Apr 30, 2008

鞍替え

 昨日は2か月に1回開いている恒例の合評会に行ってきた。
 全部で4作の合評も終わりいつものように2次会に。といつもの居酒屋に行くとシャッターが閉まっている!休み?ちがう。「さる○月×日をもちまして閉店いたしました」の張り紙が…。ガーン。
 というのは安かったからである。いつも同じお姉さんがレジを打つのだが、いくらかまけてくれてるか、打ち間違いなのか、非常にお得なプライスなのであった。
 ちょっとみんなで呆然としていたが、これは仕方ないとなった。きょろきょろ振り向いてみると、向かい側の通りに飲み屋があった!あそこいってみようとなって、入ると食い物がおいしい・さらに前の店と同じくらい安いので、今度からはこっちにしようということになった…と思う。
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Apr 25, 2008

しわしわの話

自分の芯のほうを気づかってやらないと。
そうしないといとも簡単に私はしわしわになるだろう。
しわしわに気づいてしまったらもうその感じが
触りたくてかなわない。

見ることも聞くこともかなわない、どうしようもないところに
ずっと押し込んだら
どこにいったか忘れて忘れたこと自体
姿をあらわさなくなるのだけど。
だから、かなわないながら、時々はしわしわのまま
どこかで夢を見る必要がある。

しわしわで耐えられるのは10年とかはたまた100年くらいで
しわしわのまま、死んでしまって
しわしわらしきものが、どこかで持ち越され
曲がり角とか、ドアの外にでる時に
うつしみに入っていく。

うつしみはそういうしわしわを生きている。

しわしわはずっと何か呼んでいるはずなのだから
だから、この服を買いたいとか
この空は20年は持つと思うというような
いい気分が呼び起こされ
そのしわしわが、暗やみの部分を支えて
ずっと苦労することになるのだ。



しわしわにはなれない。
しわしわだからなあ。私のそのまた私の

どうしようもなく私が明け渡しなら
渡しだから
しわしわはそこに住まうこと自体をさすわけで。

貧しいや、異邦とか、そういうものは
ものではなく
しわしわの変異形態である。

しわしわはしわしわでしかありえず
しわしわは何者にもなることができ
ついになんでもないような気になり続ける
そんな声を発し続ける。

美味しいご飯を食べて
しわしわで
しわしわは、変わらないことで
どんな味付けもできるふりかけかもしれない。

しわしわがうづくと
もうどうしようもない。
果てしなく夢をみて
夢を生きてだらだらと寝たまま
生きていき
記憶は用意され、人生山あり谷ありで
しわしわだけが、それを握って放さない。

そういうとき人は夢中で自在に
一切の中に放下して、ああええなあと
どんどん自在自動の境地に達するとかどうなのか。
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Apr 24, 2008

今日の発見

おおきく身体をうごかすと意外に疲れないようだ。
今日そう思った。肩や足腰のコリが少ないのだ。

掃除の仕事をやっているとどうしても
しんどくない身体の動かし方を探るようになった。
結果、あまりジタバタせずにこじんまり呼吸をおちつけて
動かすようにした。
だから逆にちじこまって身体が凝って息ぐるしかったのかもしれない。

便所はそんなに広くないから小さく動く。
けれども、大きく動いた方がいい。
逆にストレスがたまらない。

なんで大きく動いた方がいいかと思ったかいうと
今日は作業員の人数が少なくて
僕と職員とやらざるをえず
早く終わらせたいからてきぱき動いた。
大きく流れる感じで、さっさと。
すると、意外に身体がごりごりにならなかった。



僕は病気してから落ち着いて呼吸することを
念頭に置いてきたような。だから、ゆっくり落ち着いて
動くといいと思ってきた。
けれど、さっさと活動した方が
身体に空気が入って、汗かいて、いいときもある。
息もちょっと上がり目で。

もちろん、くたくたのときにそんなことやってはいかんのだが。

それが今日の発見です。
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Apr 22, 2008

ドイツ名詩選

 友達がドイツ語を学んでいるので刺激を受けて、梅田の紀伊国屋をぶらぶらしていた。しかしやはり語学というように固く考えてしまうと緊張してきたので、岩波文庫の「ドイツ名詩選」を買ってみて、テキストに親しむことから始めてみようと思った。
 前から哲学書を読むと語学力が必要なことをぼんやりと感じていたのである。昔は語学が好きで結構英検の勉強なんかもやったが準一級に受からず止めてしまった。大学ではドイツ語を選択していた。ニーチェやカフカが好きだったのだが、授業をきちんと受ける以外それほど力を入れていなかった。しかし、最近翻訳で哲学や詩や小説に親しむようになるたび、この人たちは自分たちの言葉でどのように書いていたのかその息吹が気になってはいたのだった。
 ドイツ名詩選は安くて小さい本ながら、詩人の略歴・全体の解説がついており、見開きで原文と訳文が並んでいる。非常にお得である。ゲーテからシラー、ヘルダーリン、ハイネ、リルケ、ブレヒト、トラークル、ツェランとここ300年くらいのメジャー詩人はおさえてある。もちろんドイツ文学のマンやヘッセのペーパーバックは置いてあったのだが、当然全部ドイツ語なので、久々に外国語に触れるものにはハードルが高いし。

ほとんどすべての物から感受への合図がある、
向きを変えるそのたびに、思い起こせと吹きよせるものがある。
わたしたちがよそよそしく通りすぎた一日が、
未来において決然とした贈り物となる。


(リルケ「ほとんどすべての物から」抜粋ドイツ名詩選岩波文庫より)

 素敵だ!  
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Apr 21, 2008

長谷川四郎訳カフカ傑作短編集より『彼』

 彼がさからって泳いでいる流れはたいへん急なので、ときどき、ふとぼんやりしたりすると、彼は空々寂々たる静けさの中で水をはねかえしていて、その静けさに絶望するのである。彼が一瞬断念したあいだに、それほど果てしもなく遠く、彼はあとへ流されていたのである。

(『彼』の中の一節-カフカ傑作短編集長谷川四郎訳福武文庫1988より)





 私が20代ヤノーホの『カフカとの対話』やカフカの短編集・手紙には救われる思いがした。
 池内紀さんの翻訳は読みやすかった。『カフカとの対話』の訳者吉田氏もよいと思う。しかし優れた文学者で翻訳者の長谷川四郎は、カフカの体温をつかんでいるのではないかと思わせる部分がある。
 流れが急なことと「空々寂々たる静けさ」は矛盾しない。また自分の居場所がわからなくなり所在を失っている。にもかかわらずその所在のなさを逆に穿つ執拗さは諦念スレスレである。どこだろう、ここはなんだろうという問いを身に引き受け、そこから生ずる苦しさをさめざめとしたおかしみに変えているからだろうか。『彼』は箴言集とも詩ともどれともちがう奇妙なフラグメントである。けれども、区切りのみえない無際限の中に途方にくれていることでカフカの居場所がほの見えるようでもある。
 形式が詩に見えにくくとも、ふと書いてしまう言葉が詩的であるということもある。なので普通詩人と呼ばれないカフカの作品を引いてみた。カフカは詩や文学が20世紀以降生きうるその培地であるように思う。

   長谷川四郎は自分のシベリア体験をもとに、小説を書きながら優れた翻訳を静かに出してきた。たしかブレヒトやボブロウスキの翻訳もあると聞く。シベリヤ体験のある石原吉郎や香月泰男らとの硬質であったりある地点にとどまるだけでない茫洋とした感覚を長谷川四郎は持っていたように思う。長谷川と詩の関係は考えてみるなら興味深いだろう。
 今日ドイツ名詩選の中にボブロウスキの詩を見つけた。「カフカ傑作短編集」の解説の中にもあったので、できれば紹介したい。
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Apr 20, 2008

僕の思ういい男

 前から云っていますが僕は奥田民生や河島英五のファンです。全然ちがう2人ですが、男のしょうもなさや情けなさを深く感じているから彼らは結果的にすごくカッコいいのだと思います。
 僕も弱虫の男子なので、どうやったら憧れの二人に近づけるかなと思っていますが、結局とりあえず生きてみて色んな情けなさやうまく行かなさを感じてそこに沈静するってこと。その深さを体にしみこませること。さらにそういうあれやこれやを吹っ切って「やるときはやるってこと」。
 この最後の行為というか決断が僕はなかなかできません。けれど思い返すと彼らのまっすぐさは父性と意外なほどの繊細さ=母性からできていると思います。僕自身介護の仕事に就いたとき、まめまめしく世話や洗濯をやっていたら、「丁寧だ」「お母さんみたいだ」と同僚からからかわれ?ました。けど、際限なく丁寧だとしんどい。
 お父さん見たいってのは云われることがあります。よく子どももいないのに、「お子さんいらっしゃいますね?」といわれます。まあもう30過ぎだから仕方ないけれど。けっこうお節介ですね。それが実は父性の正体です。実は僕の父もそうですがえらそうにいいたがりなんですね。鍋奉行とか。僕もそうです。それが理屈っぽいのでいやがられます。しかし、うちの親父もそうなんで非常にガキっぽい。だからお節介なんです。見守っていて落ち着いているようで気が気ではない。実は心の中に少年がいるのが「父性」かなと思います。
 最初の2人にもどるとやはり少年のように一途なのを照れくさそうに隠している。それがいい男の正体かなと思います。自分もそうなりたいなあと思います。40過ぎてアジア放浪とかライブとかそんな体力もないし、そもそも彼らはアウトドア派。僕めっちゃインドアじゃないですか!結局僕はうじうじ男らしさにこだわっているだけなのかな~
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集まりに行く

 昨日はある詩の集まりに行きました。西成区が会場。大先輩詩人の木澤さんに誘っていただいたのです。木澤さんの新詩集について感想をお送りしたことがきっかけでした。
 車両事故で環状線のダイヤが乱れ少し遅れてしまいました。けれど他の方もそのあおりをくらったようでした。
 昨日は打ち合わせということで、言葉の音や声について考える会にしようということになりました。世界には鳥や風や車や話し声、くしゃみ、ありとあらゆる音が満ちています。その中で聞くということ。私たちはある音のつらなりを選択して聴いているから、音楽や話、朗読が聞けるのです。木澤さんの補聴器の体験、清水さんのジョン・ケージの話が印象的でした。
 木澤さんは耳が悪くなって始めて補聴器をつけて音楽を聴いたとき、いままで聞いていた音楽が実は様々な深みで成り立っていると気づいたと言います。また清水さんは大阪万博の時にドイツ館に入ったら、ジョン・ケージがいて大きな砂嵐のようなノイズを聴かされ、演奏が終わると皆出て行ったといっていました。
 私たちは音の海の中から無意識にある音を選択しているのですが、そこには実は様々な制約があること。音を発する側と聞く側にお互いの交流がないと、を使った芸術は見るも無残なこと。これはつまらないライブや朗読会でかんじることがあるのではないでしょうか。
 音環境のほかに、お互いがシンクロしてしまう瞬間がある。私が思ったのは実はリラックスして聞いているほうがよく集中できるからより深みを経験できるし、更に言うと私たちは気まぐれに程よい雑さをもって聴いたり聴かなかったり、声を出したり出さなかったりしている。皆さんで一致していたことは程よい雑さに目覚めることが意外に音の体験を深くするのではないかということでした。

 これからはお互いの声を確かめるということで詩歌に縛られず、様々なジャンルの本を皆で音読しあってみようということになりました。
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Apr 18, 2008

浪をくりかえすのは-中野重治の「浪」を考える

浪  中野重治

人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は再び走つてきてだまつてくずれている
人も犬もいない
浪のくずれるところに不断に風がおこる
風は磯の香をふくんでしぶきに濡れている
浪は朝からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
浪はこの磯にくずれている
この磯はむこうの磯につづいている
それからずつと北のほうにつづいている
ずつと南の方にもつづいている
北の方にも国がある
南の方にも国がある
そして海岸がある
浪はそこでもくずれている
ここからつづいていてくずれている
そこでも浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
風が吹いている
人も犬もいない



 タイピングすると僕のパソコンは使用した変換とか文章を記憶 するので、ある意味うつのが楽だ。
しかし中野重治は手書きで書いたはずでどんな気分だったんだろうな。
ぼーっとしてるように見えるんだが けっこう冷え冷えとした熱いものが(語義矛盾だが)
高まるんだけどすぐに崩れるような。

海というと小説では安吾を思い出してしまった。
「私は海を抱きしめている」ってあった。
でもなんとなくドラマチックである。
しかし中野重治はドラマを拒絶してもっとどうしようもない
反復の風景に出来事を見ているような気がする。
「くずれている」の意外に起伏に富む繰り返し。

イタロ・カルヴィーノが「パロマー」という小説を書いている。
主人公の元インテリっぽいおっさんが海をぼーっとみつめて
形而上学的な思索をする。カルヴィーノはレジスタンス活動の中に
いた人で、中野重治との関連もいえなくもない。
パロマーの主人公は海の波に幾何学的な何かを見るわけだが…
中野重治の記述は大またで書いている。
じっと観察するよりはもっと「見えてしまっている」
もっと「聞こえてしまっている」
そのことをそのまま書くと恐いなあと感じる。

ただし中野重治はきっと韻律をこの詩でもかなり深く考えている
ように思える。いいぐあいに繰り返しに変な引っかかりがあるのだ。
連想したのは童謡の「海」である。

海は 広いな / 大きいな / 月が のぼるし / 日が しずむ

海は おおなみ / 青いなみ / ゆれて どこまで / つづくやら

海に おふねを / うかばせて / 行ってみたいな / よそのくに

意外とこの歌に通ずる無限の感覚があるような。
この歌はもっとふわふわしているが。
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Apr 17, 2008

芋づる式思い出映画「エンドレスワルツ」

若松孝二の映画「実録 連合赤軍」を何となく見ようかな、どうしようかなと思っている。何しろ、あさま山荘事件は僕の生まれる前の出来事。親父が「ずっとテレビ中継してたな」と云ってた。けれど前見た若松監督の「エンドレスワルツ」はけっこう面白かったので。やはり見ようかな。

 役所広司がでてたあさま山荘の映画はどうも見る気になれなかったし。思想の問題として重要な点はあるだろうから迂闊にはいえないんだけれど、思いつきだけどいじめとか排除と関係あるのかもしれないな。グループとか関係の中での排除の機制を自分の中にもあるものとして自覚しないと、そこで発生する力は暴力として駆動するのだろうか。なぜか坂口弘の本を図書館で借りた覚えがある。あの人はうたを書いていたんだったな。でも内容あまり覚えてないな。永山則夫は小説書いてたし。宗男と連座した佐藤優の本はバンバン売れているし。刑務所や拘置所って実は文学空間なのだろうか。

    「エンドレスワルツ」について。あれは確かジャズ奏者阿部薫と鈴木いづみの関係を描いたものだった。どちらもリアルタイムでは知らない。阿部薫は町田康、鈴木いづみは広田玲於奈が演じていた。  印象:町田康はあの映画で非常に男前だと思った。けれど小説はあまり読んでない。とにかく男前だった。あの映画での阿部薫はかなり壊れてる人だった。ほんまはどうかわからんけれど、とにかく壊れた人で散々女を振り回すのであった。けれど、どこかにイノセントな凄さがあってやはりいい男に見えてしまうのだろうなとも思った。「男は身勝手」みたいなお話のような気もしてしまったのだが、どうもそれだけではなくそのいい男さと演奏が渾然一体となって彼の魅力を形成していたようだ。とにかく僕は阿部薫と鈴木いづみが一種のカルチャスターだったことしか知らないのだけど。
 幽霊になって奥さんの前にあらわれるところはいい。色々映画について調べたら幻覚という感じの記述もあったが僕はある種魂のようなものを感じたため「幽霊」と書く。「鉄道員」で娘の幽霊が高倉健の前にあらわれる感じとはまったくちがう。僕は幽霊を見たことがない。そういえば小学生の時盲腸で入院していたら隣のおばさんが「だんなの幽霊が枕元にたった話」をしてくれた。おばさんは素敵な感じの人だったので幽霊の在非在以前に「そうなんだ」と得心してしまった。
 結局「鉄道員」は何となく「交感」がないような気がするのだ。愛といってもいいかもしれないがそういうものが空間に満ちる感じ。「エンドレスワルツ」にはあったんだよな。部屋の感じとかも好きだった。

 で、若松孝二の映画情報を調べていたら、なんと詩人福間健二さんの名前が!福間さんは若い時若松プロで映画製作にたずさわっていたのか。知らなかった。福間さんが訳したブローディガン「東京日記」は覚えている。ブローディガンは生前日本に来たそうなのだが、なんかトイレでオシッコをする詩もあったような気がする。(あったかな?自信なくなってきた)最近「アメリカの鱒釣り」をぱらぱらめくっていたら「俳句」について書いてるんだよな。ブローディガンの文章も短詩と短編のハイブリットみたいで読むと適度にさらさらしていてしんとした気持ちになる。非常に落ち着く。(根底にはいっぱいしんどい感じがあるのだと思うが)それでいつも居眠りをしてしまうのだが。

 ※石原さんの日記で福間さんの映画「岡山の娘」が告知されていました。予告編を見る限り、いい感じかな。大阪だと十三の七芸あたりでやってくれぬかな。
 ※町田康の第一詩集「供花」はよかったように思う。大阪弁の詩があって、僕は関西人なので親近感がある。ただし他の作品は知らない。
 ※石井聰互の映画「エンジェルダスト」にでていた若松某という怪優と若松孝二を勘違いしてた時期がある。なんでだ。

 「実録・連合赤軍」予告編

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Apr 02, 2008

デカルト風呂

 最近ややこしいエントリーが続いたので。近況。5分以上風呂につかれなかった僕が15分弱浸かっている。血の循環とか筋肉をほぐすとか、清掃の肉体労働のあとはいいな。暖めて寝るといいな。汗をかいたりすることで、活性が起こるような。気のせいか。近代文学でも川端康成とか梶井基次郎とか伊藤あたりの温泉によう浸かっておる。

 今デカルトパラパラめくってみる。デカルト『情念論』(岩波文庫谷川多佳子訳)

 100 悲しみにおいて。

 悲しみにおいては、脈が遅く弱い。心臓のまわりを紐でしめられているように感じ、氷片が心臓を冷やし身体の他の部分にも冷たさを及ぼしているように感じる。しかしそれでも、悲しみが憎しみに混ざりさえしなければ、時には盛んな食欲もあり、胃もその任務を怠っていないのが感じられる。

 115 喜びは、どのようにして顔色を赤くするか。

 たとえば喜びは、顔色をより生き生きとし、より赤くする。なぜなら、喜びは、心臓の水門を開いて血液がすべての静脈にいっそう速く流れるようにし、血液がいっそう熱く微細になって顔のあらゆる部分をある程度膨らませるからだ。これが顔つきをいっそうにこやかに明るくする。



 けっこう不思議な書き方だがツボは外してない。実感的。血流や精気の循環システムとして体を見ている。風呂に入るといい気持ちっていうのもわかるね。別にデカルトにいってもらわなくてもいいけどね!デカルトは身体を機械としてみているらしい。だから人間が死ぬってのは、多くが言うように精神(魂)が体から抜けたのではなくて、機械が壊れるのと同じで、いろんな機能が壊れて停止していくと、生体自体が作動しているように見えなくなるという。この言い方は賛否両論あるよね。でも、デカルトの言うのはだから精神っていうのは不思議ねといおうとしているのか、それとももっと怖いことなのか…

 ひとつは例えば人体にまとわれている「その人らしさ」みたいなものがどこへいくのかみたいな疑問がある。臓器移植とか難しい問題だ。でもこの当時はある種の観念批判として機能したのかな。
   アランの『幸福論』はデカルトやスピノザの身体とか情念の論に影響を受けたという。だから元気になるのも、しんどくなるのも気の持ち様ばっかり考えるなと。つまり疲れたら体操せよとか目が疲れたら遠くを見よとか、首を回すと気分が楽になるよとか。この辺のアランの考えは僕は好きだな。アランは軽いしんどさなら、くすりを飲むとか自分の否定的な考えを除くって言うより、体を楽にするように工夫するといいんだと。
 さらにドウルーズあたりになると、その人らしさをさらに遠くへ行かせるためにいったん身体の固有性から身体を解き放つ。すると、○○機械の連なりとして、自然と身体の無差別性みたいなほうへ行って。このあたりはまだ整理できてないので、うまくいえない。だけど、ドウルーズはデカルトとかスピノザとか16~17世紀哲学から「機械」の構想をもらっているのは一応言えるかな。けっきょくややこしい話に…
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