だが、主題歌が「ありがとう」だからといって、クサナギくんのロードレースのゼッケンを39にすることや、グループホームの名を「ありがとう」とするのは勘弁してほしかった。
浅野和之さんはとてもかっこいいと思った。本仮屋ユイナちゃんはかわいかった。MEGUMIもちゃんとお芝居していた。他にもしっかり芝居できる人が多くてそれはよかった。だから脚本の持つ思想というのがもったいない。
昨日は仕事しながら、合間に職場の職員さんと話していてとても楽しかった。憲法のことも話した。このことは、また考えたいと思っている。けっこう危機感をもっている。というか本格的な「憲法改正」というのは、生まれて初めてだ。解釈改憲というのはなんぼでもあったけど、安部さんは戦後初めてが売りなのかなあ。支持率低下といわれているがこれは復党問題のせいだけではなく、結局、この人に色んなことをたくせるかという懸念がでてきたことが大きいだろう。だから普通になってきたのである。小泉さんがお祭り政治みたいなのをやりすぎたので、その反動と云う面では不利だろうが。政治は本当はすごく地味な仕事だと思う。
最後に亀田勝ったなあ。なんかほっとしたのが自分でも変な感じだった。亀田は相手のことをきちんと勉強しているように感じた。ランダエタは前の亀田のとおりやれば勝てると踏んでいたのだろうか。
Dec 18, 2006
昼下がりのテーブル
コーヒーカップの横に、本がある。『「待つ」ということ』 そう本がささやいている。
私の心に問われた。私は何を待っているのか?
コーヒーをかきまぜてみる。
耳が頭がカラダがざわざわしている。
ある日
バスを待っていた
私はバスに待たれていない
単純な事実
ぼんやりと立っている
運転手は時間を追いかける
乗客には用があり
私も学校に行くだけだ
雨のふる日
さむい朝
思い出すあいだ、私はわからないくらいの速度で、年をとる。
小さく小さく年をとる。
バスを待っていた私は、あんなに赤い頬をしていたのに。
それから
あの人の言葉を待っていたことがあった
言葉ではなく心だったのかもしれない
すごく天気がよくて
仕事が休みの日に
あの人と公園にいき
あの人はブランコに乗り
私は背を押した
ぶうーん
ぶうーん
ゆれるのは視界も同じで
加速がつきはじめて
あふれそうになり
小さな背を押しながら
私はあの人の言葉を待っていた
今、私はそんなに用事がなく、せきたてられていないのに、あせる時がなぜかある。
何か大きな山のようなものが、待っているのかもしれないと思う。
そして私はその山に待たれている。小さな緊張が、波となって、よせてはかえす。
なにかはわからないものの前に、立ち、少しずつ生きている。
コーヒーが冷めはじめている
*鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書
※初出「かたつむりずむ」1号
石川武志のデジタルライブペインティングを見に行く
昨日、弟やいろんな人が企画したデジタルアートイベント(WHITE COME COME)を見に行ってきた。心斎橋のAPPLE STOREへ。驚いた。あのパソコンのMacを売っているところではないか。色々営業大変だったろうなー。私は第三部の弟のデジタルライブペインティングを見た。行ったら弟が手を振っていた。以前天保山でのライブを見に行ったのだが、あれから、非常に発展していた。スクリーンにMacの画面が映し出されるのは同じで音楽がついているのは同じなのだが、音楽と絵のセッションの緊張感がはるかに楽しめたのだ。次々に、色を塗り、図形を描いていき、絵が反転し、色が一気に変わる。そこに、ギター、ドラム、デジタルサウンドのインプロビゼーションが「次、どうなるんだろう」と云うドキドキ感を演出する。弟も云っていたが、絵が生成していく場面に立ち会っている感じがする。完成する時間もちょうど見飽きないくらいで、盛況だった。最後のMCで、弟がギャグかまして「ぼくのために来てくれてありがとう」と云っていたのが面白かった。ある種、何かの興行としてみられるかもしれないが、絵の楽しさをずっと絵を描いてない私も味わったのだった。帰りは非常に寒かった。御堂筋にイチョウの葉がいっぱい落ちてた。
Dec 17, 2006
回転寿司
昨日あきんどという回転寿司屋がマグロ祭りだという広告が入っていたので昼行った。全品100円なのだが、マグロ祭りで、中トロも100円だった。うまかったなあ。マグロも漁獲高が減り、高くなっているのにすごいなあ。本物かなあ。近所だったので彼女と自転車で行く。思ったより混んでいなかった。でも夜買い物で近くを通ったら混んでいた。回転寿司という文化は不思議である。寿司の民主化と呼べるのかどうか。安いのはいいけどね。(でも結構値段をとるところもできてきて、函館市場とかそういうのも人気だ。安いだけじゃ…という人もいるだろう。それもよくわかる)すっかり日本の風景になってしまった。昔は寿司といえばちゃんとしたカウンターの店に親父がたまーに連れて行ってくれる感じだったなあ。家族サービスはわりかししてくれた。おいしいので食いすぎて気持ち悪くなった事もあったなあ。そんなときも店の親父さんがやさしく「食べ過ぎだよ」といってくれたなあ。夜はキムチ鍋、野菜をいっぱい入れるとおいしい。えのきが好き。今日は弟のデジタルライブペインティングに行きます。Dec 15, 2006
「生か死か」か?;小泉義之『病いの哲学』にふれて思い出したこと
今日、日本の医療現場のレポートのような番組をやっていた。tPAという血栓溶解剤の話が紹介されていた。小泉義之の本を読んだ私は、何かとても複雑に感じた。小泉は「生か死か」という問いは愚かだというのだが、そしてこれを引用しだすとキリがないくらいなのだが、私は彼の云う「陰気な」議論を別にしたいとは思わないのだけど。tPAについて読売ON LINEの記事を引用する。「国内の治験では、脳梗塞の発症後3時間以内にtPA治療を行うと、3か月後に、ほとんど後遺症なく社会復帰できた割合は37%だった。米国での治験もほぼ同じで、社会復帰の割合は処置しない場合より5割高かった。
全員に効果があるわけではないうえ、副作用もある。tPAの早期承認を訴えてきた日本脳卒中学会理事で札幌医大名誉教授の端(はし)和夫さんも「血栓を溶かすtPAは、脳出血を起こしやすくする。使用の際、医師は細心の注意が必要だ」と指摘する。
発症から長時間たった後にこの薬を使うと、脳出血の恐れが高まり、効果も乏しくなる。そこで、治療の対象は▽発症後3時間以内▽CT(コンピューター断層撮影)検査で、脳出血の危険性が低いことを確認――などの場合に限られている。
患者・家族にとって重要なのは「脳梗塞を起こしたら、3時間以内に病院で治療を受ける」ことだ。だが、国立循環器病センターの調べでは、発症後3時間以内に受診した患者は19%しかいない。脳梗塞と気づくのが遅れた、救急車を呼ばず自力で来院した、などが原因だった。」引用元=こちら
テレビでは一刻も争う、つまり、父が脳梗塞で倒れ、息子が、いち早く、「ハイリスク=ハイリターン」の治療を選択するかどうかという風に流れていた。幸い薬が効いたということだった。
私は様々な文脈に反応する小泉氏の議論に正直うまくついていけなかった。(これが知的レベルの問題なのか実感の問題なのかわからない)生命の倫理に貢献したい彼の意図はわかるのだが。そして、医療の現場に立たされる素人としての自分の感覚を思うのだった。(いくら知恵をつけても、やはり素人である。小泉氏の言うとおり、それは情報開示などではうまらない非対称性なのだ。)それは、現在の私でもあるし、2~3年前の私でもあるし、小学校のとき、盲腸の腹膜炎で、腹に管を入れて何日か過ごした私の姿だった。
腹膜炎は手術をしないと、腹膜がやられ、普通の言い方でいうが死に至る可能性は高いのだった。だから、手術という医療技術しかなかった。その前の病院でひどい誤診があって、盲腸でなく下痢と思われていたので、盲腸が裂けて腹の中に膿がでてしまったのだ。私はさらに子どもだったので無力だったかもしれない。しかし、誤診がわかった時の医師の奇妙にニヤニヤした顔を覚えている。恨んではいないが、覚えている。幸い次の病院に救急車で運ばれて、手術を受けて、大事な夏休みがほとんど、つぶれてしまった。退院の前日御巣鷹山に日航機が墜落した。いわく「金属疲労」。
私は何か云いたいというよりも、小泉氏の述べることをある意味で理解できるのだった。私は、子どもや女の人が入る病棟にいたのだが、病人同士で話すというのも独特の雰囲気で、おばあさんから旦那さんの霊を見た話をされたり、色々摩訶不思議なことがあるのだった。これは山口昌男の言葉だが「負の祝祭性」ともよべるものだ。今無くなりつつある病院の喫煙室で、お見舞いに行ったときなどタバコを吸うときもいろんな人が点滴をぶら下げたりして、包帯を巻かれたり、色んな形で存在するのだった。私が倉田さんの『風について』という詩集を読んだときも感じたことだった。同時に子どもの私にとって、入院というのは、ストレスフルでもあって、舌が回りにくくなったりした。仲のよかった隣りの子もそうなっていたので、なるほどなと感じた。医療現場にはある「祝祭」と、いうも言われぬストレスがあって、私なりに小泉氏の議論を敷衍すると、「祝祭」の側面を解放したいということではないかと思う。しかし、裏腹のように、高度な医療技術や閉鎖性があるのは、単に、みんなが深刻ぶっているからではないと感じる。
私は低次元の議論を批判し、「低次元」といわれている生を肯定するといっている小泉氏の気持ちがある程度わかる気もするが、現場には精一杯やっている人もいて、そうでない人もいて、tPAの話のようにそこにたどり着く人もつけない人も、存在して、そういう多様性があるような気がしてならないのだ。小泉氏の要求するレベルの医療あるいは医療批判というものがあるとして、小学校のときの私は、やはりその次元に立っていないという記憶が残っている。そしてそれはそれで歴史だと思うのである。こういう積み重ねの上に今がある。私はなぜか、その時医者になりたいと思った。理数系がダメで、無気力であった私は医者になるという夢をわすれた時期もあった。そしてふらふらと福祉の道に入った。夢はダメな医療を受けた反動であろうか、しかし、その医療に助けられもしたのだった。私は、先生がおなかの傷口を見て、「大きくなったら、手術できれいにできるかもね」といったことをよく覚えている。しかし、おなかの下のほうだし、目立たないので整形はしていない。管は三本はいっていたので、三箇所、長い一箇所は10センチには満たないケロイドの傷跡である。大きな傷だったらどう思っただろう。「陰気な」思い出話になっただろうか?そもそもこれは小泉氏への答えになっているだろうか?昨日書いた記事も私の思いであり、さらに思ったので書いた。
『病いの哲学』を読んでいて
トルストイが引用されていたが、『イワン・イリッチの死』を思い出した。使用人に足を洗ってもらい、主人公が心を開くところが泣ける。もし興味があったら、読んでみてほしい。私は大学のレポートで読んで、感銘を受けた。黒澤明が『生きる』をつくるときにヒントになった小説らしい。映画は見ていない。Dec 14, 2006
感想;小泉義之『病いの哲学』
「死」というラインを、絶対化し、特権化し、そこから語ろうとする哲学を「死に淫する哲学」と呼んで、それを批判し、死に瀕する生の、つまりは病(小泉氏の論ではこれがイコールになっているようで、少し違和を覚えた。精神疾患はどうなるのだろう?)の生のあり方に強いエールを送ろうとする書と要約してもいいだろうか。恐らく、小泉氏の頭の中では、延命処置を断る考え方(惨めなさまをさらすのは嫌だというような)へのある違和感みたいなものがあって、あくまで生き延びるということを肯定しようとしたのだろう。私はこの意見に対してのコメントはできないと感じる。その時私のできることを精一杯やるしかないと思う。できないこともたくさんある。たぶん、小泉氏は実際に何かあったのかもしれない。彼の考えを知って、私は固定観念からは解放された。それが大事なのかもしれない。私には、フーコーについての章がとてもいいと思った。逆に言えばそこから話をはじめてもいいのではないかと感じた。それくらいビビッドな引用。というのは、病による生体の変化を緻密に追っているフーコーの臨死の眼のようなものが光っていて、そこに焦点をあてる小泉氏に熱いものを感じた。彼もまた病むものの前に立ったのだろうそのときの感覚が感じられる。パーソンズの病人の役割の議論も病人の私には新鮮であった。
不満は、批判から議論をたちあげていること。もちろん批判はいいのだが、自分の考えや話をきちんと書くことがそのまま、何かへの肯定や批判につながる理路は見出せなかっただろうか。仮想敵を作りたがるものは私は最近苦手である。が勉強になった。
全体に隠されているのは、死にゆく者への感覚の震え、命を感じ取ろうとする振動のようなものではないだろうか。それを私は信じる。
Dec 11, 2006
ペチカ6号が出ました
佐々本果歩さん編集の詩誌、ペチカの6号が出ました!豪華執筆陣の中に弱輩の私もまぜていただいています。今号は、デザイン、中身さらにパワーアップしていると思いました。執筆者の紹介です。執筆者一覧(敬称略します)
大村浩一
ぬくみりゑ
イシダユーリ
服部剛
どぶねずみ男。
鈴木もとこ
藤井五月
犬飼愛生
石川和広
有邑空玖
佐々本果歩
表紙:あいまいみー
責任編集:佐々本果歩
感想;鷲田清一『「待つ」ということ』
この本は数ヶ月間かけて、折を見ては開き、味わった本。どうしても積読にはならなかった。順調と思われるだろう私の最近の精神生活だが、やはり時折じわじわ、こたえることや、感じることがあり、その度に少しずつ読んだ。「期待を捨てて待つこと」をめぐるテーマにうならされることがあったし、期待、希望を置いて、時の流れに飛び込んでいくことが、最後に説得的に前向きに感じられたのは、やはり『ゴドーを待ちながら』の論が充分に「ただ待っている」というポーズにすぎないことの有様を示したからだろう。
私は「恋愛論」として、この本が読めた。これまでの経験からだろうか。恋愛はままならぬ相手(この意味で恋人は時間の化身なのかもしれない)とどうつきあうかだからだ。その中で「待つ」という要素はとても大きい。ケータイがあろうが同じことである。もちろん「待てない社会」批判としても、子育て論としても、高齢者介護論としても、様々な、その人にあった読み方ができる。色んな文脈に引っ張れる。読みようによってはロマンティックに感じられることがあるだろう。最後にあとがきより引用。これは鷲田の言葉ではなく編集者の今野哲男さんの言葉。「覚悟」とはこういうことだろうか。
「決心するにも『する』のではなく、『待つ』一面があるのかもしれません。何事かを捨てて空虚な場所を作り、水が満ちてくるように何かがやってくるのを『待つ』とでもいうか」(P196)
Dec 10, 2006
戦争出前噺
今日は、こないだテレビで特集されていた、本多立太郎(ほんだりゅうたろう)さんの講演を聴くために、JR宝塚駅前のソリオホールに行ってきた。思ったより、全く暗くなく、元気をもらえるお話だった。その名を「戦争出前噺」という。本多さんは3時間しゃべるつもりできたらしい。どうも、打ち合わせに手違いがあったみたいで、もう少し早く終わったが、姿勢良く、声もいやみがなく、ハリがあって、人間は年関係なく、前向きな人は前向きなのかと思われた。彼の講演の見事さは、1150回という回数で、慣れてしまうというものではない。もちろんイデオロギー的には、色々あるだろう。きちんと人を殺したという罪責感を話している。感情を固い話という枠にはめこまれずそのとき感じた実感を手放さない。例えば、田中という兵士の話。田中と同じ汽車に乗って出征した彼は、田中のお母さんと妹が見送りをするときに、彼女らは、取り乱し、追いかけて柵を突破して、田中の名を叫ぶ。彼女らは憲兵らにすぐ取り押さえられて、ぼこぼこに。しかし、兵士は声を出してならない。田中はしばらく呆然とした後、母と妹に向かって、涙を流しながら敬礼したという。本多さんは、それを見て、自分の母代わりのおばあさんが、取り乱すのではないか、どうしようと不安になる。本多さんの郷里(小樽)にたどり着いたとき、おばあさんと父が出迎えに来ていて、本多さんは一生懸命笑顔を作ったという。それを見たおばあさんも答えるように、ニコニコし続けて見送ったという。するとほっとしたと同時に、おばあさんはなぜニコニコ笑うのだろう、育ての親とはそんなものか、なぜ泣いてくれないのかと悲しくなる。
しばらくして、出征地先に父から手紙が届く。実はおばあさんは、あの後ショックのあまり、ご飯が食べれなくなり、何日か寝込んだ。おばあちゃんは精一杯笑ったのだ。おばあちゃんは心のなかで泣いていたのだ。そのことに感謝せよという内容だった。それを読んで本多さんは泣いたという。発言が封じられている戦禍の中の話だと思った。
こんな感じが私のようにしどろもどろではなく、感情をこめて話される。ここには、生きている人間がいる。そう思うのだった。数々の反戦教育の中では感じられなかったものだ。私はたぶん私の亡くなった母方のおじいちゃんと同い年くらいの本多さんを見て、同じく兵士だったおじいちゃんを思い出した。祖父も間一髪で生き残ったのだった。
加害者の話というのは、なかなか話されることがないので(ゆきゆきて神軍は少し違うがそういう部分もあったと思う)貴重である。けして正当化することなく、孫のためというプライベートな動機が彼を支えている。きちんと議論してきたのが、中国の大学生で、大学生は本多さんの恋の話を聞いて「あなたの思い出話を聞きに来たのではない。戦争の話をしてくれ」といったそうだ。本多さんは肯いて「好きな人と別れなければならない。別れというのは戦争を生きる人の大事な要素だ」と答えたという。
私はここ最近元気がなくて、元気をもらったことは事実だった。それだけでも大きい。人間から伝わってくるエネルギーのようなものを感じた。ところで、本多さんに河上肇をよませたお父さんとは何者だったのだろう?子どもをどう育てたかったのだろうか。
竹内浩三『戦死やあわれ』や鶴見俊輔の『戦争が遺したもの』が再び読みたくなってきた。(鶴見さんの本は途中までしか読んでなかった。すいません)本多さんは吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、日高六郎『戦後思想を考える』、鶴見俊輔『教育の再定義の試み』をあげておられた。いずれもアマゾンの中古で安く買えるようだ。『戦後思想を考える』はなんと1円から!いいのだろうか…
Dec 09, 2006
昔の同僚と
私は、ある障害者施設で、働いていたのだが、そこの同僚だった二人と、鶴橋で飲みました。お椀いっぱいのマッコリが出てきたのでびっくりした。「働いている」というのは、すごいことだと思った。私はまだ、少ししか働いていないので、やはり働くのは、ふたつの意味でえらいと思うのだった。「えらい」というのは関西弁で「大変だ」という意味もある。その都度、選択をせまられているのだった。一人の人は、「石川さんはまだですよ」と云っていたのだった。めでたい飲み会だった。ひとりの人の子どもが生まれたので、彼は父親になる。彼にTHE BOOMの『百景』というCDをプレゼントした。めでたい感じのCDである。子を育てるというのは大変なこともあるけれど、親も一緒に大きくなっていくのだと(えらそうに云うと)思うのだった。もうひとりの人とは、顔をあわせて話すという機会が今まであまりなかったので、とてもいい機会になったと思う。きちんと明確に色んなことを考えることができる感じの人だったので、すばらしいと感じた。人と会うと色んなことを思う。とっさには、うまく返答できなかったこともあってすみませんと思ったけど、詩も渡せたし、改めてお二人に「ありがとう。またね。」と云いたいのであった。Dec 08, 2006
とりとめもなく
最近調子はいまひとつである。今日、THE BOOMの〝砂の岬〟を聴いていた。久しぶりだ。名曲である。名曲といえば、ジルベルト・ジルの『ジル・ルミノーゾ』はボサノバなのだが、名曲揃いである。これをこないだタワーレコードで見つけたとき、やったーと思った。おススメである。
昨夜は、TV大阪で、クリント・イーストウッドの『ミリオンダラーベイビー』を見た。不器用な愛の物語。尊厳死については何ともコメントできないが、見ごたえのあるいい映画だと思う。黒人/白人、障害者、女性、色々濃淡があって、でもシンプル。猫月亭さんのおススメがあったところだったので見られてよかった。
今日ニュースで、『戦争出前話』というのをやっている本多立太郎さんという方が出ていた。92歳なので引退しようと思ったが、安部政権が改憲を掲げているというので、このままではいかんと出前話を続けることにしたらしい。一回見てみたい。
Dec 04, 2006
パプリカ

昨日、テアトル梅田に今敏監督の『パプリカ』を見に行ってきました。寒さが強くなってきたと感じた日でした。感想はというと、前半はふーん、そうか。後半はまずいなあという感じでした。特に黒幕が出てきて、ゴチャゴチャになるあたりが中途半端という感じでした。ちょっと厳しいかもしれませんが、そんな感じです。
ものをつくるというのは、どこかに「問いかけ」というものがないといけないのではないかという気がしました。『パプリカ』は、男と女、夢と現実という既存の前提を疑うことなく描かれている気がします。もちろん、疑わなくても、優れた作品はできます。ただ、アニメだからといって、「人間」を描くことを忘れてはいけないような気がします。『アキラ』や宮崎作品を、つまり先行した作品をあまり工夫もなくなぞっている部分も気になりました。もちろん、なぞったって、いいわけですが、そこに今さんなら今さんの(別にシリアスにならなくてもいいです。シリアスでなくても、すぐれた批評性は発揮できるわけですから)人間や世界に対する、独自の視点というか問いかけが介在していなくてはちょっとまずいのではと思いました。これらは全て老婆心ですが、「ものをつくる」というのは他人事ではないので、心していかなくてはと個人的には感じました。たぶん、純粋な鑑賞者の意見とは異なるので、それはわかっています。
今日『ファイトクラブ』をDVDで見ました。『パプリカ』と同じ夢というか、ある種の無意識が露呈してくるという意味では似た感じなのですが、ひねりを感じました。どっちが優れているという問題ではなく、私はこちらの方が、好みかもしれません。
Dec 03, 2006
宮沢トシの恋
朝日新聞の昨日の折込に、土日になると入るのだが、be on Saturdayという小新聞みたいのがあって、その中の「愛の旅人」という連載が面白い。ここのところ、文学者についての「恋愛沙汰」について書かれているのだ。前回の深田久彌が「日本百名山」で売れる前、妻も小説家で、かなりの部分を、彼女に書かせていたということが載っていて、小林秀雄や川端康成は「パクリ」を見抜いていたそうなのだ。深田久彌は、その後離婚して、初恋の人と結婚している。これもびっくりしたが、今回のはかなりびっくりした。宮沢賢治の妹トシは、賢治が愛していたのは世によく知られているだろう。そのトシは花巻高等女学校時代に初恋をした。その学校の先生で、バイオリンを習っていたという。そこまではいいとして、実はその先生に、もう一人の学生も恋していて、その方とは両思いだったという。トシは、ラブレターを書いたまま、出すかどうか迷っていたが、そのラブレターが同級生にばれて、学校中のうわさに。それどころか、当時の新聞「岩手民報」に、二人の女学生と先生の関係として、載ってしまったのだという。
それで、大騒ぎになって、トシは、故郷にいられなくなって、東京の大学にいったというのだ。トシは、秀才だったという。しかも、東京に出てから、ある宗教にはまって、それが、排他的な宗教とはちょっとちがうみたいで、彼女の信仰が(記事には「排他的な法華経信仰」の賢治と書かれているが)賢治の心を動揺させていたみたいなのだ。トシは病に倒れて故郷で先生になるが程なく亡くなってしまった。
トシのスキャンダル(?)を知った、山根知子さんという研究者は、このことを発表していいか、墓前まで報告に行ったそうだ。
賢治とトシ、少し似たもの同士だなと感じたり、賢治の感じていた妹、賢治の宗教観についても少し再考を促される気がした。
矛盾を抱えた人間達の像がリアルに迫ってくるようだ。賢治の伝記的事実では浮かび上がってこない何かがあるような気がする。
金時鐘さんの今日の夕刊の記事

モーガン・フリーマンという役者さんは、年老いて、さらにかっこよい人だと思うのだが、私は金時鐘さんという詩人を拝見したことがあって、この人かっこいいなあと思っていたのだけど、今日の朝日新聞の夕刊の文化欄の記事(小野十三郎賞の記念講演)は、彼女に勧められて読んだのだが、とても元気をもらった。私はまだまだの人間なのですが、肩をたたかれたような、そんな強い気持ちが伝わってきた。
以前彼の講演で、「詩は身銭を切って書くものです。まさに身を切って書くのです」と熱い言葉を聞いて、そのときの感じをよく覚えている。すかんぽという文学学校の近くの飲み屋さんに彼の姿を見たとき、ここに詩人がいる、生きている詩人がいると思ったものだ。とてもやさしそうで元気な感じで、なんといっていいか、立ち姿がいい。何かの折に彼の詩を読んだとき、その場から動けなくなったことがある。体系的にテクストに接したことはないけれど(ごめんなさい)、印象に残る方だ。驚くべきことに、今、印象に残る生きたフレーズを私たちは、口にできているだろうか。
記事から、いくつか引用する。「光に映えるところほど、裏の暗がりは深いのです。だから詩は、誠実に素朴に生きている側にあるべきものなのです。それを疎外する一切のものとは当然向き合わざるを得なくなります。ですので詩というのはけだし、言葉だけの創作に限りはしません。そのように生きようとする意志力のなかにこそ、そう(日常になれあってしまうこと;石川註)であってはならないことへの批評が息づいています。そのこと自体がもはや詩といっていいものですが、その批評を言葉に発露できる人が詩人ですので、詩は好もうと好むまいと、現実認識における革命なのです。」
安部政権の「美しい国」という言葉を書き換えるように彼はこうも云っている。
「見過ごされ、打ち過ごされていることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には美しい国です。」
「見過ごされ、打ち過ごされている」というのは、自由のことだと思う。左翼的なことに限らず、抵抗の初志というのを忘れないということだと思う。何気ない違和感を大切にすること、ひっかかりを言語化すること、勇気のいることで、しかし、そうでないと生きているということが枯れてしまう。彼は枯れていない詩人である。何より「点在」というのがいい
最後にK-1で、ボンヤスキーがキンテキ攻撃に耐えて勝った。しかし、次のラウンドに進めなかった。代わりに、出てきたピーター・アーツが負けはしたが、決勝で見事な戦いをした。
Dec 02, 2006
セブン
永井均『西田幾多郎』読了。西田には詳しくないが、ぐいぐい読めた。少ない分量で、力技で、西田を論じていることに、いろんな意味ですごいと思った。本を書く上での戦略という意味で勉強になる。あらっぽいけど。矢部史郎+山の手緑『愛と暴力の現代思想』をふと拾い読みして、この本がいいかは別として、デビッド・フィンチャーの『セブン』という映画のことが書いてあり、偶然ツタヤも半額だったので、『セブン』と『ファイトクラブ』を借りる。『セブン』を見た。彼女が恐がっていた。矢部は、警察権力のもつ正義が、犯人の手によってもたらされ、犯人と警察が逆転するさまを面白がっていたが、私は、モーガン・フリーマン(かっこいい)が演じる刑事の過去に子どもをおろさせたということがポイントでないかと思った。いわく「こんな腐敗した世界に子を産み落としていいのか悩んだ」と。このような感覚に内在している暴力への誘惑には考えさせられるものがある。男の身勝手といえば、それまでだ。普通にはいいにくいことが云われている。ある意味では、宗教的に清潔すぎる論理なのだと思う。清潔さの逆説だ
Nov 30, 2006
紅白
年末年始の番組は、とりわけ変なので、あまり見ない。スガシカオが紅白に出るというではないか。何か変な気分だが、ちゃんと違和感をただよわせていただきたい。順調に、記者会見に欠席しているようだ。見るのかな?他に様々なことを考えた。アマゾンから、メールが来ていて、『ウェブ進化論』という本が宣伝されていた。今年、私は何度も本屋に行ったけど、買っていない。理由は知らない。ただ、レビューを読んでいると、なぜか180件近くレビューがあり、なぜか虚ろな気分になってしまった。本屋が好きだった。でも近所の旭屋は、リニューアルされてダメになった気がする。市場主義にやられていて悲しい。アマゾンは見かけなくなった本も置かれているところがすばらしいとは思うけど、そうではなくて、シブいコレクションの本屋とか、たまに見かけると何かいい感じと思う。でも、別にそういう本屋ばかり行くわけではないけど。図書館は無産階級のユートピアではないかと思ったころもあった。
大学の恩師は、本は新刊を買いなさいと云っていた。ある意味、罪な教えだ。
知らないままにずっと考え続けている。何を考えていると対象化はできないけれど。くだらないことでも、考えているというのは、ひとつの仕事だ。考えるというのは、人を個別化させるし、とんでもなく普遍化させる。こんな言い方じゃないけれど、ハンナ・アレントもそういっていたように思う。思い出しました。
Nov 29, 2006
朝日新聞を読んでいて
今日は掃除。これから診察です。朝日新聞で、「いじめている君へ」、「いじめられている君へ」という著名人にメッセージを書かせる連載が続いて、キャンペーンをはっている。こういうのを書くのは難しいだろうなあ。大体、しょうもない内容で終わってしまうのであった。鴻上尚司や宮本亜門はひどかったなあ。(意外にも久保純子がよかった。留学のときの日本人差別、帰ってきてからのいじめにはリアリティがあった)大体「大人に相談しなさい」みたいに終わらせてみたいなお約束があるような気がする。それはそうかもしれないが、どうなんだろう。
まず、現場で何が起こっているか、綿密なレポートがあるべきだが、そういうのは外部に漏らせないのかな。でも、そこからしか始まらないような気がする。「何が起こっているか」、その複雑さを考えた上で、これなら云える、という感じのほうがいいのではないか。また、自分の実感、実体験を手放さないことが必要だろう。その上で届かないかもしれないと思いながら書くことはできないだろうか。
何人か、試しによさそうな人を挙げてみる。なだいなだ、中井久夫、別役実、糸井重里、高見盛、俳優の佐々木蔵之助などなど、でも、大体断られそうな気がする。
Nov 24, 2006
非時代的音楽感想
今日は昨日レンタルで借りてきたCDについて書こうと思う。よかった順に挙げていく。5枚借りました。ジャンル等バラバラなのは気にしないでね。ムーンライダーズ『マニア・マニエラ』。これは、25年前にもかかわらず、古くなっていない。CD屋にこれとベスト盤がもろもろあったのだが、猫月亭さんのカキコミから、これを聴いてみようと思った。猫月亭さんによるとカセットブックで発売されたそうで、若干、売れない危惧があったものらしい。にもかかわらず、私は、この試みと心地よい裏切りはいいと思うのです。打楽器の使い方、詞の配置、どれも、前衛的で、しかも民族音楽のような暖かみがある。わざとはずす感じがあざとくない。この種のものはあざとくなりがちなのだが、そうなっていない。知的刺激を受ける。
シガー・ロス『アゲイティス・ビリュン』。アイスランドの不思議なバンド。童話的で一見癒し系のアンビエントに聞こえるが、意外とちゃんとロック魂があるのでは?と思わせる。職員さんはレディオヘッドと同じくらいいいと云っていたが、似ているけど、どうなのかなあと思った。これを聞きながら詩が一本書けた。頭を落ち着かせながらもいい感じにドライブさせる効果があるようだ。
バービーボーイズ『バービーボーイズ』。ベスト盤。これは意外と古くなっていない。悪くはない。でも何度も聞くのは辛い。フレーズを焼き付ける力はある。80年代後半~90年代初頭に青春を過ごしていたものには、ああ流れていたなあという感じではないだろうか。へんな言い方だがまっすぐな「不良の音楽」である。文化祭で、Xの真似する奴とか、バービーボーイズの真似をするのがいて、へたくそで失笑した。私はその当時、恥ずかしいが、PSY・Sとユニコーンが好きだった。ちょっと痛い高校生かもしれない。
フー・ファイターズ『ワン・バイ・ワン』、U2『ボーイ』。両方とも、あまり印象に残らなかった。U2は、初期では、私が聞いていたのは『オクトーバー』だが、こっちのほうが、アイルランドという感じがして断然いいと私は思う。U2はけっこう聴く方なので、あえてカライ採点。これはいまいちかなあと思った。フー・ファイターズはザ・フーに名前が似ているので借りてみた。でも、パッションが前に出てない気がする。ニルヴァーナの元メンバーが作ったバンドらしいが、もうちょっとがんばってという感じです。書いてみて、思い出とか自分のドメスティックな感性を思い知らされた。御免。
Nov 23, 2006
king of pain

昨日、詩ができたので、コールサックに送った。それで、仕事。うたた寝して、あやうく、遅刻しそうになる。なぜか昨日は、めずらしく、昼から缶チューハイを一本飲んでいたのだ。いかんなあ。それで、仕事に行くと、職員さんと私だけで、他の人は諸々所用。いつもの同僚さんがいなくてさびしかったし、心配になった。しかし、職員さんは洋楽好きなので、ジョン・メイヤーのことを聞いたりする。知っていたが、あまりお好み(アメリカンな感じなので、そこが苦手だそうだが、私はそこがいいと思ったりする。好みは人それぞれである)ではなかったようで、ブライト・アイズというアメリカの歌い手と、Sigur Rosというアイスランドのバンドを紹介してくれた。帰ってネットで試聴してみると、うーん部分しか試聴できないとわからん。Sigur Rosは、レディオヘッドみたいな感じもしたが、全部聞いてみないとわからんな。帰ってから、彼女と食べに行く。休み前なので、どこも結構混んでいた。tabを送ったら、敬愛する詩人の方から、お手紙が来たのでうれしい。スティングがかっこいいというのでは意見が一致したので、帰って聞いていた。ポリス時代の曲が聞きたくなった。〝king of pain〟が大好きだ。今日はどんなふうに過ごそう。
Nov 22, 2006
訃報が続いている

あのクイズダービーに出ていた漫画家のはらたいらさんが亡くなった。ああ、あの人がという人が次々亡くなっている。よく見ていたなあ。篠沢教授とか。この人はロラン・バルトの翻訳者だったが、はらさんの葬儀に出席したとか。
写真の俳優の仲谷昇さんが亡くなった。テレビで、小沢昭一さんが同期だということで、しゃべっていた。同期の写真の中には、フランキー堺さんも、写っていた。最晩年は、奥さんがいたが、何度か結婚し、別れ、そのたびに、孤独を増していたような気がしていた。晩年はからだを壊し、浅香光代の舞台も、車椅子で見に行っていたと浅香さんが語っていた。仲谷さんの奥さんは、浅香さんのファンで、そこで知り合ったらしい。すごく、ある時代の香りがする人たちの名前が並んだなあ。
斉藤茂太さんが亡くなった。あまり手にとって読まなかったし、ちょっと、人生論の本を書きすぎな気がしたが、なぜかというと、何となく、自分の病気と合うのかなという気がして避けていた。でも、きっと大切な人を亡くしたのだと思う。
今日はJOHN MAYERの〝ROOM FOR SQUARES〟を聞いていた。JOHN MAYERにはまりつつある。タイトルは直訳すると「生真面目な人たちのための部屋」というべきか。
Nov 16, 2006
おんがくのかんそう…ジョン・メイヤー「コンティニュアム」

私は、洋楽には、うといのだが、試聴して選んだ。ムーンライダースを買いにいって、なぜジョン・メイヤーなのだろうか?そんなことは、どうでもいい。(ムーンライダースの探してたのはCD屋になかった 泣)声がいいなあ。演奏やアレンジはシンプルだけど、かなり凝っている。ただ器用だという人もいるみたいだが。聞いていて疲れない。これは重要なことだ。そして、小さな波というかひっかかりがちゃんとあって、おっと思わせる。一見、情熱が感じられないように見えるが、大抵の「情熱」的なものというのは、情熱の演技だ。もし、この音が演技だとしても、上級のものにちがいない。気持ちにぐっとくるなあ。今の私の気分にあう。他のアルバムも聴きたくなった。
※mixiレビューに加筆
Nov 15, 2006
いじめ自殺連鎖?
マスコミというのは、良くも悪くも、現代社会ではある。けっこう、歯がゆいこともあるが、これはいかんなあと思うこともあり、結果としてだが、結果として、ある意味、事実が伝わってくるときがある。それは事実の影のようなものだけど。自分に関わりのあることないことが、流されているなあ。私は、いじめというものを受けたことがあるが、だから、「葬式ごっこ」事件のことなどは、よく覚えていて、身に沁みたものである。別役実さんが、卓抜な分析をされているのを読んだり、ルポルタージュも何冊か読んだ。
なんか、その当時より、報道がユルイなあと思うのである。だから、それに悪乗りしてくる輩も出てくるんではないか。今日ニュースゼロという番組がかなりユルカッタので、これはいかんなあと感じている。
いじめと一口に云っても、実際は、一人の人間がいて、それを取り巻いて、いろんな人がいるわけだ。それぞれの現場で、それぞれの事情があるにちがいない。それが人の思惑、口の端を伝わっていく。語られざるものもあるにちがいない。そういう複雑なあやを解いていかないと、かいくぐっていかないと事実の重さというのは、本質的に伝わらないだろう。いろんなことがひどく陰影を欠いて描かれているように思えるのだ。
私には、前からマスコミというのはそんなにいいと思わないけど、まともな人が何人かいるだろうと思うけど。
Nov 14, 2006
お知らせ…新詩誌発刊
倉田良成さん編集の詩誌「tab」の1号が出ました。1号執筆者は、後藤美和子、高野五韻、木村和史、倉田良成、石川和広です。和田 彰氏が装画を描いています。ご希望の方は私宛て(コメント欄に宛先の入った名前を書きました)にメールください。住所記載ください。以下、倉田良成さんの発刊のことばを引用します。「tab」発刊について
新しい詩と散文の表現媒体、まあ雑誌といっていいが、それをよんどころのない事情も手伝って立ち上げることにした。編集責任は倉田がつとめる。同人制というのではなく、もっとゆるやかに考えて、とりあえずこの媒体の解纜にさいし、最初に同乗する五人はいわば常連というか連衆というか。
経費を最小限に抑えるため、とったやり方はそれぞれの作物はメールに貼り付け、まず倉田に電送する。倉田は受け取ったそれらを自分ところのキカイで編集し一本化していわば雑誌の原形を作り、それをプリントアウトしたいわば版下の紙(綴じていない紙片だが)を各人に郵送、各人は受け取ったそれを必要な数だけコピーして、自分の送りたいところへまた郵送する、というシステムである。それぞれの負担はコピー代と郵送費と、一応、通信電気代ということになる。紙媒体ということに、あくまでこだわりたい。
「tab」とはご存じのとおり、キーボードで行うある桁から異なる桁へ「飛ぶ」操作なのだけれども、何かを吊したり引っ張り出したりするためのつまみの意もある。最初の連衆の一人である石川和広が、その「ウィトゲンシュタイン・ノート覚書」で書いていたけれど、あるディメンションから異なるディメンションへ、有から無へ、語りうることから語りえぬことへ、メビウスの環を行くように辿り、飛ぶ。そのなかで、今まで形を見せなかった何物か・何事かを引っ張り出すよすがとなれば、と思う。
2006年10月5日 倉田良成記
あざみ書房のホームページに紹介されています。
Nov 13, 2006
寝ていました

何だか疲れが出て、ここ3日くらい寝ていました。今日はわりかたすっきりしています。SMAPというのは、不思議だと思いました。今日ぼ-っと、テレビを見ていたら、私と年が変わらない人たちがアイドルとして、テレビに出ていて、いつまで、これが続くんだろうと思いました。悪いとか、そういう意味ではなくて。藤田まことがクサナギくんと香取くんにキスをしていて、びっくりしました。藤田さんは、喜劇役者であったのだと思いました。
Nov 09, 2006
ポロポロ

表題においたのは、小説のタイトルである。今日、仕事先の職員さんが、「おススメの本は何ですか?」と聞いたので、田中小実昌(写真左の人)の『ポロポロ』ですと答えた。この本は大事な本である。私は、学生の頃、この本の存在を知り、何度も読んだ。繰り返し読んだ。ちょっと感想とか、そんな段階ではない。今読んだら、どうなのかはわからないけど、頭のどこかにしまわれている。変な言い方だが、私が詩を書くのに、この本は今でも暗に影響を与えているかもしれない。<語る>とは、一体全体どういうことなんだと思っていた私には、魂がもとめていた本といえるかもしれない。その本の名が今日ひさしぶりに口からポロリと出た。どういうことなのだろうか。そういう日だった。もし読みたいと思う人がいたら、是非にと思う。河出文庫から再版されている。(中公文庫のときの装丁はよかった)梶井基次郎もいつか紹介できたらと思う。
介護職をやっていた時からの私の大好きな友人の子が生まれた。私はすぐメールを返信した。彼は父になる。この妙てこりんな世界に、新しい子が生まれ出た。そうなのだ。やはりめでたい。めでたい。
Nov 08, 2006
クレヨン、秋の空

私のプロフィールが、ご好意により、コールサック社のホームページの「日本の詩人」欄に掲載されました。→こちら。コールサックに掲載した『白い息』という作品も読むことができます。関係者の皆様方ありがとうございました。
今日は美しい空だと思いました。その一方で、昨日、北海道で竜巻が起こり、犠牲者がでるということがありました。ご冥福をお祈りします。自然とは、非情で、しかも美しい。でも、やっぱり、ここ何年かで気候が変になっているような気がして仕方ありません。それが肌に感じられるようになりました。何十年単位の大きな、地球にとってはそれでも小さな変化といえるのかもしれません。果たして、どこまで環境破壊のせいなのか、私はうとくてよくわからないけれど。
私は花鳥風月にうといほうかもしれません。しかし、最近、詩に<自然>が時々出てくるようになりました。<反季節>と思った時期もあったりしたのですが、不思議なものです。
私は絵を描くのが好きだったと今日思い出しました。私がデイケアで使っているコップは、絵の具の絵柄で、それで思い出しました。今日『ファイン』という絵描きの青年のマンガの一巻を発見して、私は<表現>というのをどう考えているのだろうと思いました。でも、はっきりわかりません。なぜか、しりあがり寿の『マンガ入門』を読んだりしていました。マンガと詩になんか関係があるのだろうか?ないかもしれません。読者ということでいえば、詩とマンガは対極です。マンガは読者にとって、つまらなければ、打ち切られます。逆にいえば、それだけお客さんがいます。私は、自分の詩をほめられたら、ニコニコします。でも、ほめた人が、ふだん詩に接していない人であると、なぜか、とてもうれしいです。なぜかなあ?<表現>というのは、私があること自体が神秘であるのが、なぜか(本当になぜかです。理由は色々あるとしてもなぜかなので、芸術は面白いのかもしれません。すぐれたマーケティングをもつ、しりあがりさんの本をもう少し読む必要があるかな)不意に人の心をつかまえることがあって、その瞬間がとても大事だと思います。宗教とはまたちがうのかもしれないし、似た部分もあるかもしれないし、よくわからないです。
関係ないかもしれませんが、ミスチルの『シフクノオト』は音楽もメッセージもポップス(?)が持ちうるいいものをもっている気がしました。個人的な感じなのですが、今日すんなり入ってきました。『タガタメ』のような切実なものも含めて。アートワークもいいです。クレヨンで書かれたようなジャケットで、結構好きです。
Nov 07, 2006
木枯らし
今日、木枯らしみたいのが一日中、吹いていて、一気に寒くなりおった。少し驚いている。からだも、びっくりする。鍋を食べた。郵便が届く。その中身は、また、整理してお伝えします。少なくとも自分にとってはうれしいお知らせができるかと思います。自分の思っていることは、必ずいい意味でも悪い意味でも、どこか伝わってしまうし、伝わるものだと最近思う。統合失調症では「つつぬけ体験」というのがあるらしいが、私は、それを常に感じているわけではない。けれども、どこかで、味わっている。では、他者というのはいないのかというと、他者はいる。いるけれども、どこかで、「私」が底抜けになっている感じが私にはある。それは恐いことでもあるし、世界を感じることだ。
私は、私が存在することに、いつも恐れを抱いてきた。それは、ずっとそうで、みなさんも、そう感じておられるかもしれないが、私はずっと恐かった。今では、それを感じにくくなっているけれど、それでも感じる。そして、それは、人前では言い訳にならない。そのこともとても恐かった。そして、今でも恐い。
『ガーネット』の50号を知り合いに読ませていただいた。とても、力がこもっている特集で、すべての書き手が、どこかで読ませる。大橋政人さんの「命座」という詩。私の「白い息」という詩と発想が近いような気がして、ずっと先輩ながら、親近感を覚えた。「るなぱあくが正しかった」はすばらしい論文である。高階さんとの面白いコンビネーションである。神尾和寿さんの「現在詩」の特集の文章、私もずっと考えていたことで、お手紙したくなったくらいだった。全ての掲載作に触れるとネタばれになってしまうので、全てについては書かないが、私は楽しく読んだのでした。景色の見える詩が多くていい。
Nov 06, 2006
器量の小ささ
自分の器量を超えたことをやろうとするのは、立派で、しかし、時に、見苦しく見えるときがあることに注意したい。現政権がやろうとしている、諸々の重大な戦後体制の変更は、そういうものだと私は思う。戦後体制がもうだいぶ年をとっているのは、事実なのだが、ただ、ジジイだから変えようというのは変だ。私たちの生活にとって、何が切実かという点から、問いが立てられるべきなのに、そうなっていない。問うのが、大事なのに、きちんと問われていない、そういうことが多すぎると思う。話はかわって、権威主義も醜いが、時折、自分が権威を手にできないから、既存の権威を批判するものがいるような気がする。どちらも、私の心の中にあると感じるときがある。そういうのを感じると、自分の小ささというものを感じる。
ここ半年近くフォーラムで投稿していない。うむむ。でも元気にやっています。ちょこちょこ詩も書いてます。
Nov 05, 2006
広島に行ってきた

昨日、大学時代の友人の結婚式に、広島に行ってきた。なかなか、いい結婚式だった。おめでとう!で、帰りに別の友人と平和公園を散歩した。ここが廃墟だったのかと幻視する。イデオロギーとかは抜きで。広島、長崎の原爆については、子どもの頃、人権教育で、映画とかが授業で、やっていて、映画を見たあと、こわくて、給食が食べられなくなったことを覚えている。連休もあって、たくさんの人が平和公園に来ていたのが、印象的だった。修学旅行生も来ていた。カップルもいた。道のすぐそばにあった。なんか、ふつうの景色の中に、痕があるというのがすごいとおもう。何よりカップルがデートしていたり、真面目に見に来ている人がいたり、いろんな人が来ているというのがいい。そういうのが大事だとのんきな11月の暑い日に思うのだった。結婚式帰りなので、白いネクタイははずしたが礼服のまんまだった。
帰りの電車で昨日紹介した森毅の『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』を読む。すばらしい。『ファイン』という若いアーティストのマンガを読む。これも面白い。
Nov 04, 2006
ぼくはいくじなしと、ここに宣言する

昨日はちょっと調子悪かったが、CDを返しに行ったり、ベルトを買ったりする。他はほとんど寝ていた。河島英五の『元気だしてゆこう』はこういうとき励まされる。他は森毅の新刊を久々に買う。森さんも、昔勇気づけられた一人だ。タイトル、装丁ともにいい。タイトルは『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』である。少し前は弱虫系の本も流行っていたけど、最近はマッチョな言説も多い中、彼の時代に流されなさを感じた。今日は知り合いの結婚式なので、その広島行きの電車の中で読もうかな。
Nov 02, 2006
流れる雲

朝からカウンセリング。今日は、先生がカウンセリングをどこで終えるかということを話された。私はびっくりしなかった。前夜、河合隼雄と鷲田清一の「臨床とことば」を読んでいて、カウンセリングを終えるタイミングみたいなものについて、話されたことが、頭にひっかかっていて、符号みたいなものを感じたからだ。だいぶ自分なりに利用できているので、ひと段落したら、どこかで、ぽつりと終わりがくるかもしれないですねと話した。この世界には、多くの苦悩を持つ方がおられて、先生は、そういう人のために仕事をしているのだった。私は安定してきている。そう遠くない未来に終わりが来ると思うとせつない気持ちになるけれど。
帰って、はっぴいえんどの「風街ろまん」(やはりかっこいい)、河島英五のCDを聴く(このベスト盤は、代表曲がダブって入っていて、そこはレコード会社がせこいと思う)。河島英五は十代の頃から好きだった。「だれかが風の中で」は大きいうた。痛みがありながら、生きている。かっこいい!勇気づけられる。そして「流れる雲」は代表曲ではなく、いい意味で小さな小さなうた。とても沁みる。自分の未来に思いをはせ、この小さなうたが、そっと、大きな大事なものを、感じさせてくれる気がした。こういう歌うたいはもう出ない気がして、それが切ない。
Nov 01, 2006
お久しぶりに
ちょっと更新します。最近は原稿をこりこり書いておりました。先週の土曜日は、猫月亭さんが、石川さん、見に行きました?といわれて、すっかり忘れてた映画「太陽」を見に行きました。たぶん、悲喜劇というのでしょうが、わりかた天皇に好意的に、ときにひややかに描かれていて、私はイッセーさんの演技が、何かものまねともネタとも何ともいえない感じで笑ってしまいました。結構笑いが起こってました。でも、昭和天皇がいわゆる「人間宣言」(本来は神格を否定しただけ)をしたからといって、一瞬でもあんなふうに喜んだとも思えません。草稿を準備した人が自殺したという、悲劇をつけていますが、私はもっと昭和天皇は現実的な人だったと思います。少しかわいい人にしすぎだと思います。第七藝術劇場はけっこう社会派ものが多いようで、三池炭鉱や平壌や、六ヶ所村など、深い題材の映画が上映されているようで、三池のやつは並んでました。帰りベトナム料理を食べました。夜見たドラマの「弁護士灰島秀樹」あまり何も考えなくてよくて、八嶋さんもよくて楽しかったです。日曜は忙しかったです。ふたつの詩の集まりに出ました。
月曜は疲れが出たのか、寝てました。ソフトバンクがなにやら「予想外割」で問題を起こしているようで、云わんこっちゃないなと思いました。焦りすぎ、ソフトバンク。
昨日は診察に行きました。私がお礼状をすっかり忘れて、冷や汗を書いたと言うと、そういうのもSST(社会的技術訓練)ですよ、学習したのだから今後に行かせばいいですよ、今は社会に慣れていく段階ですと云ってくれて助かりました。で、原稿もできました。
Oct 27, 2006
こわれもの
なんだか、疲れていた。その疲れ加減が、何か悩ましい。不器用。そんな言葉が頭に浮かぶ。私は不器用といえるのか。この世界には、私とは質的にちがった不器用さをもっている人がいるという感じがした。そして何が不器用で、何が器用なのか、はてしなく考えて、気が遠くなる思いがした。その他に、なぜ私は他の人の生きている様子を見て「つまらない」と思う権利があるのだろうかなども考えたりする。主観にすぎないのだが、主観というのは色んな意味で、こわい、つわものである。それと同時にほとんどどうしようもなくもろい気もしたり。Oct 25, 2006
巣鴨の地主
安達哲「バカ姉弟」1~3巻を仕事が終わって帰ってから、読了。マンガ。姉弟は地主の子であることが、じょじょにわかってくる。どこか不思議なパワーをもった子どもたち。地主という設定が、非近代的で、超時代的である。しかも名前まで「地主」なのである(笑)設定は巣鴨だが、巣鴨というのは行った事ないので、どんな感じかわからない。どんな町だろう?だけど、知らないのに「ふーん、巣鴨なんだな」と妙に納得してしまう不思議さがある。懐かしいけど、どこか乾いていて、そこに味がある。この著者、やはりただものではないようだ。4巻まで出ているようだが、しかも大人編まであるというではないか。いい短編を読んだような読後感がある。Oct 24, 2006
道ならぬ恋
今日、買い物に行ったついでに、すごく久しぶりに、文芸誌を手に取りました。一時期、図書館などで、読んでいたことはあるのですが、大変疲れるのでやめていました。ひとつの論考(加藤典洋「太宰と井伏」)とエッセイを読んだだけです。論考のほうは、何か、この人にしては、調べものがちゃんとしていないなと思いました。もちろん批評家は考証史家ではないのですが、種本が猪瀬直樹にほとんど限られているというのはいただけません。でも、加藤には、独特の倫理的主題があって、思う人は、「ああ、まだ戦前と戦後の対比やってんの」という感じかもしれませんが、太宰がなぜ、死んだのか、ということに、今までにない取り組みをしている点では興味深い。最初に離婚した女性や、戦争の死者に対して心痛めて彼が自殺したのではないかというのは、事実との整合性は別にして、新たな視点だと思った。少し、加藤の倫理のためにされている点はあるのだけど。そこがいつもひっかかるけれど。あとびっくりしたのは車谷長吉のエッセイで、エッセイなのに「上述の愛人と「道ならぬ恋」をするようになったのだった」と書かれており、それが最後の行で、太宰の話の後だったので、びっくり。エッセイで、こんな終わり方はすごいなあ。連載なのだろうか?
Oct 23, 2006
おばあちゃんの様子
今日は雨の中をカフェに行ってきました。カフェで腹ごしらえをして帰ったら、詩誌の感想のはがきが届いていました。ネットでは足立和夫さんや、木村和史さんが灰皿町に感想を書いてくれています。お便り、メールを送っていただいた方、感想うれしいです。ありがとうございます。
父が昼にこっちにきて、お米と鯖のきずしをくれました。夜にぎりにして早速食べました。あぶらがのっていて、おいしかったです。
〆切が近く、一作、詩を書きましたが、できは充分とは云えず、もう少し直さねばと思います。
父がおばから、聞いた話によると、母方のおばあちゃんは、胃にチューブをいれる手術が成功したそうです。少しずつ、呼びかけに大して反応がかえってくるようになって、チューブを通す前より、少し状態がよくなったようです。
おばあちゃんの様子
雨です。雨の中をカフェに行ってきました。腹ごしらえして、日記を書いています。詩誌を送ったところ、けっこう好評で、ウェブでは、足立和夫さん、木村和史さんが灰皿町で感想を書いてくれています。お便り、メールなども、来てありがとうございます。
今度、詩誌に参加するので、何を書こうかなと思っていますが、詩は一作書けましたが、まだもうちょっと直したいです。プリンターの用紙を買ってこないと。
母方のおばあちゃんは、無事胃にチューブをいれる手術が成功したそうです。おばの話によると、呼びかけにこたえたり、少しずつ元気になっているようです。
昼一人というのはけっこうさびしいなあ。
Oct 22, 2006
バカ姉弟

今日はドードーの公開合評会に行ってきました。楽しかったです。様々な方とスムーズに話せてる気がしました。私が、古谷実のマンガが面白いというと、「バカ姉弟」というマンガが面白いといってくれた方がいました。それから帰ってきて、「容疑者室井慎次」を見ました。これは去年ふらりと見に行ったのを覚えています。
Oct 20, 2006
おいしい食卓
晩飯は、とろろ入りオムレツを作りました。たまごに擦った山芋をいれて、塩、コショウ、砂糖で味付けします。お好みでいいのですが、甘すぎず辛すぎずがいいみたいです。それをかきまぜておきます。切ったしいたけを軽くゆでます。適当な大きさに切ってください。あと納豆も用意してください。フライパンを熱し、サラダ油をたらします。そこにとろろ卵を流しいれてください。そして、しいたけと納豆をまんなかに入れてください。あとは、オムレツを焼く要領でやってください。けっこうやわらかいので、型崩れに注意してください。焼きあがったら、お皿にのせて、お好みなのですが、軽くしょうゆをたらして、マヨネーズをかけてください。かけるのはお好みです。お好み焼きとも、オムレツともちがう面白い食感が味わえます。具も私はヘルシー風にしました。これもお好みで。Oct 19, 2006
戦争の気配
近頃、いろいろニュースをやっていて、物騒な話は飛んでいるが、何か結構、不気味に静かであるような気がする。気のせいかな?そうでもないかな?別に脅すようなことは書きたくないが、ネットを見ていたら、公明党の人が米軍が行動するときは、協力したほうがいいのではないか、みたいなことを云っているらしいし、麻生太郎さんは、非公式ながら、日本の核軍備について、言及したそうだし。本人は「記憶していない」らしいけど。
友達のメールで北朝鮮の核がなんか物騒ですねとあったが、私は、「心配しても、我々の力ではどうしようもないから、心配すらできない」と送った。北朝鮮政府が核を持つのは、まずいことだが、かといって、先進国(特に安保理に入っているような国)は、大体もってるし、日本はもっていないとされているが、北朝鮮政府に比べたら、簡単に、核を開発できるだけの技術を持っている。
制裁しないでどうするよと聞かれたら、私は責めるべきは核実験よりも、北朝鮮政府が行っている為政というものが、国民の多くにどれだけの非人間的なことをやっているかだと思う。いくら絶望があっても、他の国は、あそこまでしてるか?だから国ごとつぶせというのは暴論である。まかりとおっているが。人道支援準備のために調査団を派遣とかいったら、かっこいいのになあ。そういう論点が全く無視されるとイラク戦争と全く同じような理由で戦争の準備がされかねないと思う。
大体考えればわかるじゃない。北朝鮮政府は、いつも何かのおこぼれが引き出したかったり、つまんないプライドのために何かをやらかすって。だから、そんなの一々、怒ってたらキリないですよ。あきらかに、近頃の動きは、アメリカが戦争し末世!みたいなお膳立てじゃないのでしょうか。政府のみなさん、イラク戦争に何学びましたか?というくらいなのだ。たぶんある意味で、勉強したので、最初に書いたように用意が早そうだ。
残念なことに、今、石橋湛山みたいな立派な人がいて、でかい雑誌で「戦争は国益のためにならないから、やめなさい」とか書いてくれないので、私個人はネットで細々と書いているわけだ。マスコミは粛々と「決議採択サレマシタ」みたいなことを言っているだけなのである。
私はナショナリズムは持たないが愛郷心はもっているつもりだ。そのために何をできたかといえば、何もできていないけど、どこか虚ろな、あんまり美しいとはいえない国土になっている感もなくはないが、ハナッから、そうだったので、ここが私の生まれた国くらいには思っている。「美しい国」だから、愛せなんておかしい。二重に化粧をするようなもんで、「美しい国」は恥の上塗りである。もし、対北朝鮮戦争が始まり、多くの無辜の民だけが死に、大量の難民が出て、やけくそで発射された、テポドンだかが、韓国か、日本の町に命中したら、どんな気分になるだろう。もし、そこまではならないとしても。あほな世界秩序に生まれたことを呪う人がいっぱい出て、世界がどんどん絶望化していって、悪循環になっての繰り返しかもしれない。
戦争はどこかで絶対の拘束性をもつので、それで、自由が奪われるのがいやなのだ。私は自分が生きている世界が嫌いになりたくないし、自分がささやかでも幸せになりたいというわがままで、戦争は嫌なのである。もうお偉方の都合でなってしまったら、それでも、私は世界を愛していたい。ひどいから、いやだけだったら、生きていけない。むろん、いやなことはいやというのである。いっぱい嫌いなものがあるとしても。たぶん平和ボケの頭で考えてます。それはわかっています。もしも、戦争が起こったら、北東アジアは、大量の難民問題が出てきて、それを解決する必要があるだろう。どうするよ。日本には未知の経験となり、どういうことを日本ができるのだろうか。
元気ですか。
今日カウンセリングから帰る道すがら、電車に乗っていて、布施あたりだろうか、乗ってきた女の子は、ゴスロリ系の黒い服を着ていた。河合隼雄の「対話で探る「新しい科学」」は少し古いけど、読んでいて、とても面白い対話集なのだけど、その女の子の服は胸もとが結構開いており、驚いた。私はこういうファッションの女の子をあまり見ない、地味な生活を送っており、でも、ゴスロリの娘も、そうなのかなと思ったり。少し、エロい格好をしているわけだけど、本人の意識はちがうかもしれない。何云ってんだろう、私。元気ってなんだろうと考えていて、カウンセリングで自分のからだが活性化してきているという話をしていた。ただ話をした後は必ず疲れがくるので、昨日仕事をしたのもあって、帰ってからけっこう疲れがきました。で、野口晴哉の「整体入門」を気晴らしにパラパラめくっていたら、火事場のバカ力の話が出てきて、野口さんは、そういう力はもともと人間にあるもので、普段出してないだけなんですみたいなことをいっていて、元気とは自然に出るもんだ、でもそれが抑圧されとるみたいなことをいっていて、こういう文章を素直に読めるようになるだけ、全体的には、元気のなさがマシになってきたのかなと感じた。あまりにも元気がないと、素直に読めないもんです。
「対話で探る新しい「科学」」の鶴見和子さんの、南方熊楠の使う「縁起」という言葉の説明が面白かった。縁起の「起」は何かと何かが出会って、それをきっかけに何かがちがう方向にいくことをさすことらしい。例えば子どもの頃友達と寄り道なんて、そうですよね。ちがうかな。元気は変化を生むのですね。文脈を変える力というか。
Oct 18, 2006
上野樹里

ドラマ「のだめカンタービレ」に出ている娘は、荻原浩原作ドラマ「僕たちの戦争」に出ていた娘だったのか!上野樹里さん。うーん、どっかで見たことあると思ったけど映画もたくさん出てるのね。ちょっとくさいけど、演技はうまいなあ。ちょっと田舎くさいのが個人的にいい(笑)
「僕の歩く道」2話を見る
どこまで、リアリティを求めるかみたいなことになってくると思います。設定、人物像全てです。見る人によって、求めるリアリティの計りが変わってきます。障害者を描くのは、難しい、という感覚があります。なぜ難しいのかな。それは、見るものだけでなく、作り手もそうだけど、その人と障害者の関係性にあるのではないでしょうか。しかし、それはどんな対象を描くときもいえるでしょう。そしたら、何がということになります。ひとことで「偏見」と云いますが、本当に様々な立場があると思います。私は成人の、クサナギくんがやっているような感じとは少しちがう、何人かの自閉症の人の主に生活面でのお手伝いというのをやっていました。だから、就労のほうは何ともいえないのですが…もっと、全身で表現するのではないかと思ったりします。仕事で辛くて寝れないシーンがあるのですが、何度もトイレに立ったり、声を出したりしないのかなと思ったりしました。でも、あるいはそういう人もいるのかもしれません。私の情報も限られています。色んな家庭があるので、なんともいえませんが、お金がありそうです。そういうことは、とても大事で、私も仕事のときは、なるべくご家族がどんな感じか知りたいと思いました。家族だけが知っている情報があるからです。私は結構お母様方と話すほうだったと思いますが、本当に目からウロコだったり、そうでなかったり、色々です。いずれにしても、大切な情報でした。ご家族の状態というのは本当に当人にとってかなり大事です。クサナギくんは相当勉強したと思いますが、もっと、意外なことが、そしてつまらないことがあっても、いいような気がします。自閉症の人は単なる規則遵守の人ではないと思いますから。
ドラマは、状況をドラマなりにデフォルメしまして事実の感触を伝えます。一番の理解者のマジメな幼馴染が趣味の悪い人と不倫してたり、お兄さんの意見がわりと即している感じとか、いろいろ嫁姑が大変とかは結構うまく描けているんじゃないかなと思います。
なんだかまとまりのない話になりましたが、少しだけ、これからも行く先を見て、このドラマの志しがどう伝えられるのか見ようと思います。単なるショーに終わってもそれは仕方ないかもしれません。でも、飼育係で働くことになったので、作り手はより困難な道を歩くでしょう。
Oct 17, 2006
レヴィナス入門

昨日は何か少し悩みモードになっていた。朝になった。そういうときは、不思議にうれしいお便りが届き、私を勇気づけてくれる。詩誌が届いたという感想のお便りだった。何か不思議な力で人はつながっているのだろうか?
スガシカオばかり聴き、熊野純彦「レヴィナス入門」を読了。熊野氏の、ひたむきな、粘り強い論述にはげまされて、わりかたスムーズに読み終える。とはいえ、いくつかの点で、少し不満もあったが。それはさておき、「実存から実存者へ」は読んで、生きることそのものの「疲れ」に心ざわめいて、震撼された思い出がある。レヴィナス自体の本は、なかなか晦渋なのだけど、この本を読み終えてから「存在の彼方へ」(「存在するとはべつのしかたで」という訳し方があって、こっちのほうが好きだ)のパッセージをいくつか読むと、すっかり見通しがよくなっていたりする。
ハイデガーが不安とよんでいたことがらを、痛みや苦しみ、さらによろこびでさえも、その身に引き受け、引き寄せられ、その事柄から遅れて、感じるだけしかない「感受性」と呼んでいることがレヴィナスの肝のように思った。「感受性」はどこまでも受け身なもの(受動)であるから、どこまでも他者に遅れる。私には受難、受苦という言葉が浮かんだ。レヴィナスの「責任」というのも、たぶんに「受け身」な概念であって、声高に正義を語るというのとは全然ちがうと思った。むしろ何かに全身で苦しむこと、呼びかけにたえずさらされている感覚、自分は何も悪いことしていないのに、それでも、それだからこそ、心に迫ってくる感覚、その描写はリアルというほかない。そこには「他」があらわれているのだ。「顔」についてはこないだおばあちゃんに会ったので心に迫ってくるものがあった。老いの哲学でもあったのだ。弱さが弱さに出会うことなのだ。
レヴィナスのいう「感受性」は私がいじめを受けていた昔の感覚に近いものかなと思った。ある種の災厄に出会って、語りがたい感じ。そんな甘いもんじゃないかもしれないけど。また、「責任」はよせてはかえす強迫観念に描写が近いと思われた。実際「強迫」という言葉を調べたら使っていた。レヴィナス自体は健康な哲学者なのだが、生を悲劇であり、しかし悲劇でなくという感じでよじれていく感じは、20世紀の精神と思えたし、そうでもなく超時代的であり、超個人的とも思えた。
Oct 15, 2006
帰ってきました

昨日の晩帰ってきました。で、今日は寝ていました。そんなにしんどくはないのですが、やはり少し疲れたようでした。
母方のおじいちゃんは亡くなっているのですが、玄関にこんな風に、帽子がかかっています。おじいちゃんの懐かしい歩く姿がしのばれるようです。
おいしいもの、たくさん食べました。鮎や、さんまのお寿司や、お好み焼き(金時豆が入っています!)、うまかったなあ。
空もきれいでした。夜って、ちゃんと暗いもんなんだなあ。当たり前か。それが当たり前でもなかったりしますね。
母方のおばあちゃんに会いました。おばあちゃんは病気ではなくて、別に痛いとかはないみたいです。でも、意識というか認識というか、そういうものは少し遠くなっていて、うつらうつらしていました。しじゅう口をもぐもぐしていて、少し痩せて小さくなっていて、もう85才なのですが、私は切なくいとおしく、その姿を感じました。けして、上手に生きていけるタイプではなく、ひとの気持ちを逆なでするような、物言いもありました。だから、いろんな人に嫌な気持ちをさせた人かもしれません。私はそのようなおばあちゃんを子どもの頃から、なんか素直な人じゃないなとか思ったりしたこともありました。こうして、会ってみて、おばあちゃんなりに、おじいちゃんが亡くなってから、さびしかったんだなとも感じました。しかし、苦しそうではありません。それで、とても安心しました。大変だろうけど、また会おうねと思いました。私が手を握ると、少し目が大きくなって、こっちを見てくれたんだなと思いました。これからが大変かもしれません。そういうことが私にはきちんとわかっていないかもしれない、そう思いながらも、会えてよかったと思うのでした。
Oct 12, 2006
おばあちゃんに会いに行く

仕事でした。ちょっと、暑かったです。ノドが乾いたな。
明日から、母方のおばあちゃんに会いに行くので、2、3日くらい留守します。メールの返信等遅れるかもしれないので、あらかじめ報告しておきます。なぜか、今日、帰ってきてから、スガシカオの歌う”夜空のムコウ”を聴いていたら、ぐっと来ました。なんでかな?もともとは、このアルバム(↑写真)では”ぬれた靴”がとても好きだ。そんなこんなで、いってきます。
拾い読み「小林秀雄対話集」
今日は仕事でした。明日も仕事です。なんかですね、久しぶりに、「小林秀雄対話集」を開いておりました。帯には「近代日本の最高の知性が語る美の真実と人生の妙味」と書いているのですが、中にあるのは、今の文芸雑誌にはのらないような、全然気取りのない対談だと思います。私はしかと小林秀雄さんの全貌というか、なにがしかを把握しているとはとてもいえない立場にいるのですが、ハスに構えてないですね。論理の運びこそ、何だかアイロニカルというか、モダーンな感じなのですが、「そうかな?」とか「そうかね」といっている感じが、やっぱり文学者も生きているなあと思うのです。坂口安吾をいなしている感じとか、なんか正しいとか間違っているとかそういうレベルを超えとります。ぱらぱらしか読んでいないのですが、正宗白鳥がすごいですね。脳がぐらぐらしてきます。以下括弧内は引用です。
正宗「文学って、それは何か知らんけどな、僕はまあ、ヤソなんかに入ったこともあったが、僕は文学なんかどうでもいい。人間の生きる悩み、どうして生きるか。この世に人類というものが発生した苦労だな。そういうようなところに、いつも惹かれるんだな(中略)」
「どうでもいい」ってすごいな。また、こんなのも。
小林「藤村という人はまずいですか」
正宗「まずいな。それは徳田秋声なんかの小説よりまずいですよ。(中略)(「破戒」、「東方の門」「夜明け前」は:石川註)自分の呟きをネチネチ、ネチネチ書いとるな。」
そしてこんなことも。「あれはヘタなところがいいんだな。下手でこつこつ苦労してたんだな。あの女の関係だってそうだ(中略)」
キリがないのでやめときますが、今の時代には見られない、率直な感覚があります。大きな感覚で藤村に対しています。「人間の生きる悩み」も藤村に対する感受です。文学って、こんなんだったんだなあ。深沢七郎とのつきあいでも思いましたが、白鳥さん、すごいです。小林さんの「まずいですか」というツッコミもいいですね。
*「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫2005より引用
Oct 10, 2006
橋
お昼寝をした。それから、郵便局に行き、冊子小包を送った。そして、コーヒー豆を買いにいった。マイルドブレンドを200g。本屋により、何冊か本を買う。次に書くネタを探しているのだ。レヴィナスのことが、頭にあったり、ニーチェだったり、色々浮かぶのだが、何しろ、独学なのと浅学なので、もっとちがう切り口も考えてみたり。ニーチェは今の人間存在を「超人」へと至る「橋」つまり過渡的なものと規定していただろうか。うろおぼえだが、たぶんそうだったと思う。これはカフカの「橋」という短編と符号するのではないかと考えたりする。「ぼくは硬直し冷たかった。ぼくは一個の橋だった。ぼくは深淵の上にかかっていた」。存在するということ。それは過渡的であること。深淵の上にかかることではないか。このことをもしかしたら、掘り下げることができるかもしれない。
SMAPのクサナギ(字が出ない。御免)くん主演の「僕の歩く道」は自閉症の人が主人公のドラマだ。自閉症の描き方よりも、彼を取り巻く様々な人の描き方がいいなと思った。障害とは関係性の中で、現れてくるし、その中で、どうつきあっていくかということだ。そういう意味で関係性ということを捨象して、独立の「自閉」というものを想定すると、途端に理解不能になってしまう。偏見のない状態というものはない。あったら、それは不自然な社会だろう。ある種の弾圧がある社会はそうかもしれない。自由な社会は、それぞれの偏りを認める。その中でどうしていくかだと思う。今、啓蒙されたり、想定されたりしているより、わたしたちはより多様な付き合い方を障害を持つ人たちとできるのではないかと思い描いてみたりする。政府の政策的な歪みにもかかわらず、そうできるかもしれないと私は思ったりする。
隣り合わせ
今日はあまり何もしていない。空が雲が美しい、そんな日であった。まさしく秋、秋である。昼は私が焼きそばを作った。何だかおなかが減るのだが、ここは我慢。夜は西京焼きと豚汁を食べる。それから、古畑任三郎を見る。SMAPと共演した再放送だが、けっこう古びてなくて面白い。知人からメール。体調を崩されているようで心配。人はつねに病と隣り合わせだな、などと、当たり前のことなんだが、感じる。Oct 08, 2006
犬の散歩、ぽえざる

昨日は、彼女の実家の犬と遊んでいた。ひざに初めて乗ってくれて、うれしかった。たくさん、かわいいかわいいした。
そして今日はぽえざるの日だった。前の晩に薬を飲まないで寝てしまったので、ぼんやりしたまま、参加する。われらが「かたつむりずむ」は好調な売れ行きであった。現代詩フォーラムの人たちの何人かとは(大覚さん、六崎さん、清野くん、窪さん、佐々さん、麻村くん)会えたが、ミチヨさんとは、すれちがってしまったようだった。残念!お友達ともしゃべる。(木谷さん、果歩ちゃん、河上さん、湊さん、りっとさん、佐々木さん、イジー、藤井五月さんなどなど)犬飼愛生さんから新詩集をいただいた。私のブログに来てくださる高野五韻さんと会うことができた。うれしかった。ちょっとしんどかったので、2次会はパスした。今日、様々なご縁でお会いできた皆さまありがとうございました。会えなかった方、すいませんでした。
田中宏輔さんとお話できたことがとてもうれしかった。宏輔さんはかっこいい。だいぶお痩せになっていて、ちょっと心配になったりもしたけども。
Oct 06, 2006
湧いてくる
今日、デイケアに行った。午前は習字で、午後は、自主活動。私は読書することにした。昼休みは何かだるくて少し横になったりしていた。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をちびちび読みながら、色んな音が聞こえてくる。(「世界の終わり」の「私」は35歳なのだ。自分が35歳になったら、何か大きな変化の前か後にいるかもしれないという予感がした。)話し声、窓の外の音、ビル・エバンスのJAZZ。途中、職員さんにmixiのことを説明したりする。あるメンバーさんが、ロックについて、語っているのを遠くで聞いて、私はなぜかポップスが聴きたくなってしまった。なぜか、わからない。それで、好きな曲を歌っていた歌手の名前を必死に思い出していた。そんなこんなで、デイケアはお掃除をして終了して、私は帰り道、名前がフィル・コリンズだったことを思い出した。中古屋に行き、フィル・コリンズのアルバムを安く買った。私の好きな曲が入っていた。Another Day In Paradiseだった。今、フィル・コリンズを聴く人は少なかろうと思っていたら、mixiのコミュに彼のファンのコミュがあって結構な人数だったので、驚いた。それから、ポップであることはどういうことかとか考えながら、ビーチボーイズのジャンルを超越した”ペットサウンズ”を聞いたりもしていた。いくつか考えが湧いてきて音楽はいいなと思うのであった。思考の触媒となることがある。Oct 05, 2006
おばあちゃんの現実
私の母方のおばあちゃんは、自力で、ものを食べられなくなったそうで、管を通す手術をして、そこから、栄養をとることになったと何日か前に父から聞いた。最後まで、自分で食べさせてあげたいと私は思ったけど、それは、あるいは私の身勝手な考えかもしれない。どこまで、現実が進行しているか、私は、今度、親とおばあちゃんのもとに行って、その一端を目の当たりにすることになるだろう。母方のおばあちゃんはけして、性格のいい人ではないけど、私の今生きている、たったひとりのおばあちゃんです。今年の5月におばあちゃんのいたグループホームに会いに行ったときは、半分眠っていたけど、私のほうを見てくれたことを覚えている。今度、会ってどう感じたかを書くかどうかはわからない。Oct 03, 2006
先生が笑った
今日も少し疲れが残っていたようで、診察に行って血圧を測ると、上が100を少しきっていた。先生に最近の様子を伝えて、私の詩が掲載された詩誌「索」を見せた。私の詩を読みながら「発想が面白いなあ」とニコニコしておられたので、あまりお世辞を云うような先生ではないので、うれしく、安心した。以前友達にも見せたが、「野原のデッサン」より元気になってますねと言う。「商品になりますよ」と言ってくださる方もいる。電車の行き帰りは、時間がかかるので、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読む。「ハードボイルドワンダーランド」のほうで、計算士の頭の中に「世界の終わり」がインプットされているというくだりが面白かった。何か自分の宿命が意にならないという感覚とでも云おうか、ある種の決定論のようだった。そこから、どうぬけだすのかということなんだろうかと思いながら読んでいる。
詩の先輩と電話した。
木村和史さんの小説「ふたつの流れ」感想
木村和史「ふたつの流れ」感想石川和広
はじめて、木村さんの作品を読ませていただいてから、安易に感想は書けないなと思って間を置いて何度か読んでみました。
私も3年間、知的障害者と関わったことがあったので、はじめは、主人公の障害者とのかかわりや仕事ぶりといったものに目が行きがちでした。そう読むのも、題材からして無理からぬ面があるような気がします。むずかしいことですから、色々そういう意味で意見のある方も読者の中にはおられると思います。しかし、仔細に眺めてみると、いくつか感じられることがあります。
仕事をすることは、世界や人にある仕方でかかわることです。かかわる中で、その人が世界や人をどうみているかということがあらわになっていきます。知らず知らずの間に、固定観念を自分の中に作ってしまい、それに無意識のうちに縛られていくという事があると思います。この小説の中では、「自閉症やダウン症の人」の気持ちがわからない、また、相手も主人公の気持ちをわからないだろうと感じる形で、あらわれてきています。主人公はそうでない健常者に対しても、少し壁を感じているようです。
私は、障害者に対する壁というのは、ある程度解体できるのではないかと思っていますが、それは、「もっと障害者を理解しよう」ということではありません。いくら障害者に対する壁が解体されたとしても、何かまだ残るものがあると思います。両者に対する主人公の持っている壁というものは、生きている中で、健常者/障害者という枠をこえて、その人が獲得した傾向なのではないかと思います。それは善悪という評価を超えたものであって、私は木村さんが「通じあえなさ」とか「どうしようもなさ」を描こうとして、主人公にそれを託したのではないか、そう思うのです。そこにこの小説のミソがあるのではないか。
この主題はもっともっと引延ばすことができると思います。私の職業的勘からは、修さんが段差をとびこえてきてくれたとしても、そこに安んじたままではいられないと思います。その意味でこの小説は大きな流れの中のあるプロセスだと思います。木村さんも、もしかしたら、同じようなことを感じておられるのかもしれないなと思います。
Oct 02, 2006
スガシカオと槇原敬之を歌う


今日も疲れが出ているなと思う日であった。うとうとしたりしながら、時を過ごす。本もあまり読まなかった。少し元気を出そうとカラオケに行った。スガシカオをたくさん歌った。槇原敬之も歌った。スガの詩には毒がある。しかも歌うのは難しい。その点、槇原の歌は、毒がきれいに抜かれて純情可憐な歌になっていて、素直な気持ちで歌いやすい。これは全て個人的感想だ。しかし、スガのアンバランスなバランス感はすぐれていると思うのである。毒と言うのはスパイスとして、とても大事で、あまり歌われないだけに趣がある。槇原はとびぬけているところがあって、あまりファン以外には理解されていないのだが、大切なシーンを取り入れて、すっと胸に入ってくるのである。両者とも、技術的にとても高いミュージシャンだと思っているが、両者とも生き方という点でとても不器用なところがいい。この二人が両方とも好きな人というのは、あまりいないのだが、言葉を届ける人としてすばらしい。これもあくまで個人的感想です。歌ってて歌詞が入ってくるのです。調べてみると槇原の愛犬が亡くなったらしい。
両者の好きな詩人の違いも面白い。スガシカオは荒地派の鮎川信夫が好きで、槇原敬之は四季派の立原道造が好きだ。何となくわかる感じでしょ。
Oct 01, 2006
戦争が遺したもの
今日は疲れていて家でじっとしていた。アマゾンからメールが届いて、住所の記載が不十分だったようで、ペリカン便に連絡した。しばらくして、2冊の本が届く。藤井貞和「物語理論講義」と、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二「戦争が遺したもの」。「物語理論講義」のほうはじっくり読むとして、先に「戦争が遺したもの」を読むことにした。これがけっこう面白い取り合わせで、鶴見にずばずば聞いている。小気味よい。だけど、心臓の悪い鶴見には堪えたものも、あるだろうけど、死ぬ前に言い尽くしておくように鶴見は語っているようで、凄まじいものが流れていると思った。3者に対して私は好き嫌いもあるのだが、それは置いといてよい縣談になっていると感じた。がんばって読もう。「物語理論講義」も楽しみだ。小説の感想を書いたと、書いたが、その方からメールが来た。喜んでいただけたようでよかった。木村和史さんの小説についてであった。
親になる準備

今日Mくんと飲んだ。彼は、今年結婚して、奥さんが妊娠している。高槻で飲んで、話をした。昔、職場が同じで、仲良くなった。彼は保育士をしているのだが、親の虐待があるそうで、心を痛めていた。そんな親が時々あるのだという。自分は何ができるだろうと彼は云っていた。プライヴェートまで、立ち入る事はできないからだ。彼は子どもが本当に好きだ。その彼に子どもができる。でも、未熟児で産まれる可能性が高いようで、奥さんはNICUのある病院に転院した。奥さんは実家に帰っているようで、さみしそうだった。もしかしたら、危険な状態で、子どもが生まれるかもしれないという可能性と不安を彼は話していた。
私はまだ親にはなっていないけど、お互い時には冗談を言いながら、彼に「今、心が父親になる準備をしているんだろう」と言った。色々ナイーブになっているのは、そのためで、不安になったり考えたりすることはわるくないと。今度また会う約束をして別れた。楽しかった。自分はどれだけのことを聞けたかわからないし、大口を叩いていたのかもしれないが、彼の力に少しでもなれたのなら、それでいいと思う。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいる。100ページをこえて少しずついい感じになっている。
ある人の小説の感想を書いてメールした。気持ちが届いているとうれしい。
それから国籍占いというのをした。結果は「日本人」。なーんだ。以下分析によると
「日本さんのあなたは、陽だまりあふれる公園のような人です。あなたがいるだけでその場が暖かい雰囲気になり、なごみムードが生まれるでしょう。穏やかで静かなのに、しっかりした存在感があります。あなたの微笑みに癒されている人はたくさんいるでしょう。微笑みの奥の別の顔を見てみたい、と関心を持つ人もいるはずですが、なかなか奥の顔は見せません。人をなごませ、楽しませればそれでいいと思うフトコロの大きさがあるからです。そのため、八方美人と受け取られるときもありますが、自分のすべてを見せることが、必ずしもいいことではありません。あなたが自然のままでいられるなら、その姿勢を貫いてください。」だそうだ。?
Sep 29, 2006
弟の個展

今日デイケアから帰ってきて、しばらく彼女の帰りを待っていたら、小さな疲れがやってきた。ここ3日くらいずっと、仕事や何かで外に出ていたので、気の疲れが出ていたようだ。風呂から上がって、今現在は、マシになっている。それで今日は私の弟の個展を見に、谷町6丁目のギャラリーそらに行ってきた。題して「いしかわたけしごと」。いつもうまい題名をつけるなあと感心してしまう。
それはともかく、私は「本性」という2分連作(写真はそのうちの一つ)に引きつけられた。本性を隠しているようにもみえる顔の絵なのだが、本人の顔なのだろうか、好きな人の顔だろうか、嫌いな人の顔だろうか。もっと普遍的なものを感じた。それでいて、たぶん誰かではあるのだ。顔だけ描くというのは不思議な行為に思えてくる。弟の作風はどんどん変化するのだが、ここ数年は淡いタッチで、悲しみや、もっと深い感情を描いていた。今回は鋭い線が強く出ている。しかし、いずれにしてもポップといえるだろう。「顔って不思議やね」と話しかけたくなる。それでいて、突き放す強さを持っている。顔はいつだって両義的なものだと物語っているようだ。私たちは顔を見るだけではなく、顔を誰かや何かにさしむけている。見られ、感じられている。そして、顔は暴露し、隠す。隠すことで何かを訴えている。描くことで、それに近づいては遠ざかる。そうだ。それが「描く仕事」であり、「隠し事」であるかのように。「いしかわたけしごと」は小さな個展でありながら彼のまる「ごと」も少しは覗けるのではないか。作品とはそういうものかも。彼はどんどん大人になっているが、何かを覗いている少年のようだ。個展は明日で終わりです。
猫月亭さんと話していたら、村上春樹の話になり、これまで、彼の小説はほとんど読んでいたのだけれど、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をこれまで読むきっかけがつかめなかったと私は云った。いい機会なので読んでみようかな。
電話
昨日、今日と仕事。今日は一人お休みされていたのだが、にもかかわらず、スムーズにはかどる。作業が滑らかに進む感じがする。私の仕事は2時間ばかりの建物内のトイレ掃除や、部屋の掃除だったりして、使うものもデッキブラシとか、モップなど古典的な道具が活躍するのだが、そういうものはリアルに磨り減っていくので、「してる」感が大きいのである。同僚の方と話していて、同僚の方は早く眠くというかだるくなってしまうので、少し困っているという話をされていた。私は薬の力で寝ているが、薬を飲まないと、どうなるかというと、眠りがとても浅く、次の日がだるく半日ぼんやりしてしまう。夢は十本立ての映画を見るようで、面白いどころか疲れるのである。寝言もひどいらしい。たぶん、ある種の力のコントロールが出来ないのである。薬を飲むと夢は普通に二本立てとかですむし、起きたり寝たりということもない。詩の先輩と初めて電話する。私はドキドキしていたが、気さくに話してくださっていたのでありがたい。私はずっと関西の人間なので、関東の言葉使いは不思議に聞こえる。楽しかった。しばらくウキウキしていた。でも、生駒山の方向を聞かれて、どっちだったけとわからなかったので、私が天然なのが、ばれたと思います。
Sep 28, 2006
モノガタリ
基本的に、調子は普通なのであるが、時々もの思いにふけっていることがあり、これは何だろうなと思うのです。秋だから?うーん、ちがう気がする。時々あたまのネジを巻きなおしてやらないといけません。むかしっから、ぼんやりして一人考えに走りやすいので。自分は、どんくさい人間だと思うのですが、賢いことを書いたり、云ったりしたくなることがあります。そうしないと、昔はバカにされるような気がしてたから。負けたくなかったので(何と戦ってたのかはわかりませんが)本を読みました。本を読むとどんどん一人になっていきました。それで、それではいかんと、からだを使う仕事に急に方向転換したりしたのですが、介護の仕事をしたりしてガンガン勝負していったわけなのですが、病に倒れてしまいました。いろんな人に助けられて今はかなり大丈夫になってきているが、何ごとも恐る恐るです。ちょうど自信のない状態に戻った。無知の知にはまだまだで、何を知らないか、まだわからない点があります。何を語ってもモノガタリになってしまいます。明日も仕事です。
Sep 26, 2006
武田泰淳の本についていくつか。それからお知らせです。
昨日武田泰淳について、佐々木さんから書き込みがあった。それで、武田泰淳について思い出したことについて書いてみたいと思う。忘れていることもあるので、そのあたりはご容赦ください。実家に本の大部分を置いていて、今、手元に泰淳の本があまりない。残念である。記憶を頼りに書いて見ようと思う。読んだ事実より覚えていることが大事だから。私は彼の全仕事に通暁しているわけではないのだが岩波文庫で出た、彼の評論集「滅亡について」が印象に残っている。中でも、三島由紀夫への追悼文は、これは驚くべきもので、三島がドン・キホーテだとすると、武田はサンチョ・パンサに感じられる。武田は三島の運命、その姿というものがよく骨身に沁みていて、文章から悲しみやユーモアすら感じる、壮絶なエッセーなのである。凡百の三島論はどうでもよくなってしまう。そんなことをよく覚えている。さすが僧。生死をまたぐ線というのが彼には実感されている。近代理性、世界、日本、自分、めくるめくものを見つめながら、真摯に一介の俗にまみれた僧であることはどういうことであるか。そんな私が書くということはどんな意味をもつだろう。彼は地べたから考え続けた。彼の中に、「滅亡」ということが、マクロにも、ミクロにもあって、これが彼の思想に脱構築的印象を与えている。「滅亡」は具体であると共に抽象であるのである。彼の独自の歴史思想はもっと注目されてよいと思う。「司馬遷」、小説では、倒れてからの、「目まいのする散歩」を読んだ。「目まいのする散歩」は細部が恐ろしく緻密で最後まで粘り強く生きた彼の姿を思わせる。この本は口述筆記で、その書いた人が百合子さんだということを知った。
というわけで、記憶を頼りに書いてみた。武田泰淳を語る上で、外せないのが、百合子さんの存在である。彼女との出会いは泰淳 にとって大きかった。一緒にいる写真の顔がいい。彼女については「遊覧日記」(武田花さんの写真が入っていて二度おいしい。いとおしくなる景色である)「犬が星見た」とあと何冊かしか読んでいないのだが、冷徹なほど眼のいい人でありながら、暖かいのである。観察者でありながら生きている。泰淳と竹内好が一緒に飲んでいるところが書いてあって、その見つめる眼がすばらしかった。そして、この泰淳との関係は、孤立しがちな竹内にとって何よりのものではなかったかと思わざるを得ない。
お知らせです。笠間書院のホームページのブログに倉田さんの本に関する私の拙文が紹介されました。日記にもアップされていますがリンクします。→こちら。倉田さん、笠間書院の方にお礼申し上げます。
べしみ
林達夫、花田清輝、竹内好(武田泰淳はどうしよう)と並べてみたが、私はこの3人の書くものは、私が言わなくても、すばらしいのだけど、何か非知、非言葉というものを心の中に置いていた人たちだと云ってしまいたい。日本のポストモダンというのを潜り抜けても残ってほしい時間軸の人たちである。こういう人たちがいて、三島や深沢七郎がいるという風景は風情がある。3人は「抵抗」ということを深く考えた人たちである。花田清輝は吉本隆明にぼろぼろにやられたとはいえ、また、あのスターリン礼賛は困ったものだとはいえ、中世を日本のルネサンスとした上で、網野史学の先駆といえるかもしれないし、それより、歴史だって嘘ばっかりかもしれないというデタラメ主義的なことを、フーコーみたいに大掛かりではなくやろうとしたので、網野よりも、注目されなかった分、よかったかもしれないし、岡本太郎と芸術運動をすすめながら、岡本太郎より花田清輝のほうがよほど変な人だったと私は思っているのである。抵抗とは何か?一つには「言葉」に対する抵抗だろうと思う。賢そうな言葉にだまされまいとする精神はみな一貫している。今、養老孟司がオピニオンの分野で活躍しているが、あの人の批評性もきっと、言葉に向けられているだろう。理系、東大でありながら、それが批評になっているのである。花田みたいに唯物論まで飛躍する必要は全くないが、竹内は「中国」の中に、林はデカルトの中にだって、賢そうな言葉に対する警戒心があったといっているのです。武田にとっても中国の歴史というもののどこか「混沌」というものに「天」に対する何かを嗅ぎ取っていたのではないか。林は理性文明の突端で「愚者」の沈黙の巨大さを発見するのかもしれない。
歴史というものの大きさとしょうもなさをよくわかっていたのが、この3人だと思う。この3人は、世界史的な嵐の中で、主体が分裂をせまられるさまを書きとめた日本人である。背景に巨大な世界史がある。
話はかわって、先ほど養老孟司をあげたけど、彼が「無思想の発見」の中で語っていることは大事だと思いつつも、加藤典洋の「日本の無思想」に対して、うまくない読みがされているのは、見過ごせない。というのは、養老は加藤を「思想は言葉にしないと思想ではない」といっている人として槍玉にあげて、自分の「無思想」の発見をさも新しいことのように語っているが、加藤は最後のほうで多田道太郎のこんな文章をあげている。
「面の連想でいえばべしみというふしぎな面がある。べしみは口をぎゅっとつぐみ、眉をしかめ、断じてもの言わぬという表情をしている。べしみという字は唖に通じるので、何を言われても返事はしないという精神の表現である。責任(リスポンシビリティ)ということばがあるが、責任とはリスポンドする(返事する)ことである。問いに対してまともに答えることである。しかし、権威と圧力とが支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することにつながっていく。そこで、むかしの征服され、圧服された神々は、一切新しい神の威力にとりあわぬことにした。それがべしみの起源である」
沈黙というのがどれほど苦しくて大変でも情けなくても私たちはそれを生きる。そこから生まれるのが文学だと思う。
Sep 25, 2006
読めなくなっていた間に
今日は、大森望・豊崎由美「文学賞メッタ斬り!リターンズ」を読了した。最近の文学事情に疎かったので、というか立ち読みしてて面白かったので、昨日買った。ゲストに島田雅彦を迎えている。2004から今年にかけて、文学賞の体質、作品についてわりかた徹底的にそしてわがままに検証しているが、わがままと矛盾するようだが、こういうものは謙虚な読みというものがないと成立しない。自分の無知といったものは、あったとしても、楽しんで読むということを最近ずっとしてないなと痛感する。私の中では阿部和重あたりから、進化しているのは、数人だろうという実感しかない。そして、だいたいその通りだったのである。数人の例外を除いては。つくづく、現代文学のまともな読者ではないといわざるをえない。でも、笙野頼子さんが「レストレス・ドリーム」とか「二百回忌」なんかを出していたときは興奮した。あの人は命がけという感じがしたが。というか、何かが進歩していくという流れに私はついていけなくなった。私はどこかで立ち止まらざるを得なくて、いろんな意味で阿呆になったりしていた。良い子だったので、反動が来たのである。人間はどっかあほの部分がないと生きていけないのである。感覚が冴えている人ですら、そうだと思う。三島由紀夫は秀才だったが、彼には自分の背中が見えていなかった。そしてそれでいいのである。しかし、本物の文学というのは、どこへいってしまったのだろう。あるのかもしれないけど、この人が巨人ですといえる人はすごく少ない。そして、それでいいのかもしれないが、実際それでいいのだろうか。わからないことが多すぎるので、追っかけるのを止めたのである。というかほんまに本が読めなくなってしまっていたのである。で、こういう本でちょっとのぞいてみるんだが。島田雅彦はみんなが思っているより素敵な作家だ(だった?)と思う。「預言者の名前」とか「彼岸先生」とか帝国ものとかけっこう冴えていたのではないかと思う。みんな覚えているのだろうか?島田さんはけっこう読ませていただきました。Sep 24, 2006
今日は抱かないから
今日は彼女が本を探しに行くというので、ついていった。私もSWITCH10月号を買う。スガシカオ特集だからだ。テリー伊藤との異色対談は結構面白かった。テリーによると、デート3度目くらいの女の子に、「今日は抱かないから」と唐突に(何の前振りもなく)言うそうだ。女の子は「何云ってるの?」って言う感じだが、次のデートで、出来ちゃうらしい。スガも驚いていたが、私も驚いた。恋愛のテクニックという意味じゃなくて、伝え方とか伝えたいことについてだ。
もう一つは、漫画家、羽海野さんとの対談で。行き詰ったとき一番伝えたいシーンをはずすんだそうだ。羽海野によると脚本でもそういわれるときがあるらしい。スガは「俺ダメじゃん」といっていたが、スガは必ず伝えたい2行というのが歌詞にあるらしい。
ふたつ目の話は、わりとそうだと云う感じが、する。わかる。表現というのの基本みたいな事である。自分ができているか別として。しかしテリーの話は、深い。テリーのキャラだけでは説明できない。相手にそれまでなかった欲望を生み出すのであるから。うーん、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」より難しい。
「イン・ザ・プール」所収の「イン・ザ・プール」を読む。そして、本当に楽しいものについて考える。どうなのだろう。通俗というのがわかる気がする。おもしろいけど、通俗というより立体的でないのだ。
テリーの言葉だが、それは、逆説的だが「私もわからない」と伝えているのかもしれないとふと思う。恋愛は境界線を超えていくことだ。そのとき、「私」というのは確かなものだろうか。ぎりぎりの境界線を歩いている。
特命係長只野仁

「特命係長只野仁スペシャル」をテレビでやっていたので見た。昔「サラリーマン金太郎」の映画をガイドヘルパーに行って見たことがあったが、「サラリーマン金太郎」とは比べ物にならないほど、バカっぷりがアップしており、あきれたり笑ったり。しょぼいサービスショットなど(女の子があからさまにサービスとして裸で出てくる昔のB級ドラマ的手法)ここまでくるとある意味すばらしいのであった(笑)こういうのは高橋克典じゃないとできない。でも別にDVDを借りようとかはまちがっても思わない(爆)
なんかの番組(NHKゆるナビ?)でか、井川遥が出ていて、親に「人の痛みがわかる人になりなさい」といわれたことがあるそうで、それをよく覚えているそうな。私はそんなの覚えてない。っていうかそんなご立派なこと(笑)いわれなかった。そんなんじゃなくて、ご飯を食べてるとき、私が遠くのお皿に箸を伸ばすと、「近くによせてとりなさい」とよく言われていたのであった。しかし、まったく治っていない。今でもおつゆをこぼしたりしてしまうのである。そういうのは覚えているよ、リアルだから。
Sep 22, 2006
自主活動、吾妻ひでお
デイケアに行きました。昼は職員さんと仕事の話を1時間くらいしました。午後から自主活動だったので(自主活動というのは、音楽鑑賞とか自分でメニューを決めて時間を過ごすのです)、なぜか、勘で橋本治「これで古典がよくわかる」を持ってきていまして、読書することにしました。家より、なぜか集中できました。橋本治も難しい理屈を云ってない。というか中高生が読む感じ。「ひらがな日本美術史」みたいな感じ。学校で教え込まれたごちゃごちゃした歴史をぽんと再整理される感じでよかった。なぜ和漢混交文が生まれたかとか、ただ教えられたことではわからない結構な難問についてさらさら書いています。また暇なときに続きを読もうと思いました。職員さんが私の薦めたジョアン・ジルベルトを聴いたとのことでなによりでした。帰り本屋によって、吾妻ひでおの「うつうつひでお日記」と奥田英朗「イン・ザ・プール」を購入。吾妻さんのは「失踪日記」が面白かったので、買いました。文庫「イン・ザ・プール」もう六刷もいっているのですね。吾妻さんが「イン・ザ・プール」面白いと本に書いていたので、面白ければいいのですが。吾妻さんのはごろごろしながら、読むのに丁度いい。残念ながら彼の他の作品の多くを読んでいません。内容は寝れなくて、夜中に寝てちょっと働いて、笑っていいとも見てアイス食って、昼寝して、仕事があまりなくて、散歩して本屋行って、帰って寝てテレビ見ての延々と繰り返しなのですが、必ず一日一冊本は読んでます。だるーい日常が他人事に思えなくて、しかもなぜかその繰り返しの不条理にちょっと笑えて。すごいっすね。読了しました。最近笑いに飢えてます。奥田さんのもなんか笑えそうな予感がします。予感ですが。
よくあること
国民健康保険料の8月分の督促状が来た。しかし、その前に納付書が私の家に届いていない。どうやって払えというのだ。事実関係を確認したが、原因不明。納付書が再発行された。しかし、これで5~12期分まで一括納付できるのかわからないので、また市役所に問い合わせてみよう。土日明けになるな。面倒だが、よくあることか。Sep 21, 2006
倉田さんの芸術論集の覚書、いくつか書き直しました
朝に読んでいただいた方がいると思うのですが、思い浮かんだ事があり、夕方にはじめの方を直しました。原稿を倉田さんにメールしたら、喜んでいただいて大変うれしく思っているところです。あくまで覚書です。私はウィトゲンシュタインの研究者ではありません。しかし、新しい論点もいくつかあるのではないかと思ったりもします。倉田良成芸術論集を読みながらー「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」覚書

不意にいつか読んだ本の内容が自分にシンクロしてくる事があります。それが大事なときだと思います。ウィトゲンシュタインについては詳しくない僕ですが、純粋に覚書として書きます。
倉田良成さんが「倉田良成芸術論集」所収の「ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いておられたのですが人には心というものがありますね。
心があるというのは神秘なんですね。
ウィトゲンシュタインは「人は死を経験しない」と書いています。それなのに死を悲しみ、死者を大切に思っている心は確かにあります。なぜでしょう。それだけではなく、まだまだ私もわかっていないことも多いと思うのですが死は色んなものを私たちに教えてくれるような気がしきりにしています。私たちは経験していませんが、語りえないところで死者は私たちに光を与えてくれるのではないでしょうか。それは、ウィトゲンシュタインのいうように「現在を生きる」ということではないでしょうか。逆に言えば、死について、思いをいたさないということは生をなおざりにすることに等しいのではないか。彼が第一次大戦の中従軍している間に『論考』が準備されたというのは、戦争の死者に向けてということもあったかもしれません。私たちは、どこでも、どんな形でも祈ることができると思います。記憶が遠くなれば思っているということは 少しずつ減っていくかもしれません。それでも、どこかで祈っているのだと思います。「方便の構造」かもしれませんが何かの「お陰」で生は輝いているのだと思います。祈るということ。親鸞においては 「南無阿弥陀仏」でしたが、そうでなくても、そうであっても。それが宗教という名で呼ばれなくても。
倉田さんの芸術論集をどう読んだらいいか 色々考えたりしていたんですが、単なる芸術についての鑑賞よりも積極的なものを感じました。「ウィトゲンシュタイン・ノート」を読んでこれは自分にとって大事なことが書かれているな、自分に不意に浮かび上がってきたのでした。
それで、心があるというのは神秘なのですが、そして言葉がありますね。ウィトゲンシュタインは、彼の心というものから自分が言葉にできること、できないことについて丁寧に考えていたんですね。彼がこれは「梯子」だといっているように、在ることから無いことへのプロセスでもあり、そこで私たちは言葉を吟味しなければならないといっているようなのです。倉田さんの読みからは「論考」が重要な表現論だし、祈りの書だとわかりました。
「人は死を経験しない」と。「現在を生きる」のだと。 ウィトゲンシュタインは倫理的な人だったと、マルコムや色んな解説書程度の知識しかない僕ですが そう思うので、死について厳粛な、それでいてそれが外部から 生を裏づけていると感じていたかなと思うわけです。
永井均さんが書いていましたが「『論考』の世界は、この私の存在という(世界内の偶然とは次元のちがう) もう一つの偶然によって支えられているのだ」(ウィトゲンシュタイン入門)ということ。ここから、何か「生まれる」ということを想起します。そして『論考』は彼の全身で書かれた芸術ではないか。きちんと『論考』を読んでいないのでなんともいえませんが過去に「ウィトゲンシュタインセレクション」などを読んだ限りではそう思うわけです。世界には彼の言うようにたくさんの事実があって、そこから、世界とは独立した私というものが表現というのを欲するのではないか、そう思ったりするわけです。僕は論理学は苦手なのですが、彼なりの世界の描写で、それは彼のみならずいろんな人の 現実の「逃れがたさ」とその表現なのだ、そして、そこから離陸していく言語世界があるのだと思います。「この私」という奇跡的な存在があって、それは世界と言葉の潜り抜けられるふたつの間の通路であるということが示されています。倉田さんが「身体が裏返らされる」というのはその不思議さに驚かされる感覚ではないでしょうか?在ることから無いことへ、無いことから在ることへ、メビウスのように繰り返される通行というものではないでしょうか?それは生きている中で僕も直に感じたことがあるような感もあるのです。
覚書として書いておきます。
Sep 19, 2006
チョリ君の特集
毎日放送の一昨日の夜中、「映像’06」が流れていて昨日ビデオにとったのを見た。choriくんは、21才にして、詩の世界で様々な活動をしている。そのがんばっている姿が映されていた。たぶん低予算の番組だろうと思ったけど、丁寧に撮ってあった。すなわち、いいとこもダメなとこも撮っていたという事だ。もちろん厳密に言えばフィクションではあるのだが、ショーの世界から見た彼の位置、姿というのはわかる。(マネージャーのとこなど驚いた。志願してchoriくんのマネージャーになったという人がいたのだ)マイミクの窪さんが出ていた。chori君が清野君にあいさつのラップで呼びかけていた。それはともかく、この番組で圧巻なのは、狂言師「茂山童司さん」とのコラボで、茂山さんが「ちゃんと身銭切ってやるのがプロなんだ」といっていた。茂山さんは、choriくんと同じ伝統芸能の生まれだが、茂山さんは継いだ。choriくんはつがなかった。ダメだしをする茂山さんはやさしく誠実な人だと思った。一緒にやるからには最高のものをという気概が伝わってきた。彼は看板を背負っている。その辺とのちがいがchoriくんの選択にはあるのだけれど、choriくんなりにプロとして張り合うというのはまだまだ大変なようだった。彼自身まだ途上にあることはよくわかっているだろう。それと、やはり何を目指しているかがきっちりと問われているんだろう。私はchoriくんのような位置に立っていないし、まだまだ詩かきとして、未熟なわたしはchoriくんの「k」という詩が彼の資質を伝えていていいなと思った。死者のことを書くとき、すごくやさしく書くことができていて、それは稀有だと思った。
角川版「時をかける少女」を見る。何かねっとりしていて、アニメ版のほうはさらっとしていたので新鮮だと思った。レトロなSFは迫力あるなと思った。原田知世が白いブルマをはいていた。
うたと喪の時間についてースガシカオ「PARADE」

スガシカオ「PARADE」を聴いている。なんかすごくさらっとしている。明るくなっていて一瞬戸惑った。以前「プロフェッショナルー仕事の流儀」に彼が出ていて、ここ何年間か、父や親友が亡くなってきつかったと言っていたのを思い出した。そういうことは歌われていないが、彼が時間というものについて、かなり考えて、そこから抜け出したんだなと思った。(前のアルバムはTIME)新しい境地を手にした感じだ。というのは「タイムマシーン」という歌でうたわれているが、僕もタイムマシーンなんてなくてもいいと最近思ったのでシンクロした。過去のことがよみがえってきて、私たちは苦しめられる。やり直したいと思う。しかし、「タイムマシーン」があったって、救いがない。彼はこう歌う。"あの夜死んでしまった あいつに会いたいけど/もう一度死ぬとこなんて見たくもない"これにはユーモアすら感じる。彼は死者を大切に思っている。それと時間を飛び越えてもう一度会うことは、ちがうのだ。起こったことの大切な一回性を奪ってしまう。僕がアニメ版「時をかける少女」を見て思った感じとよく似ているのだが、「時かけ」よりも、深く考えられている。というのは、本当に帰ってこないということが歌われていて、それが瞬間、出会いを大事にするというメッセージにつながっているからだ。喪の時間を過ごしたからこそ出てくる言葉がある。”死んでしまった奴より 生きたいと願え”(Hop Step Dive)これほど倫理として強い言葉がスガから出てきたことに驚いている。深い気持ちからだ。「Progress」はNHK版よりいい気がした。彼は深い闇の中から一歩光のほうへ踏み出そうとしている。"世界中にあふれているため息と/君とぼくの甘酸っぱい挫折に捧ぐ…”あと一歩だけ、前に進もう”"
Sep 17, 2006
ETV特集
で、けま喜楽苑での取り組みというか、じいちゃんばあちゃんのありようというか、非常に丁寧に取材されていた。見た方はわかると思うが、けま喜楽苑は特別養護老人ホームである。ユニットケアの先駆けで、個室も多い。とてもゆったりした空間で、あんまりオシッコの匂いがしなさそうである。みんなメイクもばっちりである。僕のヘルパー実習に行ったある特養は、くさかったし、ぎすぎすしていて、ばあさんたちが「姥捨て山みたいや」というのであった。いくら丁寧といっても、みんな仕事でやっている。とはいえ取材が来たから大慌てで用意しましたみたいな顔を職員がしていなかったので、相当なレベルである。すごく丁寧なケアがされているのだが、実家に帰った認知症の夫婦はニコニコしていた。娘さんもがんばっていた。夫婦の奥さんはしっかりしてたり、そうでなかったりの落差が激しそうだった。
ふるさとへ帰れば過去の記憶が戻ると考えられていたおばあちゃんは、「(思い出したのは)半々くらい」と美談の展開を裏切る見事なリアルだった。でも情の深そうな人で、記憶が薄れても大切な感覚が残っているなと思った。おばあちゃんに育てられた弟さんはさびしそうではあったが。
とはいってもテレビはテレビであって、現場の本当のところというのは行ってみないとわかんないだろう。人間はバカにできないのであって、仔細に実際に見れば、ここは親父を入れたいかとか切実に考えるのだろう。親が嫌いな人は「姥捨て山」にということもあるかもしれないが、喜楽苑のようなところは人気がありそうだからなかなか入れないのではないかとも思うのだった。
ミスチルを熱唱

しました。この間、デイでカラオケ行ったときはThe BOOMの低めの声の歌を歌ったりして、ノドを調整していました。でも今日は声が出たので、ミスチルの”花”や”and I love you”を歌いました。歌うとすごく高揚感があって、”花”は詩が素敵というか、まさに等身大の歌だと32にもなって、感心したり同調したりしていました。その当時は通り過ぎた歌だったりしたのですが、気持ちと声の高ぶる曲線の軌跡が同じで、胸が震えます。上手いか下手かは置いといて。病気がひどかったときは本当に声が出なかったです。
ジャンカラなので昼は安いけど、連休の初日なのでじょじょに混んでいくようでした。
「マイボス・マイヒーロー」が最終回でした。面白かったぜコノヤロウ!!担任の先生役かわいいなあ。誰だっけ?
Sep 16, 2006
焼酎のほうが日本酒よりカロリーが高いらしい
だそうだ。焼酎はなんとなく健康的な気もしていた。W先生によると。日本酒お銚子一本でだいたいご飯一杯分くらいらしいのだが、そのカロリー量を焼酎は日本酒1に対して3分の2で超えるらしい。だからチューハイも痩せるためにはちょっとまずいのである。今日は恐怖を抑えて体重計に乗った。やっぱ70超えとった。まず目標は60台である。今日は外食だったが、みんなが肉食べてるけど、がんばって魚を食べた。定食屋に魚とかお野菜系のメニューがあればと思った。食べ方とかに対して、少し意識が変わってきた。眺めてみると世の中は肥満を作るマシーンみたいだ。そういう見方が自分の中にできて、みんななんであんな健康番組が好きなのかうすうすわかったが、ジャンクなものもないとさびしい。そんで、もっと野菜も取れるようになってないと環境が。二日続けて仕事して、大丈夫かと思ったけど、朝はパッチリ目覚めた。それでも緊張は残っていて、デイケアに行ったが、しばらく気分が落ち着かなかった。たぶん慣れの問題だと思う。W先生もそうおっしゃっていた。午後には落ち着いた。
ある人に「淀川さんと横尾さん」を読んでもらった。楽しそうに読んでいたので、うれしかった。あの本は人を幸せにすると思う。
今日は頭の中を宮沢和史のPerfect Loveという曲が流れていて、なんかロマンチックしていた。
「アルケミスト」読了。鷲田清一の本へ

「アルケミスト」読了。オチはナンダコリャと思った。あれはまずい気がする。クリニックに行く電車の中でずりおちそうになった。とはいえ、スピリチュアル。極端な宿命論。これはお話だなという感じがしすぎる。いいお話にはちと遠い。しかし、その論理の強引さが、いい感じになっているところを発見した。少年が砂漠をピラミッドに向かっていく時、砂漠の中で不安にさいなまれた少年が自分の「心」の声に耳を傾けるよう錬金術師からアドバイスされる。そこで、どんなネガティブな「心」の声の時も、それをただ徹底して聴く、それは少年にどんな状況になっているか知らせているというところだ。認知療法より身に沁みる。ありがちな処世ではあるけど、なかなか自分に都合の悪いこと、かっこ悪いことは、つまり自分の弱音は聞きたくないものだ。ここには客観性がある。それから、大事な予兆は、それとなく待っていて、それに集中しないと訪れないことも教訓といえばいえる。教訓くさいのが難点だ。というか教訓のすし詰め状態。主観に流されがちで、展開も強引だが、ありがちなお宝や何かを求めるというのは人を引きつけるのだろう。ロマンって奴かな。
鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書)が新しい示唆を与えてくれそうな気がする。大事なもの、運命をうけいれる。そういうものを「待つことなく待つ」といってる点、個人的に注目大だ。引かれる例も面白い。鷲田さん、文章がすごく硬くもなくやわらかすぎずいい感じ。いつのまにか阪大の副学長になってるし。これは読めそうかな。関西人という感じがする。
Sep 15, 2006
白い息
背がとまってしまってからもう何年もたって
ぼくはますます自分の存在の小ささを感じるのです
空を見れば、もっと
闇につつまれて、さらに
優しい人に会うと、うーんと
ぼくはこの小さな存在で
かろうじて息づいていることを感じます
まるで小さなかえるになったように
小さな葦がゆれている河原に立てば
とおくにゴミ処理場の煙突が白い煙を上げていますが
がんばって星をみるのです
星は大きいけど
目に見えるのは小さい光の粒
それらがつながって大きな家族をつくっているようです
星は魂と同じだから
ぼくが宇宙の絶対的孤独の中で
すごく小さな星になったら
大切な人や知らない人と抱きしめあって
星座になるのです
とてつもなく孤独だからこそ家族になれる
そんなことをけっこう本気で信じているのです
全ては幻だとしても
はかないことだとしても
そう思っていることは
ぼくにとって安心です
葦の河原から瞬間移動して
土の匂いがしてきます
生駒山がみえて
田んぼが並んでいて
ぼくのおじさんの小さな町工場がみえます
おじさんはもうおばさんとねむっているのでしょうか
不思議にこのあたりはなつかしく
星がさらにつよくざわめくようなのです
ぼくはそんなにからだの小さな男でも
大きい男でもありません
まあ中くらいです
中くらいで弟に背は負けるけれど
そんなぼくは根源的に小さな存在なのだと感じた今
色んなものが
やっと当たり前の大きさを取りもどしはじめて
ぼくはベットで目をつむりながら
ぼくに与えられた光と闇のことを
素直に感じます
小さい頃遊んだ冬の公園がみえてきました
人工的な沢があり
百舌が鋭く鳴いています
まだ人気のない朝
父親と歩いていて
ぼくは底知れず肩を落としたり
弟とじゃれあったりしています
そして
そこを走るぼくの白い息は
今ぼくのところまで届くようなのです
*COAL SACK55号 2006.9.15発行に縦書きにて掲載。
Sep 14, 2006
昨日、脚立が便器にまたがっていた

昨日はマジメなことを書いたけど、自作が活字になって本当にうれしい。今日も昨日に続いて仕事だった。キツイかと思ったが何とかやりこなせた気がしている。昨日脚立が掃除をする一階のトイレに、立っていたので、脚立が本当に便器にまたがっていたので、そっとしておいて、掃除しなかった。今日は清掃途中に工事の人が来ていて、なにやら作業していたが、ほどなく帰っていった。脚立もいなくなっていた。職員の方と仕事したので作業スピードについていけるかと思ったが、大丈夫だった。
帰りCD屋により、かねて気になっていた「ゲッツ/ジルベルト」を手にする。時々CDをまとめ買いするのだが、今日は気分が落ち着いていたので気持ちよく買い物ができた。食材を買って帰宅。家に電気がついていたので、彼女がいるのかと思ったら、忘れて外出したようだ。風呂に入ってメシ食って、「ゲッツ/ジルベルト」を聴く。何よりジョアンの声が若い。演奏はしびれるというか、すごいので言葉が出ない、でも気持ちいいという感じがした。両者がそれぞれに持てる力を出しながら見事なコンビネーションだった。他の演奏者もすばらしい。色んな才能の類まれな出会いで成り立っている、ある種の祝祭のように思えた。宮沢和史の「MIYAZAWA・SICK」もよいと思った。こういうスタンスでがんばっている人は日本には少ない。彼女は帰ってきて仕事をしていたが、どうもパソコンの調子がおかしいようだ。私のマシンは健康なのだが。
Sep 13, 2006
活字になってみて
仕事から帰って、郵便箱をのぞいたら、詩誌「コールサック55号」が届いていました。私の作品が掲載されています。初秋の雨の中をやってきました。コールサック55号では、原爆の詩「リトルボーイ」のことが詳しく紹介されシンポジウムが開かれた様子が克明に書かれていました。自分の詩が活字になるとなんだか不思議な感じもします。自分は幼い詩を書いているなと思いました。未熟ということもありますが、いとおしくもあります。なぜなら自分の感じたことを何かの形で残せればいいのですが、あきらめてしまったり、薄く切り取るだけみたいになったりすることがあるからです。うまく形に出来ないのは残念なものです。べつに形になるのが最高だとばかり思っているわけではありませんが。だけども、大事なことは、何か形になればと思います。他の人がどうでもいいといってもです。これは、詩のことだけではありません。がんばるのは苦手ですが、なにごとも精進というしかないです。自分をごまかしたくないです。
Sep 12, 2006
ジョアンな夜
ジョアン・ジルベルトの「声とギター」を聴いています。私が持っている唯一のボサノバのCDですが、確実にいきます。名盤です。極楽の音楽であり、一人の男の歌でもあります。声、声、声…渋い!!今年日本にくるみたい。糸井重里がジョアンについてエッセイ書いてます。思索と暖かさが、思いの強さがじんわりと空間に広がります。秋の夜にはぴったりではないでしょうか。確か、スタン・ゲッツとコラボやってたような…
買い物に行ったら偶然、友人に会いました。良いタイミングで会ったと思います。NHKの「サラリーマンNEO」が面白い。生瀬さん、いいです。私の好きな平泉成さんも出ています。
ここ最近寝てばっかだったんですが、今日は部屋の片づけをしました。↓写真=日本公演時のジョアン
Sep 10, 2006
わにとかげぎす1のレビュウ

今日外出の帰りうれしくて買っちゃいました。
確保です。
主人公男32才です。ぼくと同い年だ!
この人の書くものはマンガでありながら、今小説家があまり書かないプロレタリヤものだと思う。つねに今に向けられている。
それから、青春小説だと思う。
ドストエフスキーの「地下室の手記」ほどやばくはないが、つねに自分に問い、ひとを求める心が響いてくる。
「わからない」といえる強さを持っている人が必ず出てくる。
そしてエンターテイメントだ。
いろんな意味でぼくのこれまでにシンクロしてきた。コンビニで買える所が良い。
この物語は出だし「グリーンヒル」や「シガテラ」に近い路線だ。
しかし「ヒミズ」のような決め方もないとはいえない。
いろんな意味で予断を許さない。コメディのような気配は濃厚だが。
これからなので☆5つにはしない。
mixiレビューより転載。
訳あり風のお父さんが何度も何度も謝っていた日
まずはうれしいことがあったよ。古谷実の新刊が発売されて外出の帰りにコンビニで買った。良質なマンガがコンビニで買えるのがすばらしい。プロレタリヤバンザイ(笑) それで外出というのがここんとこ出てる詩の集まりで、詩を気に入ってくれた方が御一人いた!もうね、ひとりだろうが喜んでいただけると心がかよったようでうれしくなってしまう。いろんな人によろこばれたらと思ったりもするけど、五感をフルに使って、脱力系に書いたから、悔いはあんまりない。私の支えになっている人たちに感謝です。それでね、行ったコンビニで子連れの訳あり風のお父さんがいて、あたふたしながら、買い物済まして、5才くらいの子どもを連れて出た。私も後で出たら、近くの信号が赤で、子どもが飛び出して、バスが走って来てて、ぶつからなかったけど、さっきの訳あり風のお父さんがバスに向かって何度も何度も謝っていた。運転手が「そんなに謝らなくてもいいよ」という風に黙礼して走り去った。きっと大変なのだ。だけど生きているのだ。事情はわからんが。その帰り片言の日本語で「パチンコがね生活費がね」と話している二人組みも見かけた。なんか胸騒ぎがしたけど、大丈夫。みんな一生懸命。当たり前なんだけどね。それも普通に生きてたら忘れそうになる。今日は旅の話をたくさん聞いた。旅になかなか出ない私なのだが、というか旅というものを病気してからほとんどしてない。旅という概念をあやうく忘れかけていた自分に気づいた。古谷のマンガもそうだけど将来何があるかわからん。毎日が旅だとも思うのであった。
他の人のブログに出てきたシュルレアリスト占いというのをやってみたら、私はマックス・エルンストだった。好きな人でよかった。彼の鳥が「ロプロプ」というのを初めて知った。佐々本果歩さんの詩集のタイトルはそこから来てるのかな?
Sep 09, 2006
どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える
さっき、ベランダでタバコを吸っていたら、下の階から、咳払いがして、男のものだった。怒られているような気がした。今日は夜、感想文をこりこり書いていたのだが、あんまり出来がよくない。文章が楽しそうじゃないのだ。そんなこんなで、虚しい気持ちになっていたところだった。だから何というわけではない。でも、無理にマジメモードになったって仕方ないじゃないかと思う。もう一回書いてみようかな?昨日、「年賀状に好きだと書いてしまうこと」を書いたが、別にかいたっていいじゃないかという気がしてきた。ぶっ放してしまうのも、もちろん普通に考えれば世間知らずなのだが、それでいい。私は反省が苦手なのだ。なぜなら反省というのがきりがないタチなのだ。中学時代「反省しない!」と強く思ったことがある。反省で頭が変になりそうになったのだ。そんなに悪いことした記憶はないのに。どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える。外からは内的な過程というものがわからないからだ。全然見当違いになってバツの悪い思いをする。キリの良い反省というのがあったらいいけど、それも変だし、それよりも、別のことをして答えを出すほうがそこに何かがあらわれているとすればそれでいいことなのだ。小泉さんは反省してない態度がお気に入りだがああいうのも何かちがう。あれはある種の反動でそうなっていると思う。
昨日から、大槻ケンヂの「リンダリンダリンダラバーソウル」を読んでいた。読了。何か急に詩はヒップホップに近いんじゃなくてロックじゃないかと思ったりする。バンドブームの頃のお話。読みやすい。同時に今さらみたいだが「アルケミスト」も読んでいる。どうも翻訳がよくない気がする。いい意味でも悪い意味でも強引な物語運びだ。
Sep 08, 2006
年賀状に好きだと書いてしまうこと
自分の運命って何なのかな、あまり考えない日もあり、考えるときもあり、今日というか最近はまた考えるようになってきたような気がする。自分探しってことかもしれないけど、そういってしまうとありがたみが減る。生まれるということはシオランの言うように「生誕の災厄」と思ってた節があって、今も肯定できているか怪しい。かといって、呪ってはいない。呪っている時期もあったけど。そういう中途半端という感じ。例えば自分のしたいこと、欲望、願望とは別に、わりかた冷静に徹底して事実だけ見てる自分がいる。これも誰でもそうかもしれない。昔、高校のとき、女の子に年賀状を出したとき、あろうことか「好きだ」と書いてしまった。普通書くか?書かない。でも暴走するときがある。もちろん、その子は冬休み明けから二度と口をきいてくれなかった。思いを伝えねばとなると歯止めがかからない時期がずいぶんとあったものだ。今はそんなでもない感じ。割り方、冷静な自分もいる。だから自分の思い込みだけでは行動しない。
かわって、葛藤が増えるようになった。複眼的に見るので、色んな事情とか、境目とかがわかるようになってきて、対立する自分の気持ちというものがうまく出せない事がある。でも、ぼくの彼女にも、ぼくの、彼女に対する気持ちが、実はバレバレなんじゃないかと思うことがある。これ、恋愛のことだけではないよ。自分のしたいこと、おおげさにいえば、運命というもの、そういうものに対して、もごもごしつつ目の前のことを何とかやろうとしている。
なんでも宿題になってしまうと辛い。未来にもごもごしながら向かっていくのだ。きっと色々あるだろうよ。
Sep 07, 2006
生誕
今日は紀子さまが男の子を産んだ。親王というらしいが、普段使わないので、というか、子どもは子どもなので子どもと呼ぶことにする。戦前なら不敬の罪だが、今は戦前とはちがう(かもしれない、だよね?)ので、普通に呼ぶことにする。とはいえ、私たちとは、だいぶ事情が異なる方なので、どうも落ち着かない。皆めでたいというが、やはりたくさんの人の声というものはこわいもので、私はちょっとびくびくする。生まれた子の行く末を考えると他人事とはいえ、心配になってしまうのである。もちろん、子どもが生まれるというのは素晴らしいことであるが、生まれが生まれでいろんな人の注目を集めるだけに、大変だろうと思うのである。完全に老婆心ながら、条件が完全に決まっている生の途方もなさを思うのである。自分たちが作り出しながら、自分たちのコントロールを離れる怖さがある。私はそれをわかったように云うことができない。声
座ってパソコンに向かっていると、テレビをつけているような音が聞こえ、あれ?テレビつけてないんだけどなと思いながら、部屋を出ると、ちょっとこわくなった。どうも外からだなと感じたら雨の音がして、人がどうやら会話しているみたいだなと思いながら、窓の外をのぞくと駐車場でだれかとだれかがが話してるようで、しばらくすると聞こえなくなった。雷が時々ぴかぴかしているが、私は人の声のほうが怖いのだと思った。もちろん時間も時間だけど、人の声は何か私の皮膜をつきやぶってくるようで、恐いときがある。こわいけど聞きたい、むしろこわいから聞きたいと感じるのだと思う。
じぶんの気持ちの形によって、相手の声がすごく響いたり、相手の思いというか思念が強く伝わるときがある。怒られてるときなんかはわりとわかりやすいけど、日々、粛々と、真実が伝わってくる。自分の、他人の、自分と人の混ざったみたいなもの。そういうのが積み重なると何となくその人の地みたいなものが出来てくる。
病気になったときは、自分の輪郭がおかしくなっていた。センサーだけが鋭くなっていた。
Sep 05, 2006
豚汁
曇り空。まだ、高専の殺人の容疑者は身柄確保されていない。少し肌寒いような気もするがクーラーをつけてしまった。まだなんか眠い。今日は豚汁を飲む。昨日は秋刀魚の塩焼きだったので、秋である。ぼくは秋から冬にかけての季節が好きだ。
だいたい僕は身の回りの小さなことしか書かないので、これでいいのかなあと時々思うが、まあいいかと思う。今日は阪神かちそう。たけしの「本当はこわい家庭の医学」を見てしまった。口臭の特集だったのだが、あんなおどさなくてもといつも思う。東京歯科大学の口臭外来の宣伝のようにも見えた。
明日は仕事である。涼しくなってきたので、少し楽かな?
Sep 04, 2006
メディスン・コンピレーション

今週は暑いようである。ここ2~3日はやる気が出ず、寝て過ごしていた。夏の疲れだろうか。
食べ物を気にしている。これ食べたらどれくらいカロリーあるんだろうかと思う。それで油ものはなるべく避けようかと思っている。計算したら一日大体1700~2200kcalで充分なようだ。彼女が夜散歩に出ればいいといっているのだが、だらだらしている。さんまを食べた。今年初です。
今日の音楽は細野晴臣「メディスン・コンピレーション」。アンビエント。93年。BOOMの宮沢和史が昔紹介してて、何年か前に中古屋で買った。写真のがそれ。
Sep 01, 2006
書評ー「淀川さんと横尾さん」

友人と話していて、思い出した名著。Uさん、実家に帰ったらありました。今度会ったらお見せしますね。
相手を好きになるというのが、嫌味にもならず、こんなにストレートに出ている対談というのはないのではないか?
ふたりがどんどん仲良くなって、人生、映画、美術、死生観、なんでも、淀川さんが受けて立ち、横尾さんが素直にいられるというすばらしい空間。
淀川さんは、魂で話すのだと思った。そこに横尾さんもいて、難しい言葉はほとんど出てこない。これ、本当に大切なことだと思う。
アートを愛するということがどういうことか教えられる。批評としてもレベルは高い。
「二人でヨの字」も対談中に決まったタイトル。
自然をめぐって二人の感性がどんどん高まっていく光景は圧巻。7年ぶりの再読。久々に読んでます。
あんまり新刊では手に入りにくいみたい。(mixiレビューに若干加筆)
血液検査の結果

9月です。精神科では、半年に一回くらい、血液検査をやる。昨日結果を聞いてきた。尿酸値が少し高い。ぼくはビールは晩酌に軽く一杯なのだが、なぜか高かった。ビールは少し控えめにということのようだ。また、GOTやGPTが少し高い。肝臓に脂肪がつき始めている証拠らしく、体重が増えているとそうなるらしいのだ。コレステロール、中性脂肪も少し高め。ゆえに、ダイエットということになるのだが、ぼくはダイエット苦手というかやったことがないのです。少しずつやろうと思います。というか出来たらいいなとちょっと弱気。でもおなかが出てきて気になってます。去年は数値は悪くありませんでした。
Aug 31, 2006
初給料日

昨日、掃除の仕事でした。だいぶ涼しくなっています。昨日は同僚の人がしんどそうだったので、がんばりました。初給料日でした。給料何年ぶりだろう。やったー!コーラスで「少年時代」歌うことができました。名曲です。人と話していて、淀川長治と横尾忠則の対談を思い出していました。ずっと淀川さんが、横尾さんのことをかわいいねえといっていました。
今日は、批評文の清書。時間がかかるが楽しい。曇り。診察に行ってきます。
Aug 29, 2006
季節はずれの「さくら」

今日は集まりでカラオケに行った。
ユニコーン”雪の降る町”、山崎まさよし”One more time ,one more chance”、宮沢和史”抜殻”、森山直太朗”さくら(独唱)”、安全地帯”ワインレッドの心”、SMAP”夜空ノムコウ”を歌う。
一応曲順に紹介。あんまりマニアックにならずに、でも自分の好きな人の歌を歌う。斉藤和義も歌いたかったけど。バラード系がうまいといわれる。「さくら(独唱)」がほめられた。うたうと気持ち良い。ほとんど夏の歌を歌っていない。「少年時代」を入れようとしたが時間切れ。
晩は風呂入って、ビーフシチューをたべる。うまかった。もうすぐ秋だ。ぼくはサラダを作った。
今度仲間と出すものに入れる批評文の手直しをする。他の件で個人的にあといくつか書いていない文章がある。
Aug 28, 2006
介護者から利用者になったものの介護の見方メモ
こないだ、考えていて、ぼくは昔は介護者だったのだが、いまは利用者である。昔介護者だったとき、なかなか頼りにくそうにしてる人がいた。どうしてだろうと思った。遠慮や色んな思い、障害を認めるのが難しい等いろいろある。自分が利用者になってみて、いまは頼る・甘えるというのも一種の技術だと思うようになった。気持ちよく過ごしている人は、関係性というものをよくわかって、どこまで頼るか、ここは自分でやると、どんなに重度でもわかってくるし、世話する側も、わかってくる。目的がはっきりすれば、どう職員を利用というと変だが、そうするかというのがわかるようになる。何を相談していいのかわからないこともある。ある意味で、相談できるようになれば、その人は自立しかけているとさえいえるだろう。最初はぼくもどう話していいか、どこまで話していいかわからなかった。何を相談して良いかわからないが、とにかく苦しいということでも、もちろん職員は助けてくれる。そうしてくれない施設は終わっているともいえる。介護、利用者両者にそれぞれに思いがあり、精一杯生きているという認識が大前提。昔介護で働いているとき、なるべく、その人が自分を受け入れてくれればいいな、できることはやっていただく、それ以外は支援するというふうに思っていた。今、掃除の仕事で職員がついていてくれているが、ぼくらが慣れてくると、少しずつ、距離を取ってくれるようになる。じぶんもかつてそうして、できることはやっていただくということをしていたので、逆の立場から「支援」ということが見えてくるようだ。生きるという事は難しい。そう思えば思うほど、色んなものがドライに見えたり、いとおしく見える。客観的になれてきているような気がする。
書評-爆笑問題の太田と中沢新一の対談

昨日は合評会で、即興詩大会をした。みな思ったより良い作品が出来て、ぼくも良い作品が出来た。うれしかった。居酒屋では24時間TVをやっていた。やっぱりあの番組はいやだ。
爆笑問題の太田と中沢新一の対談読了。好きな二人である。タイトルがいまいちだ。中沢新一、ついに憲法に言及という感慨があったし、後半は面白いとはいえない。宮沢賢治が田中智学に寄り添った時期がありながら、辞めて童話や詩を書いたこと、理想社会を追い求める危うさ。にもかかわらず、憲法は不思議な形で(逆説的な形で)理想を描いている。そういうところは面白かった。正直論理の流れを追いきれないところもあった。中沢新一が「護憲」的立場をとらざるをえないほど、何かが危機的なのだろうと感じた。最近中沢新一は確かに文明批判の色を濃くしている。現憲法には、アメリカ思想の淵源である「先住民の知恵」が影響を与えているなど、刺激的な面もあった。しかし太田の語りが固すぎる。中のエッセイは面白かったけど。
Aug 26, 2006
ソクーロフ「太陽」が見たい

イッセー尾形が昭和天皇を演ずる「太陽」を見てみたいが、大阪ではまだやっていないようだ。いつやるのかなあ。ぼくは天皇という存在はいつも不思議だと思っているので、どう撮られているか見てみたいのだ。イッセーさんのファンだし。
一昨日は杭全酒場という居酒屋にいってきた。最寄り駅はJRの東部市場前。酒場というから、どんな雰囲気かなと思っていたが、ふつうの居酒屋だった。ぐるナビクーポンを使うと15%OFFだった。
昨日はデイケア。わりとのんびり過ごした。
Aug 24, 2006
ドジョウすくい

朝夕の風が一昨日の夕立あたりから、気持ちよく感じられるようになった。もうすぐ秋か。それで、今日の朝、空の写真を撮ってみたのである。
昨日は仕事だった。職員の方とも、同僚の方ともおしゃべりがだいぶできるようになってきた。
職員の方の作業所が、お祭りに出店するらしく出し物は「スーパーボールすくい」らしい。ぼくが「金魚すくいの要領でやるんですか?」と聞こうとして、まちがえて「ドジョウすくい」といってしまった。思わずうけてしまった。天然である。
で職員の方が、寝言の話をしていて、学生時代、同じクラブの合宿で寝ていて、突然「いってきます!」と寝言をいう人がいたらしい。それでみんなザワザワしていたら、しばらくして、今度は「ただいま!」といったらしい。次の朝確認すると、確かに出かける夢を見ていたそうだ。
ゆうべは、NHKで「プロフェッショナル」の再放送を見た。スガがテーマを歌っていて「中島みゆきさんの「地上の星」を超えるようなものを書いてください」といわれ、なかなか書けなかったらしい。デヴューまでの苦労は知っていたが、ご飯に胃薬かけたほどとは知らなかった。それより、3年前に父や友人が亡くなってスランプになったという話が重く響いた。でもトークは面白い。
ポアンカレ予想を解決した数学者は賞を辞退したが、お母さんの年金で暮らしていて仕事もないらしい。
Aug 22, 2006
時をかける少女、星野道夫展

昨日はテアトル梅田に、「時をかける少女」を見に行ってきた。時間移動の話なのだが、細部を徹底して論理的につめて欲しかった。絵はいいと思います。猫月亭さんの情報で早めに整理券をもらったほうがいいということだったので、早めに行きました。猫月亭さん、ありがとう。やはり混んでいました。
ご飯を食べたりして、とても梅田の駅前などは暑い暑い。それで、大丸で「星野道夫展」をやっていたので、ちょっと涼しい気分になるかなと思って、行った。素人なので、写真の出来はわからないが、数多くの人が来ていて、彼のアラスカでの生き様を詳しく知るわけではないが、感銘を受ける方も多いのではないか。もう亡くなって10年たつのである。熊との距離が近そうなのでこわくなかったのかなと思いました。また、道夫さんのポートレイトがあるんだけど、誰が撮ったのかなと思いました。
今日はぼんやり過ごす。夕立の雷鳴の後は嘘のように夕暮れになっています。明日は仕事です。
Aug 20, 2006
犬の水浴び、あるいは語り得ぬものは沈黙しなければならない

暑い暑い夏が続きます。今日は犬の水浴びを手伝ってきました。載せてるのは、洗う前の写真です。動き回るので、なかなか撮れなかった。人を見分けて愛想を使ったりもする、ちょっとずるいけど憎めないやつです。ちなみに僕が飼っているのではありません。毛がさらさらになって、なでると気持ちよかった。おさえるのが大変。水は嫌がりません。でも、ぬくい水でベランダでやるので、こっちは暑くてかないませんでした。スイカをその場で頂いて帰ってきました。
今日は詩が一本書けました。大幅に、ラストを削って出来上がりました。こんなのは、初めてです。後々某所で発表予定です。書いた後ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものは沈黙しなければならない」という言葉を思い出しました。ヴィトゲンシュタインは事実を語っていると実感できます。好きな言葉です。
彼女と「夜と霧」についてしゃべりました。フランクルの使っている「人間」という言葉は、ある危うさを持っているかもしれないけど、この言葉を胸にフランクルは生きたのだなと思いました。
NHKスペシャル「論文捏造」を見ました。結構こわい話です。韓国では、なぜ実験用の人の卵子が手に入りやすいのかなと思いました。
マジメな日だったかもしれません。
Aug 19, 2006
ここ何日かの予定

今日は、「時をかける少女」の上映館を調べていたが、とても少なく回数もあまりない。でも月曜あたりに行けば、あまり混んでないだろう。明日は、彼女の実家で犬を水浴びさせる。 何冊か本を読んでいる。加藤典洋「僕が批評家になったわけ」を再読。小澤勲の痴呆論(岩波新書)。多木浩二の「戦争論」も読もうかなあ、といいながら積ん読。でも本の匂いをかぐだけでも気分がいいのは久しぶりだ。 今日のテーマ曲the pillows 「Fool on the planet」
Aug 16, 2006
「神童」読了
昨日は終戦記念日。髪を切る。散髪屋で、小泉首相、靖国参拝という新聞を見かける。色々思うが、ノーコメント。ただ、相手は死者であり、そのお参りであるから、深く考える必要がある。小泉首相も色々考えたんだろうけど、外国のことをどうこう言う前に、まだまだ考える余地がある。焼肉を食べに行く。彼女と戦争の話をする。詩の話もする。グッとこないと書けないという結論に落ち着く。朝は朝日新聞を読んで、大江健三郎のエッセイに何か書かれてないかと普段は読まないのに読んでみる。別に反戦のメッセージが読みたかったわけではない。特に面白いことは書いていなかった。特別なことをあえて書かないという戦略なのか。渡辺一夫(フランス文学、大江の師匠)と南原繁(政治学者)と公演したときの逸話を書いていた。もう40年以上前の不戦の集会。渡辺が南原に大江を紹介するときに「公演で、大江君は若いので、素っ頓狂なことをいうかもしれません」と笑った話。大江はその年、「個人的な体験」と「ヒロシマノート」を書く。ある種の昔話といえなくもないが、イデオロギーはともかくとして、何か印象に残った。さそうあきらのマンガ「神童」をフジコ・ヘミングのピアノ曲を聴きながら読む。「神童」はピアノの話だが偶然だった。「私が音楽だから」というせりふ、興味深い。ドラマとはこういうものか。「ゲド戦記」を見てもやもやしていたが吹き飛んだ。フジコの音楽も、技術的には素人の私が聞いても、すごくうまいわけではないんだろうけど、聴く者を受け入れる良い間がある。今日は掃除。お盆過ぎだが、寺が近いので、人出は多い。風が強かった。
Aug 14, 2006
東久留米のうた、発見しました
「東久留米のうた」の音源を発見しました。ボーカルは下手だけど笑えます。バックの映像も素敵です。いろんな音源を聞けます。Youtubeでも聞けるみたいです。今日はデイケアで料理を作りました。「ゲド戦記」の感想、まだもやもやしています。宮崎駿アニメに11才くらいに出会って、衝撃を受けた私としては、やはり気になりました。怒る気はしませんけど。きれいに流れていきません。
テルーのうたならぬ、東久留米の歌
どうもTV神奈川で、「みんなで歌おうZ」という番組があるらしく、プロデューサが神奈川などの地域の名にちなんで歌をつくっているらしい。今日は「東久留米の歌」であった。なぜか関西でも流れていた。「踏み切り開けば人がわたる」みたいな当たり前のことがさびに出てくる。わりかしロックないい曲だった。本当に「テルーのうたみたいにしたんですよ」といっていた。全てうろ覚えと勘による情報。知っている人がいたら教えてくださると助かります。
Aug 13, 2006
ゲド戦記
昨日見に行ってきた。うまく感想は云えないが、やはり駿さんと比べてしまうと、絵のセンスが圧倒的に違う。絵が動いてドラマが展開していくときのスムーズさ、快感がない。展開はなく、ぶつぎり。これほどまでにと思った。何か事情があるとしか思えない。非常に居心地が悪かった。ストーリーや事情は様々なレビューで憶測が飛んでいるし、自分も推理してみたが色んなファクターがあると思う。真の名のテーマは「千と千尋」だったりもするし。ああここが書けてないんだなあというとこもたくさんある。それだけ駿さんとちがってサービスがない。
Yahooのレビューで酷評されている。まあ当然の反応だろう。ぼくには作品は拙いなりに、何かはあると思ったりもするのである。あまり自分が怒らなくなったせいもある。しかしプロデューサのやり方はおかしい気もする。
なにしろ第一作なので、あまり贅沢はいえないだろうが、ストーリー自体も、「ゲド」戦記ではない。ゲドが農作業をやっている姿は好きだけど。ストーリーは原作を読んでいないとぴんと来ないシーンも多いような気がする。しかし私は第5巻を読んだ事があるけど、背景がわからなくても、それなりに完成してた。
ラストに近いところの「クモ」の姿が変だった。なんか変な鼻歌歌ってたし。でも、ある意味斬新ともいえなくない。宮崎駿アニメには意志のある人しか出てこないから、それはそれで、少しいびつと言えなくもないし。なんか、これはすごいニヒリズム映画である。
個人的には、いろんな製作の苦渋が表れている映画だと思った。父の描き方は、実際の親子関係を暗示していると思った。いろんな思惑がからんで映画は作られるので、それも親子、第一作、ジブリブランドとなるとなおさらだろうと思った。しかし、レベルを維持するのなら、きちんとした絵を見せてもらわないと困る。ただジブリというだけで、これまで皆見てきたわけじゃないと思う。
世界の均衡は回復しないし、命を大切にするというスローガンが、クモの扱い方で破綻している。これは絶望の映画なのだ。そうきちんと云う必要があったと思う。影との戦いはいい。
Aug 09, 2006
帰ってきました。「夜と霧」読了
長崎原爆の日。気づいたら、ホームページが5000アクセスを超えた。読んでいただいてる皆様ありがとうございます。
昨日自宅に帰ってきた。彼女が帰ってきて、ぼくが植木を枯らせてしまったのを怒っていた。水をやるのを忘れてしまったのだ!ごめんなさい。ううう。昨日の空は不思議な色をしていた。
帰省中は、ジャズ喫茶に何回か行き、お酒を飲んだり演奏を聴いたりしていた。実家は木造なのでクーラーなしでも眠れた。
今日は掃除だった。いらちなので、ついつい早く作業してしまう。もう少しゆっくりしよう。結構この暑さで疲れた。ぷいぷい占いによるとA型は、「人の意見をきくといい」とあった。明日はカウンセリングもあるし、素直に耳を傾けよう。
「夜と霧」読了。すぐには感想はいえない。正直な文章だと思う。ただ、フランクルとおんなじ環境におかれて、彼のように振舞えるかというと自信ないのが正直なところ。心もどうにかなってしまうかもしれないが、体が先に壊れそうな気がする。
Aug 06, 2006
合評会、ちょっとだけ帰省するつもり
原爆の日。昨日は合評会でした。自分の作品が丁寧に書かれてないことがわかって、落ち込みました。作品、あわてて書いたなあ。
この会に限らず、集まりに出ると、話は聞くのが精一杯で、自分のこととか、しゃべるのがうまくできないことがある。緊張してるのかなあと思います。
今日は地元の夏祭りなので、一人だし実家に帰ろうと思います。お泊りしてくるかもしれません。
Aug 05, 2006
お休み
今日は水曜でバテていたので、デイケア行こうと思って準備までしたが、休むことにした。友達とメールのやり取りする以外は、メシ作って、食べてごろごろしたり、テレビを見たり。報道ステーションで見たが、原爆症の認定患者は、全患者26万人に対し、2000人くらいしかいないそうだ。爆発の後、町に入って被爆したり、ちょっと遠くで被爆したりした人は認定されなくて、広島地裁で裁判があり原告(被爆者)の主張が認められたらしい。
あと関係ないが野沢直子がテレビで出ていた。この時期は「出稼ぎ」なんだそうだ。「夢で逢えたら」は名番組だったと思う。ユニコーンも歌ってたし「働く男」。
フランクル、がんばって読もうかなあ、読めるかなあ。大事な本だと思う。やっぱり敗戦の日が近づくと、戦争のことを思うのだろうか。
Aug 04, 2006
「夜と霧」を手に取った

昨日は1時半に寝て、6時に目が覚めた。いつもよりも早い起床である。
〆切で詩を書いた。いつも読んでくれる彼女はいない。部屋をうろうろしたりしながら、出てくるのを待った。待つというのは難しいものだと思う。でも来るべきものが来ないと、すっきりしないので、待つ。待った意味はあったと思う。荒削りだけど、今日集まりに行ったら、「出し尽くす」という姿勢を評価してくださった方がいた。まだうまくはできないのだけれどありがたい。
何人かで集まっての会合。ぼくにとっては、落ち着いて参加できてよかったのではないだろうか。色んな個のゆるやかな集まりであるが、静かな熱のようなものを感じた。
帰って、急にフランクルの名著「夜と霧」(新版のほうです)が読みたくなった。まだ読んでいなかったのだ。(なんてこった!)しばらく前に買ったものである。「夜と霧」は、心理学者がナチス強制収容所に収容された経験を独自の人間哲学にまで高めた歴史的な本。と要約できるのかはわからないが、ぱらぱら読んでみるに、過酷な状況に陥っても、最低の人間になるかならないかは、その人の「決断」次第だというようなことが書かれていて、これは収容所に入らなくても、どこで生きようといえることなのかもしれないと思った。これが学説というよりも実感だったのだろう。自由はやはり自分から勝ち取る必要があるだろう。けして強い人間になれといっているわけではないんだろう。がんばれソングでもない。しかし、これには若干の補助線が必要である。それは弱いものを助けるというか身を挺する心というものがないといけないという点かもしれない。それが読むほうにとって、躓きの元かもしれない。中原中也のいう「奉仕」ではないだろうか。同じ収容所体験をもつレヴィナスは、身を捧げるといっているが、ぎりぎりそういう線から読む必要がある気がする。だから、嫌いな人はすごく嫌いだと思う。ぼくも何となく敬遠してきた。ぼくはあきらめの悪い人間だから、そして自分に甘いので、恐れていたのかもしれないし、平和ボケで何が悪いとも思っているからだ。そういう生も、身を処すということは、いつでもしていることである。だからというわけでもなく、不意に読みたくなった。読めるかな?
あと、やっぱり書くことは体にいいのか悪いのかわからないけど、自分を変えていくものだと思う。
Aug 02, 2006
今日は少しお疲れです
今日彼女が旅行に行ったので、久々に独りもんの気分を味わっている石川です。今日の仕事は思ったより疲れました。同僚の方も云っていたのですが、少しずつでも、疲れというのはたまっていくもので、向こうの職員さんは風邪を引いてて、それがうつったという訳でもないんでしょうけど、夏場の体力仕事は、週一とはいえ、少し体に来ます。というか、やっぱ最近暑すぎます。絶対気候がおかしいな。ぼくは高槻に住んでいたので、大阪市内は暑く感じられます。
家に帰ってきて、シャワーして、汗だらけのTシャツを洗濯したり、ご飯を作ったり、亀田のイカン試合を見たりしてたら、体が重く感じられました。熱中症ではありませんが、気をつけようと思います。幸いなことに、以前に比べて、太ったせいもあるのか新陳代謝はいいです。水分もこまめに取るようにしています。
仕事自体は少しずつここがまだできてないとか、そういうことが少し見えてきました。もっとうまくがんばっていこうと思います。
にしても、なかなか頭痛が取れません。〆切が近づいてきても文章が書けないと起こる現象かもしれないです。文章を書くというのは体にいいものなのか悪いものなのか謎です。タバコを吸う程度には悪いのかなあ。こういうときは素直に寝るのが一番かもしれません。
亀田の試合は、それにしても、判定がおかしかったなあと思います。見た感じ亀田負けてたよ。でも勝った。あれなら、負けたほうが彼のためになったと思います。(もちろん負けはきびしいものですが)よくがんばったけど。KOを期待されて大変だったろうな。まあ自分で強いみたいなことをさんざん大きく云ってたのだから仕方ないかな。テレビタレントとしてはちょっとだけ面白いのになあ。試合中、普通の少年の顔に戻っていた。それが印象に残っている。
Jul 31, 2006
一昨日のサッカー

一昨日、ガンバ大阪の試合を万博公園で、見てきた。結果から言うと、2-2で、同点で試合終了。少し残念だった。緑の芝生がきれいで、野球よりも近くに選手が見える感じでよかった。観衆は15000人近く。よく入っていたと思う。ただ、後ろの中学生くらいの女の子達がおしゃべりをしたり、騒がしく応援したりするのが困った。
選手が攻めて来る感じ、あんなに広いのにゴール前まであっという間だ。来る途中はそれほどでもなかったのだが、モノレールに乗って、太陽の塔が真正面から見えて、公園東口駅について歩いていくと、すごい人だった。帰るときもすごい人だった。
アビスパ福岡もがんばっていい試合だったと思う。ガンバは今3位だそうな。
8月の初旬は詩の集まりが二つあるし、診察もある。彼女が旅行に行くのでしばらく一人で過ごすことになりそうだ。詩がなかなか書けない。
埼玉の市民プールの流れるプールで、吸水口に女の子が吸い込まれて亡くなった。事故直前に柵を外したり不可解な事が多い。何かおかしい。女の子がかわいそうだ。
Jul 29, 2006
くるり
木曜日にカウンセリングへ行って、話すのがしんどいことがあったのだけど、話さないで置いておくという選択もあるのかなと思いました。話した後、なんだか後から疲れてしまって…。だから、そういうのもありなのかなと思いました。少し大人になった、自分です。CDを、何枚か買いましたPUFFY、BONNIE PINKは10周年だそうで、早いなあと思いました。PUFFYはPOPで聞かせるのだけど、ぼくはくるりのベスト盤「ザ・ベスト・オブ・くるり」がいいと思いました。しばらく聞きながら寝たりしています。ぼくはナンバーガールと双璧だと思っていました。ナンバーガールは解散し、ZAZENBOYSががんばっています。それぞれにいろんな活動形態があるのだと思います。個々のアルバムだけでは見えない、確かな叙情というか感情の流れを体験することができます。最近の曲の力をこのアルバムで、体験できたなと思いました。なにかもやもやしたものではない、芯のようなものが保たれてきたんだなと思います。とても一貫性のあるバンドだと思いました。アジカンあたりが成熟して、こうしたアルバムをだせると最高だと思いました。
金曜日はデイケアでした。なんだか頭がぼーっとしてたときもあったのだけど、楽しむことができました。
Jul 26, 2006
正直に書くということ
ぼくの親父が、ガンバ大阪の試合のチケットを手に入れたのだけど、親父はその日、地域の盆踊りの仕度をしないといけないので、ぼくにチケットをくれました。サッカーを見るのは初めてなのだけど、なんだか楽しみです。最近、外へ出ることが少しずつ増えてきて、暑いのは、かなわんけど、いい傾向かなと思っています。今日は井上義夫というD・H・ロレンスの研究者が書いた「村上春樹と日本の「記憶」」という何年か前に出た本をぱらぱらめくっていました。いくつか目を引いたのは、村上春樹にとって「記憶」というのが人のアイデンティティーを形作る大切なものだという当たり前の指摘がなされていたことです。春樹氏は、あまり、そういうストレートな読みがされていないので、新鮮です。もし記憶がなくなったとしても、自分を裏切らないで、生きのびていくということも書かれていたような気がします。
村上春樹氏は「完璧な文章などありえない」という言葉から「風の歌を聴け」を書き始めていますが、そこで、強く感じられていることはかなり倫理的なことのような気がします。その言葉を知って、春樹氏は安堵を覚えるわけですが、ものを書くということが、「正直」に書くことを願う、何度、できない、失語する、暗い闇がおそってきても、なるべく正直たらんとするということの大切さが感じられます。「書けない」ということは存在論的にいえば、「なぜ無が在るのか」という問いに直面することで、その感触をたどるように、無から「在る」を生み出すわけですが、それは虚構になります。書くことは虚構をつくるという宿命があります。そして、虚構に誠実に向き合えるか、その中の「本当」というものに向き合えるか、大切です。
あまり、春樹氏はそういうまっとうな作家としてとらえられていないので、井上氏の観点には、何か大事なものがあると思います。日本文学の、大事な核の、その何分の一かでも春樹氏は分け持っているかもしれませんから。そうでないという意見もありますし、それに対して、そうだと思うこともあります。春樹氏を擁護しようとするわけではありません。ただ、書くことは実存との勝負でもあるわけで、そういう観点から、流行作家だといってかたずけるのではなく、見るのは大切かなと思います。その核にこの国の姿の一端があるというのは少しいいすぎな気もするし、井上氏が過大評価している面もなくはないと思いますが。
今日は掃除の日でした。やはり汗をかくと気持ちいい。このまま順調にいければいいなと、一緒に働いている人や友達と確認しました。
Jul 25, 2006
テリーギリアム
今日は彼女とデートに行ってきました。梅田ガーデンシネマで、「ローズ・イン・タイドランド」を見てきました。あそこは空中庭園があるビルで、人工の滝が見えるところで食事しました。
「ローズ・イン・タイドランド」。悲惨な話が生み出す、幻想的な物語だったが、ヤク中の家族といい、テンカンをもっている弟と死体がよみがえってくると思っている姉の兄弟といい、すごくどこにでも転がっている、壊れた家族なのかもしれないと思った。その中を指人形と話しながら、夢と現実のバランスをとって絶望もしながら、生きていく女の子の話だが、すごく突き抜けたユーモアがある。
個人的には主人公の親父のパンクぶりや、ディキンスと主人公のやり取りが笑ってしまった。やっぱギリアムすげーという感じだった。「12モンキーズ」より錯綜していない話だと思った。また短期間でいい俳優にめぐり合えたと思う。弱者と呼ばれる人たちのちょっと悲しいお話でもあるが、たくましい想像力をみんな持っている。
Jul 24, 2006
結婚式に行ってきました
土曜日は気分の悪いことがあったが、それとは別に某誌に自作掲載決定!うれしい。さらに福島敦子さんがぼくのサイトとリンクしていただいて、とてもありがたいです。
昨日は大学時代の友人の結婚式に行ってきました。京都で雨がぱらつく中おこなわれたのですが、何人か大学時代の友人が集まって、ちょっと同窓会気分でした。苦労人の彼は、あらたに幸せの誓いをしているようで見ていてさわやかな結婚式でした。あらためておめでとうを言いたいです。
ここ何日か予定が続いたので、今日は寝ていました。
Jul 22, 2006
球宴、伊藤比呂美
藤川球児の球はすごい。江夏とか、伝説の投手はあんな球を投げていたのではないだろうか?久々に出てきた本物という気がする。でも、球児という名前で野球が下手だったら、本人はすごい落ち込んだだろうな。「ハウルの動く城」を見る。ちょっとずつ見たので、あんなストーリーだったけと思う。何かうまくいきすぎ。
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示したとされるメモが見つかったらしいが、昭和天皇だって、あの戦争に責任があるはずだし、その人の意に流れるというのはどうかと思う。なんでも個人的な信仰の問題にしてしまって、自分の公の考えを示さない小泉首相もどうかと思うし。こういう問題に万人が納得する考えがあるかどうか疑問だが、どんな魂であれ、安らかに眠っていただくということと、生者の政治的な都合というものの整合できる点を見出さないといけない。国内外問わずである。
テレビを見たあと、伊藤比呂美の初期詩集(思潮社現代詩文庫)を読む。先入観よりはグロくないし、破壊的でもない。そういう装置が機能しなくなったというのもあるし、それ以外の部分でも読めると感じた。最初のほうの散文体の詩が優れているものが多い。この人はとても目がいい。物と物、人と人の関係が的確に描かれる描写力に驚く。あくまで主観を離れないのだが、あらかじめ心地よい客観が内在している。サービスがあり、それが嫌味になっていない。差別(先入観)は明らかにしていて、差別(先入観)が少ない。これほどの描写力をもった現在生きている詩人は少ないのではないか。読んでて気持ちいいし、書き手として羨望する。本人は好き嫌いが激しいというが、いろんなものが立体的に描かれる。小説家の目ではないだろうか。小説と詩の違いってなんだろうと思った。(梶井など、小説となっているが詩か小説かわからない。すぐれた文章は、その違いを超えるのかもしれない)じっさい伊藤比呂美は小説もエッセイも書いている。
それとこの人の本領はエロス(ある種の風潮に流された)よりも、死を見つめる目にあるのではないかと思う。エロスと死はこの人の場合まったく対極ではない。実際死を扱った作品が出てくるが、それは何かを悼むとかいうよりも、なによりも、生き物の死を観察する目だ。そこには厳粛な倫理が働いていると、「アウシュビッツミーハー」という作品を見て思った。自分が死に対して第三者にしかなれないという感覚を描いている。子が生まれてからは、子を殺してしまうかもしれないという子と言う他者との二者関係の死の問題への移行が見られる。そこで詩が変わっていったような気がする。差別の根源には産む/産まないということがあるのを見てから、何かがかわってしまったかな。たぶん、何かに中立でいられなくなったのかもしれない。子を産んでから、子育てや家族に詩が侵食されて、いくつか面白いけども大変だなと思った。詩らしい詩は、散文体にくらべ迫力が少ない。また欠点はエロスが観念的に現れる時があるということである。ぼくは、何冊かのエッセイを読んだことがあるが、それは面白かった記憶がある。
全てを見てそこから書くことのできる、文章家と思う。ただし谷川らが書くような空とか宇宙の詩はない。たぶん、「気持ちよさ」(書きつくすことの=産むことの)と「死」が彼女のキーワードではないだろうか。それらは言葉を駆動させる本質に近いものであると思う。
Jul 20, 2006
子どものいる風景
ここ一週間くらい気になることがあって、ちょっと鬱々としている。もうすぐしたら、溶けるかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、そう深刻になっていないので、大丈夫かな。。というわけで、しばらく日記をつけなかった。ざっと、先週の連休から、あったことを適当に書こうと思う。
連休中に「維新派」の舞台を見に行ってきました。しかし、いまいちでした。なんというかストーリー的にふくらみがないのに、役者だけが動き回っているのが見ててしんどかったです。あんなに動き回って、中身がもうひとつだとやりがいってあるのだろうかと思いました。あくまで個人的意見ですけど。
テリーギリアムの新作は見に行っていません。見に行きます。それからもうすぐゲド戦記、楽しみです。今週末に予定があり、日曜には大学時代の友人の結婚式があります。礼服のズボンがちょっとサイズがきついのですが、楽しく祝ってきます。それから8月初旬に詩の集まりが二つあるので、自分的にはですがちょっといそがしいかもしれません。
今週はよく寝ていました。仕事は、あちらの都合で休みでした。書きたい書評があるのだが、読むのも書くのもなかなか難航しています。もうひとふんばりです。大きい枠組みは見えているのですが。それと足立和夫さんより新詩集が送られてきました。うれしいです。素敵な本です。また詳しく紹介したいと思います。
今日、夏休みに入るせいか、子どもの姿がよく見られた。雨の中(雨で被害にあわれた方お見舞い申し上げます)、病院に向かったのだがその車中で、5歳くらいの男の子をつれたおばあちゃんとお母さんが向かいにすわっていて、お母さんが「うちは泥棒はいられたら、お金ないから、みんな代わりに命取られるわ。だから泥棒に逆にお金かりなアカン」といっていて、子どもは「あほなこと言うな」みたいな顔をしてた。わかるわ。いややなあ。でもリアルかも。
帰りラーメン屋に立ち寄って(ここは茨木で2番目においしいラーメンという暖簾がかかっているのです)けっこう混んでいて、子供連れも2組くらい来ていました。小さなラーメン屋です。ぼくがおっちゃんたちに混じって、チャーシュー麺と餃子でビールを飲んでいたら、3歳くらいの子どもがビールに興味ある顔しながら、「お父さんになったらのむねん」といっていて、かわいかった。何度も何度もいっていた。そしてニラのキムチ漬けみたいなのを欲しがってしっかりゲットしていました。六年生くらいのお兄ちゃんは特盛ラーメンを頼んでいた。お母さんも大変です。
なんか、いろいろ考えごともあるけど、子どもを見たら、なんかうれしい。自分が子どもを持ったら大変なのだろうけれど、子どもにはなんか不思議な力がある気がする。共振する様な世界があるというか。すぐ大きくなるから、さらに不思議。いろいろ子どもをめぐる、こわいニュースがあるので、大変だ。
Jul 14, 2006
漢字
今日、魚扁のつく漢字を何個かけるかといわれて、いくつか書いてみた。すごく頭を使う。でも出てきたり出てこなかったりした。そしてこんなページを見つけた。こちら。頭が変になりそうである。アートだともいえる。今日友人がテリーギリアムの新作を見に行くといっていたので、ぼくもいつか見に行きたくなった。ぼくは「12モンキーズ」とか「未来世紀ブラジル」とかしか見ていないのだけど、(2作も見てるって自分的にすごいかも)ギリアムの素直だからこそ世界がねじれて見えるような作品は好きだ。
ぼくは人と仲良くなりたいと思うとなぜか結果的にどんどん押してしまう。わがままなのだろうか、あほなのかわからん。自制しなくては。
最近時々映画を見に行ったり、今度は維新派の芝居も見に行く。(わ!イルボンさんが詩集を出している!)ぼくは去年からしたらうそみたいに健康的だ。ポエムバザールへ向けて批評や詩を書くので、感性のリハビリになればいいと思う。今日ラストの事で悩んで悩んでmixiに「やわらかい生活」のレビューを書いた。以下に転載します。
「やわらかい生活」
ぼくははじめラストの祥さんの死に驚いてしまい、またつまずきました。
それで色々考えて一日経ったのですが、これは大人のファンタジー映画に近い作りをしているんだなと思うと何か納得できました。
祥さんのアメ車とか、格好とかある種のキャラですし、妻夫木くんのヤクザは不思議な少年という感じです。
もちろん、主人公の病については啓蒙的ともいうべき、万全な演技、役作りですし、様々ないいシーン、設定で、虚構の中のリアリティを作り上げています。
だから、ぼくはあまり人生論的に考えないことにしました。もちろん重たいテーマがあり、それは夢から覚めて生きていくという逃げ道のない過酷なものです。
まだ頭の中でぎくしゃくはありますが、完成度や総合力は高い映画だと思います。つっこみどころはいっぱいありそうで、あまりないと思います。もちろんつっこむことは出来ますが。
ふるさとについて
今日はカウンセリングに行ってきました。それから東京の友人から教えてもらった映画を見てきました。その前に本屋によって、鎌田慧「椎の若葉に光あれ」(岩波現代文庫)といしいひさいちのマンガ「現代思想の遭難者たち」(講談社)を買ってきました。カウンセリングのあとに、新しく出来たカフェみたいなところで昼食を食べました。いつもはこれも近鉄の永和の駅のそばなのですが「食楽三昧」というところで、食べます。今日はちょっと変化をつけてみました。仕事の次の日だったのですが思ったより体調がよく、カウンセリングでは、悩みごとが少なくなったのはなぜかという話をしていました。もちろん悩みがなくなったわけではありません。どちらかといえばこもる人だし、相変わらずくよくよしたり、というのはあります。
自分の感覚のパターンみたいなものがあって、そのパターンというかモードはあまりふかく把握していないのですが、何でしょうか。自分の人との関わり方の根幹だと思います。ずーっとそれを恐れて生きてきた感があります。ある種のいたたまれない気分というのがあって、そういうパターンにはまらない余裕みたいなのが出てきたのでしょうか。はまってもある程度のところでとまって、痛手が少なくなるというか。彼女にそういったら、「暑いから余計な事考えへんねん」といわれてしまいました。だから、悪くなるときもあるかもしれませんけど。
鎌田慧の本は私小説作家葛西善蔵の、今の言葉で言うと、「イタイ」生涯を追った伝記です。何を隠そうぼくは、大学の頃、笙野頼子さんにはまって(彼女は思えば引きこもり小説の先駆者ですが、80年代からそうやって生きてきたので、その当時は評価されませんでした)、私小説というものに目覚め戦後文学の裏街道をたどり、藤枝静男さんを読んだりしていたら、どんどんその筋にはまってしまいました。今考えたら、藤枝さんはとても真面目な生活者で、葛西善蔵も真面目すぎておかしいくらい真面目な人です。真面目をつきぬけると、こんな人になっちゃうんだというくらい小説に没頭しながらかけないかけないといっていたのが葛西です。
私小説には、他のジャンルにはない、自分の資質つまり生きている感覚のふるさとでしょうか、そういうものに対する強いこだわりがあり、それがすぐれて突き抜けると不思議な幻想や、ユーモアをうみだします。ぼくはその距離感のない(いわゆる客観性のない)こだわりというものに自分を感じたのかもしれません。今はぼくは私小説から遠ざかっているけど、そして、私小説なるものは嫌われた時期もありましたし(それにはひつぜんもあったのですが)あまり読まれないけど、何か懐かしくなって、鎌田慧の本を手に取りました。書き出しを読んでみたけどすばらしいです。原本は94年発売で買った覚えがあります。でも内容を覚えていません。あらら。これで買って読んでない本がまた増えました。なんとかしなくては。いしいひさいちのマンガはさっと読めます。哲学者をネタに目いっぱい遊んでます。さすがです。これは現代思想の冒険者たちのおまけについていたんです。
それで映画なのですが、「やわらかい生活」という映画です。動物園前のシネフェスタで見ました。フェスティバルゲートはジェットコースターもとまっていて、館内表示も塗りつぶされているところがあって、なんかさみしい感じです。この映画は自分の感覚のふるさとを追いかける映画だと思いました。さっきの「現代思想の遭難者たち」でも出てくるのですが蒲田という町がカラオケの発祥地ということを初めて知りました。だからカラオケの部分がノーカットで撮られています。寺島しのぶもいい味出しています。心の病(躁うつ病)と共に生きている感じがある種普遍的な感じで描かれています。やたら薬もリアルでした。町もいい感じです。ふるさとという感じです。ただ、豊川悦司演じるいとこが死んだことがなにか残念な気がしました。いとこが生きてどうなるか決着をつけることが主人公の生にもなんらかの意味を感じさせる結果になっただろうという思います。それくらい男は消えて女が残されるという映画なのです。原作はわかりませんが原作にはなんらかの意図があったのかもしれません。しかし、そうするにしても、なにかひっかかるものがありました。基本的に素敵な映画なので、余計にストーリーの決着のつけ方が気になりました。これはあくまでぼくのこだわりなのですが。
Jul 12, 2006
掃除機
変な天気だった。でも夕空はきれいだった。今日も掃除の仕事で汗を流す。週一回のことだけど、外に出て、動く大事な時間だ。こないだとは違った区域を掃除する。そうやって見取り図を作るように覚えていく。先週して、忘れていた動作もあった。今日たまたま見学に来た人に、掃除機のかけ方がなれてませんねといわれて、ぼくもそう思うけれど、掃除機ってけっこうむずかしいんだよねーと思う。ぼくは掃除機はあんまり得意じゃないです。なれていかんといかんなあ。
トム・ヨークのアルバムをずっと聴いている。いろんなところで、いろんな評価がされているが、ぼくは洋楽の動向に詳しくないので、細かいところはよくわからない。しかし、かなり聞かせる歌であり、曲の感じがする。やっぱり、本当にいやだと消しちゃうからね。そういうことはない。ついついかけている。でもこわい音楽だなあと思う。この人の本質はこわい人なんじゃないかと思う。魔術的な音楽だ。聞いてくるとなじんでくるけど。かすかな違和はある感じかな。これがメジャーなのだから不思議な感じだ。でも引き込まれる。レディオヘッドの曲に詳しくないのでなんともいえない部分があるけど、これ本体がどうかということで、良くも悪くも引き込まれるものになっていると思う。だからトム・ヨークも掃除機かな?
Jul 10, 2006
トム・ヨーク

ここ何日か日記を書いていなかった。
先週木曜から印象に残った事を書いていきます。
木曜=診察で就労について報告。のちに実家で飯を食べる。ひさしぶりに親に会うというのはいい気分だった。弟のハリウッドみやげにTシャツとカリフォルニアワインをもらって帰る。
金曜=デイケアに行く。新入りの人が何人かいる。就労、来週水曜に行く予定。職員さんがついてくれるみたいです。夜は昨日もらったカリフォルニアワインを飲みながら、七夕祭りをする。去年に続いてぼくの願いごとに彼女からダメだしが…
土曜=詩の友達と会いました。お互い近況を話しながら合評までしました。いろんな話が出来る友達は心強いです。詩についてけっこう深い話ができたと思います。村瀬学「自閉症」(ちくま新書)を買う。知的障害を持つ人の広い行動範囲に着目していて、彼らを地誌的な広がりの中においてみるという点がいい。山下清論も新しさを感じます。
日曜=彼女とタダ券があったので、お茶をのみに行く。自転車に空気を入れる。CD屋にいって、まずはある人にすすめられていたMUSEというバンドの試聴をする。ざんねんながら、少しぼくの好みと合わなかったが、一応頭の中に名前を入れておこうと思う。トム・ヨークの新譜を買う。いわずと知れた、レディオヘッドのフロントマン。ジャケがかっこいい。絵が折りたたまれていて、すごく詩的な雰囲気なのです。ふだん音楽をきかない彼女もジャケがよくて目が引かれたといっていた。絵が神話的です。この波を起こしている人は誰?という感じなのです。こんな詩集があればいいのになと思いました。
音楽は普通の音楽の伝える感情とは全然違います。KID Aの時も感じましたが、どこか恐い世界に連れて行かれるようなこの世のものではないような感じは残っています。KID Aよりはポップですし非常にわかりやすく仕上がっています。また、サウンドが部屋の中を自在に飛びかう感じで、それがおもしろい。こういうアルバムは脳内麻薬的というか、脳の意外なパターンを刺激して、どんな感覚になるか実験しているみたいです。いわゆる落ち着く音楽でもないんだけど、音のパターンを踏み外して、解体して、よくわからないところへ導かれる感覚を味わうことができます。方向はまったく違うけど、ビョークの「ヴェスパタイン」に近い気もします。おススメポイントとしては5点満点中3.8点くらいでしょうか。いいんだけど、トムの試みに対して、いろんな意見があると思って。コアな感覚からは一線を引いています。でも楽しんで作っている感じがします。コアな人には物足りないでしょう。それから洋楽、全然詳しくないようというぼくのような人が聞くと新鮮です。
Jul 05, 2006
初仕事の日
今日は初仕事の日だった。みんな汗をたくさんかいて、仕事をした。暑い暑い。でも、からだの毒気が抜けていくようで、帰ってシャワーしたら気持ちよかった。それくらい汗をかいたのです。ぼくらのお掃除するトイレはきれいに使われています。でも、長い目で見ると掃除は大事です。緊張したけど、初日は何とか無事終了しました。最近メールを下さる方がいて、ぼくのことを「普通です」といっていただけたので、なんだか安心しました。普通をまっとうといいかえていいのかはわからないけど、病気のあるなしに関わりなく、まっとうであることは、なんだか大事な気がします。別にまっとうな人とまっとうじゃない人がいてとかそういう話ではないんです。また、仕事をちゃんとしてるから「まっとう」とか、そういう話でもないんです。ぼくの経験では、仕事をしようがしまいが勉強ができようができまいがまっとうな人はまっとうです。孤独でも、異端でもまっとうな人はいます。だから能力の話ではないのでご安心を。
今日日本海にミサイルが打ち込まれたので、ちょっとした騒ぎです。ニュースを一生懸命見ていたけど、要点があまりわかりません。重村さんという人によると、日本はやばくないみたい。逆に仲良くしている韓国政府や中国政府が困っているようです。わかったのは、北朝鮮がどんなに困った政府でもお友達の政府はいるということです。
また、アメリカ政府が、北朝鮮関係と取引しないので、金正日はお金に困っているので、まわりにお小遣いをあげられないらしい。
今日卓見だと思ったのは、専門家の話ではなくて、ぼーっとしてたら耳に入ってきた話で、金正日と国民の関係を、虐待する親とその子どもにたとえた話でした。たしかに介入がむずかしいは、親と子を早く引き離さないとやばいはです。そういう専門家の話ではない、あまりニュースを見ない人の意見がなんかぴんと来たのはなぜでしょう。
だってたぶん本土には打ってこないけど、飛んできたらどうなるのでしょう。核弾頭をつんでたら、大変なことになります。けど、そうなったら、ぼくら庶民ではとうてい対処できません。だから、ある程度、広い気持ちで、見ていなくては、逆説的ですが、神経ももたないし、第一心の狭い人たちのやっていることを見ている了見がないということです。これは政治的見解ではないのですが武器を使うという愚行を許すというのではまったくありません。だから、ぼくらは政府の人でもないし細かいことはわかりません。政府の人だってアメリカのデータに頼っているでしょう。そこで、どう自分の感情を動かせる正確なものがつかめるでしょう。すべては憶測です。世界は悲しいかな憶測で動いています。それに対して、ぼくは広い心でと思うのです。あくまで個人的な意見ですが。
Jul 02, 2006
金曜の映画、土曜の合評会
金曜は、マイミクの猫月亭さんと映画を見てきました。なかなかいい映画でした。猫月亭さんと、どんな映画かなあといっていたのですが、よかったです。「タイヨウのうた」といいます。宣伝が少ないためか客は少なかったです。筋はこれから見る人のためにあまりいいません。主人公の女の子はXPという太陽に当たると死にいたる病気を病んでいます。その病気の進行具合も恋愛も押し付けがましくなく描かれています。いわゆる「泣けよ」映画ではありません。十分悲しい話ですし、さらりとした描き方が逆にその悲劇性をつたえていました。でも、どこかに希望があるのです。個人的には、主人公の窓から見える早朝(日にあたれないため昼夜逆転しています)の風景や、海の絵が心に届いてきました。夜というものの澄んだ空気や切なさがよく出ていると思います。空気感にやられました。また作り手の人間に対する確かな目のようなものが伝わってきます。あとからじわっときます。地味な映画ですが地味な映画の光を感じます。若さというものの痛みと輝きを残そうとするかのような。個人的にこういう話には弱いのです。うたも、よかったです。映画の後は、ご飯を食べながら、お話しました。ぼくも、映画たのしかったですが、それを素直に伝えられたか不安でした。映画をあまり見ていないので自分の感想に自信が持てなかったのです。あとからじわっと来たので感想がそのときはうまくいえませんでした。しかし、話していると、そんな感じはどこかにいきました。猫月亭さんの感想をきいていると、心が伝わってきました。猫月亭さんは、いろんなものを見に行っていて、ぼくは感心しました。ぼくは出不精なので、猫月亭さんの話を聞いて、いろんなところに見に行った気になって、よかったです。猫月亭さんのいうように、東京は文化的にまだまだ首都なのだと思いました。ぼくは東京に行きたいと思ったことはあまりないけど、芸術に頻繁にふれるならやはり東京かなと思いました。ぼくも小説家のサイン会があったら行きたいですから。また、あまりに地域格差があるのはおかしいとも思います。猫月亭さん、ありがとうございます。ぼくは友達が少ないので、とてもいい時間を過ごせてよかった。またよろしくお願いしますと思いました。土曜は合評会でした。人数が少なかったけど、楽しかった。自分の詩「ふたつのキ」の感想を聞きながら、深刻にとらえる人がいたり、軽いなと思う人がいたり、気と木で引っ張るのはきついと思う人がいたり、詩は読者をも映す鏡なんだなと思いました。
Jun 30, 2006
カウンセリング
昨日はカウンセリングに行ってきました。最近気になることはあまりないけど、ひととおり、近況報告しました。自分の気持ちより相手の状態などを優先させるにはどうしたら言いかと思います。想像の力ってこわいですからね。相手が何してるのかとか嫌ってないかとか、想像しがちです。だいぶマシになりましたけれど。
斉藤和義の「俺たちのロックンロール」を買いました。かっこいい。プライマルスクリームの方はいまいちでした。
本屋に行きました。倉田良成さんの本が置いてありすごいなあと思いました。本では村上隆「芸術起業論」を買いました。芸術には「怒り」のパワーが必要だとか、新しい芸術をつくるとしても、芸術界の既存の文脈を押さえて、そこを超えていかなければならないとか、新鮮な議論がいっぱいあります。海外で作品を認めさせなければ、生きていけないという強い思いが伝わってきます。でも詩とはちがうなあと思います。誰しも己を普遍化させたいという思いは、持つことはあります。でも、村上さんの場合、その気持ちが、なにか自分のふるさと(オタク、日本)を伝えたいという根源的な欲望であることがわかります。いろんな反論もあるだろうし、語り口もうまいとはいえませんが。岡本太郎の「青春ピカソ」がなぜつまらなかったかなんかわかりました。
きょうはコーラスです。あと今日マイミクさんに会います。
Jun 28, 2006
見学
今日は、以前書いた就労の件の見学に行ってきました。暑い中、仕事をこなしていく方々に圧倒されました。正直、自分もやれるかなとちょっと不安になったりもしました。とにかくやってみないといろんなことがわからないとも思いました。やはり仕事というものは大変だなと思いました。あちらの担当の職員の方がレディオヘッド(イギリスのバンド)のTシャツを着ていて、「レディオヘッドですね」というと職員の方は同好の士を得たようでうれしそうでした。「なかなか身近に洋楽の話をできる人がいないんですよ」といっていました。「英語のアルバムの名前が「健忘症」という意味なんです、こんな業界で着るのはまずいですかね」といっていました。なかなかファンキーです。「なぜラジオではなくレディオなんですかね」といっていたので、徳永英明に「壊れかけのレディオ」という曲がありますよといいますと、笑っていました。余談ですが、徳永英明さんは「もやもや病」という難病にかかったことがあるそうです。今は復帰されてますが、名前とは裏腹に、脳疾患で血管が映像で見るとタバコの煙がもやもやしているように見えることからそう名づけられたそうで、大病につながりやすい病です。英語でもmoyamoya diseaseというらしいです。
正直、仕事、夏場はやせそうです。けっこうなれるまで大変かもしれません。
Jun 27, 2006
(ハル)
昨日詩が書けたので、ちょっとほっとしています。まだ送っていないし、まだ載るかは、わからないのが不安ですが、がんばって乗り切っていきたいです。まだまだこれからと思うことにします。今日は映画「(ハル)」を見ていました。mixiの「(ハル)」のコミュニティーで知りました。パソコン通信時代の映画ですが古びていません。人と人の関係の変化をきちんととらえた映画だと思います。6月いっぱいヤフーの動画で 無料で視聴できます。 こちら
この映画ではメールが来ないということがひとつのターニングポイントになっています。結局、相手の心を信じられるかという問いが出てくるのです。自分の深いところにも触れてきます。これはどんな通信手段でも変わりませんが、メールの場合、相手に即届くので、来ないときのドキドキは一層あると感じます。深津絵里は、ほとんどからみがなく、引いて撮られる映像に色々考えさせられたらしいです。
Jun 26, 2006
書けた
ここ2~3日は詩が出来ずに悶々としておりました。で、今日いくつかのイメージが浮かんできて、どれも懐かしい光景なんですけど、近所の河原とか、星とか、伯母さんの家とか出てきて、わーっとなって、それを書きとめたら、なんか詩のようなものが出来上がりました。ちょっとすっきりしました。なんかお風呂も入らずくさかったのですが、シャワーを浴びて、一つ出来た。出来ないときは2時間くらい机に向かってました。なんかスタジオに缶詰になるとか大げさだけどちょっとそんな感じもします。こんな感じは初めてです。今までは闇雲に書いていたので。いい詩が出来るときは、本当の言葉(そんなものがあるかわからないけど)が出てきます。他の詩と違う言葉で書いてないのに、やはりなんかわかります。その詩は、どこかに発表できるかもしれないので、その候補に入れます。もう一作くらいかけるかなあ。
ぼくのマイミクさんがぼくの詩集を紹介してくれました。フルショーさんです。ありがとうございます。うれしいです。
カラオケに行きました。高田渡の曲で「生活の柄」。山之口獏さんが作詞しています。どこかねじの外れたような浮浪者のうたなのだけど、これをうたうと不思議とねじが戻ります。
生活保護が何か変わるらしい。日本の福祉は貧しいので、ちゃんと所得保障が出来ているかも怪しいのに、しめつけが厳しくなりそうです。つまり必要な人に回るかということです。きっと保護の人が増えたので政府が大慌てなんでしょう。ひどい話だ。障害年金暮らしのぼくとしては他人事じゃありません。社会保険庁もでたらめだし。
Jun 24, 2006
約束の十二月
昨日NHKの「金曜かきこみTV」を見ていた。10代の性の悩みを聞いて回答するコーナーで、みうらじゅんさんらが、「童貞は想像力の源だ」とかいってて、みうらじゅんは性の伝道師だといつも思うわけだが、驚いたのは益子直美さんだ。益子さんは、バレー選手時代から好きだったのだが、今もかわいい。トップランナーの司会も大江千里は別として、好きだったのだが、驚いたのは、10代の性に歯止めをかけようとしたのか、こんな内容の発言だった。要約すると、「わたしは40が近くなったが、若いときのセックスよりも、今のほうがいい」というものだ。おいおいNHKですごいこといってるなあ。益子さんがいうと(そんなこと云いそうにないだけに)妙にリアルじゃないか。というより、なぜみうら氏はつっこまないんだ。でも益子さん、まじめに話したんだろうなあ。発言の目的より、ぼくにとってはビックニュースだった。今日は掃除したあと、斉藤和義の「約束の十二月」を聞く。これぞ斉藤和義という感じのさらっとした、でも深みのあるいい曲だ。胸が熱くなる。カップリングの曲で「ひとり暮らしにも飽きた」というフレーズが出てくる。リアル。ますます斉藤が聞きたくなる。益子さんと斉藤和義は同い年であった。宇多田ヒカルも楽しみです。今日はたぶんスパを食べた後、犬と遊ぶ予定。詩を書こう。
Jun 22, 2006
どこまでいけるか
一日中雨である。ごろごろする。病院行く。それで終わった一日。 いつもどおりの10分診療(10分かかるかな?もう少し短いかな。他の方はどうなんだろう?)であるが、最近はいい感じになっているし、近況報告という感じになっている。それがいい距離感だ。詩についても、就労についてもあたたかく質問してくださる。詩について話せるのはいい。今日は、「ダメな詩というのは自分で書いててわかるの?」というもので、わかりますと答えた。やはりなんかうまくいってないなというのはわかる。(わからないときやいいといいたくなってしまうこともある)彼女にそのダメな詩を見せてしまうのだから、ぼくも迷惑な奴だ。それで、詩を書かなきゃいかんのだが、なかなか書けず。プライマルスクリームのCDが欲しい。果歩さんから、手作り詩集が届く。実家には届いていたのだが、こちらにはまだだった。「うみべ」というタイトル。ぱらぱらめくるが、葛藤が、クールな筆致で切り抜かれていく印象がある。なにか幽明界をただよっているような印象もある。しかし、この詩たちはまちがいなく生きている。もう少し読み込もうと思う。
詩を書くにしても、何をするにしても、課題というものがあると思う昨今だ。書くたびに新しい景色が現れてきて、そこへ、自分をひっぱっていく。自分の未消化なところや、詰めの甘いところがあらわになっていく。紙媒体を意識し始めたら、ネットとはやや違った形での、誰かが見ているところに出すという感覚が出てきた。正直どこまで行けるか不安だが、書いていこうと思う。
奈良で自宅に火をつけたのは少年だった。あえて何も書かない。
Jun 21, 2006
性格
デイケアの食事会に難波に行ってきました。たくさんの人が来ていました。いろんな人と話できたのがよかったです。もう何日か前のことだけど、彼女が福井の温泉に行ってきて、名前占いをおみやげに持ってかえってきたのだけど、その内容がぼくと正反対の明るく社交的な人になっていた。心配性のぼくにも、誰かがぼくの詩集について「向日性」と評していたけど、そういう一面もあるかもしれないと思ったりした。ぼくの父はすごく明るい人です。
ある悩んでいた人にメールで答えていたら、その人にほめられた。慢心してはいけないのだけど、ちょっとだけいいことした気がして、うれしかった。
もうすぐ、詩を某所に発表できるかもしれないです。うれしいな。
Jun 18, 2006
宇多田ヒカル
今日は、彼女が旅行中。NHKの「トップランナー」で、宇多田ヒカルが出ているのを見る。最新アルバムの宣伝なのだろうけれど、よかった。べつに彼女をとくにチェックしてるわけではないのだが、色んなアクが抜けていた。一見年取ったなあと思ったが、8年前にブレイクして、駆け抜けてきて結婚もし、いわゆる「スター」のオーラとはちがうものを放っていた。早くに有名になって、あとで苦労する人は多いが、彼女なりの理性で、様々な葛藤を乗り越えてきた感がある。デビューした頃は、確かに才能がすごかったが、騒がれている部分が大きかった。そこで身につけてきたしんどさというものから、吹っ切れた感じで、なんかさわやかであった。一ミュージシャンとして見れるだろう。砂漠が好きというのが印象的だった。そこに彼女の宇宙みたいなものがあるのだろうと思う。
楽天。ノムさんの采配が今日もすばらしい。一昨日投げた有銘をワンポイントで使う等、安定しだしたチームだ。
倉田さんから同人誌をいただいた。うれしいです。こないだ現代詩フォーラムに発表した詩は「ふたつのキ」といいます。ご一読下さると幸いです。こちら
今日はサッカー日本戦だ。
Jun 16, 2006
銃声のような音
昨晩彼女とちょっともめる。でもすぐ仲直りした。デイケアに行く。習字。ぼちぼちできた。しゃべりたかった人とも話せた。よかったです。今日は暑くなりました。昼はノリ弁を食べた。午後は普通に過ごす。
グループ就労の説明があった。担当の方とお会いする。少しシステムの話が難しい話だったが、なんとか理解する。グループ就労というのは、ひとつの制度の利用で、メインは、働く体験だ。もう一人の人と、説明を受けるが、もう一人の人は、すぐには飲み込めないようだった。一瞬、ぼくと一緒なのがいやなんかなあと思うが、考えすぎ。慎重になるのが普通だと思う。ぼくも慎重になりたい。しかし、いいチャンスだ。来週、ちゃんと詰めていきたい。
夜、今日はひとりなので、レトルトカレーを食べて、阪神戦を見たり、ホストやホステスを特集する番組をみる。人間は、働くのがやっとの人間やそれもしんどい人間もいれば、毎晩たくさんお酒飲んで、客のお相手をして暮らしてる人もいる。そういう夜がある。今日、人と話してて、薬を飲むようになってから、深夜時間帯に起きていることはなくなったことを思う。規則正しくなったわけだが、深夜に読売テレビの「シネマ大好き」で、マイナーな映画を見てた頃が懐かしい。今は亡き相米監督の作品とか見ていたなあ。そんなことを話してて思い出した。
阪神今日は勝つだろう。
(追記)ブログを書いて、ベランダに出てタバコを吸っていたら、3~4回銃声のような音が聞こえた。物騒だなあ。花火とかだといいのだが、まだ、パトカーの音は聞こえないので、大丈夫かと思うが、パンクの音とも違う。何だろう?今日も話していたが、やっぱり大阪って物騒な街なのかな。
Jun 15, 2006
気になることとのつきあい方
一日中、雨。じっとりと暑い。とうとう梅雨本番です。みなさん、いかがお過ごしでしょうか?たぶん全国的に雨なんですよね。まあ、そういうこととは関係なく、今日はカウンセリング行ってきました。メールの返事がかえってこないというのは誰にとっても今の時代、不安なのでしょうか。ぼくは気にかかるほうなので、先生に相談してみました。詳しい話は除くとして、これでも、だいぶ気にかからなくなってきました。病的な不安というのは薄れています。でも、メールは便利だけど、電話や手紙や直接会っての頃の心の決着のつけ方とはちがう時間の流れ方があるんじゃないかと思います。ずーっとつながっているから、つまりONだから、逆につながらないときに、なんでやろうと思うのかもしれません。いらん推測しちゃったりとか。こないだそれを詩にしてみました。手紙だったり、電話といえば、歌のテーマになったりしますよね。そういうのとメールは違う。いい歌やドラマみたいなものは、まだ生まれてないんじゃないかと思います。
でも、だいぶ置いてきぼりになるような感じとか、嫌われてるんじゃないかとか、少なくなってきました。気にかかることがありつつも、生活が送れている感じです。以前強迫神経症になったことがあって、それに生活が支配されたことがありましたが、それも、少なくなりました。
人は、気になることをかかえながら、生きていくのが、普通なのかもしれません。しかし、自分の思いみたいなものにとらわれて、周りが見えなくなってくると、生活が苦しくなります。なったことはないけど、社長をやっている人は、気になることだらけですよね。日々の売り上げとか、得意先とのつきあいとか、部下の面倒とか。で、社長じゃない人も、自分の人生というか生活をある種の事業と考えれば、友達のこと、家族のこと、そういう人がいなかったら、自分のこと、専念しなきゃいけないことでいっぱいで、気になることもいっぱいです。そうして、生きているのが、病気であるかに関わりなく、健康じゃないでしょうか。以前は雑念を消してしまいたかったけど、雑念がなくなるというのは、普通じゃ出来ません。ある程度いろんなことに意識が脅かされない程度に分散しながら、集中する事かもしれません。もうすぐ、精神障害者向けのちょっとした就労プログラムにつくので、忙しくて、メールどころじゃなくなるかもしれません。もちろん、メールいただけると非常にうれしいこともあるのですけど。
以前は、ある種勘違いして詩を書いていました。でも、そういうパワーでかける時期というのは、過ぎていく感じです。自分は特別じゃないという地点、つまり当たり前の地点から、書いていくというのは案外難しいと思います。いまでも勘違いしてるかもしれないけど、どこか遊離した地点からは書けなくなりました。かくごとに、それは嘘じゃないのとすぐツッコミが入りながら、書くのですから、一歩一歩が試行錯誤です。
Jun 13, 2006
ハミングバード
昨日の日本戦、動きも固かったし、なぜ柳沢を小野に変えたのかわからなかった。ボールをキープして、走るということが大事なのに。今日は楽天ー阪神戦を見て、トーゴー韓国戦を見ている。トーゴ面白い、野生の動きだ。昼に外へ。ながらく行ってなくて、お金だけ払っていたジムを辞めた。ちょっとすっきりする。森毅の名著「まちがったっていいじゃないか」を買う。学生時代、森先生には助けられた。彼は元祖脱力系だが、骨があることがわかる。それは戦争に対してつちかわれた、負けの哲学だろう。斉藤和義の新曲「ハミングバード」を買う。いい感じの曲。枯れ具合がいい。斉藤はいい曲を書く。彼も挫折をソフトに歌うことができる。
出版社からメール。詩集の在庫を置いておくのにもお金がかかる事がわかる。流通側はコストの問題から、裁断をすすめているが、それはまずいということで、引き取りをすすめるメールを送ってくれた。タダだし、ぼくの手元にあまり詩集が残っていないので引き取ることにする。
今日も深津絵里を見ることが出来た。やっぱりなごむ。彼女が出ている戯曲「あわれ彼女は娼婦」を見たいが、チケットはもう完売している。しかし来月には別の劇団「維新派」の舞台を見に行く予定がある。
Jun 12, 2006
道元の顔
朝地震があったようですね。大きい地震だったみたいで驚きました。少し被害があったようで大変です。今日はデイケアに行きました。ぼくが提案したソーセージとアスパラガスのピリ辛たまご炒めでした。まずたまごを半熟まで焼き、別の容器に置いておき、アスパラガスとソーセージをソーセージに焼き色がつくまで炒め、作っておいたチリソース(豆板醤、ケチャップ、砂糖、酒、鳥がらスープのもと、塩、コショウなど)をからめて、最後に、卵を入れて終わりです。
で、ぼくの顔が「道元に似ている」という方がいて、何だかありがたかったです。ありがたや。
今夜ワールドカップ、日本対オーストラリア、ビール片手に見ます。日本勝てるかなあ。あんまりなめてたらやられるかもしれない。イングランドを見てたら初戦はむずかしいし、暑さによる体力の消耗が心配です。
弟はハリウッドに研修に行くようです。すごい!弟の絵のある店がニュースに映っていました。チラッと。
ドラマ「スローダンス」の再放送が関テレで、夕方やっているのを発見しました。去年ももちろん見ていました。深津絵里さんはドラマ「彼女たちの時代」もよかったけど、これはぐっとくるところがファンとしてあります。ばっちり女です。女を演じています。さわやかですが、だからこそ、ふたりの(妻夫木くんとの)関係が近づいていくときの、どきどきというかお互いじょじょに惹かれあっていくときの目とか表情がすばらしい!!ういういしい!!深津絵里さんの年齢を超えたういういしさを妻夫木くんが巧フォローしています。うれしくて見入ってしまいました。去年の放映していた去年のたのしかったひと時を思い出します。あれは夏でした。
Jun 11, 2006
合評会
今日は合評会でした。やはり友人の詩は冴えています。自分の詩は独り言の詩かなあと思いました。友人が「気楽に」といっていたので、気楽に書きたいです。もう一人の友人はしんどくて来れなくて心配です。
これから
友人との合評会に行きます。詩が二つ書けて、いままでとは違う感じです。もうひとり友人は来れないみたいです。掃除をしました。お風呂とトイレ。よく使うとこですから、やっぱり汚れています。例によって、気にする病が発病し、彼女に怒られました。でも、おやつは仲良く手作りパフェを食べました。
最近阪神は負けています。なんかさみしいです。
詩は最近ノートに書いていたんですが、パソコンのワードで直に打ってみました。「ふたつのキ」というタイトルで、気と木をかけてみました。色々気になってしまい頭にこびりついてしまうので、その治療に、虚構をまぜて、いい距離感でかけました。本当に自分の気になってる核を書くと、そこから、どんどん世界が広がっていきます。
グループ就労に温かい言葉をもらいました。じっくりやりたいです。でも終わったらあっという間かもしれません。
Jun 09, 2006
グループ就労
昨夜は、眠剤その他を飲むのを忘れて寝てしまったために、たらふく夢を見たり、うつらうつら起きてるのか寝てるのか不明な状態で、横になっていた。夢は自分で言うのもなんだが、映像作品としてかなり面白い。とはいえ、カフカのような文章力がないので、その面白さをお伝えすることが、できない。残念!ミクシィでは、マイミクさんが出来た。前から、もっと話してみたい人であった。映画とかすごく詳しいんである。
で、天気は、梅雨の走りで、雨は降らず、風が強い。大気の状態が不安定な感じの日であった。風がびゅうるる云っていてなんかドキドキする。
昨日診察があって、いくつか懸案事項を先生に伝えることができた。私は、精神科デイケアを利用しているわけだが、その先に、就労という目標がある。その前哨戦として、グループ就労なるものを受けたいということになったのである。グループ就労というのは、精神障害者が対象で、何人かのグループで、週10時間くらいで、清掃のお仕事をするのだ。先生はリハビリにいいというし、相談した人がみんないいというし、チャレンジすることになった次第である。
7月からなのだが、あまり無理せず、取り組んでいきたい。正直、仕事というのは、しんどいことも山ほどあるもので、いやな事もあると思う。でも、何もしないというのも、しんどくなってきたし、だいぶ前向きになれてきたのである。
詩人の倉田良成さんのご新著が笠間書院より届く。うれしい。じっくり読もうと思う。ついでにお知らせをぼくの詩集について、倉田さんが批評を書いてくださいました。リンク先を表示していなかったので→こちら。すばらしいです。是非ご一読あれ。
Jun 08, 2006
Jun 07, 2006
筋肉痛、本の注文
昨日ボーリングをしてから、歩くのは大丈夫だけど、左足の付け根からおしりくらいまでの筋肉が痛く、あぐらを組むと痛むので、大事をとって、病院に行った。そこは去年の今頃、外傷でお世話になっていたので、診察券がある。ちと待ち時間は長いが仕方ない。歩いて5分くらいのところ。11時くらいに到着。30分くらい待つ。最初は外科の窓口に行ったのだが、整形外科だということで、診察室に入る。「軽い肉離れ、筋肉痛、2~3日は痛みますが、10日くらいで治ります」とのこと。やはり運動不足で急に動かしたからだ。ある意味間抜けである。念のため、2階に上がって、レントゲンを撮る。普通の放射線量より少なめで撮るとのこと。ズボンを足の付け根くらいまで下ろして撮影。骨には異常はない。
すぐ治りそうなので一安心。シップをもらって帰る。帰りによく行く食堂に行き、日替わりを食べる。冷やし中華をたべたかったのだが、やめる。そろそろそういう時期だと思うと、なんか食べたい。
昼はゆっくり休み、ひとりのマイミクさんが休みをとるんだなあと思う。
午後、父から電話。ちょうどスケジュールを確かめようと携帯を手に取ったときだった。近況を話す。それから、高野五韻さんが知らせてくれた水島英巳さん(蕃さん)のブログで、倉田さんの近著がとりあげられていたことを思い出し、倉田さんからもお知らせいただいていたので、笠間書院に電話。「倉田良成芸術論集」を注文する。ただいま本は出来て、出荷作業中とのこと。届くのが楽しみです。
Jun 06, 2006
第一投目
今日は、デイケアに行って、ボーリングをしてきました。障害者スポーツセンターに行きました。第一投目を投げたとき、軸足に痛みが走りました。やっぱり運動不足はいなめない。なんとか100に行きました。そのあと公園を散歩しました。暑い日でした。野良猫が木陰で気持ちよさそうに眠っていました。今日はぼくの将来にとって大事な話がありました。就労につながっていきそうな話なのですが、詳細は、いずれ書くことになると思います
最近の悪人は子どものまま大人になったような顔をしています。しかし、彼らが本当の悪人なのかは、まだ何かひかえているのではないかと思ったりします。エレベータの事件、こわいことです。普通にあるものだから余計に恐いです。しかし、不思議に自分は巻き込まれないという感じもあります。しかし思わぬところに魔は待ち受けてるのかもしれません。
Jun 05, 2006
肉じゃが
今日は昨日買ったシャツを着て、デイケアに行く。肉じゃがを作った。みんなで作るのだけど、買い物は大変そうだった。なにしろ、ジャガイモ25個。材料はショウガ、豚肉、たまねぎ、新じゃがなど。新じゃがなので、薄い味付けにも関わらずおいしかった。村上ファンドがインサイダー取り引きを認めた。ホリエモンとちがって、早く認めている。しかし、あぶく銭は恐いもんだ。お金がなくてよかった。貧乏なのもいいことかもしれない。そういうことでもないか。一時勝ち組、負け組なる言葉が流行ったが、ぼくの収入の将来は深刻なものだ。しかし焦って考えるのもヤバイ。違反したやり方で金を稼いでいる人、使っている人が責められるのは、正しい。とはいえ、違法とそうじゃないものの間は、すれすれなのであるが。また搾取は見えない形で進行するのである。必ずしもお金という形をとらずに。心理的な面もある。どんどん情報が流れ去っていって、わからなくなるのである。どういう社会がいいか、小泉さんが辞めた後、真剣に考えてくれる人がいい。ぼくらが選べないのが残念であるが。実の子どもを殺した事件も恐ろしい。一体どうなっているのか。ぼくは子どもは好きであるから、やるせない。
詩に深みがでない。今の平坦な暮らしでは発想が飛ばない。しかし、書く。あんまり書かなくてもいい時期というのもあるかもしれない。最近読書していない。なんとも慣らし運転の日々である。
Jun 04, 2006
休日の過ごし方
働いてないので、休みとそうじゃない日は区別がつきにくいのだけれど。昼は回転寿司、八尾に行く。函館市場というところ。値段もリーズナブルでおいしい。そのあと、ユニクロに行って、ポロシャツとTシャツを買う。久しぶりの服の買い物だ。デイケアの人が行っていいのを買ってきたので行ったのだ。買い物は楽しい。帰りに彼女の実家に行く。犬と思う存分遊ぶ。名前は公表しないけど、かわいい名前で、すごい愛嬌のある犬です。
阪神戦を見ていたら眠くなってきてうとうとする。それで、彼女はカレーを作ってくれている。大阪市の同和行政のずさんさを糾弾するテレビをみて怒っていた。
阪急と阪神が合体。村上ファンドはもうだめかな。
合評会
昨日ドードーという同人誌の合評会でした。いまいち緊張しているのと、詩がうまく読めなくて苦労しました。場慣れが必要です。久しぶりにNさん、Tさんに会えました。よかったです。ぼくの詩はいまいち不評でした。昔の文学学校時代を思い出しました。ちょっとへこみましたが、云ってくれるうちが花です。次で挽回したいと思います。同人誌には同人誌の固有のにおいのようなものがあります。それを感じながらになるということだと思います。
Nさんは子供連れでした。子供はかわいかったです。Iさんとも仲良くなれそうな気がしました。
今日は、回転寿司にいってユニクロで、服を見てこようかと思います。村上ファンド、とうとうという感じです。絵の盗作騒ぎ、なんか力が抜けます。
Jun 01, 2006
ライナスの毛布
マンガ「ピーナッツ」には詳しくないのだけれど、今日カウンセリングで、詩について話してるうちに、昔は、愛着のある空気やその匂いを書きとめておかないと、すぐに死が迫ってきて、自分の存在が消えてしまうから、それを残そうとしてハタチ前後に詩を書いていた。という話をしました。つまり、かつては、詩はぼくにとってライナスの毛布だったのだと説明したら、よくわかると先生は言っていました。ネットで解説を読んでたらライナスはすごい哲学者だそうです。あとミッドナイトプレスの詩の教室で、松下育男さんが、「ピーナッツ」に触発された誰かの詩をほめていたのを思い出しました。その後は自分の中の狂気が前景化してきて詩を書いたりして、今は正直、自分にとっての詩というものがわかりません。やっとわからないということが発見できました。たぶんスタートの時点からわからないものだったけど、それに気づいたということでしょうか。それは大いなる虚構かもしれないけれど、大きな力を感じるものでもあります。正直気になることはちょくちょくありますが、病気自体はよくなってきたといわれる中で、知らないうちに課題がクリアされ(先生は子供の成長にたとえていましたが)新しい地平に立っているということでしょうか。詩人の福島敦子さんは、時時記のタイトルを「普通に生きる」としていましたが、その意味が少しわかります。
詩はどんな力を持つでしょう?今の社会では詩はあまり影響力をもちません。たぶんそういう弱さに耐える、あやふやなものに耐えるところに文学の力はあるのではないか。加藤典洋の文芸時評を読んで、そんなことを考えていました。
今日は彼女と「こがんこ」に飲みに行きました。あまりがつがつ食べずにしゃべりを楽しんでいたので、安くうきました。
mixiで、すばらしい言葉や紹介をいただきました。うれしいです。
May 31, 2006
詩と生活の関係
今日もデイケアに参加してきました。ぼくは詩を書いています。そして、今リハビリ中です。ふたつの関係は、密接に関係するところもあれば、あまり関係ないところもあります。リハビリというのは生活を律するということです。自分が、失敗したり、つまずいたりしながらも、生活をし、活動し、人と付き合うことです。ぼくなりに言い換えると、普通になることであり、普通になるという言い方に抵抗がある方ならば、我に帰るということでもいいと思います。狂気とつきあうことに、エネルギーを割かなければならないというのは、大変、しんどいものです。それを何年間かしてきました。狂気の中にも学びはあります。しかし、それによって、生活は大きく支配されてきました。病気がある程度よくなってきた段階で、でも、それでばっちりということではありません。何年間か自分を見失ってた分のつけがあります。その過程で色々な先鋭な(他と比較してということではなく自分の中で)詩も生まれたわけですが、そして、それには狂気をもみつめようとした気概もあったわけですが、その方法とは違う形で詩を書いていかないといけない。しかも、その方法が見つかっていません。それは普通になるレッスンという迂回路の中で、手にするしかありません。
必ずしも、作品と生活は全部重なるわけではないですが、自分の能力、これは、生活にも詩にも配分されていくわけです。そして、その能力というものは、生きていく事自体の中にあると思います。生きていく中で新たに発見し、それを磨いていくのだと思います。どこかで、詩というものと縁が切れてしまうのではという恐れもないではありません。自分はかつて才能を過信していましたが、それはだいぶ無くなりました。これはあたらしい事態です。これから、自分にとっての詩というものが本当に始まるのではないか、そう予感しています。
今日は職員の方と話せてよかったです。少しだけ、ホンの少しだけ楽になりました。ひとの話がだいぶ耳に入りやすくなってきました。やはり固く狭くなっていたのだと思います。今はきっとつぼみの時期なのです。もちろん、将来については、どうなるか全くわかりません。でも、少しずつ少しずつやっていくしかありません。その都度、その都度確認です。怠けやすいので、職員の方が来てなかったら二週に一回電話をいれるねと云っていました。すこし背中を押してもらうくらいのほうが、プライドは高いが小心者のぼくとしてはちょうどいいかもしれないです。
May 30, 2006
見られることを意識する
昨日は気弱なことを書いてしまいました。でも今日はデイケアに行って、芦原橋の球場で、ソフトボールしてきました。他のデイケアの方と合同です。暑い日でした。しかし、風が気持ちよかったです。デイケアの人とも、久々だったけど、ちょっとドキドキしながらも、落ち着いて話せました。これなら、行けそうかなと感じました。
家にこもっていると思考が狭くなるのを実感しました。外に出て、人の中にいるという当たり前のことがとても大事なのだなと思いました。それで、人の視線の中にいる、緊張の中にいるという基本的なことが抜けていくと、けっこう簡単に、ダサくなってしまいます。すぐ復調というわけにはいきませんが、というよりも、やはり感覚のリハビリなのだと思います。ぼくは小さい頃、人といるとひどく敏感になってしまうことがよくありました。人の一挙手一投足にナイーブになってびくびくしていました。そういうところは、今も残っています。だから再スタートなのだと思います。
試合は負けてぼくも投げたのですが、いっぱい打たれました。悔しかった。強いチームでした。しかし、初回いい当たりでアウト、最終回に一本ヒット打ちました。うれしかったです。あの打って抜けた時の感覚は、なんともいえません。それで、必死に走りました。何年ぶりにか本気で走りました。職員さんが感覚が戻れば、いっぱい打てますよと云ってくれました。投げてるときは、すごいしんどいなあと思いましたが、帰ってきて気分はさわやかです。
何もかもうまく行くわけではないけれど、ほんのりうれしかったです。これで詩も書ければいいなあ。帰ってきた彼女が「ちょっと男前になったね、やっぱり人に見られるのは大事やわ。」といってくれました。
K田さんから郵便が来ました。ありがたいです。
ミッドナイトプレスのホームページを見たら岡部淳太郎さんが詩集を出されたそうです。
俳優の岡田眞澄さん、作家の米原万里さんが癌で亡くなったそうだ。惜しい人が亡くなった。ご冥福お祈りします。
May 29, 2006
日々
気がついてみると時間がたっているということはよくある。なんか、やる気が出なくて、寝てたら、時間がたってしまう。デイケアに今月は行っておりません。まずいなあという気がしてきます。気楽に参加するだけでいいのに、とか色々思うんだけど、時間が経てば経つほど行きにくくなっている。どこで、ボタンを掛け違えたのか。今週は職員さんに会いに行くとか何らかの形で、行けたらと思います。
昨日は彼女の実家に行ってきました。犬と遊んだり、(むちゃくちゃかわいい。車が来るのを待っている。でも、通っても気づかなかった(笑))メロンをご馳走になってきました。荒本にある府立図書館に行った帰りです。昨日の昼ごはんは味付けを間違えてしまった。辛かった。
なかなか一人で行動するのに勇気がでないのです。もっと勇気を! と思います。(叫んでどうする)
倉田さんから本が届きました。「解酲子飲食」とてもいい感じの本です。うれしいです。
デイケアの職員さんに電話しました。案の定、もうすぐ電話しようと思っていたらしいのです。2~3日中に参加してくださいね、約束ですよといっていました。
May 27, 2006
ほどほど
今日は朝から彼女がしんどそうでした。ぼくに朝ごはんを作って欲しがっていましたが、ぼくが寝たりして、作らなかったら、不機嫌になりました。それで、晩はぼくが買い物いって、作りました。つばすのさしみを買ってきて、サラダとみそ汁を作りました。夜になると彼女もだんだん元気になってきて、よかったです。
巨人は首位転落です。やはりロッテは強い。原監督の顔も冴えない。
昨日、現代詩フォーラムに散文を投稿しました。けっこういろんな方が読んでくれたみたいでした。10ポイントくらい入りました。散文を書いている方で、なぜポイントを入れるのかという根本的な?問いを発してる人や、谷川俊太郎をぼろくそ言ってる人もいました。ぼろくそに言うってことは、意識しているんだなと思いました。しかし、日常の中で、谷川さんを意識する時間というのは、たぶんぼくの場合ごくわずかで、一応キャリアのある詩人だと知っているけれども、意識しない時間が大半です。意識しない時間も大切なのではないでしょうか。それだけマジメな方なんだなと思います。それをなだめにかかっている人もいて、その方もマジメというか、まっすぐではないかと思います。
ぼくもマジメなほうかもしれないけど、あまりまっすぐというのは、折れやすい気がします。つまり転向しやすいという気もします。
ポイントはなぜ入れるのでしょうか?ぼくの場合、合評会などの場面と現代詩フォーラムのような場面は、分けて考えます。やはり目の前に書いている人がいるという場面をくぐらないとどうしても伝わらないものもあるのではないでしょうか。ネットでポイントを入れるというのは、いろんな意味でポストモダン的な場面ですから、深く考えれば考えるほどわからなくなってきます。だから、ほどほどというのは意外と大事かもしれません。入れるからには、マジメに入れてるわけです。それでも、合評会(これも文学特有ですけど)とは意識がちがいます。どちらがマジメかという比較はないです。
認知症の方がNHKに出ていました。ふと母方のおばあちゃんを思い出しました。
May 26, 2006
自分との戦い
昨日は診察で、デイケアは、どうしたらいいですかと相談した。行くのが億劫になっていたので、ちょっと相談してみた。そしたら、デイケアは、そこで一日過ごしてプログラムを行い、日々のペース作りにするものだといわれた。「友達をつくるのは?」と聞くと、結果的に友達ができたり、できなかったりするもので、それがメインじゃないんですよと先生は、いっていた。
PSWの勉強はまだ少し早いといわれました。
日々をまだ無為に過ごしてしまいがちで、なかなか、ガッツが出てこない。彼女と過ごしたりできるが、一人で行動するのは、まだ恐いみたいだ。悩みは、そんなにない。昔から、そんなところがあった。自分の性格との戦いになると思う。
今日は、西武の松坂がすばらしい投球をしていた。力がためられて、すばらしい回転で、ミットに納まる。14三振。すごい。阪神は手が出ない
K田さんからメール。本をくださるということで、ありがたい。
高野五韻さんが今日現代詩フォーラムで、すばらしい散文を発表していた。ぼくも、詩の世界について、発言できればなあと思った。しかし、自分が納得のいく作品を書く積み重ねの中から、既成の権威などを批判するスタンスが固まってくるだろうなと思った。というよりも、詩にたずさわる人が、それは、どんな人でもいいのだし、それが当然なのだが、言葉との関係をどのように作っているかなのだと思う。
資本主義では、何にお金をかけるかが大事で、それと時間、それを割いて、いろんなものが形作られ、優先順位が決まる。それは、仕方の無いことだが、小熊秀雄賞がつぶれたり、そういうとこにお金がまわせないという感じになっているところもあると思う。
それから、たずさわる人も限られている。
別に資本主義に抵抗すると息巻く必要はないが、詩は、お金との関係が、もっとも、とりにくい分野になったのだと思う。一方でぼくらは、ただで、たくさん発表できるようになった。これも資本の力で、ITに資本が集まらないとそういう環境は生まれなかった。
お金に変えられないものを守るというのではなくて、なんといえばいいか、抵抗の姿勢を守りながら、というか、資本の論理にさらされているということに自覚的になったほうがいいんじゃないか。その上で、文化は自分たちが作るもので、そこには一定の排他性があることもわきまえて、変にイベント化するのではなく、地道に書いたり読んだりするほうがいいんじゃないか。
気になるのはこういう議論をするとき、結局、うわついてる感じがすることだ。高野さんのは浮ついてなかった。それがよかった。
May 25, 2006
はじめての精神科
今日は、じっくりブログについて考えた一日でした。ある方からのアドバイスで、私のブログは、自分にとっていいものになっているか、悪いおっぱい(依存の対象)になっていないか考えたのであった。いいアドバイスをいただいた。長い目でみて、自分の気持ちを大切に表現できるものであったらいいと思う。時には、というか、よくくよくよしているが、それが、不思議にいい方向にかわっていく。いきなりポジティブにならないが、生き難さが生きやすさにかわっていくのがいいと思う。表現は自分を十全に実現するためにあるものだという考えを私は捨てたくない。アドバイスいただいた方には再度お礼を云いたい。ありがとうございます。春日武彦氏をみなさんは知っているだろうか?彼は精神科医で、人の生きにくさというものに、きちんと向き合う本を書く。人はいろんなホンの些細なきっかけで、生きにくさを感じる。どうしようもなく、不器用であること、不幸にひかれていくこと、その不可思議に、ヒューマニズムとは違った愛情にも似た視線をそそぐ。
私も小さい頃から被害感情が強く、ずいぶん生きにくい思いをしてきたし、それで、もう生きていけないという感覚も何度ももった。昔、知的障害者とつきあったことがあって、生きにくさというもので、彼らと完全に連帯できるわけではない。しかし、なんだかどうしても惹かれる、という感覚をもった。その両面から、つまり、援助者と当事者の両面から、かなり信用できる記述をしている。
実際に患者として、今の精神科医に出会っても、いろんな不遇を背負った人に出会い続けるのをどこで支えているかとなると、現実感覚とどうしようもなくひかれていくことの絶妙なバランスから成り立っているのではないかと思う。
「はじめての精神科」はわかりやすいが、「病んだ家族、散乱した室内」が実践の書としていいと思う。中井久夫氏の、詩的で知的なエッセイもすばらしいが、より身近に置けるのは春日氏の本かと思う。
May 23, 2006
じぶん
自分を厳しく見る第三の目を持たなければならない。そうしないと、どんどんだらけてしまうばかりだ。激しくみつめる時にだけ、安堵の時間はやってくるかも。せいしんてきに、けじめをつけていく必要がありそうだ。こんなこと書くとマジメな人に思われそうだが、そう言い聞かせてないと、ずるするので。基本的には腰がすわらない人だ。いつもあいまいにしているので、後であわてる。詩がもうすぐ〆切なので、自分に鞭を打つ。いくつかは出来ているのだが決定打が今ひとつ。ちょっと自作を辛く見すぎかな。他今後の進路というかやりたいことが何か、何でやりたいのか、明確にしていく必要がある。それ次第で、進む方向も、はっきりする。あああマジメな反省文みたいだ。ネットで出会った方が詩集を買ってくださるという。とてもうれしい。


