Jul 31, 2007

立ち読み『智恵子抄』

 大阪は、何日か猛暑で、そのあと急に、涼しくなったので、気温の変化になかなかついていけない。なんとなく、朝、体がだるいような感じがした。それにも関わらず、人恋しさもあってか、デイケアに行った。そのあと、買い物を思い出した。スクーリングで使う社会福祉六法を買いに行った。いくつかの書店に行って、やっと買えた。色んな本が気になるが、なぜか、高村光太郎の『智恵子抄』を立ち読みした。小生、恥ずかしながら、レモン哀歌を教科書で習った以外、ちゃんと読んでいなかった。『智恵子抄』は、少し読んだだけでも、高村光太郎の「あなたが好きだ!!」ということが、惜しげもなく書いてあって、中てられた。これは、もう少し元気なときにきちんと読もうと思った。しかし、これだけ読み継がれているのは、きっと何かがあるにちがいない。立ち読みだけでも、とてつもない力を感じた。それはいまどきの時代では、宣伝文句にしか使われない「真心」というものかもしれないという予感がしている。(ただし、智恵子抄とて、作品だから、フィクションではあるし、高村光太郎や智恵子が、史実上どんな人間かということは、ここではひとまず置く)真心って「純粋」とかとは、語感がちがう。何かに対して全身で生きるということだ。(これは、ちょっと恐いことでもあるが)智恵子にそれを託している。こういう表現に流行り廃りはないのかもしれないと思った。一定の人間が、それを求めている。それに励まされるときが誰しもあるのだろう。私にも。
 他にも色々本を偵察し、やはりなんだかくたびれました。帰ってからも用事をし、時間が過ぎてしまった。それにしても活字中毒復活だー
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袖のボタン

 丸谷才一『袖のボタン』を読む。今日読み始めて、3分の2くらい読んだ。最近、政治のことばかり、書いて少々疲れたので、骨休めになるエッセイ。でも、中身は濃厚。折口信夫の命名の謎や、なぜ天皇は恋歌を歌わなくなったかや、野球、景観について、赤塚不二夫へのオマージュと多彩。反時代的で、同時代的。短くコンパクトなのに優れた批評として、読み応えあり。丸谷才一は確かジョイスの『若き芸術家の肖像』を訳していて、読んだ事を覚えている。僕は丸谷才一に対して、偏見を持っていたが、80にして、これほど頭が柔らかいとは、恐れ入った。しかも芯がぶれない。特に大岡昇平の『野火』を高く評価していて、僕も野火が好きなのでうれしくなった。ハイテンションでブログを書く日が続いたので、今日はこれくらい。
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Jul 30, 2007

敗因

 昨晩は、雷が鳴ったし、雨が降ったので、朝ひんやりとしていた。すごしやすいが、冷えが心配なので、早朝風呂に入る。それから、シーツなどを洗濯する。天気が良いので、よく乾きそうだ。(何か曇って来たが。あ、天気予報見てなかった。主婦失格である。)そしたら、今夜、日なたのにおいのするシーツで眠れるよ。明日はデイケアに行く予定だ。厳しいスクーリングに備えて、活動できる体にしておかねば。

 で、皆さんには申し訳ないと思っているんですけど、また政治の話題です。ただでさえ、暑苦しい文章を書きがちなのですが、ご勘弁を。
 安倍さんは、辞めないっていってますね。でも、青木さんも辞めるし、片山虎之助さんも、落ちましたし、どう議会運営するつもりなんでしょうね。参院が民主の城になったら、自民の法案は、ほとんどブロックされますね。僕は、前々からの安倍さんの議会運営のまずさっていうのは、けっこう大きい敗因だと思っています。
 そりゃ、政治資金問題、失言、年金、数えていけばきりがないです。そういう点で、みんな、ムードとして、ダメだと思ったというのがひとつあります。ふたつ目は、旧自民党支持者も、ここ数年自民に翻弄されて、町村合併、地域格差などのことで、もう嫌気がさして、誰か何とかしてくれっていうのも、あります。
 でも、重要なのは、果たして、安倍さんが議会制民主主義って言うのをわかっているのかということなんです。あまりにも、強行採決が多すぎます。安倍さんの自信のなさがあらわれています。余裕があるなら、ごり押しする必要はないですからね。昔の自民党みたいに、相手(野党や、派閥)を懐柔、根回ししながら、ポンポン通しちゃうというのは、良くないにしてもひとつの方法です。それも(能力上?)できない。小泉さんみたいに、国民の支持をバックに、それに反する人たちを抵抗勢力と名づけて、人気で郵政民営化しちゃうとか。あと、答弁では、まともに受けないで、はぐらかし、論点のすり替えをやってしまう。これもなめた話ですが人気があるからできたことです。そういうポピュリズム的な手法もとれない。
 安倍さんは、たぶん、真面目な人なんだろうとは思います。それはいいのですが、正しければ自分の信念は通ると思っている。実現には過程が必要だということがわかっていない。これは、驕りに他なりません。こういう人は私も含めて多いかもしれませんが。
 政治というのは、泥臭い作業です。自分の考えとちがう相手や嫌な相手とも話をしていかなければ、自分の思っていることは実現できません。そう、議会制民主主義は、対話なしにはなりたたないんですね。
 しかも、安倍さんは、憲法改正を掲げていますし、教育基本法を改正しました。この辺りは、イデオロギー的に微妙な領域なのです。国民の大多数が、Yesと云っているわけではなくて、色んな考えがある領域なのです。変えたいといっている人たちばかりに安倍さんは会っているのでしょうが、別に左翼的な考えを持っていなくても、もう少しよく考えないとなと思っている人も多いはずですし、そもそも私たちはこの辺りの問題についての難しさというのは、普通の人であれば感覚的に大体わかっています。アメリカもあまり好きでないけれど、自衛隊の方もがんばっているけど、戦争に参加できるようになるのは、やっぱりまずいなあと思っている人も多いはずです。逆に、アメリカ従属を捨てて、軍にしたいという人もかなりいて、まとまらない。それが当然だと思います。その辺りの民意の錯綜を安倍さんは軽く見ているのではないか。これは「戦後レジームの脱却」といくら口で言ったって、だめです。リアルに国際的な日本の位置を見て、国内の民意の状況を見て、何が必要かを訴えた上で議論するというのなら、わかります。安倍さんの考えにもそれなりに支持はあるのですから、大いに議論しましょうとなるでしょう。しかし、そういうお膳立てをして、きちんと対話するということを安倍さんは忘れています。
 あるいは、意図的にそうしているかもしれません。公務員改革、政治資金規正法あたりは、ざるですね。本当に官僚をコントロールして、政治の力を復権させるという覚悟がない。これも、よく状況を見て、いろんな人と話をしてという対話の前提を忘れています。とりあぜず、改革のポーズを取りたいがために、急いでいるようにしか見えません。小泉さんは、とにかく国民の支持をとりつけるためにあらゆるパフォーマンスをやった。小泉改革は負の遺産を残す事確実ですが、小泉さんには、とりあえず是が非でも国民を味方につけないと、政治なんて無力だという醒めた認識があったのだろうと思います。それもない。守旧派的方法は通じない。じゃあ、強行採決。
 古い人も、小泉さんも偏っているかもしれませんが、それなりにニーズを把握していたから、それに答えていたわけです。それは、必ずしも国民の総意ではありませんが、何かには答えようとしていた。よしあしを別にすればリアリストだったわけです。安倍さんは、夢があるだけです。ニーズを的確に把握して、それに答える。考え方のちがう人とも話す。こういう地道なことをおこたっていると、敵だけでなく味方からもなめられます。要はちゃんと喧嘩もできない。喧嘩できたら、相手も本気になるし、政治は活性化して、異質な意見もどんどん入っていくことが出来ます。それが政治だと思います。権力者ですから、権力を使うのはかまいません。でも、それが国民のためになっているか、みんな見ているわけだし、その中で、ただ不正をしている味方をかばう。逆ギレするなんてことをやっているから、政治家の胆力のない奴として、見捨てられて仕方ないと思います。でも、日本の政治家は、議会なんて信じていないと思います。小泉さんも、守旧派も、野党も、どこかちがう方を向いている感じがします。しかし、年金問題は、長妻議員の委員会質疑の中からあぶりだされた。やはり議会は大事なのかもしれませんね。とりあえず、ちゃんとやれよということです。
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『夕凪の街 桜の国』は、『はだしのゲン』とワンセットで読んだ方がいいような。

 こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読みました。うーむ、映画、どうしようかなあ。
 このマンガと『はだしのゲン』を比べてみると、原爆ものとしての持ち味の違いがわかるような気がします。あまり内容をちゃんと覚えていませんが『はだしのゲン』にあったものが、『夕凪の街 桜の国』にはない感じがするんですね。それは、怒りというのでしょうか。苦しめられ、奪われ、蝕まれていくことへのつらさが、怒りに変わってゆく。そこに、切なさを感じるのです。被害を受けた人間としてのまっとうな何かがある。『はだしのゲン』が時代遅れになっているというような言説があるようなのですが、私はそうは思いません。そこには、人間の宿命の何たるかが、ユーモアさえまじえて描かれていた気がするんですね。
 それと、内面描写が非常によくできていると思い感心しましたが、トラウマをめぐる精神医学的な良心的な記述のようにも思いました。でも、このセリフはなかなか書けないとも思いました。精神医学から、人間の声の方に向かっているのです。すぐれたセリフ、カットはたくさんあります。構成も卓抜です。一部引用します。

誰もあの事をいわない。
いまだにわけがわからないのだ。
わかっているのは「死ねばいい」と
誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そして一番怖いのは
あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々
気づいてしまう
ことだ

 このような深淵があるということ。怒りとして表出されない何かがあること。そこに、冷たい風がとおっているようです。それは、ぬくもりがあるからです。生きているからです。生きているから苦しい。それをも受けとめる広がりと、行き止まりがあります。ここは、はだしのゲンとはちがう形で優れている。
 「桜の国」に入って、二世、三世がどう自分の来歴を見つめていくか。しかし「このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」というセリフが私にはひっかかってしまった。感慨は湧きます。でも、そうでもいいんだけど、もうちょっと何か、それに至るまでに、何かないとと思いました。波乱万丈でもなんでもなくていいんですが。
 つまり、既視感が強い。
 自分がすごくいじわるな読者に思えてきたんですが、(好評な作品なので、袋叩きに会いそうでこわいです)全体から感じるのは、要するに、こう書けば間違いないという道のようなものが先にあるような気がするのです。でも、芸術って、最初に道をつくって、それをなぞっていくんだったら、面白くないんじゃないか。良心的で、原爆に関するある種の啓蒙書、入門書としてはいいような気がしました。非常に優れた技量の上に成り立った作品であるだけに、「収まりきらないもの」も必要だと思いました。その片鱗は充分あります。それだけにもっとと思うのです。『はだしのゲン』と比べたのは、そのためです。
 あれは、やりすぎかもしれませんが、残酷描写にきちんと感情や必然があって、どうにも収まりきらない感触がありました。その分えげつない。そういうやり方に食傷気味の方は多いかもしれませんが、あちらを忘れたらさびしいなと思いました。ゲンと、『夕凪の街 桜の国』は、両方あって、それがお互いを補うという感じがいいのかなと思います。片方だけを読むと原爆を追体験するには足りないように思います。もっと読んでみます。

 
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Jul 28, 2007

終わりのない始まり

 夕方、帰ってきて、ちょっとくらいはいいかと思って、クーラーをつけて、今日は5時半に起きてちょっと疲れたなと思って、横になった。気がつくと、外が真っ暗で、唖然とした。8時半くらいになっていた。クーラーつけたら、あかんと朝のブログで云いながら、つけるとすやすや眠ってしまったのである。ちょっとヤボ用があったのになと思いつつ、焼きソバを作って、チューハイ飲んで、ルパン三世を見る。しかし、オリジナルシリーズとちがうし、話の出来は、つまらないタイムマシーンもので、テレビを切った。そして、何かないかしらと思って、「カーヴァーズ・ダズン」を読み始めたのだった。
 これは村上春樹が訳して、セレクトしたもので、前から持っていたのだが、読んでいなかった。学生時代、カーヴァーの春樹訳の文庫を読んだ事があって、それらが手に入りにくくなったから、こういう形になったようだ。
 気の向くまま、「でぶ」、「夏にじます」、「使い走り」、それから詩の「レモネード」、「おしまいの断片」を読んだ。詩人であったことに驚いた。全集あたりを開けば載っているのだろうか。機会があれば、詩集も読んでみたい。
 短編では、「使い走り」が心を打たれた。いい小説を読んだ。文体はしまっており、抑制されているが、真実があふれだすような感じがした。カーヴァーの最期の短編のようで、チェーホフの死がテーマ。 よくぞここまで、書いたというほど細部まで見事。臨終の直前の床、ホテルの一室で、医師がチェーホフと、チェーホフの妻とシャンパンを飲む。夜中にシャンパンを持ってこさせる医師もすごいと思う。シャンパンは注意深く医師の手によって、パーティーのようにならないようにコルクが開けられ締められる。医師が去って、妻とチェーホフの亡骸が二人きりになると、コルクが飛ぶというシーンがあるが、この演出は、全然嫌味ではなく、気取っているようで、全然そうじゃない。すばらしい。
 入院中の面会謝絶の中を迷惑を顧みず、トルストイが尋ねてくるというシーンがある。トルストイの大物振りがちょっと滑稽な感じがするのだが、僕は、トルストイの『イワン・イリッチの死』(他はきちんとよんでいない、御免)という小役人が不治の病にかかって、自らを振り返るという短編が好きだ。しかし、どんなにささやかに書いたとしてもトルストイだなあと思わせてしまう、損なところがある。対して、チェーホフは、これはカーヴァー自らと重ね合わせているのだろうが、何か大きな価値が揺らいだとしてもぶれないものを書いていると、(これも数編を読んだ限りでは)思う。それは、人が、生涯の中で、持てる関係の範囲であり、その中にある無限だと思う。僕は、阿倍昭や梶井基次郎が好きなのだが、短編は小の中にある無限を書いているような気がする。気のせいかもしれないが。短編と詩のちがいはなんだろうと遠い気持ちになる。そんなに違いはないかもしれないし、あるかもしれない。
 「レモネード」(詩)から引用。

子供は川岸に並んだ捜索隊の人たちの頭上を通り越していった。その両手はだらんと広げられ、水滴をまわりに飛び散らせていた。子供はもう一度人々の頭上を通過した。前よりもっと近いところを。そしてほどなく子供は父親の前に運ばれ、その足元にこの上なく優しくそっと置かれた。息子の死体が金属製のはさみみたいなもので川からつまみ上げられ、樹上でぐるぐると回転させられるところを一部始終目にしたばかりの、いまは死ぬ以外に何も望まぬ男の、その足元に。(レイモンド・カーヴァー「レモネード」)



 この「優しく」という感覚は、どこかで感じたことがある。通ていするものを感じる。北村太郎の「終わりのない始まり」の一節。僕は詩をたくさんは読んでいないが、かつてこの詩を読んだときのことは忘れられない。以下引用。

たしかにこれで終わりです。百舌が高い樹のうえから
生きのこったものの心臓を
裂きました。そよかぜがコスモスの
草むらをなでてゆきました。遠くから
電車の走る音が聞こえます。たしかにこれで終わりました。(北村太郎「終わりのない始まり」)

カーヴァーの詩では、親が息子の死を見ている。北村の詩では、妻と子の埋葬の場面だ。見ている視点はちがうし、さまざまにちがう点を指摘できると思うが、何か、同じ普遍的な光景を描いているように感じる。死者にとってこの世界はどんな世界か僕にはわからないが、「終わりのない始まり」をわたしたちは生きる。そして、わたしたちもいつか消えるのだろう。その繰り返しの営みの結節点がある。しかも、これは一回きりだし、ちがう意味では一回きりではない。
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Jul 27, 2007

夏の朝

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 夏の朝って、小さい頃、世界が広がるような感じがした。無限?みたいな。夏休みがあったからかな。写真はベランダの朝顔。朝顔って遣唐使が薬として持ち帰ってきたものだそうな。朝顔、夕顔、昼顔、いろいろあって、花に顔ってなづけるのがいいなあと今思った。そのくせ、どれも、主張していないような。顔って、深く考えると静かに語っているのかもしれません。人の顔も。
 今日は5時半くらいに目が覚めた。昨日寝たのが、11時半なので、こんなものか。うちは、クーラーをかけずに窓を開けて寝ている。地球温暖化防止のためでもないが、実を言うと体のためであるかもしれない。夏に風邪をひくのは辛いっていうのもある。精神の病気になったときに、自律神経のバランスがうまくいかなくて、冷え性だったり大変だったので、体は、冷やさない方がいいと思っている。そんなんいうて、タオルケット蹴って寝たりしてますが、何しろ、冷えというのはしんどい。元気もなくなる。食欲もよくなくなる。いろいろ体に悪そうである。冷えは女の人だけに起こるものではないのである。体には、自動調節機能(ホメオスタシス?)みたいなもんがあって、自分なりに、環界に対応している。帰ってきたら、クーラーをかけないで、軽くシャワーを浴びるようにしている。これでも、かなり不快指数は減る。まあ、よほど、暑かったらクーラーかけるので、これからはどうかわからんけども。
 セミが鳴いていて、ほんまに夏やなあと感じる。実は夏は苦手で、だから、夏の健康話みたいなのをしたのです。
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Jul 26, 2007

音楽抜きで

  梅雨も終わって、本格的に夏到来のようだ。掃除のお仕事をやっていると、たまらない。作業中、汗が、どんどん出てきて、けっこう辛い。よく一年も続いてるものだ。
 CDデッキも壊れている。なのに、買い換えていない。かれこれ一週間になるだろうか。かつては、音楽がないと死ぬとまではいかないにしろ、ちょっとそう思っていた。別にマニアックな音楽がすきとか、オタクとか、そういうわけでもないのだが。最近は、なぜか、音楽抜きでもいける。でも、あまりにも、遠ざかるとたぶんしんどい。節約月間なので、くるりの新譜は買ってない。どんなんかなあ。
 ジンメルをぽつぽつ読む。美術評論も書いていて、意味はわからないが面白い。概念操作が多いが、確かなものもとらまえているとも感じる。ただ、モダニストの限界というのも感じる。対象に対して、遠い気もする。でも、最近こういう文章は見ていないので面白い。普通なのだが面白いフレーズをひとつ。

 ひとりひとりが無数の先祖の遺産をまったく予想もつかない方法で混合し、自分の中に統合しているということ、これこそ人間の本性の豊かさに他ならない。ジンメル「肖像画の美学」

 『血と骨』、『抱擁家族』、『全体性と無限』に感銘を受けて、感じたことが、このフレーズにも、あらわれている。自分の血の中にある、私の中の背景性(歴史)、莫大な異種の混合。それでも、まとまりであるように見えるなにか。詩を書くときよく感じます。すいません、自分でもいまいちまとまっていないので、何いっているかわかりません。
 小説では、伊坂幸太郎も気になっている。面白いのかどうか。
 昨日今日と、楽しい、満たされることが多かった。友達と遊んだり、いい知らせ(これは書かないでおこう)があったり。心が開いたり、笑っていられるうちは、まだ大丈夫かもしれない。スクーリングが始まったら大変ですが。  
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Jul 20, 2007

道の途中でみちのく鉄砲店

 昨日、役所によって、自立支援医療の継続手続きをして、当日行くのがめんどいのと出かけるかもしれないので、期日前投票までしてきた。空いているのでいいです。どこに入れたかは内緒です。
 ふらっと図書館に入りました。現代詩手帖が置いてあったので、ぱらぱら見ていました。藤沢周さんと城戸朱里さんってお友達だったんですね。知らなかった。
 ほんで、色々見てまわって、詩集のコーナーに来たので、こないだ中也賞をとった須藤洋平『みちのく鉄砲店』を手に取った。本を手に取るって、バクチ的要素がありますね。とんでもないのをつかまされたと思うときと、当たり~って思うときと。当然、お金を出すときの方がさらに、直感とリサーチの勝負なんですが。
 図書館で借りずにその場で読んだんですが、非常に読みやすかったですね。読み安すぎてまずいとも思うんですが、僕は、この方の苦労がわかっていないのかもしれません。しかし、時々ほろっとしそうになって、こんなとこで、泣いたら、あかんと思う場面もありました。人としての情に訴えかける系統の文章かな。彼が障害者だからって、特別扱いするつもりは、ありませんが、それなりの刻苦を感じて生きている感じが伝わってきました。若いなあーと思うときが多々ありますが、時々けっこうしたたかな文章って感じがしました。でも、ちょっとテキストから浮かび上がってくる人物像がいい奴過ぎる、さわやか過ぎるっていう印象も持ちました。そういうのが僕は気になってしまうんですね。実際根がいい奴なんだろうなとは思いますけども。
 主人公が、お母さんを殺したいと思ってると、ハーブティーをお母さんが運んできて、こんなの飲んだことないわ、ちょっとしょっぱいねという詩がありますが、ちょっとむずがゆい感じもします。皆さんの中には、私も含めて、思春期とかに「親を殺したい」って不覚にも思った方もいらっしゃると思うんですけど。それプラス障害があるので、親に対する悲喜こもごもがあると思います。でも、その感情をこうして、処理してしまうのは、もったいない感じがします。あざとさはないんですが、なんか、ちょっといい感じで話にしたって感じがして。実際本人がそう思ったとしたら、仕方ないですけども。まあ、好みの問題かもしれませんが。
 そういうホームドラマ的な展開がうまく行っているなあと思う詩もあって、おじいちゃんに、ドラッグを買ったことがばれて、思いっきり殴られて、欠けた奥歯のあとが今でも痛むみたいな詩はあるんですが、この詩は、奥歯が痛いってのが、色んな感情の流れをせき止めてないかんじがして、いいなあと思いました。やはり時間というのは大事なんですね。
 他にも、まあまあいい詩や、成功していない詩もあるんですが、本人に代わって、お兄さんがあとがきを書いていました。あとがきがお兄さんってのも驚きましたが、本人は「出尽くしてしばらく書けない」みたいなことを云ったと書いてました。
 僕が思いますに、渾身の力で書いたのだろうし、体調がおもわしくないのかもしれないけど、もしかしたら、しばらくしたらまた書くんじゃないかなと。ここで終わりじゃなかろうと思います。これは愛をこめていうんですが、賞を取ったって、次、本を出すとかになったら、大変。その後も鳴かず飛ばずの人だって、詩に限らず大勢いるんだから、青土社から、出て、ちゃんと著者にゆかりのない図書館に置かれてるんだから、出だしはまあいいんじゃないかと思います。
 これで、自分の地肩が全部出たわけじゃないので。世の中は、障害者であろうと、そうでなかろうと、書き手として出た限りは、厳しいのは同じなので、みんな親切に、「おう!こんな詩書いたのか」って親切にいってくれる人ばかりじゃないですから。と大した作品を書いていない僕が言っても何の説得力もありませんな。
 あと、障害者だからっていう理由で持ち上げている方は、まさかいないとは思うんですが、そういうのは本人のためにならないと思います。いいと思ったらいい、ダメだしも、きっちりと。もし愛せないとしたら通り過ぎよ。それが、愛情だと思います。もちろん、固有の身体の固有の苦悩とか感覚って言うのは、あるので、それは大事です。でも、「ぼくのからだが芸術なんだ」みたいなことを書いていましたが、どうしてそうなのかっていうのは書いてほしかったです。ちょっと共感できず申し訳ない。それは突き詰めたらホントに大事な問題にぶつかりますから、もっと書いてみてほしいな。そこで止めないで。
 帰りに、本屋によって、入門書は野暮ったい感じだったので『ジンメルコレクション』を買いました。面白い文章ですね。俺は文学者にはなれないってうエッセイもはいっていましたけど。不思議な書き手。あと、ジャン・リュック・ナンシーの本も買いました。ナンシー関ではありません。神山睦美さんの『夏目漱石は思想家である』も気になったんですが、高くて手が出ず、図書館で借りようかな。神山さんの本は『服従という思想』がとてもよかったから。
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Jul 18, 2007

初盆のこと、佐々本果歩『姉妹』の感想

 14日に帰ってから、台風が来た。16日に帰宅して、それからも、地震があったりと天変地異の猛威というものに驚いています。
 まず、新潟県中越沖地震で、被災された方々にお見舞い申し上げます。電気は通り始めているけれど、水道はまだだとか。ライフラインがやられるというのは、直に生命の営みに関わってきますので、非常に切迫した状況だと思います。なにより、地震で、倒壊したり、破損したりして、住むところがどうにもならなくなってしまった方々は、今日、明日だけではなくて、これからの生活がとても大変だと思います。これまで、暮らしていた住処を失うのはどれほど、不安なことだろうと、自分の身に引き寄せて感じたりします。あと、原発事故について、きちんとした全容解明が望まれます。

 さて、14日は風雨の中、昼ごろ、徳島に着きました。なんとか、橋が通行止めになる前に帰ることができました。その日は、地元の那賀川が危険水域に達したし、雨風も強まり、大丈夫なんだろうかと思っていました。翌朝起きたら、風は強いものの、台風は過ぎていました。九州等いくつかの地域で被害があり、無事ではなかったのですが、水不足が心配されていた、四国のダムやため池の貯水量は、通常に戻ったようです。なんと、この台風で七月一ヶ月の雨量があったのだとか。
 台風一過のさわやかなお天気の中、お寺で、初盆の法要がありました。住職さんの話によると、盆の起源というのは、こうです。釈迦の十番弟子のひとり、目連尊者は神通力第一の人。あるとき、亡くなった母親の様子が気になった目連は、神通力で、お母さんの様子を見た。すると餓鬼道におちて苦しんでいた。心配になって食べ物を送ろうとすると火に変わった。目連は途方に暮れて、お釈迦様に相談した。お釈迦様は、「おまえの母親が餓鬼道に落ちたのは、自分や自分の子どもに執着していたからだ」と答えた。お釈迦様のアドバイスに従い、修行に集まっていた僧達の修行の最終日に、僧達が供養を行うと、目連の母親は、天上界に上った。だそうです。
 けっこう生生しいというか、親に対する思い、関係性があらわれているような気がします。母方の祖父母の家は、真言宗なので、「南無大師遍照金剛」を唱えました。お寺から出るときれいな雲と空でした。下世話な話なのですが、お供物はお寺さんが用意してくれたため、お布施をどれくらい包むのかが難しかったようです。志しとはいいますが、その無言の按配のようなものがけっこう難しいのだと思いました。私のときは、こういうことがちゃんとできるのかなあと心配になりました。しかし、何事も色々学ばなければならないですな。
 親戚の人たちとお食事していたら、祖母の祖母の話になり、祖母に結構似ていたといって、盛り上がっていました。人の生きてきた歴史の連続性のようなものを感じました。こういう話は田舎でないと、出来ないので、貴重です。この日は、近くのスパに、伯父と父と、行きました。休み中なので混んでいました。近くで硫黄の匂いがしました。
 スパに行く前に、大河ドラマ「風林火山」を見ました。大河を滅多に見ませんが、これは役者が演技派が多く、感心してみていました。この日は、武田晴信の重臣、甘利、板垣が、自分の身を賭して、晴信にこの戦の危険を伝えようとして、討ち死にするのでした。甘利は、竜雷太、板垣は、千葉真一。千葉については、私は、ファンではなかったのですが、偉丈夫ぶりにすっかりファンに。なんと、この大河で引退…悲しい。せっかくファンになったばかりなのに。しかし、この日の最期の大立ち回りの動きは、鬼神のようであり、68歳にしてこの動き、本当にこんな侍がいたのでは?と思い感動していました。

 月曜は早く出ました。大阪に10時半には戻りました。そしたら、今度は地震。原発からは黒煙…新潟に実家のある友人に、ご家族の安否の確認の電話を入れました。無事のようで安心しました。それから、火曜水曜は、疲れが出て、横になっていました。なので、ブログを書くのが遅れました。



 ●佐々本果歩『姉妹』について独りよがりな感想

 佐々本果歩さんから、手づくり小詩集『姉妹』が送られてきました。ありがとうございます。まず、感じたのは、一人の女性の今が、感じ取れるということ。そして、声に出しながら、朗読して、言葉の持つ調子を感じながら読みました。文字と、声というのは、ある場合、別物です。しかし、目で追ったとしても感じられる、詩の持つリズムというものは、書いた人の生命のリズムでもあるような気がします。また、それに少しでも近づいて、感じながら、聞き取りながら、読むことは、果歩さんのテキストを理解する際にも、大事なのではないかと思いました。私は果歩さんとは、詩のイベントや合評でお会いしたり、お話したりと、その人となりの幾ばくかは、存じ上げているので、客観的な評者となりえないかもしれませんが、だからこそ、『姉妹』には、果歩さんの、これまでの詩作における格闘の痕というものが読み取れる気もするのです。
 表題である『姉妹』という言葉が重要であるように思えてきました。作品にも出てきますが、「けつえん」というものが、親子、兄弟とはちがった感じで感じられます。表立っては書かれていない、血で結ばれているということが、ある。互いにとって互いが自分の分身である。その逆にそれぞれが別々の世界を有しているということを「姉妹」という言葉はあらわしているのではないでしょうか。近親に対する複雑な感情。同一性と差異というのでしょうか。
 いくつかのテキストを除き、詩の中に、いくつかの話(夢?)があらわれてきます。しかも、その間の連絡や文脈の疎通というものがなかなか辿れない。どの夢も終わりがないようで、完結しない、そこを巡っているという感じがします。一見、独りよがりなのですが、どれも同じ根源から出てくる想念の変奏曲であるように感じられるのです。その根源が果歩さんの言葉を果歩さんたらしめているように思うのです。しかし、彼女は、今回は、その根源から、出てくる想念に、ただ苦しめられ、ぐるぐる歩かされているのでも、捕らわれているのでも、そこから逃げ出そうとしているわけでもないように思います。彼女は、そういう自分の根源を見つめるもう一人の自分=姉妹を獲得しかけているようにも感じ取れるのです。なぜなら1ページ目に

 姉様、
 ことりが

     ことりが
        にげんとしている

 とあるからです。ここで、話者=妹という位置を新たに獲得しているように思います。話者は、内的世界に捕らわれていることりを見て、そのことを「姉様」に伝えようとしている。
 苦が苦であるのは、「逃れられない=外部がない」ということだろうと思います。しかし、単に客観的な視線を獲得するだけでは、「脱出」にはならないのです。私見ですが「逃れられなさ」をとことん味わってこそ、一条の光が見えるのかもしれません。逃れられないというのは翻って云えば、自分が自分でしかありえないということだと思います。つまり、自分が取替えのきかないものであるということです。事はそう単純でないので、「自分が取替えのきかないものである」という覚知に達しただけではなぜか充分でないので(自分の唯一性をがなりたてるだけではやっぱりだめです)、ここから、それを語り伝えるために、また新たな困難に潜りこんで行く。ここに文学というものがあるのだと思います。その「語り伝え」の話者の位置を捉えたこと。それは同時に自分に相対する他者=世界の発見でもあります。「船」がよく出てくるので、これは、他者=世界に船出してゆくものにも見えます。これは、すばらしいことで、また、しんどいことだと思います。
 この問題は他人事ではないのであって、私たちの時代にあって、自分の生命や、心といったものに、肉薄した言葉を手にすることの難しさを果歩さんも生きているように思えるのです。それは、マスコミのせいだけでもないし、結局は一人ひとりが納得できるまで、自分で、生きてみるより他ない問題です。ある人は、ギターを手にするであろうし、ある人はペン、ある人は、愛する人と生きること、ある人は、自分の好きなことや仕事をすること。無限にその表れがあるように思います。それらを誰に無駄といわれても、生きることによって、自分の価値や、意味を見出してゆくこと。文学もその中にあって、長らく人間の本質的なことがらを描いていくことが責務とされてきました。今は、そうでもないといわれたりもしています。しかし、どこか世界の片隅で、文学が、生成しているという感じもあります。そういう家の灯りのようなものも幽かに感じました。まずは、自分の手にしている少ない言葉より始めて、悪戦苦闘していくほかないのだと私は感じています。

 ちょっと脱線したようでもありますが、果歩さんのお作の軌跡の中にも、自分の言葉を獲得していく闘争の姿が現れているように、今回、感じましたし、それは、形はちがいますが、私も、考えている事だし、それだけでなく、他の私の友人やいろんな人にも、見られるのではないかと思って書いてみました。果歩さんの文体は、これまで、どこかサブカルの影響下にあったように思いました。(この問題も単純ではありません。佐々本さんは独特な知の体系というものを持っているように思います)それは悪くないのですが、今度は、サブカルに影響されているというよりも、それで、縛られているという感じではなく、遊ぶ事が出来ていると思うようになりました。
 果歩さんは、詩の中で、「悪霊」と戦っていたりします。「悪霊」と戦うことを休んでしまったら、病と倒れてしまうわけですが、そういうカルマというか己の苦との戦いに対して、少しずつ、そういうのもあるけど、それは、「バーチャル」な戦いなのかもしれないといったような冷静な認識があらわれてきているようなのです。それが乾いた(これまでとはちがった)ユーモアさえ作り出しているように思えるときもあるのです。バーチャル(もうひとつの世界)な戦いも充分切実ではありますが、単純素朴に一生懸命生きたいという願いや、様々なものを愛したいという言葉も見つけることができます。リアリティとバーチャルが不思議な具合に住み分けています。このような感じはあまり見たことはないので、面白いところです。おそらく果歩さんの中に、過剰なまでに、正しいことと間違っていることの分別というか信念(信仰?)に近いものがあるのかもしれません。おそらく、そのようなものが、自分を許さず自分の内面を引き裂いているために、言葉が真っ直ぐには出てこない(ある意味素直ではない)、独特のエクリチュールを作り出しているのだと思います。
 なにはともあれ、全ては途中であり、途上であること。発展途上であること。プロセスの大切さ。詩が生きようとするとき、人も生きている。解読の難しい部分はいくつかあったのでうまくいえませんが、そのことが、ちゃんと見えるような詩集でした。それは、果歩さんのこれまでのいくつかの仕事を少しは知っているせいかもしれませんが。好きな詩は、「あとおとふ」、「内へ」、「鳥覗き」、「右の船 左に船」です。うまく紹介できませんでしたが、マンガみたいだったり、ゲーム感覚だったり時代劇みたいだったり、色んな表現の面白さもきちんとあるので、いろいろやってくれている感が伝わってきます。

 ※「右の船 左の船」より

ただ一人の船員が、わたしの仲間である
ただ一人の船員が、わたしのスパイである
上を見上げて合図を送ったとき
わたしは一息に、渾身の力をこめて
とびうつり、てのひらの吸盤を赤ガエル並みにする    
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Jul 14, 2007

祖母の初盆

 昨日は、某所であんぱんまんの哲学的考察など高尚な話をしました。
 亡くなった祖母の初盆なので、徳島に帰ります。明日、出発の予定だったのですが、台風の中帰れないので、今日から。
 では。
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Jul 13, 2007

寿退職

 デイケアの女性の職員さんが結婚で退職なのである。もちろんおめでたいことであるが、ちょっとさみしくもある。めでたくもあり、さみしくもあり。頭のいい人であった。昨日、友人に電話して、そのことを話していた。
 通信の『社会学』の第一回レポートの添削結果が返ってきた。おおお、素敵な講評である!教科書にはあまり載っていないフーコーのことをちょこっと書いたら、「その辺もっと展開してみてください」とのこと。おお、勉強しているって感じだ!どっかの誰かさんとはエライ違いである。成績もA判定である。うれしい。通信の先生も当たりはずれがあるとつくづく思った。通信はレポートとスクーリング以外、先生のお言葉を聞く機会はないため、先生の質というものは特に大事だと思う。通信を受ける方、この辺りにはくれぐれもご注意を。
 社会学は、けっこう興味はあるが、あまりちゃんと勉強してない。最近、気になった本では、入門書だが、良書らしい『ジンメル・つながりの哲学』、ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』。ユダヤ人つながりである。
 ここからは、オタクによる、知ったかぶりの独り言なので適当に聞き流してほしいが、昔、マーティン・ジェイのアドルノ論を読んで、「プリズム」とか挑戦したが難しかった。
 ハイデッガー批判の本は皮肉全開で面白かった。どんなに難しくても、遠まわしのようで実は直接的に批判している、それも、アドルノもハイデッガーもレトリックの達人であるから、嫌味に念が入っているのである。そういうのは痛快である。ひねくれインテリの喧嘩である。
 確か『本来性という隠語』という本。「本来性」というのは、カトリック由来の言葉であるらしいのだが、まあ関西弁でいえば「ほんまもんらしさ」(まともに訳すと、アイゲントリヒカイトはもともととかそういう意味になりますが敢えてこうしてます)くらいの感じか。要はアドルノは、ハイデッガーが巧妙に、これは「ほんまもん」でっせといって、「本来性」という言葉を便利に乱発して、ハクをつけようとしていおるように見えて、そのやり口に怒っているのである。そんな便利にほんまもんっていいやがって。そんなことしていたら、インチキ宗教が「これはご利益がある。本物の教祖の髪の毛です」といっているのとかわらん。あたかも「本物のゲルマン魂」とかがあるような排他的な幻想を作り出し、近代人はひっかかったというわけである。そう、オリジナルの捏造。悪質だと怒っているのである。日本でも同じ時期に同じようなことが起こっていたように思う。
 このハイデッガー批判が的を射ているのかは、ハイデッガーの全貌を知らないだけに何ともいえない。ナチに加担したからわるいという批判より、そういう本質主義によるゴマカシがいやだといっているようなのだ。もし、ハイデッガーが悪者だといって、血祭りにあげるのなら、ハイデガーの「本来性」と同じように思考停止であると考えているのだろう。ハイデッガー批判の難しさだ。言葉の問題に絞っているのが、アドルノの批評眼である。批判は時として、批判者の人格の低劣さがあらわれたりもするから。この点、アドルノも言いがかりに近いのだが、それでも、ハイデッガーの負の影響を直感していたのだと思う。
 まあ、私は「本来性」という言葉自体に罪はないと思うが、ハイデガーはどういっても偉大な哲学者であることは間違いないが、アドルノにとっては、ハイデガーが教祖化されて、無批判に受け取られていく事を危惧したのではないか。以上、うろ覚えですが。(アドルノに詳しい方、自己流のめちゃくちゃな要約すいません。形而上を形而下にしてしまった気もします)
 でも、同輩のベンヤミンのほうが肌に合っていた。(どんどん脱線するがアレントの『人間の条件』は感動した)マニアックな話でスンマセン。アドルノは、ばりばり、音楽通で、ジャズには批判的であった。二十世紀前半の人で、古典教養バリバリだから、商業音楽はぜんぶ嫌いだったのかもしれないけど。よく知らないが頑固親父っぽい。
 最近、お金を節約しているので、購入は未定。アドルノは、大学時代、徳永 恂先生の授業で出てきた。先生はフランクフルト学派研究の第一人者である。お弟子さんに細見和之さんがいる。細見さんの『アドルノ』は、ドナドナの来歴が書かれていたと覚えている。ナチによるユダヤ人狩りがあのうたのテーマなのだ。確か作者も収容所送りかと、確かに泣けるのよね、あの歌。幼心にも重いものが感じ取れたのである。
 アドルノといえば、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である。」で有名だが、この言葉には何重にも、含みがありそうなので、「プリズム」で挫折した無学の私としては、ここでは言及を控えます。こういう言葉について、すっと書けたらいいけど、あまり考えると裏読みに走ってしまうような気がするので…
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Jul 09, 2007

黄燐と投げ縄

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 今日は、石川くんに代わって、わたしが、お出迎えします。読者の皆さま、こんにちは。今日は、石川くんとお友達が遊びに来てくれました。天気がいいので、わたしの体を洗ってくれるそうです。

 えー、石川です。お友達の犬さんのところに昨日遊びに行きました。彼女は水を嫌がらないので、体洗うのが助かります。いっぱい、なめられて、ひざに抱っこしました。近頃は時々抱っこさせてくれます。彼女は乙女なので、どきどきです。ほとんど鳴かないです。風を見ることが出来ます。空を飛ぶものが大好きです。純粋ってのは、こういうのをいうんだろうなあと思います。
 子どもや動物には神性が宿っていると思うことがあります。きっと不思議な世界が見えているのだろうと思います。詳しくないので申し訳ないですが、柳田國男や、折口信夫は、近代人だけど風や、土や空や海のもつ不思議な力が見えていたのかもしれません。私小説作家にもそういう感性がある人がいますね。神は、デウスやゴッドでもありますが、世界には驚くほど多彩な神の形態があることを忘れておきたくないですね。
 帰り、図書館で、灰皿町にもお住まいの清水哲男さんの詩集『黄燐と投げ縄』を借りました。この本は始めの詩を読んで、吸い込まれて「借りよう」と思いました。けっこうすごい力で釣られてしまいました。はじめて清水さんの詩を拝見したのですが、あなどりがたし。
 詩集の中で、詩のクオリティのでこぼこがあまりないのに、驚きました。一定のいい感じを保っています。若い詩人の方々、こういう方も、ライバル設定(しなくてもいいですが)し、乗り越えていく必要がありそうですよ。ちゃんとサービスがあります。外向的な構えをしています。そこに含みがあるので、太くて、味わいのある詩です。関東なのにおいしいうどんのような。下村康臣さんの詩は感動しましたが、この詩には別の感慨がわきます。この感じ、今の多くの詩に欠けているかもしれません。サービスなくてもいいんですが。それと、昭和の空気が保存されています。それで現代を生きる変な感じもあるわけですよ。
 驚くのは王貞治の本や花の3人娘の本や星座の本まで書いているということです。まさにノンジャンル。伝聞ですが俳句もやっているそうで。びっくりです。でも、「なあんてね」みたいなスタンスで書いているのは、理解できるのですが、そこは違和感があります。きっと私は知らない苦渋とか難しさをいっぱい見ているんですね。そこから諧謔というのかな、でも、生真面目な戯れですね。落語や川柳の空気がありますね。「決起せよ」が出てくる詩も、書き出しは素晴らしいだけに、最後で何かを閉じてしまっている気がしました。別の読み方があると思いますが。何か閉塞も感じてしまうときがあるんですね。なんでしょうか。たぶんご自身もそう感じていて、静かに苛立ったり、もがいたりしているような。
 値段設定とか紹介の仕方によっては、色んな読者を獲得できる気もしました。それくらい、読み物として他のジャンルに負けないというものがあります。もちろんそれとちがう詩の方向性ももちろんあります。もう少し読んでみます。
Posted at 09:14 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jul 08, 2007

養護学校って名前変わってたの…

 今日、朝日新聞の朝刊を読んでいたら、足立区の小学校は学力テストをするんだそうだが、ある小学校で、障害のある子が提出したテストは集計にはいれなかったのだそうだ。人によって意見はちがうだろうが、これもまずいが、まだ問題は少ない気がする。より問題なのは、区の学力テストの成績が学校のブランドに関わるため、小学生達に過去問をやらせたり、試験中に、先生が机をたたいて、答えがまちがっているよと教えていたんだそうな。その結果前年44位から第1位へ。大阪はまだだが、東京は学校選択制をしいているところが多いので、こういうことが起こるのだ。自分の学校の評判を上げようとしている。でも、区立は公立なんだから、色んな奴がいるのがいいと思うんである。勉強の出来る奴も出来ない奴もいるから、人間の勉強になるのだ。それなのに、学力テストの成績がいい学校に殺到しているという。親御さんの気持ちもわかりますよ。だって、勉強できたほうがいいもんな。やっぱ就職にも有利だし親心である。それに荒れている学校って恐いのは僕も思う。でも、自分の子どもをじっと見てやってほしい。子どもがどんな奴かしっかり見てほしい。僕は、学力という指標もひとつだと思うが、どんな人間になるか、人にしんせつできるかとか、いい奴かとかちゃんと自分の意志をもっているかとか金遣いがまともかの方が、世間に出てから役立つことが多い。要は人として信頼されるかどうか。これは鍛えられない。(頭のよしあしも実は鍛えにくいと思っている)だけど、大事なことだ。親でもないのにえらそうに言ってごめんなさい。
 それとこの記事の中に「特別支援」って言葉が出てくる。なんか自衛隊の活動みたいだが、ちがうらしい。養護学校の名前が変わったらしい、今年から。「特別支援学校」にかわったんだって。知らんかった…「特殊学級」とかつて呼ばれてもいたらしいが知らなかった。「特殊」はひどいかもしれないね。関西では「養護学級」と呼ぶのが多かった気がする。だから、変えるというのは一定の評価は出来る。発達障害の子をどうするかということもあるし。でもまあ、この手のきれいごとばっかりの改革っぽいが、きっとシステム構築的なことはあんまりちゃんとしてなくて、現場は人が足りないとかなんだろうな。ちょっと、文科省のページを覗いてみただけだけど。
 まあ、養護学校や養護学級は、「ヨウゴ」というて、差別というか悪口を叩かれていた。文科省の狙いは何かわからんが、でも、名前をかえてどうなんだろう。けっこうイタチゴッコなんだな。精神薄弱が、「精薄」と呼ばれて、やっぱ差別されていたので、「知的障害」に変わった。でも、2ちゃんねるをみていると「池沼」(ちしょう)なる言葉が使われている。かなり多い。どうしようもない奴は一定いて、どんな手を使っても差別する。そして、その言葉を使わなくても、バカにする人はいる。むしろ、初対面だと障害者に対して、戸惑う人が多いのが普通だと思う。理解のあるフリをしている私も含めた色んな御仁もあやしいもんだ。だから、ここは、性悪説でいこうじゃないかと思ったりする。具体的には思い浮かばないが、みんなどっかで(被差別者さえ)差別者になりうる、それは絶対の悪ではない。相対のものだ。差別は人類の治らない病気だ。でも、差別しても、それは楽しくないよねという風になったらいい。差別の快楽というものがあるが、それは、あまり程度のいいものではない。怒るのも大事で大切な力になるが、怒るだけでは解決しなかったはずだ。これまでの闘争者で、伝説的な人物はしたたかだったはずだ。「特別支援学校」の未来もどうなんだろう。正直気が重い。
 今日もオチビサンはおもろいのだった。「鷹の爪団」のまねをやりすぎたら怒られた。昨日おとついと寝覚めよい。涼しい。がんばって掃除した。  
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Jul 07, 2007

阪神タイガース・下柳投手39才で通算100勝達成おめでとう

 下の画像はめずらしいシーンです。というのも、下柳投手は極度にシャイなので、ヒーローインタビューをほとんど受けません。きわめて淡々と話しているのが通好みな選手です。でもちょっと照れ笑いしてますね。大の大人にいうのもなんですがちょっとかわいい。この飄々とした感じが好きなファンも多いと思います。もちろん、ガッツのあるひとなのですが。そのギャップが面白い。

 下柳投手は、今までのプロ野球の中で、一番年をとって、100勝達成した人です。200勝が名球界だから、大したことないと思われる方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。勝ちを積み重ねるためには現役を続けなければなりません。プロ野球でも毎年、報道はされていませんが、たくさん引退していっているわけです。怪我も多いです。その中で、39才まで現役を続けるのは、相当しんぼうと実力の要ることです。日ハム時代は、抑えをしたりもしていましたし、日ハムも今ほど強くはなかったので、そんなに勝ち数はない。そんな中で、阪神に来て最多勝をとったり、先発の一角としてがんばってきました。その結果の100勝です。今年は、開幕投手もつとめましたが、前半はなかなか勝てず苦労しました。今は7勝4敗なので、二桁は勝てるんじゃないでしょうか。
 下柳投手は、6回くらいまでで交替する事が多いのですが、スタミナはないわけじゃなく、むしろあるほうだと思います。ここまで、プロ野球を続けてこれた秘訣は、とにかく他の選手より、よく走るということじゃないでしょうか。走ることによって、スタミナ、下半身の力をつけているんでしょう。
 ピッチングは日ハム時代は、力で押していました。しかし、年をとるにつれて、抜群の投球術を編み出しました。とにかく低めで勝負する。ボールをうまく使って、くさい球で勝負する。こういうと逃げているようですが、かれのスライダーのコントロール、曲がりが素晴らしいと共に、シュートでインコースをつくという攻撃的なピッチングでメリハリをつけています。左打者はスライダーが来ると思っているとシュートがくるので、バットの根っこ辺りに当てるのが精一杯といった光景がよくあります。今の下柳は、若手の上園と苦しい先発陣を支えています。
 最後にホームページがかっこいい。ブログをみると彼の素朴な人柄が伝わってきます。ラガーの部屋を見てください。下柳投手にそっくりな犬が出てきます。彼が飼い犬を愛している感じがよく伝わってきます。下柳投手はかわいいものが好きな感じがして、みた目とギャップがあります。遠征の際はどうしているのか?写真は誰が撮っているのでしょう。彼女かなあ。
Posted at 17:57 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jul 05, 2007

いらいらした日

 今日はカウンセリングで、東大阪へ。待合で、ケータイを鳴らす人がいて、うるさいはで、正直いらいらした。帰り、蕎麦屋により、いつものように「蕎麦弁当」を食べていると、知った人が店に入ってきた。僕が障害者施設に勤めていたとき、施設にアドバイザー的な存在できていたN先生だった。僕は何年も前にやめた一職員なので、覚えておられないだろうと思い、声をかけず弁当を食べて、帰宅。帰り本屋によって、岡田斗司夫『世界征服は可能か』を購入。かつてはアニメで定番だった悪役の世界征服について、面白く、真面目に考察。岡田は、オタク学なるものをたてている。時々するどい文明批評があって面白い。『ぼくたちの洗脳社会』も面白かった記憶がある。「死ね死ね団」のことを知れてよかった。バビル2世の悪役ヨミ様は、超能力を使うと、年をとってしまう。だから、眠って休むのだが、またバビル2世が攻撃してきて、部下は無能なので、ヨミ様は、起こされて戦わなければならない。結果、三度も過労死しているというのはわろた。切ない。。
 帰ったら『障害者福祉論』のレポートが採点されて戻ってきた。残念ながらC判定。ぎりぎり、一応合格。講評は短いもので、「もっと文章の練習をしなさい」等等と書いてある。そういう先生の字も読みにくくて仕方なかった。おっしゃることはわかる。文章はうまいとはいえない。が、それだけだと具体的にどこをどう勉強しなおしていいかわからない。通信では先生にあえないので、何となく不親切というか不便だと思った。
 Youtubeの貼り方がわかったので、張ってみる。今日見ていいなと思ったのはふたつ。ひとつは電気グルーヴで、もうひとつはスティング。(クラプトンと共演している奴もかっこよかったが今日はこちら)スティングのうたは、911のテロの犠牲者に捧げたもの。事件直後だったはずだ。電気の方はふざけているようにみえる。しかし、両者に通じるのは悲しみではなかろうか。とくに、電気の方のPVの天久聖一のマンガは素晴らしい。音楽と一体である。この両者を並列させるのが、僕らしいということで勘弁願いたい。形のないいらいらはつづいているが、これらには助けられた。

電気グルーヴ「弾けないギターを弾くんだぜ」
STING - Tribute to WTC Victims - Fragile
Posted at 22:15 in nikki | WriteBacks (2) | Edit

Jul 04, 2007

堀北真希さん、いいともにて

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雨。掃除の仕事。今日はあんまり疲れず。帰って晩飯は味噌煮込みうどんを作る。具は、大根とニンジンと、冷凍ギョーザである。冷凍ギョーザは意外な感じもするかもしれないがけっこううまい。何とか詩を書く。アマゾンを見たら、私の詩集を買ってくださった方がいたようで、ランキングが上がっていた。誰だろう。うれしい。
 昨日、たまたま「笑っていいとも」を見ていたら、堀北真希さんが出ていた。ドラマがそういう役ということで、男の子の格好をしていた。堀北さんは、バラエティに対してはけっこう冷め冷めのようである。恐いものみたさで、ドラマも見てみたら、そんなにひどくなかった。ただ、小栗某という男の子があまりかっこよく思えなかった。おじさんは、それでも、堀北さんがかわいかったので、少し満足した。もっと表情がイキイキしてくるともっといいのにと思っているが。
 あと気になっているのは、当時はあまり好きではなかったのだが、裕木奈江さんがあのデビット・リンチの映画に出たというのだ。裕木さんは「ポケベルが鳴らなくて」というドラマに出ていたというだけで、時代がいつくらいかわかるくらいの感じだが、今は37才ということだそうな。写真でみたが今のほうが私は好みかもしれない。
 今日はイチローがリーディングヒッターになって、松井稼頭央が5打数5安打、松坂2ケタ勝利と結構すごい日だった。だからなんだというわけではないが、みんなカッコいいなあ。性格はいろいろだけどね。松井稼頭央が一番好きかな。イチローも松坂もプライド高いからね。まあ一流なので当然ですが。
 今日、掃除をしていると、ひさしぶりに同じになった職員さんと話してて、海に行ったそうな。肌がひりひりするというので、6月の紫外線はキツイんですよというと驚いていた。彼はサマソニに行くらしい。うらやましい。私は8月は、通信のスクーリングなのである。彼はまだ資格を取っていないというのである意味同志?かもしれない。
Posted at 23:06 in nikki | WriteBacks (3) | Edit
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