Dec 22, 2007
ちゃんこ、あるいは藤井氏の講演会
昨日は親父が家に来てくれたので、一緒にちゃんこ鍋を食べた。そのちゃんこやの天井には関取衆の手形がいっぱいあった。(そうすると、相撲部屋のリンチ殺人のことも思ったりする。死亡との因果関係は捜査中だろうけれど、どのような事情であれ、一人のものを大人数で、虐待、暴行するようなことは私は単純に嫌いである)なぜか格闘家佐竹雅昭の提燈もあった。ちゃんこの味つけは、さっぱりしている。胡麻をすって、そこにおつゆをいれるとツケダシの完成。親父はレモン酢をどばどば入れていた。酸っぱいものが好きなのだ。親父はいつものようにたくさん自慢話をして帰った。小学校の校門の前で子どもに挨拶するボランティアをやっているから、その話をしていた。立派な話をするのだけど、あれこれ毎回聞いているので、「そんなに正義の人なら政治家になったら」と皮肉をいってみる。すると、「そんなんしたら、お母さんが怒って別れるわ」と笑っていた。今日は、立命館大学で、13時より藤井貞和氏の講演会があるので、行ってきます。
Dec 20, 2007
グニャグニャな年末
最近は、いくつか仕上げないといけないことがあるのだが、いっこうに進んでいないのです。その一番は学校のレポートで四つ出題されています。明けの十日前くらいには提出しないといけない。やらなあと思うんですが、ぱっと手が出ません。ヤル気が出ればと思うし、いつもヤル気が出たら(ギリギリですが)やるのですが、正月早々レポートに苦しめられるのは嫌なので、ある程度まで片をつけておきたいのです。しかし、なかなか億劫であります。グニャグニャです。最近の出来事といえば、こないだ実習に必要なので、健康診断を受けました。幸い異常はなかったのですが、背が2cm伸びました。まあ、計測器の誤差なのだろうと思いますが、30過ぎても背がのびるというのは、慶賀なことなのだろうか。あと、昨日寝ていたら、突然鼻血が流れ出して枕を汚しました。鼻血は、もう何年も出ていないので、背といい鼻血といい、僕の体は何かありあまっているのでしょう。
ありあまっているといえば、最近ドストエフスキーの小説『白痴』を読んでいるのです。純文学に抵抗のある方や、長編が嫌いな方は抵抗があるかもしれません。また、通というのが適当かわからないけれど、詳しい方は、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、果ては『永遠の夫』あたりをすすめるかもしれません。
なぜ、『白痴』なのか?勘なのです。この小説はまだ第一編までしか読んでませんけれど、主人公のムイシュキンがどんどん事件に巻き込まれていくのです。いや、すすんで修羅場に出向いていって、さらに話をややこしく、過激に進行させる車輪になっているのです。これは、難しい小説が嫌いな方でも面白いと思います。ドキドキなんです。
ムイシュキンは不思議な人物。知らないところや招待されていないところへいっても、奇妙なやわらかい雰囲気と、なにをいいたいかわからないんだけど、誠実な感じの物言いでうけいれられていくのです。しかし、一方で「白痴」ともいわれてうさんくさがられます。僕ももしやムイシュキンは、悪人ではないのかと思っています。実は、悪人と善人はそれほど隔たりのないものかもしれません。善も悪も何らかの価値を前提にしているわけで、そういうものをグニャグニャにしてしまう何かがある。もしかしたら、悪っていうのは、みなが前提にして、さらにそのことすら忘れている価値を根底から、ぐにゃぐにゃにするものなのかもしれません。そんな風にも思います。
ありあまっているといえば、ムイシュキンだけでなく、出てくる人みんなが濃い上によく話します。どんどんしゃべる。しゃべることによって、秘密まで話して、また事態が展開して、どんどん、物事が思わぬ方向に転がっていく。これも、物事の筋をへし折るグニャグニャの醍醐味です。
ムイシュキンは、みんなが普段言わないことを話させる雰囲気の持ち主なので、ムイシュキンが聴いたことをまたしゃべったりしてしまうことで、どんどんおかしな方向に行く。その結果、いろんな事情があけぴろげになって、これからどうなるんだろうという感じです。
他聞に漏れず、僕もうっかり口をすべらしたり、感情をあらわにしてしまう方です。実はそうではないのかもしれませんが、わりかた言ってしまうほうなのです。なぜなら、云わないことにより後悔したくないからです。けれど、云ってしまって後悔することも多く厄介です。
昨日、田中宏輔さんより、新しく出た2冊の詩集(一冊は詩論集として読める。The Wasteless Land.ⅡとⅢ)が届きました。宏輔さんありがとうございます。美しい装丁です。昨日いろんなものが「咳」をしだす詩を読んだり、ページをくって、ちょこちょこ眺めていました。以前、宏輔さんとぽえざるで会った時、僕の「ふたつのキ」という詩をみて、「木と気を使って僕も詩を書いたことがある」と仰ってました。それに該当するだろう部分を見つけて、あの時仰っていたものはこれかなと思っていました。年末から1月は忙しいですが、じかんを見つけて少しずつ読んでいこう。
Dec 13, 2007
読中感想メモ『詩的分析』
藤井貞和氏の『詩的分析』を読んでいる。「複屈折修辞」の節を読み終えて、「万葉本文論」に入ったところ。「複屈折修辞」について。そもそも「複屈折修辞」という言葉を知らなかった。掛詞などが一つの歌の中で、一筋縄ではいかない意味作用と余韻の効果をもたらすもの?だろうか。無知なせいもあって説明が難しい。縷々書いて行く。掛詞などについて、僕の受けた古典の授業ではある種の「シャレ」として説明されているにすぎなかったが、藤井氏は、詩の生成に関する重大なヒントとダイナミズムをここに感じている。その記述や歌の現代語訳が誠にダイナミックかつ精妙なので、古典文学に関して不明の私もひたすら心動かされて読むことができた。
きみにけさあしたの霜の起きていなばこひしきごとに消えやわたらむ(仮名序)
藤井氏の解説を引用する。
「霜が置くことと、起きて辞去することとのあいだに、懸け橋として、同音(あるいは類音)と、朝であることとがあるだけで、ひらいた懸隔は、消えいる思いと、霜の消えることとのあいだで、ふたたび交錯する。しかし意味上、表裏二つがかさなるということはなく、あえて言うなら、表と裏とがもう一度いれかわるという感覚だろう。霜が置く、消えるという、自然な現象をまさに懸け、焦点にしたところに古代の詩があり、そこから心情にも物象にもひろがる。」(『詩的分析』228㌻)
表裏の次元の移動や、心情と物象の交感について注意したい。後学のため自分なりに反芻してみる。「起きていなば=愛人の出立」と「霜を置くこと」が同音であることで朝の情景という広がりを描く。しかし「いなば」というように仮定だから、そうなったらどうしようと思っているのだ。そのようなことになったとき、やがて昼になり霜が消えていくように、自分の気持ちも消え入るような(心細い)気持ちになって行くとしたらと。心は古い言葉で「うら=裏」という。別れのときの気持ちを想像する「うら=こころ」は、霜のように寒い朝だけにあらわれる実在(表)であると同時に消え入りそうな不確かさを持っている。(なんだかまちがっているかもしれない。)
さらに藤井氏の解説をさらに自分に引き寄せてみる。「愛してくれているだろうか」「私の気持ちは確かなものだろうか」という誰もが感じたことのある何かに、確かにアクセスしてくるものがある。このアクセス性は重要だろう。
藤井氏は述べる。
「どう受けとるか、どんな民俗や感情を盛りこんで読者が納得するかには、個人差があるものの、懸けたことばなら誰もが納得できるのではないか。」(先の引用部続き)
心理的になるかもしれないが、私なりのアクセスを試みる。この歌は全体が心の産毛のようなもので出来ていて、それを「文=綾、彩」と呼ぶのかもしれない。その産毛が私に触れることによって、私の中の心の産毛がそよぐようにも思えるのだ。私も恋をしたことがあるから、この人の気持ちはどうなんだろうとか、そう思う私は相手を本当のところで信じているのだろうかと悶々とすることがある。よく考えてみれば、産毛と霜はどちらも細く頼りないものだ。この歌に出てくる人は、「あの人が出て行ったとき、わたしの心はどうなるのだろうか」という仮定の形で、相手にたいする気持ち、関係について、それらが自分をどこに連れ去るのか思いをめぐらしている。そのときの揺れる感じや次々と浮かぶ想念は、「霜」のように頼りなく儚い。自分がふとふわふわして、しかし奥底では醒めているのだ。(霜のように)しかし、光と風と土と水と大気(朝=自然)というその大きなものに照らされて、ささやかな思いがどういう未来を迎えるのか。そのような遠景からの巨大な視点もあるのだ。とてつもなく様々な魂の面に触れてくる奇妙にありありとした幻のような時間だ。それに触発されて私は、その確かさと不確かさの間を思い出す。それはもしかしたら別れがくるかもしれないという事実性を持った恋心の時間である。霜のように信と不信という対立ほどでもない何かが繰り返し朝の光のように反射(リフレクト)しつづける。もうあなたとの時間に入っているが「決定不可能」な心の瞬間を描く。その限りない反射が私をふるわせる。藤井氏の文と歌の感動からこういう感想を抱いた。そしてこれは虚実の交錯する表現空間の謎の一端ではないかと。
たしかにひとつの「文」がこのような心の原初への働きを示すことを、藤井氏が語っているとすれば、(たぶんに私の想像も入っているが)それはまさに詩だといえるように思う。まだ途中なのだが、言葉と人が触れ合うとき一体何が起こるのかは、まさに文学の全身の問題であろうと思った。
※無知な上につい興奮しておおげさなところが見られますが、ご容赦ください。
※「心の産毛」という表現は精神医学者中井久夫氏が精神疾患患者(おもに統合失調症)の心の働きのデリケートさについて語ったとき使った言葉です。
※アイヌ神謡の四人称の問題も面白かったです。誰が語っているか という問題はどこの世界でも確かに見落とされがちでした。大江氏が一時ナラティブの問題について語って小説を書いていましたが少しわからないところもあったのです。
Dec 07, 2007
近況、麦朝夫氏の近作
きのう、友達と待ち合わせして、大阪の地下街「ディアモール」に行ってきた。FM大阪の公開録音があったのだ。Salyuという女性シンガーがゲストの回であった。地下街の真ん中にステージがあって、前には百人ほどあつまり、DJとトークしている。ジョニ・ミッチェルをカバーしているようでうれしくなった。その後に、堂島のジュンク堂に行った。編集工房ノアの本が特設の棚においてあて、天野忠さんの詩集が何冊か置いてあり、欲しくなったが今月は出費が多いので泣く泣く今度来ようと思った。
なぜ出費が多いかというと、ひとつはレポートのひとつが不合格になり再提出しなくてはいけない。これについては、友達や、色んな人に愚痴を云った。そのひとつの理由に再提出に2000円かかるということがある。
次に、来月実習なので、健康診断を受けないといけない。老人ホームに行くのでO157やサルモネラ菌を持ち込むとお年寄りの生命に関わるからだ。これは致しかたないけれど。
今回のtabについて送っている方から、感想のおはがきが時々届いてそれが助けになっている。僕の今回の詩は「戦争」について書いているので、戦中に学校教育を受けた大阪の詩人麦朝夫さんから温かいお手紙が届いた。さらに近作を送ってくださった。叢生という詩誌の151号より「えらいおがってたなあ」より後半部を引用。
ニホンが焼けて 中学生になったらまた先頭で
マエヘーススメッ とおがったら
号令はいかん ハヨイケイケ
と担任がハエでも追うように手を振った 広い空
またドッと傾く世やけど あとは母を見送るだけやと
ヒヤーッと笑う
いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら
隣の部屋か 床の下や 誰か
おがって おがって おがって 寝られへんねん!
(麦朝夫「えらいおがってたなあ」より)
感想として軽妙なアイロニカルな感じの大阪弁で、麦さんが生きて
叩き込まれた矛盾が語られている。
麦さんは短い詩をよく書いておられるが
このような形でコンパクトに伝えることも
彼のひとつの切実さのあり方だと思った。
>いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら
ここに非常に打たれる。
次の連は生きているものの声(よがり声?)なのか
死んだものの声かわからないけれど
その間にはさまれて
麦さんの魂は、休むことができないのだ。
僕はベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を思い出した。
麦さんの中にも過去の廃墟が生きており
もうすぐ自分は死ぬとしても
何かを語り伝えたいという風が廃墟から吹いていて
彼を語らしめているのだと思う。
Nov 30, 2007
David

今日NHKを見てたら、David BowieのPVが流れていた。 "Heroes"という曲。全訳までやってくれているのだった。何かと思ったら英会話の番組。番組に出ている人の動きは何かしょうもないのだが、佐藤良明という研究者がかなりの音楽好きで、けっこう勉強になった。
僕はDavid Bowieはまるで詳しくありません。この曲は77年で、自分は3才だったから、リアルタイムでは知らない。"Heroes"は、ベルリンで作ったそうな。壁のある分断された街で作ったんだね。「みんなバラバラ」みたいな歌詞があったり、「銃が向けられている」といったような言葉もあり、何となく人々を分ける壁を想起させると解説の人はいう。 そこで、抱き合うことで「僕らは一日だけヒーローになれる」というんだね。この「一日だけ」というのがシビアで刹那的でちゃんと緊張感があると僕も感じた。
ある瞬間、自分が何かの真ん中にいられるという感覚。僕は真ん中にいたということはあまりない人生だけれど、これは「誰かから見た」真ん中ではないんだろう。この曲を知れてよかった。でも、冷戦ってもうだいぶ古い言葉になってしまった。歴史を感じます。
僕のはじめて見たDavidBowieは「戦場のメリークリスマス」に出ている人。子どもの頃あの映画には脳天をガツンとどつかれてしまった。子どもがなんでガツンとなるかわからないのだけれど、たぶん、あの映画に描かれていた兄弟の様子にやられたのだ。
David Bowie扮する青年は寄宿学校に入っていた。彼には弟がいた。弟は背が大きくならない病気で声変わりもしない。美しい少年の声で歌うことができる。そのことで、ある日校内の庭でひどいいじめに遭うのだ。David Bowie扮する兄はそれを窓からじっと見ている。そういうシーンがあった。
やがて兵士になったDavid Bowieは、その罪悪感に苦しめられることになるが、僕の実際の兄弟関係とはまるでちがうのに、不思議だ。 これも"Heroes"と実はそんなに遠くないんだと思う。舞台は日本軍の捕虜収容所もそうだし、弟のこともそうだけれど、人の中にある「隔たり」だと思うんだ。物理的にもそうだけれど、人の仕組みや心の中に「うまく近づきあえない」何かがある。David Bowieは、弟への果たせなかった愛が促して、何とか他者に近づこうと収容所でいろいろやらかして、最後には首だけ出して「生き埋め」の刑にされてしまう。
簡単にわかりあうことができたら、生きているってそんなに面白くないんだろうと思う。「一日だけ」っていうのは、そういう甘くなさが言い当てられているような気がするし、けれど少しでも近づくことができたらなという声もあるんだと思う。
かくいう僕もDavid Bowieのことをこれまであまり意識していなかったし、なんだか気味の悪い人だなあと思っていた。(化粧とか)けれど、まあ聴いてみないと本当のことはわからないわけで、ちょっと聴いてみようかなと思ったんだ。(もう60歳らしい)
Nov 09, 2007
風塵
けっこうそれは近いのだもし呪いだとしたら
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
あまりにも空白であり
公園の側の枯れた並木を通る
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
死を見たと
空の姿
その思い
電線の、看板の看板
すきまの空は空気ではないだろう
物理的宇宙を滅却して
ものは現われを過ぎこして
あまりにもここにありすぎる
建物の
茶色の建物の
ところで私は充たされているのだ
それは空白であり
そこにいるようであり
すばらしい幼児のフードつきの
母親のかげろうの、幼児の叫ぶ声の
あまりにも見ることができる
知ることのない
あなた、かなたであり
知らないうちに
ポカンと
切り抜かれたあなたが
街頭をどんどん光らせていくようで
寒くなっていく
けっこうそれは近いのだ
もし呪いだとしたら
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
それが根源的な罪であり
そして街頭はまぶしい
見ることができる
この世界にあらわれる全てのもの
霧になり夜風になり
私は歩いた
ここにいて、歩いた
見つけて見つけて
ひきとめることのできない
遅さの中で
ひとつひとつの光が
どうしても星になれず
それが喜びのように
満ち足りたように
あなたを感じることができた
という
ささらさら
あまりにも
無闇で
どこまでも光で
静かに
それは息苦しかった
大きく息を吐いた
木々がざわめいた
いつまでも無からさらに無へ移行して
風が波になり光が風になり波がおりかえして
ゆるやかな人影をつくり
また会うことができるように
大きく微笑んでいた
とうとう実習通知が…
ここ何日か朝起きると、ちょっとだけ胸が苦しい感じがします。もしかして、また病気(心の)かな?と思ったんですが病気がひどかったときはもう苦しいなんて次元ではなかった。だから季節的にも物憂い時期なんだろうかと思って様子見てます。ここしばらく更新していなかったんですがそれは夜すぐ寝てしまうからです。別に疲れるようなことはあんまりしていないので、身体が現実逃避しているのか、単に眠いだけなのか?
昨日、掃除の仕事から帰ってきたら、郵便受けに通信教育の学校から手紙が来てました。透けて見えるんですね。そこには「実習通知」という文字が…。昨日、家で実習そろそろかなーといっていた矢先。予知能力だろうか。
開けてみたら来年の1月半ばから2週間。特養で。ガーンですね。昨日は愚痴の嵐でした。なんでガーンとなるのかという疑問があるだろうけれど、私、こういうの非常に緊張します。常日頃レポート書いているだけでも、「なんで社会福祉士の通信教育を受けたんだろう」と泣いていますから。けれどレポート終わった後は今回もいい勉強になったなあとケロっとしているんですが。
通信の三本柱は、レポート提出。スクーリング。実習です。これを一年半で、何とか修了したら社会福祉士の国家試験の受験資格が得られる。だからこれは修行というか福祉職のトレーニング期間です。資格がなくとも働けるわけですが現今では大変。
学校で勉強して更に受験ってメンドクセーって感じる方もいるかもしれない。私もそう思ったりもする。けれども、私の個人的な例ですが、試験の結果はともかくとして、これくらいはやり遂げないととてもこれから世の中の厳しい荒波に立ちむかえないんじゃないかと思っています。それでなくとも怠け症なので、少しは自分を追い込まないと。
あと、働いていたときに「制度の勉強しなさい」と上司にいわれたことがあって、その時そんなの知らねと思ってたんですが、やっぱりそのあたりの勉強は大事かと。これはいやでもレポート書くうち思いました。自立支援法とか冗談じゃねえなと。
あと、これが一番大きい。自分の中で正直福祉やりたいかどうか、定まってないところがある。この受講期間にダメだと思ったらそれは向いてなかったんだと。だから自分との賭けです。だから冷静に書いているのだけど心臓バクバクなんですよ。
レポートでは、自分の主張ばっかり書いてしまっています。優等生作文を書こうと思ったのですが、それだと気が狂いそうになったので。なるべくテーマ内でおさめていますが「もうちょっと客観的に書いて」という講評もあります。その講評も私が意見を書くことは肯定していただいているので、ありがたいです。
昨日はレポートに要るので岩波新書の『児童虐待』という本を買いに行きました。地元の本屋はどこも売り切れで(誰か買い占めてる?)梅田の清風堂に行きました。ここは、左翼っぽいラインナップですが、面白そうな本がいっぱいあって、我慢して『児童虐待』だけ買いました。
日曜日は、松尾スズキ作『クワイエットルームにようこそ』という映画を見ました。うまく感想はいえないけれど、主演の内田有紀さんも脇役も皆さんイキイキとしていて、ただ単純に明るい映画なわけではないけれど、良いなあと思いました。この映画について馴染めないもの(精神病院の話なので。当事者なんでなかなか冷静に見られない)も感じた部分も少しありましたが、松尾スズキは人を動かす何かをもっているから人気があるんだろうなあと。内田さんはこんなにいい役者さんなんだって再認識しました。庵野秀明や、ハリセンボンの細い方の方もいい味出している。(実はファンです。この映画では精神科の患者さんの役でした。この人のほうが『自虐の詩』の原作キャラに似ているような気が)宮藤官九郎さんも快心の演技でした。
Oct 27, 2007
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の感想など
昨日は京都ポエトリカンジャムの日だった。マイミクのはに丸さんや、tabのお仲間の鈴川さんも出場するということで見に行こうと思っていた。でも、朝から頭痛が激しく体調が悪かったので行けなかった。さらに大阪は強い雨が降りしきり止めを刺された。残念です。 今日も頭痛は治まったもののお腹の具合がよくない。でも、昨日よりはマシかな。最近はエリック・クラプトンの『レプタイル』を聴いている。これは愛する伯父にささげられているようだ。村上春樹がその著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中でジョギングしながら聴いているとしっくりくるし、聴けば聴くほどいいと書いていたのだ。影響を受けやすい僕はツタヤでレンタルしてMDに入れた。ただし僕はジョギングはしない。というか走るのがまるっきり苦手なのである。春樹さんは長編とか骨太の小説を書くには肉体的な持続力が大事だから走っていると書いていた。それ以前に春樹さんは「一人でコツコツ」やる内省的な作業が好きなようなのだ。春樹さんにとって「走ること」と「長い小説を書くこと」は近い作業のようなのだ。体の状態やモチベーションを徐々にその作業に馴らしていくことや、最初苦しいのもある地点を過ぎると、とても気持ちよくなることや、その結果この作業が止められないような麻薬性をもつことなどである。
この本も、『レプタイル』も、別にランナーでなくてもいいと感じられる。僕は学生時代、通知表に「いつもコツコツやっています」と書かれていたのだが実は非常に飽きっぽい。また春樹さんのように「自分に向き合う」のが実は苦手で誰かと一緒の方が安心する。どうしようもなく淋しがりやの人間なのである。 しかし春樹さんの言うこともよくわかる。たぶん自分の人生に起こる出来事や、自分の生きているこの世界のことに何らかのこだわりみたいなものがあって人は書くことに向かう。驚きとか怒りとか悦びとかとっかかりは何でもいいのだが、それを何とか形にできないか、保存しておくことはできないかと思うから創作に向かうのである。 けれども、世界はたえず流転し、私の存在もかよわいウタカタのものである。たちまち流されてしまいかねない。 だから自分のスタイルを作る。春樹さんのこの本はそのスタイルの一例を語っているように思われる。ここで引用。
生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉からこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。だからひとつの水源が乏しくなってきたと感じたら、思い切ってすぐに次に移ることができる。自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。 人生は基本的に不公平である。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であるように思う。
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』p65)
まあ村上春樹も成功者だからちょっと嫌味かもしれないがその辺は仕方ない。あるいは詩はまたちがうかもしれないが、この「水源」にたどり着くのに途方もない時間と粘り強さが必要なのはどのような事業でも同じ。けっこう肉体的なものなのかもしれない。少なくとも村上春樹はフィジカルに「書くこと」を捉えている。 走ることはたえざる持続である。毎日あるペースでやらないと体がなまってしまう。書くこともそう。春樹さんは別に「毎日書け」と云っているわけではない。そうではなくて、書くことも毎回新しい動機があるのだから、それをいかに持ちこたえることができるのか。一般的な方法論があるわけではないので、自分なりのスタイルを作った方がいいと言っているみたい。そのスタイルは不変ではない。世界も自分も変わって行くからだ。春樹さんは「老化」を語っているが新しい「呼吸法」を見つけていくことは「走る」のにも「書く」のにも大事な事なんだろう。 新鮮な呼吸が体にとってフィードバックであるように書くことも自分と世界との対話であるだろう。
クラプトンはブルースを白人の側から再解釈したと言われているが、どうなんだろう。もしかしたら黒人のものを収奪したといえるのかな。黒人のミュージシャンは成功している人も多いけど、貧しい人はその何百倍もいる。安易に人種だけで貧困の問題は語れないんだろうけれども。本物の黒人音楽って何だろうと思った。こないだ森進一が歌う「ラブイズオーバー」を聴いて、これはソウルミュージックかもしれないと思った。こぶしを利かすのではなく一言一言切るように切り裂くように語りかけてくるその様子は素晴らしかった。
Oct 21, 2007
日曜日
今日作品が書けました。自分としてはわりと硬派な感じ。祖父の戦争体験と今のことをつなげてみたかった。それを先週買った複合機にて印刷。エプソンの型がちょっと古くて安い奴。最新型は性能はいいんだけど大きかったり高かったりでうまくない。だけどこいつは、まずまずの速度で、いろんなコピー類の手間が少しマシになるかなと思う。
最近はUKのロックバンド「トラヴィス」のセカンドを聴いている。悪くない。先週の金曜は雨でデイケアでかけてみたんだけど雨が似合う。
話は戻って5時から合評会に出席。マイミクのYさんやKさんらが参加。彼らは文校つながりです。今月の京都は「京都ポエトリー月間」だそうで、KSWS(京都スポークンワーズスラム)の話なんかを聞く。Kさんが京都ポエトリカンジャムに出場するらしい。私の詩はわりかし好評でした。Kさんはポエトリカンジャムに使う朗読詩を出してました。昔のを直したそうだけどやはり自虐とユーモアのセンスがいい。ご飯を食べに行って牡蠣鍋をつつきながら恋話をみんなでしました。
最近竹熊健太郎(さるマンで有名になったマンガ編集者)のブログを見つけました。ここ十年うかばれなかった竹熊健太郎さんですが、95年に出した「私とハルマゲドン」は彼が「オタクとして培ったメンタリティ」からオウムを共感的しながらも(しかし)批判している。つまり一歩間違っていたらオウムだったかもしれんという危機感からオウムにならなかった(なれなかった)分岐点を語っている。内在的批判です。さらに各共同体間をさまよう旅人でしか自分はありえないんじゃないかと語っています。これは名著だと思いますが、なぜか手元から消えているので正確な中味を紹介できません。笑える裏エピソード満載。しかしさらに絶版状態。
竹熊健太郎さんは昨年末脳梗塞で生死の境にいたようでそのことを書いている名文がありました。http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_bba5.html さらに萩原朔太郎の面白いエッセイを紹介します。http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2519.htmlでも、竹熊さんの文章を読んだ後では、なぜか朔太郎の文章が突っ込みの度合いがイマイチだなと思う石川でした。正岡子規について詳しくはありませんが朔太郎の書いていることになるほどと思いました。前フォーラムでそんな文章を書いたことがあります。でも朔太郎の「猫町」は大好きです。
最近は90年代後半から911くらいの時期の世相の変化ということを考えています。その補助線として梅田の再開発のこともぼんやり思ってます。
Oct 18, 2007
人からもらうエネルギー
しばらくぶりの更新です。ちょっと前の話になりますが、ぽえざるでは、様々な方にお会いできて感謝しています。一年ぶりの方も多数いて、こういう機会でしかなかなか会えない人もいますからよかったです。交流っていうのは、しょっちゅう会うということだけではなくて、時間を隔てると温まるものもあります。ただ普段それほど私は人に会う生活を送っていないので疲れるという面もあります。個人的には「会う」っていことは「意味」や「言葉」だけを交わしているわけではないと思います。形にならないエネルギーみたいなもののやり取りが大切。自分が与えるだけでなく人からも色んなエネルギーをもらっています。しばらくぶりに会うと「この人はいい感じ」とか「元気ないな」っていうのがすごく伝わってきて圧倒されることもあります。そういうのがいろんな風に自分の中で反映してなかなか整理できないっていうのも事実でした。まあ祭りの後ってそういうものかもしれません。
こないだCD「河島英五LAST LIVE」を聴きました。さっき言った人の持つ「気」とか「エネルギー」のひとつのあり方を見ました。このCDは二枚組みで①が90年代後半から亡くなる一年前(2001年)くらいまでのものです。②が大和銀行の本店の地下ホールで開かれた亡くなる2日前(2002.4)のトークライブです。①は枚方市民会館とか小さい箱でやっていて、旅から旅へローカルなものを愛した事が伝わってきます。
②では一時間くらいのライブですが話す声はよれよれです。しかし歌うと力強いものを感じます。単なる力強さではなく温かいのです。この人は色んなアジアの国を旅していたので、その話も面白い。きっと必死に話していたかもしれない。でもうれしいからなんだろうと思います。ファンのおばあちゃんが書いた詩に曲をつけたりもしているんですね。この2日後には亡くなっていて本人も死を思っていたかもしれません。そういうときには何か謎の力が伝えられるのかもしれないと思いました。これも人から送られるエネルギーです。
この前イエスの復活を論じた本を読みました。墓参りに来たマグダラのマリアに向かって復活したイエスは「私に触れるな」といったそうです。田村隆一の「立棺」も同じテーマだと思いました。私はキリスト教徒ではないのですがこの話は一見河島英五さんのエピソードと逆の「拒絶」するような感じがあるかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。うまく解釈を思いつかないのですが、様々な人にとって「今だ生きている」イエス。それをイエス自身が「私の現身は無くなった」と伝えに来たのかもしれないなと思いました。復活の中でその逆の「消滅」も起こっているのかなあなんて考えたりしました。夢枕に立って亡くなったことを伝えにくるみたいな。
Oct 07, 2007
参加予定です。
10月6日は堀北真希の誕生日だったらしい。ファンなのに全然覚えてない。誕生日覚えるの苦手です。今日でやっと三つ目のレポートが書きあがり、安いしめ鯖の切り身を買って日本酒をいただく。ついでにレポート記念として、ひさしぶりにFoo Fightersの新譜を買う。聴きまくる。転調が不器用な感じで、終わりに近づくにしたがってだんだん静かになる。アメリカンロックだが時々ギターを静かに爪弾く感じも意味はあまり感じられないが気持ち良さそうでぼーっと秋の夜長に聴くのによい。愉楽である。☆☆☆☆7日はぽえざるである。JR京都駅前のキャンパスプラザで1時くらいから始まる…だったかな。詩誌「かたつむりずむ」チームに参加予定。Oct 02, 2007
芸術とくらしに関してダラダラ(長文ごめんなさい!!!)ーしんどい方は最後の最近読んだ詩と音楽だけみてもいいかも。
どんな文学作品であっても、読むときにそもそもその世界に入りたいと思うかどうかがとても大事なんだと思う。一行目、あるいは装丁を見て読者は「ああこれはどんなのかなあ」と思ってくれるかどうかがけっこう大事である。例えばそれは店に似ている。ちょっと誰かと食事をしようなんてときに、予算とか今食べたいものも大事であるが、何より店の前で感じる雰囲気が大事である。「何かこの店良さそう」という直感をバカにしてはいけない。もちろん直感はよく間違うわけでもあるが、その直感というのは何より大事である。如何に読者を引き入れるかにマーケティング的に腐心している方もおられる。しかし、いくら計算しても入りたいかどうかという、読者の直感は偶然的でもあって計算とは違う要素がたくさんあるんである。もちろんいかに詩を広めるかという議論も大事であるし、その効用は認めないわけではない。ただ詩が難しいから入りたくないとか、詩の世界が開かれていないというのだけが詩に読者が少ないように見える理由ではない。大体宮沢賢治もカフカもニーチェもまあ色んな人が生前には文学では食えなかったので、活字離れといわれながらでも、こんだけ本が売れているというのが今の消費社会特有のものといえなくもない。はたして人類は進化したとだけいえるのかな。昔、サルトルがいっていたが、何か読めるというだけで、すごく豊かなのだ。しかし、それだと豊かさ批判みたいになるな。。
いろんな人に読まれるのがよいというのもわかる。けれど細々とでも常連さんがついてくれるというのもよいのである。友達が100人、マイミクが100人出来るのも相応に大事であるが、たった一人でも友達がいる、それを大事にするという営みは人にとってなくてはならないかもしれない。人でなくても、猫でも空でももちろん素敵な事である。また美しいものや友達に囲まれていないという生活で満足している人もいないわけではない。僕はいいもの、美しいものがある生活が好きだからそうしているわけであるが、暮らしの大半は何気ないもの、意味があるかは即座にわからないものもあるのだと思う。そういう人やものの中で美しいと思うものを探したい、楽しくありたいという中で文学、芸術を選択する人がいる。これは多様化でもなんでもなくて、人類の暮らしってそういうものでないかなと思う。
僕も子どもの頃絵を書くのが好きで、絵を描くっていうのが無性に楽しかった。ラスコーの洞窟に狩りの絵を書いた人がいるけれど、生活の必要だけで描いたのではなかろう。しかし、それは生活にとってかけがえのない暇の過ごし方であったはずだ。また、かつて農作業や漁の時に歌いながら働いていたりした。仕事の中に遊びを入れていた。しかし仕事が辛いということの慰めや、みんなと共にあるという感覚のために歌があったばかりでない。歌がなければ仕事がやってられないというのもあったと思う。もしかしたら、生活の中に遊びがあったというだけでなくて、歌がなければ暮らしも成り立たなかったといえるかもしれない。だから遠山の金さんも、寄席や歌舞伎が倹約令で廃止されそうになったとき、そういう遊びがあるから、みんな仕事もがんばれるのだと反論したのかも。
うまくいえないのであるが、小林秀雄が「実生活なくして思想はない。しかし、そうして思想は実生活から離陸して行くのだ」というようなことをいったが、これはトルストイが奥さんから逃げたときに正宗白鳥に対して云った言葉だ。正宗は奥さんが恐かったからトルストイは逃げたんだというわけであるが、正宗は暮らしと芸術を即物的にわけるわけである。それもわかる。しかし暮らしは「昏し」ともいえるのであって、よくわからない暗がりや欲望やセオリーとも別のものが暮らしの中で生まれるわけであって、その「昏し」のグラデーションや味や音を(暮らしで用いるやり方とは一見違うような方法や空間や時間で、)形にしようとする衝動がある。それが芸術とよばれ、なぜか生活とちがうような次元に見えるわけであり、どこが暮らしと分かれていて、どこがくっついているのかわからないけれど、安易に暮らしと分けたり、くっつけたりすると芸術のうまみは消えてしまうと危惧している。しかし、孤高の芸術家というのもカッコいいかもしれないですけれど。永井荷風も考えてみて面白い存在である。晩年はストリップ小屋に通ってカツどん食って死んだけれど、荷風も大逆事件にショックを受けて厭世の度を深めたとも云われる。芸術と暮らし、芸術と世間、単純ではなさそう。
◎最近よかった詩
細見和之『ホッチキス』
山本泰生『声』
現代詩手帖2007年9月号須藤洋平の詩
最近洋楽ばっかり聴いている。コールドプレイ『静寂の世界』、ナインインチ、レディオヘッド『ベンズ』、ジョニ・ミッチェル『ブルー』、SAM41『チャック』、ウエザーリポート『ナイト・パッセージ』、シカゴ(何かジャズのビッグバンド風のもの)こういうのは大体知り合いに教えてもらって聴いているのでジャンルバラバラ。詩や音楽の感想も時間があったら書きたいけれどレポートを書かなきゃならんのです。
Sep 17, 2007
秋の空、夏の空気

外出先で見上げた空。とてもきれいな秋に近づく空。気温は夏に逆行するみたいに高い。今日は朝から部屋の掃除をして、ジョーシンでCDデッキをやっと購入。これでレンタルして色々聴ける。僕はダウンロードってやったことないや。まあいいか。
ジョーシンで、なぜか醤油をもらう。???それで犬のところへ遊びに行く。犬と遊ぶのは楽しいなあ。人と会うのとは違うエネルギーのもらい方をする。だいぶ、奴が何を言いたいのかわかるようになってきた。なぜかこの座るポーズが流行っているようで、お気に入りの定位置もあるようだ。今日、麻生太郎のマネをマスターした。聞きたい方は連絡ください(嘘)非常に似ていません!
さいきん、いしいしんじ、星の王子さま、天然コケッコーと「ほのぼの」路線で来たが、裏読書は計見一雄『脳と人間』、『吉本隆明歳時記』である。計見さんの本は統合失調症についての論なのだが、脳のこともよくわかるし、医者の本音もわかるし、非常に個性的で独創的な言葉の組み合わせ。中井久夫さんのように繊細でなく、春日武彦さんのようなバランス感覚でもなく、木村敏さんのように過度に哲学的でもない。計見さんは救急をやっていたからか、救急というのはプリコラージュ(器用仕事)なのだと思った。パッチワークとおんなじで発想を組み合わせていくような面白さがある。そろそろレポートの準備をしなくては。
Sep 14, 2007
天然コケッコーの感想
山あいの小さな学校に転校生がやってくる話。なんか、この映画は見ているあいだ、ずっとニタニタしていた。最近楽しいっていうのは素敵なことだと思っているので、そういう極私的な基準でいうと良いな。作っている方が充実していることがわかるのである。それはちょっとしたセリフとセリフの間や、その撮り方からわかる。非常に厳密に撮っているからこそ、さりげないものや危うい感じもするものが非常に意味を持つ。意味を持ってくるんだけどさりげない。そのバランスはすごく微妙で、受け取る人によってまったく違う絵をこの映画は人に与えるだろう。しかし非常に肯定的な雰囲気を感じる。肯定的っていっても単なるポジティブシンキングとちがう。作っている人がとことんまで大きく深く考えているからこそ、それを上回る形で見ている側が楽しくなれるような。あるいは演じている子ども達がドキドキできるような。そのドキドキがものすごく伝わってくるのだけれど、作っている人が酸いも甘いもある程度噛みしめているんだろうな。だからちょっととぼけたようなきらきらした人たちを撮れる。非常にささやかな恋愛未満であったり、思いやりであったりするものが僕にはすごくうれしかった。きっと作っている人が愛があるんだろうな。と思ったら僕より年下の監督でこりゃ参りました。ストーリーやいろいろは見てのお楽しみ。日曜に見たのに頭がもやもやし、しばらく感想が書けなかった。御免。
Sep 08, 2007
天然コケッコーを
見に行く予定です。mixiでの知人、友人の評判がいいっていうのもさることながらスタッフがいい。「リンダ リンダ リンダ」を撮った山下敦弘監督。あの映画は静かなシーン(夜)がいいし、すごく心に残って後からしみじみいいなーって気持ちになった。それから脚本が「ジョゼと虎と魚たち」の渡辺さん。「ジョゼ」も僕は好きです。主題歌も「ジョゼ」のくるり。「ジョゼ」のあの曲…「ハイウェイ」も、胸に迫ってきました。全体の音楽はレイ・ハラカミさん。うお、豪華だ!!
今年の夏は暑いのと勉強と詩で、映画からは離れとりました。というか、ずいぶんご無沙汰してました。実は「夕凪の街 桜の国」もまだ見ていない…。たしか、まだやっているところがあったので、これも見に行きたいと思います。
なぜか今、侯孝賢の「非情城市」を思い出しました。あの映画、静かな映画だったな。激動の話なんだけど。僕はいつも余計なことをしゃべっているような気がしますが、優れた芸術というのはどれだけにぎやかでも「(事柄以上に)しゃべりすぎていない」気がします。だからその佇まいに耳を傾けようとするのかなと思います。「天然コケッコー」もそうであればいいなと思います。
Sep 07, 2007
何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれない
19世紀ヨーロッパの画家の間で評判になった浮世絵っていうのは、どう日本から伝わったかっていう話を聞いたことがあります。赤瀬川原平さんの「名画読本」で知りました。ゴミだったんですね。伝わった浮世絵っていうのは。どういうことかっていうと、日本から陶器なんかを送る。陶器って言うのは割れ物です。だから、箱の中になんか詰め物をしなきゃいけない。で、もう流行を過ぎた浮世絵を丸めたり、ちぎったりして、詰めた。それで、フランス人とかびっくり!になったわけです。
この話がほんまかどうかということは、わかりません。赤瀬川さんは、尾辻克彦といって小説家でもありますから、よく出来たお話かもしれませんね。だけど、想像力を刺激します。
江戸時代には、相当な商品経済の発達があって、まあお金がある人しか買えませんけど、諸国で浮世絵を売っていた。アイドルのポスターみたいに流行の役者や、美人を画家達は腕を競って描いた。そしてどんどん刷る。この辺は消費経済で、今とあんまり変わらないかも。さらにすごいのは、流行らなくなると詰め物にしちゃうと。この辺の節操のなさというか移ろいのやすさも現代的です。今だったらお宝になるかもしれんからとっておこうとなるかもしれません。
いいのは、日本でゴミだとしても、ヨーロッパの人にはゴミに見えなかった。色だって、構図だって、新鮮。最初に発見した人はパズルみたいに必死につなぎ合わせていたかもしれません。僕は現代アートには詳しくないんで、あまり突っ込みませんが、ゴミだって芸術っていうのは、まあアリですね。便器を美術館において、芸術だって言った人はいますが、これなんかも、場所が変われば価値が変わるということかもしれません。でも、これは、あまりいい例ではないですね。一回、捨てられたものが甦るっていうドラマが僕なんかの心をくすぐります。
僕らの毎日は、何かの形でいろんなものを捨てて行きます。捨てるっていうのは、深い行為です。喜捨っていう言葉は喜んで捨てると書きますが、面白い言葉です。単に移動させてゴミ箱に入れるだけじゃなくて、自分の世界から次元を変えてしまう感じもします。
脳だって、当面必要のない情報は処理して、保存するか、どれくらい置いておくか、「忘れる」ことにするか決めます。だけど、捨てなきゃ良かったなあとか思うこともある。でも、もうゴミ収集車が持っていってる。浮世絵の場合、まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。この場合の神っていうのは価値を与えるものって意味でしょうか。
でも、同時に誰にも拾われないまま消えていったものっていうのの、せめて痕跡だけでも大事にしたいと僕は思うことがあります。僕も忘れちゃうんですけどね。だけど、何か、あれよかったかもっていう感覚は持っていたらいいんじゃないか。どっかで聞いたのですがフーコーが、云ってました。キリスト教をつくらなかったけど、そういう発想をもって何もいわず死んでいった人がいるかもしれない、日本だったら、俳句をつくらずに放浪して野垂れ死んだ芭蕉みたいな人とか。ちょっと変わった発想ですけど。フーコーの場合は価値の土俵にさえ上っていない人ですが、いずれにしても、何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれないっていう感覚をもつっていうのがいいかなと。そうすると歴史だって人だってものすごく、深く、面白く感じられるかもしれないから。目の前にあるものがもちろん大事なわけですが。
Sep 05, 2007
詩と思想9月号の詩誌評
海埜今日子さんが担当しておられる詩誌評欄にて、拙作がその中に紹介されていました。詩誌「索」終刊号に掲載されたものです。海埜さんは、4月号でも拙作に触れてくださっていました。索も終刊したので、終刊号に掲載された『台風の夜』を全文掲載します。自分では評価がなかなか難しい作品です。台風の夜
石川和広
人の話し声、車の音、美しいものもあるかもしれない、この町で。
空は晴れている。小さい雲が流れる。やっと春が来たようだ。
人のいない家には、人のいない匂いがして、ここに人がいないことを感じる。無を感じるというのだろうか。からだはこの部屋にいるのだが、死んだおじいさんとおばあさんの住んでいた家にお邪魔する。しばらく、本当の体はからっぽになる。留守にして、留守にお邪魔する。庭に木が植わっている。生垣が見える。ここがおじいさんがいた茶の間だ。悲しいというのではない。あそこには、おばあさんがぶつぶついいながら、家事をしていた。夏であり、台風が来ていた。こわかった。ドキドキした。おじいさんが、パッチ姿で、風呂から上がってきた。おじいさんの兵隊に行ったときの写真。美しい馬のようだ。限りなく限りなく夜は続いていくように思える。雨戸ががたがたする。わたしは弟と、お父さんの間で布団に入っていた。おじいさんは早く寝て、おじいさんと同じ空気を吸っているのだと思うと安心した。居間で母がテレビを見ている。風の音が鳴り、いやな気持ちになり、しばらく目を開けて天井の模様を見ていた。やがて眠った。
からだが半分くらい戻ってきてタバコを吸った。
このブログのコメントの仕方がちょっと変わりました。スパムコメント対策のため詳しくいえませんが、書いてくださる方はこれから、ちょっとご注意ください。追記として…無事、ふたつの〆切もなんとかクリアできました。8月は忙しかったので今は放心状態。いしいしんじさんの『ぶらんこ乗り』はひさしぶりにドキドキ読んだ小説でした。いしいさんの『トリツカレ男』も読んでみましたが、『ぶらんこ乗り』の方が僕は好みです。
Aug 29, 2007
『こころの病を生きる』
ひさしぶりに更新っす。レポートやってたもんで、ちょっと大変でした。この間、いろんなことは…なかったです(笑)ミスチルの『シフクノオト』を聴いていました。30代の憂鬱というか疲れと希望が歌われていて、いいなと思いました。中には、道徳的なテーマもあるのですがそんなに気になりません。でも、ミスチルの詩に感心しすぎると自分の詩が書けなくなりそうと思ったです。そこは、線を引いとこう。しかし、暑さには参ります。尋常ではありませんが、これもこれからの私たちの生活になっていくのでしょう。こないだ、佐野卓志・三好典彦『こころの病を生きる』を再読しました。買った当初はふーんって言う感じだったのだが、今回はすーっと入ってきました。佐野さんは統合失調症で、三好さんは佐野さんの主治医です。この本は往復書簡なので、難しくないです。二人で、病気と人生のことを、オープンに語り合っています。こんなにプライベートをさらしていいのとも思いますが、すごくいい雰囲気で、いいにくいこともしっかり話しているので、すばらしい。「共同研究」といっています。佐野さんは、当事者の作業所を作っていてPSWの資格もとっているので、憧れます。といってもすごく苦労があるんですよ。彼は、ネットで電気ショック療法の是非をめぐって、激しく議論して、疲労困憊し、一ヶ月寝たきりになってしまったというのが、現代的。そこをしっかりフォローしてアドバイスされている三好さんも立派だなあと思いました。人間関係やネットで調子を悪化させている方も多いと思いますから。これは、ひろく関心のある方にお勧めできます。調子の悪いときや再発についてよく触れられているので、そのときの対処について、病気の方やご家族、医師にも参考になるのではないでしょうか。もちろん、僕のようなほかの精神疾患の人にも参考になります。
それで、精神科救急の計見さんの『脳と人間』という精神科の本を買ってしまいました。あと、いしいしんじさんの『ブランコ乗り』、丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』も読もうと思っています。丹生谷さんは、独特の文体とダウナーな展開でくせのあるひとですが、ちょっと好きです。フーコーは『言葉と物』を読んだ記憶があるのですが、中味はほとんど覚えていません。エリボンのフーコー伝は好きです。フーコー自身の猫を抱いてスキンヘッドの写真がナイスでした。どうしても悪い人に思えないんですが気のせいかな。それにしても丹生谷さんの本もそうだけど読めるかな。書名はいかついですが、クリント・イーストウッドについて、けっこうみっちり書いています。詩のネタにならないかな。
詩の〆切が近づいています。月末にふたつあります。しかし、なかなか書けません。過去のことではなく今のこと、これからのことについて書きたいと思うのですが難しいですね。
Aug 19, 2007
「天国で見守っていましょう」
某所の合評に参加。不調というか、書くことに迷いを感じながらも、何とか詩をひとつ提出できた。思ったより早く解散になったので、家で食事。24時間テレビがやっていた。不意にチャンネルを合わせてしまったのだ。特に、あのマラソンは苦手で、心が苦しい。見なければいいのだが、萩本欽一が走るので、坂上二郎さんが応援に来ていた。僕は萩本さんは苦手だが、二郎さんの風変わりな人柄がなんとなく好きなので、そこはじっと見た。脳梗塞で、数年前に倒れて、回復された後、NHKのスタジオパークという番組で見たことがある。そのときは、自然のあるところに移って暮らしておられるのを、少し滑舌が悪い気もしたが、快活に話しておられた。リハビリのことも話していて正直勉強になった。しかしである。萩本さんがスタートラインに立ち、いろんな人が応援に来る。最後に二郎さんが登場。しかし、二郎さんはこわばった顔で、「イヒヒ」と笑いつづけるのが精一杯なのだ。萩本さんが「なんかしゃべれよ」と2、3度つっこんでも、ほとんど話さない。
とうとう、そのまま萩本さんがスタートすることになった。レポーターに「一緒に見守りましょう」と云われた二郎さんは、こういった。「天国で見守っていましょう」と。
当然、レポーターは何言っているんですかとつっこんでいたが、二郎さんは相方のことが心配だったのではないだろうか。なんでこんなことをしなきゃいけないのという気持ちも僕はその発言に読み込んだ。二郎さんは死線をくぐっている。コンビと云っても老人二人である。色んな気持ちがあるだろう。それに奇妙な雰囲気。二郎さんの戸惑いや、悲しみや、まあ、単なるギャグかもしれないが、そんなものが伝わってきた。二郎さんを悲しませないでほしいと思った。そして、皮肉というか本音が言える二郎さんはやっぱりエライ人だと思った。
その後、レポートを書かねばならないので、ビールを間に挟みながら勉強した。小澤勲『認知症とは何か』を読む。あまり、直に認知症の方に接していないので、レポートを書けるか心配というか忸怩たるものもある。しかし、小澤勲の本は、入門書としては非常に丁寧で、おまけに小説の話も出てくる。だから、売れているようだ。小澤勲さんをNHKで見たとき、何となく、自分の好きなタイプの人ではないと思った。小澤勲さんは、末期の癌を患っている。岩波の前著でそのことを書いてから、5年近くは経っているのではないだろうか。人間の生命はかなり不思議なものだと思う。
そのあと、ラストサムライを見た。公開当時感動したが、今日は普通に見た。僕は恐い映画が好きなのかなあと思うが、どうも「あきらめずに戦う」姿に惚れていたようである。マラソンに感動する人と何がちがうのか少し悩んだ。あきらめずに戦うというのも、大事なことだが、がんばる老人を無理に作り上げるのは好きではない。ああいうのを見ると「好きなように生きる」ってそもそも難しいなあと思う。好きなようにというか自由に生きるというか。
Aug 18, 2007
サーバーダウン
きのう、おとといくらい、現代詩フォーラムが開けなくなっていた。今は復旧している。最近は、投稿しておらず、ログインしては眺めているという利用方法でした…Tさんの詩がけっこういいなと思いました。Aug 16, 2007
白梅学徒隊
この酷暑の中で、久々に清掃の仕事に行った。汗が全身から、噴き出して、気分が悪くなるほどだった。口の中がねばねばして気持ち悪く、お茶を飲んでもなかなか治まらない。職員さんとこんなとき「炭酸が飲みたいよねー」と云っていた。帰り、CCレモンを買った。家でシャワーを浴びて、ごくごくと飲む。やっと、すっとした。この酷暑で、熱射病になったりして、亡くなったひとはいないかと心配になる。最近、夜ご飯を食べたらすぐ寝てしまい、なかなかレポートが進まず。一昨日は、デイケアでエアロビクス。夏バテしないように昨日は焼肉「平和」に食べに行った。敗戦記念日に「平和」とは、なんとも不思議である。横では、小人のようなおっちゃんやおばちゃんのグループがスープの味に文句をつけたりしていた。なのに、焼肉をタッパーかなんかに詰めて、おみやげにしていた。こんな暑いのに、焼いているとはいえ、腐ってしまわないのかと思う。まず、翌朝には腐っているので、晩、あれだけ食べたのに、さらにおみやげ?誰か待っているんだろうな。
昨日、関西テレビのアンカーで、沖縄戦で6人が亡くなった白梅学徒隊の特集をやっていた。有名な「ひめゆり」とちがい、お参りするものもほとんどいないという。ひめゆりは有名だが、女子学徒隊は、他に6部隊あったと聞いた。白梅の死者の遺骨の引き取り手は無かった。どれが、自分の娘の骨かわからなかったからだ。だから慰霊塔のうらに遺骨がしまわれていたという。国もきちんとした追悼施設をつくらず、そうなっていたというのだ。それが、20数年前の出来事らしい。今でも自決した壕や、学徒隊が派遣されていた病院であった壕は残っている。最近、どちらかの壕の上に、公園が作られたという。なんと、壕の中に、工事で出た土砂を捨てていたという。弔われていない、大切にされていない死者の数は恐ろしいほど多いのだと、悲しくなった。
白梅学徒隊は、女学校生で、16歳くらいの少女が大半だったという。看護の手が足りないので野戦病院に派遣された。病院といっても、岩場に掘られている壕であり、手術室にベットはひとつ。薬品も物資もほとんどなく、毎日、負傷兵が運び込まれ、手足を切断するような手術が行われていたという。女学生達は、負傷者の排泄の後始末や、世話に日夜追われた。ショックと疲労のため、ほとんどの女学生達は生理がなくなったという。そんなとき、病院は物資が底につき、病院としての機能が果たせなくなったので解散ということになった。女学生達は突如、戦場に放りだされることになった。彼女達は、逃げ惑う人たちに混じって、逃げるが、爆撃もある。海岸方面に逃げた人たちは命を失わなかったが、戦闘が最も激しかった国吉方面に逃げた数名が、壕に逃げ込んだところへアメリカ軍が侵攻し、日本兵と共に自決したという。(この辺り、教科書でも話題になっている記述の部分かもしれない)いろいろ、思うことはあるのだが、それはうまく言葉にならないので、聞いたことだけ、書きとめておく。
Aug 12, 2007
金曜日でスクーリングを終えて
夜ご飯を食べると、すぐ眠ってしまいます。夜中目が覚めて、お薬を飲んでいるような感じです。やはり疲れたのでしょうね。しかし、みなさまのご声援もあって、今年の分は無事終わりました。来年もスクーリングがある。実習もまだ日程は決まっていませんが、ひかえています。レポートも、二ヶ月に一回はあるし、今月の後半に期限のあるものもあります。大変ですが、スクーリングを受けたことで、何を勉強しなければならないかが、うすぼんやりとですが、見えた気もします。そんなに自信はないのですが。日々、労働現場は、福祉もそうですが、生き残りをかけて、サバイバルゲームが行われています。そんな中で、一生懸命生きる、自分の生活を大事にすることは当然だと思うのです。しかし、保育士の子と話していて、また教育現場等において、親御さんも、子どもの何%かも、他者を思いやることよりも、あるいはお互い様と思うよりも、自己中になっているような気もするのです。私も、自己中なのですが、別にいい子になるというわけではなく、社会はお互い様で出来ているということを忘れたくないです。すぐには、自分に還ってくるような、数量に換算できるようなものが、還ってくるわけではないのが社会です。もちろん、今の、社会の賃金格差は目に余るもので、是正していかなくてはなりませんが、お互い様ということを忘れたくないです。自分の生活を守るというだけでは私たちの社会はジリ貧になっていくように危惧を覚えています。
今書いたようなことは勉強をしているときに、思ったことです。かつての職場で、「制度について勉強しなければならない」といっていた上司がいました。そのときは何のことかわからなかった。でも、この社会が、どのように成り立ち、どのような価値観や法の下に、社会が生成しているかを知らないと、ずいぶん悔しい思いをすると思うようになりました。なぜなら自分だけの問題ではないという感性が無くなって、なんとなく悲劇の人になってしまうのです。個々の運命と共にそういうことも感じておいた方がいいかなと思うようになりました。
たとえば、今の社会は「できる」という基準で社会が作られ、そのように人を見るのです。労働現場がそうですが、労働現場でも、正社員のうつ病が増えているように、「できる」で人を見、残していった結果、大量のパートの人と、少数の正規で組み立てられ、パートが苦しむだけでなく、正規の人だって、少ない数で責任を持たされるようになったのです。誰もが苦しくなってあまりいいことはありません。
私が、スクーリングを受講して不満だったのは、老人のことが圧倒的に多かったことです。人は誰しも年を取るし、高齢社会だし、介護保険はかなりがんばって作ったシステムなのですが、「できない」として排除されているのはそれだけではないと思いました。「できない」と括られている世界には、人間の成り立ちの不可思議をもうひとつの側面から見れる、深淵があると思います。
当たり前とされていることが難しいのは、人間の老いの場面だけでなく、発達の過程や、様々な過程で繰り返し起こることです。精神障害福祉が立ち遅れているのは何も、差別だけでなく、人生の様々な過程で起こる難しさに目を向けてこなかった。人間存在をトータルに見ず、様々な形で輪切りし細分化し、消費の対象としてみてきたからではないかと思います。
Aug 10, 2007
最終日
やっと今日でスクーリング最終日です。でも、結構早かったなあ。この間忙しかったので、連絡等滞りがありましたらすいません。今日一日がんばります。一昨日は、以前の職場の後輩で、今は保育士としてがんばっているMくんと、ご飯食べました。楽しかったです。Aug 06, 2007
ちゃんと学生しています!
昨日の韓国出身の李先生の『社会福祉原論』は、ユニークな授業であった。国家試験で最難関とも呼べる、この科目。李先生は、精緻なレジュメを作っていた。知識はいやでも、国家試験に向けて覚えなければならない。だから、李先生はそこは、後で勉強するであろうからと考えているのか、福祉理論や制度の背景にある、宗教や価値理念をとうとうと、マギー司郎のような口調で語っていた。キリスト教の「隣人愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁」。知識を生かすものは、そのような見えない知恵や叡智であることを先生は語っていた。また、価値観同士の否定のしあいが、行き過ぎているといっていた。この意味で、先生はご自身が述べるように相対主義的である。その識見は、自然法思想を源泉としているようだ。「教養」もよく口にし、マックス・ウェーバー、トマス・モアと社会思想の古典を読むように進めていた。古典的な社会学徒であり、社会福祉思想家の中でも、日本で20世紀中盤に活躍した諸先生方に師事していたようだった。だからといって、難しい感じは、まったくしない。リラックスに謎の気孔を紹介する等、つめこみよりも、福祉の何たるかを楽しく教えようとしていて、気分良かった。そのあと、学生交流会に参加するが、すぐ酔っ払い、早々に帰った。無職には、仕事している皆様がまぶしい。今日は、『障害者福祉論』。障害者自立支援法に対する、バランスのとれた、危惧を述べていた。先生は、障害者福祉の分野で相談支援が日本では手薄だといっていたが、私もそう思う。参院厚生労働委員会「障害者自立支援法案に対する付帯決議」という資料をもらったが、政治家が、官僚がバカだから、悪政がまかりとおるといった批判は一面的であると思った。そうなのだが、真面目に仕事している人もいる。だがまさに支えあう社会がいかに構築されるか、実現段階でつまずいてばかりなのだ。なぜなのか。私は先生に反して、やはり、お上が現場の事をどれくらい知っているだろうかと不安である。短めのビデオを二本見せてくれたり、工夫されている。バリアフリーや障害について、語るとき、先生自身が足がお悪く、体験的な話で説得力があった。
学生気分で思ったより、脳が活性化し調子がいい。お二人とも、ベテランの教員であり、そして元気である。必ずしも、考えが私と一致するわけではないが、私は色んな考えを聞き、頭が活性化している。今まで見た先生は、世界や日本の現状に強い危機感を持っていて、わりかた良心的であると思った。ちゃんと大学だと思った。
Aug 05, 2007
二日目へ突入
昨日が一日目。開校式のあと、社会福祉援助技術論。話が抽象的で、理念的。さらに、授業の速度が速く、ノート取るのに必死。最後に小テストまであった。ぷぎゃー。今日は、どんなだろうか。社会福祉原論です。Aug 04, 2007
Aug 02, 2007
浴衣にお花
そんなわけで、もはや8月。スクーリングが目前に迫り、じりじりする感じ。気力、体力が持つよう祈ろう。昨日は、家族の誕生日だった。留守電にメッセージを入れた。酔っ払っていたので、いい加減なコメントだったような気もする。留守電は難しい。言葉がつながらなくなるので、棒読みになる。棒読みだと変なので、がんばるとますます変になる。そして、誰に向けて話しているのかわからなくなったりする。
昨日は飲んでいたのだが、窓際の席で駅の改札が見える店だった。改札を見ていると、やけに浴衣の女の子が多い。たしか、花火があったはず。それにしても、浴衣の着方がまずい人も多く、髪も浴衣にあっていなかったりする。さらに妙なのは、みんな、頭にお花をつけていること。みんなお花が頭に咲いている。流行なのか?みんな、事前に打ち合わせしたみたいにつけている。これも浴衣に似合わない。まれに、お花が頭に咲いていなくて、浴衣もくずれていないと(というか姿勢がいい)ほっとした。なぜか、今、吉田拓郎の”浴衣の君は~”だっけ、それが脳内音楽である。俺はいったいいくつなのか。
最近ビールをジョッキ一杯飲むと、急に、頭の中が、ハッピーになり、ニヤニヤしてくる。前はこんな酔い方をしなかった。そんで、芋焼酎の水割りを飲むと、急に深閑とした気持ちになり、その後ぽかぽかしてくる。薬理作用はどうなってるのか興味がある。
知人に『夕凪の街 桜の国』を読んでもらう。知人も中途半端といっていた。知人は恋がきちんと描けていればいいのにといっていた。どこを伝えたいか描きたいか焦点があいまいである。原爆を表現にするのは、難しい。帯にみなもと太郎が、多くの記録文学を凌ぐと云っているが、そうすると、『黒い雨』はどうなんだ?とか思ったりする僕はひねくれているのだろうか。映画の方が面白かったりして。
Jul 31, 2007
立ち読み『智恵子抄』
大阪は、何日か猛暑で、そのあと急に、涼しくなったので、気温の変化になかなかついていけない。なんとなく、朝、体がだるいような感じがした。それにも関わらず、人恋しさもあってか、デイケアに行った。そのあと、買い物を思い出した。スクーリングで使う社会福祉六法を買いに行った。いくつかの書店に行って、やっと買えた。色んな本が気になるが、なぜか、高村光太郎の『智恵子抄』を立ち読みした。小生、恥ずかしながら、レモン哀歌を教科書で習った以外、ちゃんと読んでいなかった。『智恵子抄』は、少し読んだだけでも、高村光太郎の「あなたが好きだ!!」ということが、惜しげもなく書いてあって、中てられた。これは、もう少し元気なときにきちんと読もうと思った。しかし、これだけ読み継がれているのは、きっと何かがあるにちがいない。立ち読みだけでも、とてつもない力を感じた。それはいまどきの時代では、宣伝文句にしか使われない「真心」というものかもしれないという予感がしている。(ただし、智恵子抄とて、作品だから、フィクションではあるし、高村光太郎や智恵子が、史実上どんな人間かということは、ここではひとまず置く)真心って「純粋」とかとは、語感がちがう。何かに対して全身で生きるということだ。(これは、ちょっと恐いことでもあるが)智恵子にそれを託している。こういう表現に流行り廃りはないのかもしれないと思った。一定の人間が、それを求めている。それに励まされるときが誰しもあるのだろう。私にも。他にも色々本を偵察し、やはりなんだかくたびれました。帰ってからも用事をし、時間が過ぎてしまった。それにしても活字中毒復活だー
袖のボタン
丸谷才一『袖のボタン』を読む。今日読み始めて、3分の2くらい読んだ。最近、政治のことばかり、書いて少々疲れたので、骨休めになるエッセイ。でも、中身は濃厚。折口信夫の命名の謎や、なぜ天皇は恋歌を歌わなくなったかや、野球、景観について、赤塚不二夫へのオマージュと多彩。反時代的で、同時代的。短くコンパクトなのに優れた批評として、読み応えあり。丸谷才一は確かジョイスの『若き芸術家の肖像』を訳していて、読んだ事を覚えている。僕は丸谷才一に対して、偏見を持っていたが、80にして、これほど頭が柔らかいとは、恐れ入った。しかも芯がぶれない。特に大岡昇平の『野火』を高く評価していて、僕も野火が好きなのでうれしくなった。ハイテンションでブログを書く日が続いたので、今日はこれくらい。Jul 30, 2007
敗因
昨晩は、雷が鳴ったし、雨が降ったので、朝ひんやりとしていた。すごしやすいが、冷えが心配なので、早朝風呂に入る。それから、シーツなどを洗濯する。天気が良いので、よく乾きそうだ。(何か曇って来たが。あ、天気予報見てなかった。主婦失格である。)そしたら、今夜、日なたのにおいのするシーツで眠れるよ。明日はデイケアに行く予定だ。厳しいスクーリングに備えて、活動できる体にしておかねば。で、皆さんには申し訳ないと思っているんですけど、また政治の話題です。ただでさえ、暑苦しい文章を書きがちなのですが、ご勘弁を。
安倍さんは、辞めないっていってますね。でも、青木さんも辞めるし、片山虎之助さんも、落ちましたし、どう議会運営するつもりなんでしょうね。参院が民主の城になったら、自民の法案は、ほとんどブロックされますね。僕は、前々からの安倍さんの議会運営のまずさっていうのは、けっこう大きい敗因だと思っています。
そりゃ、政治資金問題、失言、年金、数えていけばきりがないです。そういう点で、みんな、ムードとして、ダメだと思ったというのがひとつあります。ふたつ目は、旧自民党支持者も、ここ数年自民に翻弄されて、町村合併、地域格差などのことで、もう嫌気がさして、誰か何とかしてくれっていうのも、あります。
でも、重要なのは、果たして、安倍さんが議会制民主主義って言うのをわかっているのかということなんです。あまりにも、強行採決が多すぎます。安倍さんの自信のなさがあらわれています。余裕があるなら、ごり押しする必要はないですからね。昔の自民党みたいに、相手(野党や、派閥)を懐柔、根回ししながら、ポンポン通しちゃうというのは、良くないにしてもひとつの方法です。それも(能力上?)できない。小泉さんみたいに、国民の支持をバックに、それに反する人たちを抵抗勢力と名づけて、人気で郵政民営化しちゃうとか。あと、答弁では、まともに受けないで、はぐらかし、論点のすり替えをやってしまう。これもなめた話ですが人気があるからできたことです。そういうポピュリズム的な手法もとれない。
安倍さんは、たぶん、真面目な人なんだろうとは思います。それはいいのですが、正しければ自分の信念は通ると思っている。実現には過程が必要だということがわかっていない。これは、驕りに他なりません。こういう人は私も含めて多いかもしれませんが。
政治というのは、泥臭い作業です。自分の考えとちがう相手や嫌な相手とも話をしていかなければ、自分の思っていることは実現できません。そう、議会制民主主義は、対話なしにはなりたたないんですね。
しかも、安倍さんは、憲法改正を掲げていますし、教育基本法を改正しました。この辺りは、イデオロギー的に微妙な領域なのです。国民の大多数が、Yesと云っているわけではなくて、色んな考えがある領域なのです。変えたいといっている人たちばかりに安倍さんは会っているのでしょうが、別に左翼的な考えを持っていなくても、もう少しよく考えないとなと思っている人も多いはずですし、そもそも私たちはこの辺りの問題についての難しさというのは、普通の人であれば感覚的に大体わかっています。アメリカもあまり好きでないけれど、自衛隊の方もがんばっているけど、戦争に参加できるようになるのは、やっぱりまずいなあと思っている人も多いはずです。逆に、アメリカ従属を捨てて、軍にしたいという人もかなりいて、まとまらない。それが当然だと思います。その辺りの民意の錯綜を安倍さんは軽く見ているのではないか。これは「戦後レジームの脱却」といくら口で言ったって、だめです。リアルに国際的な日本の位置を見て、国内の民意の状況を見て、何が必要かを訴えた上で議論するというのなら、わかります。安倍さんの考えにもそれなりに支持はあるのですから、大いに議論しましょうとなるでしょう。しかし、そういうお膳立てをして、きちんと対話するということを安倍さんは忘れています。
あるいは、意図的にそうしているかもしれません。公務員改革、政治資金規正法あたりは、ざるですね。本当に官僚をコントロールして、政治の力を復権させるという覚悟がない。これも、よく状況を見て、いろんな人と話をしてという対話の前提を忘れています。とりあぜず、改革のポーズを取りたいがために、急いでいるようにしか見えません。小泉さんは、とにかく国民の支持をとりつけるためにあらゆるパフォーマンスをやった。小泉改革は負の遺産を残す事確実ですが、小泉さんには、とりあえず是が非でも国民を味方につけないと、政治なんて無力だという醒めた認識があったのだろうと思います。それもない。守旧派的方法は通じない。じゃあ、強行採決。
古い人も、小泉さんも偏っているかもしれませんが、それなりにニーズを把握していたから、それに答えていたわけです。それは、必ずしも国民の総意ではありませんが、何かには答えようとしていた。よしあしを別にすればリアリストだったわけです。安倍さんは、夢があるだけです。ニーズを的確に把握して、それに答える。考え方のちがう人とも話す。こういう地道なことをおこたっていると、敵だけでなく味方からもなめられます。要はちゃんと喧嘩もできない。喧嘩できたら、相手も本気になるし、政治は活性化して、異質な意見もどんどん入っていくことが出来ます。それが政治だと思います。権力者ですから、権力を使うのはかまいません。でも、それが国民のためになっているか、みんな見ているわ