Sep 26, 2006

武田泰淳の本についていくつか。それからお知らせです。

 昨日武田泰淳について、佐々木さんから書き込みがあった。それで、武田泰淳について思い出したことについて書いてみたいと思う。忘れていることもあるので、そのあたりはご容赦ください。実家に本の大部分を置いていて、今、手元に泰淳の本があまりない。残念である。記憶を頼りに書いて見ようと思う。読んだ事実より覚えていることが大事だから。私は彼の全仕事に通暁しているわけではないのだが岩波文庫で出た、彼の評論集「滅亡について」が印象に残っている。中でも、三島由紀夫への追悼文は、これは驚くべきもので、三島がドン・キホーテだとすると、武田はサンチョ・パンサに感じられる。武田は三島の運命、その姿というものがよく骨身に沁みていて、文章から悲しみやユーモアすら感じる、壮絶なエッセーなのである。凡百の三島論はどうでもよくなってしまう。そんなことをよく覚えている。さすが僧。生死をまたぐ線というのが彼には実感されている。近代理性、世界、日本、自分、めくるめくものを見つめながら、真摯に一介の俗にまみれた僧であることはどういうことであるか。そんな私が書くということはどんな意味をもつだろう。彼は地べたから考え続けた。
 彼の中に、「滅亡」ということが、マクロにも、ミクロにもあって、これが彼の思想に脱構築的印象を与えている。「滅亡」は具体であると共に抽象であるのである。彼の独自の歴史思想はもっと注目されてよいと思う。「司馬遷」、小説では、倒れてからの、「目まいのする散歩」を読んだ。「目まいのする散歩」は細部が恐ろしく緻密で最後まで粘り強く生きた彼の姿を思わせる。この本は口述筆記で、その書いた人が百合子さんだということを知った。
 というわけで、記憶を頼りに書いてみた。武田泰淳を語る上で、外せないのが、百合子さんの存在である。彼女との出会いは泰淳 にとって大きかった。一緒にいる写真の顔がいい。彼女については「遊覧日記」(武田花さんの写真が入っていて二度おいしい。いとおしくなる景色である)「犬が星見た」とあと何冊かしか読んでいないのだが、冷徹なほど眼のいい人でありながら、暖かいのである。観察者でありながら生きている。泰淳と竹内好が一緒に飲んでいるところが書いてあって、その見つめる眼がすばらしかった。そして、この泰淳との関係は、孤立しがちな竹内にとって何よりのものではなかったかと思わざるを得ない。
 お知らせです。笠間書院のホームページのブログに倉田さんの本に関する私の拙文が紹介されました。日記にもアップされていますがリンクします。→こちら。倉田さん、笠間書院の方にお礼申し上げます。
Posted at 16:37 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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