Apr 02, 2008

デカルト風呂

 最近ややこしいエントリーが続いたので。近況。5分以上風呂につかれなかった僕が15分弱浸かっている。血の循環とか筋肉をほぐすとか、清掃の肉体労働のあとはいいな。暖めて寝るといいな。汗をかいたりすることで、活性が起こるような。気のせいか。近代文学でも川端康成とか梶井基次郎とか伊藤あたりの温泉によう浸かっておる。

 今デカルトパラパラめくってみる。デカルト『情念論』(岩波文庫谷川多佳子訳)

 100 悲しみにおいて。

 悲しみにおいては、脈が遅く弱い。心臓のまわりを紐でしめられているように感じ、氷片が心臓を冷やし身体の他の部分にも冷たさを及ぼしているように感じる。しかしそれでも、悲しみが憎しみに混ざりさえしなければ、時には盛んな食欲もあり、胃もその任務を怠っていないのが感じられる。

 115 喜びは、どのようにして顔色を赤くするか。

 たとえば喜びは、顔色をより生き生きとし、より赤くする。なぜなら、喜びは、心臓の水門を開いて血液がすべての静脈にいっそう速く流れるようにし、血液がいっそう熱く微細になって顔のあらゆる部分をある程度膨らませるからだ。これが顔つきをいっそうにこやかに明るくする。



 けっこう不思議な書き方だがツボは外してない。実感的。血流や精気の循環システムとして体を見ている。風呂に入るといい気持ちっていうのもわかるね。別にデカルトにいってもらわなくてもいいけどね!デカルトは身体を機械としてみているらしい。だから人間が死ぬってのは、多くが言うように精神(魂)が体から抜けたのではなくて、機械が壊れるのと同じで、いろんな機能が壊れて停止していくと、生体自体が作動しているように見えなくなるという。この言い方は賛否両論あるよね。でも、デカルトの言うのはだから精神っていうのは不思議ねといおうとしているのか、それとももっと怖いことなのか…

 ひとつは例えば人体にまとわれている「その人らしさ」みたいなものがどこへいくのかみたいな疑問がある。臓器移植とか難しい問題だ。でもこの当時はある種の観念批判として機能したのかな。
   アランの『幸福論』はデカルトやスピノザの身体とか情念の論に影響を受けたという。だから元気になるのも、しんどくなるのも気の持ち様ばっかり考えるなと。つまり疲れたら体操せよとか目が疲れたら遠くを見よとか、首を回すと気分が楽になるよとか。この辺のアランの考えは僕は好きだな。アランは軽いしんどさなら、くすりを飲むとか自分の否定的な考えを除くって言うより、体を楽にするように工夫するといいんだと。
 さらにドウルーズあたりになると、その人らしさをさらに遠くへ行かせるためにいったん身体の固有性から身体を解き放つ。すると、○○機械の連なりとして、自然と身体の無差別性みたいなほうへ行って。このあたりはまだ整理できてないので、うまくいえない。だけど、ドウルーズはデカルトとかスピノザとか16~17世紀哲学から「機械」の構想をもらっているのは一応言えるかな。けっきょくややこしい話に…
Posted at 12:42 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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