Jul 18, 2007

初盆のこと、佐々本果歩『姉妹』の感想

 14日に帰ってから、台風が来た。16日に帰宅して、それからも、地震があったりと天変地異の猛威というものに驚いています。
 まず、新潟県中越沖地震で、被災された方々にお見舞い申し上げます。電気は通り始めているけれど、水道はまだだとか。ライフラインがやられるというのは、直に生命の営みに関わってきますので、非常に切迫した状況だと思います。なにより、地震で、倒壊したり、破損したりして、住むところがどうにもならなくなってしまった方々は、今日、明日だけではなくて、これからの生活がとても大変だと思います。これまで、暮らしていた住処を失うのはどれほど、不安なことだろうと、自分の身に引き寄せて感じたりします。あと、原発事故について、きちんとした全容解明が望まれます。

 さて、14日は風雨の中、昼ごろ、徳島に着きました。なんとか、橋が通行止めになる前に帰ることができました。その日は、地元の那賀川が危険水域に達したし、雨風も強まり、大丈夫なんだろうかと思っていました。翌朝起きたら、風は強いものの、台風は過ぎていました。九州等いくつかの地域で被害があり、無事ではなかったのですが、水不足が心配されていた、四国のダムやため池の貯水量は、通常に戻ったようです。なんと、この台風で七月一ヶ月の雨量があったのだとか。
 台風一過のさわやかなお天気の中、お寺で、初盆の法要がありました。住職さんの話によると、盆の起源というのは、こうです。釈迦の十番弟子のひとり、目連尊者は神通力第一の人。あるとき、亡くなった母親の様子が気になった目連は、神通力で、お母さんの様子を見た。すると餓鬼道におちて苦しんでいた。心配になって食べ物を送ろうとすると火に変わった。目連は途方に暮れて、お釈迦様に相談した。お釈迦様は、「おまえの母親が餓鬼道に落ちたのは、自分や自分の子どもに執着していたからだ」と答えた。お釈迦様のアドバイスに従い、修行に集まっていた僧達の修行の最終日に、僧達が供養を行うと、目連の母親は、天上界に上った。だそうです。
 けっこう生生しいというか、親に対する思い、関係性があらわれているような気がします。母方の祖父母の家は、真言宗なので、「南無大師遍照金剛」を唱えました。お寺から出るときれいな雲と空でした。下世話な話なのですが、お供物はお寺さんが用意してくれたため、お布施をどれくらい包むのかが難しかったようです。志しとはいいますが、その無言の按配のようなものがけっこう難しいのだと思いました。私のときは、こういうことがちゃんとできるのかなあと心配になりました。しかし、何事も色々学ばなければならないですな。
 親戚の人たちとお食事していたら、祖母の祖母の話になり、祖母に結構似ていたといって、盛り上がっていました。人の生きてきた歴史の連続性のようなものを感じました。こういう話は田舎でないと、出来ないので、貴重です。この日は、近くのスパに、伯父と父と、行きました。休み中なので混んでいました。近くで硫黄の匂いがしました。
 スパに行く前に、大河ドラマ「風林火山」を見ました。大河を滅多に見ませんが、これは役者が演技派が多く、感心してみていました。この日は、武田晴信の重臣、甘利、板垣が、自分の身を賭して、晴信にこの戦の危険を伝えようとして、討ち死にするのでした。甘利は、竜雷太、板垣は、千葉真一。千葉については、私は、ファンではなかったのですが、偉丈夫ぶりにすっかりファンに。なんと、この大河で引退…悲しい。せっかくファンになったばかりなのに。しかし、この日の最期の大立ち回りの動きは、鬼神のようであり、68歳にしてこの動き、本当にこんな侍がいたのでは?と思い感動していました。

 月曜は早く出ました。大阪に10時半には戻りました。そしたら、今度は地震。原発からは黒煙…新潟に実家のある友人に、ご家族の安否の確認の電話を入れました。無事のようで安心しました。それから、火曜水曜は、疲れが出て、横になっていました。なので、ブログを書くのが遅れました。



 ●佐々本果歩『姉妹』について独りよがりな感想

 佐々本果歩さんから、手づくり小詩集『姉妹』が送られてきました。ありがとうございます。まず、感じたのは、一人の女性の今が、感じ取れるということ。そして、声に出しながら、朗読して、言葉の持つ調子を感じながら読みました。文字と、声というのは、ある場合、別物です。しかし、目で追ったとしても感じられる、詩の持つリズムというものは、書いた人の生命のリズムでもあるような気がします。また、それに少しでも近づいて、感じながら、聞き取りながら、読むことは、果歩さんのテキストを理解する際にも、大事なのではないかと思いました。私は果歩さんとは、詩のイベントや合評でお会いしたり、お話したりと、その人となりの幾ばくかは、存じ上げているので、客観的な評者となりえないかもしれませんが、だからこそ、『姉妹』には、果歩さんの、これまでの詩作における格闘の痕というものが読み取れる気もするのです。
 表題である『姉妹』という言葉が重要であるように思えてきました。作品にも出てきますが、「けつえん」というものが、親子、兄弟とはちがった感じで感じられます。表立っては書かれていない、血で結ばれているということが、ある。互いにとって互いが自分の分身である。その逆にそれぞれが別々の世界を有しているということを「姉妹」という言葉はあらわしているのではないでしょうか。近親に対する複雑な感情。同一性と差異というのでしょうか。
 いくつかのテキストを除き、詩の中に、いくつかの話(夢?)があらわれてきます。しかも、その間の連絡や文脈の疎通というものがなかなか辿れない。どの夢も終わりがないようで、完結しない、そこを巡っているという感じがします。一見、独りよがりなのですが、どれも同じ根源から出てくる想念の変奏曲であるように感じられるのです。その根源が果歩さんの言葉を果歩さんたらしめているように思うのです。しかし、彼女は、今回は、その根源から、出てくる想念に、ただ苦しめられ、ぐるぐる歩かされているのでも、捕らわれているのでも、そこから逃げ出そうとしているわけでもないように思います。彼女は、そういう自分の根源を見つめるもう一人の自分=姉妹を獲得しかけているようにも感じ取れるのです。なぜなら1ページ目に

 姉様、
 ことりが

     ことりが
        にげんとしている

 とあるからです。ここで、話者=妹という位置を新たに獲得しているように思います。話者は、内的世界に捕らわれていることりを見て、そのことを「姉様」に伝えようとしている。
 苦が苦であるのは、「逃れられない=外部がない」ということだろうと思います。しかし、単に客観的な視線を獲得するだけでは、「脱出」にはならないのです。私見ですが「逃れられなさ」をとことん味わってこそ、一条の光が見えるのかもしれません。逃れられないというのは翻って云えば、自分が自分でしかありえないということだと思います。つまり、自分が取替えのきかないものであるということです。事はそう単純でないので、「自分が取替えのきかないものである」という覚知に達しただけではなぜか充分でないので(自分の唯一性をがなりたてるだけではやっぱりだめです)、ここから、それを語り伝えるために、また新たな困難に潜りこんで行く。ここに文学というものがあるのだと思います。その「語り伝え」の話者の位置を捉えたこと。それは同時に自分に相対する他者=世界の発見でもあります。「船」がよく出てくるので、これは、他者=世界に船出してゆくものにも見えます。これは、すばらしいことで、また、しんどいことだと思います。
 この問題は他人事ではないのであって、私たちの時代にあって、自分の生命や、心といったものに、肉薄した言葉を手にすることの難しさを果歩さんも生きているように思えるのです。それは、マスコミのせいだけでもないし、結局は一人ひとりが納得できるまで、自分で、生きてみるより他ない問題です。ある人は、ギターを手にするであろうし、ある人はペン、ある人は、愛する人と生きること、ある人は、自分の好きなことや仕事をすること。無限にその表れがあるように思います。それらを誰に無駄といわれても、生きることによって、自分の価値や、意味を見出してゆくこと。文学もその中にあって、長らく人間の本質的なことがらを描いていくことが責務とされてきました。今は、そうでもないといわれたりもしています。しかし、どこか世界の片隅で、文学が、生成しているという感じもあります。そういう家の灯りのようなものも幽かに感じました。まずは、自分の手にしている少ない言葉より始めて、悪戦苦闘していくほかないのだと私は感じています。

 ちょっと脱線したようでもありますが、果歩さんのお作の軌跡の中にも、自分の言葉を獲得していく闘争の姿が現れているように、今回、感じましたし、それは、形はちがいますが、私も、考えている事だし、それだけでなく、他の私の友人やいろんな人にも、見られるのではないかと思って書いてみました。果歩さんの文体は、これまで、どこかサブカルの影響下にあったように思いました。(この問題も単純ではありません。佐々本さんは独特な知の体系というものを持っているように思います)それは悪くないのですが、今度は、サブカルに影響されているというよりも、それで、縛られているという感じではなく、遊ぶ事が出来ていると思うようになりました。
 果歩さんは、詩の中で、「悪霊」と戦っていたりします。「悪霊」と戦うことを休んでしまったら、病と倒れてしまうわけですが、そういうカルマというか己の苦との戦いに対して、少しずつ、そういうのもあるけど、それは、「バーチャル」な戦いなのかもしれないといったような冷静な認識があらわれてきているようなのです。それが乾いた(これまでとはちがった)ユーモアさえ作り出しているように思えるときもあるのです。バーチャル(もうひとつの世界)な戦いも充分切実ではありますが、単純素朴に一生懸命生きたいという願いや、様々なものを愛したいという言葉も見つけることができます。リアリティとバーチャルが不思議な具合に住み分けています。このような感じはあまり見たことはないので、面白いところです。おそらく果歩さんの中に、過剰なまでに、正しいことと間違っていることの分別というか信念(信仰?)に近いものがあるのかもしれません。おそらく、そのようなものが、自分を許さず自分の内面を引き裂いているために、言葉が真っ直ぐには出てこない(ある意味素直ではない)、独特のエクリチュールを作り出しているのだと思います。
 なにはともあれ、全ては途中であり、途上であること。発展途上であること。プロセスの大切さ。詩が生きようとするとき、人も生きている。解読の難しい部分はいくつかあったのでうまくいえませんが、そのことが、ちゃんと見えるような詩集でした。それは、果歩さんのこれまでのいくつかの仕事を少しは知っているせいかもしれませんが。好きな詩は、「あとおとふ」、「内へ」、「鳥覗き」、「右の船 左に船」です。うまく紹介できませんでしたが、マンガみたいだったり、ゲーム感覚だったり時代劇みたいだったり、色んな表現の面白さもきちんとあるので、いろいろやってくれている感が伝わってきます。

 ※「右の船 左の船」より

ただ一人の船員が、わたしの仲間である
ただ一人の船員が、わたしのスパイである
上を見上げて合図を送ったとき
わたしは一息に、渾身の力をこめて
とびうつり、てのひらの吸盤を赤ガエル並みにする    
Posted at 20:36 in nikki | WriteBacks (1) | Edit
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Posted by 葬式の辞典 at 2007/07/20 (Fri) 14:29:44
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