Oct 24, 2008

落ちてく

昨日500円の秋刀魚の塩焼き定食、食べた。そこは夜は近所の酔客におばさんふたりがビール出したりする店だろうと思う。昼はメインに小鉢三品とみそ汁とご飯の定食500円で出す。今日はメインをコロッケかだしまきか秋刀魚から選ぶのだった。

テーブルが二つしかなく8人でいっぱい。オール相席。

近所の中小企業の社員とか学生とか。

株価は盛大に今日も下がってる。一時600円安を記録。

そんなの考えてもしかたねえ。しかたねえことはないが、事実上誰もなんとかしようがない。

帰りの電車で横山秀夫『半落ち』を読む。流行ってたときは読んでなくて。けど面白い。

もっと早く読んどきゃよかったー

落ち切るのは難しいよ。落ちたり昇ったりするよりも、それに惑わされぬ横の動きを。
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Oct 20, 2008

上田現”ラルゴ”

素敵過ぎて苦しい。けれど何も問題はない。

なんのことかというと友達がここのところレピッシュの亡くなった上田現のことを書いている。で聴いてみた。
バンドブームのとき、リンジンとかパヤパヤとか素敵な曲だと感じていた。
しかしユニコーンに当時かなり惹かれていた。
それからずいぶん時間がたった。

亡くなってから聴くなんて俺は無責任なリスナーな気もする。
けど聴いてすごかったのだから、ほんとにもう。
唯一無二。色気があって少し乾いてる。で、なんか懐かしい。ほんとに驚いた。

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Oct 13, 2008

何かいいことないかな

河島英五"何かいいことないかな1991"



   河島英五の歌を演歌っぽく感じる人も多いかもしれないのだが、じつはこういう歌もあるよ。
 これも青春の青臭い歌みたいに聞こうと思えば聞ける。が、この歌から青春だどうだということ以上の健気なもの、可憐なもの、素敵なもの、数え切れないくらい降り注ぐ星のようなエネルギーを受け取るのです。まあ、それはファンだからなんだけど。
 途中「なんかええことあらへんか」「なんもええことあらへんで」のところで、やはりみんなイライラしていて…と歌うけれど、ここですごくリアルな感じがするのです。

 河島英五のうたは、草とか雲とか土に囲まれて、そこからどんどん天井破りに、また、地平線めがけて、土の中深くへ、どんどん自分が広がっていく感じがします。ただ広いのではなく、どうしようもなく「今ここ」で生きているという充実と寂しさも満ちていくようです。

 自分の住み慣れた土地でも、そうでなく知らない場所でも苦しいが、様々な人が生きている。その当たり前のことを思い出す。赤ん坊として生れ落ちることが、異なる宇宙とか自分の知らない世界に来てしまうことなら、「何かいいことないかな」とソワソワ、不安になりながら、でもそこに愉快なものを感じていたい。
 この世界は恐いところ、見慣れないところ、それがいつからか気づいたら、自分の居場所になる。そのことの恐さと面白さ。

しかし、英五若いぜ。僕が唯一生で聴いた英五の歌はこの歌だったなあ。
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Sep 23, 2008

いつもの道・ちがう道―スカイクロラを見たよ

 久々に更新です。ご無沙汰しています。

 昨日スカイクロラを観る。梅田ブルク7にて。



 (以下ネタバレ部分があるので注意)

 自分にひきつけてしか感想がいえない性質なのだと断っておく。その上で言うと自分に引きつけると自分の弱点や至らないところをいろいろ感じずにはおれなかった。

 劇中、こんなような台詞があった。

 「ふだん見える道が今日は変わってみえる。それで、いけないのだろうか」

 そういうふうに、函南くんは自問するのだった。

 この映画に出てくるパイロットたちは、何か根本的に自分の人生というと臭いけど、そういうものを変えたいと願っている。けれど、どうしたら、どうなったら、自分が変われるのかわからなくて、息を詰まらせている。俺にはそういうふうに思えた。

 たとえば函南くんの台詞は、それを象徴していると思う。少しずつ何かがちがってみえる、そういうふうに小さく毎日のちがいを感じるということが「生」であって何がいけないのか。
 でも、函南くんは、子どものまま不死であるという設定がなくても、例えば俺のように有限で、どんどんおっさんになっていても、そう問うことはできる。

   どうしてかって?俺がそうだから。毎日少しずつ違いを積み重ね、俺は例えば5年前とはかなり別人だ。しかし、なんだか奥底ではどうしようもなくずーっとアホみたいに変わらない同じ俺なのだ。(自己同一性?)

 先日悪夢をみた。しかし、考えてみるとあれは悪夢ではない。実際ああやって自尊心をなぐさめる程度には自分を慰安する部分があるのだ。そうやって自意識を守っている。だから都合の悪いことはイヤなのだ。  不死(自殺・あるいは他殺でしか死ねない。自然死?はありえない)であり、子どもであることをかえられない彼らは、命がけで自分を問いながら、根底的には何となくそれに違和をもったまま、自爆的な戦闘で死んでいく。

 見事に散ったら美しいということもない。それぐらいは醒めている。

 俺は、そういう命がけもないから、なーんもえらそうにいえないし、命がけにやるってなんだよとも思っている。そういう半端なひとだ。だからうまくはいえんけど、函南くんが草薙さんにいったみたいに「生きろ。なにかが変わったとは思えるまで」というのはいい台詞だと思った。
けれど、草薙さんつまり愛する人に言うだけでなく、自分にもそういってあげられなかったかと思うのだ。

 いや、そんな自分も他人も救うなんて虫のいい方法をいう俺が甘いのかもしれない。さらにいうと、俺は他人をいかしめる何かを与えたなんてこともないし。また、自分を甘えさせる知恵はちゃっかりもっている。

 けれど、そういうことではあっても、俺は生き残る草薙さんも、そうではない函南くんも、なんか残念に思えてならない。

 だけど、いい映画です。

 きっとこれを作った人は、自分今のままでいいのか?なんも恐がったままで、人生楽しくないだろうっていいたいんだと思う。これだけなら、単なるおっさんの説教だけど、戦争での自爆的な戦いを思わせたり、戦争もまたある種の戯れだと提示する部分もあり、またどんどん寿命が伸びてきた私たちの鈍い慢性的な痛みを示唆したり。
 しかし、俺がジジイになったら、日本も食うものがなくなっていて、すぐ死んでいたりするのかもしれないなと思う。身も蓋もなく。

 だから、情けなくても、無常であっても、いつもの道がちがってみえるだけでなく、たまには違う道を歩ければ。
 だって、どんだけいい加減でも、ひとには誰でも常道がある。ついつい同じように何かをなぞりそのことが義務となる。そらそうだ、けっこうひとは真面目に自分を維持しようとするのだ。しかし、それが楽しいのか、息苦しいだけなのか、最近よく考える。

 他の道や道のないところを歩くと、楽しいかもしれない。けれど、ただだらしなく道を逸れていくのでは、今までの人生がバカみたいではないか。そういう意地も持っているから、自分が行っていない道のことを思うことが楽しいのだ。そして、ちがう道を行く時には、ずるずるいくのではなくきっぱり自分で決めたいのだ。
 自己決定という言葉は苦手だが、それでもそれは、俺に与えられた贅沢であり、責任でもあるのかなあと。



   受験勉強に身が入らず、他のことばかり考えているという現状をいっているだけのような気も…(御免)
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Aug 27, 2008

ふぬけ

スクーリングが終わってから、昨日今日と少し腑抜け。夜はぐーぐぐーぐーぐー。今日はどこかへ行こうかな?
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Aug 19, 2008

みしまゆきお えいれいのこえ よみました

 みしまゆきおのえいれいのこえをよみました
   きみのわるいはなしのうえ じきてきに ぼくはうよくとおもわれるのではないかと しんぱいしますが、おどろくべきさくひんでした

 たとえばにほんのなしょなりすとのせいじかは みしまのこのほんをよんだら どうおもうでしょうか たぶん どうもおもわないとおもう けれど それでいいのだ 
 あらすじ かわさきくんというめのみえないおとこのこがきむらせんせいとこうれいじゅつをおこなうのです でも すぴりちゅあるのひとのはなすこととちがって れいは しょうわてんのうへの うらみつらみばかり いいたてたりします。また、かわさきくんは あまりにすごいれいをよびだしたため しんでしまいます。
   ににろくじけんのしょうこうも とっこうたいのせいねんも ぼくたちはてんのうをあらひとがみとしてしんじたたかったのに てんのうはかみでもなんでもないといいきって あくまでこっかげんしゅとして そのときどきにげんじつてきなたいおうをしたことにおこっています。

   このほんが ふつうでいううよくとかなんとかというわくで はんだんできないのは てんのうをいちおうは しんじ たたかったひとたちと てんのうじしんのすれちがいをひょうげんしているからです
 てんのうを かみと あがめて たたかったとしても どうにもならなかったというげんじつがてーまです それに もちろんぼくもこたえなんかないし みしまも といをだしつづけるだけ 
 なんか こうれいじゅつのあいだ かぜがふき とんでもないへんなふんいきになっているのに みょうにさめていたり あつかったり みしまのふでじたいにのうたんがある 
 みしまじしんがかいているあいだじゅう かみさまなんて うさんくせい とか いや でもそういうきょうきやじょうねつじたいには いみがあるのかもと ゆれうごいていたからではないかとおもいました だから よむひとも ちょっと いごこちのわるい きぶんになるかもしれない

 きっと ぼくのぶんしょうをよむひとには しゅうきょうに あれるぎーのあるひともいるとおもう ぼくもかみさまとかなんとかは ちょっとどうなんだろうというぶぶんと でも ひとのなかにある こんとろーるできない しょうどうや よくぼうは それがなければ ひとがいきるいみがない とも おもうのでした    
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Aug 18, 2008

明日からスクーリング

一週間、某大学でスクーリング。僕は通信教育で社会福祉士養成課程に在籍しています。

もともと知的障害者の介護に従事した関係がありそれから心身を痛めたんです。

いつかは体系的に福祉を学びたいとは思っていました。けれど、心身ともに辛い仕事。また、今の社会、労働というものは苛酷です。

それにくわえて自分は心身も丈夫でなく流れにうまく乗れない頑なさがあります。だから福祉を志していると胸を張っていえませんし。介護に従事していたころもしんどいつらいばかり泣き言もいえず苦しんでいました。まず自分自身が充足した生き方をしなければ他人のお世話、援助などできないのではないかと。

けれども、一昨年くらい元気が出始めてリハビリがてら始めたんです。あたまが変になっていましたから頭の訓練にもなると。

そうしてレポートをひいひいいってやり、昨夏のスクーリングもやり今年の冬実習にも行きました。

なんとかなんやかんやありながら、ここまで来ました。

今日鍼灸の先生に出会ったら、先生に「がんばるってことも大事ですよ」といってくださり、はっとしました。

まあ、せっかくはじめたので最後までやりきって修了し受験資格を得たいと思います。

来年の頭には国家試験です。

明日からがんばります。ちょっと緊張です。
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Jul 18, 2008

33年後の岡真史、おれ34歳

さいきん岡真史の名をネット上で目にすることが何度かあった。彼は12歳で投身自殺したという少年で僕より一回りくらい上である。かれが亡くなったとき、僕は1歳であった。

   知り合い2人の日記で岡真史の名を見たのだ。それで妙に気になって、昨日本屋に岡真史「ぼくは12歳」を買いに行った。ところが、ブックファーストになく、ちかくのAという本屋へ。Aには検索機があるが、いくら書名や名前をいれても「該当するデータはありません」と出る。不可解である。
次にK書店へ。ここは蔵書数が多いからあるかなと思ったらない。店員に調べてもらっても在庫すらない。
けっこう今でも人気があるのか。時々こういうことがある。で、駅を越えて老舗の本屋に行く。さすがここはあった。すばらしい。

 帰って「ぼくは12歳」を読み始める。彼の書いた詩と学校の作文、それから親御さんの手記。読者からの手紙までついている。誰かが上手だけどやはり子どもの詩だといったが、子どもだろうが年寄りだろうが、あるタイミングがくればとんでもない作品を書くのが人間だと思っている。ただ、そのタイミングというか自分の中の高まりとどう向き合うかがとんでもなく難しい。

 夕方ただただ声に出して読む。黙読したりもする。ひとりでほうほういっている。

 夜、家の者が帰ってきて、一緒に岡真史の略歴を見ていたら、岡真史の亡くなった日があった。それがなんと1975年7月17日。33年前の明日。つまりこれを書いている時点で今日である。ちょっとビビッた。時々必死で梯子して本を探すのだが、怪談にしてはいけないけれど、なんかに突き動かされていたのかな。霊とかいうと、いろんな意味で不謹慎だからいわないけれど。

 時々見えてしまった人というのがいるけれど、岡真史の詩を読むと賢さよりも、その見えてしまった後の不思議な風が漂っているようにも感じる。如何に後世から未熟だとか言われても、その時その瞬間ある地点に立ち、そこを過ぎ去ってしまったこと自体は否定できない。

「道でバッタリ」という詩がある。バッタリ何かに出会ってしまったのである。そこで何かがはっきり「わかってしまった」のである。そのように感じる。いかにかわいかったり希望に満ちているような彼の文章を読んでも、見えてしまった後の妙な感じが感じられるのである。僕はアホだから岡真史に何が見えていたかわからないのだ。もしかしたらとてつもなく真っ暗だったのかもしれない。わかったようにいうのは止めたいけれど。

無題という詩がふたつある。

「無題」

にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべしてた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない
この世の中に
自由なんて
あるのだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに…

**********

さいきんモディリアーニをみたので あの描線の正確さは彼が彫刻家志望だったことから来ていると 先輩から聴いた。 その線の捉え方はまさに丁寧に削った感触である。 そこから僕はモディリアーニによくない印象を持ってしまった。 しかし僕の心が弱っていて そういうときにマッチしなかったので モディリアーニが悪い絵描きということにはならない。 問題は僕の心の疲れそのものなのである。 うまくいかないにも関わらず あらけずりにけずらないと 心の壊れは止まないのだ。 今の僕にとってすごく示唆的である。 でも彼亡くなっているよなあ…

「無題」

けりがついたら
どっかへ
さんぽしよう
またくずれるかも
しれないけど

**************

それにしても、けりとは何だろう?死とかそういうふうに解釈するのもなんとなくちがうし…

※7月17日岡真史の命日に書きました。
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Jul 15, 2008

ウディ・ガスリー

昨日病院の診察で、先生が仕事のペースダウンをしたほうがいいという。社会復帰訓練なので、たくさん働いていないけど病人だから仕方ない。良くも悪くも疲れやすい心である。しばらく掃除の仕事は休養することに。今つぶれたら元の木阿弥だから。

 昨日病院の帰り梅田でナカイ楽器のCD,レコード市をやってた。ウディ・ガスリーのアルバムが安く手に入った。昔FMで聴いて覚えてて、売っていたので感激。ボブ・ディランのさらにその元祖のフォーク。戦前の人。おそらくプロテストソングやけどいかめしくなく、静かな祈り。ヘロヘロの朝に、この歌いい。弱ってても聴ける。

Woody Guthrie...Talking Those Dust Bowl Blues
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Jul 14, 2008

本格的に

心身の調子が不調である。

なにを書いても情けないことになるので
それはキリがないので日記を更新しなかった。

身体の方は鍼灸院に週一で通うことにしている。
それで溜まった疲労や何かをとるのと同時に
これから本格的に体が変にならないように
予防しています。
身体の方は、コリや冷えは一時よりマシになっているので
このまま鍼灸院に通って調整していこう。

問題なのは「気持ちやこころ」のほう。

実際心と体はつながっているから
こころがめげてくると当然体の力も落ちてくるのです。

それと心が弱くなってくると
元気なときにはなんでもなかったような様々な刺激が酷くこたえるようになる。
神経がむき出しになって、あれにもこれにもイライラしてくる。
へんなことを言うし、きれやすくなる。
結果何が大事で何がどうでもいいことか、整理できなくなる。
あれもこれも辛くなって泣けてくると
落ち着きも平安も少なくなり
大変なさけない気持ちがしのびよってくる。
そういうわけで
ああ、弱ってきているなあと思うのです。

そうすると、たいへんうっとうしい人間ができあがってくるので
それで、ごちゃごちゃしてこないか大変気がかりです。

久しぶりに、そうなっているので
ちょっと不安です。
本格的にぶち壊れる前になんとかしたいです。



ここまで、ちょっとこわいことを書いてきました。
実際、自分は小さい頃からダメな気分や
被害者意識に陥ってきましたから
やっぱり元気なときと参ってきた時に見える世界はちがうなあとつくづく
感じています。

ひとつよいニュースは無事すべてのレポートが返ってきて
あとは、8月の一週間のスクーリングを終えれば
基本的に通信教育の勉強はおしまい。
すべての課目合格であれば、10月末で通信教育修了です。
あとは来年の国家試験です。

だから、やっぱり今ちょっと変になってきているのは心配。
一緒にいる人や僕の回りにいる人も大変で迷惑かけっぱなしです。

こんな弱い人間が、どうやって働いて生きていけるのか
今は公的なお金で暮らしていますが
それも心配ではあります。

以上愚痴でした。
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Jun 25, 2008

許せない時に-石原吉郎の言葉から感じたこと

冒頭にまず詩人石原吉郎の言葉を置く。

人間が蒙るあらゆる傷のうちで、人間によって背負わされた傷がもっとも深いという言葉を聞きます。私たちはどのような場合にも一方的な被害者であるはずがなく、被害者であると同時に加害者に転じうる危険に瞬間ごとにさらされています。そういう危険のなかでなおかつ人間の深い連帯の可能性(…)を見失わないためには、人間はそれぞれの条件的な、形式的な結びつきから一度は真剣に自分の孤独にたちかえって、それぞれの孤独のなかで自分自身を組み立て直すことが必要であると思います。深い孤独の認識のみが実は深い連帯をもたらすものだという逆説をお考えになってください。
(「肉親へあてた手紙-一九五九年十月」石原吉郎)

 最近川本隆史『共生から』(岩波書店)を読んでいて、この文章が目に留まった。

 僕が述べたいと思っていた事柄を石原はとてもシンプルに書いています。これはほぼ五十年前の文章なんだけれど、全く今でもいける。石原の文章を読んで今感じたことを書いていきます。
 例えば殺されるまでいかずとも、生きていて一度や二度、深く人に怒られ憎悪されバカにされ、それに深く傷ついた人は多いのではないかと思います。
 僕も同じで、昔、僕を深く傷つけた相手をひどく呪い、忘れられない思い出があります。

 しかし、人を恨み、あいつなんかいなかったら良かったと呪っていたら、生きるのがとても苦しかった。だからといって、その人を許しそうとしても、難しい。周りの言うとおり怒りを感じないようにしたら、気が変になりそうだった。
 だから、傷つけた相手を許すというのは、実際しにくい。石原の文章も、許すということは書いていません。なぜなら被害を感じるということ自体は人として変じゃないからです。

 けれども、呪ったり、呪うのをやめたりを繰り返す場所にい続けることは大変苦しい。そのことは僕の場合実感しました。けれど、急に世の中すばらしいとは当然なりません。
 石原は素晴らしくないこの世界で生きるにはどう考えたらいいか、何も答えは言いません。

 けれども、自分が苦しみ、呪い、相手の存在をどうにかふり払いたいと思うとき、かつて自分を傷つけた人の心に似た状態に自分もなっているのではないかと私は感じます。 自分が苦しいということから、いつのまにか誰かを苦しめたい・いじめたいという攻撃性が生まれてしまうことがあります。けれど、それを本当に実行したら、自分が苦しんだりよろこんだりしている大元の「生きる」が消えてしまう。僕は別に自殺のことをいっているわけではないんだけど、 「苦しい」を消したいということから、なぜか、苦しいといっている自分や赤の他人を傷つける方向に行くのには、何か途轍もないすり替えがある。そのすり替えは暴力だろうと思います。
個人的にその「すり替え」が僕はひっかかります。自分に対して。人に対して。それは、僕自身が八つ当たりすることもあるし、自罰的な気持ちが高じていつのまにか誰かのせいにしている・あるいは自分をいじめていることがありがちだからです。

 石原は「自分の孤独にたちかえって」といいます。僕の言葉では、「私は苦しい」という地点に留まって、何が苦しくて、その苦しみはどこからくるものか感じてみるということ。それは苦しい作業で全くきれいごとでなくて、そうしないと何も納得できないし腑に落ちない。僕はそういう感じの人です。もちろん、誰かに傷つけられて失ったものは元に戻らない。けれど、何かを取り返すという形でなくても自分が「こうだな」と感じられることがひとつでもあれば、そう感じられた時点で生きられる気もしています。

 石原の文章は、ベースに「善人であれ」という命令を置きません。俺だって「ろくでもない」人間になりうる。それくらい、人間は恐いものだという認識が元にあると思います。それは、他人も変わらない。だとしたら、嫌なことは多いはずで、でもしじゅう苦しいだけではないよな、なんでかなという地点からはじまっていると思います。

 けれど石原は晩年深くアルコールに蝕まれ、この文章から20年弱でその生涯を終えます。だから、この件に理想的な、あるいは完全な答えなんてないだろうなと感じるのですが。

   川本隆史は石原が学生にどう生きるべきか問われ「丁寧に生きよ」といったといいます。どこか丁寧に感じ考えて、とりあえず限界まで行けたらなとはよく思っています。けれども、実際は大雑把な感じでやっています。でも、苦しいときは一度きっちり自分のことを思い思いやると、そっから抜け出せることが多い気がしています。経験上。
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Jun 11, 2008

仏に拾われたのかな

というわけで、な、なんと!!
無事財布が昨日出てきました。

昨日は大阪環状線の「奈良方面加茂行き」に乗っていて失くしたので
JR奈良駅から連絡がありました。

名も名乗らず、届けてくれた方
どこの誰かは知らないけれど~♪
素晴らしい!ありがとう。
私の落ち度なのに。

心配してくださった方すいませんでした。

奈良は遠かった。
奈良だから仏の化身かな。
慈悲の心かな。いやちがうかな。そうかな。わからぬ。
でも、知らない人なのに影が感じられるような気はします。

こんな物騒な世の中でもいいことはあるという気も。

ほっとしてくたびれや、緊張がでてきました。。
ふにゃふにゃです。
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Jun 09, 2008

遺失物届け

 JR大阪駅で電車から降りて、20メートルくらい歩いたら、財布がポケットにないことに気づいた。急いで駅員さんに話した。何両目かとか聴かれて、駅のホームの端っこの連絡室に行った。若い駅職員の人が財布の特徴や何両目かを確認。環状線の色んな駅や、僕の乗っていたと思しき電車に連絡してくれる。見つからない。駅職員の若い人が警察に「遺失物届け」を出すようアドバイスしてくれる。大阪駅前の交番に行った。大体夜の7時くらい。その前に診察に行く途中だったので、病院にキャンセルの電話。病院の人も心配してくださる。交番に入ってしどろもどろに話していたら、若い警察官に「要するにどういうことですか」と問われはっとする。
 それから、警察官にキャッシュかクレジットカードの類は止めましたかと聞かれ、未だですと答えたら、銀行の電話番号を教えてくれた。電話したら、ぼそぼそ話すオジサンがでてきて、すぐに止める手続きをしてくれた。それから「遺失物届け」をつくる。僕が被害額をまちがったので、一回作り直した。届けが受理されるまで時間があったので、彼女に携帯で電話。警察は帰りの交通費は貸してもらえないそうなので、迎えに来てもらう算段をした。非常に情けなかった。病院の帰りに実家で飯食うことにしていたので、親父にも電話し、なんだか心配をかけてしまった。
 もしかしたら、すられたのかもしれないが、それだったら、恐らく出てこないし、落としても相当混雑した車内だったから、出てこないだろう。しかし落とした感覚というか気づいたらなかったので、かなりぼーっとしてたのかな。まあ、しかし思い出すって不確かだと思った。帰りふらふらだったが、帰って彼女とご飯を食べたら少し気分が戻った。病院の診察券なんかも作り直さないといけない。病院に行くことにしていたから、保険証も。これは痛い。現金ももちろん痛い。痛すぎる。でも、そういう具体的なことよりも自分がなぜ失くしたのか、ぼーっとしていたのかが、気になった。悔しいというより、なんか情けない。
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Jun 04, 2008

個人的には

 最近仏教ブームです。

『大乗起信論』(岩波文庫)
『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)

現代語訳を読みながら註や漢文を見ています。こういう書物は普通とちがい読み終わりがない。
言葉は難しい。けれど、「如」て「ありのまま」ってことなのかな。
 でも、仏やその教えは「在る」とも「ない」とも言い得ないそうだから。
 でも、本当のことってそうじゃないかな。わかったといえば、うそになるし。だから、あえて言わないし誰も真理を所有することはできない。時々、非常に大事なことが訪れて(これを如来というのか)つっても、いずこから来たかはわからないのだが。常住ともいっているし。新しく見つけたと思えばそこにあったとも。
で、その真理の証言者に常になれるわけではない。そんな権限は誰にもない。しかし、誰でもが本当のことに気づくことができる。
この2つの本は対話というか詩というか。わかるまで話して話しては忘れてしまうという形で本当のことはあるんだな。だって、本当のことが誰かに握り締められたままだったら極端な話、他の人がいる意味がなくなってしまう。

面白いのは、もちろんお経なのだけれど、語りかけ対話する相手をちゃんと考えていることだ。伝道という一方通行よりも、伝え合うことの難しさを作者(複数だろう)が感じている。得る・修める。伝える側も学んでいる過程であり、教え自体に教えるものの独善を戒める働きがあるようなのだ。しかし、なぜその働きが失われたかも興味あるところだ。また教えの力が失われるかもしれない遠い未来への配慮も感じられる。恐ろしい広さの射程である。今このとき、あなたに、あなた方に伝えることが務めであるということ。また、教えの自己存続よりも、「あること=ないこと」という形で、その自己存続の絶対化の悪を浄化しようとしている。あるとも、ないとも言葉で言いうるが、そこに実体化や虚無化の罠が潜んでいるとしつこく語られる。我々はよいことを忘れてしまうし、また忘れまいとしてしがみつく。人や生き物の働きはそうなのだが、どちらも一概に良いとも悪いとも言えず、逆にいえば執着はあるとき牙をむくことを説く。金剛経のほうは、忘れ去られても何がしかそのありのままの心が生きていることをこそ肯定している。
 なぜ偉そうに教えを独占できないか。そうしたら、みんなが気がついて向上することがなくなるから。しかし、なぜ教える人がいるのか。その人は常に何かの通路になって語っているし、代役みたいになって、真理らしきものをいう。それは心に響いたり響かなかったりする。子ども達が何も言うことを聞かないときに、先生は怒る。子どもは「なぜ」と問う。しかし先生は究極的には「なぜ勉強するか」「なぜ今坐るのか」を答えることはできない。その感じは問答無用に見えるが、先生さえも何かの代行であって、真理の所有者ではないからだ。しかし、教えるということは依然として大事だとすれば…これは喩えであり、今の教育や世の中の前提自体がおかしいということは僕も重々感じるがそれはまた別の機会に。最近先生をやっているものの愚痴を聞くことが多く、ついつい先生の喩えになってしまったけど、そこでいくつかのことを考えたのだった。てか俺先生ちゃうし学校しんどかったし。。

 私はハイデガーのヒューマニズム書簡を同時に少しずつ読んでいるが、ハイデガーも「存在に呼びかけられ、それに従う」という気持ちを強調するから、遠くはない。しかし、「存在=ある」という。仏教は「在る」ことが在りすぎることへの解毒剤のように思える。在るというより、在ってほしいという人の気持ちが落胆や絶望を生み出す。そのメカニズムに敏感だ。ハイデガーは民主主義・ヨーロッパ理性が世界化した中では、「存在」つまりありのまま(自然・人らしさ?)は病んでいくから、まずはそれに近づく処方箋を書く。なぜなら、あれもないこれもないという虚無主義が理性の果てに在るからだ。それもまた様々なことを絶望の淵で夢見、ありもしない希望や対象を作り出す。仏教が求めることで対象を実体化する戒めにハイデガーも通ずる。けれど、在るが回復しても、逆にその在るの力も無垢でなくやっかいなように思える。まだ終わりではないので、仏教の古い経はそこからまだ必要にも思える。欲望や実体化の果てしなさの中で、危機を感じている点はハイデガー・仏教とも意外と近い。しかし、まだ全然不勉強なのと、テーマがでかいので、判定はできないが。



 しかしふと思う欲望の果ては何か。欲望とは何か。欲望が悪だとしても。そんな素朴な問いも浮かぶ。
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Jun 03, 2008

梅雨入りなので…

こんな曲が似合うっす。ブライアン・イーノ、今まであんまり聴かなかったけれど。
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下手に説明するのはまずい。創作ってそうだよな。

先週土曜日。大阪文学学校にて小池昌代さんの特別講演があった。

 小池さんの詩は昔1冊読んだ。『もっとも官能的な部屋』だったと思う。
なんか馬の詩がよかったなあという漠然とした気持ちがある。なんか良かった思いがある。当時のガールフレンドが読んで「これは面白い」か「面白くない」といっていたような。しかし、面白いと面白くないでは、全く意味が反対になってしまう。

 それくらいあやふやな記憶であるが買って読んだのだから、もしかしたらかなりいいと思ったのかもしれない。その頃は詩集というのはまだ私にとって遠いものだった。



 小池さんは「大地母神」の「力」の作用を受けているようなことをいっていて、しかしレジュメに載っていた詩は大変すっきりしていたのであった。ドロドロの逆で、少し味が足りないくらい「カテゴリー」的な言葉の整除された配置であった。彼女は、ねじめ正一に仮託して「小説を書いてから詩を書くと言葉が薄くなる」といっていた。  この言葉に一瞬同意して、しかしすっきりしないものがあった。何か体感的なことを言っているようで、どうも言葉から何がしかを引き出そうとする手つきが見えるような気もしたのだ。

 言葉が薄くなるってのは、なんとなくわかる。僕のように小池さんほどキャリアがなくてもである。しかし、言葉が薄くなるのではなくて、言葉が何かから剥がれていくために薄くなるのであり、そこで言葉との関係の変化があると思うのだ。つまり、言葉との関係が薄くなっているのだと思う。

 私には理解不足なのか、イマイチ散文への移行の意味が計りかねた。それは私がひねくれているのかもしれない。しかし、彼女の話は非常に整理されたスキームに乗っているようで、そこで予め決まっているものが多すぎる気もしたのだ。

 若いと過剰であるから、ねっとりと意味を込めようとする。すると独自の濃い密度と呼吸で書かれるように思うのだ。しかし、何か異なる理由でその過剰が埋まるかあるいは、埋めることを諦めるとねっとり感は減る。
 しかし、そういう場合でも薄くなってもかまわないのではないかと思う。
籠めるものが少なくなるのは別に変ではない。しかし何かが変わったのである。それは少なくとも小説を書いたからという形式の問題とは別のようにも思える。



 私たちは簡単に「薄くなった」といってしまうが、書く位置の高度自体が変化すれば酸素濃度は変わるとか。私は詩より先に小説を読み、で、小説は書けず・書かないで来てしまった。だから詩に没頭して詩を書き始めたのではないから、どうも感覚がちがうのかもしれない。

 しかし、そういう始まりの問題は大事である。また、高見順のように詩を書いたり小説を書いたり、それは小熊秀雄や賢治やタルホもそうかもしれない。そういう人たちのことは「詩と小説の往還」というタイトルに関わらず触れられていなかった。やはり歴史の話は大事だと思う。

 小池さん自身「言葉の薄さ」でいおうとしたものを諮りかねているのかもしれない。しかし、それは小池さんの言葉との関係がどこかで掛け違っているからか、私が小説を書いていないからか、どっちかわからない。

 しかし、私はどうも小池さんがもう言葉に住まわなくてもいい状態を達成しているのかもしれないような気がするのである。にもかかわらずレジュメに載っていた45文字という小説の抜粋や、「タタド」という小説の抜粋も良いように思えた。彼女は、最後のほうで「現代社会に疲れた男は女になってもいいのかもしれない」といっていた。女の叡智みたいなものが男を救うといいたいのだろうか。しかし、正直女の方が存在の真理に近いみたいな非常にずっこけた感覚に聞こえた。どっちが近いということでもないだろうに。
 もしかしたら、そのような乱雑な実体化があって、それが実体化や造形化だけに括れない詩から彼女を遠ざけているとしたら。そういう暗澹たる思いもしそうだった。どうなのだろう。詩も小説も言葉によるところが多いのだから、聡明さが、聡明さがおびき寄せる整理が言葉を軽くしてしまっているのだろうか。

 やはり下手にするする説明するのはまずい。創作ってそうだよな。

しかし朗読はとても良かった。ある種の美しさ・凛質がある。優等生の女の人に感じる色気といおうか。(そんな反応の仕方しかできないのが我ながら情けない)「ねじまわし」という詩の「からまちま」という言葉が旋回する感じよい。しかし、言葉がからまわりするのはイヤだといっていたがどうしてそうなのか。いやからまわりするのはイヤだけどどうしてそう感じられるのか。結局私にとっても課題であるかも知れぬ。優等生的なものをどう脱出するか。

 結局こういう問いは自分に跳ね返るわけだが。



講演後に小説を書いているFさんや、以前読書会でご一緒したMさん、Kさん、Hさんと挨拶した。京都のYさんとも話す。みんな三々五々に帰っていった。河上さんとぼーっと立っていると細見和之さんがあらわれた。細見さんは私たちのクラスのチューターだった。細見さんは、ぼけーっとしている河上さんに元気がないぞ!と抱きつき、私に向かって「tab面白いよ」といった。うれしかった。

そのあと河上さんと彼女と私で飲んだのであるが、飲んでぐーすか寝ていたら、夜中の三時に気分が悪くなって目覚めた。そんなに飲んでないのにおかしいなあ。
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May 23, 2008

地の声

 こないだお灸とマッサージをプロの方にしていただいて、足の冷たさや肩の張りは少しずつマシに。体を冷やさないのが大事らしい。だから自分でも冷たいものは控える。あったかいものや野菜を入れた汁物を食べる。ビールは時々にするなど工夫してます。昨日はビールに焼き鳥でしたけど。あと自律訓練法、冷えが気になるときは腰にカイロ。
 といっても健康オタクではなくて、単に肩や背中が張ると息が苦しくて、頭が痛くなったりして快適さが減るから、気分良く過ごしたいと思っている感じです。
 友達や大切な人のことを時々思います。私だって怒りや情けない気持ちにかられるときはあります。そういうときに、色んな人の顔や様子を考えたい。そこには温かみもあるから。けれど、知らず知らずに強がっている。だいぶそうしなくなったけれど。昔はよくからかわれたり、いじめられたりしていたから、なめられないように人に頼ってはいけないと思ったら、思春期やなんかのせいもあって、結局20代から30代前半までそのかたくなさを溶かすのに要しました。
 今でも全然治っていないけどそういうのはあるんだなあと頭の隅にはあるようになりました。世の中はみんななめられないようにがんばっている人も多く、しかしそうするとそこから降りられなくなってつらくなるんだよなと思います。成果やまともさや、ちゃんとしてることが求められ、自分でもそうしたいと思う。
 それは各人の生き方です。けれど、そうして地の声が出せなくなる場合自分が蝕まれていくときもある。そうすると僕の場合真っ先に体が変になるのです。体は正直です。

 単に甘やかすのではなく凛としたものもあったほうが素敵。だけど、それには何か支えが要るんだなあと思うこのごろ。支えがないと怒りや辛さに人はすぐやられますから。
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May 20, 2008

やばそうな領域についての2つの試論他-呼ばれる詩の場所・事切れる=死

1.こないだ某詩賞に応募したよ。あかんかなあ。



2.「呼ばれる詩の場所」

ハイデガーの「言葉についての対話」を読了。「芸術作品の根源」は真ん中くらい。

ひえ~、言葉がよくわからん。でもそれはまあ仕方ない。

なんとなくハイデガーにもつながるのかもしれないが
何か書くとき、とくに詩らしきものをしたためようとするとき
意識が変成するように思えるのである。
しかし、そのきっかけは酒やら、薬やらの力でそうなるばかりでない。

鳥の声でもいいし。
で、書くものは鳥の声とはあんまり直接つながってなかったりする。
しかし、何ものかの呼び声で励起(立ち上がる?)するようには
いえるような気もするのだが。ごく個人的に言えば。
しかし呼びかけそれ自体は正体がよくわからない。
だから書くのだろうけれど、ハイデガーについても、その呼びかけが
一体なんであるか私はまだ不明であり戸口に立ったばかりなのだ。
しかし、それなしには何かが落ち着かない。いや作動しない。

自分の真実性や虚偽性を識るのに、詩が必ずしも
必要かどうか不明だ。しかし、それを識る身振り・祈りの
形象化・祭祀化(自ずとそうなってしまう)だと考えうる。
仕事でも無為でも生きとし生けるどのような営みでも
己の真実性や虚偽性(虚構性)は識ることができる。
おそらく、その働きに「書くこと」は近似し
また決定的に遠ざかってしまうように思える。
その遠ざかりは苦であるが、遠ざかりを十分に自覚し得れば
私は「書くこと」で何かを強く思うことができ
その思ったものを解放したり、それに縛られたりしてしまうことができる。
ただ、「書く」人は「書く」形で、絶えず確かめや不明に
陥るような行為を択んでしまっているとはいえるかもしれない。

故に何かに呼ばれたりする形、それはある意味幻聴みたいなものかも
しれない。だけど、それがないと私が意識があったり、自分が引き受け
ないといけないことがあるような気にならない。
私は怠け者だから、起こされないと起きないのだ。
私はほとんどの場合比喩的にいうと寝とぼけて生きていて
もう全く考えることがない。大体バラバラな思念やら行為の断片の海を
生きていて、それは物として存在していたり、事として存在していたりして
まだらである。

それが不意の声によってある場所に呼び戻され新たに召還しなおされるような気がするのだ。
召還され新たに言葉としての身体(場所?) として編成される。
しかし、構成というものがどこまで自覚しうるものなのかな。

また、それが「覚醒」であったり、「本来性」であったりするのか
わからない。非常に厄介である。

「ある場所に呼び戻され新たに召還しなおされる」ことが
人間本来の姿への回帰だと信じすぎると
それは急速に一回性やら、ノリやらを失って
いきなり動脈硬化を起こし始める。

けれど、私はこのような形である場所に置かれているような気がする
っていい続けること事態は、無ではないような。
意味があるかどうかは別にして、何度も、似た場所にたってしまう
っていうのは、気になることである。その気になり方を表出することは可能だろう。

その「気になる」(気づかい?)感じに従うと、きっと痛い目にあうことも多いのだが
乗りかかった船には乗ってみて
痛い目やら快楽の展開を追うと、その感覚の体自体が通路になって
変な場所というか、その人の有り様のようにいびつな場所に出て
しゃあないなーと思うのかもしれない。
しゃあないなーが「覚悟」みたいなものか知らん。

けれど、そう思うと更に、なんでやねんというふうに
放り出されて、絶えず私は詩を書くという聖性を見失う形で
それを識るのである。



3.「事切れる=死-Tさんの日記に触発され死者と生者との関係についてとにかく書いて見ましたら、こんな変な文章になりました。」



死は「事切れる」とも言うのである。
事というのは物事のことだったりして、現象
つまり感覚や観念の世界として可視化したり
思考化したり数えたり記号にできる領域だとする。
ならば、そういう圏域から抜け出るのでも
消えるのでもなく「切れる」というのが死であるかもしれない。

自分はいまわの際の人の体や存在雰囲気を感じるなら
そこにその人はオワスわけであるが
そのオワスことはたぶんなくならない。
しかしオワスから何かが切れて
我々の表象言語世界とは別の圏域に
移行する。
この移行の過程はTさんいわく「あいまい」である。

けれど、なぜか私がそこにオワスある人に呼びかけても
返事がないというのはわかる。
いやわかっていないのかもしれないけれど。
それぞれケースバイケースとしか言いようのない感じで
心身機能は、人へこたえることを終えていく。



いや、いつまでも我々に感知できない形で
オワシますある人はオワシますを減少=(世界へと)還元させながら
こちらへ投げかけ
私の存在をその人のもとへ引き寄せようとするのだろう。

残念ながらそれを現実界にて応答なしと宣告するのは
医師であったり制度や葬儀屋であったりする。
けれども、別次元で私はその人の「事切れ」の何かを聴いた感じが
あるのかもしれないとも思う。
生者の都合で押し流して死を確定させてしまうとしても
ある形で永劫、その人の声を聴けなくなることは
確からしいと思われたりもするのだ。
しかし、これも言い切るのはためらわれる。
そのためらいを大切にしたい。

私は死んだ人にどれだけ呼びかけても
生きた事=現象の形では、もう反響がないから
自己のうちに閉じ込められて、その残響の中で
その残響をこうかなとしておく。すると
また人が死に、わからない声の総体のように
私はなっていく。
そのわからなさエントロピーの増大にしたがって
私は世界と一体化し続け、不随異な部分だらけになり
ある日事切れているような…
そうすると世界という集合に巻き込まれることが「死」だとすると
何から事切れてどこへここの外のどこへいっているのか
急にわからなくなってしまった。
ゆえに、何かでいえるような形ではいえない=事切れる
ってことで、その言えないという姿かたちが死の表象に似ていて
だから、やっぱり死は言葉にとって最大の重大事であり
最大の無関係事やもしれん。
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May 07, 2008

遅ればせながらジャズストリート報告及び連休

 5月4日は高槻ジャズストリートに行った。参加ミュージシャン4000人、47会場という高槻市の中心街の各所がステージと化す大イベント。もう10年も続いている。けれど商売っ気もなく、ジャズストリートTシャツ販売と募金といくつかのスポンサーのみであとは市民参加の地域密着イベント。入場料はなく、喫茶店の場合はお茶を飲んで演奏が気に入ったら投げ銭という感じか。子どもから年寄りまで、ジャズ好きからただ音楽を楽しみたい人までいろんな人が街のあちこちに繰り出している。
 阪急高架下やら、公民館のスペースや喫茶店などがライブ会場で、てづくり感がよい。また音環境に格別の工夫はないのに、それぞれの音空間が手触りのあるもので、親しみやすく演者との距離も近い。
 市民会館では日野皓正がよく来てる。また高槻城跡公園や、市民グラウンドでは、フリマも開かれ、ビールを飲みながらジャズも聴けます。久しぶりに行ってとてもよかった。
 5日はのんびりして、6日は友達の犬と遊ぶ。さびしかったようで、いっぱい甘えてきて、顔中なめられました!動画①場所;阪急高架下みずき自動遊園(演者;森田葉月&森川七月カルテット)②場所;JKカフェ(演者;Tacto Tango)③場所;城内公民館1Fロビー(演者;サボン)※いずれも携帯での撮影のため15秒間 0001.3GP 0002.3GP 0003.3GP
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May 03, 2008

マテリアル

山のあなたの空遠く
はっきりはっきり目が覚める
布団を押し上げて
燃えつきる私の意欲
あなたが幸いではなく
きがかりだ
何の関係もなくきがかりだ
そう
そういうこと
きがかりだ
みることは
みえないのだから
みようとするのだが
みえないのだから
きいているのよー
きこえていないから
きいたことにしてしまうけれど
あなたの秘密を
きいたことにしてしまうけれど

それでははじまらない
にせものなんだから
余の思いはにせもんなんだから
にせもんをあなたになすりつけて
素敵な風景をきどっている

じょうろ

あなたが花だと思ってみて
水をやる
葉と葉のあいだに
つぼみをつけた茎が伸びている
まだ咲いていない

山のあなたの

咲いていない

贈り物です ピンポーン
空の配達です
知らない人々のおもいでのつらなり
金の模様である
雲がいずる場所
その地点にはおどろくほど

おどろくほど
おちていこうとする水の
つぶつぶがフリーズしている

山のあなたの

固まっている
それは器
器でない
攻撃できない
何もないようだ
水があるというのに
それは一瞬で
凝固したアトムさんの集合
よりあつまって激しく静かに
聖している
精している

そうだおちかかっていこう
おちかかる
棚から牡丹餅

2階から目薬

仕方ないのだから
こうでもしないと
山のあなたの
あえないのだから
強い風は山にぶちあたり
激しく渦を巻き

山のあなたの幸いの町を
こなごなにしてあなたを取り出すまで
余はふりつづけよう
ふりつづけよう
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May 02, 2008

ひび

今日は卓球したよ。
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tab8号初出散文「人身犠牲について」

 こないだ藤井貞和氏の立命館大学での講演会に行ってきた。「詩と戦争」というテーマは非常に語るのが困難な課題だ。残念ながら湾岸戦争における詩人たちの論争を私は詳しくしらない。そこから様々な論者がどのような課題をこれまで展開してきたか、そしてそれに対して自分がどのような立場をとれるかは今はわからない。
 ただ、藤井氏が「人身犠牲」について論じていたことに特別の興味を覚えたので、自分の想念を書いておきたい。私にとっても「人身犠牲」は大きなテーマだった。自分が学生時代受けた暴力(いじめ)には犠牲の構造があるのではないかと思ってきた。しかしそれをあまり大きく学問的に考えるよりも、私は自分とみんな(全体)との関係の一例として考えたいと思った。最初は自分だけがこのような目にあうのはなぜかという理不尽な感覚から考えた。しかし実は中野富士見中での「葬式ごっこ」を始め自分より大きな社会にたくさん存在していることを知った。「葬式ごっこ」とは何か。長い間同級生から殴られたり精神的に苦しめられたある中学生がいた。死んでもいないその子が教室に来る前に同級生のあるグループが机の上に花瓶を供え、クラス大勢の寄せ書きをおいたのである。当時は軽薄な時代で、その子も同級生も悪い冗談として受け答えしていたが、深いショックを受けたその子は自殺してしまったのである。それからというもの、知らない間に死んだものとして扱われる、つまり殺される、それが儀式の形をとるということが頭から離れなくなった。なんといってもその子が私と二才しか変わらないのが大きかった。
 単に自殺した子に同情するだけでない、その構造を変える考えはないかと思った。それから大まかにいじめにおける犠牲の構造を考えた。少し整理するとこうである。人が集まっている場所がある。それが自由を奪う(例えば先の話だと学校)いびつなものだとしたら、様々ないびつさが問題や不満を生み出す。ここで、その場所の前提をみなで変えることができれば問題ない。しかし、それをしない・できないから、なかったことにするために象徴的に誰かを血祭りにするという解消法を思いつくのだと考えた。
 我々は「日本人が和を大切にする民族だからそのような暴力はしない」という感覚がないだろうか。しかし、全く逆で、和を大切にするからこそそのために誰かを犠牲にしてことを済ますという構造が存在するのではないかという考えが私の頭をかすめるのである。
 犠牲の構造は人類が生み出した一つの知恵である。それは我々が今や想像もできないような苦闘によってできたのだろう。藤井氏は実は戦争も「人身犠牲」というやり方では内部の問題が処理できなくなったとき、それを外化する一つの知恵かもしれないという。それは更なる犠牲を生み出した。しかしそれらの方法がなぜとられたかを考えないと戦争という仕組みを変えることはできないと。私が思いだすのは「聖なるもの」と戦争や犠牲がどこかで関わっているのではないかというバタイユの問いだ。
 ただし、犠牲の構造によって消された問題はその時点で解決が難しいから犠牲を引き出してしまったのだ。とすれば依然問題は残っているはずだ。消された場所から問題の痕跡を取り出すことで、問題を知り誰かを抹殺しない方向で問題を考えることは可能ではないかと思う。それが誰かが死んでしまった後にできる、せめてものことかもしれない。恐らくそれが暗いけれど希望の内実かもしれない。

※初出からブログに掲載するために一部文章を変えています。ご了承ください。初出=詩誌tab8号2008.1.15 この文章は私がファンである上山和樹さんのブログに刺激され、当ブログに掲載しました。上山さんは「ひきこもり経験者」として、ひきこもりをめぐる様々な状況に果敢に切り込んでいます。上山さんは恐らく生きていく苦しみの中で感じられたであろう「何かがおかしい」という感覚を手放しておられない。それを手に分析や批判的検証を続けておられるように思います。そしてそれは、単なる人任せの批判ではなくご自身の身をかけてのように感じています。私も「何かがおかしい」という感覚がこの社会で封殺されるのを感じたことを拙ないながら覚書としてこの文章に書きました。私が上山さんのように身を賭けて書けているかはわかりません。ただもし上山さんがどこかで読んでおられたらうれしいなと思っています。上山さんがどのような方なのは、実際存じ上げないので、本とブログの印象ですが。

 さっき書いた上山さんのブログ。Freezing Point
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May 01, 2008

思い出

あついす。

朝から地元で野暮用があり行ってきました。Tシャツにながそでのボタンシャツ羽織ってるだけやのに軽く汗かく。

久しぶりに阪急に乗る。小豆色の車体にうすみどりのシート非常になつかしい。
野暮用自体は簡単な手続きで、すぐ済んだ。

市立某図書館に入る。高槻にいたころは、中央と小寺池と天神山の3図書館にはお世話になったす。
そこで長谷川四郎訳ブレヒト詩集、ハイデガー『芸術作品の根源』、アルチュセール『哲学について』を借りる。十年くらいまえによく来ていたときにいた司書の女性が今もいたので感動した。こういうとストーカーめくが、当時素敵な感じの印象があって、今も綺麗な人だった。みんなそんなに面子が変わってなかった。

当時は時折いやいやバイトする以外、図書館か淀川の河原でひなたぼっこするか、本屋くらいしか行かなかったから、ほとんど人と話した記憶がない。仕事が続かないから、親と会話するのも気詰まりで。やから、図書館の司書の人は覚えていたのかも。僕が好きな感じの人だったという理由が大きいけど。

そんな感じで今風にいうと、フリーターとヒキニートの中間みたいだったなあ。
家族以外、誰ともしゃべってなかったし、昼間はブラブラしていたし、意味わからん文章書いて、焦りまくっていたし、ニーチェにはまってたし、悩内がけったいなもんでつまっていて、大忙し。

内容は本人にも不明だが、根拠のない自信(妄想?)もあり。けっこうやばい感じの人じゃった。

今は単なるしゃべりのおっさんである。

本返しにいくの面倒やけど三週間借りられるから、まあ里帰りした折りに返そうかな。というか読みきれるか?ゴールデンウイークは高槻JAZZストリートもあったな!あれいいよ~
今年はどうすっかな。

高槻ジャズストリートHP
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Apr 30, 2008

鞍替え

 昨日は2か月に1回開いている恒例の合評会に行ってきた。
 全部で4作の合評も終わりいつものように2次会に。といつもの居酒屋に行くとシャッターが閉まっている!休み?ちがう。「さる○月×日をもちまして閉店いたしました」の張り紙が…。ガーン。
 というのは安かったからである。いつも同じお姉さんがレジを打つのだが、いくらかまけてくれてるか、打ち間違いなのか、非常にお得なプライスなのであった。
 ちょっとみんなで呆然としていたが、これは仕方ないとなった。きょろきょろ振り向いてみると、向かい側の通りに飲み屋があった!あそこいってみようとなって、入ると食い物がおいしい・さらに前の店と同じくらい安いので、今度からはこっちにしようということになった…と思う。
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Apr 25, 2008

しわしわの話

自分の芯のほうを気づかってやらないと。
そうしないといとも簡単に私はしわしわになるだろう。
しわしわに気づいてしまったらもうその感じが
触りたくてかなわない。

見ることも聞くこともかなわない、どうしようもないところに
ずっと押し込んだら
どこにいったか忘れて忘れたこと自体
姿をあらわさなくなるのだけど。
だから、かなわないながら、時々はしわしわのまま
どこかで夢を見る必要がある。

しわしわで耐えられるのは10年とかはたまた100年くらいで
しわしわのまま、死んでしまって
しわしわらしきものが、どこかで持ち越され
曲がり角とか、ドアの外にでる時に
うつしみに入っていく。

うつしみはそういうしわしわを生きている。

しわしわはずっと何か呼んでいるはずなのだから
だから、この服を買いたいとか
この空は20年は持つと思うというような
いい気分が呼び起こされ
そのしわしわが、暗やみの部分を支えて
ずっと苦労することになるのだ。



しわしわにはなれない。
しわしわだからなあ。私のそのまた私の

どうしようもなく私が明け渡しなら
渡しだから
しわしわはそこに住まうこと自体をさすわけで。

貧しいや、異邦とか、そういうものは
ものではなく
しわしわの変異形態である。

しわしわはしわしわでしかありえず
しわしわは何者にもなることができ
ついになんでもないような気になり続ける
そんな声を発し続ける。

美味しいご飯を食べて
しわしわで
しわしわは、変わらないことで
どんな味付けもできるふりかけかもしれない。

しわしわがうづくと
もうどうしようもない。
果てしなく夢をみて
夢を生きてだらだらと寝たまま
生きていき
記憶は用意され、人生山あり谷ありで
しわしわだけが、それを握って放さない。

そういうとき人は夢中で自在に
一切の中に放下して、ああええなあと
どんどん自在自動の境地に達するとかどうなのか。
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Apr 24, 2008

今日の発見

おおきく身体をうごかすと意外に疲れないようだ。
今日そう思った。肩や足腰のコリが少ないのだ。

掃除の仕事をやっているとどうしても
しんどくない身体の動かし方を探るようになった。
結果、あまりジタバタせずにこじんまり呼吸をおちつけて
動かすようにした。
だから逆にちじこまって身体が凝って息ぐるしかったのかもしれない。

便所はそんなに広くないから小さく動く。
けれども、大きく動いた方がいい。
逆にストレスがたまらない。

なんで大きく動いた方がいいかと思ったかいうと
今日は作業員の人数が少なくて
僕と職員とやらざるをえず
早く終わらせたいからてきぱき動いた。
大きく流れる感じで、さっさと。
すると、意外に身体がごりごりにならなかった。



僕は病気してから落ち着いて呼吸することを
念頭に置いてきたような。だから、ゆっくり落ち着いて
動くといいと思ってきた。
けれど、さっさと活動した方が
身体に空気が入って、汗かいて、いいときもある。
息もちょっと上がり目で。

もちろん、くたくたのときにそんなことやってはいかんのだが。

それが今日の発見です。
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Apr 22, 2008

ドイツ名詩選

 友達がドイツ語を学んでいるので刺激を受けて、梅田の紀伊国屋をぶらぶらしていた。しかしやはり語学というように固く考えてしまうと緊張してきたので、岩波文庫の「ドイツ名詩選」を買ってみて、テキストに親しむことから始めてみようと思った。
 前から哲学書を読むと語学力が必要なことをぼんやりと感じていたのである。昔は語学が好きで結構英検の勉強なんかもやったが準一級に受からず止めてしまった。大学ではドイツ語を選択していた。ニーチェやカフカが好きだったのだが、授業をきちんと受ける以外それほど力を入れていなかった。しかし、最近翻訳で哲学や詩や小説に親しむようになるたび、この人たちは自分たちの言葉でどのように書いていたのかその息吹が気になってはいたのだった。
 ドイツ名詩選は安くて小さい本ながら、詩人の略歴・全体の解説がついており、見開きで原文と訳文が並んでいる。非常にお得である。ゲーテからシラー、ヘルダーリン、ハイネ、リルケ、ブレヒト、トラークル、ツェランとここ300年くらいのメジャー詩人はおさえてある。もちろんドイツ文学のマンやヘッセのペーパーバックは置いてあったのだが、当然全部ドイツ語なので、久々に外国語に触れるものにはハードルが高いし。

ほとんどすべての物から感受への合図がある、
向きを変えるそのたびに、思い起こせと吹きよせるものがある。
わたしたちがよそよそしく通りすぎた一日が、
未来において決然とした贈り物となる。


(リルケ「ほとんどすべての物から」抜粋ドイツ名詩選岩波文庫より)

 素敵だ!  
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Apr 21, 2008

長谷川四郎訳カフカ傑作短編集より『彼』

 彼がさからって泳いでいる流れはたいへん急なので、ときどき、ふとぼんやりしたりすると、彼は空々寂々たる静けさの中で水をはねかえしていて、その静けさに絶望するのである。彼が一瞬断念したあいだに、それほど果てしもなく遠く、彼はあとへ流されていたのである。

(『彼』の中の一節-カフカ傑作短編集長谷川四郎訳福武文庫1988より)





 私が20代ヤノーホの『カフカとの対話』やカフカの短編集・手紙には救われる思いがした。
 池内紀さんの翻訳は読みやすかった。『カフカとの対話』の訳者吉田氏もよいと思う。しかし優れた文学者で翻訳者の長谷川四郎は、カフカの体温をつかんでいるのではないかと思わせる部分がある。
 流れが急なことと「空々寂々たる静けさ」は矛盾しない。また自分の居場所がわからなくなり所在を失っている。にもかかわらずその所在のなさを逆に穿つ執拗さは諦念スレスレである。どこだろう、ここはなんだろうという問いを身に引き受け、そこから生ずる苦しさをさめざめとしたおかしみに変えているからだろうか。『彼』は箴言集とも詩ともどれともちがう奇妙なフラグメントである。けれども、区切りのみえない無際限の中に途方にくれていることでカフカの居場所がほの見えるようでもある。
 形式が詩に見えにくくとも、ふと書いてしまう言葉が詩的であるということもある。なので普通詩人と呼ばれないカフカの作品を引いてみた。カフカは詩や文学が20世紀以降生きうるその培地であるように思う。

   長谷川四郎は自分のシベリア体験をもとに、小説を書きながら優れた翻訳を静かに出してきた。たしかブレヒトやボブロウスキの翻訳もあると聞く。シベリヤ体験のある石原吉郎や香月泰男らとの硬質であったりある地点にとどまるだけでない茫洋とした感覚を長谷川四郎は持っていたように思う。長谷川と詩の関係は考えてみるなら興味深いだろう。
 今日ドイツ名詩選の中にボブロウスキの詩を見つけた。「カフカ傑作短編集」の解説の中にもあったので、できれば紹介したい。
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Apr 20, 2008

僕の思ういい男

 前から云っていますが僕は奥田民生や河島英五のファンです。全然ちがう2人ですが、男のしょうもなさや情けなさを深く感じているから彼らは結果的にすごくカッコいいのだと思います。
 僕も弱虫の男子なので、どうやったら憧れの二人に近づけるかなと思っていますが、結局とりあえず生きてみて色んな情けなさやうまく行かなさを感じてそこに沈静するってこと。その深さを体にしみこませること。さらにそういうあれやこれやを吹っ切って「やるときはやるってこと」。
 この最後の行為というか決断が僕はなかなかできません。けれど思い返すと彼らのまっすぐさは父性と意外なほどの繊細さ=母性からできていると思います。僕自身介護の仕事に就いたとき、まめまめしく世話や洗濯をやっていたら、「丁寧だ」「お母さんみたいだ」と同僚からからかわれ?ました。けど、際限なく丁寧だとしんどい。
 お父さん見たいってのは云われることがあります。よく子どももいないのに、「お子さんいらっしゃいますね?」といわれます。まあもう30過ぎだから仕方ないけれど。けっこうお節介ですね。それが実は父性の正体です。実は僕の父もそうですがえらそうにいいたがりなんですね。鍋奉行とか。僕もそうです。それが理屈っぽいのでいやがられます。しかし、うちの親父もそうなんで非常にガキっぽい。だからお節介なんです。見守っていて落ち着いているようで気が気ではない。実は心の中に少年がいるのが「父性」かなと思います。
 最初の2人にもどるとやはり少年のように一途なのを照れくさそうに隠している。それがいい男の正体かなと思います。自分もそうなりたいなあと思います。40過ぎてアジア放浪とかライブとかそんな体力もないし、そもそも彼らはアウトドア派。僕めっちゃインドアじゃないですか!結局僕はうじうじ男らしさにこだわっているだけなのかな~
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集まりに行く

 昨日はある詩の集まりに行きました。西成区が会場。大先輩詩人の木澤さんに誘っていただいたのです。木澤さんの新詩集について感想をお送りしたことがきっかけでした。
 車両事故で環状線のダイヤが乱れ少し遅れてしまいました。けれど他の方もそのあおりをくらったようでした。
 昨日は打ち合わせということで、言葉の音や声について考える会にしようということになりました。世界には鳥や風や車や話し声、くしゃみ、ありとあらゆる音が満ちています。その中で聞くということ。私たちはある音のつらなりを選択して聴いているから、音楽や話、朗読が聞けるのです。木澤さんの補聴器の体験、清水さんのジョン・ケージの話が印象的でした。
 木澤さんは耳が悪くなって始めて補聴器をつけて音楽を聴いたとき、いままで聞いていた音楽が実は様々な深みで成り立っていると気づいたと言います。また清水さんは大阪万博の時にドイツ館に入ったら、ジョン・ケージがいて大きな砂嵐のようなノイズを聴かされ、演奏が終わると皆出て行ったといっていました。
 私たちは音の海の中から無意識にある音を選択しているのですが、そこには実は様々な制約があること。音を発する側と聞く側にお互いの交流がないと、を使った芸術は見るも無残なこと。これはつまらないライブや朗読会でかんじることがあるのではないでしょうか。
 音環境のほかに、お互いがシンクロしてしまう瞬間がある。私が思ったのは実はリラックスして聞いているほうがよく集中できるからより深みを経験できるし、更に言うと私たちは気まぐれに程よい雑さをもって聴いたり聴かなかったり、声を出したり出さなかったりしている。皆さんで一致していたことは程よい雑さに目覚めることが意外に音の体験を深くするのではないかということでした。

 これからはお互いの声を確かめるということで詩歌に縛られず、様々なジャンルの本を皆で音読しあってみようということになりました。
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Apr 18, 2008

浪をくりかえすのは-中野重治の「浪」を考える

浪  中野重治

人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は再び走つてきてだまつてくずれている
人も犬もいない
浪のくずれるところに不断に風がおこる
風は磯の香をふくんでしぶきに濡れている
浪は朝からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
浪はこの磯にくずれている
この磯はむこうの磯につづいている
それからずつと北のほうにつづいている
ずつと南の方にもつづいている
北の方にも国がある
南の方にも国がある
そして海岸がある
浪はそこでもくずれている
ここからつづいていてくずれている
そこでも浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
風が吹いている
人も犬もいない



 タイピングすると僕のパソコンは使用した変換とか文章を記憶 するので、ある意味うつのが楽だ。
しかし中野重治は手書きで書いたはずでどんな気分だったんだろうな。
ぼーっとしてるように見えるんだが けっこう冷え冷えとした熱いものが(語義矛盾だが)
高まるんだけどすぐに崩れるような。

海というと小説では安吾を思い出してしまった。
「私は海を抱きしめている」ってあった。
でもなんとなくドラマチックである。
しかし中野重治はドラマを拒絶してもっとどうしようもない
反復の風景に出来事を見ているような気がする。
「くずれている」の意外に起伏に富む繰り返し。

イタロ・カルヴィーノが「パロマー」という小説を書いている。
主人公の元インテリっぽいおっさんが海をぼーっとみつめて
形而上学的な思索をする。カルヴィーノはレジスタンス活動の中に
いた人で、中野重治との関連もいえなくもない。
パロマーの主人公は海の波に幾何学的な何かを見るわけだが…
中野重治の記述は大またで書いている。
じっと観察するよりはもっと「見えてしまっている」
もっと「聞こえてしまっている」
そのことをそのまま書くと恐いなあと感じる。

ただし中野重治はきっと韻律をこの詩でもかなり深く考えている
ように思える。いいぐあいに繰り返しに変な引っかかりがあるのだ。
連想したのは童謡の「海」である。

海は 広いな / 大きいな / 月が のぼるし / 日が しずむ

海は おおなみ / 青いなみ / ゆれて どこまで / つづくやら

海に おふねを / うかばせて / 行ってみたいな / よそのくに

意外とこの歌に通ずる無限の感覚があるような。
この歌はもっとふわふわしているが。
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Apr 17, 2008

芋づる式思い出映画「エンドレスワルツ」

若松孝二の映画「実録 連合赤軍」を何となく見ようかな、どうしようかなと思っている。何しろ、あさま山荘事件は僕の生まれる前の出来事。親父が「ずっとテレビ中継してたな」と云ってた。けれど前見た若松監督の「エンドレスワルツ」はけっこう面白かったので。やはり見ようかな。

 役所広司がでてたあさま山荘の映画はどうも見る気になれなかったし。思想の問題として重要な点はあるだろうから迂闊にはいえないんだけれど、思いつきだけどいじめとか排除と関係あるのかもしれないな。グループとか関係の中での排除の機制を自分の中にもあるものとして自覚しないと、そこで発生する力は暴力として駆動するのだろうか。なぜか坂口弘の本を図書館で借りた覚えがある。あの人はうたを書いていたんだったな。でも内容あまり覚えてないな。永山則夫は小説書いてたし。宗男と連座した佐藤優の本はバンバン売れているし。刑務所や拘置所って実は文学空間なのだろうか。

    「エンドレスワルツ」について。あれは確かジャズ奏者阿部薫と鈴木いづみの関係を描いたものだった。どちらもリアルタイムでは知らない。阿部薫は町田康、鈴木いづみは広田玲於奈が演じていた。  印象:町田康はあの映画で非常に男前だと思った。けれど小説はあまり読んでない。とにかく男前だった。あの映画での阿部薫はかなり壊れてる人だった。ほんまはどうかわからんけれど、とにかく壊れた人で散々女を振り回すのであった。けれど、どこかにイノセントな凄さがあってやはりいい男に見えてしまうのだろうなとも思った。「男は身勝手」みたいなお話のような気もしてしまったのだが、どうもそれだけではなくそのいい男さと演奏が渾然一体となって彼の魅力を形成していたようだ。とにかく僕は阿部薫と鈴木いづみが一種のカルチャスターだったことしか知らないのだけど。
 幽霊になって奥さんの前にあらわれるところはいい。色々映画について調べたら幻覚という感じの記述もあったが僕はある種魂のようなものを感じたため「幽霊」と書く。「鉄道員」で娘の幽霊が高倉健の前にあらわれる感じとはまったくちがう。僕は幽霊を見たことがない。そういえば小学生の時盲腸で入院していたら隣のおばさんが「だんなの幽霊が枕元にたった話」をしてくれた。おばさんは素敵な感じの人だったので幽霊の在非在以前に「そうなんだ」と得心してしまった。
 結局「鉄道員」は何となく「交感」がないような気がするのだ。愛といってもいいかもしれないがそういうものが空間に満ちる感じ。「エンドレスワルツ」にはあったんだよな。部屋の感じとかも好きだった。

 で、若松孝二の映画情報を調べていたら、なんと詩人福間健二さんの名前が!福間さんは若い時若松プロで映画製作にたずさわっていたのか。知らなかった。福間さんが訳したブローディガン「東京日記」は覚えている。ブローディガンは生前日本に来たそうなのだが、なんかトイレでオシッコをする詩もあったような気がする。(あったかな?自信なくなってきた)最近「アメリカの鱒釣り」をぱらぱらめくっていたら「俳句」について書いてるんだよな。ブローディガンの文章も短詩と短編のハイブリットみたいで読むと適度にさらさらしていてしんとした気持ちになる。非常に落ち着く。(根底にはいっぱいしんどい感じがあるのだと思うが)それでいつも居眠りをしてしまうのだが。

 ※石原さんの日記で福間さんの映画「岡山の娘」が告知されていました。予告編を見る限り、いい感じかな。大阪だと十三の七芸あたりでやってくれぬかな。
 ※町田康の第一詩集「供花」はよかったように思う。大阪弁の詩があって、僕は関西人なので親近感がある。ただし他の作品は知らない。
 ※石井聰互の映画「エンジェルダスト」にでていた若松某という怪優と若松孝二を勘違いしてた時期がある。なんでだ。

 「実録・連合赤軍」予告編

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Apr 02, 2008

デカルト風呂

 最近ややこしいエントリーが続いたので。近況。5分以上風呂につかれなかった僕が15分弱浸かっている。血の循環とか筋肉をほぐすとか、清掃の肉体労働のあとはいいな。暖めて寝るといいな。汗をかいたりすることで、活性が起こるような。気のせいか。近代文学でも川端康成とか梶井基次郎とか伊藤あたりの温泉によう浸かっておる。

 今デカルトパラパラめくってみる。デカルト『情念論』(岩波文庫谷川多佳子訳)

 100 悲しみにおいて。

 悲しみにおいては、脈が遅く弱い。心臓のまわりを紐でしめられているように感じ、氷片が心臓を冷やし身体の他の部分にも冷たさを及ぼしているように感じる。しかしそれでも、悲しみが憎しみに混ざりさえしなければ、時には盛んな食欲もあり、胃もその任務を怠っていないのが感じられる。

 115 喜びは、どのようにして顔色を赤くするか。

 たとえば喜びは、顔色をより生き生きとし、より赤くする。なぜなら、喜びは、心臓の水門を開いて血液がすべての静脈にいっそう速く流れるようにし、血液がいっそう熱く微細になって顔のあらゆる部分をある程度膨らませるからだ。これが顔つきをいっそうにこやかに明るくする。



 けっこう不思議な書き方だがツボは外してない。実感的。血流や精気の循環システムとして体を見ている。風呂に入るといい気持ちっていうのもわかるね。別にデカルトにいってもらわなくてもいいけどね!デカルトは身体を機械としてみているらしい。だから人間が死ぬってのは、多くが言うように精神(魂)が体から抜けたのではなくて、機械が壊れるのと同じで、いろんな機能が壊れて停止していくと、生体自体が作動しているように見えなくなるという。この言い方は賛否両論あるよね。でも、デカルトの言うのはだから精神っていうのは不思議ねといおうとしているのか、それとももっと怖いことなのか…

 ひとつは例えば人体にまとわれている「その人らしさ」みたいなものがどこへいくのかみたいな疑問がある。臓器移植とか難しい問題だ。でもこの当時はある種の観念批判として機能したのかな。
   アランの『幸福論』はデカルトやスピノザの身体とか情念の論に影響を受けたという。だから元気になるのも、しんどくなるのも気の持ち様ばっかり考えるなと。つまり疲れたら体操せよとか目が疲れたら遠くを見よとか、首を回すと気分が楽になるよとか。この辺のアランの考えは僕は好きだな。アランは軽いしんどさなら、くすりを飲むとか自分の否定的な考えを除くって言うより、体を楽にするように工夫するといいんだと。
 さらにドウルーズあたりになると、その人らしさをさらに遠くへ行かせるためにいったん身体の固有性から身体を解き放つ。すると、○○機械の連なりとして、自然と身体の無差別性みたいなほうへ行って。このあたりはまだ整理できてないので、うまくいえない。だけど、ドウルーズはデカルトとかスピノザとか16~17世紀哲学から「機械」の構想をもらっているのは一応言えるかな。けっきょくややこしい話に…
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Mar 31, 2008

言葉-自分に向かう・誰かに捧げる

 ドウルーズの『スピノザ-実践の哲学』を読んでいる。

 何で表現の話をする際に哲学を参照するのか。色々自分なりにも不明な点があるので考えてみたい。久しぶりにデカルトの『方法序説』を読んでいたら、面白い文章が2つ見つかったので引用する。(岩波文庫落合太郎訳 より。)

 私は雄弁術を十分に尊重し、また詩をば深く愛した。しかし、そのいずれもひとしく勉学の成果であるというよりは、むしろ天賦の才能であると考えた。最も強大な推進力をそなえ、自分の思想を明快に、かつ理解しやすいように、たぐいなく見事に処理する人たちは、たとえブルターニ海岸地方の方言しか語らず、修辞学をまるで学んだことがなくても、かれらの提出する事について常に最もよく人を承服させることができる。思うがままに読者を読者を楽しませながら説得する創造力、これはすぐれた技巧と調和によって発揮しうる人たちは第一流の詩人たるを失わぬのである、かれらにして詩学をしらずにいたとしても。

 デカルトというと哲学者なので、詩のことなんて考えてなかったように思われるかもしれない。しかし、思い切った見解である。しかも非常にわかりやすい。「現代詩に汚染されていない素人こそいい詩が書ける」といった雑な反論も聞こえてくるが、それは極論であり、ある命題の否定に過ぎない。素人だろうが専門家だろうが、その人がどんな人かというのは第一義的に詩とは関係ない。ある専門的な技術めいたものと常に批判的な緊張感をもたねばならない。なので、現代詩はある意味で伝承がむずかしい。しかしある点で、詩はその人の持っているものと関わる。この点を誤解している人は多すぎる。その人が彼の書く内容に対して、正確な(学問的ではない)語り方を見つけ出すことができればいい。そして何よりもデカルトが「天賦の才能」としか表現できない表現への衝動と核心をつかめれば、その人がどんな属性・職業・言語・人種的な存在であるかは関係ない。しかし、表現の衝動と核心を掘り当て更にそれに適切な形を与えるのは非常に繊細かつ困難な闘いを必要とする。しかも、必ず努力したら、人をそして自分を拡張しうるようなものにたどりつけるとはいえない。なぜか書けてしまう人がいる。その真実をデカルトは「天賦の才能」と呼ぶ。
 ひとつ注釈をつけるとすれば雄弁術だろう。雄弁術とは演説や説得の技術である。ギリシャ=ローマ以来の言い回し(レトリック)の研究であるが、これがどのような言い回しや語り口や修辞を使えばよく人を納得せしめるかという風になる。アリストテレスが大きく体系化しする。人を感動させ真実を伝える最上の方法として西洋で考えられたのが「詩」であった。つまり人に伝えメッセージを伝播させること。それはスローガンやキャッチコピーに今はなっているのだが、それ以前は実は詩が玉座にいたのである。(と思う)

 けれどもデカルトは当時支配的な「スコラ哲学」(スコラは学校の語源)による神学と合体した煩雑なテキスト解釈や思考の方法に異議を唱え、我に帰り自分から出発する哲学の方法とスタイルを打ち出した。そのため学問に関する著書はラテン語で書かれるのが通例であったが、彼はインテリ階級(僧侶・学者)からすれば田舎言葉に過ぎなかったフランス語でこの『方法序説』を書いた。みんなにわかりやすく書いたとか何とかインテリが降りてきたと解釈もされようが、たぶん真相はちがうと思う。「我に帰る」あるいは「我から出発する」ということが大事だ。その我がどのように形成されてきたか。旅という契機が重要になっている。もうひとつ引こう。デカルトは自己中心の哲学として批判される。しかしそういう人たちは次のようにいうデカルトをどう考えるのか。

 実を言えば、よその人たちの風習を眺めることだけしかしなかったあいだは、そこに私をして確信せしめるに足るものをほとんど見いださなかったし、さきに哲学者たちの様様な意見のうちに認めたとおよそ同じくらいの多様性を私は見いだしたのであった。このようにして私がそれを引き出した最大の収穫はといえば、私どもにとってこそ甚だ異常なもの笑うべきものに思われても、他の処処方方の大民族によっては一般に受けいれられ、是認される多くの事のあるのを見、単に習慣と実例だけで自分を承服させてきたような事はこれをあまり堅く信じすぎてはならぬと覚ったことである。かくして私どもの生得の光明を暗くし、理性に耳を傾けられぬようにする多くの迷妄から、私は少しずつ抜け出していった。が、かように数年をついやして世間という書物の中で研究し、多少の経験を積もうとどりょくしたのちのある日のこと、私自身によってもまた本気に考えよう、そうして辿るべき道を択ぶために私の精神の全力を尽くそうと、私は決心したのである。このことは、私の本国や私の書物からまるで離れずにいて成功したであろうよりは、よほどよく成功したもののように私には思われる。



 よその国で当たり前と思われていることが変だと感じる。あるいは不思議だと感じるということは現代でもたくさんある。民主主義国家に育った人たちにはカースト制が謎であったり。それだけでない。それぞれの家にもうちだけの習慣があるはずである。デカルトは単なる私至上主義ではない。多くの私至上主義とは一線を画する。それは「多様性」を実感した上での、「では私とは何者か」である。自分から見た他者は自分からは変なルールで動いている。そう観察する。そこで終わりだったら多くの排外主義とかわらない。つまり「俺は正しくておまえらは変わっている」である。しかしその感じをみとめた上で、じゃあ自分が自分の国や家族や世間を生きるために採用していたルールや正しいと思っていたものは何なんだろうと進むのである。自分だって「変な奴かもしれない」と。
 そうするとこれだけ様々な違いが眩暈がするほどあるからには自分が生きてきたルールを「堅く信じすぎないようにしよう」というのである。ここはデカルトがすぐれているところ。たとえば、自分が生きている事実あるいは実存の正当性(あるいは当たり前さ)が様々な旅(これは具体的な旅のようにも取れるし様々な他者や世界に対する経験が変化し続けること=人生ともいえる)によって、ゆらぐ。しかし、だったら、「人生色々さ」で終わらせたり、「全ては相対的であり信じられるもんなんてない」「他の文化も尊重してやりましょう」と言ったりするだけではデカルトは終わらない。私は20代の頃この方向に大きく勇気づけられた。
 どれだけ色々であり様々であっても、自分が生きていたり存在していたりする事実は変わらない。つまらない人生よりはしっかり考えて、自分をより真実に近づけようとするのである。真実に近づきたい衝動というのは解説が難しい。デカルトは「生得の光明を暗くし、理性に耳を傾けられぬ多くの迷妄」から抜け出すといっている。もちろん思索において最初に述べたスピノザや様々な哲学者より「あんたはおかしい」といわれたデカルトである。私はデカルトは全ての迷妄から逃れたとは思わない。この迷妄という言葉は、「迷信」みたいなものに近いのかもしれない。けれど、どうもそうでなくて「我を忘れる」みたいな感じに近い気もする。
 私はデカルトではないから、バカになる良さは否定しない。しかし、人は意識してバカではない。私にも知らないことがある。たくさんある。あなたにもたくさんある。それ自体はちっともおかしなことではない。デカルトはだから「世間という書物」を研究するのである。知識を増やすのではなく、譲れないことを明確化させようとするのである。疑問としてはそんなことできるのかという気もする。
 私も少しずつ老いて今より頭も堅くなるかもしれないが、最近思うことは年を重ねるのは悪いことだらけではないようだ。私の場合書くことを通じて、何か自分にとっての山に近づいているような気がする。しかし、山がそうであるようにどんどん険しくなるだろうと思うのである。
 私がデカルトに引かれるのは、ある種常識や良心に敬意を払う点である。私は夢想的で非常識に実は陥りやすいからすごく参考になる。しかし、その常識の確かさや多様性を味わった上で、自分が出来ることの極点まで踏破しようとする冒険心は一方で慎重な私を駆り立てる。世の中には不条理や自分では解明が一生出来ないような他者の生や出来事があるのだ。そのわからなさに自分が打ち砕かれ、様々な誘惑に惑わされ、自分もまた他者を誘惑する。その中で、自分を深く知ると同時に自分を失う側面もある。自分が更にわからなくなり猜疑心に陥る。
 想像だが私にひきつけていくとデカルトは、猜疑心との戦いに勝ったわけでもなかろう。しかし、あらゆるものが信じられずわからなくなり、勉強も何もかも通じないという形で生きていて私はなぜ死なないのか、生きてしまっているのかと考えたのだろう。しかし、考えているからにはそれは私がなぜか生きてしまっているからだ。そのなぜかはわからないけれど生きているという回路を辿ったのではないかと思う。
 問題はそこからだ。その私を確認しどこに向かうかである。その手前で私はずっと詩にしがみついてきた。結果的にそういう側面は大きい。私も34になり人生の折り返し地点は近づいている。ここをどう折りたたむか。その際に詩がまたべつの役割を果たすように思う。詩は贈り物だとか自分を他者に捧げることだという人もいる。私はこの文の冒頭でドウルーズによるスピノザを引いたのだが、スピノザは悪をどう免れるか、より素晴らしく晴朗な生に到達できるかと問うているように思える。それはスピノザの生も相当しんどかったから、死なないで生きるにはどうしたらいいか考える。(ドウルーズによるスピノザはコナテュス=自己存続の努力を最上とし病気や自殺の危険の中でも生き延びることを模索する)そのために自分がどれだけちがう自分を生存の様態を取れるか考える。
 予感として、おそらく私はそれとはちがう方向にいく気もしている。スピノザがダメだというのではない。しかし、なんとなくスピノザはちがうような予感があるのである。また先延ばしになってしまうがドウルーズによるスピノザ論はまた考える。
 私がここでスピノザを安易に肯定すると、自己存続をより補強する形に向かわざるをえない気がするのである。スピノザはそうではないのだろうけれど。私はなんとなく自己存続のために言葉や詩があるのではないような気がしている。言葉は自分を突き抜けて誰かに捧げるもののような気がするのである。私は自分を犠牲にして他人に尽くすという考えに長らく取り付かれ、しかしそれが恐かった。結局私はあまり語ることがなかったけれど、何かのために死ぬ、その死に場所を探していたようにも思えるのだ。つまり死に取り付かれていた。しかしその考えは私には恐かった上に微かな違和感もあり、なんとなく死なないで(死ねないで)済んだに過ぎない。私はなんとかそこから回復しつつあるような気もする。死は最大の意味体験であると同時に意味の死ぬ場所である。しかし、私はなぜか知らぬが今は死ねない。死ねないほどにはこの世界で感じたことを愛しつつあるようだ。ちょっと大げさだが、その愛とも呼べるものが自己欺瞞にならぬよう注意したい。私はお人よしなのだ。甘ったれなのだ。自己中であると同時にお節介なのだ。その私のありのままに少しでも近づくことが他者・他在との距離を少しでもちぢめる様な気がする。そのようなことを可能にする奇妙な力が言葉と生との間に存在する様な気がする。言葉に自分の生命それ自体を乗せることができたら、それは最大の自由であり他者へ向かっていくだろうか。それをなんとなく「捧げ物」と呼びたい気分なのである。
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Mar 27, 2008

考察メモ①の補足と反省

 昨晩の考察①について。朝ちょっと考えていた。まず、なんで考察①を書いたかというと、多分次の問題が気になっていた。よく現代詩を定義する時に大まかに言われることとして、「手垢にまみれた言葉を避ける。吟味する。」というのがある。それに対する疑問。
 まず「手垢にまみれた」とはどういうことか。それは「古い」とか「ダサい」ということなのかな。しかし何をもってダサいとか古いとかありきたりと云いうるのか。多分そう主張する人の中にも、いろんな価値観があって、古いとかダサいとかありきたりという風に「ある種の言葉の使い方・展開・描写・イメージ・作品内世界観」を感じて批判している。
 わからないのは、どういう対象=言葉の使い方に対して、なされているかということ。これも大問題なのであるが置く。もうひとつは、ある価値観がある作品を「ダサい・古い・ありきたり」というのだとしする。では一体価値観とは何なのかということ。



*ドウルーズと表現について考えるその前段階ーいかなる価値観が物を見る際の色眼鏡となっているのか。

 ドウルーズに対する昨日の反駁は非常に稚拙だったので反省している。けれど、ドウルーズもあれもダサい・これも古いということで色んなものを切り捨てているのではないか。現代詩のある種の傾向と似ている。もちろんドウルーズは17世紀の哲学者(ライプニッツ・スピノザ)に多くをおうている。ドウルーズは新しい光源の中に彼らを置いているのは知っている。
 ドウルーズの発想の源にはニーチェがいて、「生成の無垢」という。これは「あるがまま」みたいなととどうちがうのかな。色んなものやことが変化するその様子を「ありのまま」に肯定する。まず、それは可能なのか。可能だとしても、その「ありのまま」の追求の動機は何か。それは手放しでいい傾向だといえるのか。
 また、彼らの流儀で「ありのまま」を肯定することは、果たして「ありのまま」の必要・充分な肯定足りえているのか。とりあえずドウルーズの発想の一例が見られる「スピノザー実践の哲学」が手元にあるので、この本の第4章「エチカ主要概念集」の"いいーわるい"あたりを見てみよう。平凡社ライブラリー鈴木雅大訳の80ページ辺り。また後日できたら書いてみたいなあ。できないかも。メモ的な感じにしようかな。おそらく「ありのまま」を肯定し記述するために戦術的にそれを邪魔するものを外すという感じ。しかし、誰しも価値観からは逃れられない。だとすると「ありのまま」に接するどういう態度や語り方が僕はすきなのか。
ありのままは「生まれたて」とか「純粋」とか「実在」とか「物自体」とかおそろしく色んなニュアンスがある。私の挙げた言葉も恣意的な選択によるが「物自体」はカントの言葉で、私たちは自然や物質などをいったん感覚器官(目皮膚耳その他諸々」を通して表象(音・言葉・光線など)の形でしか知ることができないという。だったら「ありのまま」なんてないのかもしれない。しかし、ドウルーズだったらどういう感覚や受容の仕方が「ありのまま」の素晴らしさをより多く素晴らしく感じられるかという風に答えるかもしれない。それが「よい」の意味だろう。だとしたら、そんなに悪くない。けれど、そこで「よい」とされている捉え方や反応の対にある「わるい」は一体何なのだろうか。詳しくは先の『スピノザー実践の哲学』の該当部分にヒントがあるのだけど。しかし、善ー悪に対してそれに汚染されない「よいーわるい」の立て方は『道徳の系譜』のニーチェと同じである。でもニーチェの方がやばいものも取り込んでいるかもしれない。本家だから。ニーチェの「わるい」に相当するものは原罪とか怨恨である。人間はもともと罪があるとか、しかし罪を感じられるから幸いだとか。ニーチェはこれを卑屈というのだが、ニーチェは個人的に「うじうじ」しているのが嫌いで、それはニーチェ自身が「うじうじしていたから」かもしれない。現代詩に対してもより戯画化された形で感じるのだけれど、ニーチェのように「ダサいという自分も実はちがう意味でダサいのだ・ダサいにこだわっているのだ」という内省がどこまであるのか。これだと悪口みたいだが、僕自身人のことはどれだけでも言えてしまうので、これは自分に言っているのだ。そして、さっきはそれが悪いことのように書いた。けれど、繰り返すが何がどんな価値観が「ダサい」と感じさせるのが重要で、哲学の議論を参照するのは無益ではない。

※ちょっとすっきりした。ついでに言うと昨晩の「考察メモ①」はレヴィナスの記述もかなり反省している。何しろ言葉遣いがグダグダ。これでは失礼である。このブログには2年前に「レヴィナス入門」について書いたものがあって、その後「全体と無限」を読んだのだが、2年まえの「レヴィナス入門」はわからないながら、ポイントを粗くではあるが書いている。http://www.haizara.net/~shimirin/blog/ishikawa/blosxom.cgi/nikki/20061017160732.htm
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考察メモ①-最近のまとめ・自己表現の課題

 ここんとこ、あれやこれやと考え今年の3月よりブログを再びちょくちょく更新している。それは具体的なテーマとかはなかったのだが、ドウルーズのことを書いていて「欲望」「生命」というテーマが出てきた。
 別にドウルーズにこだわるのではない。私は自分の「存在」(と仮に云う)の在り様を描く言葉を持たなかった。何となくの感触があり、それをとりあえず自分かなあと考えてきた。別に昨日も今日も明日もかなりの確率で自分は自分でしかありえないし、自分が石川であり、34歳であり、男であり…ということは間違いない。いきなり明日から僕は今までの石川とはちがう別の存在だ(例・宇宙人)と言い立てるつもりはない。家族にとって僕は家族だろうし、デイケアに行けばメンバーのひとりであろう。
 しかし、そういう属性では語れない自分というものがあって、それは「本当の自分」とかではない。けれど、その人の属性で語れる(女性である・職業はフリーター云々)自分とはちがう自分をほとんどの人が感じているのではないか。しかし僕は僕の例しか知らないのでそれで話す。
 どういう場面で僕は自分が予想外の人間というか存在だと感ずるか。つまんない話だが、僕が暴れまわっていた時には、それを自分として感じていた。おかしいのは、自分は優しいと感じていたときには、そんな自分は想定していない。けれど、暴れだしたらそれが自分なのだ。親は、大人しい子だと思ってそれが本来だと思い、回復した今を喜ぶ。僕もそうだなあと思う。ああいう時期も人にはあるよと親と話すこともある。まるっきり親の言うことも大体正しいと思う。けれども、自分の彼女からはエネルギーのある人だと云われるのである。友達にも云われる。そういうわけで、人間はなるほど多面的だと思うが、この話からすると、非常につまんないエピソードだが、「本来の自分」などという語りがあまり役に立たない。
 「俺はこういう人間です」とか言うのはつまらない。けれど、僕は自分が何ものか気になってしょうがない。誰かにそれを証明せよといわれたわけでもないのだけれど。
 自分が何者かについては、ある直感がある。けれどそれが言葉にしにくい。秘密なんじゃなくて、どうしてもきちんと話そうとするほど、自分の手持ちの言葉がうそ臭い。だから、自分の言葉の限界に出会い更新するため作品を書いたり考えごとしたりしている。
 でも、変な言い方なんだが、自分が何者か考えることは、ある種人としての責任なのではないかと思う。正直、考えることをサボると元気が減る。親父には考えすぎるなと言われたが、考えすぎは問題ではない。というか、自分のつかんでいる何かから外れだすと「考えすぎ」ではなく単におかしな方向に話が行っているのだと思う。こういうことは、非常によくある。気づかないまま、どんどん考えがつまらなくなってて、キチガイじみた方向に怒っているのだ。

 さて哲学の本を読んでみると、何かを語る際大事なことは2つあると思うのだ。①問題を固定しない②仮説を何度も立て直す③しかし、適切な問いを立てる。ここで適切と言うのは、言葉をなるべく論理的かつ感覚的に吟味することだ。扱う対象にあった言葉というものがあるいは表現がある。哲学が難しいと感じるのは、その人独自の新しい問題に表現を与えるため独特の言葉遣いや概念を作るしかないからだ。もちろん、比較的わかりやすい表現を使う人もいる。しかし、平たく述べるためにその人がどれだけ言葉を吟味して使っているか考えるといい。これらは、読者を煙に巻く不誠実でも過度に神経質なのでもない。その逆で、その人はその人が大切にしている問題をそのまま提示したいと考えているからだ。
 以上のように考えると僕の語法は不安定で揺れている。これはひとえに不勉強だ。しかしもうひとつ理由がある。ぼんやりと柔らかい形、あるいはあえて舌足らずでしか表現できない事柄があった。だから、僕は今は文学を選択しているのだと思う。専門の哲学徒になっていたら、通用しない微かな直感(ドウルーズなら微分的とか分子的というだろう)は、どこかへしまうしかなかっただろう。僕はあまり厳密ではなかったし、固定されると我慢ならない程度には、怒りっぽく度し難い面がある。
 ドウルーズも語の定義が曖昧であるとか、いい加減だと言われるのだが、僕はSFとか詩が混じった変な小説みたいに読んでいる。ドウルーズはパンクというか、サイバーともいうかそういう文章だましいなのだと思う。(もちろんそうでないのもある)僕はたまたま詩を書いているため、そんな読み方をする。ひとつ予感としていっておきたいのだが、そして今日のメモはこんだけにしたいのだが、最後に。

 疑問:ドウルーズはなんか疲れる。焦っているから。なんでこないに焦っているのか。それは無理に答えを出そうとしている。彼はあらゆる実体化に逆らうために、つまり「本当の自分」とか「あるべき人間」みたいな語り方にうんざりしている。だから、人間も動物もあらゆる存在=森羅万象を「機械」と呼ぶのである。人間も豚もお母さんのおっぱいもそれを吸う赤ちゃんの口も機械である。国家も、親族の構造も。ほら詩的でしょう。つまり特権的なエライ「存在」を認めない。みんな機械。難しく言うと超越者=神がいない。また、物体とか自然とか存在とはいわない。みんな固定されたイメージがあり、それにひきずられるからだ。物体のように硬く止まっていない。全部流れて広がって色んなものとくっついては、離れてを繰り返す。古代ギリシャの哲学者は万物流転とかいうだろう。ドウルーズは生命や欲望の性質って、とらえどころがなくて、たぶんこれまでの普通の意味で云うと節操がない。そう思う。共感。だって、それが人の欲のいいところ。
 けれど、それはいいとしても、それで何が云いたかったかイマイチわからない。もうちっと勉強しよう。ありていに言ってしまえば「何にもとらわれない」というのかな。本来の自分なんて狭いものに負けない。それは偽者だと言うような。でも、その場その場で、アレンジされていくだけが欲望や生命なのかな。だとしたら、人や自然を、あるいはこの景色を好きになる理由がわからない。少し先を急ぐと、「とらわれないことにとらわれ」(という先日の日記とつながる)すぎているのだ。いいかえれば、おこっている現象を丸ごと取り出そうとして、とりだすことさえためらったままのような。それは彼なりの良心なのかもしれない。けれど、見方を変えれば言葉で「物そのもの」(カント)をきづつけないように表現しようとして、言葉が破けている状態なのだ。
 順序は逆で、「とらわれない」と宣言するからつらい。尾崎豊のように「支配から卒業」しようとして、より自分を苦しめている。ここで根本的に対立するのがレヴィナスだと思う。面白いブログを見つけた。世界に曝され、それにとらわれて悩んでいるところから、始めて、その状態を忘れないのが大事だ。苦しいから、逃げたい。逃げられない。きづつく。のんびりしたい。レヴィナスはのんびりしていいという。けれど、ぬくぬくしていたら必ず何かしたくなってくるよという。したくなる=欲望が果てしなく行きまくるだけなら、なんとなくちがうのではないかと言うのは僕の実感だ。目ざすものではないけれど、この人だから好きってなるまでに、あるいは詩がすきってなるまでに、いくつもプロセスがある。つまりいきなり芸術は爆発だではない。もちろんそうでない場合もあるんだけれど。このブログは例えば精神病で、あらゆることが気になってにっちもさっちもいかなくなって、きづつきまくるのも、人間の姿だと。なぜそういう状態があるかと言う。おそらく意味がある/ないというこの世のきつさは、ある事実を隠蔽するので、意味にとらわれない言葉で語るには、どうしてもその状態を通る。だって、いろんなものの姿は意味のあるなしだけでは評価できないし、理解も表現もできない。それだけでは苦しくないし楽しくない。自分にとっての意味がどこからやってくるかが大切なのだ。それを吟味する道がなんとなく見えてくるような気がしている。これは精神病だけじゃなくてあらゆる現代の芸術の課題と同じではないかな。

※ツカレタ!!
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Mar 25, 2008

血迷う思い出

 灰皿町の布村さんのブログを読んだら宇多田ヒカルの最新アルバムのことが書かれてありました。で、自分もその前の"URTRA BLUE"はMDに入れてたので聴いてみた。直に戸惑いや逡巡からある種の願いや祈りにいたる振幅と襞の表現は細密で驚く。紫式部はおおげさだけれど、世が世ならある種の典雅な歌人や舞人になっていたかもしれないと思う。ひとりの女が「あなた」を愛そうと懸命に悩んだり健気な気持ちになっていること。それは単なる夢物語にとどまらず二人の距離や関係についての極めてシビアで現実的な認識に支えられている。しかし、そのように聡明であることと、気持ちの燃え立つ感じがうまく整合せず、ぎりぎり悲鳴に近接し、それを免れて、深い祈りや願いにちかづいているのだ。
宇多田がこのアルバムで、少女や聖女や女性や母や男気としてさえ現象するようには私は多様なジェンダーは持たないと思う。けれども、そんな一介の冴えない男である私でさえ、自分の中におやじや母や子どもや老人がいるような気がするのである。
このアルバムはそういう前提の上でいうと、一種の古典的な女性のあり方が見える一方、それに還元されない、裂け目というか強い圧力となってあらわれる声が苦しく迫ってくる。

なんだか偉そうに書いているわけであるが、時々音楽評のまねごとのようなことをしたくなる。実は20代前半の頃Cutという雑誌を読んでロッキングオンのアルバイトか社員に応募したことがあるのだ。何を血迷ったか、職歴のほとんどなかった私が2度ほど応募した。確か履歴書と作文で、民生のことを書いたっけ。
この頃から大した才能もないのに東京に出て一旗上げたいとでも思っていたのか。私にはそういう尊大極まりないところがありそうである。たぶん、万が一採用されても、半年でうつ病や失踪だったにちがいない。
一方で私は、ノートに雑文を書くだけで、まともな活動はほとんどしていなかった。雑誌を読んだりして、評論家気取りで反論を書いたり、あるいは詩を書いて、新聞の懸賞論文やタバコ会社の詩の賞に応募したこともある。自分の文章は人様に見せられるものではないと思いながら、あわよくばという見込みの甘い願望があったのだ。何か世に訴えたいのだけれど、何を云いたいのかもわからずに。かなり危ない人だ。
しかし、その後はいくつかの修行の場で鼻を何本かへし折られた。それでも、しつこく書いているのだからかなり図太い。今でもはっきりしたメッセージはあまりない。肥大した自意識のために書いているのかと疑う。それでも時折昔書きたかったことや、これは書きとめておこうと思うことが折に触れて浮かび上がり、書いたときは「いいかな」と思うが、あとでふつふつとあれではきちんといえてないと思えてくるのである。今は自意識の割合にわずかに「きちんといえてなかった」という痛みや申し訳なさのようなものが加わって、よりよいあり方を探しているのだと思う。それは大げさな言い方だけど、私を放さない私が逃げることの出来そうもない生命と他者のお導きでないかとも時々思う。でもカフカを例に取るとカフカが怒るだろうけれど、自分の原稿を燃やしてとはいえない。私はまだまだ文章に向かう姿勢がなってないのだ。そんな私ですがこれからもよろしくお願いします。
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Mar 24, 2008

涙舟としての

泣きながら話すということが何年かに一度ある。そういうのは病気のせいかとも思ったし、そういう一面があるのは否定できない。けれど、そうでもないような気もしてきた。
 泣く時はどんなか。こう何だかわからない糸玉が本当に喉にあって、どれだけ引っ張ってもどうしようもない時。糸玉が球体に変わるとき。ごりごりしている。(でもないかもしれない。こういうのは嘘くさくなる。)
 しかし、相当がんばって、もう洗いざらいいう。そうすると、多分ある限界に達して、どうしてもこれ以上はもう今の私の手持ちでは言葉にはならないというとき泣くように思う。ゼロになるのではない。けれど、もう泣いたら変わるしかない。けれど、変わるのに時間がかかる。いや、これだけではない。
 僕は「絶対」という言葉は苦手だが、泣く時かすかに絶対に出会っている。ふだんは何かを比べてまだ大丈夫とか思っていても、逃げ切れないときは泣く。
 それまでは我慢している一線があるのだろうな。というのは、僕も一応はそのように誰かの涙を見たことがあるからか。そのとき、どうしようもなくその人を思っているかどうか気づかされる。誰かが、「かつて日本人は人が泣くのを見るとき神さまをそこに見ていた」といったのはそういうことかもしれない。誰かが泣いている。と、その人が孤独であるように見える。しかし、誰か抱いてくれる、くれた者(生きている人ではなく死者でも神でもよい。そこにいなくてもよい)がいるように僕は感じる。泣けるのは誰かに抱かれたり抱くものを求めていた記憶があるからだ。ありていにいえば母ちゃんということになるが、そうでなくてもよい。本でも人形でも風でもよい。しかしかけがえのない何か。その記憶を辿る。
 僕は泣いて、誰かに抱きとめられたいと思っていたのではないか。いつもそう思う。しかし、守られたいだけでなく怒りや抗議、いかんともしがたい何かに向けて泣く。自分が情けないと思う。けれど、尊厳あるものとして生きたい。いじめられたとき、よく家に帰って寝る前に泣いていたのはそのせいかな。
 今はどこかで誤魔化して黙ることができている。そんなに隠し事もない。けれど、いつか糸玉が絡まり泣く日もあると思う。糸玉はいくら泣いても冷めない。ほぐれない。僕の体の中にいつも絡まり続ける糸玉がある。大人になってきたような気もするから、冷静に記述しているつもり。だから、人から見れば素直じゃないと思われるだろう。だけど、泣いていたあるいは泣かなくても抱いたり抱きとめられる中で、僕は成長してきた。ある意味で幸せすぎた人生であるようにも思う。激しい孤独の中で泣くこともやめようとするものがあまりにも多くいて。また泣く人がたえずどこかで僕は気になり続ける。僕の狭い視野の中でも。
 泣いているからって何もかもは許されない。けれど、やはり泣かない限りやってられない。あるいは、泣くという局面を味わわなければならないように人間はできているように思えてならない。それをだきとめあってかろうじて人は幽かな綱渡りを続けられる。
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Mar 23, 2008

犬バカ

080323_1103~01

 今日は犬と遊んできた。なごんだよ。
 犬にも性がある。いや、性別というんじゃなく触れたりわかりあえたり、距離があることを楽しむということ。我々はなかなか久しぶりに会えてうれしいということをしっぽを振るというような明示的なやり方で示さない。それが人間の悲しみであり、楽しみである。けれど、帰り際は本当にさみしそうなので愛おしくなり、犬の目が潤んでいるように見え、そう見える私も犬バカなのではないかと思う。

 しかし、いささか表し方や働きが異なるだけで、我々もこれとおなじことをやっているように思う。気持ちの回路や通路の接続の仕方、あるいは関わりの中で生まれる襞が少し違う。けれど、まさか犬の伝えていることが「わかる」というと犬に失礼だな。私たちは犬のある部分を見て、解釈して、「この犬は僕を気に入ってるのかな」と思っている。でも、ちがうかもしれない。ほとんど同じことが人同士の間でも起こっている。誤解されると人は怒る。犬だって怒る。けれど、何を怒っているか本当のことはわからず混迷は増すばかり。
 犬を通じて逆にこう発見する。しかし、犬がかわいいとか、あるいは誰かが愛おしい(同列にならべてどうする)憎らしいと思うことにちがいはない。けれど、犬は基本的なところで裏切らない気もする。しかし、そっけない顔もするので、ますますかわいい。ひとえに犬バカである。

 ※tab9号はコピーが大体終わったので、そろそろ送付して行きたいと思います。関係各位の皆様、もうしばらくお待ちを。  
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Mar 22, 2008

人間そのもの

 天気がいい。午前中は眠ってしまった。洗面・トイレ・流しの掃除をする。丹生谷貴志という仏文学者が中上健次について語っているものを読んだ。すごく刺激を受ける。
 僕もまた自分を救うために、自分の苦しみを吐き出すために詩や文学を使ってきたのかなと思う。別に問題ではないのだが、文学があまりにも自己救済のためだけに存在している気もするのである。一方で、そんなんじゃないという声がある。つまり作者=作品内の語り手ではない。だから自分と作品、自分と文学を切り離さなければいけないのだといきむ者たちがいる。
 僕には前者は開き直り、後者は自分のために文学があってはならないようである。つまり、どっちも自分を覗きこんで「何にもない」とか「かすかに何かがある」と評価することを恐れ怠っている。つまり「恐がり」なのだ。僕は恐がりなんだが、それでも自分のことをみっともないと思えばそう書くだろう。これも開き直りかもしれない。
 今のところ折角先人が開いた場所が封圧されてしまった。私小説はダサいということになれば、私小説作家の苛烈な自己探求は忘れられる。またそういうのでなく、もっとスマートに構造として作品を考えるという路線もダメになったようだ。それもダサいらしい。みんなダサいことにされてしまって、みなどこに行くつもりなのか。
 ダサいとか、流行とか、あるいはキモいのもいいなんていうのは、人間の存在そのものと何の関係もない。流行に対して、あるいは空気を読めという野蛮な怒号みたいなものは、もう僕が中学生の時に散々排除やいじめとして働いたというのに。つまりそこでも人間そのものは忘れられる。ないことになる。
 シェイクスピアに「きれいはきたない。きたないはきれい」というセリフがあるらしい。人間はそういうものだと思う。例えば性は綺麗か。綺麗じゃない部分がたくさんある。でもそれを求める。求める働きの中に、何か綺麗なものがある。しかし、その綺麗さはどうしようもなくみっともないものとしてあらわれる。例えば、人を好きになったりすることって、肉欲も精神も、人とのつながり、空や雲や花そういうものが全部働いて、一瞬で成就したり、その一瞬後にどうしようもない空虚や破壊があるものではないか。そういう有り様を「みっともない」といえるし、我々は言うが、その最中の人間はそれに必死だったりする。
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Mar 14, 2008

ふかいところでつながることー水木しげる『猫楠』について

 昨夕から頭痛。頭痛薬を服用したため痛みはマシになったものの、頭の重さや体のだるさはある。風邪とは異なる感じ。僕は春先が苦手だ。ここ数日で急に暖かくなり、体がそれにおいついていない。背中、肩、首筋が張っている。仕事を増やしたりカウンセリングが少なくなっている性もあるかもしれない。けれども、それはこれから慣れていくだろう。けれど、恐らく冬の間の冷えが体の中から体の表面にあらわれて「凝り」になっているとはいえないか。
 そんなわけで今日は家でゆっくりしている。あまり昼から寝ると夜の眠りが浅くなるので、マンガを読んでいた。
 そのマンガは水木しげる『猫楠ー南方熊楠の生涯』
 面白かった。ダーウィンらとネイチャーに名を連ねた学者である。けれども、イギリスから帰国後はアカデミズムからは距離を取り和歌山に引きこもり、弟の援助で粘菌の研究を続けた。破天荒というか常識のない人なのだが、友達は大切にする。水木の『ヒットラー』は暗澹たる感じだけれど、『猫楠』はひょうひょうとして明るい。
 熊楠は人を見かけで判断しないようで、信頼すると頼る反面大事にする。見かけで判断しないというのは、粘菌に対する彼の研究哲学にもあらわれているようだ。粘菌は形はぐちゃぐちゃの時実は生きていて、綺麗な形の時は半分死んでいる。見かけと生命の内実はちがうというのだ。また無生物と生物、植物と動物つまりそういう区分けが通用しない存在であるというのだ。熊楠はその才覚のわりに、世慣れず日陰の存在と思っていたようで、じめじめしたところに生きる粘菌に自分を重ね合わせていたのかもしれない。
 見かけで判断しないというのは、表面的なつきあいではなく、地元にずっと住んで、森や地縁を大切にしたようだ。熊楠には民俗学者としての側面もある。神社の統廃合の時猛反対した様子も書かれている。精霊や生き物や目に見えないものをも大切にするのだ。
 水木の筆致が明るいのは、水木が熊楠に共鳴しているからではないか。水木は熊楠よりずっと世渡り上手だと思う。けれど、水木がラバウルで右手を失った時、地元の部族の人と遊んだような、「縁」の考えを熊楠の中にみたのではないか。
 友達を大事にすることは難しい。僕はいつもそう思う。それは僕が傲慢でわがままな人間だからだろうと思う。人間の魂や精神の微細な部分について、僕は非常に鈍感なのではないかと思う。やさしそうに見える振る舞いは、刹那のものだ。ずっと長くおつきあいするには、嫌になる時期もある。けれども、常識や見かけで見ない。深いところでつながることができればいいな。そうすればどんなに離れても近くても距離の問題でなく友達でいられる。ただ晩年友人を亡くしていく熊楠は本当に寂しそうだ。彼はずっとさびしかったから友達といたかったのだと思う。僕もさびしがりだからわかる。
 しかし、そういうのは非常に難しいのだ。熊楠は子ども達もかわいがった。けれど、長男は発狂して、そのあたりの記述は熊楠を超人や変人としてでなく一人の親として描いている。非常に切ない。また晩年、弟からの資金援助が絶たれ絶縁する。僕も偉そうにはいえないが、身近な人のことに熊楠は鈍感になりがちだったのか。それとも近い人だからこそ、深いところでつながることが愛憎を強くするのかもしれない。深いところでつながる。魂の深層は穏やかであり、また火のように激しい。それと折り合いをつけるのは、どんな偉い人でもできない。だから、人はせめてそれを隠したり、また親しい人だけに見せたりしているのではないか。しかし、それは見せたら見せただけ相手に苦しみも与えるのではないか。

   頭痛で友人の演奏会に行けなかった。でも、メールしたら暖かいメールが来た。少しセンチメンタルである。長文を書いたら肩は凝るが少し気分はマシになりました。
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Mar 13, 2008

ずつう

仕事から帰宅したら頭痛がする。出かけられるかな。急に暖かくなったからか。花粉症ではないが、空気がさっぱりしていない。思い込みかよく知らないのに偉そうにいってしまうと、スギ花粉の飛散は、国策の巨大な失敗のせいである。伐採して山に道つけて、その後、杉を植えすぎたのだろう。これくらいの規模になった今、国は知らんふりして責任をとらないなんて可能なのか。そのうち外が歩けなくなるで。
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むずかしいことばかり

 昨日は高階さんや、しげかねとおるさんや、果歩さんの詩集を読んでいた。ある人に「現代詩ってどんなですか」って問われて考えたけれどわからなくて、色々ひっぱりだしていたのだ。いずれの詩も再発見があった。

 今日は友人の雅楽の演奏会に行こうと思う。友人は初級から上級への階段を登りつつありうれしいな。
 そのついでにドゥルーズの『記号と事件』を手に入れようかな。ずっと『アンチ・オイディプス』を読んでるんだけれどなかなか手ごわい。理解の補助線を引くために。『記号と事件』は本人による入門みたいな位置づけのようだ。
 『アンチ・オイディプス』は、フロイト=ラカンへの批判と資本主義に対する分析が合体している。両方とも手強い。
 フロイトは心を記述しその底にある葛藤の源を『オイディプスコンプレックス』と名づけた。平たく言うと、子どもにも性欲はあって、それでお母さんが好きになるんだけど、お父さんに阻止されてしまう。だから、心のエネルギーが捻じ曲がるということのようだ。(間違っていたらすいません)
 ドゥルーズ=ガタリは、心の中がパパーママー私の三角関係だけで支配されているとは到底いえない。それなのに、親との関係を第一義的に人間の心の根源に居座っているとしたら、それは治療者の刷り込みであり、その根底的な家族主義は社会制度や権力に都合がいいんじゃないかというわけです。
 ドゥルーズはフランスの人なんだけれど、国を問わず「家族」って人を惹きつけ困らせるテーマなんだと思った。彼は結局、人間や生命の欲望=生命エネルギー?を家族を単位とする社会が離接(ある部分を切り捨てながら、養分だけを吸収する)する形で支配を強めるという。
 今もどんどん高齢者の一人暮らしが増えているんだな。家族が壊れていく中でもドゥルーズ=ガタリの説は機能するか。でも、彼らだって家族に絶望しながら、しかしどうやってお互いがいい関係になれるかを考えようとはしていたと思う。ベースは肯定だ。単なる批判ではない。結果はともかく志しとしては。私は家族に矛盾する感情がある。そして逃げまわってばかりだった自分の欲望の検証をしたいから、ドゥルーズも読むし、水木しげるの『猫楠ー南方熊楠の生涯』も読むし、与謝野訳源氏物語も読むし、『仏教と精神分析』も読むのだ。大変です。
 どれも欲望に動かされ、それに絶望しながら、生命の凄さ・儚さを感じようとしているから。
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Mar 10, 2008

とらわれないにとらわらない

春への移り変わり。けっこう心身への負担も大きいように感じている。土日はたっぷり休んだから、けっこうすっきりした。ただなんとなく肩こりが残っているような感じ。
 日曜は夕方に買い物に行って、帰りがけに本屋による。この本屋は仏教関係の書籍がたくさんあってうれしい。三枝充悳・岸田秀『仏教と精神分析』購入。
 1980の対談のもよう。岸田秀は『ものぐさ精神分析』でヒットしてした頃だろうか、お若い。「この戒名ではダメですか」とか岸田さんが全く仏教に詳しくないため率直に質問していくので私のように仏教に詳しくない人も面白い。
 三枝さんが「仏教はとらわれることを戒めるのですが、とらわれないという考えにとらわれてもダメだと仏典に書いてあります」という辺り面白い。つうか難しい。そうなのか。
 関係ないけれど、時々くよくよ反省していたら、「この反省ってうわべだけだなあ」と思うときがあります。けれど、「うわべじゃない深い反省ってなんだ?」と考え出したら訳がわからなくなる。どうしたらよいのか。
 仏教のとらわれって「執着」のことなんだそうだけど執着するからには何かに執着しているんだと思う。つまり、その何かとの関わり方の問題なのかもしれない。仏教では無常や空を説くわけだから、「何か」つまり対象も滅びたり変化する。だからって、どうせ消えたり滅んだりするんだから何をしても無駄って考えるのもどうなのかな。そうしてすましている人は多いように思う。そういうクールな考え方があたかもカッコいいかのような。
 けど、仏教の言説が人をひきつけるものを持つとしたら、「何をしても無駄」って思っても、何か寂しい気がするのが人間だからだ。
 なんで寂しいのかていうと、「欲望」があるから、満たされなくて悲しいからだと思っていた。けれど、「欲望」で済むのかな。満たされない感じって「欲望だ」と言い切っていいのだろうか。
 「とらわれないという教えにとらわれるな」というのはそう考えると意味深い。「とらわれない」って力んでいるのはやせ我慢。余計欲望がつのってくるのかもしれない。というか、人間が例えば私だったら「詩を書いている」。これは「したい」ことなのだろうか。理由もわからず「やってしまっていた」のではないか。そんな闇雲でいいのかと思うけれど、その中でどうしようもなく自分が非力であったり、単に名誉欲にとりつかれていることがありうる。その「やっている」中で気づいていくのだと思う。たぶんやらなかったら、何も気づかない。たぶん何かに気づきたいから「やっている」
 「とらわれない」という考えが強くなりすぎると、何に関わるのも罪深く恐ろしくなる。それは正しい。けれど、「とらわれない」ために何かをやってみないと「気づかない」のだと思う。
 でも、特別何かに参加する、やってみるってことだけじゃなく、もう既に「生きている・存在している」っていうだけで、時間は動き出している。だから、何かやれば道が開けるっていうことでなくて、生きているだけでもう何かやってしまっていることになる。

 診察に行ってこよう。春の嵐の日です。気をつけて。
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Mar 07, 2008

肘が痛いぜ

 晩寝ている時、肘が痛かった。時々目が開くと痛い。激痛とかではないです。
 朝、肘にサロンパスを貼ってみる。気持ちいい。しかし、肘から先に伸びている筋も痛いようだ。軽く痛む感じたが、何となく利き腕だから、ものを持つのが憂鬱です。だから肘から先にももう一枚シップ張る。
 今マシになってきたので、ブログを書いている。3日続けて清掃のバイトに行った。ブラシで床を擦ったり、便器を拭いたり、掃除機かけたり。中腰も多いから、腰とかの軽い疲労は経験しているのだが、腕に来たのかな。予想外だった。もしかしたら寝ている間圧迫していたのかもしれない。
 しかし、体を動かすのは悪いことではない。カウンセリングも終結に近づいている。だから清掃は今までは2日だったが3~4日は入りたい気もしている。時給は安いのだけれど、4月から日給が100円上がるので、稼ぎにもなる。あとは、体調との兼ね合いだ。

 ああそうだ。一昨日友人がガーネットの最新号を持っていたので、読ませていただいた。寺西氏の遺稿が載っていて、声に出して読むと、何かがあふれそうになった。寺西氏とはほとんど接点はなかったが、大阪文学学校の先輩。先輩といっても、寺西さんは終了されていたから席を同じくしたことはなかった。
 何かの形で寺西さんのことを考えたいとも思うし、口ごもる感じもある。私は寺西さんを作品を通じてしか知らないから。僭越な気がするのだ。しかし、詩学の話題は多くても(それは大切なことなのだが)作品の話をする人も少ないので、遺稿の感動の意味については私なりの宿題にしたい。主に詩人としてどうあるべきかや、詩を書くことについてのこと。  
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Mar 04, 2008

逃げる勇気・戦う勇気・独立

 最近、なぜか「戦い」ということをふと思った。難しい名前を出すのを許していただきたいが、レヴィナスというユダヤ人哲学者がいる。リトアニア生まれで後にフランスに住む。ドイツついでフランスで勉強していた頃、第二次大戦が起こる。ナチの勃興・ヒトラーに関する論文も書いている。彼もフランス軍の兵士として戦場に向かう。そこでドイツ軍に捕虜として収容される。幸い命からがら復員する。たぶん、その頃ユダヤ人をはじめとしてナチが大量虐殺を行っていたことを知ったのかも知れない。
戦後、レヴィナスはたぶんその事実に落ち込み、無力感を感じた。眠れない夜や、ベットから起き上がるのもやっとの日々もあったのかもしれない。彼の著書『実存から実存者へ』は哲学のことばで書かれていて難しい。けれど、そういう無力感の中で悶々として何も出来ないことも、心の中の「戦い」だと彼は言っているのだと思う。疲れて参ってベットからやっと起き上がる。その起き上がりも「行為」に近いと彼はいう。何も出来ない自分だが、何とか生きることで、毎日起きるということだけでも、それは生きることなのだと彼はいう。むしろわけのわからない恐ろしい暴力の傷跡を抱えて生きるにはそれしかない。わかったように戦争の原因はこうですといえないという認識が彼の思索の出発点なのだ。
 もうひとつ彼の論文に「逃走論」というのがある。人は受けとめられないことに向かう無謀な勇気を無闇に美化する。それは戦争の賛美とどうちがうのか。真剣に何かに向き合うことは大切だ。しかし今の現実が変だ、受け入れられないと感じた時、己を顧みて、青ざめて退却することも大事だと彼は言っているようだ。引き受けられないで倒れるよりは、どんどん逃げてしまえ。逃げることでいつの間にかちがう道に入り込んで、いいものに出会えるかもしれない。レヴィナスはもちろん自分は卑怯かもしれないと思っているのかもしれない。けれど、今の自分では無理だと感じる勇気、それを確認して次にいく勇気もあるよとささやいている。今引き受けられなくてもいつか。なぜなら、人間は自分でこの現実を選んで生まれてきたわけではない。けれど、自分なりにこの現実を考え自分の足で立つにはどうしたらいいか。レヴィナスの考えは示唆的である。これを逃げる勇気と呼びたいと思う。
 もちろんこれらのレヴィナスの解釈は専門家から見れば世俗的で笑止だろうと思う。けれど、自分が生きるために、大切なものを考え守るためにどうしたらいいか。僕はいつもそういう観点からややこしい本を読んでいる気がする。世の中には世の中的な語彙で語れば、簡単に世の中に押し流されるようなそんな罠がある。それはいやだ。もちろん無闇にややこしい言葉で煙に巻くのはよくないけれど、何回もひねらないと届かないことがある。もちろん詩もその一部である。主題が素朴な言葉にふさわしいのなら、素朴な言葉で書くのがふさわしいのは当然のことである。

 それでは、この前置きと直接は関係ないかもしれないけれど、「闘い」をテーマにした曲を紹介したい。


Primal Scream - Swastika Eyes


 名前の「Swastika=鍵十字」はナチのシンボルマーク。この曲が出た頃、非常に興奮した。もちろん、ヒトラー万歳の歌ではない。曰く「おまえの魂は燃えない/暗い太陽/おまえはみんなの炎に雨を降り注ぐ/悪徳警官 政府の役人/精神を摘出された腐敗した輩たち」世の中をつまらなくしていく、どうしようもない弛緩。そこから導きだされるダメダメな命令の数々。そういうものをメロメロというか気だるい歌い方で溶かしてしまう。プライマルは出すたびに音楽の形態が変わるのだが、今度はテクノですかと思うことは当時できなかった。その前に僕が聴いたプライマルはブルーズだったりして何でこんな急にテクノになったのか見当がつかなかった。この曲は911テロのわずか1年前に出ている。
 全然僕は当時世の中に対して不穏さなんて感じなかった。仕事は楽しかった。911の年には病気がはじまって、それと関係はないと思うが、小泉さんも対イラク戦争に速攻で支持した。もしかしたら、プライマルもイギリスの人なわけで、何となく妙な空気を感じていたのかもしれない。こういう露骨な海外の政治批判が日本でもヒットするわけだが、実は日本ではかつて忌野清志郎が君が代を替え歌にしたら禁止された。それ以降90年代から露骨な日本人による政治批判の歌が出にくくなったかもしれない。


中島みゆき ファイト


 世の中にある偽善やささいな暴力に心痛める人にエールを送っている。心やさしい人は他人が行う悪を見ると、なぜか自分に責任があると思う。今頃格差だなんだというけれど、この歌にある30年近く前に中学卒業と同時に上京した娘は今頃どうしているのだろう。何をやってもうまくいかないで傷ついている人がいることと、いつの時代でも格差が存在すると平然と述べる方々は、たぶん根っこのところですれちがっていると思う。そういう「平然とした」認識では言葉なんて届かない。だから、せめて世界の片隅で生きている人に歌が届くようにより徹底する。この頃の中島みゆきにはそういう力があったと思う。個人的に中島みゆきは、全部が全部好きではない。けれど、リスナーの年とか境遇とか関係なく、一人一人の暮らしの大事なところや心の襞に的確にヒットさせる作品はいい。それが出来るのが優れた表現者だと思う。


Rage Against The Machine - Sleep Now In The Fire


 直訳では機械に対する反抗。なにしろ反抗であるから、対イラク戦争のとき、レイジの曲はラジオ放送禁止となった。僕はレイジは苦手だった。
 最近タワレコで彼らの出した代表アルバム3つがパックされて¥2300で売っていた。試聴してみたら言葉が小気味いい。刺してくる。彼らは歌詞が重要なので音はたいして重要ではないと考えているようだ。一種のアジテーションのために音楽を使う。そりゃ当局から禁止されるはずである。けど、メッセージを届かせるために仮面をかぶるってのは見習ってもいいかもな。
 音楽がかっこいいから若い子が聴いているとついついはまる。けれど、その中には社会正義を訴える歌詞が仕込まれている。日本のヒップホップはなぜか親父の説教だったりするのもあって悲しい。殴り合いがいいとは思わない。けれど、こういう曲を聴いて世の中について考えるようになるのは悪くない。場末や街でこういう音楽を聴いて、真剣に考える人たちだって出てくるとしたら。もちろん破壊的な人たちも同時に出てくるのかもしれないけれど。
 ちなみにこのプロモはニューヨークかなんかの証券取引街で撮影したもの。やっぱり警察がでてきて、逮捕されてしまった。けど通りがかりのビジネスマンはノリノリ。官公庁街の地下鉄に毒ガスをまく連中とは一味ちがう。


中村中 - 友達の詩


   個人的には少し気になる程度で、あんまり聴くことをしなかった。オーラの泉に出た時興味本位で見たら、エハラ・ミワ両先生よりずっと貫禄ある受け答えをしていて、快哉を叫んでしまった。スピリチュアルな過去生のお話もなかった。中村さんがいやがったのかなあとかんぐった。トークにおいても歌においても、心の中の修羅と戦ってきたんだろうと感じた。「自分と向き合え」とか「逃げちゃダメだ」とかのお説教や気合いより「大事な人は友達くらいがちょうどいい」とささやかれる方がずっと沁みるし勇気が出ると思う。


The Beach Boys -Caroline No


 あんまり戦っていない歌に聞こえるかもしれない。しかしビートルズに刺激され負けないぞと作ったアルバム『ペットサウンズ』。その中の1曲。繊細な天上空間。
 今聴くと素敵。けれど当時結局売れ線の曲ではなく、レコード会社にも理解されず、ブライアン・ウィルソンは激しく落ち込んでいく。薬でふらふらになり、どんどん屈折しヒットチャートから遠くなる。けれど、幾多の波にもまれ、仲間を失いながら、今でもブライアンはしぶとく活動しているようなのだ。


鈴木慶一(曽我部恵一プロデュース)
『ヘイト船長とラブ航海士』より「おお、阿呆舟よ、何処へ行く

 「超満員の阿呆電車とおりゆくのをずっと待ってる」すげえ歌詞である。
 さっき勇気といった。心の過敏さみたいなものが、繊細さを育て勇気として実るか?逆に繊細さがあだになって、とめどもなくひねくれて堕落してしまうか?鈴木慶一はずっとこの微妙な線上を歩いてきたのかなあと思った。NHKで鈴木慶一と曽我部恵一が演奏しているのを見た。鈴木はゆうゆうと貫禄がさらにパワーアップしていた。鈴木慶一に詳しくない僕でも、うれしかった。「阿呆電車」なんていわれると人を小ばかにしているようだが、単純に素敵な電車がいいなという素直な気持ちが心の中にあるのを感じる。

 ここまで書いてきて、「独立」という言葉が最近歌われているのを思い出す。ビョークの曲だ。「自立」か「依存」か。はたまた尊重しあうとか協力しあうとか。しかし、それらの言葉にない響きが「独立」にはあるように感じる。独立は英語だとindependenceだから「頼らない」というのが基本的な語の意味。しかし、基本的なものを侵害されない。権利をもつという意味も持つと思う。アメリカの革命は「独立革命」。幾人かの政治思想家は、フランス革命の暴力的、独裁的な側面を嫌い、独立革命を評価している。もちろんその前にアメリカの先住民に対する殺戮があったので我々は安易に評価できない。また大戦後、様々な小国が独立を宣言するが、逆に大国に政治経済的に左右されることになった。
 そんな大きな独立ではなく、個人的な気概として「独立」を心に持つことは大切だ。自分を顧みて人に頼ろうとして裏切られ辛い思いをしたり、また逆に人にいらぬお節介をして疎まれたこともある。
 そんなとき、もちろん人が信じられなくなる。けれど、それは自分は自分の人生をそれだけを生きざるをえないという認識からの逃避でもある。逃げることに意義を僕は語った。ただその先に自分でしかありえないことの事実性と揺らぎがある。どうしても自分でしかありえないこと。このことにはもうそれ以上の意味はない。けれど、だから変わっていくということを感じたり人のやさしさが感じられるのだと思う。この曲は映像も含め危機的で異様である。しかしどうしようもなく精一杯狭い部屋で叫ぶ。そういう苦しさが今ある。それをどうしたらより広い場所に出せるか。非常に真摯な呼びかけを感じるのである。

Bjork -Declare Independence
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Mar 02, 2008

昨日は

 テレビで周防正行監督作『それでも僕はやってない』をみました。加瀬亮すばらしい。周防さん、よくここまでがんばって作ったもんだ。やっぱり並みの人ではない。けれど見ているとずっとはらはらしたり、思うことが多く、気楽に見るというわけに行かない。素晴らしいけど、肩が凝る。説教くささはないけど、社会のなかなか変わらない苦しさをかなりがっつり描いているのだ。
 学生時代ともだちに誘われて「法律研究会」なるサークルに入っていた。大阪地裁?の傍聴に行ったことがある。小さい法廷で、麻薬所持の公判だった。
 そこは人を裁くという堅いイメージとはちがって、法廷内は不器用だったり、少し頓馬なやりとりや人生模様で満たされていた。しかし、周防さんの映画を見てそのぎこちなさが、裁判当事者の大変複雑な現実と感情からできあがっていることがわかった。限られた情報で判断するほかない中で我々は日常を生きている。しかし、その判断が判決という形では人の人生を大きく左右する。誰かが不正を働いたら権力を発動して誰かを拘束するしか今は手がない。けれど、不正を正すはずのその権力が様々なものの思惑を受けて、毎日誰かを苦しめている。周防の映画はそういう理不尽を他人事にしないでと伝える。
 しかし、その理不尽を考えるとき、目が回りそうになるのも正直な感覚だ。それくらい国って得体が知れない。
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Feb 29, 2008

まとまりのない散歩

 今日は久しぶりに梅田に出ました。北摂出身者なので、梅田というか大阪駅周辺は馴染みです。悩める時や色々考えたい時、10年位前はよく梅田界隈をぶらぶらしていました。だから今も時々無性にぶらぶらしたくなります。当時は今よりもさらに金がなく、ジュースを時々買うくらいで本屋で立ち読みか、歩き。あとウインドウショッピング。



 今日は悩みがあったというか実は自分はカウンセリングに時々通っているんですが先生とそろそろ潮時ですかねみたいな話をしていました。それで何となく物思いにふけっていたんです。今日でバイバイってわけではなく、あと数回だと思うのですが感慨深いというかさみしいです。
 そんな気分で梅田へGO!いきなり鶴橋の近鉄とJRの連絡改札で切符を取り損ねた!見ると切符がない。どうも誰かがもっていったようで切符がないんです。近鉄の駅員さんに言ったら「大阪駅で言ったら通してくれます」というのです。切符代は?と聞くと「たぶん事情を話せば通してもらえます」というのです。不安でした。
 なぜかこういうときに隣の席の人に「この電車内回りですか?」って訊かれました。「へっ?」っていったら「大阪に行きますよね」というのです。何か鼻息荒いお姉さんでしたが、きっと悪い人ではないです。
 大阪に着くと駅員さんに話しました。なんかあっさり通してくれました。なあんだ。でもよかった。それで少し気分がマシになったのです。
 大体こういうときはお決まりなんで紀伊国屋か旭屋に行きます。なぜかジュンク堂はコースではないのです。今日は紀伊国屋。川上未映子の『乳と卵』山積みです。地元ですからねえ。横には町田康の『告白』の文庫もあった。でも適当に眺めてついつい文芸誌のコーナーに行ってしまう。石畑さんが詩と思想の詩誌評に出ているという噂を耳にしたので読みましたらありました。石畑さんおめでとうさんです。
 『ユリイカ』も見ました。川上未映子さんはユリイカ編集部に直電して小説の掲載をお願いしたそうです。なかなかいろんな意味で出来るものではありません。ユリイカは詩というより完全にちがう方向の雑誌ですね。でも詩の投稿欄はちゃんと残っています。今は辻井喬さんが選者なんですね。知らなかった。小池昌代さんの時は何回か読みました。知人が投稿しているかもしれないので。僕はミッドナイトプレスに投稿したことがあります。
 『現代思想』もなんとなーく見ましたが眩暈がしました。よく見ると司馬遼太郎特設コーナーがどっかいっていました。なんで?



 すいません。本屋の棚紹介みたいになりました。実は詩の本のコーナーが移動していました。それで、詩の本少なくなっているかなあと哀しい予感がしたけれど何か前より増えているような気が…出版社が営業がんばっているのでしょうか。なんとtabの後藤美和子さんの詩集もありました。知っている方の本があるとめでたいです。
 で更に僕はというと現代詩文庫のバックナンバーを凝視していました。そしたら『続宗左近詩集』がありました。探していたのです。宗左近さんについては実はあんまり知らないのです。けれどこないだ宗左近選のアンソロジー『あなたにあいたくて生まれてきた詩』(新潮文庫)を読んだんです。これは題名はイマイチですが、立ち読みしてピンときました。セレクションがかなり渋いのです。絶対いいにちがいないと。子どもの詩も有名じゃない人の詩も作者未詳の詩もすばらしいんです。しかも名の通った詩人でも何かあまり代表的でないけれどいいなって詩を選んでいる。鑑賞文が驚くほどすばらしいです。



 ちょっと段落変えて詩の話です。宗左近編纂のアンソロジーに北野和博さんの詩が載っています。兵庫生まれの方なのですね。引用します。「家族」です。

氷のお家ができました
氷のお父さんができました
氷のお母さんができました
氷の犬ができました
もう少し待っててくださいね
氷の僕ができあがるまで



 見かけは単純そうなのですが実作しているとこういう感じの詩は案外書けません。僕の感じでは。あざとくなりそうになるスレスレで真実を暴露する。そのことによってより謎を残しています。でも、僕は宗左近さんの鑑賞を読んだからそんなふうにわかった口をきけるのかもしれません。宗左近さんの言葉を後半部分引用。「作品『家族』は、こわい。氷の家ができた。そこに、氷の父、氷の母、氷の犬。でも、これ死体ではない、生体。いわば冷凍庫の中のお話(中略)生きている死体がそろえば、家族ができあがる。でも誰の家族?もしもみんなが、高度成長文明社会という冷酷な大冷凍庫のなかにいれられてしまっているのだとしたならば?被害者だよと、被害者に気付かせない工夫の完成しているのが現代社会なのでしょうか。

 かなり凄いです。「生きている死体が…」から「誰の家族?」でもうやられました。「被害者に気付かせない」というのと「氷」の寒々しいイメージが、でもキラキラもしている。自分の子どもの頃の家族の郊外の団欒のなぜかさみしい感じが浮かんできます。さみしいのは何かが死なされているからだったかもしれません。でも、何が死んだのでしょう。



 カウンセリングで先生と考えてたことのひとつに今の詩の問題に近いものがあった気もします。しかし先生はそんなに甘くなくて答えはくれない。じゃあいわゆるカウンセリング然として「傾聴」しているかといえば、そうでもない。鋭く肺腑を柔らかく何回も掠る質問がきました。あまり持ち上げる気はしませんが、まあそれも先生の腕なのでしょう。
 僕はカウンセリングに懐疑的でもあるわけです。知り合いに話せばいいだろうって。そう思ったときもありました。でも家族や知り合いや友人に話しても尽きないすごくうっとしくて、けれど無くてはならないものがあの頃あったのです。今は形を変えていますが止みがたいものが今度は僕を突き動かしているように思うのです。抱えてて死ぬほど辛かった何かが実は僕を生かしめている。その何かは葛藤とか無意識とか言い方はいろいろなのでしょうけれど。先生は、たった一人ではないけれど、そんな時期に共にいてくれた方々の中の一人です。『続宗左近詩集』の「落ちたがらない氷柱」より最後の一行引用

 ああ春 折られているのに落ちたがらない氷柱



(本屋をあとにしてマクドで飯。どんどん歩いてスカイビルで映画を見るには遅くて(始まりまでけっこうあり終わったら夜9時過ぎてしまう)ネットカフェに数年ぶりに寄ろうとしたら人気がなくて恐くて辞めました。それからタワーレコードでいっぱい試聴しました。何か少し気分転換になりました)  
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Feb 27, 2008

竹熊健太郎『箆棒な人々』河出文庫2007

 巨匠竹熊健太郎が戦後の大変人巨匠たちと対決する本を読んだよ。この本は気楽に読めるぜ。けったいな爺さんが出てきて、えんえんとスケールのでかいのかしょぼいのかわからない爺さん自身の歴史を語る。
 康芳夫、石原豪人、川内康範(森進一に『おふくろさん』歌うなって怒っている人で月光仮面の原作者)、ダダカン。ほとんど知らん人ばっかり。
 竹熊によるとタイトルの「箆棒(べラボー)」って、元々の意味は悪口なんだって。確かに「べらぼう、バロ畜生め!」ってチビ太(おでんを持って走っている人)が怒っていたような。だけれど、竹熊は「瞠目すべき」「とんでもない」「グレート」なんかでは追いつかないくらいすげえという意味で、「箆棒」と使うって断っている。こういうふうに前書きで書くとこも真面目。取材姿勢も爺さん達にきちっと筋というか礼儀を通すのだな。爺さん達も受けて立つ。その立会いが古風なので襟を正す。そして変な話のオンパレードにずっこける。爽快な本です。
 この本の初出は雑誌「クイック・ジャパン」の連載であった。連載当時「クイック・ジャパン」は出たばかりで、その頃のこの雑誌はとても好きだった。けれども、竹熊氏の連載はえんえんしらぬ爺さんが出てくるばかりで敬遠していた。今読んでみて不明を恥じるのである。



※追記=実は先だって芥川賞を受けた作家が紹介されていたとか。竹熊さんの本は前から好きで、この本も気になっていたのです。芥川賞には負けないぞっと決意も新たに読みました。でも読んだ時点で芥川賞作家の思う壺ですな。面白いからいいんですが。
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Feb 26, 2008

なぜか

 フロイト先生を読んでいる。昔読んで全然意味がわからず、投げ出してしまっていたフロイト先生の御本でございます。
 最近、光文社古典新訳というシリーズがあって、手軽で読みやすい訳で古典が読める。フロイト先生のも新訳で、2冊出てたので、後に出たほうを読んでいる。レポートは福祉関係で、苦しめられていたのであんまり関係ない分野の本を読んでいると現実逃避できる。
 フロイト先生の説は好き勝手に素人判断で読む。ふつうの人向けの講演の文章も入っている。「ええ、意識と前意識と無意識がありまして」と説明しだすフロイト先生。「でも、これは仮に分けただけで、心なんてそんなに綺麗に分けて語れませんよ。今風のぼやかした絵の線みたいな感じで、ぼやーとして、お互いの領域が混じりあってますです。ニヤリ」と。(以上勝手に意訳)
 きっとフロイト先生も自分の気持ちをセーブできなくて、けっこうドロドロだったのかなあとも思った。エスの説明を聞いていると「意識という騎手にとって、エスは荒馬です。どこへ行くかわからなくてヒヤヒヤなんですが、さらに人間はエスと外界と超自我という荒馬の三頭立ての馬車の騎手です」(更に勝手に意訳)
 晩年はナチによるユダヤ人迫害を避けてロンドンに亡命。それまでに33回も癌の手術を受けている。それでも馬車馬のように活躍。仲間のユダヤ人医師たちはガス室送り。娘だって逮捕されている。フロイトはモルヒネによる安楽死を選んだ。これだけ聞くと辛すぎて、アインシュタインと第一次大戦の後「戦争は亡くならんな~」と文通してた気持ちがわかる気もします。現代人は攻撃性が内向して、戦いが嫌になってきたともいっているんだけれど。第二次大戦を見る限りそうでもなかった気も。  
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くすぐったい

 今日3つレポート書きました。で、雨の中を郵便局へ提出に向かいました。その前に知り合いからメールが来てたので、雨宿りしてた本屋でメール打ちました。
 帰って、ご飯を食べる前でした。気になったので、メールをくれた知り合いに電話しました。「アルバイトを増やすかどうか悩んでいる」というような内容。しばらく会ってなかったこともあって電話してよかったな。なんか喜んでいてくすぐったかった。

 先週の土日は2日連続合評会でした。土曜日は、とある同人誌の合評に混ぜてもらいました。ちょくちょく参加させてもらっています。いつも呼んでくれるYさんが大きいバイクを買っていました。よろけながら押していましたが、バイク、カッコよかった。
 日曜日は恒例のメンバーで合評です。何とか作品を仕上げてもっていきました。めずらしくほぼ皆に好評でした。ていっても規模が小さいんですが。「雪に酔ったことがある」という経験のある人が2人もいました。「雪に酔う」ってはじめて聞いた。何か良い。頭がぼーっとしていたから元気をもらった2日間でした。
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Feb 14, 2008

かさいぜんぞう

 久しぶりに葛西善蔵さまのお世話になる。
 葛西は、日本の近代文学史に輝く露悪作家である。
 借金踏み倒す。女房子どもを田舎において自責の念に駆られる。辛いので女と仲良くなる。やがて、病気も入っていらいらして、女を邪険にする。自責の念に駆られる。書けなくなる。金がなくなる。無心する。以降繰り返し。
 ものすごくカリカチュアするとこうなってしまう。鎌田彗『椎の若葉に光あれ』を読んで、葛西作の『哀しい父』、『椎の若葉』などなど青空文庫で公開されているものを読んだ限りでは。
 けれど、そうしてまで成り立たせたかった文学。そうしてまで徹底して生活を文学にしてしまった姿には何か凄みを感じる。決して真似できないけれど、迷惑この上ないけれどある種の聖者?(貧乏の神)だろうか。襤褸をまとった。しかし、悲惨なのに明るい。それが大学時代の僕には小さな灯りに見えたようだ。
 太宰治は葛西を尊敬していて、「善蔵を思ふ」を書いている。太宰の赤面や自虐を葛西に重ね合わせているようだ。どうも私小説作家の美徳に一途に信じることと、それを破壊する懐疑の心というか不信があるようなのだ。おそらく同じ東北人として、啄木や善蔵が太宰に与えた影響は大きかったのだろう。
 例えば、彼らの金を無心する時の図々しさは、相手を試すような気持ちがある。近所にいたらきっと迷惑である。けれど、太宰はそれを全然異なる形で「友情と裏切り」みたいなテーマとして「メロス」を書いたのかもしれない。
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Feb 12, 2008

変化するもの

今日は病院の診察に行きます。
いつも通りの診察なんですが、風邪薬も出してもらおうと思います。
こないだ雪が大阪府にも降りました。その日は彼女が風邪を引いていて、家事やら看病めいたことをやりました。
彼女の具合がよくなったなと思ってたら、昨日あたりから僕の喉や鼻が変です。僕にも順番が回ってきました(汗)
あとは体がだるいけれど飯は食えます。

ここ何年風邪ひかなかったのですけどね。これが実習中だったら、辛かったろうけど。きっと緊張感が抜けて冷え込むもんだからかなあ。
最近は漫画では、石川雅之『人斬り龍馬』、文庫では養老孟司・宮崎駿『ムシ眼とアニ眼』を読みました。どっちも、読みやすい。石川のは時代ものの短編集です。主に江戸末期あたり、会津の二本松の少年兵の話は、くるしくなりました。官軍に対して兵力を圧倒的に欠く会津が、訓練された少年兵を送り出す。維新で、何が変わったかだけでなく、何を失ったのだろうか。

負ける方に肩入れしたくなるのを判官びいきといいます。けれど単に気持ち的な面だけでなく、何が消えることで、今の世界が成り立っているのか気になるところ。

養老、宮崎の対談は、もののけ姫から、千と千尋の神隠しあたりまでのもの。オウムや、911テロの色が濃いですね。このふたりは僕の父親より、少し上です。自然に帰ろうみたいな主張もあるんだけど、宮崎駿は最近の家や建物は書けないと。宮崎駿が成長しておとなになるまで住んでたのは木造やら、モルタルで、今の部屋の大きさより小さい。こういう部屋は実際はカメラが入らない。少し大きめに書く。すると批判がくる。
宮崎いうに自分の親しんだ家の作りは、実は歴史的にはごく短い間にあったもの。実際には消えつつあるもの。
僕の親の実家にはちゃぶ台や土間や、天皇のご真影までありました。だから、なんとなくわかります。小さいんだけど落ち着く。ストーブにヤカン乗せてみたいな感じ。これも大きな変化かなあ。
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Feb 06, 2008

職員さんがアシュクロフト

 掃除の仕事でお世話になっている職員さんが、もう1年以上「リチャード・アシュクロフトいいですよ!」と云っていましたけれど、聴いてなかったです。
 それが先週借りてきたら、非常にいいのですよ。洋楽に関して、とりあえず誰か自分の友達がいいって云っていたら、聴いてみようって去年くらいから思っています。めずらしく意識的にそうしてます。
 人がいいっていうから聴くというのは、まるで他力本願みたいですけれど。しかし、いつもいいって思うわけでもないし。「ああ○○さんがあれいいっていってたなあ」って時は、自分の心の中で、そこにいいものがあるような気がするって予感があるのですよ。友達が素敵だって感じてるものは何かって知りたいし。そしたら、ここは趣味が似ていて、ここはちがうなってわかるでしょ。
 だから友達がいいっていうものが何でもいいわけではないです。自分でアンテナたてたり、センサーを働かすことによって、友達の云う音楽がひっかかってくるのではないですかね。そもそも洋楽は詳しくないですから、友達の話は貴重な情報源です。情報交換っていいますが、そこで交わされているのは単なる情報ではないと思います。
 けれど、最近洋楽にはまっている理由がよくわかりません。友達も洋楽ファンばかりではないです。親父は演歌好きです。(関係ない)

 さて、長々書きましたがアシュクロフトです。職員さんは演歌っぽいと云っていました。その例えは微妙だと思うのですが、確かに「人生」のややこしさみたいなものを美しくというよりは切々と歌っています。でも、セクシーさやキラキラがないわけではなくて。僕より2つくらい上です。粘り強いけれど、きちんと抜けるので重苦しくないです。綺麗な歌というより、沁みてきます。沁みてくるんだけどちょっと若造な感じもあって。まさに30代かな。

 Richard Ashcroft - Check the Meaning
 



 冒頭の詩はこんなです。

When I'm low, and I'm weak, and I'm lost
I don't know who I can trust
Paranoia, the destroyer, comes knocking on my door
You know the pain drifts to days, turns to nights
But it slowly will subside
And when it does, I take a step, I take a breath
And wonder what I'll find

 歌詞カードの和訳見ながら、自分でちょっと訳します。(デタラメかもしれない;)

落ちこんで、弱気になったらさ、どこにもたどりつけない気持ちになる
そんなときは、自分が誰を信じていいか正直わからなくなるよ
異常に思い込みが激しい気持ちとか、何もかもぶっ壊してやりたいって気持ちがやってきて、俺のおでこをコツコツ、ノックしやがるんだ
その痛みは昼間をさまよい、夜へと持ち越されて日は過ぎる
だけど、本当に少しずつだけど、ちょっとずつちょっとずつやわらいでいくのかもしれないね
そしたらまた、少し歩いて、溜まった息を吐き出してみたい。
そしたら、その時何が見えるのだろうか。      
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Feb 05, 2008

豆まきやお犬さんの写真等

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ちょっと遅くなりましたが節分は犬さんと遊んで、手巻き寿司みたいのを食べて、豆まきしました。
 実習は10日前に終わりました。疲れてボーっとしていたり、実習書類を書いていたので連絡が遅れてすいません。意外と味わい深い体験でした。
 というわけで、tab最新号は現在印刷中のため、発送までもうしばらくお待ちください。関係各位の皆様ご了承くださいませ。
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Jan 21, 2008

おしっこの詩

 本日日曜は実習の中日で、休み。久々に昼寝して疲れをとる。

 詩人金子光晴についてNHKが特集を組んでいた。金子の息子が徴兵を逃れ、金子も大東亜文学云々の会を脱退して、夫婦と息子の3人で田舎暮らしをしながら、家族みんなが書いた詩をまとめた詩集「三人」が発見されたニュース。へえと思う。けれど、実習の記録を書かねばと思って、テレビを消した。
 今、老人の介護施設で実習していて、トイレ介助もある。そんなだから、どうしても広東の女が普段食べ物まで入れている洗面器におしっこしている場面を書いた「洗面器」という金子の詩が思い出される。
 金子がその音に耳を澄ましている感じと、私がトイレ介助について老人のおしっこの音が聞こえてくる感じが重なるような気も。そういう読み方って、変かな。けれど、おなら、げっぷ、歯軋り、様々な音を人間は出すが、おしっこが何かに当たる音には、なにか安心してしまうくすぐったい感じもあったりする。ちゃんと排泄できるってのは健康だし。  
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Jan 16, 2008

実習3日目の朝に

 今、特養ホームに実習にいってるので長い日記が書けませぬ。
 昨日はよく寝ました。

 どうも、久しぶりにフルタイムっていうのは疲れます。以前介護職でしたから、さまざま善いことやあらゆることを感じますし。
 でも、現場の職員や高齢者の方が懸命なので、勉強になります。

 正月明けに、マンガ『神々の山嶺』を読みました。夢枕獏原作なので、基本、小説的です。谷口ジローさん画。谷口さんの絵は危機迫るものがある。
 高度8000メートル。酸素地上の3分の1。45度の氷壁。気温-30℃吹雪。これだけ並べるとすごいですが、ここを登る人たちの話なんですね。
 高所恐怖の方は、辛いかも。しかし、こういうとこにいくってのは、何かやまれぬものがあるのでしょうか。神々とありますが、様々な幻覚が見えることもあり、やはりある種のトランスを経験するみたいです。しかし、80年代くらいまであった、極地冒険は、フロンティアが消えて、少し沙汰やみなのかな。
 でも、冒険っていろんなとこでできるように思います。
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Jan 15, 2008

実習開始

昨日から特養ホームで実習開始。

 中味は守秘義務ということらしく…

 帰って、ご飯を食べて、テレビでドラマ『薔薇のない花屋』を見ていた。野島伸司作のドラマは苦手。けれど、導入での本仮屋ユイカ嬢の登場で、そこはしっかり見た。とても美しく儚げな大人の女性になっていた。うれしくなる。
 ドラマが何となく野島風の味つけの濃い展開になってきたところで、そろそろ日誌を書くことにした。一日の実習内容を細かく書かなければならない。日誌を12時前までに書き上げて、風呂入って寝た。
 寝た…のは、よかった。しかし昨日から気を張っていて、今日も真面目に勤め上げたようで…
 寝る前から雲行きが怪しくなっていたのだが。外で緊張して帰ってきて、ほっとして寝たら、反動で情けない気持ちや、イライラした感じが出てきた。おちつかないというか、ガキがむずがっているというか。
 まあでも知らない間に寝ていて、睡眠は一応とれました。

 今日も何とかやります。

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Jan 04, 2008

年取らないとあの良さはわからんで

 何とかほうほうの体でレポートが大筋で完成した。みなさま、あけましておめでとうございます。というわけで、実家に夕食を食べに行った。せっかくの正月なので帰省である。
 家に帰ると食卓に正月の残りのおでんやら何やらが出ていて、おいしくいただく。なぜか紅白の話になった。僕が寺尾聡が意外とよかったなどと云っていると母親は「寺尾さんも良かったけど、吾亦紅がよかった」という。僕が「でもあれはなあ」と難色を示していると母親は「年取らないとあの良さはわからんで」といってた。そうなのかもしれない。でも、どうなのかわかんない。

 実家に大学の新聞が来ていた。もうすぐひとつ年をとるので、卒業してもう12年たつ。大学の新聞には、卒業後もあれこれお世話になったY先生が法学者カール・シュミットの研究書の書評を書いていて、面白く読んだ。はっきりいって大学の機関紙のほとんどの紙面って面白くないわけだから、Y先生が書いてあるとこしか読まない。カール・シュミットのことはよく知らないから、ちんぷんかんぷんなのだけども、こういう一節があってよかった。それは研究書の著者の人となりをY先生が語ったもので、「彼には真理に対する謙虚さがある」みたいな言い回しだった。
 世に言う「真理」とか「本当のこと」みたいなものには、多くのまやかしがあったりもするのだが、単に「本当のこと」なんてないぜ!とうそぶくのは何となく寂しい。だって、まあホンマかわからんけども、それなりの手ごたえとか、自分がいいなと思えるものを目指している面も少なくとも僕にはあるから。けれど、そうそう簡単に「本当のこと」が降ってわくなんてものでもない。そういうこともあるかもしれないけれど、滅多にない。待ってても来ない。焦るとますます遠のく。
 学問というのは、一応の手続きがあるらしい。ある考えや発見を提示したら批判的な検証や反論を受けなければならないということだ。学問の歴史は数千年あって、その中で色んな真実らしきものが出てきては消えている。こういう中で、「これが本当かもしれない!」と思って発言しても、簡単に色んな批判の砲火を浴びる。
 だから、声高に「これが本当です!」みたいなことを云うよりも少しずつ積み重ねて遠慮なく質疑を受けてみたいなことをやりながら自分の考えを述べる方が説得的であるとY先生は言っているのかなと思った。それが結果的に「真実に対する感覚」を見失わない道であると。けどもっとそういうことより、素晴らしいことを云っているのかもしれないけど、それはもう少し時間をかけないとわからないかも(年取らないとあの良さはわからんで?)。うろ覚えだがシュミットという法学者は様々な業績を作ったと同時に、ナチスに理論的根拠を与えたとも云われる。だから「謙虚さ」というのはシュミットの悪魔的な凄さに対する免疫かもしれないとも思った。



   さて、家から帰るときに家に置いてあった諸星大二郎のマンガ『孔子暗黒伝』を持ってきて、帰りの電車の中で読んでいた。このマンガは濃ゆいのである。仏陀も孔子も同じマンガの中で、出会うわけではないけどちょっと絡む。そういう八方破れがけっこう楽しめるのは何でかなあと。そんなものに理屈はないのだろうけど。
 最近思うことは、自分の中に楽しいことや欲望を発見するとドキドキするのはなぜかということだ。そんなのにも理屈はないかもしれない。けれど今まで自分が蓄積した理屈では説明できないというのはけっこうドキドキするのかもしれないと思う。それがしょうもないとしても、実は今までの繰り返しだとしても、本人はそうなってしまうのを楽しんでいるのかもしれないと。それはある意味呪いだから、世界宗教はあの手この手で欲望を始末する考え方を作ったのかもしれない。だから、孔子と仏陀が一緒の紙面に出ても不思議はないのだ。(へりくつだ!)
Posted at 01:48 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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