Jan 27, 2006

石垣りんとさそうあきら

今日は一人で家の掃除をした。風呂掃除もした。それから、明日読書会なので「ハルキ文庫」の「石垣りん」を読んだ。

石垣りん。若干の印象を書きたい。
高度成長を静かに、批判的に、見届けた人だと思った。戦後、経済が優先される中、彼女は銀行で働きながら、社会と個人、いいや世界と個人のかかわりを見つめた人であると思った。これは、稀有なことではないか?詩人として。
原爆を扱った詩に「25万のやけただれのひとつ」と言う言葉がでてくる。死者を数字に還元するのは、抵抗があるだろう。しかし、彼女はしている。そこに「顔」があらわれてくる、不思議な詩である。顔とは、その人に固有のものだが、それが数字と同居している逆説がある。数字でしか語られない悲しみというものがここには、あって、彼女は醒めている。
その一方で、「眠り」が深く描かれている。この辺りに詩的な生命力の強さが、ある。眠りをも深く見つめている、覚醒した眼がそこにある。
彼女は「仲間」という詩で、「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」と書いている。彼女には深い孤独があった。それを生きた。「藁」では、「子守唄のようなものがゆらめき出すと/私の心はさめる。/なぜかそわそわ落ち着かなくなる。」と書く。どこかで、眠ってはいられない。ずっと醒めていけなければならないという感覚かもしれない。それは「表札」という詩に現れている。自分の居場所を守る感覚であり、居場所は、ずっと具体的な「忘れない」という記憶であり、それは、日本が負けたというところではないだろうか?そこで、「人間の暮らし」というものが、薄れてしまったと言う感覚ではないか。「洗剤のある風景」から、そんな感覚を受け取り、せつない。どこか生きる現場が失われたという感覚が彼女にはあるきがする。その中で、どんなものにもごまかされず醒めているという過酷な位置に彼女は置かれた。ユーモラスな詩もあるが、きわめて骨太である。こういう詩人がいたと言うのは、今の我々には大事な事ではないかと思う。感想はこれにとどまらない。もっと多角的に読めると思う。とりあえず覚書として。読書会で、いろんな人の意見を聞いたら修正されるところもあるだろう。ただ、生活が失われていくという危機感は「家族の桎梏」への複雑な感覚を超えて、現代の危機を予見していた。そこに普遍性があると思う。「人間」の叫びなのだ。

さそうあきらの漫画「コドモのコドモ」を読んだ。小学生が妊娠する話だが、こういう話を重くも軽くもなく書けるのが、さそうあきらのすごいとこではないかなあと思ったりする。
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Jan 26, 2006

送受信

うーん、頼まれていた批評を無事書き上げ、相手に送った。届くか、ちょっとデータが重かったので不安だったが、届いてよかった。
書き上げて、送ったら、誤字があったので、あわてて、直したのを送った。少しあわてんぼうである。その結果、届いたか心配になる。そういう病気はまだ残っている。

昨日はデイケアで全体ミーティングがあったので、二日続けていった。さすがに、まだ慣れていないし、どう振舞っていいかわからないので、帰ってからは、疲れが出てきた。それで、彼女と話して、早めに寝て、今日はカウンセリング行ってきました。
カウンセリングでは、先生に年賀状を送ったのだけど、お返事来なかったので、それをいった。ちょっと図々しいと思ったが、万事送ったものが、どう受け止められ、返事が返ってくるか不安なのだということを話した。僕にメールを送った人を困らせてるかもしれない。病気の前は、心配じゃなかった。それだけ余裕こいてた自分があったのだろう。
コミュニケーションは難しい。なにしろ、相手は、何とも思ってなくても、思っていても、なかなか眼に見えない。そこの見えなさが心配の元だろう。よく考えれば、僕が受けての側だったら、やっぱり、何の気なしに返した事でも、相手をきずつけたり、不安にさせたりは、あるわけだ。でも、自分は、いつも、思いを届ける側についつい立ってしまって、自分の「渡したい」「受け取りたい」にこだわって、相手の事が見えなくなってしまう。返ってくると安心して、また心配しての繰り返し。僕はそれを「小さな自分」といった。
でも、先生は、それは健康的なことですよといってくれた。日々返事がどう返ってくるか、人はどこかで心配しているし、返ってくるのはうれしいものだと。デイケアでは、まだ、その場にいる自分を支えるので、精一杯だ。なにしろ、彼女以外の他人と10時~3時まで、い続けるのは久しぶりの事だ。だから、まだ、名前と顔が一致していない人が大半なので、「どう返事が返ってくるか」心配する段ではないのだ。
もっと、気にしないで送れればと思う。無意識にそうしているのだから。それと、あんまり計算せず、発言できればと思う。自分が試されるだろう。それと、メッセージを出せば必ず答えがほしいという経済的な交換の論理では、大きくなれない。もちろん一つ一つのやり取りを完遂することは必要だろう。しかし贈与の論理で行きたい。見返りを求めないでいたい。必ず他者によるチェックを受ける。恋愛とは、そういうシビアな場なので鍛えられる。彼女は、ちゃんと聞いてくれて、どうでもいい部分や、しんどいときは答えを返してこない、それが僕のような人にとっては、いい。

カウンセリングで、話した事はうまく再現できないが、それでも、だいぶ書いたり、彼女に伝えたりできるようになってきた。そして、返事が返ってこないでうじうじしている自分もだいぶ彼女の前で、普通に出せるようになった。恋愛はすごいなあ。恋愛だけじゃないし、これからは、他人の前で、どう表現できるかだと思う。

昨日はミーティングで自立支援法の説明があった。自己負担は、5%だったのだが、これまでは大阪府は、国保で、32条でタダになっていた。それが10%負担になる。もちろん上限はあって、ぼくは、月5000円くらいになるのではないか。それ以上はカバーしてくれるが、今までの0から、5000円の負担になると思う。窓口でいくら払ったか覚えておかないといけない。これも、これまでふくらんできた福祉サービスの財政負担を、各障害者を一元化して、自己負担してもらわないと財政がもたないそうだが、ゼロから有料になると感覚が変わってしまう。正直、諦めと、憤りと、半々である。他の府県の方はどうなんだろうか?お年寄りのサービスの自己負担はきついのではないか?正直、成立するまでは報道があって、でも、選挙で争点にならなかった。郵政ばっかりで、福祉の自己負担はかくれてしまった

デイケアは10人くらい。で、診察を受けているクリニックとは別である。とりあえず週二日で、参加しやすいプログラムの日に参加ということになった。デイケアでは自主製品でクッキーも作っている。年代は20~30代が大半。プログラムは、スポーツのほかは、書道や料理があって、月一回お出かけがある。けっこう標準的ではなかろうか。僕は福祉職員をやっていた時期があるので、職員さんにはビビッてしまうところがある。どこかでまだ、利用者目線と職員目線の整理がつかない。そのままにしておこう。これでも職員目線はだいぶマシになった。いかに、場に居場所を作って、人のいる空間に慣れられるかというよりペースを作られるかだと思う。職員の人もそういっていた。スポーツは筋肉痛になったりミスを気にしたが勝ったときハイタッチしたのがうれしかった。体での交流は、大事である。「街場のアメリカ論」を読んでいる。
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Jan 24, 2006

緊張した

デイケアにちょっと遅刻した。どこか、半ば、避けようとしていたのか。それにしては弁当を買っていった。電話では、あまり確認をしなかったのだ。自分で、デイケアに本当に行きたいか、障害を作って、自分の気持ちを試していたんだろう。

行ってどうだったか?何しろ緊張した。しかし、デイケアの職員もいっていたが、緊張してナンボなのだ。そこをどう潜り抜けるかだ。遅刻したにしては、まずまずなんじゃないだろうか?なんか、ソフトバレーボールやったし、レシーブがうまくいかなかったけど、チームは勝ってハイタッチしたし。

今日は、それ以外は批評を書いたり直したりしていた。今日はライブドアの人が逮捕されていた。それで、怒っている人もいる。働くものを馬鹿にするなと言いたげに。でも、この国に咲いたアダ花である。そういう視点は保っておきたい。

「博士の愛した数式」は、原作にはないダークサイドの出し方に問題を感じた。素直に感動したいのだが、なれなかった。子どもは大事という博士の愛を裏付けるのに、堕胎のエピソードは、なんか持ってき方が違うと思う。もってきてもいいのだが、背景がきちんとしていないと全てがぼやける。80分しか記憶がもたないって、もっと深刻な気がする。「西遊記」はやはりいい。

「博士の愛した数式」について追記;「博士の愛した数式」見る人によって、ちがうかもしれません。 全部は悪い映画じゃないので、ひっかかってきたところを書きました。見るのもいいかと思われます。 もしかしたら原作にはない発見があるかもしれません。僕は原作読んでいません。
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Jan 22, 2006

なんばパークス、税金

20日は、自立支援法への更新手続きに高槻にいってくる。どうも、10%分の自己負担は、国保がもってくれるかもしれないということだ。

32条でのデイケアの手続きは、いらないとのこと。本当に大丈夫なのか心配になる。自己負担しないで済むだろうか。ジャズ喫茶に行って、お茶をのんでくる。いつも思うが、JKカフェはいいところだ。いった方はいるだろうか?次にギャラリーマーヤに行き、堀尾さんの個展を見に行く。そこで、父と会う。弟がギャラリーでグループ展のプロデュースをするらしい。
現代詩フォーラムの読書会は皆物知りだった。でも、最近ぼくはなんか勉強意欲がない。

21日は、なんばパークスに行ってきた。彼女が「通販生活」を読んでいて、バスマットが欲しいらしく、カタログハウスの店に行く。なんか、上品でかわいい人が多いといったら、彼女に、そんなんばっか見てといわれてしまった。そこで、「つげ義春の温泉」を買う。温泉のカットや、つげの温泉漫画、エッセイが入っている。カタログハウスから出ている。意外だがめっけものだ。
晩はNHKの「日本のこれから」を見る。増税の議論だった。谷垣財務大臣が出ていた。みんないろんなことを言うが、司会がまとめ切れていない感じがした。大臣の答えのうまさが際立っていた。人気がでるのではないだろうか?それと、単純に流したり、切り捨てたりする小泉さんとは違う印象がした。ある意味、ある程度は、手厚い福祉も、必要だとしているようだった。それから、いろんな立場やコストがあって、要はどこまで、「政府」が、面倒を見れるか。そのためには、どれくらい税が必要で、どうとるかという問題の気がした。それが、どうしても、赤字財政再建とかぶってしまい、ある種の人には、これ以上、負担をさせられてたまるかとおもっているようだった。どうも、国の失敗のツケを全部払わされている感じがするのが、重税感の正体で、それと、どの税が何のために支払っているのかわからんまま、払うのはいやだと言うものだった。谷垣は、ある程度情報開示をしているとか、立場によってそれぞれだが、国はこれくらいのことを必要とし、それをちゃんとどこかにまわすとは、小泉さんと違い、言おうとしているようだった。最低限の応答責任は果たそうとしているようだった。ちゃんと答えれば、たぶん、所得の低い僕らは、各論が必要でも、相応の税負担に国民は答えるかもしれないと思った。そういう意味で、小泉さんは、あんまり優秀なスポークスマンではないような気がする。しかし、その冷たさが心地いい人が確実にいたはずだし、現にそれが、停滞の放置と更なる中途半端な改革につながっていると思う。郵政も大事だが、本来の争点は、社会を運営するコスト負担をどれだけ政府がやって、また、富を公正に再配分する事だっただろう。小泉さんには「配分」という観点が抜けている。そこも、たくさんとりたいと思っている人には「心地よかった」のではないか?郵政と言う「民営化」議論に絞ったのが、小泉さんの「やってます」という戦略だったろうし、確かに「改革」は必要だからという急いだ視点が結果、小泉政権の先延ばしを生んだんだろう。ここ何年かで、失われた、また失われつつある社会資源と階層化は残ってしまった形で、それは見えにくいから、「政権」の責任は追及されないだろう。彼は政府の、面倒を見る範囲を小さくしたから誰も文句を言っても暖簾に腕押しの構造を作った。

これから映画「博士の愛した数式」を見に行く。
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Jan 20, 2006

自立支援法

診察に行ってきた。
通院費公費負担32条から、自立支援法というのに、四月から変わるらしく、その届けを市役所に出さなければならなくなった。制度が変わるのだが、それは知っていた。しかし、自己負担が5%から10%に変わるので、大変だ。僕のように年金から、(これも自分が払った年金がある意味戻ってきてるのだが、それでも、国のお金であることは間違いない)彼女と生活費を折半して、やっている者にとっては、少し厄介な事になった。日本の社会保障費は結構手薄なのだが、まあ、今までの誰も彼もが、公費負担できていたという状況は終わりになるのだが、というか政府がしたのだが、その是非はまあ置くとしよう。自分でも精神科だけ、なぜ医療費が、安くなるのかは謎だったが、それには歴史的な背景がある。要は、国が、精神の病気にかかった人は、医療のケアといえば、聞こえがいいが、まあ、病院にかかってくださいよと。理由はたぶん、精神の患者が、危険視されていたからだ。そのため、お金は国が払いますよという温情と治安的観点が、あったわけだ。だから、病院をやめずに通いましょうねと。
たしかに、今回の法律は「自立」だ。皆さん自分で払っていきましょうねと。もちろん一定の制限はある。所得の低いものには、自己負担の上限が定められている。いいところは、治安的観点を捨てつつある。だから、「自立」なのだ。でも、同時に温情も切り捨てられていきかねない。というか、正直、お金をとれるところから、とるというのがあるだろう。医療費がかさむから、という理由もあるだろう。もっと困っている人も、普通に医療費払ってますよと。そうですね。でも、全体的には、やはり、手をつけにくいとこから、つけたのは、えらいが、困っている人から取るというトーンは否めない。ここで、小泉さんの顔が浮かんでしまうのは僕だけだろうか?やはり、一連の改革の成果だろう。じゃあ、今の財政赤字はどうすんの?という問いもある。僕の答えは簡単で、日本はそうはいっても、全体から見たら、どんな国よりも、お金を持っていると思うというのに、尽きる。停滞を、不況と言い換えてるだけじゃないのか?だから、「耐震偽造の人」とか、ライブドアのドラえもんの人みたいな「利益優先」で、人を出し抜くような、そして、そこをいじる事に命を賭ける人が出てくるのではないかと思う。盲目的な成長という神話は、まだ生きていて、何のために成長するか、じゃなくて、成長するために、成長する、そのためなら、なんだってやるという別の病気の人をまだ、日本は作っているし、皆その水になじんでいっているような気がする。結果、なじめない人が増えて、本当に病気の人が、できあがるというわけだ。
僕は、これからデイケアに通う申請をしなければならない。その手続きは、少しばかり面倒なものとなった。法律が変わる移行期だからだ。

また、社会評論になってしまったが、元来こういうのは好きなのかもしれない。どこか硬派気取りである。いかん。いかん。

僕は、前の仕事は、見切り発車だったと自分では思うから、やめたのも、見通しがつかないまましんどくなってやめてしまった。だから、今度は慎重に行きたいというのが出てきた。というか、以前ほど無理が利かなくなったのは自分でもわかる。どこか、体が、焦るとしんどくなるようになったのだ。だから、今の社会向きではない。
それで、よく考えたら、ある人に、メールを送りながら、今までの事を振り返れた。年金を取った。その頃は精神的にしんどかったけど、やった。詩集も出した。いろんな人のお世話になった。買ってくれる人、読んでくれる人がいた。それから、ジムも、有酸素運動がいいと本で調べたのと、彼女がチラシを見なかったら思いつかなかった。はじめは、一日うちで悶々とすごすよりはいいと思ってはじめた。そして、デイ。それから、仕事という風に思っている。なんか今日はこの辺で終わり。明日と言っても今日か手続きに行こうと思う。
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Jan 18, 2006

体は正直

頭がなぜか、夜になって、もやもやしだした。
それまでは調子よかったのだが、いろんなことが、気になってとまらない。明日にはおさまってくれるとよいが。
こんなときは、どうすればいいのだろうか?知り合いの女の子にメールだしたら、ぼちぼちやっているようだ。忙しいらしいけど。今日は、デイケアに話しに行った。「石川さん、こないのかと思ってました」と言っていた。なかなか返事するのに時間がかかるのだ。行って、不安な事とかを話した。快く受け入れてくださった。いい感じである。前のデイケアに通えなくなった事が気がかりだったので、それを話す。つまり、そのときは状態が悪かったのに、週五日も通っていたのだ。病気が軽いとも、そこの先生に言われた。僕も生意気だし、過敏だったので、たくさん言い返した。だんだん不信はつのっていった。あきらかに、悪循環だった。怖い人がいて、からまれたりした。それでも、僕は、そのデイケアの雑多な感じが好きだった。病気の友達とかも出来た。しかし、人数が多かった。刺激的すぎた。へとへとになった。そうして、今の先生を見つけて今に至っていることを話した。
今度のデイケアには攻撃的なタイプの人はいないといってくれた。それから、少しの摩擦は、当然人間だから、あるかもしれないけど、それをどう自分の気持ちを、伝えるか、ある意味、練習になるといってくれた。それから、今の安定した、そして、一歩踏み出そうとする石川さんの気持ちを受け止めます。いい感じで参加していけたらいいですね、納得のいかないことがあれば、何でも言ってくださいといってくれた。

悪いことは何もなく、明日の診察で、主治医に伝えることで話は終わった。その後プールに行った。そして、ご飯を食べているときから、ある人からメールが来ていないことを気に病みだした。たぶん、デイケアといういい変化でも、どっか気を張っているので、疲れたのだろう。デイの人も、一日参加して、どれくらい疲れが残るかで参加日数を決めますといっていたのは、こういうことなんだろう。対人関係に、すごく変化を受けやすくなっている。体は正直だから、それが出る。それでも、今日一本、詩を投稿することができた。どっかで、もやもやがないと詩は書けないのかもしれない。ブログを書き出してから、投稿回数が減った。詩にいろんなことを詰め込んでいたのだと思った。デイは近いので、それがいい。
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せこい子供たちと本当に悪い子と

震災の日だった。ニュースばかり見てしまう。いかんなあ。でかい事件ばっかりだったなあというのが、今日の印象。
ただし、その中にあるのは、ある種の「せこさ」だな。皆悪い事ばれた子どもみたいになっている。ライブドアの人は、いい友達がいないのかなあと思った。でも、今の社会は、勝つのはすばらしいという論理で動いているので、あそこまで、露骨なことしてなくても、ああいう人はたくさんいるのかもと思った。だから、ばれて損というのはあるかな。というか、僕は株を買う金がないので、あまり、事情が飲み込めないのだが。。耐震偽造の人も、(「耐震偽造」が一発変換で出たが)単に、ばれてしまった人たちではないのだろうか?国は、全国の建物についても、調査をしないのかなあ。でも、金を出し渋るだろうと思う。それ以前にたくさん議員さんが関わっていそうだから、そんなことしたら、国会は滅亡してしまうのかもしれない。別に、そうなったほうが、すっきりするかもしれないが、色々と不便は覚悟しなければいけないだろう。
宮崎勤は、とうとう死刑になった。殺すのはどうかなあ。こういうこというと、袋叩きに合いそうでこわいのである。内なる狂気がゆさぶられる感じになって、怖いのだ。感じすぎかもしれない。自分に宮崎のような嗜好はない。殺すという事は、ひどいことである。でも、そこで、割り切った結論が出ると、何だかいたたまれないのである。同情はしていない。子供たちがかわいそうだ。色んな気持ちになってしまう。加害と被害の気持ちの波が、ググッと、伝わってきて、混乱する。排除とか暴力におびえてしまう。宮崎も、世間も恐ろしい。死刑は怖いものだ。人知を超えた事が、ある権力の決定で進んでいく。多くが無言でうなずく。宮崎が悪いとしても、それが怖いのだ。もっと、単純に、事件とその推移、波及全体が恐ろしい。真似する人も出てくる。僕は何も言わないでいたほうがいいのかもしれない。でも、何か刺激されてしまうのである。もっとタフになれたらという気持ちとこのままでいいという気持ちがせめぎあう。一人の人が死んでいくのである。今のところ、更生か、死刑かしか選択しはないんだろうし、そういう道しかないのも、なんだかなあと思う。人が死んでいくというのには、一種の違和感を生理的に感じる。ただ、宮崎の行動と勘を、よく研究しないと、あの手の犯罪は減らないだろう。遺族の気持ちを考えればという意見もある。そうだと思う。自分も身内を殺されたら、どんな気持ちになるかわからん。けど、死刑の時点で、全てを終わらせてはいけないと思う。というか、日本の人権思想は、腰が強くない、世間が一番えらいのだから、その線にそって進めばコストも、時間もかからないで、選べる手段は、これしかないという形で進んでいるような気がする。
その中で相撲はいい感じだ。直木賞とった東野圭吾はなんか「かってよかった」と言って、かっこよかった。芥川賞の人は、「会社いってる人が、明日も会社いきたいなあという小説を書きたい」といっていたのだった。ある意味立派だが、文学はそれでいいのかなあと思った。ここにも腰が軽い人がいるなと思った。そんなイイ子してていいのかな。僕は間違っても、芥川賞とは縁がなさそうだから、そういっておこう。うひ。

とニュースばかり、述べてきたが、友達の女の子が大変そうで、メールを出した。返事は帰ってきて、安心した。昼は、正月ぶりに、父親とご飯を食べた。それで、デイケアの話をしたのだが、明日、デイケアに行って、昔行ってたデイケアが辛かった話をしておこうと思う。今考えれば、自分もいたらないところがあった。それは、自分が被害者だと思い込みやすいところから、くるだろう。僕もどこかで、せこい子どもになってしまうときがある。病気のせいにばかりできない。

それから、ある人の詩評を書くので、その人の作品を、たくさん読んだ。まとめて読むと色んな発見がある。ネットで知り合った人なのだが、どう書いていこうか考える。
それと、トニオ・クレーゲルを読み終える。いろんな意味で、時代の風雪に耐えた作品は、不思議な、奇妙な面白さがある。トニオはある意味イカシタ奴だと思った。
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Jan 16, 2006

西遊記、顔

前の彼女から、年賀の羊羹が届いた。それで、前の彼女は結婚したので、結婚式の写真が載っていた。前みたいに動揺しなくて、普通に見れる。

ドラマ「西遊記」を見ているのだが、ぼくは深津絵里のファンだからだ。昔の夏目雅子、堺正章、岸辺シロー、西田敏行がやってた「西遊記」みたいに、空が大きくて、みんな個性が強くて、夏目雅子はありがたく美しくというのとは、だいぶちがう。今のは、正直セットも含めておもちゃみたい。昔みたいにリアルではない。そして、全員がお人よしで、だまされやすく、鈍くさい。でも、そこがいい味出していて、21世紀日本の「西遊記」だ。ふかっちゃんも、ぼけていてかわいい。全員ぼけていて、そこが安心できる。昔のシリーズの印象からして、全然物足りないという人もいるかもしれないけど、あえてチープに作って、派手な映像や、セット、衣装にしていないんだと思う。そういう作り手の、どこか強い思想を、感じさせる。リアルにやっても、とうてい個性派ぞろいの、前のシリーズに勝ち目はない。というか、あえて、弱くすることで、前のシリーズにはない「弱い前向きさ」があるのだと思う。

ぼくは、今、病気というカテゴリーにくくられる事で、ある種の責任から免除されている。年金ももらっている。しかし、そこにも、苦しさはあって、責任、つまり、他者と向かい合い自分の行動に責任を取る、その責任感からくる顔の彫の深さを、手に入れられない。ぼくの顔は仕事をしてたときより、ふやけている。彼女も、外に出て帰ってくると、他の人との違いがわかるといっていた。さっきも、顔の話をしたけど、かっこよくないのである。そして、かっこよくないことは、やはり、生きる上で、とても辛い。顔の美しさを言っているのではない。人と人とのあいだに生きていることで、出てくる張りや緊張感のことだ。そういうのが今はない。病気はよくなってきたので、元気のない顔というわけではない。やはり、少しずつ人前にさらされていくことにしよう。それは、けして楽な道ではないけど。
今日は本を買った。書名だけ挙げておく。内田樹「街場のアメリカ論」、梅原猛「親鸞の告白」、上田紀行「生きる意味」、小浜逸男「人はなぜ働かなくてはならないのか」
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Jan 15, 2006

仏、自殺

昼は寝ていた。散歩に行ってきた。四天王寺界隈。行く前はグズッていたけど、彼女に誘われて行ったらすっきりした。
ほとんどの建物は4時頃閉まる。彼女は庭園を見に行きたがってたけど、閉まってた。空は、昼の天気から曇り始めて、少し寒かったけど、それが心地よかった。じっとしてると、モヤモヤしてくるので、散歩はいい。
仏教関係の本が並ぶ四天王寺書林というのがあって、なかなかいい。途中たこ焼きを食べる。爪楊枝にて。おいしい。
ダライラマ梅原猛の本を見る。
いい気分転換になった。

昨日の晩はジェネジャンという、命をめぐる討論番組があった。自殺がテーマで、自殺をネットで呼びかける人が出てて、その人が、樹海にタクシーで行って運転手に警察呼ばれたり、一緒に、死のうとしている人が死ぬ間際泣き出して、生きてりゃいい事あるんだとか、慰める羽目になったりして、面白かった。他の人に、カウンセラーに向いている、といわれても、死にたいからと断固固持していたのが、よかった。腰が軽くない。「死んだら親は泣くとかいうけど、親や泣く人のために、いきているわけじゃない」と彼は言っていて、優れていると思った。なかなか言えないし、そこからなぜ生きるのかという問いが始まると思う。

最後はしらけた。末期がんのライターのルポが流れていた。闘病記も出していて、本屋で見たことがある。そこで、がんの人は小説を出して亡くなるのだが、皆が泣いて、今まで「死ぬ」といっていた人が、○○さんのために生きる」とか言うのだ。
僕は、なんでこんなに急に変われるのだろうと思った。「忘れるな」とか怒っている人もいた。でも、死にたいといいながら生きているのだから、そういう立場から、急に厳粛ムードになるのではなく、喋ってほしかった。でも、正直、人の生き死には、討論になじむのかな。ちょっと空々しくなる。
Tさんからメールいただいた。ホームページにお邪魔したからだ。うれしかったなあ。
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Jan 14, 2006

NIKKI

日本橋に行く。友達と。インストアライブ。琴弾いて歌う人がでてきはる。30分ほど。日本橋は久しぶりだ。雨が降っていた。
くるりのNIKKIを買う。それからミスドに入る。何年か前もミスドで会ったなと話す。
くるりのNIKKIは、僕が日記の書き方を考えているとき、少し、なんか吹っ切れた。詩が軽い、軽さがいい。きちんと音楽している。
うねるような感じがなくなって、それが退院した人みたいな顔をしてる。写真バチバチってなると白い顔が浮かぶ。彫が深くなり、何かが薄まっている。
今日彼女が悩みを言ってくれて、よかった。いってくれなくなったら、終わりだ。僕は自分にこだわりすぎて、相手の変化が、関係が見えなくなっていた。誰かに出したメールで、怒られないかという心配は吹っ飛んだ。他者がいるのは大事だと思う。
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Jan 12, 2006

自分と他人

今日はカウンセリングに行ってきた。東大阪の小さなクリニックで、週一回開いている。今年初めてだった。
カウンセリングの話をする前に、今日テレビで、千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督を見た。とんねるずのやっている「食わず嫌い王」だった。とんねるずは嫌いだが、バレンタインは素敵なので見た。
うにのお寿司や、すき焼きなどが出たが、嫌いなのはお好み焼きだった。僕は好きなので、少しさみしかった。彼は、日本語は片言なのだが、合いの手を入れたりする間合いが、言葉はわからないはずなのに、いい感じだった。波をつかむのがとても自然なのだ。
それに、お好み焼きが嫌いそうには見えない見事な食べっぷりで、相手をだましていた。名プレイヤーだと思った。

カウンセリングは、もう三年以上になるのだが、どうしても時々こんなことしてて、いいのかなと思う時がありながら、やってきた。
時々さめてしまうのだ。カウンセリングは河合隼雄によれば、「深くて親しくない関係」なのだそうだが、そうじゃなくて、もっと違う場所で、親しい関係を作り、そこで相談すれば、というか関西風にいうと、ツッコミを入れてくれれば、いいんじゃないかと思ってしまうのだ。でも、先生はそういう話も聞いてくれる。その辺りの間口の広さがまだ通わせているのかもしれない。
そこで問い返される。僕は先生の感想だと、他人の反応を気にしながらコミュニケーションをとる人なのではないかと。僕は、他人の反応を気にするのは、当たり前だと答えたけど、僕の他人の反応に頼ったコミュニケーションのとり方を見抜かれたような気がした。
自分の意思は、実は頑としてある。ストーリーもある。そこに自分の中で、たくさんツッコミを入れながら、生きている。そこで、自分の思いが、まるまる受け入れられたいために、相手の反応を気にしているのだ。そこで、どう受け入れられるかという方法ではなく、気持ちが先走ってしまう自分がいる。
どうも、そんなところがあるみたいなのだ。先生にも言ったけど、これは、弱点にもいい点にもなる。一歩間違うと我がままに見えるし、逆に他人本位に見える。しかし、その対立の底に、自分の意思があって、深いところで、好き嫌いとか、この人と合うか合わないかを見抜いている。それは、直感みたいなものだろう。直感は他人と自分の接点だ。ここをよくみとかないと、極端に相手に頼った表現になったり、頑なに見られたりしてしまう。今年は、そういう頑なさが、どう社会の中で発揮されて、失敗もし、そこから何を学ぶかになると思う。

思えば、怒りの二年間、不安の一年間を超えて、やっとゼロ地点に立てた。そこはまっさらではない。これまでの経験の総和だ。しかし、そこからでも学べる。正直、病気になる前も、なってからも、社会でやっていく自信はないし、今の社会が自分にとって、ベストの形で立ち現れている、なんて、思った事ない。介護の現場で、障害者の人と少しは仲良くなれた気がするけれど、まだ、それは確信ではない。自信がないくらいがちょうど良いかと思うが。自分は、どっちかといえば、排除された側だという意識が、どこかで、僕の中にある。社会は肝心なとき、助けてくれないという感覚も、まだある。しかし、その前に、頑としてある社会で、どう自分の身を成長させていくか、身銭を切れるかということなのだと思う。社会の辛さは、つい自分だけのものと思うし、その感覚はある程度正しい。でも、そこで、社会なんてと投げやりになってばかりではいけないと思う。音を上げそうな時に、どういうタイミングで、助けを求めるか、甘えられるかだと思う。ひがまずに。そういうとき縁がある人が必ずやってくると思う。

もう一度いうが、まっさらなスタートではない。自分の頑なさみたいのは、どこかで間の悪さみたいな形で、出ると思う。あまりに頼ろうとしてかなえられず、すねたり、その逆に、自分でがんばりすぎて途方にくれてしまうこともあるかもしれない。その危ういライン上を、直感で、渡っていくしかない。もう他人はたくさん羨んできた。となりの芝生は青く見えるものだ。そういうのは、もういい。(といいながら、またやってしまうかもしれないけど)

ここまで、読んできてくれた方には、ありがとうをいいたい。なんだつまらん苦悩じゃないかともしかすると思う方もいるかもしれない。いささか書いていて自信ない。当たり前のことをつらねているだけかもしれない。

でもここまで来るまでに大分かかったし、本当の勝負はこれからだ。自分の根元はかわらない。しかし自分は自分でしかない。それで、勝負していかねば。

今日、実は加藤典洋の「戦後後論」(「敗戦後論」ちくま文庫2005)を読んでいて、カウンセリングに行く途中に電車を乗り過ごしてしまった。太宰に触れた以下の文章が眼にとまった。



(引用)

つまり、彼は文学を信じるのでも自分の思想を信じるのでもない。彼は逆に他者の思想のほうを信じる。それをそのまま、真に受けて、生きるすると彼に、これでは自分は生きていけない、死ぬしかない、というその不可能の形が見えてくる。彼は自分がいかに醜い存在であるかを記し、死のうとする、すると、その記したことがきがかりになり、もう少し書かなくては、と思う。彼は書く。しかし足りない。彼は書く。これでは死んでも死にきれない。彼はこれを最後とさらに書くが、こうして愚直に最後までこの道をたどると、そのどこまでも、他者の思想を信じ、しかしそれでは生きていけない、と感じることが、彼の前に嘆きの壁を作り、今度は歩いていく彼をゴムマリのように、逆に生のほうに、ころころと転がすのである。
わたしの理解をいえば、太宰にとって、文学は、やはりどのような限定の中にあっても失われることのない、そういう無限を意味している。

僕はここまで、文学を徹底しているか自身疑問だけど、思春期からこういう葛藤、そして「ゴムマリ」は経験したように思う。 僕にとって「ゴムマリ」は異物であった。それくらい自分が生きることが壊れていたのかもしれない。そして、ここまで来た。ワンサイクルだ。
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Jan 10, 2006

ふう

やっぱりジム行って泳ぐとすっきりするなあ。
やばい。体重が増えていた。今年初。胃がもたれて、体重も増えたし、頭ももやもやするので、ジムはちょうどいい。例によっておじさん、おばさんばっかりだけど。

旭屋、喜久屋などまわる。本を買う。現代詩フォーラムで読書会があるので、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」を買ってきた。ぱらぱら読む。出だしから主人公がプライドが高くてうじうじしてるのがいい。だって、友達を「健康的」だから好きになって、自分のコンプレックスはさらけだせない。これがロマンの内面か。

他文庫になった加藤典洋「敗戦後論」、河合隼雄・鷲田清一の「臨床とことば」を買う。敗戦後論は、昔はまった。今読んだらどうなんだろう。河合・鷲田のほうは買おうと思って買わなかったやつ。
二日前僧侶で詩人の友達とあった。楽しいといって、よく食べていた。誕生日プレゼントをくれた。ぼくは、胃がもたれていて、あまり食べなかった。
今日、京都に居る介護やっている友達と会う。大学のときの友人で、こないだ飲みに行った人と一緒だ。現場トークとかついていけるかな。無理してついていかなくていいや。聞いて近況をつたえられればいい。介護やめたいきさつとか話せればいいけど。
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Jan 08, 2006

谷口ジロー

谷口ジローの「晴れゆく空」が、今年最初に読んだ。マンガです。 過労の中年男性が若者と交通事故を起こして、若者の体内に二人の魂が同居する話。
僕は魂ってあるのかどうかわからないし、むずかしいけど、在る無しじゃなく、魂も世界を感じる位置の比喩なんだと思う。
どういうことかというと、空を見たときに、スーッと感じる空気見たいのがあって、誰かも同じ空を、同じように感じていると思うときがあるからだ
でも、魂の体験が濁ってくるというのはあると思う。昔みたいに星を感じられなくなったとか、なんか脳の状態というか元気に関わってくると思う。病気になってから、そういうのが少なくなったので、処理できない情報がいっぱい加わるとそうなると思う。
この話に仕事の過労で、自殺を考え始めた人が出てくるのは、そういう意味で象徴的だと思う。その人が魂になって「やりたいことがまだある」と思う。愛を思う。なんか追い詰められた人が世界を感じ取れなくなって、死んで魂になって、愛を確かめに行くのだ。
非科学的でもファンタジーでもなく、すごく現実の香りがする。犬が感ずくというのは非常にわかるし、谷口ジローは犬のもってき方がうまい。というかたぶん犬好き。
Posted at 17:15 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jan 07, 2006

流れ

500まで来た。自分でキリ番を踏んでしまった!

ここ何日か風呂入っていない。何かいろんなことが面倒だ。昨日は、ミッドナイトプレスに投稿した。

今日はテレビつけっぱなし。以前はこういうとき、テレビすら見なかったので進歩だ。

朝は、11時まで寝てしまったりしている。なんとかペースを立て直さねば。というか正月ムードから脱却するというか、ムードにすら入れてなかったので。そういいながらだらだらしている。

三連休でジムにいけないから、体がなまっている。

そうだ。デイケアについて、考えたりしていたが、怠け者だから、いけるのかな、というか緊張が強い。でもいってみないとわからない。他にも調べてみたが、体験に行ったところが、一番よさそう

距離が近いのがイイ。僕は、しばらく人との交流が彼女だけなので、そこんところで、他人の中に入れるか、というか居られるかがポイントだ。

どんな施設でも場所でも、限界はある。それを見切るのは簡単だが、ゆっくりと入りながら、見てみるという作業が肝心だろう。前は無理しても通ってたので辛かった。自分の限界もわかっていたほうがいい。冷静なうちにすぐ相談できればいい。

というか、自分のよりよい形に持っていければ、デイケアは本来過渡的な施設なのだから、というか、僕の中では、そこが最終目標ではないので、落ち着ければ一番いい。人の中に居てペースが作れれば、それがいい。

診察はもう少し先だが、一回先生に相談するのもいいだろう。半年前には考えられなかった事だ。休み明けにでも先生に体験の報告にでもいってみようかな。そこから、デイケアに電話して(診察の病院とデイケアのある病院はちがうので)、話を決めていこう。全ては流れだ。流れ。
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Jan 06, 2006

生まれたことを

生まれたことを
ふだんから考えているかわからないで

生まれたことにささる月影がきれいで
わたしはここにいました

犬が吠えていて
寒くて
でも
少しずつ
結晶になる世界
お母さんの顔

もうあまり
迷わなくなってきて
少しずつ
通いあうこと
通いあえないこと
あって
字がふるえて

大丈夫かもしれない
わたしは
少しずつ
何だか生きているようで

今日は誕生日だから
少し素直になろう

まずい詩も書いた今日
はじめての人にあった今日
大雪がふったらしい今日

困っている人に
愛を送れれば
でも
そこまで
まだ
行けない
から
から
わたしは祈ろう

なんとなく
大切に
つながって
切れて
みんなに
祈ろう

素敵な人を
祈ろう
Posted at 23:58 in poem | WriteBacks (0) | Edit

誕生日

とうとう32歳になった。一応記念に詩を書きました。現代詩フォーラムに載せてます。
今日は、デイケアに体験通所した。緊張した。五人と少なかった。だから静かだった。怖そうな人はいなかった。けっこう、職員の人も、親切だった。昔は介護やってたので、不思議な感じである。といっても、四年前だが。二年前は、大きなデイケアに行って、休まらなかった。依存症から立ち直ったすごいおっちゃんとかいたが、そして、すごく優しい人もいたのだが、先生と喧嘩したりした。そのときの先生は、僕の症状を軽いといっていた。ずーっと精神病院で、働いてえらいさんになった人で、そういう人から見たら一見病気っぽくみえなかったのだろう。こういう逆差別がある。診察時間は短かった。
今日の体験は短くて正直わからないとこは、たくさんあったけど、悪い感じではない。いきなり入っていって、おしゃべりしまくるのは、不気味だからやらないが、というかできないが、いい子になってしまう。
誕生日は彼女がケーキを買ってきてくれたが、僕がごちゃごちゃやっていて、食べるのが遅くなってしまった。でも、何か不思議な誕生日だった。デイケアに行って、生まれ変われるわけではないが、ちょっとあたらしい始まりのような気がして。
それにしても、全然整理できてない。現代詩フォーラムでは読書会をやるし、ある人の批評を頼まれた。うれしかった。でも、要領悪いです。でもがんばります。
彼女とカルタをやって、景品をもらった。それは内緒。。 それから、新潟から帰ってきた友達からメールがきて、やっぱり雪多いなあと説得力のある感慨だった。
Posted at 23:42 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jan 05, 2006

質問に答えること

現代詩フォーラムという僕も所属しているサイトで、活躍中の一日ミチルさんが、こんな質問をバトンしてくれたので答えてみる事にする

1.回してくれた方に対しての印象をドゾ☆

切ない詩を書く人です。話してみると楽しいというより、こちらが落ち着くと思う。もっともっと成熟してゆく予感がします。人としても

2.回りから見た自分はどんな子だと思われていますか?5つ述べて下さい。

がんこ、しんどい人、かわいい人、優柔不断な人、なにかんがえてるかわからん人

3.自分の好きな人間性について5つ述べて下さい。

謙虚、素直、素朴、かわいい、芯が強い

4.では反対に嫌いなタイプは?

傲慢、人の云う事を聞かない、もしかしたら、自分に似ている人、嫌いな人はあってみないとわからない

5.自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?(聞き上手とか?

もう少し謙虚になりたい、偽善的じゃない人、びくびくしててもいいけどそれに引きずられたくない

6.自分のことを慕ってくれる人に何か叫んで下さい!

ぼちぼちと!(叫んでない、、)

7.そんな大好きな人にバトンタッチ15名!(印象付き

すんません。ご勘弁を。

というわけなのだが、質問に答えるのは難しいのであまり深く考えずザクッと答えてみた。
ミチルさん、こんな答えでいいのかな?

ええと、正月は実家に帰っていたんです。ただいま帰りました。友達とのんだり、近くのジャズ喫茶に行ってました。でも、もう離れてしばらく経つので、あんまりやることがありません。
ううう。飲み屋で友達と話していたら、急に意識が遠くなって、貧血みたいになりました。酒は少し速いペースで飲んでいたけど、飲みすぎのしんどくなり方と違いました。昔よく倒れていて、急に周りの音が遠くなって、体が白くなって、少し気分が悪くなって、おなかが痛くなって、立ったり座ったりいられなくなるのです。耳がキーンとなります。目の前もぼやけてきてひどいときは、真っ暗になり倒れます。

なんか病気の話ばっかりだな。。
最近はならなかったのだけど、久しぶりになりました。原因はわかりません。その時だけで、後は頭痛がしたくらいで、バファリン飲んだら直りました。一回脳波しらべてもらおうかな。とにかく、そのときの友達の対応が優しくて助かりました。大学時代の友達で久しぶりで緊張していたのですが、何か自分の弱いところを出せなくて、でも倒れて、皆に優しくされて、というか弱さを見せられて、さらに打ち解けた感じになりました。
ある場合には弱さというのは、人をつなぐものかもしれないと思いました。
それと、仕事できないので、仕事をしている事に対する焦りがあったのかもしれません。それが、友達の、「きちんと直ってからのほうがいい」という言葉に助けられました。自分がベストを尽くして戦うのがいいと思いました。怠けているのではなく、後退戦からの反撃なのだと思いました。友達に感謝です。十年働くとその人の風格のようなものが見えてきだすなあと思いました。

正月は「古畑任三郎」を見ました。イチローの回でしたが、イチローのイメージとの戦いに三谷幸喜は負けてるなあと思いました。イチローがイチローを演ずるのはやはり難しい。原案通り「ハチロー」とか、そうじゃなくてもいいなと思いました。いつもの軽い皮肉が機能していませんでした。

親はやさしかったです。ふつうでした。というより、あまり僕に遠慮したりしなくなったような気がします。普通に距離のある感じです。病気になったときは、父との関係、母の疲労が大きくなっていたのが普通のバランスに戻った感じです。たぶん、僕が落ち着いたのがいちばん大きいからそう見えるのかもしれません。
明日は誕生日なので赤飯を炊いてくれたので、彼女の家に持って帰りました。30越すと誕生日はあまり嬉しくないですが、というか微妙だなと思いました。
三好春樹さんの「介護の専門性とは何か」を読んでいます。「深いぼけ」という言葉が面白いです。仕事の事を考え始めました。といってもいますぐ仕事に就くわけではないのですが。というか、もう少し自己治癒したら、具体的に現場が恋しくなるかなと思いました。
Posted at 16:21 in nikki | WriteBacks (2) | Edit

Jan 01, 2006

めでたいかな

あけましておめでとうございます。
夜は朝生をみてしまいました。
みんな暗いニュースばかりだとか、崩壊とか清算とか言ってた。
それは評論家的には「わかりやすくいえば」そうで、確かに、脱線事故や子どもの殺人や、自民党の圧勝や耐震偽造や、なんか「壊す」話ばっかりだった気もする。僕も別に危機感がないわけではないが、テレビの世界だけで、物事を語るのは、やめたい気がする。
僕が生まれたのは74年で、隠微に物事がどんどん変わっていって、それに何ら発言とか出来ない構造は変わっていなくて、そういう時代を生きてきて、今更何が壊れたのだろう。
生きていれば社会も人も変わっていく。そして、今のような社会の基礎部分での故障は、今までも、そしてこれからも人に、ダメージを与え続けるだろう。その中で、評論しているよりも、生き方自体が批評的になればいいと思う。複雑なもの、両義的なもの、二項対立でははっきりしないものを取り込んでいるし、そこから口ごもりながら生きていくのだろう。
年賀状はあまり来なかった。ここ三年のツケだ。でも旧友から電話があったり、結婚してよかったねといったこともあった。旅先から美しい湖のメールをくれた人がいた。新しい集まりのお誘いもあった。こういうつながりを大事にしながら、謙虚にリハビリに励んでいけば、きっといいつながりができるだろう。そう「つながり」なのだ。ニュースについて書きながら、思った。
初詣は四天王寺に行きました。彼女に「フォー」とか言い続けたら引かれてしまった。確かに夜中に「ふぉー」は変だなあ。
これから実家に帰ります。
Posted at 14:10 in nikki | WriteBacks (2) | Edit
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